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少弐氏内紛と龍造寺氏

2020年01月20日 18:27

550 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 16:37:59.97 ID:cD4CUJU9
天文五年、九月八日、少弐資元は四十八歳にて多久城にて卒去した(実際には九月四日に、大内義隆の命による
陶興房の攻撃で資元は自害したとされる。)

少弐氏は日を追って衰え、大内は年月を得るごとに繁盛し、この時、西国平均の功莫大であるとして、
大内義隆を大宰大弐に叙任された。さらにこの年、天子御即位の料を調進したため二品に叙し、兵部卿を兼ねて
中国九州の諸将に冠として、その威万人の上に覆った。世の転変は今に始まったことではないが、眼前に
起こったのである。

勢福寺城にあった少弐冬尚は。父・資元の卒去を聞いて悲泣啼哭して前後を忘れるほどであった。
旧交の諸侍は憐れみを成し、或いは茶の会、酒宴をして冬尚を慰めた。
このような時に、江上尚種が盃をひかえてこのように申した

「おおよそ、人にとって世の栄枯は天の命ずる所であるから嘆くべきに非ずと言いますが、つらつらと
古昔を思うに、右大将家(源頼朝)の御時、御先祖資頼公を大宰少弐に補任されて下向あってより以来、
九州二島はその威に伏してきました。その間大内氏は、わずかに周防国に安堵し、異国の勘合船を
司るばかりであったのに、将軍家に対して聊か忠が有った故に、過分の俸禄を受け、あまつさえ今や
九州二島を横領せんとしています。
御当家の弓矢末に成り、大内のために脅かされること、返す返すも無念であります。ただどうにかして、
少弐家再興の謀がないものだろうか。」

これを聞いて、少弐冬尚を蓮池城に保護した小田覚派入道(資光)は申した
「それは誰も同じ心である。そして今大内家のことを聞けば、武備は廃れはて蹴鞠和歌のみを持て囃し、
栄耀満ちて欠けることを知らずという。時既に到れり、早速に軍を起こし旧好の武士を駆り集め、
冬尚公を大将として、先ず太宰府の代官・杉豊後守隆連を攻め落とし、すかさず中国に渡り少弐家の安否を
天道にかけて試すべし!」

そう申すとその場の面々は主の忠義を感じ、一同に「然るべし!」と申した。

しかしこの中にあった剛忠公(龍造寺家兼)は、席で姿勢を整え、言葉を和かにして言った
「この事、皆々が思っている所存であり、武家の本懐であるのだから、誰が進もうとしないだろうか。
然れども、退いて愚案を廻らしてみたのだが、大内家が和歌風流を好み風俗末になっていると雖も、いま
公方の御覚え朝廷の御恩厚く、九国を管領し中国を治めて、龍の水を得たごとくである。
陶、杉、相良等の老臣相並んで非を諌めるに身を庇わず、軍に望んで命を惜しむこと無し。
義隆は毎事を彼らに任せているため、国は治まり民は安らかである。これは我等にとって、天の時が
至っていないという事では無いだろうか。

密かに兵を集めて進もうとすれば、筑前の数城には敵が有り、退いて険阻に支えようとしても東肥前には
さほどの要害が無い。これは我等にとって地の利が全く無いことを示している。

今は大内の威風強く、三前二島(筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬)のような代々相伝の国人さえ皆、
少弐家を捨てて大内に属している。況や他国では問題にも成らない。人の和が無いのである。
ただ時を待って命を全うし、徳を施し人を懐せれば、人みな往時を思い、招かなくても集まり、
何時であっても時が至ったと見れば速やかに恨みを報いる事に何の仔細があるだろうか。」

