田中吉政、石田三成を捕える

2015年08月03日 18:34

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 20:37:55.40 ID:10eOLgVS
徳川家康は関ヶ原で勝利すると、16日には佐和山を攻め落とし、明日は大津に出る、という時に、
田中久兵衛吉政が申し出た

「私は先日関東にて、必ず石田三成の首を取ると申しましたが、その甲斐もなく落ち延びさせたこと
無念に思っています。そこでお暇を賜り、近江は我が生国ですから、草を分けても三成を探し出し、
それでも行方が知れなければ越前北之庄あたりまでも逃れたのでしょうが、どこの国までも
探し出して参ります。」

その場より出立し、地理に詳しい伊吹山のあたりで200人、300人の落人を搦め捕り、切り捨て、
残る所なく探していたが、”かうつくま”という所に山寺があり、三成は幼少の時ここで手習いを学び、
その縁を頼んで寺の縁の下に2,3日隠れていたが、9月23日の月が出た明け方、寺の前に出て
月を詠み、どこかに落ちていこうとした所を、運の尽きか、百姓たちに見つかり、三成は色々言い逃れたものの、
逃れ難く縄をかけられ、田中吉政の前に引き出された。

その時三成は浅ましい姿であったが、吉政はその姿を見るや三成に近づき、その縄を解き捨てた
「侍の行く末というものは、誰であってもこのようになる事、珍しいものではありません。
ですのでどうか、何事もお任せください。徳川殿の御前で、私の今度の戦功に変えてあなたのお命を
申し受け、たとえ山の奥、島の中であっても、安全に送ります。」

このように謀り透かした

「舌があっても食事をしなけれな詮無きものです。」
そういって馳走し、その後落ち着くと、吉政は密かに三成に尋ねた

「あなたが送った、諸国の諸大名への計略の書状はどうなさったのですか?」

「それらはすでに、去る所において山田の中に入って捨てた。」

「では、あなたのお道具の類はどこにお預けになったのでしょうか?
もしお道具が誰かに取り出されれば、資産を無くしもはやあなたが再起する事は出来ないでしょう。
ですのでこの田中に教えていただければ、いかようにも取り計らい、あなたに進上致します。」

石田三成は本来流石の人物であったのだが、この時の境遇であったので完全に欺かれ、
「なるほど尤もである。」と、大阪、京都に残し置いた物、或いは彼が潜んでいた寺の下に埋めた物も
残らず掘り出させた。吉政はこれを厳重に梱包し、徳川家康に提出した。

そして「治部少輔が生け捕りになった姿をご覧に入れましょう。」と、今までは主人であるかのように
遇していた三成に縄をかけ、長持ちの中に入れた。三成はそれでも「とにかく、田中次第にしよう。」と
言うように成っていた。

三成を入れた長持ちが大津の陣所に入ると、一方は村越茂助に持たせ、後のほうを吉政が担ぎ
家康の御前に参ると、三成の身柄を確保したことに家康は殊の外喜んだ。
「先日の小山での言葉に相違なく、一層神妙である。」と、北近江を、瀬田の橋を境として
吉政に与えるとした。吉政は「私の生国でもあり、別して辱い次第です。」と感激して
申し上げた。

ところがここで、彦坂小形部が反論した。
田中吉政は、以前は石田三成の腹心ともいえる人物でした。
そんな彼に大国である近江を与えるというのは、次に乱が起こった時、彼がどんな行動を取るか
大変心許なく思います。」

それでも「今度の田中の働き比類なし」ということで、内談の上、彼に筑後一国が与えられた。
石田三成は、小西行長、安国寺恵瓊と同様に、京の市中を引き廻され三条河原において斬られた。
38歳であったという。

(明良洪範)




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近江の田中村に九兵衛と言うが農夫いた。

2014年04月13日 18:44

956 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/12(土) 22:53:24.85 ID:1KcdLE+o
有名な話ですが朝野雑載より。

近江の田中村に九兵衛と言うが農夫いた。
18歳の時に
「俺はこのまま農夫で終わるのは嫌だ。いまはこんな時代だし、侍になって出世して、
金持ちになって有名になるんだ!」
と思い立ち、妻に離婚を言い渡した。
いきなりのことに驚いた妻は
「わたしが何かしましたか?何で家を出されなきゃいけないんですか?」
と訊ねると、九兵衛は
「いや、何にも悪いことしてないよ。ただ、俺はビッグになるから明日出ていきます。
ご飯をたくさん炊いといて。」
と有るだけの米数升を炊かせて、友人を呼んで宴会をした。
「ビッグになるぜ!フェイマスに!( ̄∀+ ̄)キラッ」
みたいな志を語った後、本当に家を出て行った。
その後、宮部善祥坊に草履取りとして仕えた。


後の田中吉政である。

いい話ではないなと思ったのでこちらに




957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 00:15:29.00 ID:q6o0kaFC
でも本当にビッグになったのはすごいw
同じような事して埋もれていった人間も大勢いたんだろうなぁ

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/13(日) 22:37:45.83 ID:R/VeEKGy
ビックになったからこそ話が今にまで残ってるんやろうね~

草履取りだとやっぱり嫁さん養えんのかね・・・
立身して離縁した嫁を迎えにいったとかになるともう物語りとかになっちゃうんやろな~

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 01:09:28.46 ID:q7JWBRtX
>>958
草履とりじゃないが重耳は迎えにいったのかな?

