平瀬落城

2018年03月23日 16:48

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 00:27:11.74 ID:JOeEPDaN
長時公(小笠原長時)が林城を御退きになられてのち、晴信公(武田信玄)は林城を破却して深志の万西に
居城を取立て普請なさり、馬場民部少(信春)を城代にして御置きになった。長時公は領地を御支配されず

といえど、犬甘と平瀬が城に籠っていた。そのようなところに馬場民部は犬甘・平瀬へ計略を入れ、互いに
融和があった。しかしながら、いまだ仲裁も済まぬうちに、長時公の御本意を遂げなさるため、村上(義清)
が深志へ御発向との由が申し来たため、犬甘と平瀬は勢い強く、ますます甲斐には従い申さなかった。

同年(1549)11月初めに、村上の軍勢が会田に陣取り申したとの由が深志へ申し来たので、馬場民部
とその他の者ら深志にいた晴信の軍勢たち20騎余りが、11月初めのまだ夜の暗いうちに、刈谷原崎まで
物見に出て行った。ところが村上衆は1人も参らなかったので、物見の人々は帰ることにした。

一方、犬甘大炊助は自城に軍勢を置いて、手廻り10騎ほどで自身は“あかきり栗毛”と申す名馬に乗り、
長時公御迎えのために出て行った。岡田町という宿に到着した一行は、帰るところだった馬場民部ら

20余騎を見かけると、村上衆だと見て犬甘の方から使者を遣した。使者は申して「こちらに御越しの者は
村上衆と御見受けします。長時公の本意のために、ここまでかたじけなく存じております。深志へ先駆けを
仕るべく、犬甘がここまで参りました」と述べた。

馬場民部は「犬甘が罷り出たので謀って討ち申そう」と談合致し、犬甘への返答に、「長時の本意のため、
村上はここまで罷り出ました。深志への先駆けになられたいとの由、もっともなことです」と返事仕り、

犬甘を調子よく騙し含め申すと、犬甘は見切りも早々に退き申した。その後、深志よりの人々が出合い、
犬甘に切り掛かり申したため、犬甘は犬甘城に移ることができずに同城を右に見つつ、

青島と申すところで掛け馬をも乗り放し、ただ1人になって西牧まで退き、二木豊後(重高)のところへ
参られた。豊後は犬甘をうまく隠し置き、後に西牧殿と相談致して飛騨を通り、美濃のかくちょうへ

犬甘大炊助を送り申された。犬甘城は馬場民部少輔が大将となって、甲州衆と信州降参衆が一つになって
攻め落とし、それより平瀬城をも攻め落とし申した。平瀬城で討死致した人は多かった。長時公の御味方
は強く抵抗致したのでこのようになったのである。

――『二木寿斎記(二木家記)』


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小笠原長時の没落

2018年03月19日 17:30

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 00:20:42.28 ID:9EDGobDw
それがしが20歳の時(著者・二木重吉。1549年)の4月末に晴信公(武田信玄)は御働きになり、
村井に陣を御取りなされ、長時公(小笠原長時)も御出陣して合戦し、その日の合戦は村井・林の間で

敵を切り崩したものの味方も崩れ申し、その後は互いに本陣で追いつ返しつ入り乱れて合戦と相なった。
その合戦で草間肥前と泉石見が討死仕った。泉石見は長棟公の御代より数度の合戦を仕った精兵の強弓

の射手で“土射ず”と皆々は申した。勝負の矢は申すに及ばず、諸々の鳥を射ち申しても外すことが
ないので、あずちを射ち申さずとして皆々このように申したのである。石見はもとは沢清右衛門と申し、

泉小四郎の子孫なので長棟公の仰せにより泉石見と名乗り申した。このような者が討死仕ったために、
林勢は弱くなり、その他にも御味方は多く討たれ申したので長時公は林城へ御引き籠りなされた。

その時に長時公を背いて晴信方となった衆は山家・洗馬の三村・赤沢・深菅・万西・鳥立・西牧の各々
であり、長時公の御家中で5千貫や3千貫を取った大身であった。長時公の御味方で大身の衆は犬甘・
平瀬・刈谷原・小見、その他に御旗本衆ばかりである。

長時公は御家の良き者は討死して、家老の者は逆心仕ったために叶い難く、林城を御開けなされようと
思し召されたが、どこへも道は塞がれて出口もないところに、桐原だけが御味方致し、深志城(松本城)
の城主・万西は桐原の伯父だったため、かの万西は桐原に申して、

「長時公の味方を致すよりも、長時を討ち申して晴信へ忠節を仕れ」と意見したが、桐原は少しも同心
仕らずに強いて御味方致し、長時公に申し上げて、

「いずれも御家中の家老や譜代の者が御敵と罷りなり、私の伯父・万西までも逆心仕り、挙句に拙者にも
逆心を企てよと意見仕りました。ですから少しでも早く塩田へ御退きになられて、村上殿(村上義清)を
御頼み遊ばされませ」と、桐原の妻子を長時公へ人質に出して居城の深志城に引き取り申した。

それより長時公は村上殿を御頼みになられ、村上殿は如才なく存ぜられて、「長時公の御本意を遂げさせ、
林へ御帰し致しましょう」と仰せられ、清野(信秀)と申す侍に仰せ付けられて長時公を御馳走申された。

――『二木寿斎記(二木家記)』


神田将監の存分

2018年03月17日 18:15

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 05:18:29.71 ID:KXMpkOSs
神田将監が7月の初めに出仕した時、征矢野甚助・惣社久太郎・万西次郎・大池右馬之助・桐原と
同道仕り、照りに照った日坂を上ろうと股立を高く取って小飛び掛かりに坂を上った。

