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琉球国中山王の尚益は

2022年03月26日 17:11

94 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/26(土) 15:32:39.77 ID:k/biLpZ5
その逸話は何らかの医学的な手術を反映しているのかな?

後の時代ですが、医療技術での沖縄でのお話。


琉球国中山王の尚益(1678年-1712年)はいわゆる兎唇であったが、祖父の尚貞が医師・通詞の高嶺徳明を中国に派遣し
補唇術を学ばせ、尚益の手術を成功させたという。

なお、高嶺は全身麻酔を行い、それが後に伝わって華岡青洲にパクられたという説があるが、定説にはなっていないそうで。

高嶺徳明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B6%BA%E5%BE%B3%E6%98%8E


なお、琉球国の医術は相当遅れており、1650年ころまで京都などに内科診療で留学しているようなので、その後に
外科を含めた中国式医療を急速に取り入れたってことでしょうか。

山崎二休
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E4%BA%8C%E4%BC%91



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八幡信仰の受容について沖縄の一例

2021年03月13日 16:36

974 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/03/13(土) 12:21:50.09 ID:DeFvGlRZ
八幡信仰の受容について沖縄の一例を。

第一尚氏、琉球国中山王の尚徳が1466年に奄美群島の喜界島を征服した際のエピソードで、文中の社寺が琉球八社の一つ
那覇市の安里八幡宮(別当寺の神徳寺も併存)です。

尚徳の外征も含めた強引な政策に家臣たちは不満を溜め込み、その死去の直後の1469年に尚円(内間金丸)のクーデターで
第二尚氏が成立しますが、第二尚氏の家紋は八幡宮同様の左三つ巴でした。
前王家も同じ巴紋だったと考えられています。


球陽』巻2【六年、王、親しく自ら軍を率ゐ、奇界を征討す。】
奇界島、畔きて朝せず。連年兵を発し、屡々征するも功無し。王怒りて曰く、啻に功無きのみに非ず、反って侮辱せらる。
吾、宜しく親しく軍兵を領し、以て賊乱を平ぐべしと。遂に二千余の兵を率ゐ、路、安里村を歴るのとき、一鳥有りて
飛鳴して過ぐるを見る。王、弓を把り、天を仰ぎ祈りて曰く、若し我、奇界を平ぐるを得れば、一矢にて鳥を射て落さん。
若し平ぐること得されば、又射ること得ざらんと。祈り畢り、絃響き矢発す。早已に鳥、地に落つ。王、心大いに喜ぶ。
海船五十余艘に分駕し、二月甘五日、那覇開船す。行きて洋中に至るのとき、又一巨鐘の波面に在りて浮沈するを見る。
遂に船に載せ、以て八幡大菩薩の賜と為す。二十八日、奇界に至る。賊兵、港口に柵を立て塁を築き、矢石雨の如く、
決して進むべからず。王、大いに怒り、軍兵をして進攻せしむるも死者無数なり。王、愈々怒りて息まず。老臣一人班を出でて、
奏して曰く、賊兵、勇ありて智無し。之れを破ること何ぞ難からんや。請ふ、数日を延せば臣必ず賊を破るの計有らんと。
王、其の言に従ひて俟つ。三月初五日に至り、煙雨霏々たり。夜に当り天黒く対面弁じ難し。老臣、数百の軍人をして各小舟に駕し、
多く火把を帯び、佯りて軍を分つの状を為し、彼の島の背後に駕し赴かしむ。賊兵之れを見て果して其の計に中り、
止老兵をして港口を守らしめ、皆背後に往きて敵を迎ふ。王大いに悦び、急ぎ諸軍に令して一斉に上岸せしめ、火を放ち屋を焼き
喊声天に振ふ。賊兵大いに驚き、魂、体に附かず、降る者無数なり。賊首謀尽き力窮りてにせられ、誅を受く。王、別に
酋長を立てて百姓を治めしめ、本月十三日開船して帰る。是れに由りて王、輔臣に命じ、鳥を射るの処に宮を建て鐘を蔵せしめ、
八幡宮と名づけ、並びに寺を構へて神徳と名づく。又巨鐘を鋳て神徳寺に懸く(鐘は今尚存す)。嗣いで王、驕傲愈々盛にして
残害益々甚しく、諫者は之れを罪し、者は之れを悦びて、国政日に壊る。臣士遁隠する者計ふるに勝ふべからず。



976 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/03/13(土) 19:33:50.18 ID:FyMby3WK
尚徳の神号(別称)が八幡按司ですね。按司は琉球の豪族の称号。
ただ肝心の八幡信仰は、王族士族はともかく、庶民層には土着信仰に押されて定着しなかったようだとか。

977 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/03/14(日) 16:43:47.50 ID:1MjRjkLF
喜界島は琉球文化圏では北東端の辺境扱いなんだけど、20年ほど前の城久遺跡の発見で学説が大転換してて
ここの本土系住民の移住が、12世紀以降の琉球文化の基礎となったというのが有力視されてますね

慶世村恒任『宮古史伝』より、 桃太郎の鬼退治のお話

2020年12月09日 18:48

478 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/09(水) 18:06:39.39 ID:NqDtQxu4
桃太郎の鬼退治のお話

慶世村恒任『宮古史伝』より

沖縄県宮古島の豪族、仲宗根豊見親玄雅、通称は空広(豊見親は豪族の称号)は沖縄本島の琉球国中山王
(この時期は尚真)に貢納し、その威勢を借りて先島諸島全域を影響圏にすることを目論んでいた

