家蔵、山科弓

2017年02月16日 17:15

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 00:32:44.51 ID:vKUbLtGx
家蔵、山科弓

 予(松浦静山)の家蔵に山科の弓と称するものがある。
祖先からの旧物である。
金泥七所藤にして弭(はず:弓の両端)の裏に平仮名で『やましな』と銘がある。
伝来の故は記文で知ることができる。

「山科弓   一張

村(弓を削って仕上げること)は吉田六左衛門入道雪荷がなしたという。
庚子の役では唐津城主寺沢志摩守(広高)は関東にいた。
敵徒が唐津を襲おうとしたので、城兵は松浦式部卿法印(鎮信)に援を乞うた。
法印は兵を率いて唐津に到った。敵徒はこれを聞いて退散した。
志摩守感謝の余りこの弓を贈った。」

「雪荷斎が村をした弓はしばしば人々は珍重されていますが、
このように銘を出したものは稀であります。
雪荷は得意ではなかったので銘は記さないと伝わっております。
官の御物である、迦陵賓と銘がある御弓も自銘だと聞き及んでいますが、
見ることができません。
ですので、この家蔵の雪荷村の弓は最上ともいうべきでしょうか。」
とその十一代の孫吉田元謙は評した。

 これについて思うと古人が大事に当たって、弓一張の謝礼では余りに粗末ではある。
しかしこのように贈ったということは、雪荷自銘の弓は世の宝物である故なのであろう。

「庚子の役とは慶長五年の関が原の御陣のことです。
『やましな』というのは、雪荷が前に故あって山科に退居したことがあるので、
その時の作なのであろうと思われます。
官物の迦陵賓とともに、天下二張の弓といえるでしょう。」
と元謙は言った。


(甲子夜話)



653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 01:13:59.10 ID:YMQ6U+gQ
吉田雪荷って親父さんたちのように誰かに仕えたりはしなかったのね
しかし達人が手ずから弓を仕上げていたのか
山科が居住地からなら迦陵賓は迦陵頻伽を射落とせるような一張りってことなのかな?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 12:45:21.81 ID:oAPTRVJD
>>653
立花宗茂が所持していたという金溜地塗籠弓には吉田左近作って名が書かれてたな
吉田太蔵から宗茂に贈られたらしいが
スポンサーサイト

金剛大夫の祖、朝鮮攻のとき彼地に渡りし話

2017年02月13日 08:39

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:39:09.24 ID:6Xc1QC+J
金剛大夫の祖、朝鮮攻のとき彼地に渡りし話

 おかしいことだが、その情合いを記す。
二月の半ば、金剛大夫の方から能初めをすると言って来たので観に行った。
大夫は暇になると、桟敷に来ていっしょに物語をした。
そのとき金剛大夫に尋ねてみた。

「その方の祖先は、朝鮮攻めのとき彼の地へ渡ったと聞いた。真であろうか。」

「確かにそのお言葉通りです。」

「ならば、誰の手に付いて行ったのか」

「どちらさまに付いて行ったがわかりません。
ただ慰めを越えるようなことはしていないでしょう。
従卒なども少しはいたと聞き伝わっています。
ところで、君公の御祖も御渡りになられたと聞いております。
御慰めはいかがされていたのでしょうか。」

「なかなか慰みどころではなく、太閤の先手を申し付けられたので、
七年の間は大合戦よ。」

「それは大事でございましょう。」

等と言って笑い話となった。

 今の大夫は愚かな男ではなく質直な者で、年若だが家業をよく修伝している。
されども家業とはいいながら、彼の国に渡ったことを、
慰めなど心得ているのは優長ではないのでなかろうか。

 まあこれはしばらく置いておいて、大夫の祖先が朝鮮に赴いたのは、
どこの氏が連れて行ったためであろうか。
そもそも遊覧の為に渡ったのか、もしくは戦功の加勢として越えたのか。
いかにも古談の逸事として、ここに記す。


(甲子夜話三篇)



631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:42:58.06 ID:gR2U8JK8
朝鮮の戦争遊覧たーのしー

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:54:05.25 ID:BcttONyy
略奪、強姦、人拐い。
やってることってそう変わらんな。
日本人やめたくなるわw

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 06:58:44.76 ID:XQJJvkye
やめればいいじゃん
七大夫は大坂に籠ったりしたけど、養父も戦地に出向いていたのかもしれんのか
誰が連れていったんだ?

