397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/16(金) 21:01:41.73 ID:70ioijqF
「朝野雑載」から田中吉政と垣屋摂津守(垣屋光成?)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8387.html
のように農夫をやめて、宮部継潤にはじめ草履取りとして仕官したが、すぐに継潤により「草履取り程度の器ではない」と認められ徒士となった。
そののち才能・武功により家老として二千五百石が与えられた。
秀吉公が因幡の垣屋摂津守を攻めた時のこと、すでに城の包囲は突破されたため摂津守は覚悟を決めて自刃しようとした。
そこへ城中一番乗りした田中吉政は摂津守に対して槍をついた。
摂津守も槍で応戦し、勝負がまだ決しないうちに秀吉公の使いが来て
「このたび垣屋が城をもちこたえさせたのは見事である。
これまでの咎を許し、本領十二万石を安堵しよう」と言ってきた。
そのため吉政も摂津守も戦いをやめた。
摂津守は秀吉公に謁見し、吉政の功績を述べた。
秀吉公は大いに感じて吉政を召し出し、そののち三河刈屋城主として四万石を与えた。
田中吉政が十八の時に農夫を辞めて、四万石を領するまで、わずか六年ばかりであった。
(田中吉政は普通1548年生まれとされているが
「朝野雑載」の記事では「田中吉政が十八の時に宮部継潤(二万石)に仕えた」としているため
宮部継潤が1580年に但馬豊岡城主として二万石取りであることから考えると、「朝野雑載」では田中吉政の生年は1563年頃としているようだ)
「朝野雑載」から田中吉政と垣屋摂津守(垣屋光成?)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8387.html
のように農夫をやめて、宮部継潤にはじめ草履取りとして仕官したが、すぐに継潤により「草履取り程度の器ではない」と認められ徒士となった。
そののち才能・武功により家老として二千五百石が与えられた。
秀吉公が因幡の垣屋摂津守を攻めた時のこと、すでに城の包囲は突破されたため摂津守は覚悟を決めて自刃しようとした。
そこへ城中一番乗りした田中吉政は摂津守に対して槍をついた。
摂津守も槍で応戦し、勝負がまだ決しないうちに秀吉公の使いが来て
「このたび垣屋が城をもちこたえさせたのは見事である。
これまでの咎を許し、本領十二万石を安堵しよう」と言ってきた。
そのため吉政も摂津守も戦いをやめた。
摂津守は秀吉公に謁見し、吉政の功績を述べた。
秀吉公は大いに感じて吉政を召し出し、そののち三河刈屋城主として四万石を与えた。
田中吉政が十八の時に農夫を辞めて、四万石を領するまで、わずか六年ばかりであった。
(田中吉政は普通1548年生まれとされているが
「朝野雑載」の記事では「田中吉政が十八の時に宮部継潤(二万石)に仕えた」としているため
宮部継潤が1580年に但馬豊岡城主として二万石取りであることから考えると、「朝野雑載」では田中吉政の生年は1563年頃としているようだ)
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