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「日頃の数寄が出た」

2019年09月03日 17:23

千利休   
365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 16:07:29.71 ID:gS8n8Noc
利休は大徳寺の山門を建立し、自分の形を木をもって作り、褊綴を着せて頭巾に杖をつかせ、
雪踏(原注:雪踏は利休が初めて作ったのだという)を履かせて高所に置いた。

秀吉公は御覧になって、「公家衆を始め礼儀ある門に推参至極のやり様である!」と大いに
怒りなさり、その罪で切腹した。

その時、(利休は)脇差を包み取って巻き直し、両端を揃え能を見て切腹仕ったのである。
「日頃の数寄が出た」と、数寄者は感じ入ったという。

(原注:『雍州府志』四巻の大徳寺のところに曰く、この門は連歌師の宗長が所建の後に千
利休がその上に設閣し、己の像を置いた。これにより豊臣秀吉公は僭越を怒り、その像を降
ろして一条反橋に晒したのである)

――『烈公間話』



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茶湯が改まった

2019年07月27日 19:29

千利休   
120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/27(土) 02:52:16.36 ID:heGmLc+j
千宗易は秀吉公の師であり、かつその才知が世に優れた人であったため、天下すべての人がその教えを
学び、後には利休居士と申された。
彼の影響に寄って昔の名物はみな蔵に仕舞わ使われなくなり、茶湯が改まった。

昔の炉は一尺八寸か六寸だったのを、一尺四寸(約42センチ)に直し、縁一寸一分、土壇一寸一分、
土壇の内九寸八分にして、九寸(約27センチ)の釜と定められた。この時、有馬の湯元に有った
阿弥陀堂の釜を求められた。その写しが「阿弥陀堂」の名で世に流行した、
釜を釣る鎖、自在も廃り、五徳据えとなった。

茶道具では今焼茶碗(利休が長次郎に焼かせた楽茶碗)、棗の大中小があり、清甫という塗師が作った。
当地奈良の林小路に住む与次という塗師は、中次の薄茶器で天下一であった。

墨蹟には古渓和尚、すなわち利休の参禅の師のものが好まれた。掛物は幅が広いものは立派すぎるので、
一尺二、三寸の幅となった。大文字も二行書きだと、一旦見下ろしてからまた見上げることに成って
良くないため、一行物が流行した。表具も光り輝くのは仏画のようであると、みな紙表具、あるいは
北絹(黄繭から取られた糸で織った中国製の絹)で表具するようになった。

利休は万事手軽く、寂びたものを基本とされた。世間の侘びに配慮し、また道具を持たなくても
誰であっても茶湯が出来ることを示して、人々を道に赴かせようとしたのだ、とも言われる。

その他、茶壺の口覆は昔は角切らずで、口の緒も長かったのだが、利休は角丸く、口の緒を短くした。
茶入袋の緒も、長緒で紅色の唐糸であったのを、現在のように緒の短い、打留一つの練繰糸にされた。

茶箱も利休が初めて作ったものである。桐の角丸面とし、錆(砥の粉を水練りして生漆に混ぜたもの)を
つけないで上塗りを黒くして、木目が見えるようにした。蓋の覆いは薄渋の紙にして、片仮名で
「旅の茶の具」
と書き付けてあった。

(長闇堂記)



121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/27(土) 21:15:23.74 ID:wLngnx7E
自在ってすごいネーミングセンスだよな

世の中すべての床天井は高くなった

2019年07月25日 16:25

千利休   
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 13:59:39.80 ID:CM8ckPJ8
芝山監物は秀吉公の御伽衆であった。
住吉にある一休禅師の寺の方丈に『初祖菩提達磨大師』という一休の墨跡が残されており、
これを佐久間甚九郎が購入し、芝山へと差し上げた。
すると千利休が、これが村田珠光の表具である事に気がつき
「珠光以外の誰がこのような表具を出来るでしょうか。さてもさても。」と絶賛した。
村田珠光は一休に参禅していたと言われる。

ところがこれは非常に長い掛物だったため、床に掛けることが出来なかった。
芝山監物蒲生氏郷と細川三斎(忠興)に、「利休に表具のことを頼みたいので、仲介をお願いしたい。」
と頼んだ。

