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「武家閑談」から上田宗箇(上田重安)

2023年03月05日 16:11

698 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/05(日) 01:02:03.61 ID:aoFtKw4a

武家閑談」から上田宗箇(上田重安)
上田主水入道宗古(宗箇)は関ヶ原の時に三成方にむいたため、浅野幸長に預けられた。
それまでは一万石で、明智光秀逆心の時に織田七兵衛信澄(津田信澄)の首を取ったこともあったが、元来茶の湯で名が高かった。
ある時、和歌山の堀で普請があり、宗箇は大石を引いてきた。
柿の木綿羽織で馬に乗っていたがあきたのか、舟の舵を大紋につけ、渋手巾で鉢巻し、石の上に登って下知をした。
若い侍どもは「殿様はなるほど大名だ。なにせ一万石の茶坊主を抱えているんだから」と嘲笑った。
そのことが家中に知れ渡ったため、浅野幸長は宗箇のことを気にかけ、諸士の前で宗箇に脇差を賜り
「家中で何かと批判されているが気にかけるな。一大事の時に役を勤めてくれ」と言った。
宗箇も脇差をいただき「この脇差を血をつけることを願って、忍びましょう」と退出した。
家中のものはまた笑って「拝領の脇差に何の血をつけるのだろう。ネズミか?猫か?」と嘲った。
幸長死去ののち、大坂の陣で元和元年(1615年、ただし元和改元は大坂の陣後)四月二十九日に泉州樫井合戦で上田宗箇は一番槍をなし、しかも山縣三郎右衛門を組み打ちにした。
浅野但馬守長晟の本陣に参ると、長晟は感悦至極であった。
宗箇は座を立って「みなみな以前我を茶坊主と申し、そののち幸長様が脇差を下さった時、我が「この脇差に血をつけましょう」と申すと「茶坊主が武道とは」とまた嘲りましたな。
今日は茶道の宗箇ほどの働きをした方はいないように見えますが」
と言うと、誰も一言も言わなかった。



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主水は大筒の鉄砲を

2021年02月09日 17:21

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/09(火) 15:36:39.06 ID:PqG9b4iS
総じて茶の湯は、世を逃れ閑居隠者の成すわざであれば、不弁で粗略にして、潔いことを本とし、
元来は武道を本とした。

だからであろうか、上田主水(宗箇)の茶の湯の会に客が来て、くぐり(門)の開くのを待っていると、
主水は大筒の鉄砲を、玉を入れずに打ち放して、客を請け待ちしたという。

また多賀右近が雲州御在番していた折、茶の湯の時、花はなく、兜を置かれたという。
皆、その本を忘れぬ心であろう。

万事思い思い、心々なれば、是を是とり、非を非とするものではない。
ただ当然の理に従うべきである。

備前老人物語

大筒ぶっ放して歓迎したのか



925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/09(火) 15:57:55.94 ID:qKBPvKTU
祝砲・礼砲の類と思えばそんなに変でもないな

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/09(火) 17:23:42.25 ID:Pi1XOIBZ
礼砲という儀式が共通認識としてあればいいが、なけりゃ威嚇か傾奇者の振る舞いだろ
確か、幕末に黒船がやってきて礼砲撃った時も幕府役人は礼砲を知らずに驚いたとかって話なかった?

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/09(火) 21:58:40.72 ID:J7DuuVcu
祝砲礼砲はイギリス海軍からの伝来じゃねえの?
日本にそんな文化ねえぞ

突き折るほど働いて

2017年10月29日 16:38

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/29(日) 16:35:00.69 ID:aWEy2xZH
鑓の柄というものは、軽くて硬いことに利があるが、上田宗箇は杉の柄の鑓を常に所持していた。
人がその理由を問うと

「突き折るほど働いての討ち死に、本望ではないか」

と答えたという、
滋賀与三右衛門も杉の柄の槍で、主人がその理由を問うと
「いざという時投げ突きにいたします」と言った。

阿波の三好が上方に進出して度々戦のあった頃、彼らの大方は竹の柄の鑓を持っていた。
それ故に、その頃の狂歌に

『阿波武者は 世々をかけて突ぬらん 皆鑓の柄を竹にてぞする』

これを京童が口々に唱えたとか。

(士談)



上田宗箇の剛勇

2017年04月21日 10:19

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 08:55:27.66 ID:uFvNYzkl
上田主水(宗箇)は初め丹羽長秀に仕え、小姓奉公などしていたが、本能寺の変後、明智光秀への関与を
疑われた織田七兵衛尉信澄が大阪城(石山城)の本丸に居たのを、長秀の軍勢で取り巻き、信澄が自害に
及ぶ時、上田主水(当時16,7ほどであった)が城内に飛び入ると、信澄は既に自害しており、
そこでその頸を受け取って退出したという。あくまで剛勇の生まれ付きの者であった。
後に太閤秀吉に1万石で仕えたが、関ヶ原の時三成に属した科を以て、本領を没収された。