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 14:41:49.62 ID:F0PFvuYr
>>630
>慰め
どういう意味か解らん…売春?

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 18:53:12.67 ID:XQJJvkye
>>634
芸人さんが戦地を慰問してたりするでしょ?

ただその時の運によって

2017年01月31日 15:48

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 03:03:28.01 ID:WEmD8M1O
武功のある人に軍法のことを問うたところ、「私にも分からない。ただその時の
運によって、勝ち負けは決まることであろう。

第一にその主君と将の心にある。主君と家臣が心をひとつにして、士卒の志が
一致したとすれば、勝つことは疑いない」と、言った。

また、「匹夫の志はどうだろうか?」と、問えば、「人並みと思えば、おくれること
であろう。念入りに身動きを決めて、ただ我が身ひとつの一大事と思い定めて、
進退するようにせよ」と、言った。

――『備前老人物語』



高麗宗五郎。付吾国高麗町之事

2017年01月23日 15:49

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 22:24:29.98 ID:5wYdkQtS
高麗宗五郎。付吾国高麗町之事

 三月二十三日の御沙汰書に、
焼火の間に若年寄の方々が出席され、
小普請高力丹波守組高麗宗五郎を表御台所に仰せ付けられたというのを見た。
予はこれから、この人はきっと隣域の号を名乗っているのは何か理由があるのだろうと思った。

 ある人に問うと、
この人はもとは朝鮮から帰化した家で、名字も「カウライ」と呼ぶ。
先祖が高麗の地から出たことによる。
本姓は朴氏であろうか。代々御台所人の家で御目見以上に至る者もいる。
今は上の勤めをしているとのことだ。
 またその元は帰化の人が日本流庖丁の伝授を受けたときの誓約文が、
御台所人の磯貝某の家が所持しているという。

 これについて、我が法印公(松浦鎮信)が朝鮮在陣の間に俘虜とされた者を、
帰陣の御時多く率いて帰られ、諸士勤番の賄いを調える奴隷とされたことを思い出した。
彼らは軽んじられたのであろう。
 この徒を一所に住ませた。人呼んで高麗町と言う。
予が在城していた頃までかの党は旧に依っていたが、
しだいにその恥辱を厭い、我が国の人の類に入ることを願うようになり、
今となっては、高麗の本種とは変わって調食は皆この国の賎夫が勤めることになった。
高麗と称する旨は同じだが、その内実は異なっている。


(甲子夜話続編)



鎌倉光明寺勅額裏年号之事

2017年01月16日 10:21

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/16(月) 02:28:29.13 ID:Mdk5HAw2
鎌倉光明寺勅額裏年号之事

 水戸御撰『鎌倉誌』の光明寺の条には、
寺宝の勅額二枚あり、一枚は後土御門帝の宸筆、”祈祷"であるという。
裏に福徳二年辛亥九月吉日とある。
祈祷堂の額である。福徳の年号は不審である。恐らくは誤って彫ったためであろうか。

 善筑が言うには
この頃〔後土御門の御時をいう〕は、どのような訳か東国では別に年の偽号があってこれを用いていた。
福徳はつまり東国の偽号で、その元年は正に延徳二年庚戌に当る。
なので福徳二年辛亥は、正しくは延徳三年辛亥で、後土御門天皇即位二十七年の年である。