そのように、理を先とし義を旨として申されると、人皆尤もと同意した。
しかしその中で小田覚派入道は少弐冬尚を傍らに招き
「剛忠公は大内に内通したと覚え候。あはれ諸将の心を伺わずに、即座にその理を、あらかじめ
申しておくべき物を!」と言い捨てて帰った。少弐冬尚もこれに同意し剛忠公を憎んだためであろうか、
天道に背き家は断絶した。老公(剛忠)の忠心は違っていなかったのだ。後に龍造寺の家は起こり、
武名天下に響いた。

551 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 16:38:18.91 ID:cD4CUJU9
こうして少弐冬尚の疑念は溶けず、小田覚派入道と密談した。覚派入道は了承し、て、天文六年四月、
八百余騎を従えて水ヶ江に向かった。剛忠公はこれを聞くと「我全く冬尚に別心無し。これ天魔波旬が
覚派入道の心に入れ替わったのだ。」と、自ら逞兵を引きすぐり水ヶ江の東、木原村に出向し、天地を
動かして戦った。小田方の小田新九郎政光が横槍を入れて、水ヶ江の龍造寺勢が敗北しようとしたが、
剛忠公は諸卒を進め鬨を挙げて砕き難きを破る所に、龍造寺豊前守胤栄、和泉守家門、および鍋島平右衛門尉
清久、同駿河守清房が遅れ馳せに来て悉く突き返し、駆け立ち攻めたため、小田方は散々に打ち負け、
悪しくなって引き退いた所を、龍造寺方は蓮池の城下まで押し詰め首数十を討ち取って静かに陣を返した。
少弐冬尚は両家に扱いを入れ、互いに和平となった。

(中略)

天文十年、龍造寺剛忠公の水ヶ江の御館の門の前に、編笠を深くかぶった美美しい男が一人、何処からともなく
来て佇んでいた。館より士が出て「誰か」と問うと、「我は少弐冬尚と申す者である。剛忠翁に一言云いたい
仔細有って、ただ一人来た。」と宣われた。

剛忠公は急ぎ御出になり、奥へ請じて「現なき御有様かな、何のために御渡されたのでしょうか。」と
尋ねると、冬尚は涙を流し
「我、今大内に家を削られ家業断絶せんとしている事、天運とは云いながら遺恨更に止みがたい。
今国中を見るに、御辺は末頼もしい人であれば、少弐家再興の事、偏に御辺を頼みたいのだ。
もし承引無ければ命を白刃に縮めて恨を黄泉に報じよう。」と申された。
剛忠公も数代の旧恩であればどうして拒否を申されるだろうか、その上御有様を見て老涙さらに留まること無く、
「ご安心思われ候へ、それがし微力の限り粉骨を尽くします。」と申し、人を数多付けて冬尚公を城原城へと
送り、御次男家門を以て後見とし、江上尚種、馬場頼周と共に少弐を補佐した。

(肥陽軍記)

天文六年の少弐家の内紛とその顛末。ちなみにこの小田資光、あの常陸小田氏の支族ですね。



552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 18:43:40.88 ID:OUJ9NcWW
鍋島直茂が一旦養子入りした千葉とか、あの辺は元寇時?に下向した坂東武者の子孫が多いよね

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 18:43:40.88 ID:OUJ9NcWW
鍋島直茂が一旦養子入りした千葉とか、あの辺は元寇時?に下向した坂東武者の子孫が多いよね

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 21:12:49.07 ID:RWxrI8n9
>>549
熊さんなの竜造寺じゃなくてむしろ鍋島直茂のおじいちゃんだったのか
肥前の熊って異名となんか関わりあるのかなー
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田手畷の戦い

2020年01月19日 21:24

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/19(日) 14:17:38.24 ID:ZiDYjxZ8
三前二島(筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬)の守護である大宰少弐政資は、去る明応六年大内義興に滅ぼされた。
嫡子少弐高経も討たれ、家は既に断絶の様相であった。
ここに政資の次男が、父生害の時は十歳であったがこれを東肥前の馬場、横岳(資貞)らが、慈恩を忘れず同国
綾部の城に取り隠した。彼は成長の後父兄の古きことを思い出し、世の転変を伺い、どうにかして義兵を挙げ
会稽の恥を雪がなければと肺肝を砕いた。横岳資貞はこれを憐れみ、元服を進め、少弐資元と名乗られた。
彼は密かに廻文をまわして旧好の武士を招き、時を待ち、運を計った。

