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忍城開城顛末

2019年12月03日 17:57

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/03(火) 06:19:31.82 ID:RCYAL5ym
小田原の役の折

この頃豊臣秀吉公の右筆に、山中山城守長俊という人物が居た。彼は元々、近江源氏
佐々木承禎(六角義賢)に仕えていたが、牢人と成った後久しく殿下に仕え。その文筆によって
優遇を受けた。また彼は連歌を好くし、彼の時々の秀歌は人口に膾炙していた。

忍城の成田氏長兄弟もまた以前より連歌を嗜み、臨江斎(里村)紹巴の元に時々、百韻の批評を
求めてはるばる京まで送るなどしていたため、山中山城守とは面識はないが、風雅の友として
長く文通しており、また了意という連歌の道の達人を上方より招いて扶持を与えていたが、
先年故郷に帰った折に、里村紹巴に誘われて殿下に謁見した時、秀吉公は成田の噂を聞かれて
「関東筋に必要なことがあれば、その時は手引を頼むと、内々に伝えるように。」
と伝えた。

このような事があったので、秀吉公は山中山城守を呼び出して言った
「忍城が未だ落ちていない。汝は成田と旧知であるから、彼に書簡を送って我が方に
帰降するよう勧めてみよ。」
と宣われたため、山城守は直ぐに一書を認め六月二十日、夜に紛れて成田氏長の陣所に遣わした所、
氏長より「一段同心」の返事が送られた。これに殿下は大いに喜ばれ、
「これにて事は成った。敵城の没落ほど、敵を討つための策の基はあるだろうか!」
そう言って徳川家康公へ成田よりの返書をご披見に入れられ、これを北条氏直に見せ、

「関八州の諸将はこのように我が方に服従している。籠城に全く利はない。早く講和すべきである。」

そう調義を入れるようにとし、家康公より小田原城中に向けてこの調略を入れると、城内は色めき立ち
雑説紛々たる状況になった。
北条氏直成田氏長に「議したいことが有るので急ぎ片曲輪に出席するように」と使いを三度まで
出したが、すべて病気と称して出ようとしなかった。そこで医師である田村安栖を彼の持ち口に
遣わし、「そなたに二心の風説が有る。その実否を糺したい。」と言い送った。
これを聞いた氏長は

「敵は大軍を以て忍城を侵し攻め、士卒足軽等に至るまで皆殺しになるかと思うと情けなく、
思うに堪えず、山中山城守を通して降伏を乞いました。虚報ではありません。」
と答えた。これに氏直は怒り、成田の陣所の四面に柵を設置させ、山上郷右衛門の組の侍八十余人に
よってこれを警護させた。

その後、秀吉公より石田治部少輔の元に墨付が送られ、成田氏長が帰降する事を城中へも
知らせるようにと有り、石田より諸将に通達し、龍淵寺の僧を使いとしてこれを城中に伝達
すると、城兵たちもどうすることも出来ず、同月二十七日、浅野左京大夫幸長に対し城を
明け渡した。

(関八州古戦録)

忍城開城の顛末。

前編
彼らを謀ったのである


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忍城の戦い

2019年11月28日 18:45

624 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/28(木) 14:18:17.20 ID:oSsDNnzT
小田原の役の折

武州忍城の城主である成田下総守氏永は、舎弟左衛門佐泰喬(泰親)、及び田山豊後守、奈良、玉井、
以下五百余騎にて小田原城に籠もり、忍城には留守を置いていた。(中略)

忍城では豊臣軍が迫ると、近隣のすべての地下の農民、商人、社家、山伏、さらに15歳以上の
小冠者(元服して間もない若者)までもかき集めて、彼らを堀裏に置いて旗を差させ、敵方に
多勢が城に籠っているように見せかけ、また鉦や太鼓を用意しておき、敵が不意に攻めてきた場合は
これを打ち鳴らして他の手より救援させるようにと重々に仕組みを手配して、忍城には都合
二千六百二十七人が立て籠もった。

城将の成田氏長の正室は太田美濃守入道三楽斎の娘で、息女が一人有あったが、この娘とともに
この城に籠城した。彼女らは母娘共に容貌麗しく、優れて甲斐甲斐しく操ある女性であった。
「私達は女の身であると雖も、父祖も夫も、数代の弓矢の家に生まれ、たとえ氏長が留守であろうとも
このような時に至って武名を貶めること有るべからず。」
そう言うと、城代の成田肥前守をはじめ、一族家臣等に下知し、士卒の心を一つにして、城を枕に
すべき旨を、心から申し渡した。すると城兵たちは恥の有る者も無い者も、女性にてさえかくの如き
なのだと、感じ入らぬ者は居なかった。

寄せ手は、石田三成大谷吉継長束正家を大将として二万余騎にて館林城を落とすと、一両日
人馬の息を休めて、六月四日に忍城へ押し寄せた。生田口と下忍口は石田治部少輔、早見甲斐守、
北条左衛門太夫、並びに佐竹・宇都宮の衆七千余人、人丸墓山を本陣として大宮口までを打ち囲んだ。

佐間口は長束大蔵少輔、伊東丹後守、結城左衛門督晴朝、水谷伊勢守勝隆、岩上但馬守らが加わり
四千六百余人、

長野口は大谷形部少輔、松浦安太夫、鈴木孫三郎以下六千五百余人、これは北谷口までを受け持ち
陣を張った。

これらの攻め口は全て水田の池地であったため近づくことが出来ず、遠巻きに構えていた。皿尾口は
中江式部少輔、野々村伊予守、および江戸川越の五千余人、ここもまた僅かに細道が有る程度で、
左右は深い沼であり、足を踏み入れれば進むことも退くことも自由にならない有様であった。
それでも寄せ手は砦をひとつ乗っ取りそこに陣を付けた。そして持田口の一方をわざと開けておいたが、
これは城兵を放心させて城を攻め落とそうという術であった。

そもそもこの忍城のあるこの地は全体が大沼であったのを、成田氏長の祖父である中務少輔親泰が
多年多くの人力を用いて築かせた城塁であり、さりながら今なお四面深田であり人馬の駆け引きも出来ず、
故に今度の豊臣軍も、寄せ手は攻めあぐね暫くは攻めるのを見合わせたものの、だからといって
攻めねば城の落ちることはないと諸隊は相談し、鬨の声を挙げて矢鉄砲を打ち込み戦うものの、
足場が悪いため死傷者は数しれぬ有様であった。

そのような中、城方では下忍口にて別府小太郎、野澤金十郎の二人、共にこの時二十歳であったが、
先駆けして奮戦し、小太郎は深手を負って倒れ、これに寄せ手の武者が駆け寄り首を取ろうとした所に、
小金井善忠の郎党・橋爪孫兵衛という者が馳せ合わせ、かの武者を討ち取り別府を城内に引き入れた。

また皿尾口にては寄せ手は馬より下りて徒士となって攻めかかったが、城兵の松橋内匠助という
鉄砲の手練が、大筒で試しに撃ち出した所。進軍してきた寄せ手の兵七、八人がたちまち命を落とし、
これによってこの方面の軍勢は裏崩れを起こして引き上げた。中江、野々村はこの体たらくを怒り、
「この口は足場が悪いので力攻めは無理だ、策を以て攻めるべきである、」と、井楼を二ヵ所に作り
そこに大筒を仕掛けて城に向かって撃ち込んだ所、暫くは城方からの攻撃が止まったという。

625 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/28(木) 14:19:06.84 ID:oSsDNnzT
ここで石田治部少輔が提案した
「この城は要害の地であり、また兵糧、矢弾も多く籠め置いてあると聞く。であれば、早期に陥落させる
事は難しいだろう。そこで城郭の四方に堤を築き、そこに利根川荒川より水を引いて水攻めにすべきだ。」
そういう訳で、近隣にこの工事のことを触れ、過分の米銭を与えて人足をかき集め、昼夜を問わず
土石を山のように運ばせ四面に堤を築かせた。

ところが、この時忍城内に籠もっていた農夫、商人らも、夜中に密かに抜け出て土石を運び賃銭を取り
それにて米穀を買い求めまた城中に入った。工事を担当する奉行の者達はこの事を聞きつけて

「この城に糧を入れるのは木の根に水を与えるようなもので、こんな事ではいつまで経っても
城が落ちることは有りません。城内より出てくる人夫は搦め捕って首を刎ねるべきです!」
と訴えたが、石田治部少輔はこれを聞くと頭を振って

