さてはますます勇士の機

2017年11月23日 13:06

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 09:39:25.77 ID:mJcw9C4d
関ヶ原の時、田中筑後守(吉政)の家臣で田辺甚兵衛という者の子、父は早世して
甚兵衛の名を継いだが、10歳にて陣立てした。彼の家臣たちが敵を突き落とし、甚兵衛を
馬より抱き下ろして頸を取らせた。
幼少の子として比類なき儀であると、その頃世間で大変に賞賛された。

後に、黒田長政田中吉政を訪れた時、四方山の物語の中で、吉政がこの甚兵衛の事を語った。
長政はこれに大いに感じ入り、甚兵衛を呼び出し盃を与えた。この時、「甚兵衛を補佐した
家来どもも呼び出して様子を尋ねよう」という事になり、甚兵衛の家来たちも出頭した。

長政が当時の様子を具体的に尋ねると、彼らはこう証言した
「馬より抱き下ろした時、刀を抜いてかかりましたが、わなわなと震えていました。
それを家来どもに恥ずかしめられ、震えながら立ち寄りて頸を討ったのです。」

これを聞いて長政は再び大いに感じ入った。
「さてはますます勇士の機がある。震えずにかかったなら、十方無き故(頭がからっぽだから)と
言うべきであろう。恥ずかしめられてかかったのは、義をつとめて致すという行為だ。」

そう評したという。

(士談)

田辺甚兵衛の初陣・いい話

こちらに既出の逸話ですが、出典があり詳しかったので



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この国の殿は

2017年07月09日 10:47

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/09(日) 01:30:12.47 ID:2VY1cRSN
 この国(筑後)の殿(田中吉政)は一般的にその発展を妨げずにいたところ、
眠ってはいけない悪魔は、その手下である数人の異教徒を通じて、
その発展を邪魔するだけではなく、殿が発した若干の言葉をきっかけにして
既にキリシタンになっている人たちを帰京させることさえ望んだ。
その言葉とは父祖の教法を変えるのは望ましくない、というものであったが、
彼らはその言葉の意味をねじ曲げて自分たちの邪な悪意に従って解釈した。
こうして、かの異教徒たちは、殿の公の役人であり、
キリシタンがいる数ヵ村を治めていたので、
既にキリシタンになっているものは回心せよとそれらの地区に布令を出した。
(中略)
 さて、キリシタンたちがこのような窮状におかれているときに、
殿がたまたま司祭たちの修道院に来て食事をし、そこにある楽器を見た。
その折、司祭に対してすこぶる愛想がよく、優しい態度を見せ、
(司祭は)彼に大いに敬意を表して厚くもてなした。
キリシタンは、自分たちがキリシタンたちに対し企んだことを殿がもし知ったならば、
よい結果にはなるまいと考えて、その悪企みを断念することにし、
キリシタンたちは自由に、平穏になり、敵たちは困惑し恥いった。

(イエズス会日本報告集1-4)


「竹村を討たんならば忽ち民部殿を打落とさん」

2017年07月09日 10:46

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 23:27:44.34 ID:PtOrjCfS
 関ヶ原の時、三河岡崎の田中兵部大輔吉政の子民部少輔長胤(吉次)は、
父大坂に同心したりといふを聞きて、宇都の小山を忍び出で、居城岡崎に帰りけるを国清公(池田輝政)聞し召し、
竹村半兵衛を召され、「我吉田に帰るまで民部を牛窪に押へとどめ置け」と仰せらる。
竹村、「これは安き事には候はねども、いかさま計ひて見候はん」とて道に出迎へ、
鉄砲の者を百姓の家に隠し置き、具に支度を言ひ含め、其の身は山のせばみに出で出で待つ所に、長胤来られり。
竹村、「池田三左衛門ひそかに申せと申すことの候てこれに出で候」といへば、
長胤馬廻りの人を遠ざけられしかば、竹村静かに歩み寄り、
「別の子細も候はず、押留め申せと三左衛門下知したるよ」といひもあへず、
左の手に長胤をひしとらへ、一尺ばかりの脇差を抽いて長胤に押し当てたり。
従者ども、「こは口惜しや」と怒れどもせんかたなし。
竹村言葉をかけ、「近く寄られなばわれは殺さるるとも民部殿をば刺貫き申さん。
唯押留め申すのみにて、別の事は候はず」と呼ばりける処に、
百姓の家に伏せ置きたる鉄砲の者ども駆集り、鉄砲を長胤に差しあてて、
「竹村を討たんならば忽ち民部殿を打落とさん」と声々に呼ばはりけり。
長胤力無く竹村に従ひて百姓の家に入れば、押止めて四方を堅く守りけり、
かくて東照宮聞し召し、「父は既に味方になれる上は許し候へ」と仰せられしかば、
長胤則ち出でられけり。
(常山紀談)


