伊東家による宮崎城攻め

2017年02月23日 10:18

668 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 23:37:40.04 ID:KEyHajol
当家(伊東家)が(西軍についた高橋家の飛び地の)宮崎城を攻めるという内容が島津家に届いた為、(島津領の)穆佐、倉岡、綾、木脇の諸将は会合して「もし本当であれば佐土原と申し合わせて宮崎城に援軍を出し、その勢いのまま(伊東家の)清武城を攻め取ろう」と佐土原に伝えた。

佐土原もまた同様に評議して軍を準備しているところに宮崎城が落城したという内容が届いたので途方に暮れる限りであった。

縣(延岡城)の高橋家でも家老の花田備後守が宮崎城での急を聞いて不安に思ったので加勢として士卒雑兵合わせて300人余りを向かわせた。

しかし穂北村に到着した夜、宮崎城が落城して城代の権藤父子を始め城兵が残らず討ち死にしたという報告を聞いたので肩をおとして空しく引き上げた。

669 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 23:38:12.24 ID:KEyHajol
掃部助(稲津重政、伊東家の家臣)が考えたように、陣立てに時間がかかり宮崎城が一日持ちこたえるようなことがあれば、敵の援軍が次々と競い集まり容易に攻め落とすことは難しかったはずである。

掃部助の用兵は雷風の速さのようで、神速で攻め寄せた為に狙い通り僅か子の上刻から卯の上刻(23時から5時)までの間に城を攻め落とす大功を成した。

特に夜襲であれば必ず同士討ちがおこるものなのに雑兵に至るまでその誤りが無かったのは、朝鮮の陣以来伊東祐兵公が士卒と辛苦を共にし、家中の士もまた今一度主君を一国の主にしようと各々勇を奮い立たせ一致団結した為に巧みな駆引をしてこのようになったのだ。

黒田如水の検使、宮川伴左衛門も
「掃部助の軍略は言うに及ばず家中の諸士の勇敢なる振る舞いは筑紫の立花家の家風によく似ている」
「島津は大敵といえども恐れるに足らず。この旨を帰国して如水様に申し上げなくてはならない」
と褒め称えること限りないこととなった。

(日向纂記)

関ヶ原の裏で起きた伊東家による宮崎城攻めとそれを如水の検使が評して


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飫肥城引き渡し

2016年11月09日 13:35

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 20:32:26.56 ID:ZmqVOuEJ
天正15年、伊東祐兵豊臣秀吉より飫肥を拝領したが、島津家の将である上原長門守(尚近)は飫肥城から
退去せず、引き渡そうとする気色もなかった。

伊東家はその年の8月初めより川崎又右衛門尉を大将、川崎宮内左衛門尉を副えて郷原水城に陣を取り、
上原を説得したが、彼はこれに従おうとせず、あまつさえ8月10日には軍勢を出して、郷原において
苅田を行った。

伊東勢もこれに打って出て、飫肥城勢を広木田まで追い詰め、大勢を討ち取って引き上げた。しかし味方にも、
桜木藤七兵衛尉、海老原清左衛門尉の両名が討ち死にした。

この事は豊臣秀吉に報告され、秀吉は早速、土井九右衛門尉を上使として飫肥に差し下した。
土井九右衛門尉は豊臣家の朱印を持って、同年12月13日、飫肥に到着した。
彼は上使であったので一の城戸を騎乗のまま乗り通り、二の城戸まで乗り通ろうとした所で、
上原の門卒たちが「乗打無礼なり!」と腹を立て、九右衛門尉を始めとしてその一行のうち13人を
惨殺した。その時は伊東家からも、平原河内守、松浦甚助が案内者として同行していたが、平原は
殺され、松浦は生け捕りにされ、のちに解放された。

上原長門守は門卒たちの濫妨を聞いて驚愕した
「上使を殺した罪は逃れがたい!お前たちは私の首を斬ったのと同じであるぞ!」
そう悔やんだが及ばず、程なくこの事件は秀吉に聞こえた。

秀吉は激怒し、即座に上原長門守を召喚した。
上原は、とても逃れられないと思ったか、嫡子城之介を名代として大阪に上らせたが、上使を殺した罪により、
この嫡子が斬罪となった。
飫肥城は天正16年閏5月3日、伊東家に引き渡された。

(日向纂記)

島津家の上原尚近、よりによって秀吉の上使を無礼討ちにしたというお話。



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 23:42:29.86 ID:RvUCPlAS
息子を斬らせて助かるなんて…

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 04:27:01.27 ID:LHaGcvNP
???「子供なんていくらでも産めばいいのよ」

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 04:55:48.51 ID:oIThLz4f
何そのカテリーナ・スフォルツァ

情け無いことであると申さぬ者はいなかった。

2016年10月18日 18:34

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/17(月) 21:00:40.31 ID:zpQa4NRC
>>218の続き

永正7年、伊東尹祐が家臣・垂水又六より奪った、福永伊豆守祐炳の娘が懐妊した。
尹祐は重臣である長倉若狭守祐正と垂水但馬守の両名を召して言った
「今度産まれてくる子が万一男子であれば、嫡子に定める。」
これに両人は反対した

「先年、申し上げたことがあります。天に二つの日はなく、国に二人の主はありません。
既に桐壷様(中村氏娘)が産まれた若君様に嫡男としての御祝いを上げています。
であるのに今更福永腹の若君を立てられることは良いとは思えません。」

