「薩琉軍記」について

2016年11月16日 22:01

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 16:34:37.11 ID:WRGo2PvK
いい話の方で軍記物の話が出てましたが、やっちゃった感について一例を。

1609年の薩摩の琉球攻略についての軍記物を「薩琉軍記」と総称して研究が進められていますが、
そのうち、目黒将史「架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻」から。(PDFで閲覧できます)
某板某スレで火葬戦記と評されていましたけれども、これは酷いw

琉球は基本的に異国・異世界扱いで、三国志演義の南蛮討伐と世界観が同じようなものですね。
実情はともかく、日本でイメージされていた講談での中国世界そのまま。

島津勢の総数が10万5873、これがまた一々武将名と軍役を挙げてディテールに妙にこだわってる。
対する琉球は高さ34丈の城門など、4里四方の王都に3万騎の軍勢で守備し、もちろんその他にも
相当数の軍勢です。

戦の展開はもうどうでもいいようなもんだけど、戦後の論功行賞で、薩軍が討ち取った首級が2万9307、
損害が1843とか。

数のインフレも異世界だとあんま難しいこと考えないでいいのかなあ。

立教大学学術リポジトリ  目黒将史 架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6639&item_no=1&page_id=13&block_id=49


305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 16:36:05.72 ID:WRGo2PvK
実際の薩摩の琉球攻略の研究では、沖縄の研究者によって最近いろいろと本になったり、歴史雑誌に載せられたりとありましたが、
実のところ史料の扱いに疑義が呈されていたりしますんで難しいものですね。



306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 18:04:58.30 ID:1rlij8XH
>>304
ちょうど今、沖縄に住んでるので興味深いです。
薩摩藩の琉球侵攻についての入門書的なものご存知でしたら、ご教授いただけませんか?

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 19:20:28.25 ID:cznpWbrV
いまの沖縄の人の研究話はそれこそフロイスと同じで話し半分で聞く程度でしかないんじゃ

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 20:17:46.41 ID:LDUIBqx2
>>306
とりあえずこれが一番いいと思う

琉球王国と戦国大名 島津侵入までの半世紀
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b214961.html


309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 20:19:47.78 ID:Iqooltxr
>>306
まず読むならばこれでしょうか。

上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』

著者の出世作で、島津の琉球侵攻が注目される嚆矢ともなりました。
ところが、戦時の当事者の書いた一次史料だけではなく、後になって政治的思惑や顕彰目的で書かれた文書まで
無批判で取り入れているんじゃないかとの批判が出てきました。

琉球王国~その真実の歴史
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/

それを検証したのがこちらのサイトですが、管理人はかなり基地外入った人(本人が自称してるから構わんでしょう)
ですけれども、その論考は確かな説得力があるので評価を得ています。
上記の本を読んでから、サイトに目を通して見ればいいと思います。

それに補足して、>>308も目を通しておけばいいんじゃないでしょうか

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 23:35:16.70 ID:7/SL5c8d
島津の琉球侵攻って
琉球王朝が元亀年間に奄美に侵攻した逆襲じゃないの?

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 07:51:37.39 ID:GDJQT7/A
>>310
そりゃ反応遅すぎだろ

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 01:20:52.31 ID:43f1UwnJ
島津の琉球侵攻と関係ないけど小説の琉球処分は面白かった
著者が琉球政府、沖縄県庁の経済や歴史編集役人を経て沖縄県立博物館長だったので
太政官政府より琉球寄りかもしれないが冒頭は寺田屋事件生麦事件に関係した
奈良原繁が琉球へ赴いたことも書かれており面白かった
もっとも幕末の奈良原繁のことは触れず官吏としてしか書かれているに過ぎないが

316 名前:306[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 18:22:17.68 ID:iAUdVKIa
皆様、情報提供いただきありがとうございました。
ご紹介いただいた書籍やウェブサイトに目を通していきたいと思います。

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島津の琉球侵攻とある日本人武者

2011年02月07日 00:00

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 01:51:00 ID:LcxOVY3w
薩摩島津の琉球攻略、このとき琉球方として首里城正門(歓会門)で最後まで抵抗したのはある日本人武者でした。
彼は越前出身の医師で琉球に帰化し、剃髪し僧体ていたため法師武者と喜安日記には書かれています。