「いやいや、そのような事をすべきではない。堤さえ出来れば城兵は片端から溺れ死ぬのだから、
たとえ米穀が城内に充満していても何の意味もない。また、もし彼らを誅殺した事で、これに関係のない
外の人夫たちが恐れて逃げ去ってしまっては、堤はますます完成しなくなる。何も知らぬ体にて
堤の完成を急ぐのだ。」

そう言って、日夜下知を励ますと、幾程もなく堤は完成した。
「それでは」と、利根川を防ぎ留めて江原堤に水を流したが、この時、五月雨の時期が終わると
炎天が続いていたため水の流れも乏しかった。そこで荒川を防いで水を流した所、水は滔々と流れ
溢れた。これに城兵たちは高地へ集まったが、それほど困った様子もなかった。

そのような中、同月十六日の申の刻(午後四時頃)より空曇り雷鳴轟き、夜間には豪雨と成った。
ところがこれによって、寄せ手の築いた堤が、川西という所より五、六間も切れたかと思うと、
新しく築いた堤だったためあちらこちらが押し破られ、逆水となって寄せ手の陣所に押し寄せ、浸水に
よって若干ながら人馬が溺死に及んだ。その後水は引いたが、道は深泥の如くと成り、馬の蹄も
立たない有様で、寄せ手も遠巻きにして徒に時を過ごすしか無かった。

(関八州古戦録)

「忍城の戦い」について

続き
彼らを謀ったのである


成田氏のこと

2016年12月29日 16:21

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/28(水) 19:53:58.91 ID:eJwcuXjh
 成田下総守藤原顕泰入道は清岳成安と名乗った時代に武州成田郷に来て居住した。
その子の親泰入道宗蓮の代に武州忍の大極氏国という者を討ち取って忍に来て住んだ。
その子の太郎五郎長泰は後に中務大輔と号した。
旗下に酒巻・中条・別府・玉井・渡柳・箱田・小河原・上中条がおり、
須賀入道も成田の旗下であった。

 成田親泰は公方足利成氏に軍配団扇を献上することがあった。
その団扇は上州利根川の辺りに張良の社というところの宝殿に張良の唐団扇といわれるものがあり、
明応四年乙卯(1495年)に親泰はかの団扇を模したものであった。
成氏公も同六年(1497年)九月に遺物として京都将軍足利義澄公へ献上された。

 成田は上杉輝虎に初め属していた。
しかし鶴岡で「成田は頭が高い!!」と輝虎は咎められたが、
成田は「私の家は将軍にも下馬の礼が無くてもよい家である。
これは嘉例なのでその礼に任すところを、故実を聞かずにいかつい仕方である!!」
と輝虎の属を離れて北条と入魂になった。

 輝虎方の木戸源介は忍の近所の皿尾に籠った。そこを成田長泰と子の下総守氏長は父子で攻めた。
その時、氏長は臣の豊島美作に父の長泰を駆り出した。これは永禄九年(1566年)八月十五日のことで、父を押し込んで隠居させた。
氏長の弟に長繁という者がいた。
彼は太田道灌の婿となっていて、小田氏を継いでいた長泰の弟(つまり氏長・長繁の叔父)を継いで介三郎、後に伊賀守と号した。
武州山の根の城(私市という)に住んでいて、そこは忍からは二里余りあった。

 忍の城は成田氏長が天正十八年(1590年)に没して後、文禄元年に松平下野守忠吉が領した。
元禄十二卯年(1699年)まで九十八年の慶長七寅年(1602年)に尾州へ下野守は所替となった。
慶長五年以後に御番城となっていて、高木筑後守(広正)が与力同心勤が守備についていた。
元禄十二年まで六十年程の寛永十年(1633年)に松平伊豆守信綱が領して、
同十六年(1639年)に阿部豊後守(忠秋)が領した。この年は元禄十二年まで六十一年である。

 下野烏山は成田左衛門尉(泰親)が領していた。
元和九年(1623年)から松平(松下?)石見守(重綱)が領した。


『武士としては』



「朝霜や まだ解けやらぬ 縄手道」

2014年10月01日 19:01

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 01:07:41.85 ID:DQrcN7M6
島田弾正(利正)が町奉行だった時のこと。徳川家康の時代、博奕は諸悪の根元
ということで厳しく吟味された。そんな折に博奕の訴人が出たので、同心たちを
差し遣わし、60人を召し捕らえた。

その中に50歳ほどの坊主が1人いた。弾正はその者に向かって「其の方は頭を
丸めた身であるから、とりわけ不届きである。もともとは医者か? 出家か?
何者なのだ」と、尋ねた。坊主が言うには、

「私の親は、武州忍の城主・成田殿のもとで、連歌の執筆を勤めていました。
そんな折に成田殿の身の上は果てられ、その後、親も浪人のまま相果てました。

それ故、私は浪人となりまして、渡世のやりようがないので、博奕仲間へ入り、
灯心を掻き出し、湯茶を持ち運ぶのを役目に致して食事を貰い、世を送りました。
博奕というものを、どのように行うのかは存じません」

とのことだった。そこで、博奕仲間たちに尋ねると、坊主の言う通りだった。
弾正は坊主に「其の方は連歌師の子か。確かならば、そこで一句仕りなさい」
と言った。坊主は「朝霜や まだ解けやらぬ 縄手道」と詠んだ。

弾正はこれを聞き、この句に応じて縄を解いて許し、「これからは博奕の座での
交わりを止めて、食物なくば町年寄たちのところへ回って、何なりと貰うように
しなさい」と、申し渡した。それ故、坊主は彼方此方と徘徊し、心安く渡世した
ということである。

――『責而者草(君臣言行録)』




919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 11:41:59.76 ID:c6gbH1Y1
ホームレスになったのに物をもらって心安く渡世したっていんちき坊主じゃねえか

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 11:48:22.38 ID:bRhnWkEj
正しい意味での乞食坊主

永禄9年、成田家の親子不和

2012年11月28日 19:48

509 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 20:02:32.43 ID:/gAGb3HT
永禄9年(1566)の事

成田長泰は71歳の老年と成り、子息氏長が成人したというのに、彼に家督を譲らず、常々色を好み酒に長じ、
城外に別荘を建てて、小筑という女を上方から呼び寄せ寵愛した。
家老や一門の者達、これを諌めたものの聞き入れようとしなかった。まさに老醜である。
このような状況の中

成田長泰に見捨てられた家老
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7055.html
↑これで危うく見殺しにされかけた豊島美作守は長泰への恨みを忘れておらず、氏長、及びその母に
申し上げることには

「長泰様は老体の御身でありながらあのような無行儀の作法、御一門も他家も、嘲り疎み果てております。
この時に、私は皆々と相談し、大殿を無理に隠居させられるように才覚いたし、若殿を世に立てたいと
考えているのです!」
これに母親も氏長も同意し、豊島の計画に参画した。

そんな陰謀が起こっているとは知らず、成田長泰は梅阿弥という同朋衆一人を共とし、妾の小筑の元へ
出て酒宴していた所、成田一門家中、豊島に賛同し、重臣である小田伊賀守を始め、豊島左馬助、
別府兄弟といった人々は忍城に集結し、成田長泰を城に入れないために門などを皆閉じた。
恐るべき嫌われっぷりである。
帰ってきた成田長泰が見たものは、完全に閉じられ自分を拒絶する忍城であった。

が、この成田長泰は只者ではなかった。

彼は水落の桶が城内に繋がっていることを知っており、特殊部隊のごとくそこに潜りこんだ。
長泰に続いて梅阿弥も桶を潜った。

「大殿が桶をくぐられた!」

510 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 20:03:08.44 ID:/gAGb3HT
物見の通報によりこれを知った城内の者達は桶の口を固め、三友十兵衛というものが、桶の口で
槍を構え待ち構えた。と、潜ってくる長泰の姿が!十兵衛は一気にこれを突いた!

が!成田長泰は塚原卜伝の第一の弟子であった。彼は兵法の達者であり、桶の口から突かれた槍の刃を、
口で噛み止め受け止めたのだ!
奇妙な手応えに十兵衛、槍を引きぬく。すると

『ズザザザザザザザザ!!! スポッ!』

槍の穂先を咥えて成田長泰が、桶口から引っ張りだされた!槍で大殿を釣ってしまったのだ!
藁で穴の中の土蜘蛛釣り上げたような、あの感じである。まあこっちは釣りたくて釣ったわけではないが。
三友十兵衛はこれに当然ながら驚愕し、さらにその後から梅阿弥も出てくるとその場から逃げ出してしまった。
しかしそれを誰が攻められるだろうか?