 さて、善筑の言ったことは偽りではない。善筑は何に拠ったのであろうか。
また水戸御撰はその頃にはまだ及ばない所があったのであろうか。

 また偽号に弥勒というものがある。元年は丙寅で、永正三年丙寅とする。後柏原朝のときである。
また食禄というのもある。元年は庚子で、天文九年庚子とする。後平城朝のときである。
なので皆足利の権柄の間に、東方で偽号がつかわれた。

 予はこれから思った。
世に「万歳!」と呼んで、三河の農夫が烏帽子素襖を着て舞うということがある。
歌詞に弥勒十年辰の歳とある。これはまさしく弥勒十年の偽号のことである。
しかし弥勒元年は永正三年丙寅で、十年は永正十二年乙亥である。
辰歳ではない。もしくは予が万歳の歌詞を誤聴したのであろうか。

(甲子夜話三篇)



同姓酒之丞が家例〔正月六日〕内称豆打之事

2016年12月27日 17:37

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 00:19:18.76 ID:aNTRDRPX
同姓酒之丞が家例〔正月六日〕内称豆打之事

 予(松浦静山)と同姓の松浦酒之丞の家は同家伊勢守の分家であるが、
実の先祖は信辰といって、法印公(松浦鎮信)の御孫にして久信公の第三子である。

 今も酒之丞の家例には世でいう節分の夜には流俗のように鬼打豆を投擲し、
それからまた別の礼では、正月六日の夜に内称(内緒)豆といって家先から別に豆打ちをする。
されども世俗に憚り暗所で小投する。
人はその由縁を知らない。かの家もまたその由縁が伝わっていない。

 臣の某が考えるには、この事は久信公が朝鮮におわしたときの佳例を伝えたものであろうとのことだ。内称豆とは、もしかすると今では他を憚っての言い分であろうと。
曰く、平戸在住の者の中で中山氏や立石氏等は公の韓役に随った者の子孫である。
これらの家には、今も世で節分というのに拘らず年々正月六日の夜に節分と称して鬼打豆の事をする。
この始まりを聞くと
朝鮮在陣の年、年が暮れて春が来たが暦を知る者がいなかったので春冬の境を決めることができなかった。
上下は図って、しばらくその六日を節分とし各々が本国の佳儀を調えた。
よって酒之丞の家でも久信公在陣の佳例を用いた。
 わが臣の両氏のように、他の韓行きの子孫にはなおこのことがある。
佐賀公にも、正月六日には節分の儀式があるという。
これらもまたかの祖先勝茂の征韓在陣の故事によるのであろう。


(甲子夜話三篇)



466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 09:57:35.79 ID:YyfEjHIw
???「ダレニモ ナイショダヨ」

吾中、治五平の天草陣物語

2016年11月19日 14:30

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 22:49:26.22 ID:YqyP66QO
吾中、治五平の天草陣物語


 高崎侯の臣(市川)一学が語るには、昔我が藩の臣に治五平という長寿の人がいたそうだ。
九十余で天草陣のことを覚えていて話したという。
その話の中に我が藩のある者の事もあった。

 天草陣で松浦家で物頭を勤めていた某という者がいた。

「今宵城中から夜討がきっとあるだろう。
そのときは必ず立ち騒ぐべからず。
いずれも我が陣のところの垣ぎわで後ろをむき、敵方を背にして座すべし。
たとえ敵が来てもこれに向かうべからず。
また刀の鋒を三、四寸程を残して、その他を木綿などでよく包み置くべし。
敵が来たらこのようにせよ。」

と言い教えて待って居るとやはり敵が夜討をしてきた。
我らの兵はその体ゆえ後ろへ近寄り、切りかけられても具足なのでかちかちというのみで通らない。
兵卒共は構え持っていた刀を肩に担いで、鋒に敵をひっかけ、負い投げにして前へはねた。
夜のことなので敵はこの事が分からない。幾人も来てはこのようにして、来る毎にはねていた。
敵は寄せ来る、自分は座して動かない。
このようにして数十人を打ち取った。
味方も夜のことなのでその手際が見えず分からないので、
松浦の手の者は人礫を擲ったと沙汰されたという。