1500年のオヤケアカハチの乱で、王府軍に加勢してアカハチを滅ぼし、実質的に石垣島も影響下に置く
最後に残った与那国島も、時期は諸説あるものの1522年に与那国首長が王府に従わないことを口実に
征討の軍勢を挙げた

宮古島独特の古謡「アヤゴ」には15、16世紀の叙事詩が含まれる
そのうちの「仲宗根豊見親八重山入りのアヤゴ(仲宗根豊見親与那国攻入のアヤゴ)」では与那国攻めに
参戦する島内外の傘下豪族二十数名の名が挙げられ、その中にこういう名がある

大川盛与那覇のむゝたら(桃多良)

前置きが長くなりましたが、「たら(たらー)」は沖縄訛りで太郎なので、桃太郎なんですね
少なくとも15世紀までに宮古島まで桃太郎説話が伝来し、それにあやかって名付けられたと考察されています
そして攻め入る先の与那国の首長は鬼虎という名でした

この与那国征服(鬼虎征伐)は仲宗根豊見親が宝刀治金丸で鬼虎を討ち取って決着し、先島諸島全域が
その影響下に入るが、その死後すぐに息子たちは沖縄本島に実権を奪われて琉球国の完全支配が確立

鬼虎の娘は仲宗根豊見親の息子の嫁にするとの甘言で連れ出されるが、実際は水汲みの下女として
扱き使われ、悲観して世を去ったという

鬼虎征伐のお話は、多良間島の多良間八月踊り(国の重要無形民俗文化財)で「忠臣仲宗根豊見親組」の
題名で今でも演じ続けられています
http://www.vill.tarama.okinawa.jp/?cat=60
http://www.cosmos.ne.jp/~miyako-m/htm/kagisuma/kagi2005/kagi_050911/kagi_050911.htm

仲宗根豊見親、アカハチ、鬼虎はそれぞれの島で地元の英雄扱いや再評価されているので、沖縄本島視点の
琉球王国史観とはまた違ったものがありますね

※なお、桃太郎さん自身は下っ端らしく、名前だけで出番が終わりです

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/09(水) 18:07:13.19 ID:NqDtQxu4
この話は過去ログの「宮古山の鯖祖氏玄雅宝剣を献上す」、「戦国時代の空手マスターの話」とつながります



480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/09(水) 22:39:24.28 ID:oL1m021D
>>478
桃太郎こと桃多良は、18世紀に編纂された「根馬氏系図」において、仲宗根豊見親の父の従兄弟という間柄。
親戚のおじさんだから、三下扱いは少しかわいそうなw

ただし、1522年には結構な高齢と見受けられる仲宗根豊見親の、更に叔父世代が出陣できたかは少々疑問。
ま、伝承自体の信憑性と、後世の系図なので。

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/11(金) 11:52:21.43 ID:vO2UnWC2
>>480
昔の文書は往々にして世代の取り違えあるんでしょ

琉球人の江戸入り

2020年08月27日 16:47

尚寧   
495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 12:04:18.66 ID:BhHb4Hi4
慶長十五年八月二十五日、琉球人が江戸に到着した。その中に歳十七、八の小姓、十四、五の小姓二名があった。
彼らはシャミセンを引き、十七、八の小姓は、名字をヲモイシラ、十四、五の小姓はヲモイトクと云った。
小唄を皆々謡い、江戸に在る衆はかの小姓を呼んで、シャミセンを引かせたという。

彼らの言語は日本人と同じ、但し少しずつは違うという。髪は頭の右にからわに結ぶばかりであった。
江戸までの上下の路次では、宿入りの時にいつも、笙、横笛、鐘太鼓、ひちりきにて管弦の如く演奏して
宿に入ると云い、これを道行と言うそうである。琉球王はこの座中にも出ず、奥に有って隠れる体であった。

琉球でも日本の真似をして、詩和漢連歌、また猿楽の能なども有る。宗教は禅、浄土など聖道宗(聖道仏教)が
有る。

『当代記』



宮古山の鯖祖氏玄雅宝剣を献上す

2020年08月15日 18:54

268 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/08/15(土) 18:31:39.79 ID:xyBB9vwz
怪奇発光現象なら沖縄の話も
時代背景は1500年から1520年くらいの宮古島

沖縄の琉球時代の歴史書『球陽』第3巻

【宮古山の鯖祖氏玄雅宝剣を献上す。】平良の北、務田川、夜半に至る毎に、音響地を揺がし、光輝天に沖して人民畏懼す。
鯖祖氏豊見親玄雅、彼の地に往き去くに、音弭み光滅して一物有ること無し。曙天に至るを俟ち満処に巡到し、心を用ひて之れを見るに、
只一剣有るのみ。豊見親、大いに之れを奇怪とし、此の剣を収獲して回る。此れよりの後、祥光門をめ、瑞色戸を繞りて一点の災殃有ること無し。
豊見親、深く之れを珍重し、以て伝家の宝と為す。後日に至り、深く此の宝剣の凡人庸民の得て宝とすべからざるを念ひ、嘉靖壬午、豊見親、
朝覲入貢するの時、此の宝剣を捧げて中山に至り、聖主に奉献す。公務全く竣りて島に帰るの時、に逆風に逢ひて八重山に漂到し
、を多武田礁に破り、人皆溺死を致す。豊見親、浮びて海面に在るのとき、忽ち一大鯖来り、豊見親を負ひて海浜に至る。豊見親、
以て上岸に便す。即ち水梢をひ小舟に坐駕して本島に帰回す。翌年の夏、亦中山に入覲し、恭しく金銀簪二(金鳳銀茎一・獅銀茎一)
・白絹衣裳を賜はりて帰島す。


