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丁寧に借りパク宣言するむりうじ公

2020年12月02日 19:35

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/02(水) 14:05:18.04 ID:LrkvWOEY
蘆名盛氏、太鼓方の出向延長を伊達輝宗へ要請

~前略~
然らば加納弥兵衛去年より逗留し申し候
内々に御当方へお届けの為、近日罷り立つべくの由申し候
然しと雖も、盛隆太鼓の稽古一向に罷りならざりし候
当春中より秋まで徒に数日を送り候
当冬中に稽古致す為、来春二、三月の時分きっときっとと返す返すも申すべく候間、お暇給わり候わば祝着たるべく候
盛隆稽古し申し候間、斯くの如く申し候
謹言恐々

(天正四年か)九月十三日 蘆名止々斎 花押
米沢(伊達輝宗) 江
(東大史料編纂所 編 大日本古文書

超訳
去年からお借りしてた能の太鼓方の加納弥兵衛、そろそろ送り届けないといけないのですが息子がダラダラしてちっとも稽古できませんで
本来なら二、三月には絶対の絶対にお帰ししますと何度も何度もお約束しなくてはいけないのですけれど
来春まで猶予して頂けたら喜ばしいことでございます
息子も稽古し出しましたので、このようにお願いします

丁寧に借りパク宣言するむりうじ公であったとさ
輝宗の立場がちょっと悪い話



471 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/04(金) 13:17:46.33 ID:3FfByG3y
>>469
きっと加納が眉目秀麗なので盛隆が稽古よりも落とすことに執着していて、この度やっと稽古し始めたことを言ってるのだろうね
加納の尻を鼓に見立てて夜な夜なパンパンと励んでそうだわ
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蘆名盛氏、盛隆と松本家

2011年01月25日 00:00

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/24(月) 10:25:53 ID:bkCiApbO
永禄元年、会津四家の一つに数えられる奥会津の豪族、山内俊政・横田俊範兄弟が兵を起こした。
二人が攻めるは岩谷城、蘆名四天の筆頭松本家の根拠地である。
折から当主松本舜輔やその子氏輔は黒川城に詰めており、城代井上河内守が代わって城を預かっていたが
何分不意打ちである。
河内守は討ち死に、城も落城したとの知らせが黒川に届くまでそう時間は掛からなかった。
報告を受けた蘆名盛氏は、相当激しい怒りを発したらしい。
それでなくても、山内家は河原田家、長沼家と並んで蘆名家と会津の覇を競ってきた間柄。
決着を付ける時と見たのかもしれない。

「すぐに兵を発し山内家を討ち滅ぼすべし」

そう下命した盛氏に、しかし異を唱えた家臣が一人いた。

「此度のこと、兵を出すには及びませぬ。某にお任せいただければ必ずや山内一族を帰順させて参ります故、
しばし追討の儀はお待ち下さいませ」

そう訴え出た者こそ、山内一族の一人であり、例外的に蘆名家に早くから帰順していた沼澤政清である。
この頃田村家との抗争が激化していた頃でもあった為か、盛氏は政清の願いももっともなことであると思い、
政清が山内舜通(山内家当主で俊政、俊範の長兄)の下へ赴くことを許した。
すると果たして、政清はほどなく山内家との和議を成立させて帰ってきた。
それも山内家の蘆名家への臣従という、明らかな蘆名家優位の講和でだった。最良の成果といっていいだろう。

……ただし岩谷城の山内家への割譲という条件を取りまとめて、ではあったが。

舜輔「えっ」
盛氏「えっ?」
舜輔「何それこわい」
政清「(にやり)」

家臣一人殺された挙句、領地は戻ってこなかった上に割譲に対するフォローもなし。
と、ここまでなら会津統一のための外交配慮の結果とも取れる話なのだが、この話には続きがある。

後の天正二年に松本氏輔が田村清顕と戦って討ち死にすると、嫡男行輔が七歳の若年であることを理由に
領地は召し上げ、
その領地は沼沢政重(政清の子)に与えられてしまった。
さらに行輔が元服した後にも「若年の故」をもって黒川城下の屋敷さえ収公し、政重に払い下げた。
挙句の果てにはこれに不満を爆発させた行輔の謀反、その翌年の松本一族関柴輔弘の謀反も
沼沢に鎮圧させている。
そしてその後に松本家を継いだのは、松本源兵衛なる宗家との血縁すら判らないぱっと出の男だった。