これに尹祐は腹を立てた。この頃、長倉若狭守は綾という地の地頭であったが、尹祐の
寵臣である稲津越前守重頼がかねてよりこの職を望んでおり、稲津は尹祐の感情が悪化している
のを幸いに、二人を様々に讒言した。尹祐もこれに煽られ怒り甚だしく、長倉と垂水は
身の危険を感じ、同年九月朔日、綾城に立て籠もった。これに対し尹祐は宮原まで自身出馬し、
綾城を攻め立て、十月十七日、二人は遂に切腹して果てた(綾の乱)

この乱の最中の九月十三日、福永娘は男児を産んだ。幼名を虎乗丸。後の伊東祐充である。
尹祐はこの子を寵愛し家督を譲るつもりであったので、常々桐壺の産んだ子を悪み、殺害する
心があった。

その後、永正十四年十一月十四日、桐壷の子が尹祐の御前に出た時、尹祐は怒り出し
彼を追いかけた。まだ子供である桐壺の子は声を上げて泣き出し、庭前に走って逃げた。
近習の士である上別府某と弓削摂津介がこの子に走り寄って抱きかかえた。
尹祐は縁側に出て命じた「それを殺せ!」
弓削摂津介はこの命を奉り、彼を殺害した。この時この桐壺の子は、十四歳であったという。
(日向記では十二歳という)

情け無いことであると申さぬ者はいなかった。

(日向纂記)



以ての外なる行跡である。

2016年10月17日 11:55

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 20:47:21.16 ID:wZGJMEJ2
永正の頃、日向・伊東尹祐の家中に福永伊豆守祐炳という者があり、尹祐は彼を寵遇のあまり、
召し使っていた女を与えるほどであった。やがてこの女は一人の女児を産んだ。この女児は7,8歳の頃より
伊東家の奥で召し使われ、14,5歳に及んで垂水又六に嫁いだ。
ところが、尹祐は何を思ったか、この女を自分に遣わすよう又六に所望した。

又六は答えた
「我が妻が未だ福永の家に居るうちならば、上意に従い奉るべきでしょう。ですが今既に私の所に
嫁いで来ています。この上は御免下さるべきです。」

しかし尹祐は承知しなかったため、又六は急ぎ妻を引き連れて知行地の三宅に下った。尹祐もこれを聞くと
又六の後を追い三宅に向かおうとした。この時近習の者が急ぎ使いを立てて、重臣である落合駿河守に知らせ、
まず伊東尹祐を寺に待機してもらい、そこに暫くして落合駿河守が参った。尹祐は面目無く思ったのか、
落合の姿を見ると奥の一間に入ってしまった。その尹祐に落合は声を荒げて言った

「御祖父惣昌院殿(祐堯)が国を治められたあと、御父光照院殿(祐国)は気ままにわたらされ、
飫肥楠原の陣にて御家に困難を引き出されました。しかし飫肥の代地として庄内千町を御知行あってこそ、
御家の難も少しは緩むというのに、今また君の御気ままにては、怠慢であり然るべからざる物です!

我らは、西南には薩摩の大敵を受け、北は豊後梓峠一つを隔てて大友の強敵があります。決して
油断あるべき時節ではありません。今は先ず、国家を固められる御工夫こそ必要なのです!」

尹祐はこれを聞いて面目なく思ったのか。にわかに寺の後門より抜け出て、都於郡に帰城した。
落合駿河守もその後に従い、登城して御前に進み

「恐れながら先刻申し上げたことを、御承知下されありがたく存じ奉ります。」
そう涙を流して申し上げた。これを尹祐は黙然と聞いていたが、暫くして

「あの女を所望したのは私の本心ではないので。実は福永伊豆守が勧めたのだ。」

この言葉が垂水又六の一族に伝わると、彼らは評議の上、又六に勧めてその妻を離縁させた。
その後、尹祐が瀧の天神に参詣したおり、福永の邸宅に立ち寄り、この女を連れて帰った。

以ての外なる行跡である。

(日向纂記)

続き
情け無いことであると申さぬ者はいなかった。


219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 23:41:44.30 ID:KB/bRNLL
落とし胤だったか

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/17(月) 10:03:00.92 ID:IziOomWy
輝元「その手があったか!」
宗麟「メモメモ」

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/17(月) 16:09:05.57 ID:hV4rsN2C
>>218
よくわからん、ただの横恋慕?

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/17(月) 16:19:59.53 ID:FNw7DcIn
母と娘両方とすることは畜生の所業のはず

五月八日、順風を待っていた所

2016年07月16日 17:48

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 21:07:49.80 ID:TKcwYwA0
元和元年四月、関東と大阪が再び手切れと成り、両将軍家は関東より、大阪に出陣するとの由聞こえたため、
日向飫肥の伊東祐慶も早速軍勢を集め、五月八日、折生迫にて乗船し順風を待っていた所、
『早くも大阪は落城し、事既に静謐に及んだ』との報告が届いた。
そこで祐慶は軍勢を残して上洛した。

ところが、諸大名は程なく帰国の暇を賜ったのに、祐慶にはしばらく何の沙汰もなかった。
「これは重要な事態に遅れた故ではないか」
伊東家の人々はそう考えて心配していたが、幕府が、伊東家が遠く海上を隔てた遠国であるので
風波の便り、自由にならぬこと明確であると聞き届けたのか、ややあって暇を賜り、同年八月、帰国された。

この年、天下も大方静謐に治まったため、将軍家より一国一城の命があった。
これによって曽井、清武、紫波、洲崎、南郷、酒谷など、数ヶ所の城が破却された。

(日向纂記)

