伊良子宗牛の事

2015年03月15日 16:24

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 06:52:00.57 ID:2TOljY+0
伊良子宗牛の事

永正の頃(1500年頃)、甲斐国守護の座を巡り武田信直(武田信虎)は叔父の油川信恵と国を二分する争いを行っていた
信恵方には武田一族の岩手縄美、秋山信任、小山田氏らが味方したが、信恵が大敗を喫すると秋山氏も信直に従う事となった
しかし秋山一族の中には信直を国主として認めない者や、信恵方についた事を咎められ、やがては所領を捨て出奔する者もあった
その中には三河渥美の伊良子に移り住んだ者もいた
三河に移った者は土地の名を取り伊良子を名乗り、その後出羽国に流れ最上義守に仕えた

「奥羽軍談」「山形の昔話」ほか

伊良子宗牛の出自の話



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義守の手紙に見る天正最上の乱

2014年08月22日 13:48

987 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 01:58:45.13 ID:k/wP8bZN
義守の手紙に見る天正最上の乱

しばらく前の事、神奈川県に在住の旧伊達家家臣の末裔の方が青葉城資料館に寄贈した百通余りの書状の中に、新発見となる最上義守の書状が4通含まれていた事が明らかとなった

書状は隠居した最上義守が伊達家に出したもので
義光に家督を譲ったものの

義守「義光に家督を譲ったのは時期尚早であり誤りだった」
「(天童八楯と揉め事を起こそうとする)義光をおとなしくさせたい」
「言う事を聞かないなら義光を討つのも仕方ない」と、義光にとってはかなり物騒な内容であり

「義光を討つか追放して、最上家の当主に戻りたいから、機会が来たら是非に力(援軍)を貸してほしい」とも書かれていた

実際には、伊達輝宗があまり積極的に最上家の内紛に介入しなかったために、白鳥長久の仲介で最上義光と輝宗との間に休戦約定が結ばれ、義守の家督復権には至らなかった

書状は最上義守が50代、義光が25才頃のものと見られている




最上義守、息子と京へ

2014年03月02日 18:58

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:27:11.82 ID:CxSCJIi/
最上義守、息子と京へ

永禄6(1563)年、最上義守は18歳になる息子の義光を連れて京に上り、将軍足利義輝に馬や太刀を献上した。

「6月14日、久しぶりに将軍(足利義輝公)の屋敷に伺ったら、丁度出羽の御所(屋形号)の山形殿父子(最上義守と義光)が来ておられた。
父子は将軍に馬と太刀を献上して、義光に頂いた義の文字や、常日頃からの感謝と御礼を申されていた。
将軍は二人をもてなす宴会を開かれ、私もそこに顔を出させてもらった。将軍から下された杯を、二人は「かたじけないことです」と言って頂戴した。私も深夜までご馳走になり、すっかり酔ってしまった」

「山科言継卿記」

公家の日記に書き残された、最上父子の京都旅行の一幕




497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:59:44.64 ID:CxSCJIi/
「姫武将政宗伝ぼんたん!」の義守と義光で脳内再生

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 04:08:18.84 ID:CxSCJIi/
高湯(蔵王)温泉で義守は義光に笹切の名刀を与えたり、足利将軍から一字拝領出来る様大枚まで叩いたのに
いつから仲が悪くなったのやら

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 10:26:37.23 ID:UTJyG6Sf
ちゃっかりしたやつだなと思ったが、山科言継なら納得

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 10:31:18.63 ID:nv323lgY
うむ、言継なら仕方ない

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 10:38:44.71 ID:aZwEZyei
言継が酔うって、どんだけ大量の酒が出たんだよ

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 10:46:17.46 ID:tMbAxVxs
ところで義光の「義」は義輝から拝領したものとして
義守の「義」はどっから?
代々拝領してきたから、ほとんど通字になってたとしたら、
あんまりありがたみがないような

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 11:16:21.39 ID:uiUgpBUc
官位と同じで、自称と公認の違いじゃないの。

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 17:07:00.44 ID:1KnOREGZ
原文では義の字拝領について礼をしたとは書かれていないようだが

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 19:58:02.71 ID:CxSCJIi/
>>504
息子の義光は元服しての父のお供だったから状況証拠で

(義光に頂いた義の文字や、以下略…社交辞令の挨拶など カッコカリ)常日頃からの感謝と御礼を申されていた。

でOK?

あくまで()で

最上義守、生前葬を上げる?

2014年03月02日 18:58

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:45:54.89 ID:CxSCJIi/
最上義守、生前葬を上げる?

家中の義光推しの空気と病を圧した重臣氏家定直の諌言もあり、最上義守は家督を息子の義光に譲る事を決断。
栄林と号し山形城の北の龍門寺に隠居した。

この寺に興味深い文書が残る。

元亀2(1571)年、秋彼岸の日、葬送に際して火を下ろすときに唱える「炬下語(あこご)」が、義守のために用意された、といったものである。

この後義守は伊達輝宗に手紙を出し「やっぱり義光に家督継がせたのミスだった。(ワシが)当主に(また)なるから力(兵)貸して」といった申し出をする。

伊達輝宗は周囲に「中野殿(最上義守)が天童や白鳥と結んでなにやら企てている」と手紙を出したが
この手紙の「中野殿」が後代義光と家督を争った「最上義時」扱いされる原因にもなった

一度は家督を譲ったものの
最上義光に不安を感じ、「天正最上の乱」勃発に際し覚悟の生前葬を上げた最上義守の周りを巻き込んだ悪い話?