父・吉政に不義の行いあったので

2017年07月09日 10:45

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/09(日) 07:58:19.55 ID:2VY1cRSN
筑後守(田中吉政)嫡子民部少輔吉次は、岐阜城攻め等の節軍功もあって公儀との関係も良く父子の仲も良かった。
しかしいかなる心が出たかはわからないが、父・吉政に対して不義の行いがあったので
吉政は激怒し、公儀へ願い出て廃嫡をし勘当し追放すれば京都へ退き寂しく住んでおられた。
(田中興廃記)



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/09(日) 15:56:30.04 ID:OLx2PEl6
「田中興廃記」ってなんか笑ってしまう

此度の功によって我が疑いは晴れた

2017年07月08日 21:07

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 11:11:46.03 ID:PtOrjCfS
 三成は並の者ではないので、今日落ち人となりても明日は又様々な謀略を企むことも考えられる。
したがって田中を一人に捜捕させるのはいかがなものかと私議するものもいた。
しばらくして吉政は石田を捕らえ出て進じた。
その時、田中はかねてより治部と仲がいいゆえに少しも疑いがないとはいかなったが
此度の功によって我が疑いは晴れたと仰られた。
諸人は初めて盛慮の深淵を感じた。
(徳川実紀)


長顕、軍に従えないことを憤って

2017年07月07日 17:34

79 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/07(金) 06:18:01.37 ID:E7nZay3K
 長顕(田中吉次)、軍に従えないことを憤って、父に訴えたけれども許されず、長顕手勢30騎ばかりを引具し忍び出て、父に先立って馳せ参じた。
(田中)吉政これを聞いて大いに驚き、池田侍従(輝政)に事情を告げた。輝政が吉田城を守らせていた竹村彦右衛門のもとに早馬を立て、長顕を押し止むべき由と下知した。
長顕は吉田の城を避けて本坂城を過ぐるところを竹村は追いかけて吉田の城に伴わせようしたところに輝政より飛脚が到来して、止める必要はないという。
是は徳川殿、長顕の志の程を感じ許すことによって父子共に向かう
(藩翰譜)

関ヶ原時、東海道の大名が自分の城をと人質を家康に差し出すも吉政の人質が江戸からが逃げてきたという逸話

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 06:26:22.82 ID:E7nZay3K
いい話に書いちゃったけどまあいいか


ここに松を植えたので

2017年07月05日 18:31

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 17:39:23.39 ID:qhAAv/+d
 毎日城を見廻っては普請などを命じ、朝飯は城より弁当を取り寄せて、
所構わず道端や堀の端で食事をし、その日の普請の当番には声をかけては話を聞いた。
侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物とし、結構な仕立てを嫌って、いかにも質素であることを好んだ。
 寺の門前に無用な植木などがあれば、この木を掘り除き、茶を植えて信徒たちに茶を分け与えるよう指示した。
また知行所は残らず見て廻り、農家の周りに堀があれば用心は田中に任せよと言い、堀を埋め立てさせ稲や畑を作らせた。
年貢高を決めるための調査には自ら赴き、作柄の見立てを行って収穫のよしあしに従って年貢率を決めたので百姓たちは喜んだ
 また、罪人があると、首を切る代わりに荒地の開墾をさせるこのような仕置きは九州小倉の越中殿にも聞こえていた。
知立から西尾の間にある三里に及ぶにし野という芝原を囚人たちを使って開墾させ、
ここに松を植えたので後にここは松原となって毎年塩木として売る事ができるようになった。
(石川正西聞見集)