伊東祐慶、湊で風待ちの間に大阪夏の陣、終わる。というお話。



866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 22:47:22.79 ID:DLoXqMa1
ラスボスなら普通に改易だろ
仕事出来ないにも程がある

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 23:05:33.14 ID:ZgAFpF8J
権現様「下手に手柄を立てさせると恩賞が大変」

こうしてようやく、一時の急を免れる

2016年07月15日 15:45

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 19:14:16.71 ID:GagDrAPh
慶長19年、東禅公(伊東祐慶)は江戸に出府され、9月7日、江戸詰の諸大名と同じように、
坂井讃岐守邸にて会合があり、徳川家に対して二心無き誓書を奉った。

10月、両将軍は大阪へと出陣され、祐慶も陪従にて、同月26日、京都に到着した。
この時伏見の伊東邸には平部長右衛門尉俊直が在番していたが、祐慶が京都に到着したと聞くと、
手元にあり合わせた金銀などを取り集め夜中に邸を忍び出て、かろうじて京都にこれを届けた。

しかしこの持参した金子も多分というわけではなく、軍用には大きく不足していた。
当面の軍費として伏見邸の金銀を当てにしていた伊東家の人々は困り果て、どうするべきかと相談していた所、
大阪邸に出切りしていた商人に、尼ヶ崎屋七右衛門という者があり、彼を尋ね出して才覚をしよう、
という事となり、様々に尋ねようやく見つけ出した。

召しだされた尼ヶ崎屋七右衛門に、伊東祐慶は直に対面し、金子の才覚を頼んだ。
しかし七右衛門はこれを断った

「金銀は所持しているものの、今回の騒動を受けて、或いは人に預け、或いは深く蔵し、
或いは遠国へと運び置いて、分散して避難させていますので、急にこれらを集め、参らせる
手立てが有りません。」

これを聞いて祐慶は深く憂慮した様子を見せ、それに対し七右衛門も忍びがたく思い、
金の椀10人分の揃いを近所の人家に預け置いていたのを持参して

「こればかりの品では、御軍用の費えにはならないでしょうが、せめての志の印として
この品なりとも献じさせてください。」

このような事が有り、伊東家の者達はそこから京都を発って山崎澤に一宿したが、
大阪に到着するまでの用意すら心もとない状態であり、いかがすべきかと再び評議して、
京都の金融業者である岸辺屋、金屋の両人に相談する以外にないと結論し、借家原源左衛門尉満実を
京都に派遣した。この時、名のある品ではないものの、手元にあり合わせた墨跡・茶入れの二品があったのを、
先ずはこれを質として頼み談ずるよう命ぜられたので。源左衛門尉はこの二品を持参し、先の
尼ヶ崎屋七右衛門を案内者に頼み、岸辺屋、金屋の両人に申し入れた。

両人も初めは中々引き受けようとはしなかったが、七右衛門が間を取り持ち。様々に説得したので、
両人も「已むを得ない」と、判金10枚を差し出した。

こうしてようやく、一時の急を免れるという、実に哀れなる有様であった。

(日向纂記)

伊東家、大阪冬の陣に参陣し、お金がなくて大変だったというお話



857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 19:39:48.68 ID:gsTyxJTG
幕末のころの借金の多さは有名だが、江戸時代の初期から金欠だったんだな

伊東家と島津家、修好の復活

2016年07月12日 08:58

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 23:11:19.82 ID:c7/Arcse
日向伊東家は、島津家とは黒田如水の指示により、朝鮮陣の最中、加徳島にて好を結んだが、
関ヶ原の一戦の時、島津家は大阪に属し、伊東家は関東に属したため、宮崎近辺にて両家は数度の
衝突があり、それまでの和睦も崩れ去った。

しかしこの頃、報恩公(伊東祐兵)が逝去し、後を継いだ伊東祐慶は未だ幼少であったので、伊東家の
諸大将は、島津家に頼ることも必要であると評議していた。そんな中、島津家より

『隣国の好は永く変わらない。我々は祐慶公成長の後は、こちらの息女を以って娶らせたい望みを持っている。
どうか鹿児島に来ていただきたい。』

との意向を伝えてきたため、慶長16年(1611)8月、伊東祐慶は鹿児島に赴き、兵庫頭(島津義弘)と
面会した。この時祐慶に供奉したのは、家老の川崎大膳亮、松浦久兵衛尉を始めとして、選ばれた屈強の勇士
数十人であった。

島津家の側は伊東家一行を非常に歓待した。喜入摂津守に命ぜられ善美を尽くして饗応した。
この時、猿楽の興行があり、白楽天の番組と成った時、
「今や今やと松浦船~」
という謡の文句を
「今や今やと与津船~」
と言い換えた。
これは祐慶の供奉に松浦久兵衛尉があったため、その名前を避けてこのように変えたのである。
このように島津家では、ここまで深く萬に念を入れて伊東家に気を使ったのである。

ただし祐慶公と島津家との縁組は、将軍家の沙汰難しくそのことは実現しなかった。
それでもそこから二代にわたって、両家の間は音信の使者絶えず、互いに懇意な事であったが、
その後は何ともなく、再び疎遠の間柄と成った。

(日向纂記)

島津家が関ヶ原後、伊東家との修好復活のため、その家老にまで気を使っていたというお話




928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 01:28:08.16 ID:41NkNuSk
伊東は黒田の舎弟だからさ、後に疎遠になったのは幕府からの黒田への評価が下がったから。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 10:15:23.83 ID:z8yrg7Qr
江戸の時代になっても大名が気軽に隣国を訪れることが出来たんだな
いつ頃から出来なくなったんだろ?
武家諸法度あたり?