若き衆は申して「将監はどうしてこの暑いのに飛んで上がり申されるのか」と申されれば、将監は、
「暑くはない。秋の露ばかりで身体が濡れるので、露を払って上り申しておる」と申した。

若き衆はますます笑って申し「将監殿は気違い申したのか。これほど埃が立って日照りで汗に濡れ
て困るというのに、身体に露と仰せられるのは可笑しく存ずる」と笑った。

将監は申されて「呉越の戦の折、呉王・夫差の臣下・伍子胥が申したことを存ぜぬのか。それを
思い出したのだよ。長時公(小笠原長時)は我儘でいらしゃるので、両郡の武士には不満が多い。

それゆえにこれよりこの城は後に晴信(武田信玄)の仕置きになり、城や家は破却されるであろう。
その時は鹿の臥すところとなって(野に伏すことになって)残念なことである。されば露に濡れる
ことを思い、飛んで通って股立も高く取り申しておるのだ」と申された。

その後、若き衆の落書を将監は立てた。神田将監の存分は面白きものである。

「小笠原の 御家をたをす ものとては 昔は絲竹 今は水竹」
(昔から遊興が御家を滅ぼしてきたが、今は佞臣の水竹が小笠原家を滅ぼそうとしている)

――『二木寿斎記(二木家記)』


長時公は強き御大将であり我儘気随で遊ばされるゆえに

2018年03月14日 22:21

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 20:57:56.89 ID:7YYZ2okD
その合戦の後、2,3年の間たびたび合戦があり、神田将監は寝込にあって討死仕った。
その時も良き者が多く討死仕った。神田将監は強弓の精兵で長時公(小笠原長時)の

御家中で一騎当千の兵(つわもの)であり、長時公も惜しく思し召された者であった。
“寝込”とは夜討のことである。出水石見と神田将監は長宗公(長棟。長時の父)も

良く思し召して御使いになった者たちである。長時公に御代を渡された時も、その由緒
を仰せられて2人を御渡しになった。信貞公(信定。長時の弟)へは木下惣蔵と

溝口刑部を渡され、下伊那の鈴木城(鈴岡城?)へ御在城させた。信貞により木下惣蔵
は多科城へ差し置かれ、すなわち多科惣蔵と申して一騎当千の者だった。惣蔵は長宗公
が御取立てした者である。

神田将監が常に申されたことには「私めは長宗公が御取立てなさった者なり。『どんな
ことがあろうとも長時公へよく御奉公仕るように』と、私めは後室様に仰せ付けられた。

信貞へは木下惣蔵を御渡しになり、長時公へは拙者を御渡しになったのである。それ故、
私めはいかようにも御奉公仕る覚悟である。しかしながら、長時公は強き御大将であり、

我儘気随で遊ばされるゆえに、両郡の大身の侍衆は皆不満に存じておられる。ある時、
西牧、瀬馬、三村殿ら両三人の衆が御用あって出仕申されたが、長時公の気随によって
出仕はならず、それゆえに帰り申されたことがあった。

またある時には万西、赤沢、鎌田兵衛尉が出仕したが、これも気随ゆえに御会いになら
なかったのである。また山家が出仕した時も同じであった。かようのことが度々あった
ので、両郡の武士たちは不満に存じておられる。

これは水竹と申す者が出頭(寵愛を受けて出世すること)仕るようになって、長時公へ
申し上げることがあったゆえ、このようになったのである」とのことであった。

――『二木寿斎記(二木家記)』



大手が敗軍した以上は

2018年03月13日 18:09

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 05:09:35.30 ID:YaEquyta
小笠原信貞は家老の多科惣蔵と溝口刑部を召して御命じになり、長時公(小笠原長時)が下諏訪
の城代・板垣を攻めなさるため諏訪へ取り掛かり申すにつき、下条殿と御談合のために

溝口刑部を御遣わしになり、伊那衆の侍はいずれも一身にして打ち立ち、下条殿、片桐、飯島、
知久、晴近の衆は下伊奈を5月中旬に出立し、相沢・駒沢まで詰めていた。そこに長時公が

諏訪峠合戦に敗軍の由が聞こえてきた。信貞公が仰せられたことには「一日早く出立していれば、
晴信方を切り崩していただろうに」とのことであった。その日は平出を越えて相沢・駒沢に陣を

取り、密かに出立した。伊那の軍勢の押さえのために板垣信方(信憲?)が置かれていたので、
下伊奈の軍勢が相沢・駒沢に詰めていたところを信方は攻め掛かり、小笠原信貞に切り崩されて
小尻まで追い討ちし、武田晴信方の首を多数討ち取って信貞は勝鬨を上げなさったのである。

板垣信方はやっとのことで下諏訪へ引き取り申した。信貞が仰せられたのは、「大手(長時本陣)
が敗軍した以上は、搦め手で勝利したといっても保科弾正(正俊)は晴信に心を寄せ、そのうえ
松島や大出などもそうであるから、対陣には及ばない」とのことで、伊那へ御引き取りなさった。

――『二木寿斎記(二木家記)』


塩尻峠の戦い

2018年03月11日 13:23

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 01:25:25.61 ID:lRqFuNmu
長時公(小笠原長時)が家中の者を召して仰せになったことには「下諏訪に晴信(武田信玄
より城代を置かれたことは無念至極である。諏訪の城代を追い払うべし!」との旨を仰せ付け