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/14(月) 16:31:08.01 ID:s7lc4QLE
そんな逸話あったっけ?と調べてみたら、
重耳と孟嘗君がごっちゃになってたわ・・・

永勝寺の薬師如来

2014年03月05日 19:19

522 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/05(水) 12:49:56.28 ID:/+e5qil0
福岡県、久留米にある永勝寺の御本尊である薬師如来には大変ないわれがある。
天武天皇のお后さまの病を癒したと伝わり、白河天皇に保護されたため、永勝寺は日本三薬師の一つと呼ばれるほどに繁盛した。

戦国時代、豊後の大友宗麟が筑後に乱入した時の兵火で永勝寺は焼けてしまったが、不思議なことに薬師如来は無傷で山陰に隠れていたという。
「薬師如来が自ら歩いて火難を避けたのだ」
と村人は仏力に感じ入り、仏堂を再建した。

何年かの後、久留米を領した毛利秀包は無道であったため、領内の寺社仏閣を壊し、放火した。
永勝寺も焼けてしまったが、またしても薬師如来は山陰に隠れ無事であった。
これを見た村人たちは不思議な仏力に感じ入り、毛利秀包の目を逃れるために、山中の洞穴に薬師如来をかくまった。

その後に田中吉政がこの地を領した。
すると毎晩、山が五色に光るので吉政の家来が調査すると、この薬師如来が見つかった。
その家来が村人から話を聞き、吉政に報告すると、吉政は
「勿体無いことである」
と言い、堂の再建を許可した。

永勝寺は廃寺になったこともあったが再建され、今も薬師如来を御本尊としている。



523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 13:21:59.60 ID:qe3dCNG+
神仏習合で八幡大菩薩の本地が阿弥陀如来、東照大権現の本地が薬師如来
西方極楽浄土と東方浄瑠璃界をそれぞれ受けもっているわけだ

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 13:22:24.49 ID:5s7Zj3cG
山陰を「やまかげ」と読まずに普通に「さんいん」と読んで毛利氏とかの庇護を求めたのかと

田中吉政の嫡子主膳正は

2013年09月13日 20:22

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 18:07:48.95 ID:ZxMkvWLX
田中吉政の嫡子主膳正(吉信)は極めて豪気な性格で、常に武勇を好み、放鷹殺伐を楽しみとし、
家人以下斬罪にされた者は少なくなかった。彼はいつも三尺八寸の剣を佩びてこれを『笹の雪』と名付けた。

主膳正はその流水に瓜を切るが如きすぐれた切れ味を讃えて「笹の雪払へば落る、此刀、持主田中主膳なりけり」
と、狂歌を詠じ、表銘を彫った。その後、主膳正は剣術の師某を手討ちにする。しかし、その者は手向かいして
主膳正の膝に傷をつけた。だが、主膳正は少しも痛がらずに、その者を仕留めた。

さらにその後、児小姓らに相撲をとらせて見物している時、主膳正は「わらべの相撲はまだるい」と言って、
傷が癒えていないにもかかわらず、立ち上がって力足を踏んだので傷口が破裂して血がほとばしった。
それでも主膳正は顔色を変えずにあら塩を摺り付けておいたところ、ついに傷は破傷風となってしまった。

これを聞いて大いに驚いた吉政は使節を馳せて多くの良医を遣し、内外の治療を施したが効果は見えなかった。
主膳正は何を思ったのか、大切の時に至って幽室に籠り、一切の面会を禁じた。柳城より追々馳せ来る
老臣以下の者たちも次の間に控えるまでで、寝所を窺うことを許されなかった。末期に至って、

主膳正は手を叩いて児小姓を呼び、硯と料紙を取り寄せて筆を染め、「十有九年一夢中、瓢箪瓢箪元夕顔」
と、書き終わるとたちまちこの世を去った。吉政は訃報を聞いてたいへん嘆いたのであるが、未だ嗣子が
定まらないので国中の士民は安堵せず、老臣らの諌めもあり、まずは嗣子を定めようということで、
三男の隼人が嫡子に立てられた。

――『筑後国史 原名・筑後将士軍談』





ある説には田中吉政は

2013年06月05日 19:57

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 19:15:28.07 ID:5eUFZbTX
ある説には(田中)吉政は浪人で美濃岐阜辺りを徘徊し、
やっとの事で木綿島の袴一具を買出し、これを着て信長の足軽に出て、

仕物、取籠者などの手柄を多く立てて、ついに士となり、
太閤に仕えてもなお戦功が多いので、ついには岡崎五万石の城主となったという。

私が考えるに、吉政は信長の時、足軽に出て武勇が多かったので宮部の与力に附けられ、
二百石を領せられたのであろう。

山内対馬守や堀尾帯刀などの類は皆信長より秀吉へ附けられた与力であったから、
吉政もこの類であろう。

――『筑後国史 筑後将士軍談』

吉政の系図を見た人が言うには

2013年06月01日 20:01

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 18:57:07.56 ID:MVfrbMaw
また諸家深秘録によると(田中)吉政の父は田中伯耆守といって信長へ仕えて
近江八幡山三万石を領した人というが、