この宝剣が国宝「琉球国王尚家関係資料」の一つ、脇差「治金丸」と言われています

また、タイトルの宮古山は宮古島のことですが、琉球では島を山と呼ぶ習慣があったようで
石垣島の別名の八重山もその一つですね
八重山島じゃなくて八重山だけでいいわけ

なお文中にあるようにこの一族は大サバに助けられたとの伝承からサバを大事にしたそうで

270 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/08/15(土) 20:30:13.70 ID:bJUfZJhj
ちなみに豊見親は宮古島周辺特有の豪族の称号で、沖縄文化圏では
沖縄本島の按司や奄美大島の大親といったものがありました
なのでこの人の名乗は仲宗根豊見親、もしくは仲宗根玄雅になります

沖縄本島には山北、中山、山南の三王国がありましたが、
これも本島を一つの山と見なした表現という説もあるよう


そしてこの宝剣の話は過去記事の「戦国時代の空手マスター」に続きます

273 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/08/15(土) 23:03:30.46 ID:zoLp/gsL
そうそう、この鯖というのはこの時代琉球の表記で
実際は鮫のことらしいです

関連
慶世村恒任『宮古史伝』より、 桃太郎の鬼退治のお話


271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 21:19:34.63 ID:5EtuP/f0
>>265
>>268
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
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────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

越来賢雄(ごえく けんゆう)

2019年05月01日 18:16

952 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 17:57:13.08 ID:y2ZY8YpG
越来賢雄(ごえく けんゆう、? - 1469年?)
15世紀琉球王国の武将である。唐名は夏居数(かきょすう)。鬼大城(うにうふぐしく)の名で知られる。
童名は松金。二人の弟がいた。父は沖縄県本島中部の一帯を支配した安慶名大川按司一世の四男・喜屋武按司一世の子
・喜屋武按司二世で栄野比大屋子という。幼くして父を亡くし、母の実家、美里間切知花村大城(沖縄市知花地区)で成長する。

琉球王国の正史(歴史書)である『球陽』によれば、人並みはずれた体格で武勇に優れ、狼虎の如しと例えられる。
そこで周囲の人は鬼大城と渾名した。一帯を治めた越来王子尚泰久に二人の弟と共に仕え、尚泰久が王位を継ぐと共に
王府・首里へと登る。王女百度踏揚が阿麻和利に嫁ぐに当って、その従者(付役)となる。

阿麻和利の叛意を知り、百度踏揚を背負って城から逃げ出した。王城にたどり着いてから、追っ手の軍勢を追い返している。
そして、王から討伐軍の指揮を任され二人の弟と共に軍を率いて勝連城を包囲するが、城は堅固で攻めあぐねた。一計を案じて、
自ら女装して城に忍び込み、油断した阿麻和利を討ち取った。この戦では弟の賢休・賢膺が共に戦死している。

この功績で越来間切(沖縄市越来地区)総地頭職を授けられ、越来親方賢雄と名乗った。更に百度踏揚を妻とする。後に
内間金丸(尚円王)擁立のクーデターで、第一尚氏が攻め滅ぼされると忠臣であった越来賢雄も攻められ最期は知花城の
中腹にある洞窟に追い込まれ、火攻めの末に殺されたとされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%9D%A5%E8%B3%A2%E9%9B%84

たまに沖縄ネタでも。wikipediaからの転載ですが、記事内容も「球陽」の該当箇所そのままのようなのでかまわんでしょ。

で、この女装して敵将を油断させたって話、鬼と呼ばれた大男の女装で油断ってどういう油断なのかと・・



953 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 19:38:10.33 ID:UpiZpyph
>>952
お前のようなババアが居るか by ケンシロウ

みたいな

狼とか虎って沖縄の方にも居たのかな?特に虎は交易や伝聞で見知ってたのだろうか?

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 20:50:13.20 ID:nyQWqSCF
>>952
ドラマティックな人生だなー、かっこいい

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 20:55:31.92 ID:oY4oFHHN
そりゃ知識はあったってことでしょうね。日本人絵師だって龍を実見したことはなくとも描いてるし。

でも球陽自体は後世の史書だから、中国的な比喩表現が使われててもおかしくないですが、
「鬼」の用法はまったく日本人そのものなんですね琉球時代の沖縄。
中国の影響ばっか言われても基本は本土と一緒なんだなあ。

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 21:06:31.56 ID:oY4oFHHN
戦国板にも琉球スレなんてあったんだ。
そこからコピペ

1187年 源為朝の子・舜天が即位(伝説上の最初の王)

1260年 英祖が即位(実在すると思われる最初の王)

1372年 中山王察度が初めて明に朝貢

1390年 宮古島の豪族・与那覇勢頭豊見親が中山に入貢

1392年 華僑集団・久米三十六姓が帰化

1406年 尚思紹が中山王に即位(第一尚氏王統)

1414年 尚巴志が室町幕府に遣使

1429年 尚巴志が三山統一(琉球王国成立)

1447年 尚思達が奄美大島を制圧する

1466年 尚徳が喜界島を制圧する

1469年 クーデターで内間金丸(尚円)が即位(第二尚氏王統)

1500年 尚真が石垣島を制圧する(オヤケアカハチの乱)