成田長泰は、あまりのことに硬直したその場の者達を蹴散らし本丸に入り、息子長氏を発見すると
たちまちに捕らえたちどころに殺そうとする!城内の者達はこの猛獣か悪鬼のような老人(71歳)に
どう対処していいか解らず右往左往し、捕縛された氏長も死ぬ覚悟を決めた。

と、ここで長泰、何故か述懐を始めた

「しかし、氏長がこのように歳たくるまで、家督を渡さないことについて腹立するのは仕方のない事だ。
されども私は、かつて城攻めに失敗した盃尾を攻め落として後に隠居すると心に決めていたのだ。
それがあれこれと引き伸ばしに成り、このような親子の不和になったこと、口惜しき次第である…」

などと嘆きながらやっぱり氏長を殺そうとした、その時!

「まてまてまてー!!!!!」

現れたのは成田家の菩提寺・立圓寺の長老!彼はこの親子の紛争への扱いを入れに来たのである。
長老は先ず(実に賢明なことに)長泰を無理やり引き立て、立圓寺に入れた。そのお供に何故か
今回の陰謀の主犯・豊島美作守まで付き合わされた。お供の者達が「氏長様が御父君に向かって
このような例の少ない反逆を為されるなど、天道に背く行為です!」とさめざめと泣いている中、
長泰は豊島美作守に対し「美作守、お前は嘘泣きしなくていいぞ。この逆心、お前の仕業であろう!」
と言ったとか。

そうしている内に氏長が、やっぱりあんな邪悪な父親は討ち滅ぼさねばならないと軍勢を立圓寺に向けたが、
この時は立圓寺の僧侶たちが皆鉄砲・槍・刀で武装し迎撃の体制をとったため攻めこむことが出来ず、
親子の紛争は降着。ここに小田原の北条氏が介入する動きを見せたことで、成田長泰もここでようやく、
このままでは北条に成田家は併呑されると危機感を覚え、氏長に家督を譲り自らは出家した。
(關侍傳記)

成田家の親子不和、についての逸話である。




511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 20:18:29.37 ID:eahOQBlN
なるほど、これは落城しない

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:19:03.07 ID:LWIGGGqm
成田記の姫武者の話もそうだが、成田関連はどうしてこうネジの飛んだ話が多いんだ

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 21:20:17.46 ID:7A9ljxOf
なんと言うハッスル爺ちゃん…

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 00:36:57.71 ID:FIiRvD43
>>509
素敵な坂東武者ですねえw

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 08:32:18.16 ID:XcCkf9pN
>>509
結局、北条が動きを見せたことで隠居したのか
道徳心がとか武士の道がとかそんなのカンケーねぇ!って話だなw
しかも坊主が出てきても話がややこしくなってるだけだし神も仏もねー

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 11:30:28.26 ID:A7PgpirE
関東は力が全てよ

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 18:55:08.62 ID:sbemlcRK
無刀取りどころか槍を口で受け止める新当流の奥深さに驚嘆したw

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:34:11.21 ID:EAL7b8Oc
>>520

真剣白歯取り
なんちゃって

成田長泰に見捨てられた家老

2012年11月24日 19:51

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 22:18:50.69 ID:X2nhYk3I
永禄3年(1560)、長尾景虎(上杉謙信)が小田原城を包囲した、最初の越山のあった年だが、
小田原攻略に失敗し退いた景虎に対し、成田長泰が反旗を翻した。

ところがこの時厩橋城には、成田長泰の次男の小児と、成田家家老・豊島美作守の二名が、
景虎への人質として置かれたままであった。

景虎が厩橋に帰城する前日、城の夜番を勤めているかせ者(名字を持つ下級の侍)が一人やってきて、
豊島を物陰に呼び出して囁いた

「豊島殿、あなたは成田長泰の御別心のために、明日には切腹させられるともっぱらの噂です。
そういうことですが、私はあなたの御命をお助けしてもいい。
あなたは忍に帰れば、五千貫程の大名だと聞いています。
…私に三十貫の所領を与える気はありますか?」

この言葉に豊島は大いに驚き

「それは何よりも易き事なり!」

と、この夜番の者と深く語らい、三十貫の所領を与える書状を書き与え、「ひとえに頼む」と
協力を依頼した。
夜番の者大いに喜び、馳せめぐって川船などを置き様々な準備をし、帰ってくると
豊島を夫男に変装させ、熊手などを背負わせて、城から出そうとした。
この時豊島は

「成田の御子息もどうにかして一緒に落ち延びさせたい。」

と言ったが、夜番の男は

「美作守殿一人を落とすのさえ大変なことです!その上御子息のことは、父である屋形(成田長泰
ですら捨てて反旗を翻したのです。そうである以上是非に及ばず。御子息はここに残して、我々は
退きましょう。」

そう言われたため、成田の次男が寝入った隙に、豊島は夜番の者に付いて番所を忍び出て、
船に乗り早々に忍へ帰った。

成田の次男は豊島がいなくなったことに気が付き、後を追って外に出て探したものの見つからず、
そうしている内に追手が迫ったため川に飛び入り、そのまま空しく亡くなられたという。


さて、豊島美作守は忍へ帰ると自分の家にも入らず、先ず息子の左馬助を呼び出し、城に使いを
立てさせた。その言上はこうである

『私は数度の忠孝を立て、更に一度の不忠もありませんでした!それなのに何故、私を捨て殺しに
為されようとしたのか!?甚だ以て口惜しい!
この上は小田原へ参り、氏康殿に奉公仕ります!御暇を申し上げる!』

そうしてまさに打立とうとしている所を、成田長泰の息子の五郎が城から駆けてきて豊島を呼び止め

「誠に代々の家老である事と言い忠節といい、お主の言うことは全て、道理至極である」

と謝罪したので、仕方なく豊島も忍に帰り、元にように家老に復帰した。
そしてあの夜番も取り立て、約束通り三十貫の所領を与えた。

しかし、この時の恨みにより、後に豊島美作守成田長泰の子息・氏長と一味して、長泰を
追放したのだという。
(關侍傳記)

成田長泰に見捨てられた家老、についての逸話である。




488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 23:17:17.02 ID:LnXJOezq
戦国の習いとは言え、頼みの家老がいなくなって、
慌てて逃げ戸惑っているうちに堀に落ちて死んだ次男が憐れだなー

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 07:46:09.28 ID:Nv1NUoo1
夜番も見る目があるなw
戦国の立身出世は無法地帯だ

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 08:15:52.70 ID:fOzuw8R1
まあ、夜の番なら夜の闇も、戦国の世の一寸先も見る眼がないとね

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 09:03:26.74 ID:n6A74ZEw
よし、ちょっと眼力を養うために橋の番やってくる

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 09:21:23.34 ID:2Sp792xX
眼力養ったら、北斗七星の柄の先から二番目の星が二重になってるのがわかるらしい

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 09:37:47.42 ID:u6/4nlA+
むう あの星は死兆星!
しっておるのか半兵衛!

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 10:01:50.61 ID:iTkx5WcK
ウルトラ七つの誓いを何故だか思い出した・・・

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/24(土) 10:02:21.20 ID:iTkx5WcK
五つだったわwwww

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 03:07:57.31 ID:JRdbPDlr
これかな?
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3382.html

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/25(日) 06:24:09.31 ID:39PHEawU
>>490
夜の閨に見えたので細川邸に忍び込んでくる

忍城開城

2012年04月09日 21:29

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/09(月) 19:30:14.43 ID:dB0xKlZ3
小田原征伐の続いていた天正18年(1590)6月下旬のこと。本陣に戦況を報告しに訪れた徳川家康に、豊臣秀吉
このように尋ねた

「徳川殿、お主も聞いているだろうが、忍城のことだ。
石田三成や真田親子らをしても、未だ落城に至っていない。なにか良い手段はないものだろうか?」

家康はこれを聞くと

「忍城は要害の地であり、沼や湿地に囲まれ城も堅固。たとえ力攻めで城を落としたとしても、
こちらにも大きな損害が出るでしょう。
ここは小田原城に籠っている成田氏長に対し、彼の親しい友人から開城を促すのが最善と考えます。」

「それは尤もである」

秀吉はこれに納得し、成田氏長が山中長俊と、連歌の友として非常に親しいと聞くとこれを呼び寄せ、
忍城の開城工作を行うよう命じた。
これに山中長俊は、忍びを使って小田原城内の長氏に密書を送る。
長氏はこれを見ると弟の泰親と相談し、忍城に書状を送った。

7月のある日、忍城に残っていた成田氏長の妻のもとに氏長からの書状が届く。
そこにはこうあった

『連歌の友である山中山城守長俊の取りなしで、秀吉と和を結び降服することに成った。
よって忍城も開城するように。』
その開城条件は、城の城兵には咎めなし、私財もそのまま持ち帰って良い。料金達の財産も安堵する、
と非常に寛大なものだった。

