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つい立姿見せぬ小次郎

2019年10月22日 17:30

530 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/22(火) 15:27:08.66 ID:YTH2ODIp
下野国栃木の城主である佐野小太郎宗綱は血気盛んな荒武者で、はじめは越後の幕下であったが、
上杉謙信が死んでからは佐竹義重の一味となり、小田原の北条氏を仇敵としていた。

この佐野と長尾顕長の足利とは土地が入り組んでいて、年来その境界で争いが絶えなかった(境目相論)。
それはついに両地頭の矛盾と成り、長尾顕長は永禄の頃は館林に在城し、足利の岩井山城を白石豊前守、
渕名上野介に守らせていたのだが、若林郷、猿田の川端で両家は争い、この時は佐野方が切り勝ち、
野田、小曽根を越えて館林の近辺まで押し入った。しかし金山の由良氏が長尾方に立って援軍を出したため、
佐野方は退いた。

その後も佐野方は抱えの砦に浅羽右近将監資岑を入れ置き不意に足利を襲い、足黒、西川あたりでの
初田合戦でも、佐野宗綱自身が乗り出して足利方と戦い首まで取った。その復讐として足利方も、
須花、猿崎の両城にあった小野兵部少輔・同長門守兄弟を襲撃しこれを殺し城を奪った。
宗綱はこの事を日夜く惜しく思い、土民田夫をそそのかして足利領の名草周辺の田畑を踏み荒らさせ、
麻畑を蹂躙し、放火狼藉を仕掛けた、

そしてその年(天正十二年)の十二月、ついに宗綱は重臣であり大貫隼人正、富士源太を呼んで言った
「明元旦に旗本の人数を率いて足利表へ出陣し、敵の油断を突いて勝利を得ん!」
ただし本道の寺岡通りを通れば目立ち、金山や館林より援軍が後詰に来られては困る。とにかく名草に出て
藤阪の詰め所を踏み荒らして、須花、猿崎の両城を取り返し、あわよくば彦間、岩手山まで押しかける。
そのため上役たちに触れを回し、急ぎ人数を集めるよう命じた。そしてもし金山、館林より後詰めが出た
場合は、直ぐに引き上げるとも語った。

しかしこれを聞いた大貫、富士たちは
「敵の不意をつくというのは兵法として最大の策ではありますが、除夜より元旦にかけて敵を襲うというのは
楚の項羽であっても好まれなかった事です。せめて正月三が日の、年始めの祝事が済んでからになされては
いかがでしょうか。」と諌めた。だが宗綱は逸りたち一向に聞かず、夜陰に及んで陣触れをした。

明けて天正十三年元旦、雪中であり、また夜中のにわかの陣触れのため旗本の集まりはひじょうに悪かった。
腹に据えかねた宗綱は馬廻りのわずかに集まった旗本のみを引き連れ石塚に向かって駆け出した。
赤見内蔵助、富士、大貫と言った重臣たちが馬の轡に取りすがって止めるのを振り切っての出馬であった。
夜前よりの深い雪を蹴り、元旦の眠りを覚ます出馬であったが、夜明けには遠く敵の番所の早鐘が聞こえ、
金山、館林の後詰めがあり、危ういとも思われた。

しかし佐野宗綱はすべてを運に任せて、一散に須山城を奪回しに向かった。ここは先の城主・小野兵部少輔が
追い出された後、足利方で彦間の小曽根筑前守が入り守っていたが、この思いもよらぬ朝駆けに大混乱と成り、
太刀を取る暇も無い所に佐野方が無二無三に攻め入り当たるを幸いと撫で斬りにし、簡単に乗っ取ることが
出来た。小曽根は搦手より逃亡した。

宗綱は敵に隙を与えず、続けて藤阪、彦間の砦も落とそうと、平地であろうが坂であろうがが構わず
「者共つづけ」と敗兵を追い、藤阪山の北まで来た時、運が尽きたということであろうか、どこからか
飛んできた流れ弾が錣(兜で左右後部の首筋を覆う部分)を打ち抜き、馬よりどうと落ちて気を失った。
この時、宗綱には栗田という下人が一人ついていただけであった。栗田は気を失った主人を半町ほども
ひきずり自陣へ戻ろうとしたが、敵の若侍が一人、逃さじと追ってきたため、そこに主人を打捨てて
味方に注進するため駆け戻った。

この時宗綱は息を吹き返した。田の畦に腰を掛けて前後をきっと見渡すと、続く味方は一人もなく、
敵と想われる若侍が一人駆け寄ってきている。宗綱はもとより剛の者で、心は猛っていたものの、
銃撃と落馬の負傷で心身の衰えいかんともしがたく、雑兵の手にかかるより腹を切って果てようとしたが
もはや手にその力もない。ただ前に立った敵をにらみつけるだけが精一杯であった。