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 20:55:22.15 ID:toR9SZ93
豊臣を滅ぼしてからとか。

慶長9年、三度目の検地

2016年07月09日 19:25

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 19:38:29.86 ID:aOa++CsB
飫肥の伊東家においては、去る文禄元年に領内の検地があって、石高3万6千石と定められた。
しかし伊東祐兵はこの石高では軍功成し難いと、同四年、秘密裏に検地の沙汰を行ったが、その結果
出てきた数字は僅かに4万5百石に過ぎず、目的の石高に満たなかったため、これは公表せず、
石高を上げることはなかった。

伊東祐兵が卒去のあと、伊藤家家臣である落合九右衛門尉、山縣太郎右衛門尉両人が談合の上、
伏見において「石高6万石」と披露に及んだ。

このことを聞いて国元の家老たちは驚愕した。

「これでは万一、国替えの沙汰など有った時、引き渡すべき帳面も無い。急ぎ検地して高上げより他手段がない!」

そう評議の上、川崎主水、三谷作右衛門尉、平川分右衛門尉の三人を奉行として、慶長9年、三度目の
検地が有り、この時5万7千80石余りの石高と成り、明けて10年3月、平川分右衛門尉はこの
検地帳を伏見に持参して、奉行所にて披露した。

(日向纂記)



820 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 22:35:40.50 ID:CWAhEhPC
やればやるだけ石高が増える
それが検地

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/09(土) 10:02:40.01 ID:tmLfPf9a
>>819
松倉勝家「私なら10万石にしてみせますぞ」
真田信直「ならば、私は15万石にしてみせましょう」

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/09(土) 10:29:36.27 ID:E+Obyybb
毛利「え、うちは36万石しかないですよ。内高100万石+貿易収入なんてとんでもない。
    密輸?そんな恐ろしいことするわけないじゃないですか」

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/09(土) 10:39:35.72 ID:gkfn/0Es
毛利の検地も家臣の俸禄を下げる為にやった水増し型が多いのて゜
内高で国力は測れない。

年貢を増やすと一揆・逃散になるから慶長検地のような増税狙い以外で
大幅に水増しする際は税率もガッツリ下ってる。

なんと江戸時代初期までの73%から江戸時代後半には40%へ。

伊東祐慶への十一ヶ条の教訓

2016年07月08日 16:36

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/07(木) 20:11:29.93 ID:w0Q7Terw
慶長八年正月、伊東祐慶(当時14歳)は一族の人々を引き連れ上洛した。船中、佐賀関より松浦久兵衛尉、
平川文右衛門尉、借家原甚右衛門尉の3人を筑前国博多へ遣わされ、前年に起こった『稲津の乱』について報告し、
同時に伊東家における家中の制度、すべての予算に関する目録を、黒田如水の一見に備え、万事その指図を受けて
程なく3人は祐慶の後から上洛した。

同年4月の初め、黒田甲斐守長政も江戸より上洛あったため、伊東祐慶は京都において、長政にも
目録等を差し出し、万事の指図を頼んだ。すると長政は、十一ヶ条の教訓を書いた。

一、2日に一度は御定あって御目見得のための登城があるべきです。
一、節々の御上京は無用です。
一、御小姓など幼い者たちを側で重用するのはやめましょう。節々の御付き合い入らぬことです。
一、内々に太郎右衛門が申し聞かせた事は、必ず聞いて下さい。
一、難しくても、宿老の面々とは、細々とでも御参会すべきです。
一、私の所に大勢の人を置くのも入らぬことです。
一、船等の事は、拙者が留守居の者にに申し付け置いていますので、伏見への往復がある時は仰せ付けて下さい。
一、財政についての事は、日記にはっきりと記録し、それを如水が間もなくこちらに上ってくるので、その時
  御相談すべきです。
一、以上の事を徒に思われるのなら、罰が当たると、私は考えていますよ。
一、御家中の者をご成敗の時は、先ず私に御相談下さい。卒爾に仰せ付けてはなりません。
一、二十歳以前に、様々なことを御心のままにしてしまっては、未熟なままに成ってしまいます。
  昼夜お心遣いが肝要です。 以上

 卯月二十日             黒田甲斐守

         伊東修理殿

(日向纂記)

未だ若年の伊東祐慶に宛てた、黒田長政の、甥っ子を心配する伯父さんのような教訓状である。




915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 00:40:01.57 ID:JK9/VnlS
長政は良い人だな!

稲津掃部助の妻

2016年07月05日 21:29

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 00:01:06.88 ID:vt/+c1Fu
稲津掃部助(重政)の妻は、豊後大友家の一族である田北相模守の娘であり、任世政成の妹である。
慶長2年、大友家滅亡の時、任世政成は年齢11歳で、母妹とともに、周防国柳井という所に流れ着いた。
母は土佐の一条安房守房基の娘であり、伊東義益の奥方であった於喜多夫人と姉妹であり、現当主たる
伊東祐慶の母、松寿夫人にとっては伯母であったため、周防国に漂泊したとの話を聞くと、松寿夫人は
使いを周防国に遣わし、母子供に招いた。その頃、伊東家重臣の川崎大膳亮祐賢が妻を失い独身で
あったため、この母を娶って後妻となした。その時、この女児も母に従って大膳亮の養女となり、
後に稲津掃部助の嫁いだのである。

