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長門守は侍の冥利が尽きた人なので

2018年04月19日 18:26

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 15:07:18.14 ID:ZlVxawXH
長門守は侍の冥利が尽きた人なので


寛永15年4月14日、肥前国島原城主の松倉長門守勝家が
島原一揆の咎めにより森長継へと預けられた。
津山で長門守殿を預かっていたが台命により、5月4日には
江戸の内記様(長継)の御屋敷に移すこととなった。
宗門御奉行の井上筑後守(政重)が何度も来て、長門守殿の話を聞いて
口上書等を書き、長門守殿の小姓の権兵衛・瀬兵衛も吟味された。
権兵衛は二度拷問されたが、瀬兵衛は新参者だったので拷問されなかった。

そうして7月19日に長門守殿の切腹が決まり、前の日の晩に
内記様は検使から介錯人を出すように求められたときのため
侍分で足軽大将の井川弥一右衛門と、歩行の福本与三右衛門を
介錯人が侍分でも歩行でもいいように、両人に仰せ付けられた。

19日の朝、森家臣の林伊織が筑後守殿にそのことを申し上げると
「長門守は侍の冥利が尽きた人なので、年若といえども内記殿が
 足軽大将を仰せ付けた弥一右衛門に介錯人をさせる程ではない。
 歩行に介錯をさせられるように」
と筑後守殿が仰せられたので、福本与三右衛門が介錯をつかまつった。
小姓の権兵衛・瀬兵衛も縛首となった。

そのとき福田左内が井川弥一右衛門の袖を引いて
「このような大名の御首を切ってしまったら、小身者は冥加が尽きて
 罰が当たってしまうだろう。(与三右衛門の)末路を見ておくように」
と私語をした。
それから八年が過ぎた後、与三右衛門の弟が百姓との公事に
負けてしまったため、与三右衛門も作州を立ち退くこととなったという。


――『森家伝記』

森家の史料では勝家は斬首になってなかったので。


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岡本加介の討ち死に

2017年04月20日 21:18

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 22:57:07.47 ID:NUslccIW
豊臣秀次の家臣であった岡本加介は、長久手合戦でも功のあった人物で、
後に松倉豊後守(重政)に属した。

大阪冬の陣の折、大阪城中より鉄砲をつるべ撃ちすることがあり、幕府軍の先手が騒ぐ時、
岡本は一番に進んで城際まで付くと、さらに先に人が居たので追いかけてみると、
それは同じ家中の奥田三郎右衛門であった。

このつるべ撃ちは、敵の攻勢などにつながるものではないと判断し、両人連れ立って帰ったが、
松倉隊は備えを丸く立て臨戦態勢を取っていた。そこで両名が帰って報告し、備えを立てるまでもない
状況だと解った。

この奥田と岡本は、夏の陣では松平下総守(忠明)の陣を借り前線に出て、6日の早朝にそろって討ち死にした。

岡本加介は、後藤又兵衛を必ず討ち取ると言っていた。その故を人から尋ねられた時
「後藤はいつも一番に先に出る者であるから、私は魁してこれと打ち合うのだ。」
と答えたという。

果たして岡本は、後藤が討ち死にした場所から6,7間(約10~12メートル)ほどの近接した場所で、
鉄砲にあたり討ち死にを遂げた。

人を使う時、何であっても

2014年12月23日 17:42

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/23(火) 13:00:48.15 ID:ZGu01QdC
松倉重政は、

「人を使う時、無役にしていると心が弛んで睡眠のみ生じるものである。
何であっても、用を言い付けるのがよいぞ」

と言って、自分の家来たちには、煙草盆や煙管などのようなものまでも、
預かり人を言い付けておいた。

――『武功雑記』




松倉長門守の遺臣

2014年03月14日 19:10

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 18:39:47.90 ID:00PVhXC7
島原一乱の後、松倉長門守(勝家)は罰せられて家は断絶した。

その家士に野村治右衛門という新参者がいたのだが、
長門守の死骸が品川に捨ててあるのを乞い請けて浅草金性院に葬った。

譜代旧恩の士も多くいるのにそれらはどこへか退散し、
新参者がかえって忠を尽くしたのだ。

また、同家の士に内藤瀬兵衛という者がいた。長門守は罰せられる前に
金三百両を持たせ上京させていた。その後、長門守ならびに
弟の右近、三弥たちはそれぞれ御仕置となり家は断絶に至ったために

金子を返すべき人がいないので所司代のもとに持参し、その由を申して
「闕所金なので差し上げます」と言った。所司代の板倉周防守(重宗)は
その義心を感じて「お前の金子にせよ」と言って与えた。

瀬兵衛はやむを得ず受納して旅宿へも帰らず、ただちに大徳寺へ持参し、
「主人が御仕置になり家は断絶したので、この金を納めますから、
永く主人の追善を頼み入ります」と言って三百両を寄付した。