531 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/22(火) 15:27:55.84 ID:YTH2ODIp
宗綱を見た若侍は、その鎧兜から只者ではないと思い
「甲冑の体、ただびとにあらず、佐野の家中にても大将分の手負いと見たり、ただ徒に打ち取らんよリ
その鎧兜を渡されよ。」と言うと、宗綱は苦しい息の下より
「物の具は言うに及ばず、この首そなたに取らすべし。さりながらただ闇雲に敵に渡さば黄泉の旅路の
触りにもならん。そなたの苗字を聞いた上で腹掻っ切ろう。」
「それがしは彦間の士、豊島七左衛門と申す。甲冑をさえ渡さば命は助け申す。」
「なにを小癪な。かかる仕儀に及び一命を継ぎて何をかせん。介錯を頼む。」
そう問答しているうちにも、足利方の者達が集まってきた。
「早々に打て!」との言葉に、豊島七左衛門その頸を掻き落とし、甲冑太刀まで分捕って退去した。

そのころ佐野の旗本達は主人に置いていかれ、行方さえ解らず探していた所に、栗田が馳せ戻り
一部始終を述べた。家人達は大いに力を落とし、また呆れて言葉もなかった。
富士源太郎は涙を抑えて
「この上は彦間の城中に御首があるだろう。これより討ち入って御首を取り戻すか討ち死にするか、
二つに一つである。」と立ち上がった、。しかしこれに赤見内蔵助は

「その儀に勿論であるが、心を鎮めて考えて見るに、今回のことは宗綱公に天魔が魅入っての暴挙であった。
このうえ今我々が切り込んで犬死すれば、府君の無法をさらに上塗りするだけで、敵にとっては倍に倍する
利益となり、味方は未来永劫遺恨を晴らすことが出来なくなるであろう。
ここは一旦栃木へ引き返し、係累の方々より城主を取り立てて後、この仇を報いるのが得策と考える。
皆々はどう思われるか。」

そう言って一座を見回した所、富士、大貫らもこれに同心した。そこで諸勢をまとめ、涙ながらに栃木へ
引き返した。実に無念極まる有様であった。この時このような落首が出た

 みそか夜の 闇によしなき出馬して つい立(朔日)姿見せぬ小次郎

(関八州古戦録)

佐野宗綱の元旦討ち死にのお話。内容自体は既出ですが非常に詳細だったので。



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修理は多才の者である

2019年03月28日 18:13

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/28(木) 18:07:25.83 ID:oA8LGetC
上野の佐野は殊の外富んで豊かな地である。太閤は東照宮(徳川家康)を関東に封じて後、佐野
修理大夫(房綱)をここに封じた。修理は多才の者である。上野半国を修理に与えたとはいって
も、佐野が彼に属すれば一国すべて取ったと同じことである。

――『老人雑話』



佐野天徳寺は先手を望むも

2018年06月03日 17:03

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:01:45.70 ID:ymnEiec5
豊臣秀吉が五畿内の軍勢数万騎にて小田原の北条氏直を攻めると、諸軍勢に軍法を下された頃、
佐野天徳寺はこう申し上げた
「今度の小田原攻め、御先手をそれがしに申し付けください。」

秀吉はこれを聞くも
「貴老は人数も持たないではないか、一人では何も出来まい。」

しかし天徳寺
「今回、御先手を申し付けていただければ、野州佐野へ申し遣わし、故宗綱の家来が
五百騎ばかりが居りますので、彼らを呼び寄せ、御先手を仕ります。」

しかしながら、秀吉は考え深き大将であり
「いやいや、佐野に残った侍と言っても、もはや数年前の事であるから、今は思い思いに散らばり、
そのように働く事が出来るとも思えない。もしそのような状況ならばどうする?」

「宗綱の侍は代々譜代の者たちですから、他国を頼んで出ていくことなどありません!」
そう、達って申し上げたため、秀吉も「そういうことなら貴老の望み通り、先手をせよ」
と仰せになった。

そこで天徳寺は早速佐野に、この旨を伝えたが、天徳寺の考えに相違し、秀吉の考えの如くに、
佐野の侍たちは方々へ散り散りとなり、あるいは小田原に人質として入り、集めることの
出来るのは百人以下という有様であった。

天徳寺はこの現実を見て、さても是非無き次第かなと、面目を失った。
それより少し、秀吉公の御前に思し召される事が無くなったという。

(唐澤老談記)



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:30:31.43 ID:f/1CtrpU
ほんとに悪い話だ。
関東の国衆って、けっこう小田原に入って、滅亡した家が多い感じ。

838 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/02(土) 20:37:35.91 ID:gKbDChEG
天徳時さんの目利きの甘さと秀吉の読みの鋭さよ…
せめて人を集めてから申し出るべきだったな

佐野宗綱討死

2018年06月01日 09:32

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/31(木) 22:25:42.80 ID:KVDFnVqS
大抜越中が歳暮に唐沢山城へ登城したとき、主君・佐野宗綱が私的な話として語った
「私は明元日に、名草より足利へ攻め入ろうと思っている。」

これを聞いて大抜は申し上げた
「正月朔日にかけて合戦をするというのは、古よりおおいに嫌われている行為だと言われています。
ですので味方がしっかりと防御の備を成す事こそ、敵の企みにも勝利するものであり、この方針を
取るべきだと考えます。」

これを聞いて宗綱は立腹し、機嫌を悪くした。
この頃佐野家中の家老衆は不和であり、家中では「大抜も小田原への内通から足利への内通へ
心変わりしたか」などと囁かれ、家中は「大抜方」「御家方」と二つに割れ、そのような中
たって宗綱に諫言する者も無かった。