柳川の真勝寺(吉政の菩提所)に今ある吉政の系図を見た人が言うには、
吉政は信長の足軽に出られたということが家系の中にあるという話だから、深秘録の説は
でたらめであろう。また(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7579.htmlに続く)

その上、真勝寺の先住は吉政の四男で今に血脈相続し、
今の住持は吉政の玄孫であるから、系図の説が事実であることは明白である。

まして惣見記や信長記にも田中伯耆という人は見えず、好古の人の考えもこれと同じだ。

――『筑後国史 筑後将士軍談』




よって、元足軽であることは明らかである

2013年05月30日 19:55

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 18:34:39.07 ID:REgp+8SU
当州の野民村翁の伝話によると(田中)吉政は筑後入国の時、自ら扇を開き、
「一石取った兵部が一国取った。見さいな」と言って舞ったのだという。

よって、元足軽であることは明らかである。

――『筑後国史 筑後将士軍談』






渡河第一の名誉を

2013年03月09日 19:52

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 01:22:26.71 ID:slsb1I88
慶長5年関ヶ原の役、東軍による岐阜城攻めの折のことである。

東軍の将の一人、田中吉次(田中吉政嫡男)は合渡川を渡ろうとしたが、大雨の降り続いた後であったため、
水量大いに増しており、どの場所が浅く渡るのに都合がいいかが解らず、全軍すこぶる困っていた。

この時、田中吉次軍の中に、中間の三郎右衛門という水練達者の者があり、遙か末座より恐る恐る

「私が瀬踏みをつかまつります!」

というとザンブと川の中に飛び込み、彼方此方と泳ぎまわった。
しかしその姿を見るとどこも同じような深さで、徒歩で渡れそうな場所は無いように見えた。

暫くして三郎右衛門は帰ってきて、大将である吉次に申し上げた

「この辺り一帯は浅瀬でございます!さあ、早くお渡りください!」

吉次はこれを聞くとたちまち不審に思った。彼も三郎右衛門の瀬踏みを見ており、浅い場所があるようには
とても思えなかったためである、彼は眉を寄せて

「先にお前が瀬踏みをしていた様子を見たが、すこぶる深いように思われた。それなのに今、却って浅いと言うのは
一体どういう理由からか!?」

三郎右衛門答えて曰く
「さればです。実を申せば私の瀬踏みした一体は浅瀬でした。
しかしそのような姿を見せてしまっては、他の軍勢もこれに気が付き、我先にと渡ってしまい、今日の戦功が
他の者の手に渡ってしまいかねません。

そう考えたため、わざと深いかのように見せ、諸軍に油断をさせたのです。しかし実際にはあの一帯は浅瀬です!
さあ、早くお渡りください!」

田中吉次は三郎右衛門の言葉に感嘆し、その勧めに従いすぐさま全軍を渡らせ、この方面の軍勢の渡河第一の名誉を
手に入れたのである。

後に田中吉次はこの三郎右衛門を武士に取り立て、その姓を「合渡」とした。
よって彼は合渡三郎右衛門と称したとの事である。

(軍人頓智叢談)




689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 08:51:06.27 ID:19OH1Eir
渡河第一の名誉って、やっぱり渡河中は危険だから?

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 09:08:58.31 ID:8+NklLJ6
>>689
他の軍勢を出し抜いて先鋒が取れるから

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 10:15:57.93 ID:5GTWu+47
雨降ったあとは増水してて流される危険があるし
敵と対峙してる時なら、渡河中は身動きとりづらく敵に狙われる危険がある
そういうリスクを乗り越えて先陣を切るからだろうね

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 10:40:49.70 ID:Irl9py6G
源平合戦の宇治川の先陣争いからの伝統


田中吉政「そういうこともあるだろうと思って」

2012年12月31日 19:56

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:46:22.93 ID:AaHORiM6
岐阜城の戦いの折、田中吉政の家臣・田中采女は村の入口で
敵を突き落とした。吉政はこれを見て「采女は今日の一番首だ。
首を取るのだ」と言葉をかけた。

その次に川淵九郎左衛門が高名をあげた。吉政はこれを見て
「鼻をかくのだ」と言った。戦後、二人の間で一番首をめぐって
争いが起きた。

吉政がこれを聞いて「そういうこともあるだろうと思って、
わしは采女が敵を馬より突き落とした時に今日の一番首なり首を
取れと言ったのだ。その後に九郎左衛門が高名したゆえ、
鼻をかけと申し付けた」と言うと、争いはすぐに収まった。

――『名将言行録』




領主・田中吉政

2012年10月10日 20:12

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 00:25:54.04 ID:ecHO9i5m

田中吉政は岡崎城主であった頃、毎日城を見廻って普請などを命じ、
朝飯は城より弁当を取り寄せて、所構わず道端や堀の端で食事を取っていた。

また、侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物にした。
結構な仕立てを嫌って、いかにも粗末であることを好んでいた。

寺の門前に役に立たない植木があれば「この木を掘り除き、茶を植えて旦那方に
音信を贈るとよい」と住持に意見した。また知行所は自ら残らず見て廻り、

百姓屋敷に堀のあるところは「警備は男に任せて、堀を埋めて田にして稲を作る
がよい。畠のほうが向いているならそれでもよい」と教えていた。

年貢高を決めるための調査には自ら赴き、稲の善し悪しを綿密に調べて賦課率を
決めたので無理もなく、百姓たちは喜んだという。

――『名将言行録』





853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 01:23:24.23 ID:Rb3K20Cz
さすが元農民