大内に付き従っていた肥前の諸士は抜け抜けに馳せ参り、また豊後の大内(政親)もこの事を聞いて、資元を
聟に取ったため、その威勢いよいよ強くなり、大内に対し謀を成した。

大内家はこれを伝え聞くと安からず思い、急ぎ討手を遣わそうとしたものの、思いもよらずそれが延引した所に、
少弐資元は対馬の宗対馬守義盛を通して京の将軍家に訴え、家断絶を嘆き申し上げると、将軍足利義稙公は
この訴えを御許容あって、肥前守に成し給わった。

大永の末の年、肥前国の筑紫尚門、朝日頼貫の讒言によって、大内氏(大内義隆)は少弐資元を滅ぼそうとし、
大宰府に在った大内の代官・杉豊後守興運は筑紫、朝日と談合して、享禄三年の秋、1万余騎を催して
東肥前に乱入した。この時少弐資元は多久の城に隠居し、新たに嫡子の少弐冬尚が綾部城を守っていたが、
馬場、横岳、武藤出雲といった人々を駆り催し、東肥前に出向して天地をひしめき防ぎ戦った。

杉の軍は勝ちに乗じ、少弐冬尚は退いた。神埼に陣していた龍造寺和泉守(家兼)は、家門である少弐の
難儀を聞き、一族を率して一つになり先陣に進むと、保、高木、小田、犬塚等の諸侍も鞭を上げて少弐に
馳せ加わり、田伝村にて相支え、ここを最後と戦ったものの、少弐方はついに敗色になって、先陣の龍造寺勢も
御陣が崩れようとした、その所に、

ここに誰とも知らぬ、赤装束の赤熊(の面をつけた)武者が百騎ばかり陣中より出て、追いかける敵を切り崩した。
杉方は思いもかけず突き返されたため色めき立った。これに剛忠公(龍造寺家兼)は大いに力を得て、自ら諸卒を
いさめ、突き戦った所、中国方は散々に敗北し、討たれる者数しれぬ有様であった。朝日頼重と筑紫尚門は
ただ二騎踏み留まり、「返せ返せ!」と呼に敵を数多討ち取ったが戦死した。その他少弐方が討ち取った
首は八百余級であった。

少弐冬尚は勝鬨を執り行い、龍造寺剛忠公の軍功を感じて、同国川副庄一千町を授けられた。大内は安からず思い
将軍家に少弐を誅するべしと訴えたが、御免無き故に双方無事となった。

かくして龍造寺剛忠公は御帰陣の後、あの赤熊武者について問うた所、その答えは
「彼らは本庄村の牢人、鍋島平右衛門尉清久父子とその一族です。年来彼の地に居住し、いかにしても
今後の機会に武功を顕して一所でも安堵を得たいと思っていた所に、今度の乱が出来て、これを幸いと
討ち出てきたわけですが、『中国方に付くべきか、少弐殿に参るべきか』と疑議を成し、本庄の神社に参り
鬮にて占い、その結果として参ったのです。」

これを聞いて、龍造寺剛忠公は御感のあまり、鍋島清久の嫡子・左近将監清正を聟に取ろうとしたが、既に
妻が有ったため、次男・孫四郎清房を、嫡子である龍造寺家純公の御娘に娶せ、本庄の八十町を聟への
引き出物とした。彼は後に、駿河守清房・法名剛意と名乗った。
これより龍造寺剛忠公の威勢次第につのり、近境を覆わんとした。

(肥陽軍記)