この日、丑の刻に本城において、出馬する馬の先に、白き帷子を着た若い女が現れ歩いた。
人々が不思議に思う中、それはいずくともなく消え失せた。不思議な事であると諸人肝を消した。

足利の長尾顕長より佐野の抑えとして、彦間に置かれた小曽根筑前は、佐野領方面が少々騒がしいと
聞いて、所々方々、山林まで人を出して情報を集めた所、佐野の軍が足利に侵攻する事を知り、
この城に構うことは無いと判断し、妻子以下を山林に密かに隠し、自身は寄騎弓歩の者たちを
召し連れ名草数葉那の寄居場へ馳参り、番の者たちにこの旨を申し入れた。これにより貝鐘立てられ、

まず最初に名草に置かれた芳賀右衛門が半月の指物と馬印にて歩弓を召し連れ馳来た。
2番に柳田隼人、山下播磨、泉新十郎、岩下右近、杉木修理など馳来た所、早くも
佐野の先手である富士源太、山越才吉両人が名草まで打ち出た。
足利では元旦のことでも有りこのような事が起こると思わず、周到狼狽して騒いでいた。

佐野宗綱は強気の大将であったので、旗本後巻ともに勇早めんと考え先を進んだ。
旗本すら追いつけないほど馬を早めたため、御鑓持の一人など、馬の尾に取り憑くほどに
駆けたが、閑間河原で吐血し即死した。旗本勢も早馬にて付いていこうとしたが、大将の御馬は
肝強き故に、4,50町(約4,500メートル)ばかりも離されてしまった。

こうして、数葉那坂まで一人で出てしまった宗綱を、数葉那の足利勢はもとより大将とは
知らなかったが、佐野勢と見て、小曽根筑前が声高に名乗った
「私は小曽根筑前である!私は佐野家が彦間に置いた小野兵部を討ち取り、その後も
御当家に対して度々敵対致しておる!今度の佐野による侵攻ことも、既に長尾顕長公へ申し遣わし
この寄居に名草六郎とそれがしの一家、その他籠もっている。そなたの後に続く同勢へ弓鉄砲を
撃ちかけ申す!」

これを聞いた佐野宗綱は、内々に数葉那の寄居を攻め落とし足利を奪い取り長尾顕長の首を見て、
その帰路に小曽根筑前を討とうと考えていたのだが、慮外の広言でありこれを一攻めにせんと采配を振った。

しかし、旗本たちが続いて来ていると思い振り返ったが、誰も居なかった。
しばらく佇んでいた所、御武運の尽きであったのだろう、一発の銃弾が胸に当たり落馬した。
そこに足利方の豊島七右衛門という軽輩が、大将とも存ぜず走り寄って首を二太刀切りつけたが、
宗綱は
「うろたえ者め!綴を巻いて斬っている。その方の太刀では無理だ、私の首切り(脇差)にて切れ!」
そう言ったため、七右衛門は宗綱の腰に挿した脇差を抜いて首を取った。

七右衛門は、「きっと佐野の先手の物頭が、血気に逸って一騎で参ったのだろう」と思っていたが、
馬具が非常に物の良いことに気が付き、「これは大将ではないか?」と疑い、大勢にこの首を
見せると、その中によく見知ったものがあり「それは大将の宗綱公である!」と申したことで、
足利勢はどっと悦んだ。

ここのようやく佐野の旗本が駆けつけたが、足利勢の「大将宗綱公、只今討ち取ったり!」との
大音声に、「この上は一命を惜しむことは出来ない、必ず足利を攻め落とす!」と喚き叫んで
攻め、足利勢を押す勢いであったが、ここに足利の援軍として、樺崎より新井図書、大沼淡路、
市川右衛門、久米伊勢、その他の足利勢が多数集まったため、大将も不意に討ち取られた以上
是非もなく佐野勢は方々へと退却した。

(唐澤老談記)



832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/31(木) 22:49:51.90 ID:xURsX3pY
大将が一人だけ前に出すぎて討死って、かなりアレだな。

幽霊がどういう意味を持つかいまいち分からない。宗綱の死を予告したってことかな。
しかし、不運による討死というより、完全に自滅だろう、コレ。

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/01(金) 03:56:38.95 ID:rOisMAZT
信長も一騎駆けしてるじゃん
馬廻が付いて来たから良かったものの
駄馬じゃなかったら敵中孤立してたね

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/01(金) 07:23:13.82 ID:RpMoj8t5
>>832
バンシーみたいなものか

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/01(金) 15:24:54.17 ID:jZm0wVMN
>>831
>出馬する馬の先に、白き帷子を着た若い女が現れ歩いた。
死に装束?不吉な…。

佐野祐願寺顛末

2013年09月12日 20:00

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 21:04:40.21 ID:iG+KXh3w
佐野天徳寺の弟に、祐願寺という武者法師が居た。

この祐願寺、背が高く筋骨たくましい、大変な暴れ者で、弓、馬、長刀、槍と、
どれを取っても名人であり、ふだん、真紅の綱袋を腰に下げ、その中にいつも砥石を入れていた。
これは戦場で敵を2,3人斬ると、直ぐに武器を研いで次の戦いに備えるためであった。

