南部利直VS八戸(南部)祢々

2010年02月14日 00:09

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 15:06:51 ID:FLOp92Su
跡継ぎ云々の話で一つ。こんな選択肢もあるよ?


南部利直VS八戸(南部)祢々

北東北の雄、南部氏には、有力な二つの氏族が存在しました。
三戸(後に盛岡)に本拠を置く三戸南部氏と、八戸は根城を本拠とする根城南部(八戸)氏です。
根城南部氏は、南北朝期に南朝について没落し、戦国期には前者が本家として扱われていたようですが、
それでもなお『三戸南部の家臣ではなく、独立した大名である』との気概を持っていたようです。

さて、その八戸氏の二十代直政の時、徳川家から命が下りました。
南部家当主利直の名代として、徳川家康の六男忠輝の居城である、越後高田城の普請に向うようにというものでした。
ところが、ここで頑張れば独立した大名として認めてもらえると思って頑張りすぎたのか、
それとも南部は領地から離れては生きてはいけないのか、彼はこの地で病死してしまいました。
その八戸氏をさらなる不幸が襲います。直政の葬儀が終わった一週間後に、
その一人息子である久松までもが病死してしまったのです。

根城では後継者を誰にするかで頭を抱え、本家の利直に助言を求めました。
これに対して、利直は名家である根城南部をここで絶えさせるわけにはいかぬ、さしあたって直政の妻であった
祢々(ねね)を当主とし、
落ち着いて後継を探せばよろしかろうと応じます。八戸氏二十一代当主、八戸祢々の誕生です。
彼女は利直の姪にあたり、当時の正確な年齢は不明ですが、二十代だったようです。


874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 15:09:51 ID:FLOp92Su
長くなったので分割

さて、ここまでなら普通のいい話なのですが、利直とて乱世を生き抜いてきた武将です。親切だけでそんな助言をしたわけではありません。
自家の中に半独立勢力がいるのはうまくない、これを奇貨として、八戸氏を完全に家臣としてしまおうという魂胆でした。

後継も決まり、ほっと一息ついていた根城の祢々とその家臣の下に、利直からの書状が届きました。
曰く、これからも久しく女主人とはいかなるものか、戦の時に侮りを受けるのではないか
『幸い我が家中の者にふさわしきものがいるので婿につかわし、この者に根城南部家を相続させては如何だろうか』(大分略)
半ば命令ともとれるこの言葉に、またしても根城の八戸氏家臣団は頭を抱えます。
この助言を容れれば、八戸氏は完全に三戸南部氏に取り込まれてしまうでしょう。
ですが、当主が変わったばかりの家中で、三戸南部氏と不和になるのはまずいことになります。
ところが、頭を抱えた家臣達へと、当主祢々は言いました。すなわち、私が自ら回答すると。

さて、これを聞いた利直はにんまりとしたでしょう。
年は若く当主について日も浅い、しかもかなり近い血縁者。あっさり助言(と書いて要求と読む)を受け入れるに違いありません。
……が、そんな利直の元に届いたのは、祢々が髪をおろし、尼となったという情報でした。
続いて、祢々からの書状も届きます。曰く、ありがたき勧めなれど、御仏に仕える覚悟を決めました故、お断り申し上げます……と。

これを読んだ利直は、彼女の覚悟の見事さに舌を巻き、婿を送り込むのを諦めると、自ら後ろ盾になる事を約しました。
尼となった祢々は、この一件の見事さから清心尼と称され、永く八戸家中をとりまとめることとなります。

実は、この後も何度か二人はぶつかったりするのですが、それはまた別の物語。大阪の陣の頃にあった
(なので戦国からはちょっとずれるかもorz)
南部利直と八戸祢々のいい話、でした。




875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 15:29:48 ID:3GEYLVhe
相手がラスボスじゃなくて良かった・・・

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 15:51:33 ID:YnMxpowm
家光「尼さんと聞いてすっ飛んできました」

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 16:50:44 ID:2XklYDQo
でも結局は盛岡藩の筆頭家臣の地位に甘んじちゃうんだよな。

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 17:47:25 ID:uqWDCHzC
>>877
まあそうなんですけどね(汗

しかも田名部とられ(正確には廃藩置県まで借りられ)たり、遠野に国替えされてしまったり。
ただ、清心尼も、色々と譲歩を引き出していたりしたようです。
自談判&利直の妻にお願いで田名部の借り上げ証文とったりとか、三戸南部から養子を送り込まれるのを拒否して、
八戸家家臣の新田直義を養子にしたりとか。
直義が後を継ぐも城代家老として盛岡に出ると、遠野の内政は清心尼が取り仕切り、女大名とか尼殿様と言われたようです。
結構評判はよかったみたいです。

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 19:25:31 ID:L024oP/5
そんじょそこらの尼ちゃんとは大違いだな

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/14(日) 02:05:12 ID:ROlC72ue
>>873
八戸南部の隆盛はむしろ南北朝だと思われ
顕家、顕信から郡検断貰って勢力拡張して、鹿内を切り取ったのこの頃だし
義満に降伏するときも八戸の所領は安堵されている上、
津軽から安藤氏を追っ払ったのも八戸政経だし
その後の水軍経営が失敗したけど

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/14(日) 12:40:54 ID:y9a2bmMv
>>893
873です。書き方が悪かった……申し訳ない。
『南北朝期に南朝方についた為、戦国期には勢力を減じ』と訂正させて下さい。
没落というか、じわじわ三戸南部に侵食されてきたような雰囲気が。

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