少弐勢が大内氏を破った田手畷の戦いと、鍋島清久の「赤熊の計」についてのお話。



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 21:12:49.07 ID:RWxrI8n9
>>549
熊さんなの竜造寺じゃなくてむしろ鍋島直茂のおじいちゃんだったのか
肥前の熊って異名となんか関わりあるのかなー

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/22(水) 19:08:20.57 ID:33CWx1bL
>>553
サラッと流されてるけど龍造寺家兼はこの時点ですでに77歳のお爺ちゃんだよな

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 00:11:18.39 ID:wsaLouGR
>>573
凄いな。人望もあったんだろうな。

土器割の天狗

2015年02月28日 18:12

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 16:47:51.02 ID:XVBZi5ie
江上武種の家人に光安刑部允という者があり、城原に居住していた。
天性不敵な剛の者で、まだ忠三郎と名乗っていた年若き頃、勢福寺の城番をしていた夜に
敵300が攻め入らんとしてきたのを、僅か10人ほどで防ぎ、難なく追い払って高名をなした者である。

この刑部、普段は山狩りを好み、猪や猿の類いを捕ることが得手であった。
或る夜のこと、刑部は犬を連れ勢福寺大明神の上にある菩提寺山の頂き土器割(かわらけわり)という高山に猪を捕りに登った。
この山は九州において、豊前の彦岳、豊後の右田岳、日向の法華岳、肥後の阿蘇岳と並ぶ隠れなき天狗の住処であった。

不意に、連れていた犬が猛々しく吠えて騒ぐ。
「不思議である、何であろうか」と刑部が窺い寄って見てみれば、それは鹿や猪の類ではない。
月明かりでよくよく見てみれば、柑子を割ったような黒っぽい石が道の脇にあると判った。
刑部は取って帰って明るくなってからよく見てみようと、徐らこれを懐に入れ峰筋の細道を下ったのであるが、
やがて懐が少し大きくなって重くなったように感じた。
探ってみると石は天目ほどに大きく、また重たくなっていた。
刑部は怪しみつつも尚も坂を下り、四、五町を過ぎた頃、石は鞠ほどの大きさになって重いこと際限なしであった。
しかし、刑部は少しも騒がず「よぉし、どうにでもなれ。汝には負けぬぞ」と尚も下っていたが、
遂には大磐石の如くに大きくなり刑部も動けなくなってしまった。

もはや為す術がなく、脇の谷へと落としてみれば、その音は雷のように鳴り響き夥しいというばかりであった。
暫くして、向いの尾崎に数千人の笑い声が山も崩れんばかりに聞こえだした。
刑部は刀の柄を砕けんほどに握り締め四方を睨んだが、眼に映るものは何もない。

刑部は力及ばず我が家に帰り、このことを主に語れば
「ただただ大きくなる稀代の珍物であったのに、持ち帰れず残念であったな」と笑った。
(北肥戦誌)



676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 17:26:27.85 ID:0laOtPvF
七条さんがアップを始めたようです

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 23:06:21.73 ID:ggr4z1XJ
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
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少弐兄弟の再興のやり方

2014年11月20日 17:51

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 22:31:03.02 ID:kV3ZtmYj
少弐兄弟の再興のやり方

1559年、少弐冬尚が勢福寺城で斃れた。
同じく冬尚の長弟・千葉胤頼も自害して果てた。

この時冬尚には3人の弟がいた。
相神浦松浦家の養子となっていた松浦鎮(生年不詳だが資元の三男とも)
次弟も三弟ともされる少弐政興(資元の三男とも四男とも)
末弟の少弐元盛(資元の四男とも五男とも)

鎮は養父・親に廃嫡され幽閉されてしまった。
そのあとの鎮は知らない。
残るは政興と元盛の2人である。

政興は『武』で、元盛は『政』で少弐家再興を企んだ。
政興は肥前中野城主・馬場鑑周(頼周の孫)に匿われた。
元盛は今泉朝覚を使者とし、元盛を当主として再興を訴えた。