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 01:55:58.98 ID:D+VVUjpm
内政は的確だよねえ


855 名前: 忍法帖【Lv=30,xxxPT】(1+0:8) [sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:05:58.48 ID:m1bcJpYc
流石筑後75万石

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:32:54.66 ID:+LtVpcB6
これはいい話

光成を捕らえて突き出したのは農民ってか農村文化の悪い面がでたかも・・・

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:36:51.63 ID:9QLSOV3Y
>>856
三成をかくまう文化ってどんなんだよw

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:42:55.84 ID:+LtVpcB6
>>857
誤字失礼
友人であるならお上に突き出さない文化というか共同体もあれば、
共同体のために人身御供を出す文化もあるじゃん
そりゃ同じ共同体に育っても個人で考え方や性格の違いもあるけどね

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 07:32:45.14 ID:9QLSOV3Y
>>858
反乱の首魁を匿うか否かを文化のせいにすんのは無理だよ。

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 09:35:55.94 ID:GWfFz1Tr
戦場から落ちるところを見逃すとかなら有り得たかもしれんが、
あの状況じゃ仕方ないんじゃないのかな~

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/10(水) 09:37:50.98 ID:cBiiaKz2
>>852
風流を解せぬお方じゃ…


862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:16:12.51 ID:wlTnMlnq
吉政までいくといっそ農民の風流な気もする
きっと祭りになったら人一倍はしゃぐ

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:26:40.44 ID:2k798HK/
1、無理だと分かっていても、三成捕縛の手柄と引き換えに三成助命を嘆願してみる
→実質西軍総大将だし絶対に不可能。

2、家康に三成は賊将だけど、自分の恩人なので菩提を弔う為に寺を建てる許可を貰う。
→寺は無理かもしれないが、墓建てて弔う事くらいなら許されたかも。

3、家族を家康に内緒で匿う。
→バレると処罰されるので、歴史の闇に埋もれ逸話にならず...



恩人に対して2くらいはしてもいいような気がするけど

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:30:39.32 ID:OIfizZjb
>>852
真ん中2つはちょっとどうよと言うか余計なお世話と言うかそんな気がしないでもない

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 20:22:44.59 ID:il8RfwRb
>>852


「百姓屋敷に堀のあるところ」
従兄弟とか叔父さんが徳川の家来という家もあるだろうに・・

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 07:17:30.39 ID:eBpfyK8M
>>863
3は津軽がやってるな。

そもそも三成って本当に吉政の恩人なのだろうか?

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 07:36:13.28 ID:brrbDoes
三成が田中吉政を助けたって、秀次事件の時、秀次の宿老だった吉政に「命助けてやるから俺の言うとおりにしろ」と
言ったって奴でしょ?三成の秀次事件への関与自体諸説あるので、単純に事実といっていいものやら。

「侍でなければ人ではないのだ」

2012年09月29日 20:29

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/29(土) 17:28:55.88 ID:yc+atVTf

田中吉政は初め久兵衛という名で、近江の民衆の一人だった。
ある日、畑の畔で久兵衛が休んでいたところ、ある侍が若党五、六人を
引き連れ、槍を持たせているのを見かけた。

「侍でなければ人ではないのだ」

侍一行をまじまじと見てそう言った久兵衛は百姓を辞めることにした。
久兵衛は宮部継潤の若党となったが、その頃はわずか三石の身分であった。

はれて武士となった吉政に、伯母方の織った麻布一端が贈られてきた。
そこで紺屋に袴を染めさせると、巴の紋が付いていた。これを縁にして
巴を定紋としたのだという。

吉政の働きぶりは礼儀正しく勤勉で、過悪もなかった。豊臣秀吉が秀次を
養子とし、師傅に相応しい人物を選んだが吉政よりも適任の者がいなかった。
よって吉政を秀次の傅とし、近江八幡山城三万石を与えて兵部大輔に任じた。

――『名将言行録』




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 09:41:19.28 ID:q/AyMoqe
>>677
農民から大名にまで成り上がったミニ秀吉なのにイマイチマイナーなのは、
江戸時代に田中家が断絶してるのと、大恩人の三成を捕まえたり
してるからかね

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 10:10:23.54 ID:G8uDJ1+k
でもあの時に三成を見逃すわけにはいかんでしょ・・・

三成の発見者の、その後

2011年02月05日 00:00

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 02:25:05 ID:J/np1n0Y
関ヶ原の決戦の後、逃亡した石田三成を発見したのは、田中吉政家中、
田中傳左衛門であった。