薩軍が首里城に迫ると琉球軍まず越来親方以下百数十人で迎撃にあたります。しかし薩軍の
雨のような鉄砲の前に死者続出。
やむなく退却し首里城にこもることにします。しかし薩軍の首里の町を焼きながらの進軍に琉球王家は
和平交渉を開始します。
那覇の町(首里は政治の中心・那覇は経済の中心)で和平交渉が始まったころ、交渉の最中にもかかわらず
法元二衛門を大将とする軍勢が首里城への攻撃を開始。
この攻撃を止めるべく薩将の市来織部と村尾笑栖が首里城へ駆けつけたところ、正門に立ち抗戦したのが
この法師武者でした。

この法師武者、正門の櫓の上に仁王立ちし
「薩摩の野郎ども、寄せて来たれども、何ほどのことあらん」
と櫓の上から巧みに矢を射掛け薩軍を近づけない。
この状況で薩軍は市来・村尾から、法師武者へは尚寧王より停戦の使者がとどき法師武者は法元に捕らえられます。

この法師武者、法元から
「汝は日本人なり。なぜ日本を忘れて我らと戦うのか?」
と問われ
「自分が琉球王から受けた恩は厚い。今、不幸にして捕虜となり死につく身だが、後悔することは何もない」
と答えます。これを聞いた尚寧王は金銀財宝を出し法師武者の助命を懇願、また法元も感心するにいたり助命された。

彼の名は喜安日記には載っていないが、その後子孫が琉球王朝の御典医・御典薬となったため
「山崎二休」と言う名が伝えられています。

まあ日本を裏切ったってことで悪い話の方に。
たぶん越前を脱出したころは「越前の狂犬」が暴れまわってたころじゃないかなと。





琉球侵攻と謝名親方利山

2010年10月06日 00:00


謝名親方利山


503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:23:28 ID:v3aJbc2V
1609年(慶長14年)、島津氏は琉球へと侵攻した。
この時琉球側の中心となったのが謝名親方利山(じゃな うぇえかた りざん)である。

謝名親方は明よりの帰化人の子孫として那覇近くの久米村に生まれ
官費生として明への留学を果たした後、王の補佐官である三司官の一人となった。

島津氏の琉球侵攻に際し、琉球軍は精一杯の抵抗を示した。
謝名親方も自ら兵を率い、海上より那覇へと迫った島津軍を一度は撃退し
その後故郷久米村の三重城への立てこもり、三日三晩戦い抜いた。

しかし長く平和が続いた琉球の軍は
戦国の世で鍛えられ、最新の鉄砲を装備した島津軍に敵わず
尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。

この後王や三司官ら琉球王国の高官たちは薩摩に連行され
琉球統治に関する起請文に署名するように求められた。

他の高官たちが次々と署名していく中
「自由なくして生きるかい無し」とただ一人突っぱねたのが謝名親方であった。

島津氏は謝名親方を釜茹でにして処刑することとした。
処刑のとき謝名親方は脇にいた二人の刑吏の髻を掴むと
自ら煮えたぎる釜に身を投じた。
これに感動した尚寧王は、釜の中でぐるぐると絡まりあった三つの亡骸から
尚氏の家紋を「左三つ巴(ヒジャイグムン)」としたという。




504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:28:55 ID:ARCNXVlR
>>503
撃退したのはあくまでも別働隊で、島津の主力はあっさりと運天港から上陸して、ほとんどなんの抵抗もないまま
首里にまで迫ってしまった。なぜなら、
島津勢の上陸地点は那覇港のみと判断して、琉球軍の全兵力(2000人)を那覇と首里に集結させていたため・・・
というと悪い話になるな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:29:00 ID:Y1cMcW/p
いかにも琉球人の願望が作った逸話だな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:29:06 ID:QCqwVLbZ
どの辺がいい話?

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:45:29 ID:lmyC8c4t
もし悪久がいなかったら、沖縄は完全に中国領だったね。
政宗とか三歳がいなくても現在の日本に大して影響無かったけど
悪久が存在しなかったら歴史は大きく違ってた

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 18:53:44 ID:ARCNXVlR
>>507
ただ悪久は「首里で籠城された場合には、速やかに撤退しろ」とも命令を出してたんで、場合によっちゃ悪久が居ても
どうしようもなかった可能性もあったけどね。結果はご存じのとおりですが

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 19:01:55 ID:qaIgK9BW
歴史は偶然と必然の積み重ねだけど、
琉球の日本化は必然だと思う
誰が薩摩藩主でも琉球には攻めて行ったのではないか

510 名前:小田氏治[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 19:06:39 ID:pAiJvfLZ
速やかに琉球を併合する!