ある時、利休、氏郷、三斎の三人を、芝山監物が茶会に呼んだ。この時あの墨跡を、床天井の前に、
上を巻ため、弱竹で角を押し入れて掛け、下の方も巻きためて置いた。
そして芝山は「この掛物を床に掛かるようにして頂きたい。」と利休に頼んだ。

しかし利休は「これに誰が手を入れることが出来るでしょうか。」と同意しなかった。

これに芝山は憤り
「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。竹で押し入れているので、
毎回壁も傷み、どうしても掛けられないのです。」と訴えた。
相客の氏郷、三斎も「あれほど望まれているのですから、お直し下さい。」と言った。

だがこれに
「それはどういう事でしょうか。良いものを悪くする事を私は致しません。どうしてもそうしたいのであれば、
あなた方がなされば良い!」と、利休は散々に叱りつけ、不機嫌になられた。

「珠光のされたことを決して変えてはならないのだ。であるから、床の天井を高くして掛けられよ。」
そう利休は言った。

この事が有ってから、世の中すべての床天井は高くなった。利休の功績である。確かに文字は
高く掛けたほうが見事である。寺の山門の額も、上に打ってこそ見事であるからだ。

この掛物は今は将軍様の元にある。『天下一の一休』とはこれの事である。

(三斎伝書)



119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 23:51:50.50 ID:amHD0ylJ
>>112
>「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。

鮭様「一体ナニ光なんだ」

千与四郎殿に明日御茶を差し上げたい。

2019年07月24日 16:34

千利休   
109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 01:50:46.96 ID:OySZ559h
千利休がまだ与四郎と名乗っていた頃、武野紹鴎の茶会に参加することを望んでいたが、ずっと
呼ばれることはなかった。与四郎は袴と肩衣をその時のためだけに用意したのだが、駄目であった。

武野紹鴎が四畳半の茶室を作った時、堺の南北の誰もが、その座敷開きに呼ばれることを心待ちに
していたが、誰も呼ばれること無く、だた「千与四郎殿に明日御茶を差し上げたい。」との使いが有った。

これに与四郎は「忝ない事ですが、明日は伺えません、明後日に参ります。」と返答した。
紹鴎は「それでは明後日お出で下さい。」と応じた。

与四郎は直ぐに夜通しで褊綴( 法衣の一種。ともに僧服である偏衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを
折衷して、十徳のように製した衣。)を取りに遣わし、僧体になって紹鴎の元に赴いた。
これに紹鴎は「さても、さとも」と感心されたという。

この時に名を『宗易』としたのだという。

(三斎伝書)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 12:02:48.51 ID:0lxTEov8
紹鴎すごいんやな

三ヶ所手が違った

2019年07月23日 15:51

千利休   
106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 01:23:47.89 ID:3NtwR41t
織田信長殿には、天王寺屋宗及が台子の茶湯をお教えした。
ところがこの宗及の茶湯を宗易(利休)が批判をしたとの噂が耳に入られ、信長殿は宗易を召して
台子で茶を点てさせた。

信長殿は立ちながら宗易が茶を点てる様子をご覧になり、「三ヶ所(宗及のやり方と)手が違った。」と
仰せになった。
宗易はこれに「その事でございますが、このように致しますと手間が入って悪くございます。また
こうすると手がねじれます。」と、一ヶ所につき三つほどの理由を申し上げた。

この事が有ってから、宗易の名が天下に上がったという。

(三斎伝書)



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 14:14:37.91 ID:wFZ44Ll2
マナー講師の戦いみたいだ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/23(火) 15:31:01.11 ID:3VAbEL3P
信長は合理主義だから無駄が嫌い
でも一見無駄と思えることに意味を持たせるのが侘び寂びでもあるんだよね
そういうのは信長に教えずに秀吉にしたり顔で教えた

千利休の切腹と石灯籠

2019年07月21日 16:59

千利休   
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 01:13:32.35 ID:tvy6NoWG
千利休の切腹は堺で行うと、秀吉公の御意があり、この時、淀に於いて船に乗るまでの乗物を、
三斎公(細川忠興)と古田織部殿の両人が手配された。利休の内儀がこの時礼を申されたが、
利休は
「もはや、それも要らぬことです。日本国の人々は皆私を知っていますが、このお二人ほどの事は
有りません。」と言った、