だが、程なく伊東祐慶は、稲津掃部助を誅すると決めた。この事を知らされていた実家の
川崎氏は、「母が病気になったので、帰ってきてほしい」と迎の者を遣わした。
妻は本当に病気になったのだと思い急いで飫肥へと向かったが、途中、山假屋に至った時、
迎の者達は真実を告げた。

妻はこれを聞くと大いに驚き嘆き、迎の者達に向かい叫んだ
「私はこれより、再び夫の元に帰るので、駕籠を返しなさい!」

しかし迎えの若党たちはこれを聞こうとせず、無理にでも母のもとに伴い帰そうとした。
妻は大いに怒り、薙刀の鞘を外し

「我が下知に従わざる者はみな、斬って捨てる!」

そう叫ぶと、若党たちも何も出来ず、踵を返して清武へと戻った。

帰ってきた妻を見て、稲津掃部助は
「女の身なのだから、母のもとに帰るのだ!」
そう勧めたが、妻は承知せず
「私は女として生まれましたが、夫の最後を見捨てて帰るような存念は有りません。」
妻には少しも怖れる色無く、今日こそ討ち手の軍勢が押し寄せると聞こえれば、心しずかに
身支度を整え、掃部助に付き添い、最後の様子も、いかにも勇ましかった。

これを聞いた人たちは、涙を流さぬもの居なかったという。

(日向纂記)



稲津掃部助に黒田如水、激怒す

2016年07月02日 18:03

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/01(金) 20:50:17.92 ID:+Z/oQOdg
伊東家家臣、稲津掃部助は、関ヶ原後、宮崎城を空しく高橋家に返還することを残念骨髄に徹して
思っており、その後も度々黒田如水に嘆き訴えた。如水としても、一旦検使まで差し下し、内々に
下知して伊東家に取らせた事でもあったので、様々に考え、伊東祐慶が江戸に在府の時、掃部助に
内々にに申し含めた

「これは本多佐渡守(正信)とも、かねて内談致しおいている。今度、九州の大名が暇を賜って
帰国が許される。だがその時左京亮(祐慶)殿は江戸に残り、将軍家の小姓として奉公を勤められるようにせよ。」

稲津掃部助は「畏まって候」と申し上げたが、内心こう思った
『武士が槍先にて攻め取った城地さえ空しく敵に返す程の事なのだから、如水の指図も頼み少ない。
ならば帰国したほうがいいだろう。』

そして帰国が許されると直ぐに祐慶に供奉して国元に下ってしまった。

このことを聞いて黒田如水は激怒し、
「掃部助は武功の者であるから捨て難いが、以後江戸に召されることは然るべからず!」
そう、伊東家に通告した。

伊東祐慶の母公である松寿夫人はその頃、かねてから稲津掃部助に対して心情を悪くしていたのであるが、
如水の一言を聞いて更に彼を憎むように成り、それは後の誅殺の原因ともなるのである。

(日向纂記)




宮崎城返還の事

2016年07月01日 13:52

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 19:08:58.40 ID:/HemqasI
高橋元種の宮崎城は慶長5年10月朔日に、伊東祐慶の兵によって攻め取り、翌年8月まで確保していたが、
徳川家康の上意として、高橋元種に返却すべきと片桐市正(且元)より伊東家に使者が送られた。
またその頃、大阪に在った伊東家家臣の松浦久兵衛尉も、奉行所に召され、その趣を申し渡された。
この時久兵衛尉は一言の弁明もせずおめおめと退いてきたので、同じく伊東家重臣の稲津掃部助は
大いに怒り、

「いかに内府公の命だからといって、侍の槍先にて攻め取った場所をおめおめと敵に返すなど
ありえようか!」
そうして自ら上洛し、

「宮崎城の事は、井伊兵部少輔(直政)殿の内意があり、また黒田如水老よりも検使宮川伴左衛門を
差し下され、内府様への忠節のために、幼年ながら左京亮(伊東祐慶:関ヶ原当時11歳)は、
父(祐兵)が病中なのも顧みず、日向に下り一命を捨てて太刀下に切り取った所なのです!そこを
今更返せと言われるのは迷惑でござる!」

そうしきりと訴えたが、奉行所は許容せず
「宮崎落城は10月朔日。ですが高橋が寝返ったのは9月15日ですから、前後決断の理においては、
例え忠節として攻め取った太刀下勲功の地であっても、帰さねばならない。」
そう重ねて言明が下ったため、是非無く慶長6年8月、高橋家に返還された。

伊東家では宮崎城を落とした後、諸軍の手柄を逐一吟味し、それを三巻に記して、
飫肥に一巻、大阪に一巻、清武に一巻を置き、占拠した宮崎四万石の地を割って、それぞれに
賞与あるべき旨を沙汰しており、これに諸士は言うに及ばず、百姓らに至るまで勇み喜んでいた。
そのような所に、返還を命ぜられ、一旦の勤労もたちまち水の泡となった。

こうして国中の上下は皆力を落とし、内府様の沙汰も当てにならず、黒田如水の取り持ちも頼みに成らぬと
恨みを含まぬものは居なかった。

その後、黒田如水父子の取り持ちによって、伊東家は井伊直政に様々に内訴したが、これに直政は言った

「石田ら逆徒は、或いは滅亡し或いは降参して、天下一統内府公に従い奉った。
だが、天下の諸侯のうち十に三つは、治部少輔の佞悪を疑い、一旦は内府公に随身したようにしているが、
それは誠の心服ではない。