ここに忍城は30日あまりの籠城を終わり、開城に至ったのである。
(行田昔話)





成田甲斐姫、真書太閤記より

2011年01月27日 00:00

甲斐姫   
535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 14:51:44 ID:hfRjro5C
成田甲斐姫の活躍については
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-451.html
をみてくれい。

ともかく、甲斐姫は秀吉の側室となり、成田家は下野烏山に移封となった。
しかしそれについて真書太閤記には

『ひとりの妖女、一、二寝の間に三万石の地を進退す。
秀吉薨じて墳土乾かざるに、たちまちにして乱起これども、重恩の諸将これに死をいたすものなきゆえん』
とある。

つまり豊臣恩顧の諸将が「やってらんねーぜ」と、見切りをつけてしまったというのだ。
1行目-2行目のつながりが強引過ぎるとおもうが、真書太閤記の作者栗原柳庵は不快に思ったらしい。

あ、この本江戸後期のものか。




成田顕忠と清善寺の開山の話 inのぼうの城

2010年11月08日 00:01

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:08:18 ID:y6eRf6/W
成田顕忠と清善寺の開山の話 inのぼうの城

成田顕忠の父・五郎左衛門資員は顔を見ぬ内に死んでしまい
兄・顕泰も幼くもあり従臣達に助けられていた。

顕忠は幼い頃から聡明な子であり兄の顕泰を父のように敬い、顕泰も弟の顕忠を深く愛していた
それから顕忠は任官して刑部大輔となり、器量もあることから
あるときは陣代として出陣し、あるときは城代として守備を固め、度重なる戦功もあった。

顕泰の死去後、嫡男・親泰が相続する。この親泰も顕忠を父の如く重んじていた。

顕忠は忍城の南方に館(出城)を構えていた。
深田を埋め立てた所なので平田廓ともいわれ、家中の者は「平田殿」と尊敬していた。

この顕忠は深く佛法に帰依し、不犯で肉食は一切しなく、女は一人も使わなかった。
全くの禁欲生活である。
そのため世間では平田精舎とも言われていた。

63歳の時に身に墨染の衣を着て、清善斎全忠と号し、毎日の読経を欠かさなかった。

清善斎もだんだん年を取って90歳に近い時、最早余生がないとして
城主親泰を始めとし、家内の者と老臣を招いてこう告げた。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:09:31 ID:y6eRf6/W
「吾れは胎内にあって父に別れ、又二歳で母に別れた。
だから孝というはただ名だけで一度も教養を捧げた事が無い。
せめて出家得度して父母の菩提を弔らんと思ったが、亡き兄顕泰の深き情にほだされて
俗人として世を送った。
その故は大将の先陣に臨むや、城の守固くなければ敵の謀者にかかる事もあるし
又、外に在って内が心配な様では鉾先が鈍るものである。
さて又、戦争の習いとして大将に不意の禍あるとか、幼主をいただくとかの場合、
不肖と雖(いえども)も主を補け来らせんと心に誓った為である。

現今當城主親泰は健将であり、まことに倖せである。
この故に枝葉血類は大切であるので止むを得ず在俗したが、心は法身に化して女犯肉食を禁或した。
然れども戦場では若干の人を亡した。
行いと言葉と相違する所はあるが、獨身だから後の子孫の上を思わず。

しかし、その家に生まれ、禄の食めば武士として主といい、兄といい志孝の道を
守なければならぬ。
在俗しては忠孝の二道を全うし、出家しては佛に仕えた。
一生の恩は足りた。
吾が死後の望にはこの館を寺と為(な)し、
年頃念じ奉る薬師如来を本尊とさるるなければ幸いこれに過ぐるものはない。」

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:14:00 ID:y6eRf6/W
と、一座の面々皆感涙を流したのであった。

永正十六年五月八日、清善斎は斎戒沐浴し座禅を組み眠るように命を経った。
下総守親泰は大いに哀惜し、遺言通りに新たに一寺を造立し、平田山清善寺と号した。

一様wikiでは顕忠の方が兄でらしく父・資員も詳細不明で正等と同一人物とか何とか




182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 01:37:15 ID:poSPerfX
>>178-180
成田顕泰は惣社長尾氏からの養子。
父・資員が戦に負けて、家督を養子に譲り渡す事を条件に和睦した。

と、いう事を踏まえて逸話を読むと、資員の実子である顕忠の微妙な
立ち位置が非常に不憫に思える。
そりゃ下手に子供なんか作って「成田の嫡流はこっちだ!」なんてな
っても困るよね。

『成田記』辺りでは顕忠の存在はおろか、資員が戦に負けた事も、顕
泰が養子である事も、華麗にスルーされているんだよねぇ。
そこら辺を加味して考えると、むしろ悪い話になっちゃうのかも。w

成田家顛末

2010年07月27日 00:00

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 23:48:42 ID:qC4VEF+U
この話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3382.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1812.html
の別バージョンです。重複する部分が多いですが、ご了承ください。

山内上杉憲政は川越夜戦以来の北条氏の圧迫に耐えかね、越後に逃亡。長尾景虎(上
杉謙信)に山内上杉家の家督を譲るコトになった。

景虎が上杉家の当主として関東にやってくると、関東の諸将はこぞって景虎に従い、
進んで人質を差し出す有様であった。
武州忍城主、成田長泰も三男若枝丸を上州厩橋城に差し出し、家老手島美作守を付き
添いに付けていた。

しかし、景虎が小田原城を包囲し、関東管領就任を神前にて報告する儀を行った際、
景虎は長泰が無礼を働いたとして諸将の面前で罵倒する。
面目を失い、怒り狂った長泰はその夜、配下の軍勢を引き連れて忍城に帰ってしまっ
た。
関東諸将も景虎の行為に思う所があったのか、景虎の許しを得るでもなく、勝手に小
田原の包囲を解き、自領へと帰ってしまったという。
そればかりか、越後兵のみとなってしまった景虎の退却を狙って襲い掛かる者まで出
てくる始末で、足の遅い荷駄隊に大損害を負って厩橋城に逃げ帰るハメとなった。

こうなると微妙な立場になるのが人質の若枝丸と手島美作守。
長泰は小田原からの撤退を開始すると同時に松岡と嶋田という二人の家臣を厩橋に走
らせ、景虎と手切れになったコトを手島に伝えた。

厩橋城では未だ鎌倉での出来事は伝わっていない。
折りしも風雨の激しい夜であり、平和な夜を満喫していた守備兵の隙を突き、手島と
松岡、嶋田の三人は若枝丸の身を奪って厩橋城を抜け出し、忍城に逃げ帰った。

景虎は撤退戦の最中、武州府中まで来た所で厩橋城に向けて「人質を始め、成田の家
人全員を打ち殺せ!」と使者を出したが、彼等が上州についた時には既に人質は忍城
に逃げ帰った後であった。


上記まとめの逸話では長泰の次男が人質という事になっているが、「成田記」では妾
腹の三男が人質になっており、手島と共に生き延びている。
この三男・若枝丸は後に成田泰蔵(やすただ)を名乗っている。

そして話は後半、家督継承編へと続く。


162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 23:49:43 ID:qC4VEF+U
時は流れ老境に差し掛かった成田長泰。
しかし長泰は未だ家督を長子・氏長に譲ろうとはしなかった。
実はそれにはワケがある。

長泰の愛妾は配下の豪族・曽我刑部丞の娘で、旭局と呼ばれていた。
長泰は忍城外の皿尾に屋敷を構え、そこに旭局を住まわせていた。
この旭局の生んだ子供こそが、厩橋城に人質として差し出された若枝丸こと、成田泰
蔵だったのである。

長泰はお気に入りの愛妾が生んだ三男を、二人の兄を差し置いて後継者にしようと企
んでおり、泰蔵がしかるべき年齢になるまで、自分が何としてでも家督にしがみ付く
つもりでいたのだ。

皿尾の屋敷に入り浸る長泰と旭局、そして曽我刑部丞とその仲間の五十子太郎左衛門
らは氏長を除く相談を繰り返していたのだが、どうしても家中が泰蔵の元で纏まると
は思えなかった。

「それもこれも手島美作のせいだ。ワシの言葉は家中では絶対だから、ムリを押し通
せば泰蔵に家督を継がせるコトは可能だろう。だが、ヤツだけはワシにも平気で逆ら
う。ヤツの諫言がある限り、配下の者共が泰蔵に大人しく従うとは考えられぬ」