切腹を行う堺の屋敷に於いて、四畳半の小座敷で利休は「少しお待ち下さい。」と、炭を直した。
湯がたぎった時に四尺床に腰を掛けたが、勝手方に臂がつかえたので、「この置き合わせではない。」と、
床真中に寄った。

そして「介錯の人々は声を掛けるまでお待ち下さい。もし言葉が出ないようであれば、手を上げて
合図致します。」と言って、脇差を腹に突き立てた。

しかし思うように行かなかったため、また引き抜き、同じ所に突き立て直し、引き回して腸袋を
自在の蛭釘に掛け、そこで介錯があった。古今に無いものであった。

利休切腹の後、秀吉公の後悔は限りないものであった。彼が切腹した後は、秀吉公は釜の形の切紙が
上手く切れず、誰彼にかかわらず切らせたが、御意に入るものはなかった。
蒲生氏郷と三斎公が行かれた時も、「ハァ、一応参りましたというだけの面だ。」と仰せになった。
「たしかにその通りだった。」と、後に三斎公は語られた。

利休が天下一と褒めた石灯籠が有った。利休自身が打ち欠いて、色々に直し、天下無双であると気に入った
ものであった。
その石灯籠を三斎公が所持され、任国が代わる度、丹後に取り寄せ、小倉へ下し、肥後の八代に下し、
現在はまた京へ上らせておられる。そしてこれを大徳寺高桐院に立て置き、三斎公自身の墓標として、
名を彫りつけるおつもりでおられる。「灯明などを灯せば丁度よい。」と仰られている。
少し手軽く見える灯籠で、角々が丸く、大形では無いものである。

(筆者注・現在この石灯籠は細川忠興の墓石として、大徳寺高桐院の墓地に有る。)

(三斎伝書)



104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 13:52:30.21 ID:cN9uq2nD
お茶くらい気にすんなよ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/22(月) 12:12:38.25 ID:umL4DwKU
よく知ってるね

千利休の身上が相果てた理由について

2019年07月19日 14:58

千利休   
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 00:03:31.80 ID:0NM0kJP3
千利休の身上が相果てた理由についての事である。木下祐桂(秀吉の右筆とも言われる。不明)が
秀吉公に逆らって浪人したことが有ったが、その時知人であったにも係わらず、利休が見舞いの人を
遣わさなかったことに祐桂は非常に腹を立てた。

その後秀吉公に許されたため、その祝いに利休が祐桂の元を訪ねた所、祐桂は
「利休などという人は知らない。」と言って取り合わなかった。このため互いにひどく腹を立てたが、
表向きは仲直りをした。

ところが、秀吉公が祐桂に「この頃何か珍しいことはないか」とお尋ねになった時、祐桂は
利休の娘のことを申し上げた。「それでは」と秀吉公は祐桂を御上使として利休の内儀の元に
(娘を秀吉の側に上げるよ)2度も遣わしたが、内儀は「利休へ申されないのでは困ります。」と
同意しなかった。そして利休はこれを聞くと「とても納得できません」と申し上げた。
祐桂はいよいよ利休に対して腹を立て、秀吉公に報告した。

その頃、前田玄以も秀吉公に対して利休を散々に言った。これらによって、切腹となったのである。
前田玄以は胴高という茶入を取り出して、肩衝と言って利休に見せた所、全く返事すら無かったことを
恨んでいたのだ。

後にこの胴高の茶入は池田三左衛門殿(輝政)が所持し、今は備前の宮内殿の元にある。
習いが有って、胴高というのは茶入の中でも特別なものであり、習いが有れば見分けやすいものなのであるが。
(玄以はその心得がなかったのである)

(三斎伝書)




282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:19:20.92 ID:KpYWaZEK
>>279
心得がないなら教えてあげればいいのに
思い上がってる奴を擁護するのは取り巻きだけ
まるで何処かの芸人のようだ

