日向伊東家においては、『四天王』と称する家柄は

2013年09月03日 19:59

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/03(火) 17:23:56.84 ID:JbuHno4d
日向伊東家においては、『四天王』と称する家柄は、それぞれ二つある。

その一つは、山田、荒武、津留、大脇の四家であり、これは興禅公(伊東祐重(氏佑))が
京より下向されるとき、先に国元にあってこの下向を周旋した人々である。

もう一つは、稲津、落合、湯地、川崎の四家であって、こちらは興禅公に供奉して
京都より来た人々である。

この人々は下向の衆であるからとして客座に着座し、国元に在った四家は
居付きの衆であるからと主座に着座する慣例となっていた。

これはいずれの四家も序列の甲乙がつけがたいため、このように命じられたのだという。
(日向纂記)

「四天王だけど五人六人いる」というのはいくつかありますが、こちらは
『四天王Aと四天王Bの二つ有る』という、斬新な形態である。




268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/03(火) 19:35:18.14 ID:bh4mIP9F
満州八旗みたいなものか

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出羽岩倉の伊東家

2012年12月10日 19:52

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 22:17:03.58 ID:UbfwYRJ/
 出羽の国、会津との県境の岩倉の山裾に伊藤豊後を始めとした伊藤家の祖先の墓碑がある。

 この伊藤豊後は、もともと九州日向、飫肥城の城主である伊藤修理の弟という。
 天正十五年、秀吉の九州征伐の折、島津と組んで抗戦したが、やがて島津氏は降伏、
伊藤修理は改易、伊藤豊後は流浪して岩倉に居を構え、豪族として住み着いた。

 やがて時は流れ慶長五年、上杉が最上領を攻めた際、伊藤豊後は家来18人を率い、
上杉方として参戦。
 だが武運尽きたか、10月2日の八ツ沼の戦いで、伊藤豊後をはじめ家来一党みな討ち死にし、
かろうじて山川儀助が伊藤豊後の嫡子・伊藤日向を擁護して、米沢に引き上げた。

 直江兼続は伊藤豊後の戦功を賞し、伊藤日向に知行100石を給し、岩倉の地において
会津との境の守備役に任じた。

 九州から東北まで流れても武士として働き家を残した侍の、ちょっといい話として。

 地元の史料に載っている、東北の僻地と九州を繋ぐ意外な縁。でも、文中の「伊藤」は
「伊東」が正しいと思うんだ。
 なお、文中の伊藤氏の子孫も地元に在住しており、その方の姓は「伊東」。
 ……九州の飫肥城ってったら伊東氏だし、子孫の方も伊東氏なんだから史料訂正してやれよ。




734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 14:13:16.34 ID:vVqFCsqu
>>724
島津と大友の間で揉まれていつの間にか居なくなってた伊東氏、そんな所で頑張ってたんだなぁ