1511年 尚真が久米島を制圧する

1522年 尚真が宮古島の豪族・仲宗根豊見親に与那国島を制圧させる

1571年 尚元が奄美大島の反乱を制圧する

1592年 豊臣秀吉が朝鮮出兵のため琉球に賦役を命ずる

1604年 サツマイモ伝来

1609年 薩摩の琉球侵攻で支配下に入る

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 21:49:27.91 ID:zeRoev0A
薩摩はサツマイモ狙いだったのか

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/02(木) 17:45:14.04 ID:pHaXRwu5
>>952
>鬼と呼ばれた大男の女装で油断ってどういう油断なのかと・・


便所のネズミのクソにも匹敵するそのくだらない物の考え方が命とりよ!
この越来賢雄にはそれはない…あるのはシンプルなたったひとつの思想だけだ…たったひとつ!
「勝利して支配する」!それだけよ…それだけが満足感よ!
過程や…!方法なぞ…!どうでもよいのだァーッ

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 18:14:51.87 ID:z09f24lM
>>954
滅ぼされた鬼大城が尚泰久に登用された武官で、滅ぼした金丸(尚円)が尚泰久に登用された文官ってのもドラマチックかな

「薩琉軍記」について

2016年11月16日 22:01

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 16:34:37.11 ID:WRGo2PvK
いい話の方で軍記物の話が出てましたが、やっちゃった感について一例を。

1609年の薩摩の琉球攻略についての軍記物を「薩琉軍記」と総称して研究が進められていますが、
そのうち、目黒将史「架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻」から。(PDFで閲覧できます)
某板某スレで火葬戦記と評されていましたけれども、これは酷いw

琉球は基本的に異国・異世界扱いで、三国志演義の南蛮討伐と世界観が同じようなものですね。
実情はともかく、日本でイメージされていた講談での中国世界そのまま。

島津勢の総数が10万5873、これがまた一々武将名と軍役を挙げてディテールに妙にこだわってる。
対する琉球は高さ34丈の城門など、4里四方の王都に3万騎の軍勢で守備し、もちろんその他にも
相当数の軍勢です。

戦の展開はもうどうでもいいようなもんだけど、戦後の論功行賞で、薩軍が討ち取った首級が2万9307、
損害が1843とか。

数のインフレも異世界だとあんま難しいこと考えないでいいのかなあ。

立教大学学術リポジトリ  目黒将史 架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6639&item_no=1&page_id=13&block_id=49


305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 16:36:05.72 ID:WRGo2PvK
実際の薩摩の琉球攻略の研究では、沖縄の研究者によって最近いろいろと本になったり、歴史雑誌に載せられたりとありましたが、
実のところ史料の扱いに疑義が呈されていたりしますんで難しいものですね。



306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 18:04:58.30 ID:1rlij8XH
>>304
ちょうど今、沖縄に住んでるので興味深いです。
薩摩藩の琉球侵攻についての入門書的なものご存知でしたら、ご教授いただけませんか?

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 19:20:28.25 ID:cznpWbrV
いまの沖縄の人の研究話はそれこそフロイスと同じで話し半分で聞く程度でしかないんじゃ

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 20:17:46.41 ID:LDUIBqx2
>>306
とりあえずこれが一番いいと思う

琉球王国と戦国大名 島津侵入までの半世紀
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b214961.html


309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 20:19:47.78 ID:Iqooltxr
>>306
まず読むならばこれでしょうか。

上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』

著者の出世作で、島津の琉球侵攻が注目される嚆矢ともなりました。
ところが、戦時の当事者の書いた一次史料だけではなく、後になって政治的思惑や顕彰目的で書かれた文書まで
無批判で取り入れているんじゃないかとの批判が出てきました。

琉球王国~その真実の歴史
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/

それを検証したのがこちらのサイトですが、管理人はかなり基地外入った人(本人が自称してるから構わんでしょう)
ですけれども、その論考は確かな説得力があるので評価を得ています。
上記の本を読んでから、サイトに目を通して見ればいいと思います。

それに補足して、>>308も目を通しておけばいいんじゃないでしょうか

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 23:35:16.70 ID:7/SL5c8d
島津の琉球侵攻って
琉球王朝が元亀年間に奄美に侵攻した逆襲じゃないの?

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 07:51:37.39 ID:GDJQT7/A
>>310
そりゃ反応遅すぎだろ

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 01:20:52.31 ID:43f1UwnJ
島津の琉球侵攻と関係ないけど小説の琉球処分は面白かった
著者が琉球政府、沖縄県庁の経済や歴史編集役人を経て沖縄県立博物館長だったので
太政官政府より琉球寄りかもしれないが冒頭は寺田屋事件生麦事件に関係した
奈良原繁が琉球へ赴いたことも書かれており面白かった
もっとも幕末の奈良原繁のことは触れず官吏としてしか書かれているに過ぎないが

316 名前:306[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 18:22:17.68 ID:iAUdVKIa
皆様、情報提供いただきありがとうございました。
ご紹介いただいた書籍やウェブサイトに目を通していきたいと思います。

島津の琉球侵攻とある日本人武者

2011年02月07日 00:00

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 01:51:00 ID:LcxOVY3w
薩摩島津の琉球攻略、このとき琉球方として首里城正門(歓会門)で最後まで抵抗したのはある日本人武者でした。
彼は越前出身の医師で琉球に帰化し、剃髪し僧体ていたため法師武者と喜安日記には書かれています。