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:42:58.45 ID:1RTOYgSs
>>282
そして、偉い人の庇護のもとででかい顔。偉い人から嫌われたらその瞬間に終了。
今の芸人と完全に一緒。

ただし一ヶ所、下手な部分が

2019年07月16日 15:51

千利休   
90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 21:11:40.97 ID:Utl8jJEh
当時、北京大仏(方広寺)の小屋場で茶会が盛んに行われていた。
ある時、天王寺屋宗及が「利休と三斎公(細川忠興)の両人へ御茶を差し上げたい。」と言われた。
この時、利休は聚楽の屋敷に居り、三斎公が「泊りがけで私の小屋へ今晩御出下さい。」と
申した所、「そういたしましょう」と同意された、「それでは先に参り掃除を致します。」と言って
三斎公は帰られた。

早くも五つ時分(午後八時頃)に利休は三斎公の小屋へ御出になり、そのまま雑談をされた。
夜に入り大雪となったが、利休は九つ時分(深夜0時頃)に、「もう参りましょう」と出かけられた。
この時三斎公はそっと人を宗及の所に遣わしてこれを知らせたが、宗及の方も予期しており、既に
露地口を開けて迎えに出ていた。そこから灯籠の火が見えた。夜なので手水柄杓は置かれていなかった。
雪の掃除は難しいものだが、この時は習いの通りの見事なものであった。

席入すると、床の中央に千鳥の香炉が盆にのせず置かれ、また床の勝手の方には堆朱の香合があった。
客が席入してから、宗及は香炉を下ろした。この上げ下ろしには習いが有る。
宗及が香を焚くと、利休はその香銘を尋ねた。宗及は「月」と答えた。
続いて利休が香を継ぎ、宗及が同様に香銘を尋ねた所、利休は「もちろん東大寺(蘭奢待)です。」
と答えた。

さて、利休が香炉を床へ上げるよう宗及に言った所、宗及は「私が下ろしましたので、利休様が
お上げ下さい。」と申したため、「それでは」と利休が上げた。
それから炉中を直し、この茶会は宗及一代の上出来の数寄となった。

帰りに三斎公は自分の乗物に利休を乗せ、自分は乗物の脇を歩いた。
利休は「今日は宗及一世の上出来の数寄でした。ただし一ヶ所、下手な部分がありました。
見つけられましたか?」と言われたが、三斎公はそれが解らなかった。
利休は言った
「月の香を焚いたのがいけません。月に雪という発想は平凡で悪い。よって東大寺の香を
焚かねばならないと思い、私は東大寺を継いだのです。」

三斎公が乗物から降りて利休を乗せ、自身はその乗物に付いて歩かれるのは毎度のことであった。
その朝は大雪であったので、宗及は手洗鉢へ水を入れず、くぐりの前に手付きの水、次に湯を入れ、
新しい盥を添え置いてあったとの事である。

(三斎伝書)

信長の蘭奢待切り取りの時に利休も分け与えられたとは有ったけれど、それを茶会に使っていたのですね。



95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:34:25.20 ID:Krpjzwco
利休は性格悪いエピソードしかないのな

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:40:11.71 ID:A8uhVPMk
商人ですからなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 22:29:05.32 ID:5gA42Ipr
切腹言われても仕方ないわけですね

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 02:26:28.35 ID:z7/Ij/C3
利休と芭蕉は食えないからなw

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:22:51.24 ID:KpYWaZEK
芭蕉の利休煮か

花入はご覧になりましたか

2019年07月12日 16:48

千利休   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:02:31.24 ID:BhNSOonv
千利休より「花入が到来しましたので、今お待ちしています。」と、前田肥前守(利長)、
蒲生氏郷、細川三斎(忠興)の元に使いが来た。早速三人で出かけて席入したものの、初座、後座ともに
花入は出なかった。三人は利休に花入を所望すべきかと相談したが、恐れてついに言い出せず、退席した。

利休が露地に送りに出た時、「今日は花入をお見せするためお招きしましたが、花入はご覧になりましたか。」
と尋ねた。客である三人は「とうとう花入を拝見出来ませんでした。座敷、露地ともよく見廻したのですが、
花入はありませんでした。」と答えた。