られた。すなわち、両郡の侍・仁科道外(盛能)、瀬馬、三村、山家、西牧、青柳、刈谷原、
赤沢、島立、犬甘、平瀬である。右の衆はいずれも大身の旗頭であった。その他に長時公の
御旗本衆・神田将監、泉石見、栗葉、惣社、下枝、草間、桐原、瀬馬村、

及び塩尻衆・征矢野、大池などである。二木豊後(重高)の舎弟・土佐の三男・六郎右衛門、
豊後の子・万太郎(著者・二木重吉)、土佐の子・万五郎と弟の源五郎兄弟もである。

この源五郎は草間肥前の養子と罷りなり草間源五郎と申した。長時公の近習を仕り、林に居住
して御旗本と罷りなった。二木豊後と同土佐、同六郎右衛門、同万太郎、草間源五郎の5人は
西牧の備と一緒に罷りあり、備を立て申した。全軍の兵は林を出立して下諏訪へ取り掛かり、

晴信より置かれた城代を手きつく攻め申した。頃は4月中旬である。城際まで取り詰めて急
に攻め申したゆえ「長時公へ城を渡し申すので、御馬を少し御退き下され」と城中より使者
2人が出てきたので城を受け取り申すというところで、仁科道外が望み申されたのは、

「下諏訪を私に下されば甲斐国までの先駆けを仕って、晴信と一戦仕りましょうぞ!」との
ことで、これに長時公は「私の稼ぎの花を望むとは推参であるぞ!」と仰せられた。道外は
「骨を折っても何になるだろう。信濃にいるよりは、晴信の朱印が良い」と軍前を外して

備を仁科へ引き取り申した。城内よりこの旗色を見届けて城は渡されなかった。そんな折に
晴信は後詰のために上諏訪まで御着きになり、皆々は「諏訪を道外に御遣わしにならないと
長時公が仰せられたのは、御一代の御不覚である」と申したのであった。

長時公はその日は諏訪の四つ屋と申すところへ御馬を上らせなさり、夜が明けて諏訪峠に
御陣を御取り遊ばされ、その日の巳の刻に合戦が始まったのである。初めの合戦で晴信の
先手を切り崩し、四つ屋まで敵を追い下して長時公方は首150を討ち取ったのであった。

その日の合戦は6度あり、その内5回は長時公の御勝利であった。晴信方では本陣がこらえて、
6度目の合戦では瀬馬、三村、山家が逆心仕り、長時公の御本陣にて追いつ返しつ入り乱れる
合戦となった。御本陣の良き者たちの過半は討死仕ったため、長時公もかろうじて林の手勢を

使いなさっていたところ、村上殿(村上義清)が小室へ働かれ申したとの由を聞こし召されて
早々に御引き取り申された。瀬馬の逆心により、西牧の二木一門は本道を退くことはできず、
桜沢に差し掛かって奈良井へ出て、奈良井源右衛門のところで飯米の合力を受け、御岳越しを
して、やっとのことで西牧へ出ていった。

――『二木寿斎記(二木家記)』



593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 13:51:07.78 ID:n9GW6pZV
人望ねえな。お高くとまって下々を蔑ろにしてるイメージだわ。

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/12(月) 18:31:06.29 ID:WNA5qEX9
>>592
小笠原さん戦は強いのに勿体ないよね
この頃の勢力差ならまだどうなるか分からなかったのに

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 16:06:57.16 ID:Que2OFwD
家臣団が強かっただけでしょ

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 16:43:06.79 ID:OrM7ZJsf
御柱祭に乱入したら氏子に撃退されるおちゃめな長時公
お祭りVS戦国大名

敵城に飯を炊く煙が立ち上った故

2017年05月27日 16:49

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 04:05:53.69 ID:G+wx7mBh
島原の乱の時、小笠原某(忠真か)の家士某は、「今宵は敵方から夜討ちが出るかも
計り難い。その用意をせよ!」と言って、陣中を触れ廻った。

諸士は、「堅固に構えているのに果たして夜討ちがあるのか?」と思ったが、果たして
夜討ちがあり、この小笠原の陣だけは少しも乱れず、

他の陣々は大いに乱れ打ち破られた。後に「どうやって夜討ちがあると知ったのか?」
とその家士に問うと、

その家士は答えて、「夕刻になって敵城に飯を炊く煙が立ち上った故、夜討ちの支度と
察したのだ」と言った。

翌年の2月にも前述の小笠原の家士・高田九兵衛は「明日は鍋島肥前守殿(勝茂)の
手から城攻めに一番に掛かると見た。私は抜け駆けして肥前殿の先を越えよう!」と、

夜中に支度して手勢を率い、未明に攻め掛かって敵方の不意を打ち、大いに功名を
遂げた。肥前の家では小笠原に先を越されて大いに残念がったということである。

この時も「肥前殿の家が一番に攻め掛かると、どうやって知ったのだ?」と諸人が問い、
九兵衛は答えて「肥前殿の陣は毎朝旗の手(旗印か)を直されていたが、昨夜に限って

夜更けに旗の手を直されていた故、今朝一番に進む支度と察し、私めは夜明けに城際
へ密かに押し寄せており、肥前殿の旗の手が動くのを見て、すぐに攻め掛かったのだ」
と言ったということである。

――『明良洪範』



962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 17:23:44.46 ID:yW2SWIMe
よく見てんなー