 これは伝聞の実説であるが、予は初めて聞いた。
治五平というのは誰の先祖であろうか。
先祖の武功は他人より聞くという俳句は、まさにこのことであろう。

(甲子夜話)



切団子

2016年11月07日 09:43

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/06(日) 22:15:27.02 ID:fuOGN5H1
切団子〔水野家伝。伝通院殿遺事〕

 浜松侯〔水野左近将監忠邦〕の家に「きりだんす」という製菓子が伝わっている。
切団子と書くとのことだ。昔伝通院殿が常に好まれていたので伝わっているという。

 林子(述斎)と侯は師弟なので、ある日侯はこれを作って林子に差し出した。
林子はその古色と故事とを賞し、そのことを予に語った。

 実はこの調理はかの家でも久しく作っていなかったので、これを知る者もなかったが、
今の侯が台所の古書留から捜し獲て再び昔のことを知ることができたとか。

 また同じ年の大晦日に以下の書付を送られた。
「切団子製法

一、小豆 一升四合 一、糯之粉 一升二合
一、粳之粉 八合  一、砂糖 二斤半

この割合で湯で練り合わせます。棹取小判にして小口切六歩くらいに切り、
煮立てました湯に入れ、浮いてよろしい時分に器に入れ差し上げます。
小豆はかねてからこしあんにしておき、乾かし、よくほぐし、ふるいにかけおきます。
または青黄粉などを小豆代わりにすることもございます。
切りだんすはもともと温かいものを賞翫するものですので、
『お出しするのは只今だ』とございましたら、
ずいぶん手回しとく急に仕立てて差し上げますものにございます。
以上

四月」

これは林子が水野氏に所望し、かの料理方から書き出した書付である。
(甲子夜話)



303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/06(日) 22:32:48.27 ID:6Z1DPi6F
そういえば昨日の世界ふしぎ発見がオランダ回で
第10代平戸藩主・松浦熈(松浦静山の息子)が後世に伝えるために描かせたと言う
「百菓之図」(和菓子、洋菓子など百種類の図と解説)について紹介していた。
再現されたお菓子が松浦史料博物館で提供されてるとか

親子そろって菓子のレシピに興味があったのかな

道可公恩自書之写

2016年10月22日 17:17

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 20:16:13.55 ID:rAcw/9qK
道可公、朝鮮へ御潜行 并商估板屋某所伝道可公恩自書之写

 法印殿(松浦 鎮信)が朝鮮国の軍に従った、七年間の武功は人が皆知るところである。
その七年、道可殿(松浦隆信)は領地に静かに留まられて、
兵具糧食の事をうまく処理なされていたので欠けることが無かった
という話は世人で知る者はいない。
漢の蕭何は治平の後、第一の功で?(サ)侯に封ぜられたというが、
まことに我が家では道可殿を以って比べることできよう。

 この頃、平戸の者の話で、
平戸の商人の板屋某の所伝に道可殿の御自筆があり、
その旨は
『朝鮮国に永く御陣しているので、法印公の御具足が損じている。
よって威を換えるべきだと思われるが、それには金子が御入用であるので借用を申し上げたい。』
との御文であったという。
この文からも、道可殿の仕事の有様と、道可公が遠所で労苦されている様を察することができる。
当時の状を見るがようだ。

 また今先手の鉄砲を預け置いてる頭の山本某の家は、
宇喜多家がまだ貴くなかったときに辞めて浪人して後
道可殿に随い、朝鮮攻めの時でも仕えていた者が先祖である。
今も言い伝わっているものに、
そのころの文と思われる絖(ぬめ、絹の一種)のような絹を引き裂いたものに文を書いたものがある。
その文には

『大御所様にも、御滞りなく今日釜山浦へ御着き遊ばれ、恐悦申し候。
只今御船帰り候故、この旨申進候。』

という趣旨が書いてある。思うに従行した者が遺し置いた家人へ贈る文で、慌しいときにこのようなものを認めたのであろう。
〔軍に赴かれたのは、法印殿なのは論をまたない。
御子肥州殿(松浦久信)も従い行かれたので、大御所と申す者は道可殿でなくて誰であろうか。〕