塩木(海水を煮沸し塩を作る際の薪用の木)

田中吉政、岡崎時代の統治


杉江勘兵衛を討ち取ったのは

2017年04月17日 11:34

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/17(月) 08:55:19.10 ID:8+na5zsz
田中筑前守(吉政)の家臣の内、関ヶ原の役、合渡川合戦において石田三成の家臣で武勇を知られた
杉江勘兵衛と鑓を合わせ討止めたという者が3名あった。
西脇五右衛門松原五右衛門尉辻勘兵衛の3人である。

実際には、西脇が杉江と鑓を合わせて突き合いをしていたが負傷した所へ、田中吉政自身も駆けつけ
声をかけ、西脇がさらに奮戦していた所、松原が来て突き倒し頸を挙げたのだ。
辻勘兵衛は通りざまに鑓を合わせただけであった。

しかしてその後、西脇と松原はこの時の功を争って止まなかった。
吉政が筑後拝領した初め、磯野伯耆守の所で吉政は、両人が未だに絶交状態であると聴き、
両人を呼び遣わし、その間に、杉江を討ち取った事についての、全く同じ文章の感状を二通したためた。
両人へこれを渡して、仲直りをさせたのである。

辻勘兵衛はこの合戦の時、他の敵と組み討ちの功があり、別途その功についての感状を与えられた。

田中家改易の後、松原五右衛門尉は三千石あまりにて越前へ、西脇は七百石にて肥後へ、辻は肥前と称し、
浅野但馬守の所へ参った。

(士談)


田中吉政、石田三成を捕える

2015年08月03日 18:34

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 20:37:55.40 ID:10eOLgVS
徳川家康は関ヶ原で勝利すると、16日には佐和山を攻め落とし、明日は大津に出る、という時に、
田中久兵衛吉政が申し出た

「私は先日関東にて、必ず石田三成の首を取ると申しましたが、その甲斐もなく落ち延びさせたこと
無念に思っています。そこでお暇を賜り、近江は我が生国ですから、草を分けても三成を探し出し、
それでも行方が知れなければ越前北之庄あたりまでも逃れたのでしょうが、どこの国までも
探し出して参ります。」

その場より出立し、地理に詳しい伊吹山のあたりで200人、300人の落人を搦め捕り、切り捨て、
残る所なく探していたが、”かうつくま”という所に山寺があり、三成は幼少の時ここで手習いを学び、
その縁を頼んで寺の縁の下に2,3日隠れていたが、9月23日の月が出た明け方、寺の前に出て
月を詠み、どこかに落ちていこうとした所を、運の尽きか、百姓たちに見つかり、三成は色々言い逃れたものの、
逃れ難く縄をかけられ、田中吉政の前に引き出された。

その時三成は浅ましい姿であったが、吉政はその姿を見るや三成に近づき、その縄を解き捨てた
「侍の行く末というものは、誰であってもこのようになる事、珍しいものではありません。
ですのでどうか、何事もお任せください。徳川殿の御前で、私の今度の戦功に変えてあなたのお命を
申し受け、たとえ山の奥、島の中であっても、安全に送ります。」

このように謀り透かした

「舌があっても食事をしなけれな詮無きものです。」
そういって馳走し、その後落ち着くと、吉政は密かに三成に尋ねた

「あなたが送った、諸国の諸大名への計略の書状はどうなさったのですか?」

「それらはすでに、去る所において山田の中に入って捨てた。」

「では、あなたのお道具の類はどこにお預けになったのでしょうか?
もしお道具が誰かに取り出されれば、資産を無くしもはやあなたが再起する事は出来ないでしょう。
ですのでこの田中に教えていただければ、いかようにも取り計らい、あなたに進上致します。」

