真田昌幸の策

2010年02月23日 00:08

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 07:26:16 ID:0S7L8j/F
保科正直は武田滅亡後、滝川一益の寄騎となったが、神流川の戦いで一益に従い北条軍と
戦って敗れ、家臣を抱えながら牢人となった。
「殿、ここはかつて武田家で同じく馬を並べたよしみをもって、真田昌幸どのに頼りましょう。」

正直の子・正光は昌幸の娘を娶っていたが、高遠落城の際、二の丸を守っていた保科家は、
本丸に残した人質を置いて逃げ延びた。正直は恐る恐る昌幸に頭を下げに行ったが、
謀将は保科家の面々を温かく迎えた。

「時に妻子親兄弟を捨てるなど、武士にはよくあること。恥辱と思われるな。」
「かたじけない。だが、これからどうしたものか…」
「そうですな…高遠の地、今は取るに足らぬ土豪ばかりとか。これを制し、伊那郡を切り取られよ。」
「しかし北条家臣となったわが弟・内藤昌月(昌豊養子)も、高遠を狙っているとの噂がある。」
「なぁに、かまう事はない。逆に昌月どのに頼み…」

昌幸に策を授けられた正直は、弟・内藤昌月の居城・箕輪城に向かった。
「…という訳で、兵を借りたい。」正直の頼みに、昌月は冷たく答えた。
「高遠は私が領して良いと、すでに小田原から朱印状をもらっております。あきらめて下され。
兄である貴殿を、悪いようにはしませぬ。わが家中で、重臣となるが良いでしょう。」
(実兄であるわしに、何たる言い様…!しかし昌幸どのが…)

『…と、昌月どのは言うでしょうが、グッとこらえて頭を下げ、兵を借りなされ。』
「…わかった。従うゆえ、高遠を攻める兵を貸してくれ。」
何とか五百人を借り受けた正直は、易々と高遠を手に入れた。「これでよし。昌幸どの、頼んだぞ…」

その頃、徳川家康のもとに真田昌幸からの書状が届いていた。
『上田領主・真田昌幸、高遠領主・保科正直と共に徳川にお味方いたす。ついては、領有を認める
朱印状を、それぞれに賜わりたし。』
さっそく酒井忠次を通じて朱印状が発行され、保科正直はこれをきっかけに伊那半郡を制圧した。

内藤昌月は高遠に居座った正直の非を小田原に訴え、徳川と北条の間に合戦が起こるが
北条は敗北し、そのまま高遠は保科領となった。家康は保科家の臣従を喜び、正直の後妻として
家康の義妹を与えるなど優遇したという、「弾正の子供たち」のお話。




145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 09:34:06 ID:6W1dE8Cq
才にそれほど差がなければ軍師の差は歴然、か…。

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