 しかし道可殿の朝鮮の軍に赴かれたのは、よその人はもとよりわからないとして、
わが邦の人もかつて知る者がいない。ならばこの文を見るに、秘かに渡海があったことを知れる。
ならば戦功のためではなく、完全に軍糧と兵具等の点検のため、潜行して行かれたのであろう。
豊臣公といえども知らないのももっともである。

〔聞く。この絖書の文、今は無くしたと。
その理由は、一旦山本の家が嗣絶し、婦女子ばかりいたとき、
持仏堂の下に大切な旧物を置くべしと、祖先の訓戒があり
婦女のことゆえ戒めは固く守ったが、皆朽腐して今はその痕さえないという。
今の砲頭は義子であるという。〕

(甲子夜話三篇)

日本の蕭何、松浦隆信!



千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神

2016年10月07日 15:18

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:00:56.45 ID:qLWXhDd3
千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神

 予の封邑に、筑前から浄瑠璃歌舞伎をする者が時として来てこの技をする。
これを寺中と呼ぶ。これまでいかなる故かを知らなかった。

 そういった中で印宗和尚が、行脚で博多の聖福寺に行ったときの話をしてくれた。

『かの開山千光禅師が入宋から帰朝のとき、宋国の多くの俗人が随従した。
よって聖福寺創立の時、境内にこの人を住ませた。
今はその子孫は増え広がり、皆歌舞伎を業とし、
渡世して他邦にも行ってその事をなしている。
昔は住所を八町と言われていたが、今は四町である。
なので人は寺中と称す。』

との話であった。

 また聞いた。
かの寺中と称する者は、人賤しんで、今も結婚するのはその一画に限ると。
これ思うにその党はもと異邦の人であるからだろう。

 予の城下にも高麗町と称して、一群の人が居る所がある。
これは祖先宗静公〔式部卿法印〕(松浦鎮信)が、
朝鮮の役に虜としてかの民を多く率いて帰られたときの子孫である。
よって昔は諸士の城家に勤仕する者の食事を調うことを担当していて、至賤の者であった。
この党も他と結婚をなさない。これもまた外国を卑しんだためである。
しかし歳月を経るに従って、その子孫はこれを嫌い、段々とそのところから出て、
我が民に混じり、ついに今では朝鮮の血脈が絶えた。
ただ我が邦の賤夫はその事をもって名のみ高麗町と呼ぶ。
これをもって思えば、博多の寺中はその祖先を思っている者か。阿々。

 これによって言う。
予の領邑の陶器を、世に平戸焼と呼んで名産としている。
この器は城下から十三里の辺邑に産している。
その地の陶匠の頭を今村某と言う。すこぶる富んでいる。
この祖も朝鮮の虜である。
予が先年領内を巡見したとき、その家で憩うと、家屋も狭くなく、
庭に仮山があって樹石の好景がある。
その山の中ほどに小祠はあって、鳥居を建てて額を掛けていた。
『熊川明神』と標してあった。

 予は始め疑って、熊川(クマカハ)とはいかなる神かと問うと、
某の祖先だと答えてきた。
すぐに悟り、朝鮮人の子孫であるためかと思った。
熊川(コモカイ)は朝鮮の地名なので、その地の人であったのだ。
(甲子夜話)



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:09:40.02 ID:6txp1WuR
熊川ではコムチョンになると思うのだが
熊江ならコムカンでコモカイにならなくもない

肥前鴉、高麗雉

2016年09月27日 17:43

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 23:09:36.89 ID:G5W7smCo
肥前鴉、高麗雉