さて、「三成捕らわる」の報に、徳川家康は村越茂助を派遣する。村越は田中吉政

「三成を生け捕ったのは何者であるのか?内府様は御目見え致したいとおっしゃっておられる」

と伝えた。ところが吉政これに

「いえいえ、名もない者であり、その様なお心遣いは無用であります」

と断った。

ところがこの傳左衛門、名もないどころではない。
彼はかつて秀吉に仕えその後関白秀次の元で千石の足軽大将まで務めた、
堂々たる武士であった。

ところが秀次による千石堀普請の時、その工事内容がよくないと秀次の御意に触り、
牢人することとなった。

そこを田中吉政が引き取り家来のように使ったのだが、同時に傳左衛門は
豊臣家直参への復帰を強く望んでおり、折を見て秀吉などに許しを求め運動していた。
そのため家臣のように扱われているとは言え、吉政から領地を頂くようなことをせず、
合力米をその働きの対価として受け取っていた。

そのようであったため、田中吉政はこの時、もし傳左衛門を御目見えさせれば
直参に戻り自分の家中から出ていってしまうと思い、そうさせないために村越にそんな事を
言ったのだ、という。

後になってことことを知った傳左衛門は田中家を立退き、近江においてその生涯を終えた。
享年、62歳と伝わる。


三成の発見者の、その後に付いての話である。




628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 03:22:31 ID:KnEpZaAX
>>624
この人はせこい逸話ばかりだな

田中吉政家来、坂本和泉、石田三成の鉄砲足軽を

2009年10月22日 00:10

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 02:01:20 ID:16+ulZD6
関ヶ原、東軍による美濃攻めの時の話である。
合渡堤の合戦で西軍は東軍に圧倒され、兵たちは逃走、
その中に石田三成の鉄砲足軽、勘右衛門と言う者の姿もあった。

さて、鉄砲を持って逃げる勘右衛門の姿を、田中吉政の家来坂本和泉が発見、
駆け寄ると、これを斃さんと馬上より槍を繰り出した。

勘右衛門とっさに避けると、坂本に向ってこんな事を言い出した

「ま、待て!味方を討ち取ると言う事があるか!」

自分を東軍側の侍だと言う事にして、この場を逃れようとしたのである。
これを聞いた坂本

「味方だと?何所の部隊の者だ!?」

そ、それは…

勘右衛門、東軍の者の中で田中吉政家臣である、西村五右衛門のことを
同郷であると言う事で見知っていた。そのため

「に、西村五郎右衛門の部隊のものでござる!」

と答えた。
これに坂本

「なんだ、西村殿の所の者か…。では行くがいい。」

助かった!勘右衛門がそこから離れようとしたところ、後ろから坂本が声をかけた

「あ、そうそう、西村殿の所の者だと言うのなら、お前が今着ているその羽織、
脱ぎ捨てていったほうがいいぞ?
石田三成の部隊の足軽は、皆そろいの羽織を着ているのだよ。今お前が着ているのと同じ物をな!」

そう言って他へと駆け出した。

坂本、この勘右衛門が敵方だと解ってはいたものの、同僚の西村の見知ったものだと悟り、
これを逃がしてやったのだ。
後に人々、「坂本は情けを知る人だ」と言い合ったそうである。





785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 02:47:09 ID:BIOUozcF
>>781
「あ~、ワシは今、何も聞いてはおらなんだ、よってワシの預かり知らぬとことじゃ」
とか
「これから言うことは独り言じゃからな…実は○○は××であるのだ、おっとこれは独り言じゃぞ」
とか
「ワシは今こっちを向いておる、そっちは見ておらんからな、決して見ておらんからな」

こういうのけっこう多くない?

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 11:04:21 ID:4hRLmZGn
>>781
関ヶ原戦後には
揃いの羽織がいっぱい脱ぎ捨てられてたんだろうか・・・

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 11:25:18 ID:6ITPTRlI
そういや合戦の後の死体処理や武具の処分・リサイクルなんかは
誰がやってたんだろうか。
いわゆる被差別階級の人たちがやってたのかなあ。

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 11:33:05 ID:IixOd/zU
>>783
農民

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 11:45:06 ID:6ITPTRlI
>>794
ありがとう。
まあ落ち武者狩りなんてやるくらいだから
積極的にやってたんでしょうねえ。

その武具のリサイクルを生業にしてる商人もいたんでしょうね。
目利きが出来ればそれなりに稼げそうだし。

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 12:46:41 ID:bMZuhxzR
>>795
落ち武者から村を護る目的と、戦災から逃れるために大名との契約で落ち武者狩りしてたりもする

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 13:24:35 ID:jDa6reVU
>>795
一応、古金買い(戦場漁り)は違法なんだけどな、少なくとも武士からは良い顔はされない。
ま、戦場になるって事は刈田狼藉とか人災を被ってる可能性が高くて、
農民からしてみれば戦場漁りでもなんでもやって少しでも損害を補填する必要はあるんだけどね。
その結果、釘一本のこらないといわれる現在の業者も真っ青な廃品回収業者と化す。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 14:46:09 ID:6ITPTRlI
>>798-799
ありがとうございます。
リサイクル率高そうですねw
きっと肝とか漢方として売られたりしたんだろうなあ・・・

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 17:33:54 ID:ziUCgMWe
>>800
人肝を薬に使うのは江戸時代な。
戦国時代はまだ明から製法が伝わっていなかった筈。
伝わっても製法は広まらなかったと思ったが。

田辺甚兵衛の初陣・いい話

2009年03月30日 00:07

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/28(土) 23:11:52 ID:gldBVRyV
関ヶ原の時の話である。

