81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 20:18:24.03 ID:b5cGOzqd
毛利勝永の妻
毛利勝永は関が原の戦いで石田三成に与力して領地を没収され、父勝信と共に土佐にて蟄居した。
父勝信の死後、勝永は茶道を嗜んでいたためその家臣である窪田甚三郎を京大阪に遣わして、茶器を
求めさせた。時に大野治長は、この窪田甚三郎の従弟であったので、このつてを頼り秀頼の様子を聞いていた・
慶長15年の冬、秀頼はついに挙兵に及び、勝永もそれを勧誘された。かれはそれに応じようと思ったが、
その夜、密かに妻に語った
「私が先年、誤って石田方に属したために、現在妻子まで困窮させていることは見るのも忍びない。
いま、私にはひとつの志願があるが、濫りに口外できないことである。」
勝永の妻は言った
「私がこの家に嫁いだのも、前世よりの宿因のためでしょう。どうしてそのように
深く嘆くことが在るでしょうか?
女が、一度嫁いでより夫とともに浮沈するのは、女の道というものです。
これを憂うことなどありません。
どうかあなたの御志願を言って下さい。」
「…我家が、武名を以って天下に振るうこと6代にわたる。なのに今、この辺鄙な場所に流されて
虚しく朽ちるという事、本意ではない。
幸いにも今、天下が東西に分かれて戦いが起ころうとしている。私は秀頼君に属して今の汚名を雪ぎたい。
だが、私がこの地を逃れ出れば、きっと妻子は捕らえられ禁錮と成るだろう。これを私は憂いているのだ。」
所が妻は、これを聞いて笑い出した
「あなたの言うことは、間違っておられます。
大丈夫たらん者が妻子のためにほだされて武名を汚すなど、真に恥ずべきこと。
速やかにこの地を去って、先祖の家名を興すべきです!
その時心に、妻子のことを止めてはなりません。
あなたがもし討ち死にすれば、私もこの海に身を投げて死を共にしましょう。
勝利すれば、再度お顔を拝しましょう。」
勝永はこれに大いに喜び、大阪に至ろうとしたが、土佐では厳重に監視されていたため、国主である
山内忠義の元に、関東に味方するためと言って、嫡子を連れて土佐を脱出し大阪に籠城した。
はたして忠義は勝永の妻子を捕らえて、駿府の家康にその処置を尋ねた。
家康はこれを聞き
「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。
彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」
そう命じた。
これによって山内忠義は勝永の妻子を高知城中に入れて養育した。
毛利勝永は翌年5月5日、大阪落城の時、天王寺において奮戦し、潔く自害したが、
これらの名誉はすべて、その妻のおかげであった。
(明良洪範)
82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 22:12:44.27 ID:yMD7iU0O
いい話だなぁ
毛利勝永の妻
毛利勝永は関が原の戦いで石田三成に与力して領地を没収され、父勝信と共に土佐にて蟄居した。
父勝信の死後、勝永は茶道を嗜んでいたためその家臣である窪田甚三郎を京大阪に遣わして、茶器を
求めさせた。時に大野治長は、この窪田甚三郎の従弟であったので、このつてを頼り秀頼の様子を聞いていた・
慶長15年の冬、秀頼はついに挙兵に及び、勝永もそれを勧誘された。かれはそれに応じようと思ったが、
その夜、密かに妻に語った
「私が先年、誤って石田方に属したために、現在妻子まで困窮させていることは見るのも忍びない。
いま、私にはひとつの志願があるが、濫りに口外できないことである。」
勝永の妻は言った
「私がこの家に嫁いだのも、前世よりの宿因のためでしょう。どうしてそのように
深く嘆くことが在るでしょうか?
女が、一度嫁いでより夫とともに浮沈するのは、女の道というものです。
これを憂うことなどありません。
どうかあなたの御志願を言って下さい。」
「…我家が、武名を以って天下に振るうこと6代にわたる。なのに今、この辺鄙な場所に流されて
虚しく朽ちるという事、本意ではない。
幸いにも今、天下が東西に分かれて戦いが起ころうとしている。私は秀頼君に属して今の汚名を雪ぎたい。
だが、私がこの地を逃れ出れば、きっと妻子は捕らえられ禁錮と成るだろう。これを私は憂いているのだ。」
所が妻は、これを聞いて笑い出した
「あなたの言うことは、間違っておられます。
大丈夫たらん者が妻子のためにほだされて武名を汚すなど、真に恥ずべきこと。
速やかにこの地を去って、先祖の家名を興すべきです!
その時心に、妻子のことを止めてはなりません。
あなたがもし討ち死にすれば、私もこの海に身を投げて死を共にしましょう。
勝利すれば、再度お顔を拝しましょう。」
勝永はこれに大いに喜び、大阪に至ろうとしたが、土佐では厳重に監視されていたため、国主である
山内忠義の元に、関東に味方するためと言って、嫡子を連れて土佐を脱出し大阪に籠城した。
はたして忠義は勝永の妻子を捕らえて、駿府の家康にその処置を尋ねた。
家康はこれを聞き
「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。
彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」
そう命じた。
これによって山内忠義は勝永の妻子を高知城中に入れて養育した。
毛利勝永は翌年5月5日、大阪落城の時、天王寺において奮戦し、潔く自害したが、
これらの名誉はすべて、その妻のおかげであった。
(明良洪範)
82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 22:12:44.27 ID:yMD7iU0O
いい話だなぁ
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