薩軍が首里城に迫ると琉球軍まず越来親方以下百数十人で迎撃にあたります。しかし薩軍の
雨のような鉄砲の前に死者続出。
やむなく退却し首里城にこもることにします。しかし薩軍の首里の町を焼きながらの進軍に琉球王家は
和平交渉を開始します。
那覇の町(首里は政治の中心・那覇は経済の中心)で和平交渉が始まったころ、交渉の最中にもかかわらず
法元二衛門を大将とする軍勢が首里城への攻撃を開始。
この攻撃を止めるべく薩将の市来織部と村尾笑栖が首里城へ駆けつけたところ、正門に立ち抗戦したのが
この法師武者でした。

この法師武者、正門の櫓の上に仁王立ちし
「薩摩の野郎ども、寄せて来たれども、何ほどのことあらん」
と櫓の上から巧みに矢を射掛け薩軍を近づけない。
この状況で薩軍は市来・村尾から、法師武者へは尚寧王より停戦の使者がとどき法師武者は法元に捕らえられます。

この法師武者、法元から
「汝は日本人なり。なぜ日本を忘れて我らと戦うのか?」
と問われ
「自分が琉球王から受けた恩は厚い。今、不幸にして捕虜となり死につく身だが、後悔することは何もない」
と答えます。これを聞いた尚寧王は金銀財宝を出し法師武者の助命を懇願、また法元も感心するにいたり助命された。

彼の名は喜安日記には載っていないが、その後子孫が琉球王朝の御典医・御典薬となったため
「山崎二休」と言う名が伝えられています。

まあ日本を裏切ったってことで悪い話の方に。
たぶん越前を脱出したころは「越前の狂犬」が暴れまわってたころじゃないかなと。





琉球侵攻と謝名親方利山

2010年10月06日 00:00


謝名親方利山


503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:23:28 ID:v3aJbc2V
1609年(慶長14年)、島津氏は琉球へと侵攻した。
この時琉球側の中心となったのが謝名親方利山(じゃな うぇえかた りざん)である。

謝名親方は明よりの帰化人の子孫として那覇近くの久米村に生まれ
官費生として明への留学を果たした後、王の補佐官である三司官の一人となった。

島津氏の琉球侵攻に際し、琉球軍は精一杯の抵抗を示した。
謝名親方も自ら兵を率い、海上より那覇へと迫った島津軍を一度は撃退し
その後故郷久米村の三重城への立てこもり、三日三晩戦い抜いた。

しかし長く平和が続いた琉球の軍は
戦国の世で鍛えられ、最新の鉄砲を装備した島津軍に敵わず
尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。

この後王や三司官ら琉球王国の高官たちは薩摩に連行され
琉球統治に関する起請文に署名するように求められた。

他の高官たちが次々と署名していく中
「自由なくして生きるかい無し」とただ一人突っぱねたのが謝名親方であった。

島津氏は謝名親方を釜茹でにして処刑することとした。
処刑のとき謝名親方は脇にいた二人の刑吏の髻を掴むと
自ら煮えたぎる釜に身を投じた。
これに感動した尚寧王は、釜の中でぐるぐると絡まりあった三つの亡骸から
尚氏の家紋を「左三つ巴(ヒジャイグムン)」としたという。




504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:28:55 ID:ARCNXVlR
>>503
撃退したのはあくまでも別働隊で、島津の主力はあっさりと運天港から上陸して、ほとんどなんの抵抗もないまま
首里にまで迫ってしまった。なぜなら、
島津勢の上陸地点は那覇港のみと判断して、琉球軍の全兵力(2000人)を那覇と首里に集結させていたため・・・
というと悪い話になるな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:29:00 ID:Y1cMcW/p
いかにも琉球人の願望が作った逸話だな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:29:06 ID:QCqwVLbZ
どの辺がいい話?

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:45:29 ID:lmyC8c4t
もし悪久がいなかったら、沖縄は完全に中国領だったね。
政宗とか三歳がいなくても現在の日本に大して影響無かったけど
悪久が存在しなかったら歴史は大きく違ってた

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:53:44 ID:ARCNXVlR
>>507
ただ悪久は「首里で籠城された場合には、速やかに撤退しろ」とも命令を出してたんで、場合によっちゃ悪久が居ても
どうしようもなかった可能性もあったけどね。結果はご存じのとおりですが

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 19:01:55 ID:qaIgK9BW
歴史は偶然と必然の積み重ねだけど、
琉球の日本化は必然だと思う
誰が薩摩藩主でも琉球には攻めて行ったのではないか

510 名前:小田氏治[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 19:06:39 ID:pAiJvfLZ
速やかに琉球を併合する!

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 19:15:16 ID:ARCNXVlR
でもまあ、沖縄本島は頑張った方なんだよ

奄美大島・・・要塞の門を手筒で破壊されて、ビビッてしまいあっさり降伏
喜界島・・・攻撃ルートにする予定もなかったけど、勝手に降伏
沖永良部島・・・周囲をサンゴ礁に囲まれた天然の要害なため、大型船が接近できないから負けないと思ってたら、
高波に乗ってあっさり上陸
          即座に降伏

それに比べたら、まだ頑張った方かと。徳之島?聞かないで

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 19:32:34 ID:MTn8HmrH
亀井さんがアップをはじめました

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 20:21:46 ID:LoZun9NJ
>>503
なんとなく眉間尺の焼き直しの気が