「だったら私が、何のコトはない普通の喧嘩のフリをして、手島にイチャモンをつけ
ましょう。まさか手島も、そのような喧嘩で斬り捨てられるとは思ってもおらぬでし
ょう」
と旭局の父、曽我が言う。
それは良い、皆が頷いて計略は決まった。

しかしその話を、成田家の奥に仕える女中が聞いてしまった。
この女中、手島美作守の弟の娘……つまり姪であったから、すぐさま伯父の元へ陰謀
を報せた。

報せを聞いた手島は、慌てて氏長に報告し、氏長の叔父(長泰の弟)である泰季と共
に対策を練った。
成田家中一番の武断派であり、猛将として知られた泰季の策は簡潔明瞭であった。

「兄貴は今、皿尾にいるんだから、城門閉めて追い出しちまえばいいんじゃね?」

最早計略は成った、とばかりに旭局や曽我、五十子と心行くまで酒を飲み交わした長
泰。上機嫌で忍城に帰ってきたら城門が開かない。
何事かと番兵を詰問しても「良く判りません。自分は何も知らされてませんので」と
いう答えが返ってくるばかり。

ひとまず長泰は成田家の菩提寺、竜淵寺に退去してそこに落ち着いた。
住職が使僧として忍城にやってくると、
「旭局と陰謀を企ててるの、知ってんだよ? 何なら今からそっちに行って、腹切っ
て貰ってもいいんだよ?」
氏長の言葉に長泰は悔しがり、成田家の一門会議で氏長の家督が認められたという報
せにガックリと肩を落とした。

小田原の北条家からは
「息子のくせに生意気だよね、しかも、喧嘩するにしても留守中に城から締め出すっ
てどうなのよ。氏長を殺すつもりがあるなら北条家からも兵を出してあげるよ?」
と支援の申し出があったが、流石にコレを受け入れたら成田家は北条に乗っ取られる、
というコトは理解出来たのか、「これからは成田家当主として、氏長をお引き立てく
だされ」と支援を断ったという。


163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 23:51:33 ID:qC4VEF+U
ちなみに彼等のその後。

成田泰蔵は氏長が家督を継ぐと出家。泰蔵院の開基となる。
旭局の父、曽我刑部丞は切腹。旭局や五十子がどうなったのかは伝わっていない。
手島美作守はその後も成田家の一番の重臣として氏長に仕え続ける。

越相同盟の際の上杉輝虎(謙信)の書状が残っている。その書状は手島美作守の息子
に宛てたモノである。
「正月用品の贈り物、ありがとう! こないだお父さんが亡くなったのは残念だケド、
君もお父さん同様、上杉家の為に働いてくれると嬉しいな!」
勿論、手島美作守が上杉家の家臣になったというコトではなく、成田家における、対
上杉外交の窓口が手島だったというコトである。
現代人の我々から見ると、人質と共に逃亡しておいて、ぬけぬけと外交窓口を務める
というのは少々奇異に見えるのだが、当時はこーゆーコトもありだったのだろうか。

まとめの逸話では氏長の家督相続と引き換えに手島美作守は追放されているのだが、
「成田記」やこの手紙では「その後ますます重用されましたとさ」という現実が記さ
れている。
小田原仕置きの直前に作られたと見られる「成田分限帳」には手島美作守の息子と見
られる手島美作守長朝が三千貫文を与えられている。
これは御家門、譜代侍通じて最高であり、次席が本庄越前守らの一千貫文であるから、
如何に厚遇されていたのかが判ろうというモノだ。

最後の方は逸話じゃなくなったかも知れませんが、「埼玉県史・史料編」をパラパラ
めくってたら輝虎→手島の手紙があったので何となく。(^^;




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 01:57:13 ID:zbQHkx5o
単に本当は手嶋と成田息子は謙信の所から逃げた訳じゃなくて
穏便に帰ってきただけなんじゃね。
人質っていっても厚遇されて人質先の家と仲良くなって帰ってくるなんて
当時はザラだし。
逃げ帰ってきたという設定になってるから
現実の手紙と付き合わせると変なだけで。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 02:40:52 ID:gqUnGhu9
>人質っていっても厚遇されて人質先の家と仲良くなって帰ってくるなんて当時はザラだし。

黒田長政「え?そうなの?」

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 02:44:02 ID:R7D/Gneb
昭襄王「うそっ!」

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 02:56:25 ID:gqUnGhu9
真田信繁「上杉だって豊臣の家臣だし、豊臣の人質になっても別にかまわないよね」

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 06:54:35 ID:wZplVkFd
むしろ悲惨な例を知りたい


169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:31:03 ID:L87cm11x
荒木村重とか松永久秀の子供

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:35:02 ID:wZplVkFd
それ人質としてはまっとうな使い方じゃね


171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:38:01 ID:0C6O+kZr
佐々成政の娘とか松平清善の娘とか
木曾義昌の子供と母親とか

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:41:11 ID:0C6O+kZr
>>170
まっとうな使い方じゃなくて悲惨って何や
厚遇されたが故に悲惨な末路になったってこと?

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:44:14 ID:rlNDoF6m
織田信孝なんて秀吉に母、妹、息子、娘、側室、重臣の母親まで処刑されてる
中国の王朝交代時並だ

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:46:58 ID:L87cm11x
>>173
人質じゃないだろそれ

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 08:54:28 ID:lyRv77rm
>>164の言う通り、軍記物と史実をごっちゃにして話を作ると、そりゃ整合性がとれないわな。

181 名前:161-163[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 18:08:25 ID:TtC9C/fZ
>>164
>>177

>>軍記物と史実をごっちゃにして話を作ると、そりゃ整合性がとれないわな。
うん、自覚はしてる。(^^;
っつーか元々、
「だからこの逸話が本当にあった事とは思えない」とか、
「相続争いは北条派の氏長と上杉派の泰蔵(を押す長泰)の争いだったんじゃないか」とか
色々と書いてたのよ。
投稿する時に読み返して、さすがに逸話スレでする話じゃねぇな、と思ってマズそうなトコ
だけ削除して投稿したの。
そしたらあーゆー中途半端な残り方をしてしまった、と言う僕の情けない話。

輝虎からの書状のくだりは全部カットするべきだったか……

しかし、現在の熊谷市に…

2010年05月16日 00:00

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/14(金) 21:26:33 ID:S3udoPWF
>>710

一時期甲斐姫&忍城攻めのネタが多くなったのは、
『のぼうの城』+戦国無双3に甲斐姫参戦があったからかな?

無双シリーズもギン千代や小松姫(稲姫)など
一応、男勝りの女性を参戦させてるみたいだし。



765 名前:710[sage] 投稿日:2010/05/15(土) 13:54:22 ID:kXZ2LD/A
>>751
世間一般での露出が増えたのは小説やゲームのせいだろうね。
このスレで成田関係の話が増えたのは私のせい。ww

今年に入ってからの成田関係の話、ほとんど私の投稿。
熊谷出身なもんで……

そんなどーでもいい話だけじゃナンなんでついでに小話を。


武州成田氏は忍城主として有名だが、元々は忍の近く、成田郷を領土と
する土豪であった。
しかし、現在の熊谷市に成田という地名はない。

成田氏がこの一帯を治めている時代、成田郷の住人は殿様の名を憚って、
また殿様の苗字の地である事への誇りも含めて、自分達の住む地を「上
様の土地」と呼んでいた。

成田氏が武州を追われた後も、その呼び名は忘れられる事はなく、やが
てその村は「成田村」ではなく「上之村」と呼ばれるようになったとい
う。

現在、埼玉県熊谷市大字上之と呼ばれる一帯が成田氏の本拠となってい
た場所である。
地名には残らなかったが、かろうじて地元の小学校に「成田小学校」と
して成田の名前は残っている。

成田氏への敬愛のあまり、成田の名前を消してしまった住人達の、心温
まる悪い話?