彼は武者修行のため佐野を出て諸国を廻っているうちに、甲府に来て武田信玄の庇護を受けた事が
あったが、ところがこの時、祐願寺は自分の素性を明かさず、あまつさえ千貫の知行を望んだ。
信玄は面白い奴が来たと思い、近くに召して生まれた地を尋ねたが、祐願寺は

「ともかく一働きしてから」

と、姓名すら明かさなかった。
そのうちに戦があり、祐願寺は得物をとって走り回り、世人を驚かすほどの手柄を建てた。

信玄は再び彼を呼び
「もうそろそろ名乗っても良いのではないか?」
と聞くと、祐願寺もこれ異常黙っていることは出来ないと思い
「拙僧は、佐野の天徳寺了伯の弟で、祐願寺と申します。」
と、初めて名乗った。

信玄はこれを聞くと
「そうか、只者ではないと思ってはいたが、それにしても千貫を要求するのはいかがであろうか?」
「それに値する者だと思っていますが…」
「いや、千貫匁をどうこう言っているわけではない。わしにとって千貫は大した数字ではないのだ。
しかし、わが家譜代の者達に二貫、三貫、あるいは四、五貫程度で賄っているのに、例え名字正しき
ものとはいえ、他所者の、それも新参のそなたにいきなり千貫をつかわしては、旧来の家臣たちの
憤りをも招き、家の害ともなってしまう。

時に今、東国においてそなたのような覚えある者を大禄で抱え、ひと角の武将に取り立てうるものは、
この甲斐の信玄、そして越後の上杉謙信の他にはあるまい。急ぎ越後へ行って訪ねてみよ?」

そう言って信玄は彼に、太刀一振り、鞍馬一匹、更に旅費として黄金十枚を与えた。
祐願寺はその足で甲府を発って春日山に行くと、この事を吹聴した。
上杉謙信はこれを聞くと即座に彼に千貫匁の知行と与力の役を与え、自分も時々、彼から長刀の
指南を受けた。

ところが、この頃春日山に、やはり武者修行して上方より来たという何某という槍の名人が居た。
彼は越後にとどまり、直江大和守実綱、その嫡子神五郎を始め、上杉家歴々の者達に
槍の指南をしていた。しかし祐願寺は彼の腕前を見て、正面から堂々と、その未熟さをあざけった。

このことが謙信の耳に入り、二人は公開の場で真剣勝負を行うこととなった。
祐願寺はこれに勝ち、何某は御前にて屍を晒した。

しかし、これ以後何某に指南を受けていた直江を始めとした歴々の者達が折にふれて
祐願寺を悪しざまに言ったため、謙信も家中の和を保つために、結局祐願寺を殺した。

このことが関東の佐野天徳寺に聞こえ、かれは謙信に恨みをいだき、彼は佐野の幼主である
小太郎宗綱を説いて北条方へと寝返った。
(関八州古戦録)

佐野天徳寺の弟、祐願寺の顛末である。





大貫越後、筋を通す

2011年04月02日 00:00

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/31(木) 22:06:01.27 ID:/wQ98w3M
佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html

この話のように、天正13年(1585)、佐野宗綱は足利の長尾顕長を攻め、単騎突出した挙句討ち死にした。

さて、そこで問題になったのは佐野家の後継ぎである。佐野宗綱には女児しか無かったのだ。
そこで佐野家の家中では、「小田原の北条氏はこの下野国でも日々勢力を増している。ここは北条氏より
その一族の一人を養子として迎え、佐野家を継いでいただくのが良いだろう。」
と言う意見が主流を占めた。

だが佐野宗綱の弟で僧侶の佐野天徳寺は、これに猛然と反対した。
彼は言う、「北条ではなく常陸の佐竹より養子を迎え、佐野家を継がせるべきである!」

しかし佐野家の重臣、大貫越中、竹澤源三郎、山上美濃、飯塚兵部を始めとした佐野家中の殆どは
天徳寺の意見には従わず、家中一同が連署した起請文を小田原の北条氏政の元に差し出し、
「佐野一門、家中上げて北条家の子弟に佐野の家を継がせることを望んでおります!」と申し込んだ。
氏政は当然ながら大いに喜び、弟である北条氏忠を派遣。佐野天徳寺はこれに大いに怒り
佐野の地を去った。


時は流れ天正18年(1590)。豊臣秀吉による小田原の役、起こる。
佐野に攻め寄せる豊臣の大軍の中に、佐野天徳寺の姿もあった。

天徳寺は唐沢山城に籠る佐野家の者達に、すみやかに自分の麾下に加わるよう伝えた。
この時、当主佐野(北条)氏忠は小田原にあり、城中の兵たちはみな、見込みのない戦をするよりも、
天徳寺の命令に従うべきだと言った。

が、大貫越後一人、それに同意しなかった

「私は最初、和尚(天徳寺)の言う事に従わず、左衛門佐(北条氏忠)殿を主君とした!
既に一度主君となし家臣となった者として、今事態が急変したからと言って忽ちに心変わりするのは
勇者の本意ではない!
それがしに於いては、氏忠様の御為に討死つかまつる!」

と、唐沢山城から詰城へと移りそこに籠城した。
残った佐野家の者達は天徳寺に帰服。彼を大将としその詰城に押し寄せる。

ここで大貫越後、櫓の上に登り攻め手の軍勢に向かって大音を上げた!