石田三成は本来流石の人物であったのだが、この時の境遇であったので完全に欺かれ、
「なるほど尤もである。」と、大阪、京都に残し置いた物、或いは彼が潜んでいた寺の下に埋めた物も
残らず掘り出させた。吉政はこれを厳重に梱包し、徳川家康に提出した。

そして「治部少輔が生け捕りになった姿をご覧に入れましょう。」と、今までは主人であるかのように
遇していた三成に縄をかけ、長持ちの中に入れた。三成はそれでも「とにかく、田中次第にしよう。」と
言うように成っていた。

三成を入れた長持ちが大津の陣所に入ると、一方は村越茂助に持たせ、後のほうを吉政が担ぎ
家康の御前に参ると、三成の身柄を確保したことに家康は殊の外喜んだ。
「先日の小山での言葉に相違なく、一層神妙である。」と、北近江を、瀬田の橋を境として
吉政に与えるとした。吉政は「私の生国でもあり、別して辱い次第です。」と感激して
申し上げた。

ところがここで、彦坂小形部が反論した。
田中吉政は、以前は石田三成の腹心ともいえる人物でした。
そんな彼に大国である近江を与えるというのは、次に乱が起こった時、彼がどんな行動を取るか
大変心許なく思います。」

それでも「今度の田中の働き比類なし」ということで、内談の上、彼に筑後一国が与えられた。
石田三成は、小西行長、安国寺恵瓊と同様に、京の市中を引き廻され三条河原において斬られた。
38歳であったという。

(明良洪範)




近江の田中村に九兵衛と言うが農夫いた。

2014年04月13日 18:44

956 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/12(土) 22:53:24.85 ID:1KcdLE+o
有名な話ですが朝野雑載より。

近江の田中村に九兵衛と言うが農夫いた。
18歳の時に
「俺はこのまま農夫で終わるのは嫌だ。いまはこんな時代だし、侍になって出世して、
金持ちになって有名になるんだ!」
と思い立ち、妻に離婚を言い渡した。
いきなりのことに驚いた妻は
「わたしが何かしましたか?何で家を出されなきゃいけないんですか?」
と訊ねると、九兵衛は
「いや、何にも悪いことしてないよ。ただ、俺はビッグになるから明日出ていきます。
ご飯をたくさん炊いといて。」
と有るだけの米数升を炊かせて、友人を呼んで宴会をした。
「ビッグになるぜ!フェイマスに!( ̄∀+ ̄)キラッ」
みたいな志を語った後、本当に家を出て行った。
その後、宮部善祥坊に草履取りとして仕えた。


後の田中吉政である。

いい話ではないなと思ったのでこちらに




957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 00:15:29.00 ID:q6o0kaFC
でも本当にビッグになったのはすごいw
同じような事して埋もれていった人間も大勢いたんだろうなぁ

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/13(日) 22:37:45.83 ID:R/VeEKGy
ビックになったからこそ話が今にまで残ってるんやろうね~

草履取りだとやっぱり嫁さん養えんのかね・・・
立身して離縁した嫁を迎えにいったとかになるともう物語りとかになっちゃうんやろな~

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 01:09:28.46 ID:q7JWBRtX
>>958
草履とりじゃないが重耳は迎えにいったのかな?

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/14(月) 16:31:08.01 ID:s7lc4QLE
そんな逸話あったっけ?と調べてみたら、
重耳と孟嘗君がごっちゃになってたわ・・・

永勝寺の薬師如来

2014年03月05日 19:19

522 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/05(水) 12:49:56.28 ID:/+e5qil0
福岡県、久留米にある永勝寺の御本尊である薬師如来には大変ないわれがある。
天武天皇のお后さまの病を癒したと伝わり、白河天皇に保護されたため、永勝寺は日本三薬師の一つと呼ばれるほどに繁盛した。