利休は「尤もです。」と言って、露地の塵穴を示した。そこには落ちた椿の花を、なるほど見事に入れてあった。
「その見事さには驚き入った。」と、後に三斎様がお話になった。

またある時、利休よりこの三人が御茶に呼ばれた。にじり口を開けると、そこに茶壺が置いてあり席入することが
出来なかった。三人は困惑し、どうして良いか解らず様々に相談したが、勝手に床に上げるわけにもいかないと、
先ず座敷の真ん中に茶壺を移して席入し、亭主である利休に「茶壺を床へ」と申した。利休は機嫌よく
これを床へ上げた。「客の思案が良かったのでしょう」と、後にお話になった。

(三斎伝書)



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 05:26:24.74 ID:FVr7QC+1
>>83
わびってるなあ

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 08:12:56.70 ID:kTIihdCu
>>83
深すぎてわかんねーw

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:50:52.94 ID:YjWTGmPq
わびさび俺には無理だと分かった

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 04:25:07.42 ID:9odMhzGb
とんち比べかな?奇をてらって遊んでる風にしかみえない

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 10:07:51.99 ID:wf+p/I6R
こういうのが和歌の世界だと古今伝授みたいになるんだな

その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては

2019年07月05日 17:14

千利休   
62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 20:41:57.31 ID:/ZtdOmxc
千利休は本住坊が参られる度に、茶室で茶を点てた。本住坊が恐縮して「毎回このように
されては、何とも参りにくく成る。」と言った所、利休は

「その事です。関東や筑紫から望んで来るような人であれば、わたしがどのようにした所で、
『このようにするのか』と思うだけであり、また見ても解りはしないでしょう。しかしあなたのような
心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては、私の茶の湯ができなくなります。」
そう答えたという。

道に長じた人の心持ちとは、そのようなものなのだろう。

(長闇堂記)



数寄に親も子もない

2019年06月25日 15:45

千利休   
192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 20:14:25.64 ID:WVVwlE18
千少庵千利休の養子で娘婿。千宗旦の父)が小座敷に突上げ窓を二つ明けた。利休はこれを見て
「ありえないことだ。燕が羽を広げたようで見られたものではない。塞ぐように。」と言ったため、
少庵はその日のうちにこれを塞いだ。利休に見せると「これでよい」と答えた。

ところが後日、利休の小座敷に、少庵のものと同じように突き上げ窓が二つ明けてあった。
「これはどういうわけですか」と少庵が尋ねると、利休は言った
「数寄に親も子もない。私が二つ明けるために塞がせたのだ。」

(茶道四祖伝書)

えぐいな利休



193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 08:38:11.01 ID:XDrCfgpn
>>192
ジョブスの逸話思い出したわw

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 11:15:08.85 ID:COqvQzwm
利休はとある茶師を大抜擢していまも続いてるブランドに押し上げたけど、そこにも裏話があったりするのかな?

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:29:17.61 ID:H/k4ezxE
あそこは当主の弟上林竹庵が伏見籠城に参加討死して
幕府の庇護も得たのも大きいんじゃないの

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:35:41.04 ID:93p5wq77
利休は唐物至上主義の海外厨だしな

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:36:17.61 ID:6D0v9SUX
>>192
こういう奴だから切腹させられるハメになったのかもな

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ

2019年06月22日 15:05

千利休   
34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 00:16:16.65 ID:5DKbWtYD
利休が法華寺で「喉が渇いているので茶がほしい」と所望された所、新発意(小僧)が大服(量が多い)に
茶をぬるく点てて出した。「非常に良かった、もう一服」と利休が再び所望すると、今度は前より少し熱く、
少し小服にして出した。するとさらに「いま一服」と所望されると、小僧は熱く小服にして出した。

利休は感心して「さてさて、気の利く人だ。彼を私に遣わして下さい、数寄を教えたい。」と言った。
そして点前そのものよりも、心を数寄にすることが肝要だと言って召し使った。
この小僧がのちの、京の喜斎(土屋喜斎)である。

(茶道四祖伝書)

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 01:01:16.28 ID:RmuGq9nn
何たる小賢しさ。十五か十六でこんな小細工を弄する奴は
何となくひね媚びていかにも器の小さい感じがする。