「私の元にあるこの少勢で、どうして戦うことができようか!
命は義によって軽し!私はそう承っておる!

これを見給え人々!!」

と、自らの首を掻き落として、死んだ。



佐野家重臣大貫越後の、筋の通し方である。





ある年の正月元旦、下野国唐沢山城下

2011年02月04日 00:00

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/02(水) 23:26:47 ID:wyKiaCDM

ある年の正月元旦、下野国唐沢山城下の事。

「おい、あれ……殿様じゃあねぇのかい?」
「あ、本当だ。正月早々、鎧兜を持ち出して、まるで戦にでも出るみたいじゃない
か」

そう、唐沢山城主である佐野宗綱が、完全武装した姿で沢山の兵士達を引き連れて
城から出てきたのである。
流石に正月元旦の事。目撃した誰もが戦とは思わず、何らかの祭儀でも執り行って
いるのだと考えた。

「それにしても……」
「あぁ、それにしても、なぁ……」

「「あの女、一体何なんだ……?」」

宗綱の侍行列の先頭には、白い帷子を着た若い女が歩いていたのである。
何となく気味の悪いその様子に、城下の誰もが眉をひそめていたのだが、誰一人と
して気付かぬ内に、その女はどこかへと消え去ってしまったと言う。


>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html
の数時間前。
宗綱さんが出陣した時の不吉のお話。


ちなみに宗綱の戦死を受けて、まず佐野家の家臣達が行った事は、
「正月の出陣は縁起が悪い」
と反対していた大貫越中守を攻撃して切腹に追い込む事だったそうです。
「お前が不吉な事言うから、殿が死んじゃったじゃねぇか!」
という事でしょうか?
100%とばっちりだよなぁ。




615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 20:49:47 ID:kazh4hMp
>>614
大昔、不吉な予言して殺された女予言者がどっかにいたな
そういうのは古今東西かわらんのだろうね

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 21:01:08 ID:74hw9emm
んでそういうの見てるから
知恵の回る占い師は権力者に悪い予言をしない
で後で知人に実はこう・・・と漏らす
って話も類型的だな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 21:14:35 ID:lB3tLnOl
一方、ノストラダムスはどっちにも解析出来る曖昧な予言詩を書いた

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 21:23:38 ID:s2e/+OAb
>>616
だけどこの手の縁起担ぎって意外とはったりが効くから不思議
あの伊達のDQNも小さい頃はエライ上人様の生まれ変わりだから行く末は名君!ってもて囃されたらしいし
まあ転生した時になんかとんでもねー事故があったんだろうな

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 21:39:57 ID:oudl8WKh
>>615
エリヤ「ユダヤ人たちに危機が訪れる、と予言したのに聞いてもらえませんでした」
カサンドラ「トロイの敗戦を予言したのに狂人扱いされました」
安倍泰親「地震や源平合戦を予言したのに狂人扱いされました」
田豊「袁紹の敗戦を予言して当たったのに殺されちゃいました」

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 22:48:03 ID:vogiO29P
>>619
カッサンドラは予言しても誰も信じてくれないようにさせられたんだけどな
よりにもよって未来を見通す力を選んで、その力使われた結果カッサンドラに逃げられて
その腹いせにカッサンドラの予言を誰も信じないようにしたアポロンはホントどうしようもない

でも物語としては面白いんだよな、ギリシア神話

三十六人の榎本城攻め

2011年01月27日 00:01

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 01:54:22 ID:D1skHDJM

下野国の佐野宗綱が佐竹氏と手を組み、北条氏に抵抗していた頃の話。
宗綱に取ってはお隣さんである藤岡城と榎本城が佐竹氏と手を切り、北条方に寝返
るという事件があった。

宗綱は激怒し、すぐに両城を攻撃する準備を始める。
そんな時に配下の将、山上藤七郎を筆頭にした若者三十六人が、宗綱の許可を得る
事なく、榎本城に夜襲を仕掛けた。

榎本城はこの奇襲に狼狽し、まともな抵抗が出来ないまま、藤七郎らに城中への侵
入を許してしまう。
しかし、彼等の快進撃もここでタイムアップ。城を落しきれないまま、夜明けを迎
えてしまった。

周囲が明るくなった事で、佐野勢が少人数である事を知った榎本城は、ここで漸く
反撃を開始。
藤七郎等は七人にまで討ち減らされ、退却せざるを得なかった。


藤七郎達の行動を知った宗綱は、命令違反の抜け駆けを行った上に、多数の犠牲者
を出して逃げ帰ってきた事に激怒。
主君の怒りを知った藤七郎は「大庵寺にて切腹いたします」と言い残し、城を去っ
た。

周囲の家臣達の取成しもあり、何とか許しを貰ったのだが、その報せが大庵寺に届
くより早く、藤七郎は切腹を遂げていたという。


「戦うべきでない時でも合戦をする連中」はここにもおりましたとさ。
しかし小城とはいえ、三十六人で城攻めって無茶すぎるだろ。




名城、唐沢山城に纏わる悪い話

2010年07月02日 00:00

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/30(水) 22:42:16 ID:q185LHSp
名城に纏わる悪い話を1つ。