まず元盛のほうは再興は叶わなかったが、朝廷の綸旨により龍造寺隆信は元盛の命を保障することとなり、元盛はのちに高野山にのぼった。
子供たち4人は隆信に味方することとなる。

一方政興は大友宗麟の同盟を結び、1563年に有馬晴純などの有馬家一門を中心とした西肥前諸勢力と共に隆信に対して挙兵した。
しかし頼みの一角であった有馬家らは早々に敗れてしまい、擁立した馬場鑑周も1565年に肥前中野城にて隆信に降伏してしまった。

進退窮した政興に見えたが、大友宗麟からの後援はいまだあり(毛利家の動向に影響はしているが)、綾部城(少弐山城のことか)にて健在であった。
またこの時は隆信も思うように勢力を拡大できていなかった。

1568年、隆信の娘婿になっていた旧臣・小田鎮光(政光の子)が政興を許してほしいと願い出るが、隆信はこれを許可せずまもなく鎮光は龍造寺家から離反した。
1570年、今山の戦いで大友軍を奇襲で破り勢いづいた隆信は少弐政興討伐をするが、政興は
1572年、筑紫氏や横岳氏の擁立で再びの抗戦するも、綾部城は落城した。(別の城ともいう)
(1571年にも綾部城落城とあるが、こちらは宮山城のことであるという。<少弐氏滅亡という。>)

約10年にもわたり隆信に抗戦した政興であったが、隆信は政興を助命し出家したという。
のちに政興は九州を去ったという。

これにより少弐氏の再興は失敗と終わり、肥前は龍造寺隆信の時代となった。

隆信が冬尚の弟たちを助命した話


(北肥戦誌や福岡県みやま市の史料などを参考)




春日山若武者先に落されて

2013年05月23日 22:08

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:27:56.12 ID:06GvmBN2
同じ地名と言えば佐嘉の北、現在の脊振山地一帯である山内の入り口にある城は春日山城といって、謙信の居城と同名だな。


弘治3(1557)年に龍造寺勢はこの城を占拠して、小河信安に普請を命じ、仇敵神代勝利攻略の拠点としようとした。
城の守備は小河の一族が担当したが、九月勝利はこれを攻めて小河一族に多くの死者を出した。

十月十五月信安はこの仇を取らんと手勢を率いて山内に攻め込んで、隆信も軍を率いてその後を追ったが、
勝利もこの動きを察知して兵を招集して迎え撃った。
翌十六日、信安、勝利ともに敵軍の布陣を物見しようとしたところ、薄明かりの中でお互いばったりと遭遇した。
狭い地形でお互いの従者も加勢ができず、一騎討ちしかできないような場所であった。
信安は一族の仇とばかりに勝利の腹を槍で突いて傷をつけたが、勝利は槍を返し信安を突き、
勝利の従者が駆け寄って信安の首を刎ね討ち取った。
勝利も手負いであったが、龍造寺の先陣大将を討ち取ったことにより神代勢も勢いを増し、
ついに鉄布(かなしき)峠で龍造寺勢を大いに破った。

この頃一首の狂歌が与止日女神社に張り出されたという。
春日山若武者先に落されて また清恥をかくぞ鉄布(かなしき)

少弐政資といえば至って悪の人であり

2012年09月29日 20:29

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/29(土) 14:36:21.07 ID:v/n0K/kk
少弐政資といえば至って悪の人であり、どんな事にも非義の行いが多かった。

ある時の事、宗像の大宮司より政資に、印子金(良質の金)で作った獅子の像一匹を増進された。
その姿は後ろを向く形であったため、政資は、対となるもう一匹があるはずだと思い、それも合わせて
自分に渡すようにと、所望の使いを、数度にわたって大宮司へと遣わした。