島原で武功の家士は多いけれども、この二人の至忠のようなものは
ふたつと無い。『国亡びて忠臣顕る』という古語に違わないことである。

――『明良洪範』




632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 00:16:09.89 ID:JPexOhDu
主家、主人ってのはたとえ滅んでも忠臣の中に残るもんだね

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 00:38:50.06 ID:ADSPrJrm
こんな呪われた金いらんわ
捨て捨て


松倉重政、私曲の臣を誅する

2012年09月05日 20:41

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 20:57:35.59 ID:Farc1UBF
松倉重政の足軽頭に松田権六と言う者が居た。
この権六は重政がその当時城内に作っていた庭園の奉行で合ったが、彼はこの奉行において不正を行い、
部下の俸禄を掠め取り、彼らに正統な報酬を与えなかった。
重政はこのことを知り、権六を甚だしく憎んだ。

ある日、重政は造営中の庭園に出てきた。これを松田権六と、同役であった従兄弟である松田兵右衛門が出迎え、
重政の前に平伏した。
重政は何も言わず、懐中より訴状を出し

「権六、これを読め」

と言って投げ与えた。権六は何もわからすそれを拾い開くと、そこには自分の行った悪事の数々が並べ挙げてあった。
重政はじっと見て

「汝権六、私曲なくばその旨を陳ぜよ。」

権六は答えた
「も、もとより私にも陳述すべき事はあります!されどいかに君命とは申しながら、これは余りにも片落ちなる事では
ありませんか!先ずこの讒言を行ったものを糺してください。私はその後に陳述いたします!」

これに重政は冷たく
「汝、陳述するべき事がないのなら、今ここにて腹を斬れ。陳述すべき事があるのなら、私自ら、親しく聞いてやる。
汝が果たして罪がないという事を聞き得れば、そこで讒者を殺して、汝に謝罪しよう。
であれば今、讒者を糺す必要はない。」

権六は窮した
「…これはなんとも無理な仰せですが、腹を斬れとのの上意であるのなら斬りも致します。
されども、士たる者の死ぬのに、どうして犬猫のように扱われるのでしょうか?
願わくば沐浴の時間を賜り、そして検使をも受けて、その上で切腹をさせて下さい。」

すると、重政は刀に手をかけさらに冷たく
「汝は自らを犬猫にしてしまったのだ。ならばどうして犬猫のように死ぬのを嫌がるのか?
検使は私である。さあ、未だ遅らせようというのなら手討ちにいたす!」
そう、怒りに満ちた目で睨みつけた。

権六も、この上は是非に及ばずとついに観念し、短刀を引き抜くと逆手に握って自ら腹を掻っ切る。
そこに重政は兵右衛門に介錯をさせて帰っていった。

老臣達はこの事を知ると口々に重政を諌めた。「大名の御身として御仕置、あまりにも軽々しく思われます!」
これに重政は苦笑しつつ

「松田権六は勇士であった。仕手を遣わして放ち討ちにしても、容易には討たれるような者ではない。
また、もしあ奴が事前にこれを悟って己の自宅に立て篭もれば、人多く損なう事になったであろう。
私はそうなることを懸念して、つい若気を出してしまったのだ。
汝らの諫言は誠に理にかなったものだ。」

そう言って奥へと下がっていったという。
(日本武美譚)

松倉重政、私曲の臣を誅する、というお話。




312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 21:13:18.69 ID:pnouzQKh
>>311
悪いという程の話でも無いような、と思ったら…

松倉重政

島原の乱の遠因を作った御仁だ…。
これは肥前日野江に移封する以前の逸話なのかな?

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 23:40:01.82 ID:/HwqI+Sy
重政の美談なんて初めて見た

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 00:33:43.66 ID:TjZCv7He
意外な一面

松倉重政の東軍参戦顛末

2011年04月01日 00:00

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/30(水) 22:28:48.67 ID:Lt1PkM9W
慶長5年(1600)7発12日、石田三成、挙兵する。
この時大和の松倉重政は、自分の父が筒井家において、三成の家老・島左近の傍輩であった縁から
これに従った。

7月20日、
大阪城の石田三成は一部の兵に、丹後田辺城に籠る細川幽斎を攻撃するため
出陣を命じた。松倉重政にもこの命令は発せられた。

が、その日、松倉重政は亡き父の忌日だということで僧侶たちを家に招き仏事を行い、
その後酒を飲み過ぎて酔っ払い、丸一日前後不覚で寝るという有様であった。
そして目が覚め三成からの命令を知り大いに驚く。

しかし田辺城攻めを命ぜられた者達は既に集結し出発しており、松倉は悩んだ挙句
大阪に行き、三成に「このま丹後に行き田辺攻めの軍勢に合流すべきか、それとも
他の命令を待つべきか。」と問うた。

ところが三成からも島左近からも一向に返事が来ない。
実はこの頃挙兵したばかりであり、三成も左近も色々な事への対応で目が回るように忙しく、
そのため松倉の事が取り紛れ、まあぶっちゃけた話存在を忘れられてしまったのである。