下条頼安、小笠原信嶺に騙し討ちにされる

2013年07月19日 19:50

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/19(金) 18:32:59.89 ID:xe2nw55u
先年より小競り合いを続けている松尾(城主は小笠原信嶺)は大敵で
あったが下条家は強かったので一度も遅れを取らなかった。

九兵衛(下条氏長)などが深入りして危うい目に会われた事もあったが、
大将(下条頼安)はつつがなく、一村たりとも取られず落ち着いていた。

このような所へ松尾の菩提寺である上川路の開善寺と吉岡(下条家)の
祈願寺である南原山文永寺が相談し吉岡と松尾を和睦させようとした。

幸い松尾に御息女がおられたので、御縁組あればと両寺がとりもち
首尾よく天正11年12月に御祝言が済み、入魂の場と相成った。

明くる年の正月20日、舅に対して頼安公が心を許して年頭の礼に訪ねた
ところ、松尾はこれを油断させて討ち取った。

昔から聟を討ち取る例は多いとは言うが、そうであっても残念の次第
である。

(下条由来物語)

下条頼安、小笠原信嶺に騙し討ちにされる





安積覚兵衛敵の傷兵を慰む

2013年04月24日 19:52

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 00:16:10.19 ID:UVm6ppJ6
安積覚兵衛敵の傷兵を慰む

小笠原氏の兵に安積覚兵衛という者がいた。
関が原の戦いにて敵の首級を五つまでも斬り取り帰ろうとしたとき、
道で敵兵が弾丸に当り痛み苦しんでいる所を見た。
覚兵衛は大いに哀れみの心を起こし、懐中より用意の薬を取り出してこの敵に与えた。
敵兵は涙を垂れて深くその徳を感謝したという。(武人百話)




111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 00:18:33.88 ID:WUOOn8ck
手柄を立てた者の余裕だな

114 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/24(水) 10:14:30.56 ID:jpOzawHf
敵兵にあげた薬ってやっぱ馬糞なのかな

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 17:56:16.43 ID:tsTNVN3D
>>110
安積覚兵衛って徳川光圀の部下じゃあなかったっけ?

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 20:04:32.46 ID:HIWjC6t1
渥美格之進だったかな

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 20:05:47.99 ID:l8zmPzHF
助さん格さんの格さんのモデルか

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 01:02:54.87 ID:2K+/FzGx
さすがに逸話のほうは別人でしょ?
モデルのほうは江戸中期の人らしいし
祖父か曾祖父あたり?

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 01:09:51.62 ID:sGsayooU
たぶん祖父だとまとめのコメントにもあった

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 09:48:52.95 ID:cv448O93
兵庫のじいの爺さんが鮭様だっけ?

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 02:32:17.22 ID:tctn1ZL0
>>121
鮭様の息子のうちなんだかんだで長生きできたのは山野辺義忠だけで、
水戸黄門の設定に一番近いっぽい水戸藩家老山野辺家の当主がその息子の義堅
それでも計算は合わないんだけど、その次の代だともっと計算が合わない

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 08:38:38.83 ID:tevBDvFt
いつぞやHRって動画の企画があったけど
そのなかで、山野辺さまは当主になる前の黄門さまに、自身の体験を引き合いにして歴史を綴るものの
心得を喚起しながらも藩の金を無駄にするんじゃねえと釘をさしてたなあ

信州中塔城、馬売り問答

2012年05月20日 21:17

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/19(土) 21:54:04.31 ID:5zjZgNq0
天文21年(1552)9月、武田信玄は小笠原軍の籠る信州中塔城を攻めた。
この時、武田軍の南の口の大将は、小笠原長時を裏切り武田に寝返った三村十兵衛であった。

さて、中塔城の東の尾根では、そこの郭を守る小笠原方の武将、二木善右衛門が、実に見事な
黒い馬に乗っていた。
これを見た攻め手の武田軍・飯富虎昌の手のものが声をかける

「その馬は実に良い馬だな!わしに売ってはくれないか!?」

これを聞いた善右衛門、相手が敵方にもかかわらず

「よし、売ろう。」

と答えた。これを聞いて武田方のこの者

「敵味方であっても商いはある!互いに一人ずつ出して、馬と代金の受け渡しをしよう!」

すると善右衛門

「いかにも売ろう!しかし拙者は金銀には望みがない。代わりの物をお前が取ってきてくれたなら、
これを売ろう!」

「代わりのもの?それは武具か?馬具か?太刀か?やはり籠城しているのだから兵糧か!?
なんでもいい、望み次第に持ってこよう!」

「そちが言うようなものではない!私がほしいのは…」

と、善右衛門

「武田晴信と三村入道(十兵衛)の首だ!!その二つをくれるのなら、この馬など安いものだ!」

これを聞いた武田方の者たちは皆驚き呆れ、怒った

「おい!それは我々への悪口であるぞ!」

「少しも悪口なものか!前の諏訪峠の合戦は、本来は我々小笠原軍の勝ちであった!それなのに三村入道が
裏切ったために負けた。
この遺恨によって三村の首を馬の代物として取り、また晴信の首さえ取れば、馬がなくても楽々と
在所に帰れるというものだ!であるから、この2つの首をくれれば、馬を売ろう。」

武田軍はこの言葉に激怒し、二木善右衛門に向かって矢を射かけた。そこからここでの戦が始まった。


信州中塔城、馬売り問答である
(二木家記)


類似
二木善右衛門の交換条件
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3697.html


273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/20(日) 11:47:35.82 ID:CHM1z5aw
>>272
二木善右衛門、言合戦上手いなw