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 08:22:16.90 ID:h6DMzvzQ
>>34
近い時代に元ネタあったんだな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 09:08:18.69 ID:5DKbWtYD
>>36
出てくる人間の時代は近いけど、三成の三献茶の逸話の初出が1716年の『武将感状記』なので、
お話として改変されたのは『茶道四祖伝書』が出てから7,80年後だな。

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 10:18:49.11 ID:0AogUSfh
昔の人って平気でパクるよね

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:07:31.24 ID:696jtPWY
まあ、その辺もいい加減だったというかOKな時代なんかな
そもそも読んでる人も限られてるだろうし

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:28:38.53 ID:Hb5MJrxT
>>35
十五歳は成人だぞ

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:38:59.74 ID:5DKbWtYD
>>40
>>35は昔光栄が出した『信長の野望覇王伝・武将FILE』の石田三成評の一部。ぼろっくそで有名

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:10:14.52 ID:Hb5MJrxT
>>41
(TT)

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:25:31.08 ID:h6DMzvzQ
>>37
そんなに時代空いてたんだ、当時なら誰にもバレなかったろうなぁ
むしろそんな前の時代のネタよく引っ張ったもんだ

「八重葎」「天の原」

2017年11月27日 19:06

千利休   
462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/27(月) 18:58:54.02 ID:mIO4OdMo
>>286
まとめの9276「床の間の掛軸の歴史。および八重むぐらの色紙の事」
に関連した話、井原西鶴「西鶴諸国ばなし」巻5「挑灯に朝顔」より後半部
(前半部は茶の湯を知らない客人が昼前に『朝顔を見せてくれ』と訪ねてきたため、
怒った亭主が芋の葉を見せたところ客が気づかないままだった、という話)

むかし茶の名人が茶の湯を出したときに、庭の掃除もなく、庭木の梢も枯れ葉をつけたまま
秋の景色をそのままにしておいたところ、客もすぐに心付いて
「さてはなにか珍しい道具を出すのだろう」と思っていたら、案の定、床の掛け軸に
「八重葎茂れる宿(のさびしきに、人こそ見えね、秋は来にけり)」の古歌がかけられていた。
またある人が唐物(中国式)の茶の湯を望んだところ、諸道具がすべて唐物を飾られていた中に
掛け軸だけ、阿倍仲麻呂が詠んだ「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にい出し月かも」
の歌が掛けられていた。
客は皆感心して「この歌は仲麻呂が唐から故郷を思って読んだ歌だ」と主人の作為に感じ入った。
「客もこのような人であってこそ、主人も茶の湯を好んでする甲斐があるものだ」とある人が語った。

この話の元ネタは「槐記」享保十三年3月二十二日の条でその記事だと
「八重葎」の方は利休が客人(もし9276の話に関連してたとすると松永久秀が主人となる)
「天の原」の方は利休が秀吉を招待した時の話となっている

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/27(月) 19:01:38.67 ID:mIO4OdMo
ついでに「槐記」だと
利休に主人が「八重葎」の掛け軸を掛けて茶を出したのが歌の掛け軸の始まりとする



利休の才

2017年10月06日 17:25

千利休   
286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 19:34:10.18 ID:8zUhQpLS
千利休は茶について、武野紹鴎に学んだ。

紹鴎はある時、利休の才を試みようと、密かに人に命じてその庭を掃除させ、
その後、利休に「わが庭を掃除せよ」と命じた。

利休が紹鴎の茶亭の前に行くと、地面は拭うがごとく掃き清められ、わずかの塵すら留めず、
木々の緑を鮮やかに照らしていた。そこには利休が手を加える所はなかった。

しかし利休は木々の間に入り、一本の松を揺らすと、落ち葉が風に翻り、点々と地に落ちた。
これによって風情、一段と増した。

そして利休は紹鴎に伝えた
「謹んで命を完了しました。」

武野紹鴎はこれを見て、利休の奇才に感じ入り、茶における様々な秘訣を伝えた。
こうして利休は終には、茶博とまで呼ばれるに至った。

(今古雅談)



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 19:45:40.11 ID:M/gUdZAy
いいね