しかしその獅子像は元来1匹しか無かったため、大宮司はその旨を伝えその要求を断ったのであるが、
政資はこれを信じず、

「私に渡さないため深く秘蔵するとは!なんと憎いことか!」

と大いに怒り、ついに大宮寺を自害させた。大宮司は自害に及んで、このような辞世の句を詠んだ

『根をたてば 末は枯葉の藤原や 何せうにとて打捨にけり』(藤の原と、藤原氏である少弐氏を懸けている)

後に大内義興によって追討された、少弐政資についての逸話である
(陰徳太平記)





611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/29(土) 18:49:47.03 ID:XbXJhMnF
狛犬じゃないんだから・・・

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/29(土) 20:23:06.65 ID:cKk1FnPP
ウッ獅ッ子、倍率ドン、更に倍!

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/29(土) 20:33:54.95 ID:LkCWWSBB
長安・・・。

614 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/30(日) 00:49:44.53 ID:hTyMeY/d
>>610
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3815.html
こっちだと獅子の像が猫の像になってたりするけど同じ話っぽいよね

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 08:01:26.61 ID:XwnLgV5F
道灌「猫と聞いてはだまっておれぬ」

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 10:57:38.72 ID:fCyEyFS1
三楽斎「犬のほうがいいのう」
・・・少弐さんというといつ討ち死にするんだろうって聞いてしまう

少弐殿の先祖の武藤検仗頼氏は

2012年04月09日 21:29

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/09(月) 12:19:55.42 ID:gLthjQOJ
山本常朝
『寄懸目結の紋は、武藤少弐殿の紋だ。
少弐殿の先祖の武藤検仗頼氏は、
むかし、八幡太郎義家公の奥州征伐時に、朝廷から検仗として派遣された。
その合戦で、頼氏は一番に敵方の大木戸を打ち破る戦功を立てた。
義家公がそれを賞し、打ち破った木戸の形を子々孫々まで長く家紋とせよとおおせになった。
それ以来、武藤少弐殿の家紋となったという。
このことは少弐系図の言い伝えである』




559 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/09(月) 17:28:08.60 ID:O9lQZdmR
明治以前の苗字や家紋の付け方は自由で面白いよね
明治以降は戸籍やら徴兵制の概念が生まれてそういう自由はなくなった、
まあ近代文明の恩恵もあるし、
一概にどちらが自由とは言えないけど

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/09(月) 18:55:14.38 ID:gzzjlJ5D
家紋とか戒名とか、自分の名前ですら昔の人のが自由に作って使ってるよな

少弐政資の辞世が好き

2012年02月10日 21:54

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/10(金) 00:56:32.02 ID:xO0XYn2s
少弐政資の辞世が好き

花ぞ散る 思えば風のとがならず
時至りぬる 春の夕暮れ

花の散り様にもいろんな捉え方がある




862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/10(金) 01:14:25.83 ID:N/8HrRSC
確かにいい句だな・・・さわやかだよ

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/10(金) 11:06:30.08 ID:did6RLua
少弐は戦死の家系だよなあ

864 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/10(金) 20:07:57.08 ID:xO0XYn2s
少弐家は戦になれば当主が魁するような家風だったんだろう。
そうとしか思えない当主の戦死率。
爽やかなまでに無常を受け入れる辞世と言い、
鎌倉以来の武家の名門の武士的な上品さがある

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/10(金) 20:34:56.44 ID:WTZ3zLJg
ライバルの菊池が勤皇の誉れ高いぶんその割を食らった評価受けてきた感じ
菊池が没落した後に台頭してきたライバルが大内というのもまた

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/10(金) 21:29:41.09 ID:415rCOFC
少弐家当主「私が死んでも代わりはいるもの」

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/10(金) 21:32:16.18 ID:U17yYi2S
まあ少弐氏の場合、当主古人云々よりその官位である大宰少弐の方が
本質だった節は確かにあるw

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/11(土) 01:31:42.04 ID:Q8NC4alX
>>867
だからこそ大内義隆は上官の大宰大弐への任官を望んだわけだw