 予は年毎に肥筑の間を往来している。
さて佐賀から神埼までの間に不思議な鳥がある。他では稀で見られない。
その形はくちばしが尖り頭が小さく尾と首が長く共に黒い。
羽と背とに白色がある。
鳩よりはよほど大きく、カラスよりは小さく、全体はカラスに似ている。
俗に呼んで”肥前がらす”という。これは他国にいないことからの称である。
あるいは”かちからす”ともいう。これは群行と鳴き声によって称す。
昔佐賀の領主が朝鮮から取ってきて領地に放った後繁殖したという土俗の話がある。
ある人は、これは漢土のカラスであるという。
我が邦の”かささぎ”と名づけたものは、黒白斑があることから”からすさぎ”ということからと聞いた。
百人一首の家持卿の歌にからすのことのことをいうのは講説の秘訓であるとか。

予の領地にも多久島という二里に足らない島の城地に近いところに、これの異種の雉がいる。
土人は”高麗雉”と呼ぶ。
これも祖先の宗静公〔式部卿法印〕(松浦鎮信)が朝鮮からの帰りにかの島に放たれたものという。
よってかの称がある。
この雉も領分の中の余所にはなく、ただかの島のみにある。
他でも稀に飼う者を見かける毎にその大本を聞くが、
皆かの島産のものから伝わったものだという。
(甲子夜話)




大坂御城中、深夜には殺気ある事

2016年09月13日 21:24

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/13(火) 16:32:21.63 ID:u8uFI+D3
大坂御城中、深夜には殺気ある事

新庄駿河守直規というのは〔常州麻生領主、一万石〕予の縁家で活達直情な人である。
寛政中、抜擢されて大番頭となった。

彼の話に、大坂在番に行って、御城中に居ると深夜などは騒々しい音がある。
松風かと戸を開いて聞くと、そうではなく正しく人馬喧乱争の声を遠く聞くようである。
しばらくすると止むが、時々このような事がある。
大坂の合戦で戦没の人の魂気が残っているためだと伝わっている。

予は奇聞と思い、その後在番した人に問うと、その事は知らないと言う。

駿州はでたらめを言う人ではない。
心無い輩は何事も気づかないのであろうか。

(甲子夜話)


どうやら、静山さんは洒落の通じない人は気に食わないようです



とりわけて心を決めろ

2016年06月09日 17:09

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 02:16:48.68 ID:r8hTccR9
勝ち戦で武具を落としたことは恥にならない。先を心掛けたと思われるのだという。
負け戦の時に落としたことは恥になるということである。その時によるのだろうが、
およそ負け色の時は取り乱すものだから、とりわけて心を決めろとの意味であろう。

――『備前老人物語』



諍いには気をつけて

2014年11月19日 18:51

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 17:58:55.50 ID:bm2j5plX
諍いには気をつけて

今の世もそうだが、ちょっとした口喧嘩が原因で殺人事件に発展することはよくあることだ。
現代では男女の別れ話が原因で女性側がよく殺されるパターンは不謹慎ではあるがお馴染みであり、何かと予測がついてしまうものでもある。
戦国時代でも似たようなパターンはあり、男色での浮気で揉めて殺された者もいれば、狩猟中に目当ての獲物を
いらない一言で逃して怒られて逆恨みで殺した者もいた。

今回の諍いもちょっとしたことが原因で殺人事件が勃発した。
1498年の寒い季節、松浦家の嫡流である相神浦松浦家当主・松浦政(1477-1498)はちょっとした行き違いが原因で
家臣の山田四郎右衛門を責め諍いとなってしまった。
これを恨みに思った四郎右衛門は弟・文左衛門を連れて出奔し、平戸松浦氏へと逃げ込んでしまった。

松浦政討伐を山田兄弟に頼まれた松浦弘定・興信父子は数年前に政の父・定によって煮え湯を飲まされた恨みもあり、
討伐の絶好の機会ととらえ、政の居城である大智庵城を急襲。
城は一夜で落城し、政は自害し、政の妻子を捕らえてしまった。