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 19:15:16 ID:ARCNXVlR
でもまあ、沖縄本島は頑張った方なんだよ

奄美大島・・・要塞の門を手筒で破壊されて、ビビッてしまいあっさり降伏
喜界島・・・攻撃ルートにする予定もなかったけど、勝手に降伏
沖永良部島・・・周囲をサンゴ礁に囲まれた天然の要害なため、大型船が接近できないから負けないと思ってたら、
高波に乗ってあっさり上陸
          即座に降伏

それに比べたら、まだ頑張った方かと。徳之島?聞かないで

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 19:32:34 ID:MTn8HmrH
亀井さんがアップをはじめました

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 20:21:46 ID:LoZun9NJ
>>503
なんとなく眉間尺の焼き直しの気が

てきとうあらすじ
戦国時代、楚王が名刀匠の莫耶に命じて刀を作らせた。
莫耶は一組の刀をつくりあげたが、片方の刀のみを楚王に献上し、もう一振りは妻の干将に
預けた。それを知った楚王は莫耶を殺し、片割れを求めたが、干将は莫耶の子を宿したまま逃亡。
やがて干将莫耶の子供は、眉の間が一尺もあるほどの巨人に成長したため「眉間尺」と呼ばれた。
眉間尺は父の仇、楚王を討とうとしたがこれを知った楚王は眉間尺に懸賞金をかけた。
逃亡している眉間尺のもとに旅人が現れ、言った。
「お前の首を渡せ。そうすれば代わりに私が仇討をする」
眉間尺は快く自刎し、旅人は眉間尺の首を持って王のもとへ出向いた。
喜んだ王は沸騰した鍋の中に眉間尺の首を入れたが、なぜか煮崩れしないままであった。
不審に思った王が鍋を覗いた瞬間、旅人は王の首をはね、首を鍋に落とした。
王の側近も慌てて旅人の首をはねたため、鍋は眉間尺、王、旅人の三つの首が入ることとなった。
結果、鍋からはぼろぼろとなった三つの首が出てきたが、どれが王の首か判断できなかったため、
三つの首を王墓に葬ることとなり、眉間尺の復讐はなった。

いろいろツッコみたいし、この話も荊軻・樊於期・始皇帝の焼き直しの気がするが気にしない。

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 23:22:23 ID:CITQ/8+r
悪久本人はそこに弱そうな獲物がいたから本能のままに狩ったまでで
後世に与える影響なんか考えてなかったろ

ヘンリー8世が離婚したいという理由で国教会始めたけど、後世に宗教改革として
扱われてるようなもんだ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 23:30:45 ID:dS6Xp7vh
>>511
>徳之島?聞かないで
どうして肝心のそこを飛ばすw

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 23:34:32 ID:NiXaZ5ex
琉球の風で奄美だったかの戦闘で、住民が熱湯を島津兵にかけてるシーンを思いだした
この大河で琉球について興味持ったんだよな。今キャスト見直してみたらさりげなく謝名親方いたわ
江守徹が演じてたとは知らなかった

戦国時代の空手マスターの話

2010年07月27日 00:00

尚真   
178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 16:14:23 ID:ICHZWcj2
戦国時代の空手マスターの話

琉球王家には三振りの宝刀「千代金丸」「治金丸」「北谷菜切」が伝来し、現在は那覇市歴史博物館の
所蔵となり、国宝に指定されている。
このうち治金丸は、1522年に宮古島の豪族から献上されたものだという。

琉球王尚真がある時この刀を見たところ、異常が(多分、錆びでしょう)あったので阿波根実基(あはごん・じっき)、
唐名(中国風の漢字名)虞建極を遣わして、京都の研ぎ師に研がせることにした。
刀を受け取って琉球に帰ったのだが、実は研ぎ師が刀身をすり替えて、偽物を鞘に入れていたのだった。