どう見ても蘆名盛氏、盛隆二代足掛け30年越しの松本家潰しにしか見えないお話。




494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/24(月) 10:28:24 ID:bkCiApbO
ちなみに松本さん家の反乱年表。

明応元年(1492年)松本藤右衛門輔忠、富田氏、伊藤氏などと組んで謀叛。蘆名盛高に討たれる。
明応四年(1495年)松本備前守輔豊(輔忠の次兄)、猪苗代氏、伊藤氏などと組んで謀叛、長沼正義に討たれる。
明応七年(1498年)蘆名盛高、松本家当主豊前守行輔、その従兄弟大学頭輔治、小四郎輔任ほかを誅殺する。
明応九年(1500年)蘆名盛高、謀叛与同の疑いで松本対馬守輔政(輔忠の三兄)を滅ぼす。
大永元年(1521年)蘆名盛舜、謀叛を起こした松本大学、藤左衛門兄弟(宗家との血縁不詳)を討つ。また同年、猪苗代氏の謀叛に松本一族多数が参加。
弘治元年(1555年)松本与右衛門輔敦(輔忠の子)、猪苗代氏庶流の小桧山盛長と共に蘆名盛氏に謀叛、討たれる。
天正十二年(1584年)松本太郎行輔(輔豊の玄孫)、蘆名盛隆に謀叛し討たれる。
天正十三年(1585年)松本輔弘(輔忠の孫)、伊達家に寝返って謀叛。蘆名盛隆に討たれる。

……潰されても仕方がないといわざるを得ない。

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/24(月) 10:35:54 ID:wjmialUe
蘆名に従う気無いだろ、これw
なんでそんなに回りくどい事しなきゃならなかったんだろう。

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/24(月) 15:07:18 ID:n0sDOQSh
30年越しで不忠の松本家を潰す、いい話に思えてきたw

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/24(月) 23:35:33 ID:kejyFCDx
>>494
100年間も族滅されずに残ったのか?信じられない

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/25(火) 10:15:15 ID:RYqXRmfb
>>508
明応元年(1492年)松本藤右衛門輔忠、富田氏、伊藤氏などと組んで謀叛。蘆名盛高に討たれる。
明応四年(1495年)松本備前守輔豊(輔忠の次兄)、猪苗代氏、伊藤氏などと組んで謀叛、長沼正義に討たれる。
明応七年(1498年)蘆名盛高、松本家当主豊前守行輔、その従兄弟大学頭輔治、小四郎輔任ほかを誅殺する。
明応九年(1500年)蘆名盛高、謀叛与同の疑いで松本対馬守輔政(輔忠の三兄)を滅ぼす。
文亀元年(1501年)蘆名盛高、謀叛を起こした猪苗代盛頼を討つ。
永正二年(1505年)蘆名家中で松本氏と佐瀬、富田陣営が衝突。当主蘆名盛高が後者を、嫡子盛滋が前者を支援。盛滋・松本氏陣営が敗れて伊達氏を頼る。
大永元年(1521年)蘆名盛舜、謀叛を起こした松本大学、藤左衛門兄弟(宗家との血縁不詳)を討つ。また同年、猪苗代氏の謀叛に松本一族多数が参加。
天文十年(1541年)蘆名盛氏、謀叛を起こした猪苗代盛頼を討つ(文亀元年とは別件&別人)
弘治元年(1555年)松本与右衛門輔敦(輔忠の子)、猪苗代氏庶流の小桧山盛長と共に蘆名盛氏に謀叛、討たれる。
永禄十一年(1568年)蘆名盛氏、謀叛を起こした庶兄の蘆名氏方を討つ。
天正六年(1578年)山内重勝、大槻政通が越後上杉氏に通じて謀叛。蘆名盛氏に討たれる。
天正十二年(1584年)松本太郎行輔(輔豊の玄孫)、蘆名盛隆に謀叛し討たれる。同年、盛隆は男色のもつれから大庭三左衛門に殺害される。
天正十三年(1585年)松本輔弘(輔忠の孫)、伊達家に寝返って謀叛。蘆名亀王丸に討たれる。
天正十六年(1588年)猪苗代盛国謀叛、伊達氏を会津盆地に引き込む。
天正十七年(1589年)摺上原の敗戦後、会津四天が一致して謀叛し蘆名盛重を常陸に追放する。

蘆名氏にとっては一門筆頭の猪苗代氏と四天筆頭の松本氏の謀反は日常業務の内です
そんなことで族滅していては洞中が持たない

他の洞でもここまで酷いのはほとんど見ないけどな!