である以上、今度内府公に降参した諸大名の領地を割って忠功の者達に恩賜あれば、それは再びの
逆乱への端緒となるだろう。
天下は一人の天下ではない。天下の天下なのだから、内府公と雖もその思し召し通りには成り難い。
先ず暫く、天下の安否を見定められる間は、穏便の沙汰を行うのだ。

左京亮殿が幼年の身でありながら、父が重病なのも顧みず大敵の中に下向あって、一命をかけ
類のないほど、御味方として無二の忠功を立てられたことに対して、内府公はたいへん御感悦されている。
なので、終には御報謝あるだろう。
伊東家においてはどうか、その意をくんで、これ以降も遺恨無く、専ら勇義を励まされる事が肝要です。」
そう懇々と示し諭したため、伊東家もその旨を受け、恨みを捨て奉公丹誠を成されたのである。

(日向纂記)



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 19:13:21.97 ID:sv5Jc6ie
>>788
いい話じゃないかw

伊東家毛利家喧嘩の事。並びに落合浅之助について

2016年06月21日 21:17

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:11:17.89 ID:qBcS+riJ
朝鮮の役の折、伊東祐兵が釜山城に在番していた時に、伊東家の兵と毛利家の兵が喧嘩に及び、
毛利家からは騎馬の武者が多数出て伊東家の船手の者たちを海岸際まで置い詰めた。

ここで伊東家からは落合九右衛門尉を始めとして大勢が駆け付け互いに鑓合わせとなったが、
伊東勢は毛利家の小谷又右衛門(知行八千石)をはじめとした大勢を海岸際まで追い込め、
石田九郎右衛門(知行六百石)に重症を負わせ、毛利家では討ち死に6人に及んだ。
伊東家も討ち死に3人、手負い数十人が出た。

このようにほぼ合戦の有様で、鎮め難い状況になったが、ここに寺沢志摩守(広高)、
島津又七郎(豊久)、相良左兵衛(頼房)の三大将が間に入って調停し、事態はどうにか
鎮まった。

この時、落合九右衛門尉の嫡子で、16歳の落合浅之助、容儀人に優れ伊東祐兵の小姓であったが、
喧嘩の注進を聞くと馳せ付け一文字に斬り掛かった。これを見た毛利の武士の一人が、弓を引いて
浅之助に放とうとしたが、彼が年少でありながら、その勇ましいことに感じ入ったのか、わざと
足元の地面に射って、浅之助の姓名を尋ね、感謝して退いた。

この落合浅之助は元来勇気人に優れた男であり、或る日、伊東祐兵の眼前で敵を討ち取り
比類なき働きが有ったので、近習外様の者たちも、彼に一廉の褒美があると思っていたにも
かかわらず、その後全くその沙汰がなかった。皆不思議に思い、ある者が「どうして浅之助に
褒美を与えられないのですか?」と尋ねると、祐兵は答えた。

「なるほど、確かに恩賞を与えるべき功名であろう。だが浅之助は、年齢少なくして勇気が
あまりに強すぎる。彼に今褒美を与えては、さらに逸って近いうちに必ず討ち死にするだろう。
そう思ったので、その沙汰をしないのだ。」

しかしその後浅之助に、何と言う理由もなく、短刀が与えられたそうである。

(日向纂記)



874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 02:16:31.73 ID:kVu0ZNF3
自決の引導でしたか

遠からぬ内に、世の中は

2016年06月20日 17:57

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 19:37:51.41 ID:SUyILvdO
慶長元年12月下旬、伊東祐兵は朝鮮の安骨浦陣中より、黒田如水に相談の事があって、家臣の
借家原甚右衛門尉満鎮を豊前に派遣した。如水は甚右衛門を近くに召して

「さてさて、良い所に参った。私の方からも使いを出して、伊東殿に申したいことがあったのだ。
実はな、太閤が近頃殊の外衰えられた、その上日本中で様々な怪異が多く起こっている。
遠からぬ内に、世の中はまた騒がしくなるであろう。

民部殿(祐兵)は小身であるから、国元について甚だ心もとなく思うだろう。
天下の事が未だ起きない内に、片時も早く島津家と談じて、縁故を取り結ぶか、又は麾下に入る事を
申し入れるべきだろう。その上で互いに神文を取り交わすべきだ。
この旨を早々に帰って伝えるように。」

甚右衛門は急ぎ豊前を立って明けて慶長2年正月中旬、安骨浦に帰り黒田如水の口上の趣を申し上げると、
伊東祐兵はこの助言を喜び、早速加徳島にあった島津の陣中に赴き、兵庫頭(義弘)と会談して、
以後、堅く唇歯の好みを結び、互いに違背有るべからずと、神文を取り交わした。

(日向纂記)



増高を願って

2016年06月18日 11:28

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:37:22.89 ID:quiHw0RT
伊東祐兵が豊臣秀吉によって飫肥に封ぜられた時、石高は2万8千石であった。
しかし文禄2年、朝鮮の役に参戦する中、軍費が足りないと、増高を願って検地を行った。
これによって伊東家の石高は3万6千石となった。

しかし、それでも猶、軍功成し難いとして、文禄4年、再び増高を思い立ち、飫肥、清武にて
検地を行った。だがこの時は目的通りの高にはならず、僅かに4万5百石の数字が出ただけであった。
当初の予測に及ばなかった事で、この時の増高は中止されたという。

(日向纂記)



736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:52:18.95 ID:qGvkDOSE
ワロタ。隣みたいに無理やり嵩上げ石高出さなかっただけマシだな

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:59:36.74 ID:L9K8Eq0L
島津のこと?