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 20:39:59.42 ID:W5QFadg9
むかし、掃除した浜辺にわざわざゴミを撒き散らしたテレビ局がありましてね
それを回収する様子を放映してましたな

趣向はまったく違うがそれを思い出したw

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 20:41:45.09 ID:f5o6L3Z6
茶亭の前に行くとすでに掃き清められ手を加えるところがなかった利休は
松の木を揺らすなど激しい威嚇行動をとった

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 15:47:25.82 ID:bAHcXAIl
ゴリラかよ
たしか六尺の大男だったよな

「宗易の手前によく似ている」

2016年09月02日 19:57

千利休   
141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 03:03:00.96 ID:solwGPfs
千利休の生害後のある時、太閤は風炉の形を何かと御好みであったのだが、
「このような時は、利休めを殺して事を欠く」と、仰せになった。

これを権現様(徳川家康)と利家公は、以前から宗易のことを不憫に御思い
であったため、良い機会と思し召し、少庵と道安の御許しの御取り成しを
なされ給い、早速の御許しを蒙った。

その後、太閤は道安を御前へ御呼びになり、4畳半で茶をたてさせて上覧に
なり、「宗易の手前によく似ている」として、道安は御感心を受けた。

――『茶話指月集』



そのような嗜みで侘びがなろうか

2016年07月24日 16:30

千利休   
913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/24(日) 04:12:28.94 ID:Ny5WpbVL
宗易(千利休)は花の頃(春)に、ある侘(茶人)を伴って東山へ参られ、
道中でその人に「その方は宿に釜を仕掛けて出なさったのか?」と問うた。

これにその人は、「今日は早朝から御供いたすので仕掛けておりません」
と、答えた。これに宗易は、

「いやはや、そのような嗜みで侘びがなろうか。これから帰って、仕掛けて
いらっしゃい。晩に誰が寄るかも分かりませんよ?」と、言った。

――『茶話指月集』




このような物数寄を

2016年07月16日 17:47

千利休   
868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/16(土) 02:52:37.83 ID:+ouk6C8f
ある時、有楽公(織田長益)が千利休のところへお訪ねになった際、
折りしも茶入に古い蓋を取り合わせていたのだが、そのうちの

大ぶりな蓋がしっかりと合わなかったのを、「かえって趣がありますね」
と言って、利休は有楽へ見せ申した。

その後、有楽公が茶入に件の通り、古い蓋を取り合わせて利休へ
御見せになると、利休は、

「このような物数寄(趣向)を一概に良しとお思いになったのですか?
この茶入には、新しい蓋が良く合うものですよ」と、言った。

――『茶話指月集』




千利休はともすると

2016年07月07日 12:10

千利休   
906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 02:37:27.02 ID:pVjbXeGL
千利休はともすると、「今日の客は京衆じゃ、肩衝に茶をとれ。明日は
堺の人じゃ、棗に茶をはけ」と、言った。

附:その時期、京では道具のみを興じ楽しみ、茶湯は堺に及ばなかった。
天正の末になり、茶湯は京で盛んになって、堺では衰えた。

――『茶話指月集』



その後は落ち葉が積もって

2016年07月03日 13:06

千利休   
903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 12:42:28.06 ID:9YVki1xp
さる方の朝茶湯に、千利休やその他の人がやって来た。その時、朝嵐に椋木
の落ち葉が散り積もって、露地の面影はさながら山林のような心地がした。

利休は後ろを顧みて、「どれも趣がある。さてしかし、亭主は無功であるから、
きっと掃き捨てることであろうな」と、言った。

案の定、後で露地に入ると一葉もなくなっていた。その時に利休は、「おおよそ
露地の掃除は朝の客であれば宵に掃かせ、昼ならば朝に、その後は落ち葉が
積もってもそのまま掃かないのが、功者である」と、言った。

――『茶話指月集』



904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 12:51:34.89 ID:lmBc4xDi
有名な禅僧か茶人の逸話で小僧がきれいに掃いたあとでわざと木を揺らせて落ち葉を落として
「こっちのほうが風情がある」って言った人がいたと思うが、利休だったかな

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 17:07:10.78 ID:xmSFrZhE
ただの負けず嫌いやん