戦国時代、豊後の大友宗麟が筑後に乱入した時の兵火で永勝寺は焼けてしまったが、不思議なことに薬師如来は無傷で山陰に隠れていたという。
「薬師如来が自ら歩いて火難を避けたのだ」
と村人は仏力に感じ入り、仏堂を再建した。

何年かの後、久留米を領した毛利秀包は無道であったため、領内の寺社仏閣を壊し、放火した。
永勝寺も焼けてしまったが、またしても薬師如来は山陰に隠れ無事であった。
これを見た村人たちは不思議な仏力に感じ入り、毛利秀包の目を逃れるために、山中の洞穴に薬師如来をかくまった。

その後に田中吉政がこの地を領した。
すると毎晩、山が五色に光るので吉政の家来が調査すると、この薬師如来が見つかった。
その家来が村人から話を聞き、吉政に報告すると、吉政は
「勿体無いことである」
と言い、堂の再建を許可した。

永勝寺は廃寺になったこともあったが再建され、今も薬師如来を御本尊としている。



523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 13:21:59.60 ID:qe3dCNG+
神仏習合で八幡大菩薩の本地が阿弥陀如来、東照大権現の本地が薬師如来
西方極楽浄土と東方浄瑠璃界をそれぞれ受けもっているわけだ

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 13:22:24.49 ID:5s7Zj3cG
山陰を「やまかげ」と読まずに普通に「さんいん」と読んで毛利氏とかの庇護を求めたのかと

田中吉政の嫡子主膳正は

2013年09月13日 20:22

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 18:07:48.95 ID:ZxMkvWLX
田中吉政の嫡子主膳正(吉信)は極めて豪気な性格で、常に武勇を好み、放鷹殺伐を楽しみとし、
家人以下斬罪にされた者は少なくなかった。彼はいつも三尺八寸の剣を佩びてこれを『笹の雪』と名付けた。

主膳正はその流水に瓜を切るが如きすぐれた切れ味を讃えて「笹の雪払へば落る、此刀、持主田中主膳なりけり」
と、狂歌を詠じ、表銘を彫った。その後、主膳正は剣術の師某を手討ちにする。しかし、その者は手向かいして
主膳正の膝に傷をつけた。だが、主膳正は少しも痛がらずに、その者を仕留めた。

さらにその後、児小姓らに相撲をとらせて見物している時、主膳正は「わらべの相撲はまだるい」と言って、
傷が癒えていないにもかかわらず、立ち上がって力足を踏んだので傷口が破裂して血がほとばしった。
それでも主膳正は顔色を変えずにあら塩を摺り付けておいたところ、ついに傷は破傷風となってしまった。

これを聞いて大いに驚いた吉政は使節を馳せて多くの良医を遣し、内外の治療を施したが効果は見えなかった。
主膳正は何を思ったのか、大切の時に至って幽室に籠り、一切の面会を禁じた。柳城より追々馳せ来る
老臣以下の者たちも次の間に控えるまでで、寝所を窺うことを許されなかった。末期に至って、

主膳正は手を叩いて児小姓を呼び、硯と料紙を取り寄せて筆を染め、「十有九年一夢中、瓢箪瓢箪元夕顔」
と、書き終わるとたちまちこの世を去った。吉政は訃報を聞いてたいへん嘆いたのであるが、未だ嗣子が
定まらないので国中の士民は安堵せず、老臣らの諌めもあり、まずは嗣子を定めようということで、
三男の隼人が嫡子に立てられた。

――『筑後国史 原名・筑後将士軍談』





ある説には田中吉政は

2013年06月05日 19:57

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 19:15:28.07 ID:5eUFZbTX
ある説には(田中)吉政は浪人で美濃岐阜辺りを徘徊し、
やっとの事で木綿島の袴一具を買出し、これを着て信長の足軽に出て、