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:51:19.14 ID:CxSCJIi/
ノブヤボではぱっとしないけど、最上義守は伊達家の傀儡だった最上家を独立大名に立ち直らせた
ある意味最上家中興の祖。

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 02:04:49.15 ID:1KnOREGZ
炬下語ではなく下炬語じゃね
禅に帰入して得度した事の証明として行われるもんなので、別に不穏な意味は無いはずだが

629 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/02(日) 02:45:53.97 ID:CxSCJIi/
>>628
下炬でしたね

龍門寺は(現在)曹洞宗ですが
宗派によっての解釈の違いなんかもあるのでしょうか?

栄林を号し龍門寺に入ってから
時期を少し置いての話の様です

気分転換かなにかの区切りやけじめ?

下炬 あこ 導師が松明をとって、死者を火葬する意。
転じて、棺前に立って引導を授けること。
曹洞宗では三尺二寸。
浄土宗では二尺五寸とされ、1本を落とし(厭離穢土)、残る1本(欣求浄土)で1円を描き引導文を述べた後落とすなどの作法がある。
迦葉が釈尊の荼毘の炬をとった(菩薩所胎経)。
大声を上げて一喝するのは、中国黄檗の希運禅師の故事より(伝燈録)。
炬はかがり火、松明(たいまつ)の意。
「智慧の火を以って煩悩の薪を焼くの標示なり」(百通切紙第三)

あこ
禅宗で、火葬のときに導師が遺体を焼く燃料に火をつけること。のちには偈(げ)を唱えてしぐさをするだけになった。秉炬(ひんこ)。

630 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/02(日) 02:51:55.21 ID:CxSCJIi/

隠居後に改めて得度もしたけれど
義光に家督を譲ったのは腑に落ちなかった→隠居も得度もかなぐり捨てて伊達・天童・白鳥を巻き込み天正最上の乱へ、といった流れでしょうか

親子鷹

2010年10月31日 00:00

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 14:58:46 ID:ookZ7Ln1
親子鷹

親子大喧嘩の末、氏家定直の注進もあって最上家の家督は義守から義光にようやく引き継がれた。
近隣の諸勢力から祝いの贈物が届いたが、ちょっと変わったエピソードを挙げておく。

最上家臣「こちらに名を記されよ」
A「大江家臣中山玄蕃」
B「大江家臣中山玄蕃」
最上家臣「めでたい席とはいえ、いたずらはやめられよ。名は何と申す?」
A「なかやまともまさにて」
B「なかやまともまさにござる」
最上家臣「ふざけるのも大概になされよ!」
A「はぁ?」
B「ふざけてなんかないんだけど・・・」
最上義守「おお、これは中山殿!今日は御子息もお連れか」
最上家臣「???」

父、中山玄蕃朝政
子、中山玄蕃朝正

子の朝正は後に大江氏滅亡後最上義光に仕え庄内攻めの仲介役となっている。




最上義守、危篤の床で

2010年02月24日 00:02

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 13:39:43 ID:/NgbsO+5

じゃあ最上義守の逸話で
指揮棒に書かれている通り義光の仏教信仰をちょっと関連して

 天正11年、最上義守が大病をわずらって危篤状態におちいった
そのとき彼は義光や義姫夫妻を枕元に呼び、大勢の重臣たちが居並ぶところで訓戒をあたえた
「今自分が亡くなったなら義光と輝宗が仲たがいして合戦をはじめるのではないか。
これだけが心にかかることだ。
最上と伊達がいくさをして、例え輝宗が勝ったとしても最上の主人になることはできまい。
逆に義光が戦いに勝ったところで奥州を手に入れることはできないだろう。
おまえたちのような小さな大名が、身内同士仲たがいをしたら、他の大名がとくするだけだ。
最上も伊達も関東の佐竹や越後の上杉に討たれてしまうだろう。
ただし、両家が仲良くしているならば、佐竹・上杉が一つになって攻めようとも没落することはないはずだ。
最上の氏家・志村よ、伊達の片倉・遠藤よ、おまえたちもこのことをしっかり胸におさめて、けっして背いてはならぬ」
ところが、あやうく見えた義守は、医薬のかいあってかほどなく快復する。

八日町浄光寺の伝えでは日蓮宗の旅の僧日満上人の祈祷が功を奏したとされ
これに感謝した義光が一万坪の寺地と伽藍を建立したのが同寺の始まりだとしている。




153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 17:58:42 ID:S/YQC9Km
>>147
ただ、義守の失敗はアレを呼ばなかった事だな。




                 って呼んでもいっしょか....。

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 19:34:26 ID:rkXe8dWj
>>153
義光伯父さんも最初は甥っ子の事を可愛がっていたみたいだし
そのまま最上領を譲れば良かったのにね




参考
鮭様のお父さん・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-938.html