てきとうあらすじ
戦国時代、楚王が名刀匠の莫耶に命じて刀を作らせた。
莫耶は一組の刀をつくりあげたが、片方の刀のみを楚王に献上し、もう一振りは妻の干将に
預けた。それを知った楚王は莫耶を殺し、片割れを求めたが、干将は莫耶の子を宿したまま逃亡。
やがて干将莫耶の子供は、眉の間が一尺もあるほどの巨人に成長したため「眉間尺」と呼ばれた。
眉間尺は父の仇、楚王を討とうとしたがこれを知った楚王は眉間尺に懸賞金をかけた。
逃亡している眉間尺のもとに旅人が現れ、言った。
「お前の首を渡せ。そうすれば代わりに私が仇討をする」
眉間尺は快く自刎し、旅人は眉間尺の首を持って王のもとへ出向いた。
喜んだ王は沸騰した鍋の中に眉間尺の首を入れたが、なぜか煮崩れしないままであった。
不審に思った王が鍋を覗いた瞬間、旅人は王の首をはね、首を鍋に落とした。
王の側近も慌てて旅人の首をはねたため、鍋は眉間尺、王、旅人の三つの首が入ることとなった。
結果、鍋からはぼろぼろとなった三つの首が出てきたが、どれが王の首か判断できなかったため、
三つの首を王墓に葬ることとなり、眉間尺の復讐はなった。

いろいろツッコみたいし、この話も荊軻・樊於期・始皇帝の焼き直しの気がするが気にしない。

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 23:22:23 ID:CITQ/8+r
悪久本人はそこに弱そうな獲物がいたから本能のままに狩ったまでで
後世に与える影響なんか考えてなかったろ

ヘンリー8世が離婚したいという理由で国教会始めたけど、後世に宗教改革として
扱われてるようなもんだ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 23:30:45 ID:dS6Xp7vh
>>511
>徳之島?聞かないで
どうして肝心のそこを飛ばすw

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 23:34:32 ID:NiXaZ5ex
琉球の風で奄美だったかの戦闘で、住民が熱湯を島津兵にかけてるシーンを思いだした
この大河で琉球について興味持ったんだよな。今キャスト見直してみたらさりげなく謝名親方いたわ
江守徹が演じてたとは知らなかった

戦国時代の空手マスターの話

2010年07月27日 00:00

尚真   
178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 16:14:23 ID:ICHZWcj2
戦国時代の空手マスターの話

琉球王家には三振りの宝刀「千代金丸」「治金丸」「北谷菜切」が伝来し、現在は那覇市歴史博物館の
所蔵となり、国宝に指定されている。
このうち治金丸は、1522年に宮古島の豪族から献上されたものだという。

琉球王尚真がある時この刀を見たところ、異常が(多分、錆びでしょう)あったので阿波根実基(あはごん・じっき)、
唐名(中国風の漢字名)虞建極を遣わして、京都の研ぎ師に研がせることにした。
刀を受け取って琉球に帰ったのだが、実は研ぎ師が刀身をすり替えて、偽物を鞘に入れていたのだった。

無事帰り着いて、王に報告したが、王妃が刀を抜いて見たところ、全く違う刀である。
そこで阿波根は、取り返すまで帰ってくるなと命令されたのであった。

再び京都に戻っても、あの研ぎ師は行方をくらませてしまっていた。それにもめげず心を込めて探索を続け、
策も用いた上で遂に取り返した時は、3年の月日が流れていた。

琉球に戻った阿波根は王からのお褒めと周囲の賞賛を受けて、以後は「京阿波根」と呼ばれるようになった。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 16:16:24 ID:ICHZWcj2
しかしここからが悪い話。
真直ぐな性格なので周りとぶつかることが多く、遂に讒言を真に受けた王は、京阿波根の暗殺を決意する。
京阿波根は殿中に招かれ、茶を馳走されたが、王の命を受けた少年に、隙を狙って短刀で刺されてしまった。
丸腰の京阿波根は、素手で暗殺者の少年の股間を粉砕し、城外に逃げ出したがそこで力尽きて倒れたという。

琉球の正史「球陽」でのこの場面の記述、「手に寸鉄無く、但空手を以て童子の両股を折破し」が文献上、
素手(空手)の技での格闘の初出である。これにより、京阿波根が琉球空手の祖と言われている。

京都で空手使いが3年間も冒険活劇をしていたなんていうのは、誰か小説にでもしてくれないかと思う。
尚真王の在位が1526年までなので(旧暦年末に逝去してるので、本によっては新暦換算で27年初になってます)、
1522年~1526年までの内の3年間てことでしょうか。

ところで琉球時代の沖縄の名前は面倒で・・
阿波根というのは、阿波根村の地頭ということですから、出世して領地が変わると名乗りも変わります。
だから、血縁関係にない阿波根さんが同時代の記録に複数存在したりするわけですね。
まあ、日本の○○守みたいなもんですが。

関連
宮古山の鯖祖氏玄雅宝剣を献上す
慶世村恒任『宮古史伝』より、 桃太郎の鬼退治のお話


180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 18:00:44 ID:Ka7/v23d
>>179
股間というか両大腿をへし折ったのかもしれんね。    空手は唐手・・・なんて謂いもあったな

徳之島、琉球侵攻の際の話

2010年04月26日 00:03

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 06:06:48 ID:lMkSWrwp
スーパーサイヤ人化した薩摩隼人ですら足元に及ばなかったという噂の徳之島の逸話ってありませんか?