仕物、取籠者などの手柄を多く立てて、ついに士となり、
太閤に仕えてもなお戦功が多いので、ついには岡崎五万石の城主となったという。

私が考えるに、吉政は信長の時、足軽に出て武勇が多かったので宮部の与力に附けられ、
二百石を領せられたのであろう。

山内対馬守や堀尾帯刀などの類は皆信長より秀吉へ附けられた与力であったから、
吉政もこの類であろう。

――『筑後国史 筑後将士軍談』

吉政の系図を見た人が言うには

2013年06月01日 20:01

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 18:57:07.56 ID:MVfrbMaw
また諸家深秘録によると(田中)吉政の父は田中伯耆守といって信長へ仕えて
近江八幡山三万石を領した人というが、

柳川の真勝寺(吉政の菩提所)に今ある吉政の系図を見た人が言うには、
吉政は信長の足軽に出られたということが家系の中にあるという話だから、深秘録の説は
でたらめであろう。また(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7579.htmlに続く)

その上、真勝寺の先住は吉政の四男で今に血脈相続し、
今の住持は吉政の玄孫であるから、系図の説が事実であることは明白である。

まして惣見記や信長記にも田中伯耆という人は見えず、好古の人の考えもこれと同じだ。

――『筑後国史 筑後将士軍談』




よって、元足軽であることは明らかである

2013年05月30日 19:55

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 18:34:39.07 ID:REgp+8SU
当州の野民村翁の伝話によると(田中)吉政は筑後入国の時、自ら扇を開き、
「一石取った兵部が一国取った。見さいな」と言って舞ったのだという。

よって、元足軽であることは明らかである。

――『筑後国史 筑後将士軍談』






渡河第一の名誉を

2013年03月09日 19:52

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 01:22:26.71 ID:slsb1I88
慶長5年関ヶ原の役、東軍による岐阜城攻めの折のことである。

東軍の将の一人、田中吉次(田中吉政嫡男)は合渡川を渡ろうとしたが、大雨の降り続いた後であったため、
水量大いに増しており、どの場所が浅く渡るのに都合がいいかが解らず、全軍すこぶる困っていた。

この時、田中吉次軍の中に、中間の三郎右衛門という水練達者の者があり、遙か末座より恐る恐る

「私が瀬踏みをつかまつります!」

というとザンブと川の中に飛び込み、彼方此方と泳ぎまわった。
しかしその姿を見るとどこも同じような深さで、徒歩で渡れそうな場所は無いように見えた。

暫くして三郎右衛門は帰ってきて、大将である吉次に申し上げた

「この辺り一帯は浅瀬でございます!さあ、早くお渡りください!」

吉次はこれを聞くとたちまち不審に思った。彼も三郎右衛門の瀬踏みを見ており、浅い場所があるようには
とても思えなかったためである、彼は眉を寄せて

「先にお前が瀬踏みをしていた様子を見たが、すこぶる深いように思われた。それなのに今、却って浅いと言うのは
一体どういう理由からか!?」

三郎右衛門答えて曰く
「さればです。実を申せば私の瀬踏みした一体は浅瀬でした。
しかしそのような姿を見せてしまっては、他の軍勢もこれに気が付き、我先にと渡ってしまい、今日の戦功が
他の者の手に渡ってしまいかねません。

そう考えたため、わざと深いかのように見せ、諸軍に油断をさせたのです。しかし実際にはあの一帯は浅瀬です!
さあ、早くお渡りください!」

田中吉次は三郎右衛門の言葉に感嘆し、その勧めに従いすぐさま全軍を渡らせ、この方面の軍勢の渡河第一の名誉を
手に入れたのである。

後に田中吉次はこの三郎右衛門を武士に取り立て、その姓を「合渡」とした。
よって彼は合渡三郎右衛門と称したとの事である。

(軍人頓智叢談)




689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 08:51:06.27 ID:19OH1Eir
渡河第一の名誉って、やっぱり渡河中は危険だから?