田中吉政の陣中に、田辺甚兵衛と言う者がいた。この時10歳。そう、子供である。
彼は父が早くに死んだため、田辺の惣領として、この幼さで合戦に出たのだ。
そして何と、田辺家の家来達と共に敵の首を獲り、褒美をいただいた。

後に黒田長政が田中吉政と四方山の話をしていた折、吉政からこの話が出て、
lこれにいたく感動した長政は、吉政に頼んで甚兵衛とその家来を呼び出してもらい、甚兵衛には
自ら杯を与え、また、家来たちにその時の状況を詳しく語らせた。

家来達が言うには、自分達が騎馬の敵を、馬より抱き落とした所を、甚兵衛が刀を抜いて
かかったのだと言う。
その時甚兵衛、わなわなと震えていたが、家来達がその姿を辱めたので、震えながらも
立ち寄りて、首を獲ったのだそうだ。

長政はこの話に、さらに大きく感じ入って、
「この子はますます勇士の兆しのある少年だ。震えずにかかるような者は、頭が空っぽなのだと
言っていい。また、辱められてかかるのは、義と言うものを知っているからだよ。」と、
そのように絶賛したそうである。

それにしてもこの時代、武士の家に生まれるとは、これほどまでに過酷で大変なのだ。そんなお話。




275 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 00:33:03 ID:yCFGe5t1
>>274℡元「まったくもって。親族一同にどれだけ厳しく(ry」

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 00:36:36 ID:1xXkyLcN
如水軒「震えずにかかるような者は、
    頭が空っぽなのだと言っていい。全くよのう長政」

280 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 02:31:50 ID:pMYvY1AM
10才の初陣が関ヶ原って凄まじいな・・・

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 03:26:43 ID:8fmZzRBz
>>280
で、いきなり首ちょんぱだもんなあ。
凄えわ。

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 04:32:50 ID:+WIa1psr
鬼武蔵に次ぐ逸材だな

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 08:09:19 ID:H7vKacCA
>>280
秀忠21歳「…」

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 10:48:40 ID:X2mgIeGo
浅野長政「初陣は26歳はオールドルーキーですが何か?」

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 11:11:45 ID:2tISk9Dl
>>283
あなた真田チート一族とバカップル走りしてたから、ちょいと武勲には足りないよね

「おのれー安房守め~!」
「ウフフ、捕まえてごらん?」


286 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 12:22:03 ID:huzbjcmo
鬼武蔵にはかなわない
鬼武蔵にはかなわない

287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 12:55:08 ID:T4ChhoLG
なんか最近は新納さんが大人気だな。

288 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 13:51:10 ID:kg5Ou1DT
ロバート・デ・新納ってくらいだからな

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 13:59:08 ID:kR++HK9F
南国の四兄弟
義久「初陣は22歳です」
義弘「初陣は20歳です」
歳久「初陣は18歳です」
家久「初陣は15歳です」

ちなみに、上の3人は二歳づつ歳が離れてるので
同じ合戦で一緒に初陣を果たしたそうな。

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 14:29:50 ID:BBH496WM
>>291
へぇ、そうなんだ

田中吉信、遅れてきたDQN・悪い話

2009年03月11日 00:12

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/10(火) 22:17:13 ID:D5qB3wHc
遅れてきたDQN

なにかと小知恵の回る田中吉政であったが、息子には小細工しすぎでまずいことに
長男吉次→「パパなんて嫌い!」と家出して出家(野垂れ死に説もあり)
次男吉信→一時は嫡子扱いされるが、結局支城の久留米城主
三男吉興→お鉢は回ってこず、分藩3万石
四男忠政→吉政のお気に入りらしく、ややこしい経緯の末跡継ぎ。
        嗣子なく死去したのでお家取り潰し

お話は次男吉信。
元々そうであったのか、家督と嫡子のややこしい扱いで鬱憤溜まったのか、
筑後移封後にDQNぶりが加速。
久留米から度々家臣を引き連れ、柳川城に向かって空鉄砲の一斉射撃を行い
ビビる吉政を見るのが趣味。
でも久留米の城下町や街道整備も立派にやる漢気もあるよ、な人物。

あるとき些細な事で下人を手打ちにしようとするが、なにせ戦国直後のこと下人も黙ってはいない。
殺されはするものの刀を手に反撃し、腿に深手を負わせた。
負傷した吉信の対処
「ここは肉が多くて腐り易いからこうするのだ!」と文字通り「傷口に塩を擦り込んだ」

その後また下人を手打ちにするが、これまた反撃されて今度はふくらはぎに深手。
負傷した吉信の対処
(まともかどうかは分からない)治療はしたが、いつまでたっても痛みが引かないので
「これしきの傷がこんなに痛むはずがない!」
とおもむろに四股を踏み始めるが、傷口が開き死亡。

享年は不明だが若死になのは確か。
生涯通算手打ちSATSUGAI数 53人
山鹿語類より

戦歴は知らない。




761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/10(火) 22:27:22 ID:huOeHCk4
うへあ…

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/11(水) 16:44:27 ID:fuTSGE44
>>760

今でいえば境界例、人格障害だね。
「吉」のつく名前が正室の子だったらしい。
おとっちゃん、都市整備では名君だったが、子育ては
苦手だったらしい。

田中吉政の中間・上手な瀬踏み・いい話

2008年12月17日 00:04

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/16(火) 21:25:29 ID:j/xWP112
上手な瀬踏み