佐野家と言えば、戦国時代においては、上杉と北条の間で入ったり来たりという、
まあ関東の小大名のテンプレと化した行動を取る大名なのだが、彼らには他大名にはない
絶対的な切り札を有していた。
それこそ、関東七名城にも謳われる事になる唐沢山城。
その堅固さは、北条氏康や軍神、上杉謙信の猛攻を悉く退け、北関東でも屈指の堅城であった。

しかしながら、この城の立地条件が、名城の命運を潰えさせる事になる。
ラスボスの小田原征伐では、佐野房綱がラスボスに付き従って奮戦したお陰で所領安堵され、
関ヶ原では、権現様に従ったことで所領安堵と、実に堅実な選択を佐野家は行い、城もこのまま
佐野家の本拠として永劫に続くと思いきや、当主の佐野信吉のある行動が、まさかのどんでん返しを
生んでしまうことになる。

(・∀・)「徳川殿から所領安堵されて我が家も安泰。実に執着至極」
(゚Д゚)「殿! 一大事でござる。江戸の方をごらんあれ」

城から見てみると、江戸の町が火事でボーボー。
実は唐沢山城。山城の為か、周囲への見晴らしがよく、現代でも晴れた日には、城跡から
新宿の高層ビル群が見えるほどの立地条件であったのである。
こりゃ家康公に急いで馳せ参じれば、お褒めの言葉をいただけるかも、と思ったか
信吉は一目散に江戸に早馬で駆けて、早速火事見舞いに。

(・∀・)「内府様。この度は火事にあわれ、心よりお見舞い申し上げます」
権現様「ご丁寧にどうも。でも火事を知るの早かったね。下野からここまで結構な距離あるのに」
(・∀・)「いえいえ。我が城から江戸が見えますので」
権現様「な~んだそうか。HAHAHA・・・・・って、ちょっと待て。もう一度言ってみ」
(・∀・;)「(あれ・・・なんか空気がおかしい)いえ・・・我が城から江戸が見えまして・・・」
権現様「ほ~う。つまり、君はいつも、我等を城から見下ろしているのか。ふ~ん」
(・∀・;)「(あれ・・・もしかしないでも地雷踏んだ?)いえ・・・滅相もない」
権現様「ちょっと・・・『お話し』しようか?」

褒められるつもりが、完璧に不興を買ってしまい、信吉はお家存続の為に、唐沢山城を破却することに。
天下の名城も、その立地条件によって、落城してしまった話である。




627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/30(水) 23:53:58 ID:/JUm9rZY
総統閣下のお気に入りか

629 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/01(木) 00:42:07 ID:9sVyiINp
>>626
佐野家と云えば鎌倉時代に「三本の木」で有名なんだけどその家系とは関係ないのかね。

630 名前:だぅ[] 投稿日:2010/07/01(木) 00:48:50 ID:vJBERTEm
タヌキってほんと潰すことに長けてるよね

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 03:06:07 ID:L/x9Zk63
何をすれば潰されないかをまとめた裏タヌキまにゅあるが欲しいところ

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 08:24:36 ID:nYL0t1S3
北関東の話だと、いつ大関さん達がでてくるのかとドキドキして読んじまうw

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 08:36:40 ID:+b4RElxJ
>>631
惟任日向守「それよりも魔王の勘に絶対触れない覚書などが欲しゅうござる」

佐野祐願寺「戦国リクルート」

2009年11月27日 00:06

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 21:43:41 ID:nUmmbAP5
「戦国リクルート」

下野の唐沢山城を拠点とした、佐野昌綱という小豪族があった。
その三男は祐願寺という名で、新当流の達人だったという。
彼は素性を隠し、剣術修行がてら武田信玄に仕えた。
合戦では無茶苦茶に暴れまくり、途中で逃げ出したかと思うと、砥石で
長刀を研ぎ直してから再び突撃。
しかもそれを一回の合戦中に二度もやって信玄を驚嘆させた。
信玄に呼び出された祐願寺は素性を明かした上で、恩賞をねだった。
「俺、すごいでしょ。恩賞に一千貫文ください」
これに対して信玄は、
「お前には確かに一千貫文の値打ちがある。しかし、当家譜代の者でも
ニ百~五百貫しか与えていない。
それでも命令どおり命を投げ出して働いてくれるんだよ。
いくら手柄を立てようが、出自が正しかろうが、新参者に高禄を与えれば家中に害が生じてしまう」
と、やんわりと断った。その上でこんなアドバイス。
「関東にはお前を召抱える器量のある武将はいない。
いるとしたら越後の謙信だけだ。そっちにいってみたら?」
佐野祐願寺は信玄の転職アドバイスに従って越後で謙信の面接を受けた。
信玄の言葉をそのまま伝えたところ、即一千貫文で採用。
歩兵弓頭となり、剣術指南の一人となった。

越後上杉に採用された祐願時は、自分以外の剣術指南役の稽古にケチをつけまくった。
このことが謙信の耳に入り勝負させてみたところ、圧倒的に祐願寺が強かった。
口先だけでは無いのだ。
が、その勝負から数日後、祐願寺は甲斐武田のスパイだという噂が流れた。
いくら否定しても広まるばかり。彼には全く味方はいなかった。
ついに身の潔白を示す為に切腹したという。