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 09:08:58.31 ID:8+NklLJ6
>>689
他の軍勢を出し抜いて先鋒が取れるから

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 10:15:57.93 ID:5GTWu+47
雨降ったあとは増水してて流される危険があるし
敵と対峙してる時なら、渡河中は身動きとりづらく敵に狙われる危険がある
そういうリスクを乗り越えて先陣を切るからだろうね

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 10:40:49.70 ID:Irl9py6G
源平合戦の宇治川の先陣争いからの伝統


田中吉政「そういうこともあるだろうと思って」

2012年12月31日 19:56

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:46:22.93 ID:AaHORiM6
岐阜城の戦いの折、田中吉政の家臣・田中采女は村の入口で
敵を突き落とした。吉政はこれを見て「采女は今日の一番首だ。
首を取るのだ」と言葉をかけた。

その次に川淵九郎左衛門が高名をあげた。吉政はこれを見て
「鼻をかくのだ」と言った。戦後、二人の間で一番首をめぐって
争いが起きた。

吉政がこれを聞いて「そういうこともあるだろうと思って、
わしは采女が敵を馬より突き落とした時に今日の一番首なり首を
取れと言ったのだ。その後に九郎左衛門が高名したゆえ、
鼻をかけと申し付けた」と言うと、争いはすぐに収まった。

――『名将言行録』




領主・田中吉政

2012年10月10日 20:12

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 00:25:54.04 ID:ecHO9i5m

田中吉政は岡崎城主であった頃、毎日城を見廻って普請などを命じ、
朝飯は城より弁当を取り寄せて、所構わず道端や堀の端で食事を取っていた。

また、侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物にした。
結構な仕立てを嫌って、いかにも粗末であることを好んでいた。

寺の門前に役に立たない植木があれば「この木を掘り除き、茶を植えて旦那方に
音信を贈るとよい」と住持に意見した。また知行所は自ら残らず見て廻り、

百姓屋敷に堀のあるところは「警備は男に任せて、堀を埋めて田にして稲を作る
がよい。畠のほうが向いているならそれでもよい」と教えていた。

年貢高を決めるための調査には自ら赴き、稲の善し悪しを綿密に調べて賦課率を
決めたので無理もなく、百姓たちは喜んだという。

――『名将言行録』





853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 01:23:24.23 ID:Rb3K20Cz
さすが元農民

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 01:55:58.98 ID:D+VVUjpm
内政は的確だよねえ


855 名前: 忍法帖【Lv=30,xxxPT】(1+0:8) [sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:05:58.48 ID:m1bcJpYc
流石筑後75万石

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:32:54.66 ID:+LtVpcB6
これはいい話

光成を捕らえて突き出したのは農民ってか農村文化の悪い面がでたかも・・・

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:36:51.63 ID:9QLSOV3Y
>>856
三成をかくまう文化ってどんなんだよw

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:42:55.84 ID:+LtVpcB6
>>857
誤字失礼
友人であるならお上に突き出さない文化というか共同体もあれば、
共同体のために人身御供を出す文化もあるじゃん
そりゃ同じ共同体に育っても個人で考え方や性格の違いもあるけどね

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 07:32:45.14 ID:9QLSOV3Y
>>858
反乱の首魁を匿うか否かを文化のせいにすんのは無理だよ。

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 09:35:55.94 ID:GWfFz1Tr
戦場から落ちるところを見逃すとかなら有り得たかもしれんが、
あの状況じゃ仕方ないんじゃないのかな~

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/10(水) 09:37:50.98 ID:cBiiaKz2
>>852
風流を解せぬお方じゃ…


862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:16:12.51 ID:wlTnMlnq
吉政までいくといっそ農民の風流な気もする
きっと祭りになったら人一倍はしゃぐ

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:26:40.44 ID:2k798HK/
1、無理だと分かっていても、三成捕縛の手柄と引き換えに三成助命を嘆願してみる
→実質西軍総大将だし絶対に不可能。

2、家康に三成は賊将だけど、自分の恩人なので菩提を弔う為に寺を建てる許可を貰う。
→寺は無理かもしれないが、墓建てて弔う事くらいなら許されたかも。

3、家族を家康に内緒で匿う。
→バレると処罰されるので、歴史の闇に埋もれ逸話にならず...