神代勝利、龍の夢

2010年03月29日 00:08

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/28(日) 10:52:25 ID:u8tBh6o2
>>696 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3909.html
小河信安といえば、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-771.htmlの逸話があるが、
その中に登場する神代勝利の逸話である。

龍の夢


勝利は父の代に没落していたが、あるとき「 足に水を浸していると龍になった 」という夢を買い取った。
神代家の家運はそこから隆盛を迎え、居城を回復し少弐家の重臣として活躍した。
しかし、同じ少弐家中の龍造寺氏の台頭は目覚ましく、馬場頼周と勝利は龍造寺排斥を企ていったんは
成功するも、龍造寺隆信の登場により主家滅亡の憂き目にあう結果となった。

勝利にとっては隆信は主君の敵、隆信にとっては勝利は一族の敵であり、両者は不倶戴天の仇敵となった。
勝利は少弐家滅亡後も隆信と互角の戦いを続け、1555年に一旦和睦することとなった。
勝利を排除したい隆信は和睦の宴席で彼を毒殺することにしたが、未然にその陰謀を察知した勝利は巧みに
毒物を避けつつたらふく馳走を受け、呆然とする隆信を尻目に彼の愛馬を奪って悠然と引き返したという。

以降両軍は何度も干戈を交え、神出鬼没の勝利にほとほと手を焼いた隆信は縁組を交わして和睦するこ
ととなった。
和睦後は息子の長良に家督をゆずり隠居したが、嘉瀬川ダム発掘調査によると勝利の隠居所の規模は
かなり広壮だったと推測され、隠居所で見果てぬ龍の夢を追い求めていたのかも知れない。




716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/28(日) 11:40:53 ID:oVOies6i
肥前のクマーとクマー代勝利がライバルだったわけだ

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/28(日) 13:03:27 ID:aHvwDqWg
夢を買うって…
なんかそんな話がまんが日本昔ばなしであったな

東の小田氏も相当弱いが

2010年02月07日 00:06

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 10:12:37 ID:dPvcSpTD
東の小田氏も相当弱いが西の少弐氏もいい勝負だと思う。弱さが。



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 10:46:11 ID:+FX4dSAG
少弐も弱さとしぶとさは相当なものだが
小田氏と違って当主がしょっちゅう戦死するからなぁ

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 11:08:14 ID:Imz094Dq
少弐に仕えてた肥前小田って常陸小田の傍流なんだよね

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 11:23:14 ID:dPvcSpTD
初代  武藤資頼
二代  少弐資能 (戦死)
三代  少弐経資
四代  少弐盛経
五代  少弐貞経 (戦死)
六代  少弐頼尚 (菊池に敗北、勢力減衰)
七代  少弐直資 (戦死)
八代  少弐冬資 (今川貞世に消される)
九代  少弐頼澄 (敗戦→亡命→死亡)
十代  少弐貞頼 (英主。勢力復活)
十一代 少弐満貞 (戦死)
十二代 少弐資嗣 (戦死)
十三代 少弐嘉頼 (戦死)
十四代 少弐教頼 (戦死)
十五代 少弐政資 (敗戦→自害)
十六代 少弐高経 (政資から家督を継いだ3日後に戦死)
十七代 少弐資元 (自害)
十八代 少弐冬尚 (龍造寺一族抹殺で熊を目覚めさせる。最期は自害。)

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 11:25:26 ID:yPgz3mr9
>>307
すごい一族だな・・・
そんなに当主が戦死してるのに、よく滅びずに何百年も続いたね

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 12:35:41 ID:O8MFrwZa
当主の戦死は多いが精子も多かったという事か

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 13:07:40 ID:ABQ9+zGw
今川も結構、当主や跡取りが戦死や夭折と思っていたけどこれには勝てない。

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 13:11:22 ID:MSxPQd3w
菊池も悲惨

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 13:11:56 ID:ZW1WUNOW
>>307
補足すると、少弐景資も兄経資との家督争いに敗れて討たれてる