ただし、相神浦松浦家が平戸の松浦家に屈服するまであと70年の年月を要するのであった。




松浦久信大軍を切り抜ける

2013年03月02日 19:52

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/01(金) 22:18:14.00 ID:13Bk368R
松浦鎮信 (法印)の嫡男、肥前守久信は、文禄元年4月の松浦家の朝鮮への渡海の時には病に伏せっており、
病から回復して同年6月8日朝鮮に渡り、父・鎮信の陣営に向かう途中、にわかに多勢の敵軍が現れ、
久信の行く手を妨げた。

久信は少勢であったが敢えて屈せず、父への土産として持ってきていた酒肴を出させ、刀の石突で樽を破り
馬柄杓でこれを汲み、自ら呑んだ後、日高甲斐守、鮎川民部入道、南大和守兄弟を始めとした家臣たちに

「見よ、あの大軍を切り抜けるのは非常に困難なことである!
しかれば、この世の名残の酒である!各々、これを呑んで一戦致されよ!」

そう言って酒を与えると、皆も酒を汲み、そうして共に進んだ。

すると、敵が一面に備を展開している中、大将と見える者が、一騎でまっ先に進んで下知しているのが見えた。
ここに久信も備の前に出て身を伏せ、膝を台にして鉄砲を放つと、かの敵の将は馬から真っ逆さまに落ちた。

松浦勢はこれに乗じて一気に攻め立てる。これに敵は混乱し、引き退いた。
そこで松浦久信も人馬の息を継がせようと一旦休止しようとした所、南入道が深入りして、敵に捕らえられてしまっていた。
そこで弟の南蔵人も兄を取り返そうと的に突っ込む。これを見た松浦勢も、兄弟を救うべしと、久信を始めとして
一斉に切り込み、これによって敵陣は終に破れ、松浦勢は敵兵を追い散らかした。

しかし南兄弟は討死。その他負傷者61名が出た。討ち取った敵は130人余り。
翌日、この久信の勢は父鎮信の人に到着した。
(松浦法印征韓日記抄)

松浦久信、朝鮮に渡って早々少勢で大敵を破る、というお話である。






祇園守紋

2011年07月30日 23:04

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 18:08:16.03 ID:0Y9hlBW/
祇園守紋という家紋がある。いくつか種類があるが、いずれも巻物等が交差した図案となっている。
ttp://i.imgur.com/dU8Gq.gif
かもん

祇園社、つまり八坂神社の護符を図案化したというが、肝心の八坂神社は特にこの紋を使っていない。
ttp://i.imgur.com/6NM6N.jpg
6NM6N.jpg

この紋について疑問に思った松浦静山は、実際に家紋としている池田定常(松平冠山)に由来を聞いてみた。

「某も詳しく知りませんが、当家の言い伝えでは、この紋は天王(牛頭天王、八坂神社の祭神)より
授かったものと聞きます。
…が、それは表向きの話で、本当は『王』ではなく『主』から授かったのでしょうな、ふふ…」

(軽いネタ話のつもりが、とんでもない事を聞いてしまった……)

『天王』ではなく『天主』、すなわちキリシタンのデウスとやらに関係するものだと言うのだ。
すると因州池田家は、摂津池田家とのつながりか、それとも戦国のころ、信長傘下にいたキリシタン大名の
影響か何かでキリシタンと縁があるのか?キリシタンが『邪宗門』と呼ばれる、この時代にも?

(と、すると)
やはり祇園守紋を使っている柳川藩立花家は、旧主・大友家への義理でキリシタンをかばっているのか。
同じく岡藩中川家に至っては、家祖の中川清秀自身がキリシタンだったではないか。

ならば意外にもキリシタンご禁制のこの時代、信者をかくまっている大名は多いのか?こうなると島津家の
丸に十字紋も怪しく思えてくる。いや、あれは昔からの紋だ、関係ない。いや、分からんぞ……

(いかん、頭がおかしくなりそうだ。やめよう。)
「ハハ、ご冗談を。」何とか定常に笑みを向けた静山は、早々に話を打ち切った。(甲子夜話より)