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/25(火) 12:55:03 ID:HQyMFkIW
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2418.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3710.html
実際のところ上のように松本氏に対する処遇を誤った結果、伊達が付け入る隙の
一つになった観は否めない。四天筆頭の動員力は蘆名を支える柱の一つでも
あったはずだし。
蘆名宗家の力が強化されていけば差し引きで帳尻も合っただろうけど歴代当主の
相次ぐ急死が重なって果たせず、他の家臣の力が増しただけだったりではね。

落書と蘆名盛氏

2010年02月10日 00:05

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 16:49:08 ID:VzTu9/4Q
会津蘆名氏の最盛期を築いた、蘆名盛氏の時代

耶麻郡藍川の城主は、七ノ宮自然斎と言った。
この自然斎、盛氏に非常に重用されていたのだが、それにはこんな事があった。

その頃は朝夕と無く兵乱が起こり、地下にはその度に軍役がかかった上、
しばしば課役も無理強いされた。
しかしそのような庶民の苦しみを上に伝える者も無く、蘆名氏の居城、黒川城下には

『天寧寺 河原の石は大和殿 町の小役は或人が取る』

と言う落書が広まった。この大和殿と言うのは蘆名家家臣佐瀬大和守の事で、
彼は泉水の数寄で、天寧寺河原から怪石を探し出しては、大勢の人夫を雇って
自分の庭園に集めていた。
ちなみに彼の庭に集めた怪石は、江戸時代までその跡を見ることが出きたそうだ。

そして「或人」とは当然、蘆名盛氏その人の事である。

この落書の事も、盛氏の耳に入れる者はいなかったが、ただ自然斎一人が、
ありのままに盛氏に語ったのだそうだ。


またある時のこと、
盛氏が黒川城下に立った市に集まる商品を買取ったが、この時その価格を無理に下げさせ、
半額だけしか支払いをしなかった(こういう買い手による無理な買い叩きは、この時代
珍しくなかったそうだ)

これにもさっそく落書が出る

『市町に 半を買いぬるむりうじは 外の聞こえをあしなとぞ思ふ』

これも自然斎ただ一人だけが、ありのままに報告した。
このようであったので、盛氏は七ノ宮自然斎を非常に信用した、というのである。


まあいい話なんですが、英主と呼ばれたほどの盛氏ですら、地下からの批判を
きちんと報告するものが一人しかいないと言うのは、大名と言うのも大変な環境に居るんだな、
と思ったので、こっちに。




383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 19:30:31 ID:qJH5RVNB
父親の盛舜の頃の方が治世は安定していたとかいう話も聞くね

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 22:20:50 ID:x6RxW8xi
>>383
盛氏の時、全盛期だけど、無理な戦を繰り返して疲弊していて、滅びる時はあっと言う間だったらしい

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 22:34:43 ID:7vAhELt+
武田家がもっとも拡大したのは武田勝頼の代
山口がもっとも繁栄したのは大内義隆の代

>>384
盛氏の積極策で溜った歪みがその死で一気に噴き出したような…

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 22:43:42 ID:ISphlmc7
蘆名は後継者が若死にしすぎだろう…

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 23:22:53 ID:9hnEjf4g
盛氏時代以降は正直外交策も失敗ばっかりだったからなぁ
その失敗が内部の分裂まで招くわけで

決定打は反上杉親北条路線で上杉のお家騒動に介入した辺りだろうな
これで伊達を継いで早々と新発田支援を取りやめた政宗とも仲が悪くなった
上杉なんて全く会津方面に目が向いてなかったんだから、ほっておけばいいのに

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 23:39:04 ID:VzTu9/4Q
>>387
上杉は佐竹を援助していたからね。
上杉が弱ればその分蘆名が敵対している佐竹も弱る。

上杉との敵対も北条への接近も、全部佐竹との対立から出たもの。

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