成田の女の血

2010年05月14日 00:01

甲斐姫   
710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/13(木) 16:45:30 ID:It/j1a14

上州で下克上を成し遂げた金山城主、由良成繁。
この成繁の妻もまた、剛毅な女丈夫であったと伝えられる。

「夫の死後、二人の息子が北条に監禁される中、由良軍を率いて徹底抗戦」
「その奮戦の前に佐野宗綱討死」
「関東仕置きで二人の息子が北条に従うのを尻目に孫を連れて上方軍に従軍」
「その功で息子達も助命」

とまぁ、既に紹介されているエピソードなので駆け足で。


そしてもう一人妙印尼の孫に、関東仕置きの際に天下に名を残した人物がいる。
その人物とは……
「18歳の時、ラスボスの関東仕置きの際に初陣。」
「東北の地で反乱平定に功があり、以後は京都、大阪で生活する。」
「大阪の陣では秀頼の娘を連れて敵中突破。無事に城外へ逃がすコトに成功。」
「夏の陣が終わった後、出家して余生を過ごした。」

皆さん、コレで誰の名前を思い浮かべただろう。
実はコレ、女性である。
そう、武州忍城主、成田氏長の娘、甲斐姫のコトだ。

氏長の最初の妻であった甲斐姫の実母は由良成繁と妙印尼の娘。
甲斐姫の武勇は妙印尼譲りだったのである。


そして更に、この系譜にはもう一人の烈女がいる。

実はあまり知られていない話であるが秀頼の娘、天秀尼の母親は成田一門の娘であ
る。
甲斐姫が侍女として大阪に連れて行った娘が秀頼のお手つきになったらしい。
その為か、甲斐姫は大阪の陣の際、そしてその後も、天秀尼やその母と行動を共に
している。

あまりに有名な、会津藩主加藤明成を改易に追い込んだ東慶寺の堀騒動。
豊臣の血筋という負い目を持ちながら、大大名相手に一歩も退かぬ天秀尼の剛毅さ
もまた、甲斐姫の薫陶の賜物だろうか。


……まぁ、何だ。坂東の男は鉄棒を持たせたらモンスターと化す。坂東の女は城や
寺に篭らせたらモンスターと化す。特に由良、成田系の女はヤバい。そーゆーお話。

あ、そーいや甲斐姫、養母からは太田家の薫陶を受けてるのか。
太田家の薫陶を受けた妙印尼の孫娘……そりゃモンスターにもなるわな。




711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/13(木) 16:48:49 ID:UWlMUA86
>>710
すごいな。成田家の女は強いわー!

忍城、退去の条件

2010年05月04日 00:00

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 14:04:19 ID:5TUTxKJT
ラスボス関東仕置きの際の忍城攻防戦。

石田三成率いる大軍勢を敵に廻して、城主不在の中で見事守りきった成田勢。
小田原城が降伏したコトにより、関東で落ちていないのはこの忍城一つとなった。

成田家当主、氏長と共に小田原に篭城していた松岡豊前守が氏長の開城命令を伝え
に忍城にやってくると、漸くこの城も降伏、開城へと動き始める。

が、その最後のつめでまたもこの人がやってしまった。

三成「城を退散する際、持ち出して良いのは一騎につき一荷だけとする!」

騎馬武者一人が一つしか荷物を持ち出せない。
忍城に篭城していたのは勿論騎馬武者だけではない。徒歩の兵も大勢いたし、農民
町人女子供もそれぞれの財産を抱えて逃げ込んでいたのである。
彼等は何一つとして荷物を持ち出すコトは許されなかった。

開城交渉を務めていた松岡豊前にこの条件を聞かされた忍城代成田長親、激怒する。

長親「当主に従い、城を守り敵を防ぐのは家臣として当然の役目であり、忠義では
ないか! 忠節を貫いた士を憎み、罪人の様に扱うとは上方の将は何を考えている
のだ! 我々は手ブラで城を出て飢え死にするより、この城を枕に討死する方を選
ぶ!」

交渉を打ち切り、城門を閉ざし、改めて戦の準備を始めてしまう。
忍城の手強さを誰よりも知っている三成、慌ててラスボスへと使者を送ると、

ラスボス「そりゃ城兵の言ってる方が正しいよ。バカな条件をつけるのは止めて、
個人の財産は全て持ち出し自由にしてやんなさい」

とのお達し。
これにより、漸く忍城は開城。長かった関東仕置きも終わったのである。


でもこれ、条件撤回の為にわざわざラスボスの指示を仰いでいるトコを見ると、三
成の独断じゃないよねぇ。
ラスボスが「城から出てきた成田勢を撫で斬りにしろ」と指示したのを、三成が必
死で止めた。とか言う話も残っているらしいし、なんか三成の中間管理職的苦労が
垣間見える悪い話。




525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 14:15:05 ID:D1CNF92r
氏長を信用し切れなかったラスボスが試しに揺さぶりかけてた気もするな
無茶な条件突きつけてもほいほい出てくるようなら氏長が両天秤かけて指示してたと断定して撫で斬り&氏長惨殺
蹴るようなら城に気骨のある連中がいたってだけだからお咎めなし、とかさ。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 21:38:38 ID:wCPNMfvb
>持ち出して良いのは一騎につき一荷

これを言い出したのは長束正家という説もある

成田さんと龍神の加護

2010年04月23日 00:07

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/22(木) 13:28:13 ID:tcJ6PIlZ
武州成田氏の菩提寺、龍渕寺。
これを建立したのは成田家時であった。

家時はある夜、館から彷徨い出て、阿弥陀堂に辿り着く夢を見た。
不思議に思った家時、家臣に夢の地を訪れさせると、まさしく夢の通りの場所に阿
弥陀堂があり、そこで一人の僧侶が修行をしていた。
この僧侶を和庵和尚と言い、不思議な縁であるとして、成田家に招いた。

成田家では丁度新しく寺を建て、菩提寺としようとしていたので、この和庵和尚に
その住職となるコトを依頼した。
すると和庵は
「この地に寺を建てていただきたい」
と言う。その指定するところは古くから龍神が住むとされた龍ヶ渕と言う沼であっ
た。

沼にどうやって寺を建てるのか。成田家中では頭を悩ませ、和庵和尚による遠回し
な拒絶なのではないか、とも囁かれた。
すると和尚、龍ヶ渕の湖畔に一人座禅を始める。
座禅を始めてから七日目。和尚の夢の中に白髪の老人が現れ、
「私に菩薩戒を授けてくださるなら、この土地をお譲りしよう」
と言う。

翌朝、和尚が引き続き座禅をしていると、突如猛烈な突風が吹き荒れる。
和尚は慌てて叫んだ。
「オイオイ、お前がそのまま来たら皆が驚くじゃないか。里の皆を驚かせないよう
に、もう少し小さな姿で出てきておくれ!」
すると風と波はたちどころに収まり、水中からは小さな蛇が一匹、ニョロリと姿を
覗かせた。

眼を合わせたまま動かない蛇を見て、和尚が頭を撫で、我が弟子として戒を授けて
やると、蛇は再び大人しく水中に帰って行った。
その日から武蔵北部は突然の大雨に見舞われ、あちこちで洪水が起こったのだが、
何故か龍ヶ渕の水は雨の量に従って徐々に干上がっていくように見えた。
やがて完全に陸地になった龍ヶ渕に建てられた成田氏の菩提寺を龍淵寺と名付けた
という。

龍淵寺建立から程なく、下忍の三千坊沼という沼で、夜毎鯨が鳴く様な声がすると
いう噂が立った。
里人が和庵和尚に相談すると、和尚は沼を訪れ、鯨声のする辺りでお経を上げ始め
る。
すると、和尚の目の前に大きな鐘が浮かび上がって来た。

この鐘、龍の化身であるとされ、和尚によって仏弟子となった龍ヶ渕の龍が、和尚
の徳を慕って寺を護る為に鐘と変じて現れたのだと噂された。
その鐘は龍淵寺に運ばれ、寺宝として大切にされていたという。
ここまで室町初期頃のお話。

やがて時代は下り戦国時代。
繰り返し行われた上杉謙信の忍城攻撃。
何度目かの忍城攻撃の際、謙信率いる上州兵によって龍淵寺も略奪を受けてしまう。
「龍の化身」として名高かった寺宝の鐘もこの時に略奪され、上州に持ち去られて
しまった……かと思われた。
が、利根川を渡河中、突如として鐘を積んだ船が転覆。兵も積荷も諸共に川底に沈
んでしまった。
龍は末法の世を嘆きながら、利根川を下り、龍宮に帰って行ったと言う。

龍神の加護を失った成田家は、次代の氏長の時に武蔵を追われるコトとなった。
負けても負けても滅びないと思ったら、龍神の加護があったんだね、という
成田さんのお話。




496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/22(木) 15:28:47 ID:mNzuIOPW
負けても滅びなかったのは竜神のおかげというより、甲斐姫のおかげという現実・・・

成田顕泰の廻国譚?