関ヶ原の合戦の際、黒田・藤堂・生駒・田中吉政ら東軍諸将が、西軍の織田秀信
がいる岐阜城を攻撃した。

ところが前日の大雨で、城の手前にある郷戸の川は増水し、東軍諸将は足止めを
食った。

吉政は水練が得意な中間を呼び、
「郷戸の瀬踏みをして渡れそうな浅瀬を見つけて参れ。」と命じた。
中間は東軍が注目するなか川に飛び込んだが、増水のせいか今にも溺れそうな様
子だった。

中間は川から這い上がると、
「殿様。浅瀬を見つけましたぞ!」と吉政に報告した。
「マジで?さっきの貴様の瀬踏みを見ていたが、メチャクチャ深そうではないか。
なぜ、浅いと言えるのだ?」と吉政が中間に問うと、
「もし川が浅いのがバレバレの泳ぎをすれば、東軍の他の諸将が先を争って川を
渡るでしょう。それ故、わざと川が深いと思わせる泳ぎをしたのです。
先を越されないよう急いで浅瀬をお渡り下さい。」と言った。

果たして、田中隊は素早く郷戸の浅瀬を渡り、岐阜城一番乗りの手柄を挙げるこ
とが出来た。

かの水練上手の中間はこの瀬踏みの功により、『郷戸三郎左衛門』と名を与えら
れ侍に取り立てられたと言う。
(常山紀談)



336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/16(火) 21:34:56 ID:uHUJbZb6
>>334
偏見なのは重々承知の上で、いかにも田中吉政の所の逸話だと思ってしまったw

田中吉政雑感・悪い話

2008年11月09日 00:05

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 01:56:29 ID:sA4+v3z1
関が原の合戦に勝利した東軍の次の標的は、
三成の佐和山城であった。東軍は井伊直政、田中吉政、
小早川秀秋らを先鋒に家康自ら出馬し、その数は一万五千に達した。
対する佐和山城に篭る石田軍は三成の父、正継、兄の正澄ら2800人、
しかもその多くが老兵、若兵であった。

この戦いでもっとも華々しい活躍をみせたのは、
老兵福島次郎作である。次郎作は弓の名手であり、
雲霞のように寄せてくる東軍を次々と矢で射ち落とし、
自分の矢が尽きると山田嘉十郎の名が刻印された矢を用いた。
次々と放たれてくる矢を見た東軍では、
それを嘉十郎のなせる技と勘違いし嘉十郎を大いに賞賛したという
(当の嘉十郎は関が原の敗戦を聞き、既に逃亡していた)
大坂からの援軍の将、長谷川宇兵衛が東軍の小早川家に内通すると
本丸以外の他の丸はすべて陥ち、落城は時間の問題となり日没となる
家康は降伏勧告の使者を正継に送り、ここで関が原の捕虜として
東軍に捕らえられた青木某を引き渡され、正継は西軍の壊滅を知った
正継は一族の自刃と引き替えに城に篭ったもの達の助命条件に開城を願い
家康もこれを認めていた。
そして翌日に城の引き渡しというときに突如として、
田中吉政軍が城内に乱入してきた。
開城と聞いていた城兵にもはや戦意は無かった。
約束違反を詰る城兵に対し、正継は

「内府も念のこもったことよ。」

とだけ感想を漏らし、天守で静かに一族と共に自害した。
家臣の土田東雲斎が、宝蔵から宝物を敵兵の中に投下して
自害の刻を稼いだといわれる。落城の炎に逃げ惑っていた
多くの子女たちも、敵の辱めをうけてはと谷に次々と身を投じた
(この谷は「女郎谷」とよばれている)

命令違反の田中吉政に、家康から罰や叱責が与えられたとの記録は
今のところ見つかっていない

田中さんは宮部さんを嵌めたという話があったりで
DQNではないけど陰湿な悪い人なイメージがあるよね



738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 01:59:15 ID:sA4+v3z1
でも内政面では凄く評判がいい不思議な人でもある

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 02:04:14 ID:w+XFgYBi
前段と後半で、いい話と悪い話の二つに分けたほうがいい気がする。

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 02:43:51 ID:CLB8JfSy
田中吉政はもとは百姓だしな
農業に関しては詳しくて内政は良かったらしいけど・・・
友人の三成突き出してまで出世するし

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 02:55:50 ID:1vGaEcWq
西軍の三成見つけたらそりゃ差し出すでしょ

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 03:11:19 ID:CLB8JfSy
いやいやいやいや
家康の命令とはいえ友人を平気で突き出して恩賞たんまりもらってんだぜ
普通ならせめて多少の恩賞辞退してまで助命嘆願するとかするだろ
・・・まぁいいや、とりあえず俺はこいつは好かん

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 03:18:23 ID:w+XFgYBi
まず友人なのか、という問題と、

当時三成は国事犯であり、吉政を非難する人は、犯罪者でも友人なら
警察に通報しないのか、と言う疑問がわく。

「過去の忠義の士とは、今で言えば汚職や犯罪で批判された政治家や社長を、最後まで弁護している
秘書や社員の事である。」って話はある程度的を射ていると思うよ。

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 03:40:27 ID:CLB8JfSy
そのとおりだね
別にこいつが三成をかくまうとか逃がすとかは最初から期待してない
が、友人としてあまりにも淡白過ぎるから違和感を感じるのかもな
戦国ちょっといい話スレではただの百姓がかくまったというのに・・・