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/20(日) 12:15:47.49 ID:6yWpkEg0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3697.html

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/20(日) 13:08:40.73 ID:FHyW84qH
小笠原長時の首と交換してやれば満足しただろうに

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/20(日) 13:39:25.41 ID:g0Xsl+xM
こういう口の達者な男は敵から狙われるだろうけど名前も売れるだろうな

『小笠原牡丹』

2012年01月16日 21:59

479 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 17:59:25.82 ID:nEbxNjIs
信濃守護職・小笠原長時は草花、特に牡丹の花を愛した。
天文19年(1550)7月、塩尻峠で武田晴信に敗れて以来、衰退著しい長時は、祈願寺である兎川寺の住職を訪ねた。

「和尚と会うのも、これが最後となろう。」
「やはり、いけませぬか。」
「うむ。無念だが、武田には勝てぬ。信濃を落ち延び、上方で助力を請う。・・・和尚に頼みがある。」
「承りましょう。」

住職の了承を受けた長時は、一株の見事な牡丹を持って来た。

「わしは、花が好きじゃ。この地を落ちるは、当家存続のため仕方ないとしても、わしが手塩にかけた花を
武田の奴輩に踏みにじられるのは、我慢ならん。
そこで、わしが特に気に入りの白牡丹、この寺で育ててはもらえまいか?」

住職は申し出を快く引き受け、長時は居城を焼き払い、山中を隠れ行き、上方目指して去った。

長時の残した白牡丹は住職が大切に育て、住職亡き後も、牡丹の話を住職から聞いた兎川寺檀家の久根下氏が
『殿様の白牡丹』と呼んで、密やかに守り続けた。

480 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 18:00:10.48 ID:nEbxNjIs
旧伯爵・小笠原忠統は戦後、文化活動に熱心に取り組んだ。
昭和32年(1957)、小笠原氏本貫の地・松本市の市立図書館長に就任した忠統を、一人の青年が訪ねて来た。

「“殿様”、よくぞお戻りになられました。今こそ、これをお返しいたします。」
「これは・・・?」

青年の名は、久根下栄一。『殿様の白牡丹』を守り続けた、久根下氏の末裔であった。

栄一は、小笠原氏も一時居城とした松本城に、この牡丹を株分けする事を提案し、忠統もこれを快諾、
牡丹は松本城本丸庭園に移植され、『小笠原牡丹』と呼ばれるようになった。


戦国乱世の兵火を逃れ、400年の時を越えた『小笠原牡丹』は、今も松本城で美しい花を咲かせている。

ttp://www.shinmai.co.jp/flower/200005/00052302.htm
ttp://www.oshiro-m.org/quiz/g1_4.pdf (PDF注意)





481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 18:24:20.42 ID:kVgPYhsu
いい話だが、小笠原氏は大名に復帰しているのになぜ戦後まで待ったのかな?

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 18:40:24.10 ID:LqaT6squ
牡丹を手放すのがもったいなかったとか

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 19:47:39.60 ID:8oExZufN
>>482
好意的に考えれば、江戸期の松本領主、その後継たる華族家を憚ったのかな。悪意的なのはいわぬ。


484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/17(火) 00:57:33.45 ID:WAh17nbX
うわ、すげえでけえ、綺麗ー!
こんな見事なの、よくぞ守ってくれたねえ。
小笠原長時も久根下さんもいい仕事をなさったわ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/17(火) 10:07:32.88 ID:zEzPJ5T9
>>483
旧主の小笠原家に託されてずっと貴方達の目に触れないように
守ってきた牡丹を株分けに行きますとは時代的に言えなそうですよね。
後で知られても面倒になりそうだし。

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/17(火) 12:16:20.88 ID:y5jQAZXY
初代松本城主の石川氏と小笠原氏の関係は気になる。

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/17(火) 19:53:27.42 ID:frhW3aho
>>483-485
でも、逸話の中にもあるように、小笠原長時の息子、小笠原貞慶は
1583年からの2年間、松本の領主だったこともあるわけで。
さらにその息子、小笠原秀政も1613年から松本の領主だし。

なぜその時ではなく明治維新まで待ったのか、激しく疑問。

お祭りVS戦国大名

2010年08月22日 00:01

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 12:01:53 ID:VRdSgtR6
お祭りVS戦国大名

順調に信濃進攻を進めていた信玄は天文十六年の上田原の戦いで大敗。、
大損害の上、多くの重臣を失ない、さらに占領下の反武田勢力も息を吹き返し、
一転窮地に陥った
武田家と敵対していた信濃守護小笠原長時もこれを好機として諏訪領に乱入した。
おりしも六年に一度の諏訪大社御柱大祭の年で、
この乱入の為にお祭りの参加者が少なく
御柱祭を大々的に後援していた、武田家は大いに面目を失ったとある。
これに気を良くした長時は、6月に行われるお祭りの後半にも乱入したが、
ブチギレたのは、2度までもお祭りの邪魔をされた氏子たちであった。

長時「ヒャッハー、お祭りなんてぐちょんぐちょんにしてやんぜーw」
氏子「ブチッ」
長時「あれ、え、ちょっとwww」

六月十日、小笠原殿外宮打入、外宮計出相、馬廻下侍十七騎、雑兵百騎、討取候。
小笠原殿、二箇所手おはれ候。宮移之御罰と風聞候。(諏訪神使御頭之日記)

超意訳(地下人達が相手してやったら、侍17人、足軽100人余り討取っられた挙句に、
長時自身も2ヶ所も傷を負って惨めに逃げ帰っていったぜー。まさに天罰ブゲラw)

自分たちでやって天罰も何もないと思うが、六年に一度の神事に介入したばかりに、
諏訪大社の最重要神事記録に書かれ、後世までみっともない話が残った運の悪い話。
ちなみにこの一カ月後に塩尻峠の戦いで、武田に敗れ、衰退の一途をたどる、
小笠原長時だが、二記家記や溝口家記を見る限り、
おつむは弱いが猛将として書かれ、けっして弱いわけではない。
荒っぽいお祭りとして現在も有名な御柱祭が異常なんだと思う。たぶん。




586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 14:23:13 ID:tZUQdcf8
小笠原に喝だぁ!
諏訪神社氏子、天晴れ!