2010年04月18日 00:07

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 14:30:02 ID:7ogvEy0q
武州国成田郷の成田氏中興の名君とされる成田顕泰。
彼は嫡男親泰に家督を譲った後、文明十五年七月に武蔵を後にして京都に向かった。

「ワシは乱世の習いとは言え今まで人を殺しすぎた。隠居したからには諸国の神社
仏閣を巡り、罪を償い、子孫繁栄を願うのみだ」

しかし京都は応仁の乱以降、政情不安定となっていた為、信州の善光寺を詣でた後、
奥羽に向かうコトにした。
日本海側を北上し、出羽、鳥海の山々を巡り、太平洋側を松島、鹿島と南下する顕
泰。
翌年文明十六年初頭には安房に到達していた。

しかしココで旅の疲れから病に倒れた顕泰。
話を聞きつけた安房の領主、里見義豊も名医を連れて見舞いに訪れてくれたのだが、
そのかいもなく、六十二歳で死去。
顕泰の旅に付き従っていた正木源五入道と田久兵部入道の二人が主君の遺骨を成田
に届けたと言う。


以上、成田顕泰の廻国譚。
この後、

「ウソくせぇ」
「文明十六年に六十二歳って何? 顕泰はまだ二十歳そこそこのハズ」
「そーゆーのは検証スレで(ry」

と続くワケだが、近年の研究によると『成田記』顕泰前後の記録はどーやら一世代
ずれているらしく、この記録は顕泰の父、資員の事らしいのだ。

この資員、元は山内上杉家に従っていたが、古河公方家に寝返り、岩槻城を築城。
この頃は岩槻氏を名乗っていた武将である。
長尾景春の乱の際、景春に応じて挙兵したものの敗北。惣社長尾氏から顕泰が養子
として岩槻家(成田家)を相続&山内上杉家に帰参するコトになった。

他家からの養子を受け入れ、隠居するハメになった資員。
領地を放逐されたか、自ら落ち延びたか、再起を図って安房里見氏を頼ったという
のはありそうな話だと思う。

そう考えてみれば意外に現実味のある「成田顕泰の廻国譚」改め「岩槻資員の廻国譚」でした。




行田市の寺院にある逸話

2010年04月13日 00:01

都留姫   
忍城主成田顕泰の娘、都留姫と若侍
94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:38:57 ID:9pG/xALH
地元の寺院紹介のページから引用
住職の了承で取材したというので本文そのまま



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 20:29:18 ID:/ZkjBuCZ
>>94と同じところから本文そのまま
高太寺の風来和尚


http://gyoda.co.jp/templefile.htm





管理人より
完全に転載なので、リンク元でお楽しみ下さい。

武州忍城攻防戦・ヒマ潰しに夜襲編

2010年04月04日 00:01

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/03(土) 13:59:24 ID:5Sc1c9z9

ラスボス秀吉の関東仕置きの際、武州忍城攻防戦での一幕三連投。
上方勢は忍城を包囲するモノの、兵力差を活かせず、力攻めでは決着がつかない。
一体どうしたモノかと城を遠巻きにしていた。

この後、三成の大筒攻め>>水攻め>>援軍を交えてのやっぱり力攻め、と展開していくワケだが、
城方は城方でイロイロとイベントを用意していた。

前日の総攻撃を何とか退けた忍城。しかし、その中で攻撃が薄く、暇だった一手があった。
「……なぁ、今日、オレらなんもしてなくね?」
「ヒマだったよね」

そりゃまぁ、キミらを攻撃する筈の人、日が暮れるまで部下と喧嘩してたんだモノ。>>870
「でさ、ヒマ潰しに夜襲行ってみねぇ?」
「あ、それいいね。行こう行こう!」

折りしも季節外れの強風の夜。
正木丹波、長谷部隼人を筆頭に150人で夜襲を仕掛ける。
「○○の勢は表へかかれ! ××は裏から!」
「前々からの約束を果たす時だぞ! 長束の首はお前たちが取れ!」
わざと大勢に見せかけるよう、または内通者がいるかのように派手に声をかけて攻めかかる。夜襲
を受けた長束、中島の勢は慌てふためき、同士討ちする者、方々に逃げて行く者が大勢いた。

勢いに乗った夜襲勢、次は宇都宮氏の名代轟丹波(佐竹の配下、車丹波の間違い?)の陣に討ち入
ると、何の備えもしていなかった轟丹波、城方が深追いしているワケでもないのに利根川の河原ま
で逃げて行く見苦しさだった。

夜襲の城方はその後、調子に乗って速水甲斐(時之?)の陣に攻め込み、反撃を受けるも、上手く
撤退。
結局城方の討死は7名。負傷者20名余りだったという。それに対して上方勢の討死は120名余。
兵力差を考えても上々の戦果だったといえるだろう。
っつか、奇襲をしかけといて「次はあの陣!」なんて、深追いしすぎだろ。

以上三連投は「成田記」が出典なんだが、三成配下では川瀬左衛門、長束配下では速水時之が妙に
贔屓されてるんだよな。
何だろな、江戸期に子孫が成田家と関係してたのかな? 速水は大阪の陣で豊臣に付いて死んでるみ
たいだケド。





成田家重臣、成田近江守泰徳の悲哀

2010年03月31日 00:03

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/30(火) 13:47:33 ID:FJTmIQa9
武州忍城、成田長泰には4人の弟が居たとされる。
それぞれが各地の城代として派遣されていたり、長泰&氏長の名代として成田軍を率いて活躍したりと、中々の
器量人揃いであった。

中でも一門の長老として重きを成していたのは成田肥前守泰季と成田近江守泰徳の二人。

肥前守泰季はとある戦の際、近習が旗を奪われたのを知り、夕闇にまぎれて敵陣に単騎潜入。
自分の旗を持っていた敵兵を探し出し、切り捨てた挙句に旗を取り戻し、帰陣するというムチャをやらかしたホドの
武勇の主……兄貴には軽率だと叱られたケド。

近江守泰徳は兄弟の末弟で、御館の乱の際、成田軍を率いて厩橋城まで進軍したと言う記録が残っている。
越後に援軍を出した北条氏邦の第2陣としての行動だったのか、氏邦の留守を預かる守備隊だったのかは不明であるが、
一軍の将として信頼は受けていたのである。

そして時代は流れ長泰の死後。ラスボス様の関東仕置きが始まる。
当主氏長は小田原城に篭城する事になり、残された忍城の城代として泰季が、その副将として泰徳が指名された。

城内は肥前守泰季が抗戦派。近江守泰徳は和睦派であった。
しかしいざ、石田三成の忍城攻めが始まると、緒戦は兵力差にも係わらずほぼ互角。
あっという間に膠着状態になってしまう。
そして、膠着状態の打破を目指して行われたのが、あの有名な「水攻め」だった。

関東ローム層の土質は脆く、突貫工事の堤防には不向きだった。
城の中から忍者が放たれ堤防を破壊した。
付近の農民がわざと手抜き工事をした。
等々、様々なコトが言われているが、とりあえず水攻めは失敗。それどころか決壊した堤防から溢れた水は、
石田軍の陣に押し寄せ、多大な被害をもたらしたと言う。

しかし、たった一つ。この水攻めで挙げた成果がある。しかもかなり大きな戦果。
長期間の篭城。しかも水攻めで床の上まで水が溢れる悪環境に晒された為、守備側の総大将、肥前守泰季が病にかかり、
急死してしまったのだ。享年75歳。

2万を超える大軍に包囲され、援軍は続々と到着予定。城中は農民町民女子供を含めて5千。
その上武勇で鳴らす指揮官まで失った。
フツーならココでギブアップする。実際、現実が見えてたらやってらんないよね。
が、泰季、死の間際に遺言を残す。
「ワシの後を継いで戦の指揮を執るのはワシの息子、長親とする」
「泰徳は知恵はあるが勇に乏しい。大将とすべきは長親である」

激怒したのは近江守泰徳。
だって、現実を見ろよ!ムリじゃん!成田の家を残すなら降伏だって、絶対!
脳筋の兄からは腰抜け扱いされた挙句、副将である自分は無視で、いつの間にやら甥っ子が大将とされていたのである。
しかもその長親、今までは父の影に隠れて無能扱いされていたと言うのに、あっと言う間に城内の意見を抗戦で
纏め上げてしまった。

誰よりも成田家の為を思っているハズの自分が無視され、蔑まれ……思い余った泰徳は浅野長政に寝返りを申し入れる。
何なら氏長や長親の系統が断絶しても、自分の系統さえ残れば成田家は安泰、という思いがあったのかもしれない。

が、その企てさえも上手く行かない。
後は浅野からの合図を待てば良い、という所まで話は進んでいたのに……何があったのかは記録にはない。ただ、
手違いで合図が上手く行かなかった、とだけ書かれている。

結局、徹頭徹尾戦に反対し続け、徹頭徹尾思うように行かなかった成田家の宿老。
小田原城で「だって家の存続の方が大事だし」とか言ってラスボス様に寝返ったもう一人の甥、氏長の話を聞いた時、
どんな思いを抱いたのだろう?