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 03:45:01 ID:w+XFgYBi
それもあくまで逸話だと言う事を考えた方が…>百姓
無粋だけど特にああいうのは、明治後に出来た伝承であることが多い。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 03:58:55 ID:1vGaEcWq
百姓と東軍所属の大名を比べてもなぁ

下手すると家康から睨まれるわけで・・

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 04:28:09 ID:sA4+v3z1
田中さんはバルトロメオとして娘婿の明石の逃亡助けたり
(本当は田中さんの息子の話らしい)
特に内政面東海道を岡崎に引っ張ってきて城下町の活性化を図ったり
柳川の水路を整備して水の都にしたり久留米にいたる田中街道作ったり
近江八幡を安土のように町割りしたり・・・
三成も「どうせ捕まるならお前がいい」と言ったそうだし脇差も上げたぐらいだから
待遇もよかったんだろうし
秀次切腹の時に「他の山内とかの与力大名はともかく筆頭家老の田中は切腹させるべき」となったときも
三成が「いやあいつは諌言とかしまくってたからちゃんと仕事してた」って弁護して
秀吉の直参になったから(それまでは宮部家→秀次の家来で直参じゃない)
仲良かったのはたぶん本当だろうし
いい話もあるんです
ただここは悪い話メインなので
若いころ奥さんと食事としてた時に急に「俺は大物になる!!!」って叫んで
離縁を申し出て家を飛び出した若気のいたりとか
長久手の時にヤバくなって「ちょっと後詰めに連絡してくるわ」ってドッカ行こうとして
堀に「あ?てめぇ家老のくせになに主人おいてトンズラしようとしてんだよ
とっとと取って返して討ち死にしてこや」って怒られたり
岡崎で家康臭を徹底消去するために家康の安堵状全廃して
寺領没収しまくってたらどこからともなく常に念仏が聞こえるようになって
最終的に耳に激痛が襲うようになってあわてて辞めたとか
関ヶ原で旧主の子である宮部長房をはめたり
ちょっと領内インフラ整備しまくったおかげで財政難になって
息子は大阪に参陣できなかったりしたことが大きく取り上げられてるだけで

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 05:29:40 ID:JVghmrsL
>>745
そんでもってそういう連中を面白おかしく脚色して物語にする人間がいるから後世まで有名になる。
忠臣蔵なんかは典型だ罠。
もっともそれは社会秩序が整った時期だからこそ単なる犯罪者の擁護者だが、
勝ったものが正義の乱世だと普通に忠義の士だったりする。

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 07:54:10 ID:Ou+8X72K
>>737の田中さんの行動は家康の命令でやらされたものじゃないか?
……と考えるおれは間違いなく司馬史観信者

田中さんはなんか小物臭がして好き
根は悪い人間じゃないんだけどうっかりさんで小市民なイメージ

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 10:41:39 ID:1pEXHRp7
>>751
家康の命令なら津田清幽(元家康家臣で七将襲撃後に家康から石田家に
送り込まれた人)はもっと違う立ち回りをすると思うから、普通に
田中の勝手な行動だと思う。

というのは自分の田中のイメージがドス黒だからかも知れんが。
なんかの本で秀次事件のときに自分の保身のために
秀次の悪事あること無いことでっちあげた上で
「俺は注意したんですけど~」とか言って秀吉にへつらった
ってのを読んでから好きじゃないよ田中。

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 10:47:55 ID:nabS2T92
実際に秀次事件の後加増転封を受けてるし>田中吉政
とばっちりを食って首が飛びそうだったのを危うく三成に助けてもらった、
というのもそれはそれで悪い話(後年の佐和山城虐殺を考えると)だけど、
お咎めなしどころか恩賞まで普通に秀次に讒言かましてたんだろうな、と思う


759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 11:01:28 ID:LntwGFmz
三成の墓でも建てたら印象も変わっただろうに

関ヶ原の松野主馬・いい話

2008年10月16日 11:25

765 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/27(水) 14:55:52 ID:WpZrE5MP
食い気の話から無骨者の話。
関が原の合戦で小早川秀秋が4時間も悩んで、あげく大砲を打ち込まれて決心した、
という話が通説になっているが・・・

一番備を勤めた松野主馬、裏切りのことは極秘ゆえ事前に知らされてはいなかった。
そこに「西軍を攻撃せよ」命令が届く。
彼は激怒して「最初から東軍に属するならともかく、今に至って裏切るなど、そのような軍法はない」
と自軍をガッチリ固め、味方に対して壁をを作った。
小早川軍の動きを封じてしまったのだ。
再三の説得にも応じず時間は過ぎていく。
「主君の命を聞かないことこそ裏切りだ」と言われ、
それならばと自軍を引き連れて戦場を去って行ってしまった。
それでやっと小早川軍は動くことができた。

戦後小早川家を出奔したが田中吉政に3万石で召抱えられ、
晩年は本多能登守から500石を給され道栄と名のり安楽に余生を送る。