宗茂とか瀬兵衛の子あたりがキリシタンをかくまったいい話…かもしれないが、真相は霧の中だし
松浦静山の胃に悪い話、ということで。




244 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2011/07/31(日) 00:45:58.56 ID:tsHHT7NT
>>243
さすが甲子夜話、江戸中期のネタの宝庫である。
たしか、13人の侍の元ネタの事件も甲子夜話にあったな。

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 03:40:59.38 ID:S2j9Mxkv
>>243
宗茂は、育ったのが博多近辺で祇園信仰が盛んだったから祇園守を家紋にしたみたいだけどな。
宗茂が考案した初期のは、扇に祇園守っていう十字とは全く別の形の物だったりするし。

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 16:22:02.46 ID:oalwK8VI
>>243
中川清秀が自家の家紋とした中川久留子は十字架を図案化したものと言われているが
あれも祇園守紋の一種なのか
そういえば、宣教師が来日した当初、島津の家紋を見て
キリスト教徒に違いない、と喜んでいたらキリスト教に改宗した大友氏と
戦いまくってがっくりしたとか

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 16:55:26.63 ID:SFAnWIgp
丹羽さんの筋違い紋(×)を見た宣教師はどう思ったのかねぇ
やっぱキリシタンと間違えられたりしたんだろうか?

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 20:14:06.67 ID:vWgKz8ng
>>252
>「中川清秀が自家の家紋とした中川久留子は十字架を図案化したものと言われているが

中川久留子を「なかがわくるこ」と読んで一瞬なんのこっちゃと思ってしまった。

平戸城の焼失

2010年02月27日 00:07

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 10:44:28 ID:Jlp9Vh6I

さて、ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1266400609/206 がらみで思い出した悪い話

長崎県の平戸にある平戸城と言えばあの松浦家の居城であることは有名だが
この城は安土桃山時代に松浦鎮信(法印)が心血を注いで建設した物の
完成直前になって突然その鎮信自身が火を付けて全焼させてしまった。

この理由については松浦家にも良い史料が無く真相は不明
関ヶ原の合戦後、嫡子・久信を徳川家康がなかなか帰国させてくれないので
疑われていると思った鎮信が嫌疑を晴らすために城を焼いたとも言われている
(が、久信は京で急死している 家康の疑いが晴れずに自殺させられたとも)

その後城の再建が許されたのは約100年後の元禄時代になってから。




無類の忠義者、松浦鎮信従者、金子九右衛門

2009年11月17日 00:08

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 18:42:19 ID:jLSROXHe
松浦鎮信の従者に、金子九右衛門という無類の忠義者がいた。

戦の折りのこと。
敵と相対するうち、戦機と見た鎮信、「おい、くつわを放せ」と九右衛門に命じる。
しかし九右衛門、しっかと馬を押さえて動かさない。
何度言っても聞かない九右衛門に、ついに鎮信は立腹し、軍旗をもって殴り始めた。
「まだ、潮時ではありません」
九右衛門はいくら罵られようと離さない。
やがて頃合を計り、「ここです!」と馬を放つと、お味方大勝利となった。

そうしたことが何度もあったという。

また、鎮信は陣中で夜出歩く際、馬上で自ら松明を持っていた。
松明は、灯りとするうちに燃えカスがたまって暗くなる。
そうすると、鎮信は馬を引く九右衛門の頭に松明を叩きつけ、煤を落とした。
そのため、九右衛門の頭はいつも火傷だらけだったという。

……いや、忠義話として紹介されてるんだけど、鎮信ヒドスってことで




218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 19:01:43 ID:iBkk3sVd
戦の勝機を見誤らない辺り、単なる従者にしとくのが勿体無いが・・・・
主人を選べばそれなりの出世をしたかもな。

「この殿様はワシが付いてないとダメだから・・・」とかそういう感じなんだろうか。

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 19:28:49 ID:ECSLbcPS
後者の話が前者の話の仕返しにしか見えんたい