今も昔も職場の人間関係はやっかいだという悪い話。




630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 21:53:21 ID:Vv/9T7oL

>>628
その後ちゃんと身の潔白は晴れて供養してもらったんだろうか…

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 23:09:13 ID:tJ0542fK
>>628
コイツに禄を与えたくない、しかし敵に回られてはやっかいだ、そうだ謙信に殺させよう

そこまで信玄が考えているんじゃないかと勘ぐってしまう


647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/27(金) 09:36:14 ID:eRljPu5T
>>628
面白い話だ 訴訟マニアの曲渕を飼いならすほどの人が手放すか

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/27(金) 10:28:53 ID:WfpGq4HE
まんま道徳訓になるよな
実力があるからと思い上がって周囲のものを批判ばかりしていたら
立場が悪くなったとき誰も味方してくれる者がいないなりますよーという

佐野昌綱のツンデレ

2009年07月25日 00:23

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/24(金) 10:04:24 ID:YT1oGrgD

それじゃ、上杉謙信と地方大名のお話を一つ↓

道及 「・・・・・・・・・・・・・殿」

昌綱 「なにさ」

道及 「殿はやはり謙信が好きなのでは?」

昌綱 「そ、そんなわけ・・・・」

道及 「叛旗を何度も翻したのは構ってほしいから、違いますか?」

昌綱 「・・・・・・・・・・・」

道及 「家中の者が遺言を知れば誰でもわかります」

昌綱 「う・・・・・・・・・・」

下野国唐沢山城主、佐野昌綱はいくつか遺言を遺していた。

俺の肖像画は京都の狩野さん系に頼んで!とか、俺の賛(死後に自分のことを
褒め称えるような言葉)はあの坊さんじゃないとダメ!とか色々な注文をつけていた。

だけど遺言の中になんとも不思議なものがあった。

「俺が死んでもすぐに墓は作っちゃダメ!
 謙信が死んで一周忌に建てること!
 そんで俺の墓石には謙信と同じ日付を刻むのも忘れずに!」

佐野昌綱は上杉謙信(その頃は長尾景虎)の関東遠征に与しては離反、
与しては離反を繰り返した典型的な小大名だったのだが、一時期は上杉城代の支配を
受けたりと結構大変だったらしく、謙信とはホントに?友好関係ではなかったらしい。


そんな男の遺言を家臣たちは忠実に守った。

「佐野系図」によると昌綱が亡くなったのは、天正二年四月八日。

その四年後、謙信が天正六年三月十三日に亡くなるとその翌年、天正七年に昌綱のお墓である
本光寺が建てられた。

その墓石にはしっかりと三月十三日と刻まれている。

道及 「殿、遺言通りにしておきましたぞ」

昌綱 「う、うむ、よくやった」

道及 「あとは殿の本心だけでしたね?」

昌綱 「・・・・・・・・う、うるさいっ!」

昌綱さんの素直になれないお話。

(あと道及は山上道及さんのことです。)


引用元
戦国Xファイル
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x146.html


768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 10:12:55 ID:M++4zy4X
ツンデレかw
でもホント良くわかんない遺言だな
どういう意図があったんだろう?

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 10:34:58 ID:JV2EyuBU
あのくそ憎たらしい謙信よりも先に死ぬなんて耐えられない。
せめて墓の文面だけでもやつより長生きしてやる! ってことじゃないの?

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/24(金) 10:37:12 ID:TEUTH8QQ
>>767なんか尻の穴がキュってなった…

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 10:37:28 ID:eWQ0pMHz
謙信より先に死ぬのが悔しかったんじゃないの?
上杉に比べると全然小さい大名家ながらも何度も撃退してるし
なんだかんだ言って俺って謙信より凄いよね!みたいな

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 10:40:03 ID:M++4zy4X
日付だけでなく年も捏造してるってことかな?

773 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/24(金) 10:50:58 ID:YT1oGrgD

確かに、昌綱は1529?年生まれで謙信は1530年生まれ。二人はほぼ
同年代の武将だったみたいよ。

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 10:57:20 ID:Eu1KrZK9
昌綱「勘違いするな、謙信。貴様を倒すのは(ry

775 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/24(金) 10:58:44 ID:YT1oGrgD
772さんへ

本光寺の墓石には天正七年三月十三日とありました。やっぱこっちも捏造みたいです。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 18:34:18 ID:syRJm0dZ
山上道及も前田慶次郎はんとお友達..

>767
佐野昌綱って死に方も逸話んなってたけ?宗綱だったかも

778 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/24(金) 19:48:17 ID:YT1oGrgD
777さんへ

宗綱の死に際は逸話になってますよ。↓
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%BA%B4%CC%EE%BD%A1%B9%CB

あと、昌綱の最期はわかんなかったです。討死にということでは無く
享年45歳(1530?~1574?)なので、もしかしたら病死かもしれないですね。

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 20:47:30 ID:V7d3pLxD
慶次と道及って史実で関わりあったの?