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 16:13:17 ID:JmsTIei/
日頃の憂さ晴らしのためのお祭ではなく神事だからな
そりゃ邪魔されたらキレるわな

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 17:13:32 ID:w4fs8jN9
仏の顔も三度というが
氏子たちは一度だったか

故郷に帰れたけど…?

2010年04月02日 00:02

833 名前:故郷に帰れたけど…?[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 00:47:19 ID:0gwEpzcR
天正10年(1582)、小笠原貞慶は徳川家康の後援を受け、信州深志に入った。父が天文19年(1550)に
居城を武田信玄に奪われて以来、実に32年目にして信濃守護家が、本貫の地に復帰したのだ。

貞慶のもとには溝口氏・二木氏・赤沢氏ら旧臣が続々と帰参し、涙ながらに祝いの言を述べた。
「若様…いえ、殿…よくぞ……」「“待つ”こと…待つこと久しくして“本”懐を遂げたり……!」
この思いから、貞慶は「深志」の地名を「松本(待つ・本)」と改めた。

翌天正11年、貞慶は会津に亡命中の長時を松本に呼び寄せたが、「暗殺された、だと…!?」
喜んで会津を発つ支度をしていた長時は、恨みを抱く従者に斬り殺された。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3668.html
悲しみに浸る間もなく、家康から人質の提出と上杉攻略を命じられた貞慶は、嫡男・秀政を差し出し、
上杉に逆に松本まで攻められたりと、苦労しながらも淡々と仕事をこなした。

ところが天正13年、秀政を預かっていた石川数正が徳川家を出奔、秀吉のもとへ。あわてて自分も
秀吉の傘下についた貞慶だが、徳川方の高遠城攻略に失敗する等、上手く行かない。
天正14年、秀吉と家康の間に和睦が成立すると、思い切って貞慶は秀政を家康のもとに出仕させた。
この賭けは当たり、秀政は家康の孫を妻に迎える等、なかなかの厚遇を受けた。

だが貞慶自身は天正18年、追放された尾藤知宣をかばって秀吉の怒りを買い、改易されてしまった。
故郷を回復し、再び失った男は、家康から下総古河三万石を授かっていた秀政のもとに転がり込み、
文禄4年(1595)、異郷の地で世を去った。


835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 00:49:10 ID:0gwEpzcR
「うう、父上っ…父上の無念は、この私が必ず……」父・貞慶の位牌を前に、小笠原秀政は誓った。
腹立たしい事に貞慶が改易された後の松本に入ったのは、一時期徳川を離れる原因になった石川家。
「何としても、再び旧領を回復するのだ!!」

あちこちに働きかけた秀政は、関ヶ原の戦いの際は宇都宮城の守備などという地味な仕事だった
にもかかわらず、信州飯田五万石に栄転した。「よし、あと少し!」
慶長18年(1613)、待ちに待った機会が訪れた。石川数正の子・康長が、大久保長安事件に連座して
改易となり、後には秀政が八万石で入る事になったのだ。
「しかし、これだけで満足せんぞ。旧守護大名としてさらに一族の力を結集し、信濃一国をわが手に!」

元和元年(1615)、大坂夏の陣に参戦した秀政は、次男・忠真と、留守を命じられた長男・忠脩も動員して
賭けに出た。しかし、留守居の勝手な出動は家康の不興を買い、さらに軍監の藤田信吉の言に従って
戦機を逃し、秀忠の怒りをも買ってしまった。「これはいかん。相当の働きを見せねば!」
覚悟を決めた秀政は、本多忠朝隊とともに毛利勝永隊に突撃。長男・忠脩は槍ぶすまを受けて即死、
次男・忠真は全身七ヶ所に傷を負い、秀政自身も重傷、自陣に戻るも夕方になって息を引き取った。
その最後の言葉は「信濃は……」だったという。

唯一生き残った忠真に、ようやく将軍秀忠から沙汰が下ったのは、元和3年のことである。
「大坂の陣での働き、まことに大儀であった。」「ははーっ、有り難きお言葉!」
「その功績を称え、二万石を加増し…」「………♪」
「…播州明石十万石に転封とする。」「は?明石?!あのー私、西国に縁もゆかりも無いんですが…」
「だって、となりの本多忠政はキミのお舅さんでしょ?縁戚同士、仲良くやんなさい。」「………」

めげずに父同様あちこちに働きかけた忠真に、寛永9年(1632)新たな沙汰が下った。
「積年の働き、まことに大儀である。」「ははーっ、有り難きお言葉!」
「その功績を称え、五万石を加増し…」「………♪」
「…豊前小倉十五万石に転封とする。」「は?小倉?!あのー信濃から、さらに遠くなってるんですが…」
「だって、前小倉藩主の細川忠利はキミの婿でしょ?縁戚同士、仲良くやんなさい。」「………」

以後、小笠原家は信州に帰ることなく、明治維新を迎えることになる。




836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 00:51:22 ID:55CHa8mS
>>833
いろいろあったけど息子がそこそこ出世してたんだしいい話とも言えるな
なんだかんだいって運ががいいというか・・

つーかなんで徳川裏切ったんだろう。裏切ったのに息子は厚遇されたんだろう

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 00:59:06 ID:F5EALxFc
秀政預かってた石川数正が豊臣に付いたからっしょ?