「だったら何で最初っから戦なんか始めるんだよっ!!」
「小田原に籠もるのを拒否れば済んだコトじゃねぇか!!」

関東仕置き後の近江守泰徳の消息を伝えるモノはない。




795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/30(火) 22:09:00 ID:+pNLQil1
>>788
ああ、例の http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3644.html の話の浅野長政の言葉は
負け惜しみの口から出任せって訳じゃなかったのか。

で、このとばっちりは長親に行くと……

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/30(火) 22:13:37 ID:g6bgyz5u
現実が見えてる分強硬派と上手くいかずに割り食うってよくある話だけど
そういう人は立場難しいよねぇ。

成田氏長、寝返って候

2010年03月29日 00:06

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/28(日) 13:30:17 ID:kYxkrcoo
まとめサイトのコメ欄でちょろっと紹介されていたが、確か独立したエピとしては未だ出ていなかったと思うので……

ラスボス秀吉の関東仕置き。
北条氏側では支城は捨て、小田原防衛のみに専心するという戦略を立て、各地の城主達を小田原に呼び寄せ、
篭城させていた。

そのせいで関東各地の城は面白いホド良く落ちたが、小田原は流石に落ちない。
しかしもう一つ、落ちない城があった。
武蔵国忍城である。忍城攻めの主将、石田三成からの経過報告を受けた秀吉、ちょっとゆさぶりをかけてみる。

「山中ぁ、お主、確か忍城の成田とは知り合いだったな? 寝返らせろ」

忍城主の成田氏長は元々上方とのパイプを何本も持っており、秀吉の書記官、山中山城守長俊との友誼も
そういったパイプの一つであった。

しかしまぁ、主君と共に篭城中の武将をお手紙一本で寝返らそうとは何と安直な。
そしてホントに寝返ってしまう氏長サンはまた、それ以上に安直な男である。w

そして氏長からの寝返り了解のお返事が山中を通じて秀吉の許に届く。

「あ、この手紙な、小田原城に届けろ」
「……は?」
「小田原城の北条父子に使者を送り、この手紙を届けろ」
「い、いや、それでは折角寝返らせた者が……」
「いーから早よせいっ!」

と、言うわけで小田原城内騒然となりまして候。

問答無用で成田討つべし、と主張する者。
秀吉の計略に違いないから黙殺した方が良いだろ、と言う者。
いや、でもあの成田だしなぁ……と頭を抱える者。
こんなトコでも相変わらずの小田原評定。

とりあえず成田が守備する陣地に使者を送り、本丸に来て申し開きをせよ、と伝えると。
「いや、今ちょっと病気を患ってましてな、HAHAHA!」
との返事。
んじゃ医者をつけてやるわい、と再びの使者+お医者様。
重ねての使者に、氏長も観念したのか、本丸に出頭するのは拒否したモノの、使者には面会した。

「成田殿が裏切ったという風説が流れていますが、ホントなのですか?
この通り、裏切りの書状まであるのですが……」
「うん、ホント」

あっさり認めた。

「だって、忍城攻められちゃってるし。別に北条が憎いワケじゃないんだケドね。オレらのコトが憎いって言うなら、
首を刎ねに来いや」

こう強気に出られると腰が引ける小田原勢。兵をそろえたモノの成田の陣を遠巻きにして包囲するに留めた。

上方勢の包囲する中、篭城している小田原勢。
小田原勢の包囲する中、さらに篭城している成田勢。

なんとも不思議な構図である。

あ、ちなみにそもそもの発端となった忍城。
「氏長が内応したから開城するべし」
という使者に対して、
「あ? バカじゃね? だったら氏長の開城命令書でも持って来いよ。手ぶらで来てそんなコト言われて、
ハイそーですかなんて言うと思ってんの?」
一蹴されたようですwwww
結局小田原開城後、ホントに氏長の開城命令が伝えられるまで粘りきったのは有名な話。




754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/28(日) 23:53:03 ID:YSdzqgkb
>>722
のぼう読んだ直後だけに、その逸話有難いわぁ
しかし、読んでて思ったんだが、宗主(最高司令官)と切り離された城って凄い脆いよね
そんななか、忍城が何で耐えたかも分からんのだが
お前の主君裏切ったぜ?って言われた時、家臣らはあんなに踏ん張れるものなのかね?


756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/29(月) 00:20:04 ID:pYMKijw0
>>754
ちゃんとした家臣ならそうする
関ケ原の時も増田長盛の居城、大和郡山で留守番してた渡辺勘兵衛は主君の手紙持ってこいって言ってたし
謀略で城を盗られることが日常的にあった時代だから、用心するのは当然



関連
成田氏長さんと相越同盟
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3667.html

成田長泰・氏長親子への恨み

2010年03月05日 00:01

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 13:46:09 ID:QE3s5wfI

武州忍城主、成田長泰。彼の次男が成田泰親(名前には異説有り)なのだが、元々彼は他家に養子に入り、
小田泰親を名乗っていた。
やがて小田領が成田家に吸収合併されると、本家成田氏に復帰した泰親なのだが、実は兄、氏長には男の子がなく、
氏長&泰親の末弟が養子となっていた。その弟が夭折してしまったのだ。
泰親の成田家復帰は、亡き弟に代わって氏長の養子になる為だったとも言われている。
氏長の家督相続後は、氏長が嫡子時代に名乗っていた「左馬助」を名乗っている(ちなみに「下総守」の
名乗りを許されるまでは成田家当主が「左馬助」を名乗っていた)事もあり、成田家中では泰親の家督相続は
規定路線だったのだろう。
そしてその規定路線通り、氏長の死後、泰親は成田家当主として烏山城を継いだのだ。

……が、しかし。
「成田系図」という家系図がある。代々の当主の名前に並んで、その事跡を細かく記したモノだ。
それによると
「成田家に跡継ぎが居なかったところ、氏長の娘、甲斐姫が秀吉公の妾になっていたから、甲斐姫が頼み込んで
特別に泰親が継がせてもらった」
とある。

他にも、
「氏長は父長泰に弓を引き、不孝甚だしい」
「長泰は妾に夢中で、いい歳になった氏長に家督を譲らず、慈しみの心がない」
「氏長は小田原陣の際、とっとと北条を見捨て秀吉に寝返った」
「長泰の荒淫、氏長の不孝不信が子孫を断絶させてしまったのである」
とにかく長泰&氏長親子の事はボロクソであり、「成田家は氏長の代で滅んだ!」という態度で一貫している。
上記の様に北条家臣だった頃から泰親の家督相続は規定路線だったと思われる。
だが、「成田系図」の著作者に取っては「氏長が滅ぼした家を、甲斐姫の尽力で何とか継がせてもらった」という
事になるらしい。

この、「成田系図」の著作者とは……尾張成田家の人。
そう、関東仕置き後、氏長にあらぬ疑いをかけられて烏山を追い出された、成田長親の孫だったのです。(>>443参照)
……なんつーか、よっぽど嫌いだったんだね。そんなに許せなかった? 一応相手は非を認めて謝ってんのにさぁ。w




948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 14:23:52 ID:rm/i/xGF
あのあたりで小田というともしやあの血統ではと思ってしまうな

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 14:26:02 ID:VHphUKIX
苦労に苦労を重ねて城を守り抜いたと思ったら冤罪で追放されたでござる、で
謝られたからって許せる大度量の持ち主はそうはおらんだろ

950 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/04(木) 16:11:52 ID:6OzF+KGd
忍城での不手際で三成には戦下手の評判が付いて回る様になる訳だけど、浅野さんには
そういう話は聞かないよね。三成が嫌われ者だったからなのか?

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 16:29:34 ID:yj8uKQcE
浅野さんは親子でその後下総をなで斬りしましたので。
既出の悲しい仕打ち受けてるけどさw

軍功上げまくりな息子さんもおるしねぇ。

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 16:34:30 ID:4iHkyNok
あいつは軍功もねー親だからすぐ褒められていーよなー!
俺なんかよー

とどこかの若殿がクダ巻いてましたよ?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 17:29:43 ID:PDiWa44U
>>950
浅野は援軍だからじゃないか?
三成みたく最初から苦戦してた訳じゃないので

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 18:12:33 ID:WXkFt7+O
浅野は息子の方は武人だけど親父はね…つう言い方はされてたとか聞くね

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 21:01:31 ID:byStucs1
元から評価されてなかったからかな>浅野父
三成はなんだかんだで軍功あったわけだし

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 22:49:27 ID:CMofNxEJ
>>947
のぼうさんの孫かw