383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 08:41:39 ID:Mu3Dz5ZV
琉球侵攻の際の話

1609年3月、島津勢は80隻3000人の軍勢で山川港を出発、奄美大島を征服し、喜界島から降伏の使者を
受け入れた後に徳之島を目指し、20日には東側の秋徳という港に上陸した。ここでは琉球王府の役人である
佐武良兼(さぶろうがね)と思呉良兼(うみじろうがね)の兄弟が兵を備えて待ち構えていた。
農民たちも、木の棒や包丁をくくりつけた竹で武装したいたという。
佐武良兼は、身の丈七尺二寸(220cm)の大男で三尋(約3m)の棒を持っていたという。
彼らは上陸してきた島津勢に襲いかかり、北郷久武の配下の6、7人、船頭6人を討ち取った。篠川勘津という
70歳の老人は、島津兵3人を討ち取って戦死という奮戦ぶり。苦戦する島津勢だったが、渋谷丹後守が鉄砲で
佐武良兼を討ち取ると形勢は逆転する。弟の思呉良兼も戦死し、戦に参加した農民も皆殺しにされた。
その数は数百人にのぼったとされる。
その後、徳之島は降伏し、沖永良部島も戦わずして降伏した。即座に降伏した沖永良部島の住民は樺山久高から
「馬鹿ども」と罵られたという。しかし、悪久さんから「降伏したり無抵抗な者を狼藉、殺害、人取りするな」と
命ぜられていたため、命だけは助かった。勇敢にも抵抗したために、かえって皆殺しにされた
徳之島のちょっと悪い話




384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 09:04:59 ID:uEDaUvXs
ちょっと・・・?

385 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/25(日) 09:07:13 ID:k8F2i2Pl
>>383
この島は何故こうも突出してんだろうな
[ 続きを読む ]

1534年、明の冊封使、陳侃は琉球に足止めされていた

2009年08月14日 00:17

尚清   
357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 11:03:19 ID:8EUgV5rv
1534年、明の冊封使、陳侃は琉球に足止めされていた。

琉球の王、尚清を冊封に来たのだが、その式典が終わった後、尚清王が自分の所に、
さっぱり挨拶に来ないのだ。

しかたなく那覇港近くの天使館(迎賓館)で空しく日々をすごしていると、冊封の式典から
しばらくたったある日、尚清王がようやく陳侃の下に現れた。

尚清「ご無沙汰です!」

陳侃「ご無沙汰じゃないですよ!何で来るのがこんなに遅くなったんですか?
   …もしかして明帝国のことナメてるんじゃないでしょうね!?」

尚清「とんでもない!私はあなたに会いに行きたくてうずうずしてたんですけど…、
   この那覇にね、あの連中が滞在してたんですよ。」

陳侃「あの連中?」

尚清「日本人」

陳侃「日本人!」

尚清「あいつら狡猾で、私があなたに会いに出向いたなんて聞いたら、何して来るかわかんないじゃ
   ないですか?それが怖くて宮殿から出られなかったんですけど、彼らが那覇から出港して
   くれたんで、ようやくこちらに出向けたってわけなんです。
   決して明をナメたり、礼を怠ったりしてたわけじゃないですよ!」

陳侃「それじゃあしょうがない。」


この「日本人」と言うのは、倭寇集団のようです。
尚清王が実際に、倭寇が滞在していたから陳侃に合いに行けなかったのか、それとも
なにか他に会いたくない理由があって、その言い訳に倭寇のことを言ったのか解りませんが、
明の官吏にも、この言い訳が十分に通用するほど、倭寇というものは、琉球の主権者である
王にすらコントロールできない存在だったらしい、と言うことが伺えるお話。





358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 11:19:28 ID:xpNgjHgt
いや、賊なんだから追い払えよ尚清…

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 12:09:35 ID:9lZfcFiM
いやいや、琉球にとっては倭寇もいわば、「お得意様」だから……。

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 12:26:15 ID:2Ik6udOJ
中継貿易で栄えてるから仕方ない
出荷した荷物がなぜか戻ってくる

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 12:44:45 ID:JYDFQhg9
なにそのコロンビアのエメラルド採掘ビジネスw

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 12:50:50 ID:T1B3Rs9j
>>357
このあと積極的な対倭寇政策に乗り出している。

というか尚清は前王の5男だったために即位から8年も冊封を受けられなかった。
倭寇がここまでになってしまったのもそのせいだったのかも。

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 13:09:49 ID:39LntXSS
寄港地ってのは安全を保障する/される代わりに
置いてくモンは置いてかないといけないからな

364 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/13(木) 16:04:42 ID:6uWEsi+H
    

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 18:18:45 ID:89i+MP03
>>363
海峡の都市・マラカなんかは、近くを通った船を無理矢理寄港させて稼いでいたからね。


サツマイモ事始・いい話

2009年06月18日 00:09

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/17(水) 14:03:22 ID:vKdMXfzQ
サツマイモ事始

琉球王国の官士に、野国総管(のぐにそうかん)という人がいた。
1605年の事。彼が明に進貢船で使節として派遣された折、ある地方で飢饉が起こったが、
「蕃藷」と言う、外国から来た芋のおかげで多くの命が助かった、と言う話を聞いた。
そこでこの芋の苗を三品種ほど分けてもらい、琉球へと持ち帰り、故郷の野国村で栽培を始めた。

やがてその事を、琉球王族でもある儀間真常と言う人が聞きつけ、野国から芋の苗を分けてもらい、
自分の領地である垣花村にてその栽培法の研究を始めた。
琉球におけるこの芋の栽培は、少しずつ広まっていった。

数年後、琉球に大飢饉が起こった。
多くの人々が飢えて死んだ。が、蕃藷を栽培していた村では、
一人の餓死者も出なかった。

このことから儀間真常は、琉球王に蕃藷栽培の重要性を説き、その進言は容れられ
琉球全土で蕃藷の栽培が行われるようになった。

それから100年後、1705年に、薩摩国揖宿郡の漁師である前田利右衛門は、この琉球の人々が
普段から食べている芋に興味を持ち、苗を分けてもらい栽培を開始。やがてこれが薩摩全土、
そして日本全体に広がり、「サツマイモ」の名称で呼ばれるようになった。

那覇市奥武山公園内にある世持神社では今も、琉球、そして日本のサツマイモの祖である
野国総管と儀間真常が、大切に祀られている。





内間金丸の下克上・いい話?