数日間完全無視された松倉重政はさすがに激怒、

「ならば関東にお味方いたそう!」

と、家臣・田中藤兵衛尉を関東に下し、家康と通じた、と言う。


これが実際にあったかどうかは疑問ですが、まあ、あの西軍ならこんな事があっても
おかしく無いな、とも思う、松倉重政、東軍に通じるまでの顛末




425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/30(水) 23:11:47.78 ID:1KKz+0FN
>>422
松倉は親子してスーパーDQNだからなぁ…

松倉重政の人質

2010年01月02日 03:32

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/01(金) 10:11:49 ID:dMCCpBL3
関ヶ原の時のこと
有名な小山会議において、諸将は家康に対し人質を出し誓紙を差し上げることを約束した。

ところが松倉重政が、人質も出さなければ誓紙も提出しない。
では松倉は西軍に通じているのかー、と、いうわけでもなく、松倉は島左近より諸大名に送られた
書状を、真っ先に家康に提出したほどで、異心があるような人物でもないのだ。

井伊直政が、松倉の宿舎に尋ねどういう事かと聞くと、松倉、困った顔で

「それがですね、今私には人質に差し上げられるような親類などがいないのですよ。
人質を出さないまま誓紙だけを提出すると言うのもどうかと思われますし…」

と、いかんともしかねると言った風情。この時直政、ふと松倉の傍を見て

「ところで、あれはどなたかな?」
「は?この者は私の小姓の、吉岡と言うものですが…?」
「彼を人質に出せばいいではないか。」
「え?しかしこの者は譜代とはいえ他人で…」

直政は松倉にしらばっくれたような表情を向ける。これに松倉、だんだん直政の言うことが
飲み込めてきた

「…ああ!そ、そう、この者は長年側近くで召し使っている家譜代の大切な者です。
心の通っていない親類の者を人質に遣わすよりも、他人ながらこの者を人質に差し上げた方が、
私が裏切らない保証になると言うべきでしょう。義は恩に勝るとの言葉もあります。」

「尤もである。」

と、直政は同意し、この松倉は吉岡を人質として提出した。
直政とすれば『人質があろうがなかろうが、松倉が裏切らないことなどわかっている。
しかし他の大名たちへの手前もあるので、形式だけでもきちんと人質を出しておくべきだ。』
と言うわけなのだ。

まあそんなわけで、数字合わせのような形で人質にされた吉岡さんには悪い話。
ちなみに松倉重政、小姓を人質にしたからと言って、特に面白い事をしたと言うこともなく、
普通に家康に付き従ったそうである。




459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/01(金) 17:13:13 ID:sSa6mukU
>>454
松倉さん家は後の世で大事(島原のアレ)やらかしちまったんだが、

元「筒井の右近左近」でも松倉右近さんは普通というか、ぶっ飛んだところのない
真面目な人だったんだな。
吉岡少年は出世したんだろうか。

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/01(金) 17:38:45 ID:TCCLMVDz
>>459
真面目だからアレをやらかしたんでしょ。
幕府から取り締まりが甘いんじゃねと言われて、発奮して弾圧したわけだから。

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/02(土) 09:44:39 ID:3C4SRTfy
>>459
松倉重政は右近(重信)の息子

大阪夏の陣、大和郡山城攻めと松倉重政・いい話

2009年04月17日 00:06

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/16(木) 18:55:45 ID:FOt7tlOD
大阪夏の陣の前哨戦、慶長二十年(1615)四月、大阪方、大野治房の部隊が
大和を攻めた時の事である。
当時、大和郡山城を守っていたのは筒井定慶であったが、守備兵が少なく、大阪方の軍に
かなわぬと、たちまち逃亡、郡山城は落城する。
この時大阪方は、各地に放火するなど多くの乱暴を働いた。

郡山に残った間宮光信は、周辺の諸将に救援を依頼した。「どなたも、早く駆けつけていただきたい!」
が、大阪方の威勢を恐れてか、緊急に駆けつけようとする者はいなかった。
間宮も風前の灯火と見えた、その時である。

猛然とした勢いで、一隊が駆けつけた!
よほど急いだのであろう、侍達は皆裸足。大将も甲冑すらつけていない。
しかし、その勢いのまま大阪方に突進した。

それは大和五条二見城主、松倉重政であった。

松倉ははかねてより、間宮と友人であった。彼は間宮の窮状を聞くや否や、
「友を置き捨てるのは侍の本意ではない!」と、準備もそこそこに出撃、夜を徹して駆け抜け、
間宮を救出に現れたのだ。

この、不意の攻撃に大阪方は大いに算を乱し、三十余名が首を討たれ、郡山から撤退したとの事である。


後のキリシタン弾圧などで、島原の乱の元凶の様に扱われ、後世の評判の悪い松倉重政。
が、このように、友のために命を懸けるほどの、情に熱い男でもあったのだ。

松倉が城主をしていた奈良県五條市では今も、彼を名君として称えている。