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 21:18:15 ID:HdROL7h/
>>781
上杉家の同僚だったから顔くらいは知っていたと思う。

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/24(金) 22:21:25 ID:M++4zy4X
>>775
わざわざ㌧
と言うことはやっぱり謙信より少しでも長生きした事にしたかったのかw


天徳寺宝衍、平家物語に・悪い話

2009年04月08日 00:11

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/06(月) 23:26:40 ID:mZo7OgO8
北条配下に、佐野城主、天徳寺宝衍と言う勇将がいた。
この人が琵琶法師に平家を語らせたときの事。

法師は先ず、佐々木高綱宇治川先陣を語った。坂東武者達が先陣の功を競う勇猛な場面である。
が、天徳寺、ここで雨のような涙を流した。
次はおなじみ、那須与一扇の的の場面。平家の中でも、爽快さと美しさを兼ね備えた
屈指の名シーンである。が、ここでも天徳寺、滝の如く涙を流した。

後日、天徳寺が「昨日の平家はどうだった?」と、左右の者たちに聞いた所、
「大変面白かったのですが、殿が涙に咽んでいたのがどうにも解らず…」と言うと天徳寺、
逆に驚き、

「今までお前達を頼もしく思っていたのに、今の一言でガックリきたぞ。
いいか、先ず佐々木高綱の場面だが、あの時高綱が与えらていた名馬「池月」は、
頼朝公の舎弟である範頼や、寵臣の梶原ですらいただけなかった物なのだぞ!

そんな馬に乗ってもし先陣出来なければ、必ず討ち死にして再び帰らないと、
暇乞いして出陣するのだ!この志、泣かないでいられようか!

また、那須与一も、大勢の中から選ばれ、ただ一騎陣頭に出で馬を海中にいれ的に向かうまで、
その一挙手一投足を源平の両軍が、鳴りを潜めて見守っている。
もし射損じれば味方の名折れ、馬上にて腹掻っ捌くほどの覚悟を持って向かっていくのだ。
その志を見よ!泣けて泣けてしょうがないだろ!

わしくらいになると、戦場に赴く時はいつも、佐々木高綱や那須与一の心で槍を取るから、
平家を聞くときでも自然と彼らの心を思い、泣けてきてしまうのだ。

ところがお前達は何だ!お前達の武辺というのは、ただ単に勇気に任せてやっているだけなのか!?
本当の武辺とは、もののふのあわれを心にとどめてこそあるものだ。そうでなければ、
真実頼もしいとはいえないものなのだ!」

なんというか、酔っぱらった上司に、演歌の解釈の間違い付いてくどくどと説教されてる気がしてくる、
ありがたーいお話なのに、家臣の聞き方が悪かったお話。




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/07(火) 12:37:38 ID:yqEqpMv9
>>468かっこよくて面倒くさい坂東武者乙

佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!・悪い話

2009年03月10日 00:29

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 23:13:12 ID:3kdDyPn+
天正十五年元旦のこと

佐野宗綱はにわかに、かねてより対立していた、足利の長尾顕長を攻めた。
足利では油断し元旦を祝っていたため、この不意打ちにみな狼狽し、防衛に手が回らなかった。

この足利の混乱に気をよくし、逸った宗綱は、軍勢の先頭に立ち皆を鼓舞しようと
猛然と駆け出した。それがあまりに早かったため、槍持ちの一人はその馬の尾につかまるように
走ったが、ついに追いつけなくなるほどだった。

さて、宗綱が数葉那坂まで差し掛かると、そこは足利長尾の剛の者として聞こえた
小曾根筑前が防御を固めていた。混乱の中、冷静な者たちもまたいたのだ。

これを見た宗綱は
「よろしい!先に長尾の首を取るつもりだったが、先にお前を打ち倒そう!」
と、采配を振るった

「攻めかかれ!」



「攻めかかれ!!」



「おや?」

後ろを振り向いた。
宗綱の旗本勢は、誰一人いなかった。
宗綱公、味方をぶっちぎってここまで来ていたのである。
気がつかずに。


さあ宗綱公一人に、集中攻撃、開始。

銃弾を受けて落馬した所を、軽輩の豊島七右衛門というものに、あっさりと首を取られた。
小曾根方では最初、「血気に逸った先手の物頭があたりが、突出しちゃったんじゃね?」
と思っていたが、鎧や馬を見ると、やけに物がいい。

「…もしや?」

そこで佐野家の事を良く見知っているものに首を見せると、驚いたの何の

「あっ!宗綱公!」

ようやく追いついてきた佐野勢は、小曾根方の「大将宗綱公、今日ただいま討ち取った」との
大歓声を聞き、壊乱。
何も出来ずに領国に逃げ帰った、とのことである。




721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 23:24:21 ID:Ge7r9wNg
アホすぎるww

723 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/08(日) 23:47:35 ID:HgsDux+P
北条氏照を破った男だというのにこれは・・・

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 23:49:31 ID:6GjdxMop
正月早々何やってんだwww

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 00:54:18 ID:5J91V+Ha
猪過ぎるだろw

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 00:55:07 ID:oK5AprB1
「殿がいない!?」とどっちがマシだろうか…

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 00:57:24 ID:5J91V+Ha
大浦政信ですね、分かります。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 01:17:08 ID:PEFXI32g
最上義光「まったく総大将が突出だなんて。知将タイプのわしには信じられないよ」

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 01:24:55 ID:oSWSt1Hk
>>728
堀喜吽「・・・・・・」