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朝倉景高の転落

2010年02月25日 00:02

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 03:15:09 ID:Sw78poVG
朝倉景高は、越前の戦国大名朝倉氏の一族で悪名高き朝倉景鏡の父親である。


朝倉家の慣習にしたがい、若い頃から惣領である兄孝景の代理として出陣、主に美濃方面を担当して戦功があった。
越前と美濃の国境である大野郡を支配する大野郡司にも就任し、越前国№2の地位(ライバルは宗滴爺)となり、
かなりの財産家であったらしい。また、公家の娘を妾にするなど、中央とのパイプもしっかりつないでいた。


やがて、兄孝景と不和になり、越前を出奔する。
兄弟間で父の遺領をめぐる争いがあったらしいが詳しくはわからない。


中央とのパイプがあった景高は、京都に潜み何やら不穏な動きをし始める。
はるか一乗谷から弟の様子を探っていた孝景であったが、やがて幕府要人と連絡をとって将軍の命令により、京から
景高を追放することに成功する(その後、皇室と幕府に対して多大なる御礼が朝倉家よりなされた)。


京にいられなくなった景高は、朝倉と対立する若狭武田家に身を寄せて、実家を倒すための謀略を練り始める。
武田家はもちろん、宿敵である尾張の斯波氏、加賀一向一揆といった各方面に使いを出して越前侵攻を画策する。
一向一揆の総元締めである本願寺証如に手紙を出してこんなことを申し出ている。


「我が子孫は末代まで本願寺の門徒になりまーす。

 越前のうち、三郡まで本願寺にあげちゃいまーす。

 以上、誓紙を提出してこれを守りまーす。

(取り次ぎの下間さんにも毎年三万疋あげますから!だから早く兄貴を討つ手伝いして下さいよ)。」


証如:「・・・こいつ、本気でこんなこと言ってるのか???」


あまり無謀な計画のため、本願寺も武田も相手にしなかった。
(斯波氏だけは「チャンス!」とはしゃいでいたようだが・・・('A`) )


結局、その後2年間ずるずると若狭に居続けた景高であったが、朝倉氏とこれ以上関係を悪化させたくない武田に
とって実に迷惑な存在となっていた。我慢の限界に達した武田家は、本願寺と謀って、景高を和泉堺湊から西国へ
追放、もとい、退出させることにした。本願寺の兵に囲まれながら、泣く泣く西へと旅立ちました(まさか西方浄土
へ旅立たせたの比喩じゃないよね??)

朝倉宗滴曰く
「米銭黄金などの財宝を蔵に積ませて満足していても、一度不慮の凶事が起こると、財宝はすべて失い、家もろ共に
滅亡してしまう。(中略)当国においては、右衛門大夫(景高)が最も近い例である(ざまあ見さらせ)」


何故か処罰されることなく越前№2の座についた景鏡君は、宗滴爺のお言葉をどのように聞いていたのでしょうか?




785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 12:30:58 ID:mtavsAi/
結局どこ行っちゃんたんだ…?
次男(三男?)は駿河まで行って徳川に仕えたんだな

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 23:07:21 ID:+JZcySXs
>>785
あれ本当に越前の朝倉なのかねえ?

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 08:05:19 ID:SoGrxyoW
>>785
西方過ぎて、豊前や筑前まで行っちゃったみたいよ。その人。

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