無事帰り着いて、王に報告したが、王妃が刀を抜いて見たところ、全く違う刀である。
そこで阿波根は、取り返すまで帰ってくるなと命令されたのであった。

再び京都に戻っても、あの研ぎ師は行方をくらませてしまっていた。それにもめげず心を込めて探索を続け、
策も用いた上で遂に取り返した時は、3年の月日が流れていた。

琉球に戻った阿波根は王からのお褒めと周囲の賞賛を受けて、以後は「京阿波根」と呼ばれるようになった。


179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 16:16:24 ID:ICHZWcj2
しかしここからが悪い話。
真直ぐな性格なので周りとぶつかることが多く、遂に讒言を真に受けた王は、京阿波根の暗殺を決意する。
京阿波根は殿中に招かれ、茶を馳走されたが、王の命を受けた少年に、隙を狙って短刀で刺されてしまった。
丸腰の京阿波根は、素手で暗殺者の少年の股間を粉砕し、城外に逃げ出したがそこで力尽きて倒れたという。

琉球の正史「球陽」でのこの場面の記述、「手に寸鉄無く、但空手を以て童子の両股を折破し」が文献上、
素手(空手)の技での格闘の初出である。これにより、京阿波根が琉球空手の祖と言われている。

京都で空手使いが3年間も冒険活劇をしていたなんていうのは、誰か小説にでもしてくれないかと思う。
尚真王の在位が1526年までなので(旧暦年末に逝去してるので、本によっては新暦換算で27年初になってます)、
1522年~1526年までの内の3年間てことでしょうか。

ところで琉球時代の沖縄の名前は面倒で・・
阿波根というのは、阿波根村の地頭ということですから、出世して領地が変わると名乗りも変わります。
だから、血縁関係にない阿波根さんが同時代の記録に複数存在したりするわけですね。
まあ、日本の○○守みたいなもんですが。





180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 18:00:44 ID:Ka7/v23d
>>179
股間というか両大腿をへし折ったのかもしれんね。    空手は唐手・・・なんて謂いもあったな

徳之島、琉球侵攻の際の話

2010年04月26日 00:03

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 06:06:48 ID:lMkSWrwp
スーパーサイヤ人化した薩摩隼人ですら足元に及ばなかったという噂の徳之島の逸話ってありませんか?




383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 08:41:39 ID:Mu3Dz5ZV
琉球侵攻の際の話

1609年3月、島津勢は80隻3000人の軍勢で山川港を出発、奄美大島を征服し、喜界島から降伏の使者を
受け入れた後に徳之島を目指し、20日には東側の秋徳という港に上陸した。ここでは琉球王府の役人である
佐武良兼(さぶろうがね)と思呉良兼(うみじろうがね)の兄弟が兵を備えて待ち構えていた。
農民たちも、木の棒や包丁をくくりつけた竹で武装したいたという。
佐武良兼は、身の丈七尺二寸(220cm)の大男で三尋(約3m)の棒を持っていたという。
彼らは上陸してきた島津勢に襲いかかり、北郷久武の配下の6、7人、船頭6人を討ち取った。篠川勘津という
70歳の老人は、島津兵3人を討ち取って戦死という奮戦ぶり。苦戦する島津勢だったが、渋谷丹後守が鉄砲で
佐武良兼を討ち取ると形勢は逆転する。弟の思呉良兼も戦死し、戦に参加した農民も皆殺しにされた。
その数は数百人にのぼったとされる。
その後、徳之島は降伏し、沖永良部島も戦わずして降伏した。即座に降伏した沖永良部島の住民は樺山久高から
「馬鹿ども」と罵られたという。しかし、悪久さんから「降伏したり無抵抗な者を狼藉、殺害、人取りするな」と
命ぜられていたため、命だけは助かった。勇敢にも抵抗したために、かえって皆殺しにされた
徳之島のちょっと悪い話




384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 09:04:59 ID:uEDaUvXs
ちょっと・・・?

385 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/25(日) 09:07:13 ID:k8F2i2Pl
>>383
この島は何故こうも突出してんだろうな
[ 続きを読む ]

1534年、明の冊封使、陳侃は琉球に足止めされていた

2009年08月14日 00:17

尚清   
357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 11:03:19 ID:8EUgV5rv
1534年、明の冊封使、陳侃は琉球に足止めされていた。

琉球の王、尚清を冊封に来たのだが、その式典が終わった後、尚清王が自分の所に、
さっぱり挨拶に来ないのだ。

しかたなく那覇港近くの天使館(迎賓館)で空しく日々をすごしていると、冊封の式典から
しばらくたったある日、尚清王がようやく陳侃の下に現れた。

尚清「ご無沙汰です!」

陳侃「ご無沙汰じゃないですよ!何で来るのがこんなに遅くなったんですか?
   …もしかして明帝国のことナメてるんじゃないでしょうね!?」

尚清「とんでもない!私はあなたに会いに行きたくてうずうずしてたんですけど…、
   この那覇にね、あの連中が滞在してたんですよ。」

陳侃「あの連中?」

尚清「日本人」

陳侃「日本人!」

尚清「あいつら狡猾で、私があなたに会いに出向いたなんて聞いたら、何して来るかわかんないじゃ
   ないですか?それが怖くて宮殿から出られなかったんですけど、彼らが那覇から出港して
   くれたんで、ようやくこちらに出向けたってわけなんです。
   決して明をナメたり、礼を怠ったりしてたわけじゃないですよ!」