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 02:01:58 ID:iInPit4l
>>835
山国の信州より明石10万石とかのほうが実入りも多そうだが、やっぱ父祖伝来の地は格別なのかね・・・・

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 09:10:18 ID:UF1J3OmI
>>835
これだけ厚遇されておきながら分家の唐津小笠原と本家の小笠原が
揃って長州征伐で致命的失態を犯して幕府を潰してしまうんだからなあ

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 09:28:04 ID:INUuxaqx
>>833
>>835
この小笠原にしろ小田さんにしろ、
先祖伝来の土地に対する執着心は相当なもんだねえ。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 09:31:51 ID:cs93tdhe
>>843
彦根藩「大恩ある徳川に泥を塗りおって」


846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 13:04:05 ID:R1McdF3F
>>845
津藩「お前が言うな」

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 13:26:56 ID:ldqGLldC
>>845-846
尾張藩「さあ、はやく倒幕の旗の下に集う作業に戻るんだ」

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 13:44:10 ID:CFHtGPY7
>>844
一所懸命 とか言うと、いい話スレ的なイメージに変貌

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 15:05:47 ID:Ezs66yis
兄ちゃんの親父「比興者と呼ばれようが、自分の才覚で切り取った土地はどんな手を使ってでも守らねばならない」

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 15:34:54 ID:N5KBLkg/
>>849
信雄「先祖代々の城地から勝手に土地変えとか許せるかってんだよな」

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 15:39:02 ID:+4NMM7qM
細川藩士「その点、ウチの殿はえら……えら……
      素直に褒められないのはなzぎゃー

二木善右衛門の交換条件

2010年02月22日 00:04

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/21(日) 14:07:14 ID:E6M1W57A
天文19年(1550)7月、小笠原長時は三村氏の裏切りにより武田晴信(信玄)に深志を奪われ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2314.html)、
重臣・二木氏の居城、中塔城に逃れた。

たちまち城は武田軍に包囲され、城方の二木善右衛門が討って出たが、その乗馬を見て、
飯富虎昌の配下が声をかけた。
「やあ、見事な馬だな。相応の金を出そう、その馬、売らぬか?」

信濃の山城に棲む猿に名馬は必要なかろう、という挑発である。これに善右衛門は、
「売らぬでもないが、金など要らぬ。物々交換と行こうか。」
と答えた。
「そうか、何と交換する?刀か、具足か、それとも篭城ゆえ兵糧か?何でも良いぞ。」
応じた飯富配下の言葉に、善右衛門は続けた。
「ならば、武田晴信と裏切り者の三村の首をもらおうか!この二つと交換ならば、名馬と言えども
安いものよ!」
「何という悪しき言い草じゃ!」と怒る飯富配下に善右衛門、
「いいや、少しも悪口ではないぞ?三村の首あらば我らの遺恨は晴れるし、晴信の首あらば
貴様らは逃げ去り、馬無きとて深志まで悠々と帰れよう。道理を申したまでじゃ!」

これに腹を立てた武田軍から矢を射かけ、篭城戦が始まったが、この後も逆上して心理戦で
敗れた武田軍は、援軍もない小城の攻略に半年(一説に三年)を費やすことになる。


相手が小笠原流家元の家臣とはいえ、古臭い前哨戦(?)で勝てなかった武田さん家の話。
武田だって名門なんだから、こういう軍記物っぽい口の回る話って残ってないですかねー?
内藤修理さんのナゾナゾ話は内輪のヒマ潰しだしなぁ。




724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/21(日) 14:10:39 ID:1NBNh4yQ
自分から挑発しかけてんのに上手く返されて逆ギレって恥ずかしいよね。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/21(日) 14:31:43 ID:aFnw/4Ot
口合戦に応ずるなって指示出す大名が…

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/21(日) 14:56:29 ID:Hxk2nMBa
>>723
日本の伝統、言葉戦いはおもしろいなぁ。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/21(日) 16:12:54 ID:ckUbeTrf
信長「殺して奪い取ればよかったものを」

神田将監は突然走り出した

2010年02月18日 00:03

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 22:57:08 ID:8Ba8vpBe
武田晴信(信玄)の脅威が信濃を覆いつつあった天文十七年の七月初め、
小笠原長時に仕える若侍たちがに城へ出仕する道中のこと。

夏の太陽が照りつける中、一同が坂道まで来ると突然、神田将監という者が走り出し、
一気に坂を登り切った。
「どうした将監、こんな天気の日に走って暑くはないのか?」
同僚たちが聞くと、将監は答えた。
「暑くない。秋の露で濡れているので、露を払うため走ったまでよ。」