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 21:25:25.91 ID:5P/de7pp
>>735
信長の野望じゃないんだからそんなに簡単に石高増えないだろw

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 21:55:50.54 ID:qGvkDOSE
申告漏れを掘り起こしてる状態だから増えるんだなこれが

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 02:12:54.78 ID:gdW/4aF4
柳生の隠し田ですか?

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 06:50:55.40 ID:DPUQJOLE
実際には石高大幅増は検地した場合でも石盛や等級を操作してるケースばかり。
指し出しに一定の率を掛けるという雑なものも多いな。

関ヶ原後の毛利くらい逼迫すると、荒地扱いだった土地を無理やり組み込んだり
無茶することもあるけどさ

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 10:02:28.50 ID:fZr4YD9T
最後、どの位を期待してたんだろ?

朔寧の監司

2016年06月15日 13:13

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 20:20:08.45 ID:dzuNT2ui
文禄の役でのこと。

文禄元年10月18日、朝鮮に派遣されていた伊東祐兵は駐屯していた鐵原より出陣、19日早朝に
朔寧の城を攻め落とし、400名余を討ち取った。

するとその後、日本軍が占拠している王城(ソウル)において、朝鮮人が群集し、痛く泣き
哀しんでいた。不審に思った石田治部少輔(三成)が彼らに理由を尋ねると、このように答えた

「鐵原の上官(伊東祐兵)によって、朔寧の監司を討ち取られたとの事なのです。それ故に嘆いて
いるのです。」

石田はこの事を伊東祐兵に伝え、急ぎこの監司の首を送るように言った。
この使いに伊東祐兵は大いに驚いた

「夜懸けであったので切り捨てにしたため、大将を討ち取ったことも知らなかった!
急ぎその首を探すのだ!」
そして落合九右衛門尉、川崎又右衛門尉両人に、士卒70を付けて朔寧城に派遣した。

両人は朔寧に住む朝鮮人二人を捕え、監司の死骸について問うたが、彼らは有無の返答も
しなかった。この態度に落合、川崎は大いに怒り、即座に一人を惨殺した。
すると残った一人は大いに怖れ、死骸のある場所を知っていると白状した。
そこで彼を先に追い立て案内をさせた所、朔寧城から三里ほど奥にある松山に入った。
ここには墳墓が多くあったのだが、監司を埋めた所は墳も築かず、上に木の葉などを撒き散らして
何事もない体に偽装していた。

落合たちは士卒に命じてこれを掘り出し、死骸は長持に入れ、金襴の類にて包んだ。
冬のことであったので、色もほとんど損じていなかった。
そして首を斬って持ち帰ると、すぐに王城へと送った。

この首は中台門に曝されたが、朝鮮人はこの首の前を通る時、必ず再拝して泣いたという。

(日向纂記)



米良重矩の帰参

2016年06月13日 11:21

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 18:57:26.47 ID:b8183FBv
米良美濃守重矩は日向伊東家の家臣であったが、過ぐる天正4年、一旦の憤りに、
累代の主君に背き、島津家へ寝返った。これが終には伊東家の日向没落へと繋がったのである。

しかし米良は薩摩において栄達したものの、心安い日は無く、鬱々と思った。

『私はこのまま、叛逆の罪を抱いて生き、不快の月日を送るよりも、一度旧主に見まえて、
身の罪過を謝し潔く誅殺を被ってこそ、この上の本意ではないだろうか。』

そう考えている中、天正16年、伊藤祐兵が再び飫肥を拝領したと聞いて、取るものもとりあえず
飫肥に帰り、祐兵に対面して先非を謝した。

伊東祐兵はこれを聞くと
「美濃守は叛逆の徒であり、国を覆した者であるから、必ず厳罰が行われること必定である。
であるのに、死を決して帰ってきたこと、奇特である。」

そう言ってその罪を宥し、さらに知行を与えた。
米良重矩は感激のあまり、叫んだ

「公百年の後、私は必ず殉死します!」

しかし、伊東祐兵が慶長5年、大阪で死去した時、嫡子祐慶は未だ幼少であり、また宮崎一乱の
最中でも在ったため、心ならずも本意を遂げることが出来ず、その後、清武の領主にもなったが、
程なく病死した。
この時、末期に及んで嫡子勘之助にこう言い残した

「汝、必ず我が志を継ぐべし。」

寛永13年(1636)、伊東祐慶が江戸にて死去すると、米良勘之助は清武にて殉死を遂げた。

(日向纂記)



稲津重房とその母、妻

2016年06月11日 21:00

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 21:21:03.04 ID:hbwty/xh
稲津次兵衛尉重房は、永正の頃、綾の地頭であった稲津越前守重頼の孫であった。
伊東家の日向没落の時は僅かに14歳であり、伊東義祐への供奉に遅れ、心ならずも
薩摩島津家の幕下に属し、その後、島津家大阪邸に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いていた。

そのような所に、伊東祐兵に日向国飫肥が拝領されたとの話を聞き、「累代の旧君を他所から見るのは
快からず。たとえ死すとも帰参せねば」と思い立ち、譜代の郎党たちを呼び

「私の心底はこの通りだ。お前たちは早急に薩州に下り、母と妻を連れて飫肥へ脱出せよ。
私はその頃合いを合わせて、この邸を立ち退き飫肥に到着するようにしよう。」

こうして郎党たちに早船を求め、薩摩に向かって下らせた。そして稲津は、郎党たちが薩摩の近くまで
行ったであろう頃合いに、にわかに邸を脱出した。

薩摩邸の番頭は稲津が逃亡したことに気がつくと、すぐに早船を仕立ててこの事を国元に報告した。
ところが、稲津の郎党たちが乗った船ははるか以前に大阪を出たのに、海上が風波悪しく、殊の外
到着が延び、却って番頭からの注進の船より1日遅れて薩摩に着いたのであった。