陳侃「それじゃあしょうがない。」


この「日本人」と言うのは、倭寇集団のようです。
尚清王が実際に、倭寇が滞在していたから陳侃に合いに行けなかったのか、それとも
なにか他に会いたくない理由があって、その言い訳に倭寇のことを言ったのか解りませんが、
明の官吏にも、この言い訳が十分に通用するほど、倭寇というものは、琉球の主権者である
王にすらコントロールできない存在だったらしい、と言うことが伺えるお話。





358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 11:19:28 ID:xpNgjHgt
いや、賊なんだから追い払えよ尚清…

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 12:09:35 ID:9lZfcFiM
いやいや、琉球にとっては倭寇もいわば、「お得意様」だから……。

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 12:26:15 ID:2Ik6udOJ
中継貿易で栄えてるから仕方ない
出荷した荷物がなぜか戻ってくる

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 12:44:45 ID:JYDFQhg9
なにそのコロンビアのエメラルド採掘ビジネスw

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 12:50:50 ID:T1B3Rs9j
>>357
このあと積極的な対倭寇政策に乗り出している。

というか尚清は前王の5男だったために即位から8年も冊封を受けられなかった。
倭寇がここまでになってしまったのもそのせいだったのかも。

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 13:09:49 ID:39LntXSS
寄港地ってのは安全を保障する/される代わりに
置いてくモンは置いてかないといけないからな

364 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/13(木) 16:04:42 ID:6uWEsi+H
    

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 18:18:45 ID:89i+MP03
>>363
海峡の都市・マラカなんかは、近くを通った船を無理矢理寄港させて稼いでいたからね。


サツマイモ事始・いい話

2009年06月18日 00:09

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/17(水) 14:03:22 ID:vKdMXfzQ
サツマイモ事始

琉球王国の官士に、野国総管(のぐにそうかん)という人がいた。
1605年の事。彼が明に進貢船で使節として派遣された折、ある地方で飢饉が起こったが、
「蕃藷」と言う、外国から来た芋のおかげで多くの命が助かった、と言う話を聞いた。
そこでこの芋の苗を三品種ほど分けてもらい、琉球へと持ち帰り、故郷の野国村で栽培を始めた。

やがてその事を、琉球王族でもある儀間真常と言う人が聞きつけ、野国から芋の苗を分けてもらい、
自分の領地である垣花村にてその栽培法の研究を始めた。
琉球におけるこの芋の栽培は、少しずつ広まっていった。

数年後、琉球に大飢饉が起こった。
多くの人々が飢えて死んだ。が、蕃藷を栽培していた村では、
一人の餓死者も出なかった。

このことから儀間真常は、琉球王に蕃藷栽培の重要性を説き、その進言は容れられ
琉球全土で蕃藷の栽培が行われるようになった。

それから100年後、1705年に、薩摩国揖宿郡の漁師である前田利右衛門は、この琉球の人々が
普段から食べている芋に興味を持ち、苗を分けてもらい栽培を開始。やがてこれが薩摩全土、
そして日本全体に広がり、「サツマイモ」の名称で呼ばれるようになった。

那覇市奥武山公園内にある世持神社では今も、琉球、そして日本のサツマイモの祖である
野国総管と儀間真常が、大切に祀られている。





内間金丸の下克上・いい話?