2009年06月14日 00:08

尚円   
433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 00:30:44 ID:RV/xiPhy

沖縄絡みで一話


伊是名島に内間金丸という男がいた。
農民出身であったが中々優秀な人物であったようで、首里に渡り、
当時は越来王子であった尚泰久に仕えるようになった。
国王となった尚泰久に信頼され御物城御鎖之側(交易品の保管責任者、
琉球王朝では超重要職)にまで出世した。
しかし尚泰久が亡くなると、冷遇されるようになり半ば強制的に引退させられた。
※尚泰久の後を継いだ尚徳はまだ若く(即位した時21歳)何かにつけ意見する金丸を
煙たがったらしい。


やがて尚徳が亡くなり三司官(琉球王朝に宰相に当たる役職)が尚徳の世継を
王位につけようとしたところ諸臣が猛反対し終にはクーデターを起こした。彼らは口々に
「物呉ゆしど吾御主、内間御鎖ど吾御主」(我々の生活を安定させる人こそ我々の君主、
内間にすむ人こそ我等が君主)と叫び世継及び母親の王妃を殺害。
他の王族を追放し、内間御殿に隠居していた金丸を王位に推戴した。

こうして群臣に擁立され金丸は名前を尚円と新ため第二尚王朝を開くこととなった。




彼の息子尚真の時代、琉球王朝は黄金期を迎える事となるのだが それはまた別のお話。




434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 02:21:04 ID:BWvEbJA/
戦国の話だから一応時期関係も一寸。

418は尚巴志王在位時代は1421年~1439年
433は内間金丸(尚円王)在位時代は1469~1476年ですな

435 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/13(土) 02:23:15 ID:gPNjHhx3
>>433
ある意味スゲー出世だなw


442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 04:52:00 ID:jITkGZS5
>>433

いつも思うんだ。

> 物呉ゆしど吾御主



>我々の生活を安定させる人こそ我々の君主

と注釈するのは超訳が過ぎるんじゃないかと。


443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/13(土) 05:00:10 ID:SIyjeMro
どう訳すのがいいの?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 11:09:00 ID:eRw8rH7W
現代の日本語に訳すなら「ヒャッハー」てとこじゃね?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 11:57:31 ID:SIyjeMro
さすが 4 4 4

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 12:02:46 ID:xAfX75KR
>>433
>世継及び母親の王妃を殺害。
ここだけ取り上げたら全然いい話じゃないなw

>>444
ナイスアシストw

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 13:15:09 ID:YD+uMPXN
>>442
直訳だと「物をくれるやつこそ、わが主君」だからねえ。
あんまりいい話じゃないよね。


琉球、佐敷の小按司・いい話

2009年06月13日 00:03

尚巴志   
418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 19:43:59 ID:TDeqMJxp
逸話というよりは民話ですが…

琉球の島尻郡に、佐敷の小按司、と呼ばれている若い按司(領主)がいた
当代の小按司、家督を継いだものの、母に渡された財産はわらしべ一本だけ
落ちぶれた家には、新当主に渡す財産とて何もなかったのである
彼はそれを持って出掛けていった

しばらく行くと、味噌屋があり、紐が足りないと困っていた
「もしそこの方、よければそのわらしべを譲ってください」
「これは我が家の全財産だ。ただでやるわけにはいかん」
こうして、小按司は一ヘラの味噌と交換した
またしばらく歩くと、鋳かけ屋(修繕屋)が鍋を直すための味噌が足りず、困っていた
「おお、そこのお方(ry」
「これは我が(ry」
味噌は鍋金となった
次に会ったのは鍛冶屋で、地金が足りなかった
小按司は半分を渡し、半分で小刀を打ってもらった
彼は歩きに歩き、ついに与那原の港までやってきた
そこでは唐船が出港するところだったが、錨が海底に引っ掛かって揚がらなくなっていた
「縄を切りたいのでその小刀を(ry」
ここで交換したのは、なんと金屏風であった

さて、佐敷は当時、南山の領域だったが、南山王がこの噂を聞き付けた
「小按司といえば、あの貧乏按司か。金屏風もみすぼらしい屋敷では台なしだ」
王はそんな勝手なことを言い、屏風を献上するよう談じ込んだ

「ほかならぬ王の命ならば従いましょう…ただ、これは我が家の全財産です。
 代わりに与座の井戸を下さるならば差し上げます」
こうして、小按司は島尻郡の重要な水源を手に入れた
しかも水の利用に税をかけたため、彼の家は急激に成長した

やがて、南山王が死ぬと、人々は水を握る小按司を後継者とした
彼は琉球統一を志し、中山、北山を次々に滅ぼし、臣下の身から三山の王となった

佐敷の按司、名を尚巴志という





420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 20:02:57 ID:FpxufV9P
あいつ、わらしべだったのか

421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/12(金) 20:23:46 ID:RNo8aHe8
>>418の話は沖縄県民でどれぐらい知っているのかな?
リアルわらしべ長者の話なんだけど