この時島津家では「この事について寛大な処置を取れば、家中の他の、旧伊東家の者達への差し障りとなる。」と、
稲津重房の母と妻は殺されるに至った。

稲津重房は飫肥に帰参し、これに伊東祐兵はニ百石を与えた。
その後慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。37歳であった。

(日向纂記)



伊東家累代の家臣

2016年06月09日 17:10

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 19:23:32.62 ID:CmxE+Ops
天正15年3月17日、島津中務家久(良い方)は豊後と日向の境である梓嶺から撤退する時、そこを佐伯惟定の
軍が追撃した、薩摩勢も山の中腹に踏み止まり、幾度も盛り返し戦ったが、終に敗軍し、家久は僅か七騎にて
引き上げるのを、佐伯惟定の軍師である山田匡得は追い駆け、これを討ち取ろうとしたのか、声を揚げた

「そこに落ち行かれるのは中務殿と見たるは僻目であろうか!?山田匡得、ここまで追い駆けたり!
軍は常の習い。夢にも余儀を存ぜず。静かに引かれよ!」

これを聞いた家久は、虎口を逃れた思いをし、また少し行って道の脇で休んでいた所、山上より人の声がして、
山田匡得がまた追いかけてきた!」と聞こえたため、家久は狼狽え、取るものもとりあえず逃げた。

山田匡得がこのように家久を見逃したのは、伊東家の日向没落の時、匡得の妻女並びに弟の新左衛門尉、
七兵衛尉が捕虜と成って薩摩に抑留されていたためで、もし家久を討ち取れば、彼らに害が及ぶことを
慮った為であった。

その後、島津家久からの使者が、山田匡得の元へ尋ね来た。その趣は

『貴殿は豊後表において、度々の高名、その比類なきことは世の人が遍く知る所である。
これは我が主君義久の聞こえに達し、もし豊後を立ち退き薩州に来るなら、三百町の地を宛行われる旨を
申し含まれた。』

との内容であり、書状には島津義久よりの、三百町を宛行うという直判書が添えられていた。

山田匡得は答えた
「私の武勇の聞こえが、義久公のお耳に達しただけでなく、三百町の地を宛行うとの事、見に余り
辱く存じ奉ります。その上私の妻子兄弟の者が、多年に渡り御厚恩を被っていますから、本来なら
参上して御助成を受けるべき所でしょう。

ですが、私は伊東家来の者です。二君に仕えるのは本意では有りません。
ですのでこれは、辞退させて頂きますので、そのように御報告下さい。」

一方、山田匡得の豊後での軍功非常に多く、大友宗麟より感状を下された。
そこには

『匡得、度々の高名比類なき手柄のほど感心せしめ候。これにより豊後において百五十町の地を
宛行う』

とあった、山田匡得は謹んで宗麟に言上した

「御感状の趣は身に余り、辱く思います。ですが私は伊東家累代の家臣です。
伊東家が日向の内に、些少の地でも安堵されれば、早速に帰参しようと考えているのです。
ですので知行頂戴のことは、幾重にも辞退させていただきたいと思います。」

そう再三に渡り申し上げるのを聞いた宗麟は、感動し涙を流して言った

「匡得の二君に仕えざるの心底、誠に以って感ずるに余りある。だが私は所領以外に、
一体何を恩賞に与えるべきか。
ああそうだ、幸い我が家が秘蔵する鎧が十領ある。この内からそなたの目利きに任せ、
好きな物一領を与えよう。」

そこで山田匡得は、ありがたく存ずるの旨言上して謝意を表し、即座に目利きをなして、
鎧一領と兜一頭を拝領したのである。

(日向纂記)



818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:07:19.41 ID:etFF9G+S
後から言ってきた大友が島津の半分かよw

三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし

2016年06月07日 10:21

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:49:04.88 ID:4n3eIB9n
日向伊東家家臣である山田土佐守匡得は、永禄元年、17歳の時に初陣として飫肥の行屋ヶ尾にて
薩摩の驍将亀澤豊前を討ち取り、同10年小越合戦に和田民部を討ち取った事などを初めとし、
伊東義祐の日向没落の後も、石ノ城にて粉骨を成し、薩将の伊集院肥前守と槍を合わせ、その名は
近国に聞こえた。

伊東義祐父子が伊予に渡海した後も、豊後に残り、同国梅牟礼の城主、佐伯太郎惟定の軍師となり、
益々の軍功があった。

天正14年7月23日、島津中務家久(良い方)が豊後に出兵して松尾山広福寺に陣し、この佐伯惟定と
一戦の時、家久は佐伯領の境の住民を一人捕えて、佐伯惟定の軍中の様子を尋ねた。その者応えるに

「惟定様は今年18歳になりますが、善く領民を撫育し、人心の帰伏すること父母のようです。
私は下賤の身であり、軍配の方便はわかりませんが、針も撃ち抜くほどの鉄砲の上手が、三千人在ると
聞いています。」

家久はこれを聞くと
「三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし山田土佐入道が今、佐伯惟定の家に在ると聞く。
彼は一騎当千の者なれば、私は深くこれを恐れる。」
そう語ったという。

(日向纂記)