2009年06月14日 00:08

尚円   
433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 00:30:44 ID:RV/xiPhy

沖縄絡みで一話


伊是名島に内間金丸という男がいた。
農民出身であったが中々優秀な人物であったようで、首里に渡り、
当時は越来王子であった尚泰久に仕えるようになった。
国王となった尚泰久に信頼され御物城御鎖之側(交易品の保管責任者、
琉球王朝では超重要職)にまで出世した。
しかし尚泰久が亡くなると、冷遇されるようになり半ば強制的に引退させられた。
※尚泰久の後を継いだ尚徳はまだ若く(即位した時21歳)何かにつけ意見する金丸を
煙たがったらしい。


やがて尚徳が亡くなり三司官(琉球王朝に宰相に当たる役職)が尚徳の世継を
王位につけようとしたところ諸臣が猛反対し終にはクーデターを起こした。彼らは口々に
「物呉ゆしど吾御主、内間御鎖ど吾御主」(我々の生活を安定させる人こそ我々の君主、
内間にすむ人こそ我等が君主)と叫び世継及び母親の王妃を殺害。
他の王族を追放し、内間御殿に隠居していた金丸を王位に推戴した。

こうして群臣に擁立され金丸は名前を尚円と新ため第二尚王朝を開くこととなった。




彼の息子尚真の時代、琉球王朝は黄金期を迎える事となるのだが それはまた別のお話。




434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 02:21:04 ID:BWvEbJA/
戦国の話だから一応時期関係も一寸。

418は尚巴志王在位時代は1421年~1439年
433は内間金丸(尚円王)在位時代は1469~1476年ですな

435 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/13(土) 02:23:15 ID:gPNjHhx3
>>433
ある意味スゲー出世だなw


442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 04:52:00 ID:jITkGZS5
>>433

いつも思うんだ。

> 物呉ゆしど吾御主



>我々の生活を安定させる人こそ我々の君主

と注釈するのは超訳が過ぎるんじゃないかと。


443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/13(土) 05:00:10 ID:SIyjeMro
どう訳すのがいいの?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 11:09:00 ID:eRw8rH7W
現代の日本語に訳すなら「ヒャッハー」てとこじゃね?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 11:57:31 ID:SIyjeMro
さすが 4 4 4

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 12:02:46 ID:xAfX75KR
>>433
>世継及び母親の王妃を殺害。
ここだけ取り上げたら全然いい話じゃないなw

>>444
ナイスアシストw

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 13:15:09 ID:YD+uMPXN
>>442
直訳だと「物をくれるやつこそ、わが主君」だからねえ。
あんまりいい話じゃないよね。


琉球、佐敷の小按司・いい話

2009年06月13日 00:03

尚巴志   
418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 19:43:59 ID:TDeqMJxp
逸話というよりは民話ですが…

琉球の島尻郡に、佐敷の小按司、と呼ばれている若い按司(領主)がいた
当代の小按司、家督を継いだものの、母に渡された財産はわらしべ一本だけ
落ちぶれた家には、新当主に渡す財産とて何もなかったのである
彼はそれを持って出掛けていった

しばらく行くと、味噌屋があり、紐が足りないと困っていた
「もしそこの方、よければそのわらしべを譲ってください」
「これは我が家の全財産だ。ただでやるわけにはいかん」
こうして、小按司は一ヘラの味噌と交換した
またしばらく歩くと、鋳かけ屋(修繕屋)が鍋を直すための味噌が足りず、困っていた
「おお、そこのお方(ry」
「これは我が(ry」
味噌は鍋金となった
次に会ったのは鍛冶屋で、地金が足りなかった
小按司は半分を渡し、半分で小刀を打ってもらった
彼は歩きに歩き、ついに与那原の港までやってきた
そこでは唐船が出港するところだったが、錨が海底に引っ掛かって揚がらなくなっていた
「縄を切りたいのでその小刀を(ry」
ここで交換したのは、なんと金屏風であった

さて、佐敷は当時、南山の領域だったが、南山王がこの噂を聞き付けた
「小按司といえば、あの貧乏按司か。金屏風もみすぼらしい屋敷では台なしだ」
王はそんな勝手なことを言い、屏風を献上するよう談じ込んだ

「ほかならぬ王の命ならば従いましょう…ただ、これは我が家の全財産です。
 代わりに与座の井戸を下さるならば差し上げます」
こうして、小按司は島尻郡の重要な水源を手に入れた
しかも水の利用に税をかけたため、彼の家は急激に成長した

やがて、南山王が死ぬと、人々は水を握る小按司を後継者とした
彼は琉球統一を志し、中山、北山を次々に滅ぼし、臣下の身から三山の王となった

佐敷の按司、名を尚巴志という





420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 20:02:57 ID:FpxufV9P
あいつ、わらしべだったのか

421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/12(金) 20:23:46 ID:RNo8aHe8
>>418の話は沖縄県民でどれぐらい知っているのかな?
リアルわらしべ長者の話なんだけど