恩人に対して2くらいはしてもいいような気がするけど

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:30:39.32 ID:OIfizZjb
>>852
真ん中2つはちょっとどうよと言うか余計なお世話と言うかそんな気がしないでもない

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 20:22:44.59 ID:il8RfwRb
>>852


「百姓屋敷に堀のあるところ」
従兄弟とか叔父さんが徳川の家来という家もあるだろうに・・

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 07:17:30.39 ID:eBpfyK8M
>>863
3は津軽がやってるな。

そもそも三成って本当に吉政の恩人なのだろうか?

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 07:36:13.28 ID:brrbDoes
三成が田中吉政を助けたって、秀次事件の時、秀次の宿老だった吉政に「命助けてやるから俺の言うとおりにしろ」と
言ったって奴でしょ?三成の秀次事件への関与自体諸説あるので、単純に事実といっていいものやら。

「侍でなければ人ではないのだ」

2012年09月29日 20:29

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/29(土) 17:28:55.88 ID:yc+atVTf

田中吉政は初め久兵衛という名で、近江の民衆の一人だった。
ある日、畑の畔で久兵衛が休んでいたところ、ある侍が若党五、六人を
引き連れ、槍を持たせているのを見かけた。

「侍でなければ人ではないのだ」

侍一行をまじまじと見てそう言った久兵衛は百姓を辞めることにした。
久兵衛は宮部継潤の若党となったが、その頃はわずか三石の身分であった。

はれて武士となった吉政に、伯母方の織った麻布一端が贈られてきた。
そこで紺屋に袴を染めさせると、巴の紋が付いていた。これを縁にして
巴を定紋としたのだという。

吉政の働きぶりは礼儀正しく勤勉で、過悪もなかった。豊臣秀吉が秀次を
養子とし、師傅に相応しい人物を選んだが吉政よりも適任の者がいなかった。
よって吉政を秀次の傅とし、近江八幡山城三万石を与えて兵部大輔に任じた。

――『名将言行録』




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 09:41:19.28 ID:q/AyMoqe
>>677
農民から大名にまで成り上がったミニ秀吉なのにイマイチマイナーなのは、
江戸時代に田中家が断絶してるのと、大恩人の三成を捕まえたり
してるからかね

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 10:10:23.54 ID:G8uDJ1+k
でもあの時に三成を見逃すわけにはいかんでしょ・・・

三成の発見者の、その後

2011年02月05日 00:00

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 02:25:05 ID:J/np1n0Y
関ヶ原の決戦の後、逃亡した石田三成を発見したのは、田中吉政家中、
田中傳左衛門であった。

さて、「三成捕らわる」の報に、徳川家康は村越茂助を派遣する。村越は田中吉政

「三成を生け捕ったのは何者であるのか?内府様は御目見え致したいとおっしゃっておられる」

と伝えた。ところが吉政これに

「いえいえ、名もない者であり、その様なお心遣いは無用であります」

と断った。

ところがこの傳左衛門、名もないどころではない。
彼はかつて秀吉に仕えその後関白秀次の元で千石の足軽大将まで務めた、
堂々たる武士であった。

ところが秀次による千石堀普請の時、その工事内容がよくないと秀次の御意に触り、
牢人することとなった。

そこを田中吉政が引き取り家来のように使ったのだが、同時に傳左衛門は
豊臣家直参への復帰を強く望んでおり、折を見て秀吉などに許しを求め運動していた。
そのため家臣のように扱われているとは言え、吉政から領地を頂くようなことをせず、
合力米をその働きの対価として受け取っていた。

そのようであったため、田中吉政はこの時、もし傳左衛門を御目見えさせれば
直参に戻り自分の家中から出ていってしまうと思い、そうさせないために村越にそんな事を
言ったのだ、という。

後になってことことを知った傳左衛門は田中家を立退き、近江においてその生涯を終えた。
享年、62歳と伝わる。


三成の発見者の、その後に付いての話である。




628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 03:22:31 ID:KnEpZaAX
>>624
この人はせこい逸話ばかりだな