同僚たちは笑った。
「気でも違ったか将監?それは秋の露どころか、お前の汗ではないか!」
将監は少しも動じず返した。
「貴殿らは唐の国が呉越の”臥薪嘗胆”という故事をご存じか?」
「?」
「長時様のご器量頼りなく、臣下に不足多し。しばらく後には、この地は武田晴信のものと
なるであろう。故郷を追われる我ら小笠原の臣は、野山に獣を狩って肝を嘗め、薪に臥し、
秋の露に濡れて夜を過ごさねばなるまい。
よって、今から露に濡れることを思って動いてみたまでの事よ。アハハハ・・・」
「・・・・・・」

将監の風刺(?)が長時に伝わったか、定かではない。
神田将監は塩尻峠の戦いの後、武田軍の夜襲を防いで戦死し臥薪嘗胆する事はなかった。




602 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/16(火) 23:22:35 ID:AWnqNNth
今しぶとい戦国武将伝って本読んでてさっき貞慶の件を読んできたぞw
タイムリーワロタ

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 23:32:41 ID:3FkuhlaT
>>601
そんな急に走り出したら、その坂の向こうに伏兵が潜んでるのかと思っちゃったよ
短気な森家ならその背中を一斉に弓矢で射られてハリネズミ状態にされても文句言えないレベル

各務「どうした将監、いきなり走り出して」
大塚「どうした、ってもう死んでるやんけ」
井戸「がはは」
長可「がはは」
各務「がはは」
一同「がはは」

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 23:45:51 ID:mqRY2J2E
なんという脳筋ファミリーw

故郷に帰れない

2010年02月17日 00:09

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 04:05:56 ID:Y+94BjQI
故郷に帰れない


『信濃守護職』小笠原長時。

彼は天文17年(1548)の、塩尻峠の戦いで武田信玄に大敗し、天文20年(1550)には村上義清の元に
逃げ込み、旧領回復運動を繰り広げつつ、その後越後、さらには同族である京の三好長慶の元にまで
亡命し、老年には会津、蘆名盛氏の元に寄寓していた。

さて、そんな長時の三男、貞慶はなかなかの武将であり、織田信長に仕え活躍。
天正10年(1582)3月に武田が滅びると、信州に領地をあてがわれた。
一部とはいえ小笠原氏が、ついに信濃に戻ってきたのだ。
が、武田滅亡の3ヶ月後、本能寺の変が起こるのである。信濃も、大きな混乱に陥った。

小笠原貞慶はこれをチャンスと見た。徳川家康の後援の元、今は木曾義昌が領する、
かつての信州小笠原家の所領、松本の奪還を狙ったのだ。

彼は家来の溝口美作一人だけを召し連れ、密かに塩尻に潜入。地元の人々を煽動すると、
高井手、熊野井、青柳、瀬黒と言った村々が一斉に蜂起。木曾義昌はこれにはたまらず、
ついに貞慶に松本を明け渡すことを約束した。

この時小笠原貞慶は、木曾義昌が無事に落ちることを保証するため、百束掃部と言う者を
人質として付けたのだが、その人質すら瀬黒の正徳寺の住職に率いられた一揆勢に奪い返されるなど、
もう散々であった。

鬼武蔵の件といい、本能寺の後の木曾義昌は踏んだり蹴ったりである。


さてさて、会津の小笠原長時である。

彼は息子の貞慶より、旧領の復帰の報告と、早く長時を迎えたいとの連絡を受けた。
ついに信州小笠原家が復興したのだ。
長時は大喜びで帰国の準備をしていた。

ところがその最中、長時の従者の一人が彼に遺恨を持ち、にわかに斬りかかった。
長時はこれにより、あれほど焦がれた故郷の地を踏むこと無く、会津にてその生涯を閉じた。

最後の最後で運の無かった、そんな男のお話。




586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 07:58:45 ID:BTWHDLU+
運だけの問題じゃないのでは……。

どういう恨みをかってたのかは知らないが、従者に殺されるって相当じゃないの?
「故郷の地は踏まさん! この腐れ外道が。冥途に行けや!」
ってことでしょう。
運というより信望のない話な気がする。

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 08:36:21 ID:JupJtSMK
>>585
小笠原貞慶は石川数正と一緒に秀吉に寝返ったり
息子・小笠原秀政&孫・忠脩は無断参戦した大坂で寡兵相手に親子仲良く討ち死にしたり
裏目に出る大失態を何度も演じているのに徳川家康の恩顧でことごとく助けられて
潰れるどころか領土を増やしている点が小田家と違う点だな。

それなのに
子孫・小笠原長行は老中として討伐に赴いた長州征伐で致命的ミスを連発して江戸幕府をつぶしてしまった

徳川家康が特別に譜代として引き立てて九州の監視役として期待していた小笠原氏と奥平氏が揃って
幕末に全く役に立たなかったのが誤算だったね。

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 09:44:07 ID:CSJiis/F
それを言い出したら井伊とか藤堂とか(ry

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 10:58:10 ID:SirUNl+d
いや、小笠原家の末裔としては至極順当な戦果じゃないかw


590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 11:03:08 ID:4sU1Rnd1
勘違いされる事が多いけど、小笠原長時ってのは、もの凄い勇者だったらしいよ
個人的武勇はそれはそれは凄まじいものがあったとか
反面、もの凄い高慢で人使いが荒く、下のものには非常につらく当たったらしい

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 11:06:18 ID:tuDSZwuM
>>590
部下に殺される武将のテンプレみたいだな

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 13:05:57 ID:9Bj/S1Yv
全くの余談だが、>>410の小笠原吉次は小笠原長時の長男である小笠原長隆の
長男だから本来は小笠原家の家督を継ぐはずだった人なんだよな。

まあ再興を成し遂げた貞慶が宗家になるのが自然と言えば自然。