ここで、浅野紀伊守(幸長)はかねてより彼を知る好であったので、徳川家康に対し「茶友達」との事で
身柄を引き受けたいと要望した。
上田は三成に属しただけで、事の顕れた悪事もなかったため、家康は免許した。
以後、浅野家に属し1万石を領した。

実は上田は、その頃までさして名を得た功は無かったのだが、浅野の屋敷の近隣にあった
中村式部少輔(一氏)の屋敷に火事が出た時、破風口に一人出て延焼を防ぎ止めた振る舞いは、
只者とは見えず、当時の人達はこれを大いに賞賛した。
また、大阪の陣において柏の井で一番に鑓を合わせた。
以上の人に知られた働き2度のうち、一度は火事の覚悟であったといえる。

大阪冬の陣の時、浅野但馬守(長晟)の仕寄の場所に大筒を設置したが、但馬守の足軽が竹束の間から
外を覗いたところを、大阪城内より鉄砲にて難なく撃ち殺された。
その直後、上田宗箇は大筒に乗り掛かり、顔を出して四方を見回した。

彼をめがけて城中より鉄砲が雨のごとく降り注いだが、彼はまじろぎもしなかった。
類まれな勇者であったといえる。

(士談)



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 10:06:23.60 ID:Y9xTky+j
戦が少なくなると武士が名を上げるには火事の対応とか無意味に躰を危険に晒すとかぐらいしか無いって、淡く切ないお話しですね

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:33:14.29 ID:pNPhOchv
へうげものの武闘派上田宗箇を思い出したけど
大坂冬の陣でこの場面あったっけ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:45:51.95 ID:5HHheB3O
敵がくれの茶杓作った位しか出てない

上田宗箇の茶室「和風堂」

2011年06月17日 00:06

179 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2011/06/16(木) 02:35:23.66 ID:GGJWKNrl
まとめサイトにあるように、細川忠興公は「(茶)道具がみたい」と言った大名に
武具を見せて「武士の道具はコレじゃ!」と言ったことがありましたな。
ところがこれを本当に実践していた茶道流派がありました。

茶道 上田宗箇流(の伝来道具)
http://www.ueda-soukoryu.com/index2.htm

上田宗箇が造った茶室「和風堂」の全体図もありまして、これがどうみても
「防御施設つき殺る気まんまんな茶室」なんですな。虎口も搦め手もちゃんとついている。
ここは、本当に生半可な気持ちで茶道を学んではいけないようです。




180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 02:44:45.17 ID:hO131Qev
>>179
ちょっと無理があるんじゃないか?
これが「殺る気まんまんな茶室」なんて言ったら
ありとあらゆる武家屋敷は全てキリング・ハウスってことになっちゃうのでは?

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 12:29:17.98 ID:1dRCDXkH
日本家屋ってどうしてもそういうとこあるのかねー
前に畳の敷き方とか調べようとしてぐぐってたら
「天井板は、相手が刀を振りかぶって襲って来た時に
刃先がひっかかる方向にはる事」とか書いてあって
エエエってなった
普通の和室の話ですよ

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 12:42:25.13 ID:1UmKF+II
海外も似たようなもんじゃね?
西洋のドアが内開きなのは暴漢対策とか聞いた事あるぞ

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 13:12:38.54 ID:n0XnG8jU
内開きのほうが暴漢に蹴破られやすい気がするんだが

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 21:35:43.52 ID:m3RFcGVk
>>183
押し込まれるのは、体力に差があっても多少は耐え易いし、物を置いたりできるからじゃない?
引かれるのはなかなか耐えられないと思う


195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 02:40:29.22 ID:AuINOfKA

>>183

亀だが内側扉だと家具とかでバリケード作れるからじゃない?
外開きだと空いたら終わりだし。

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/17(金) 20:32:38.05 ID:98eS61Dy
>>195
更に亀だが
いきなり銃口向けられた時に盾になるものの有無は大きいかもなあ

一発二足軽

2011年02月13日 00:01

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 23:52:47 ID:PxnisQlv
大坂の陣の時のことである

浅野幸長の陣において、銃弾を防ぐ竹束の側で足軽が、大筒を修理していた。
この時足軽、大筒の砲身にしがみつくような形でいたらしい。

と、この足軽に大阪城より撃ちかけられる。この時一発の銃弾が、
なんとこの足軽の頭から入り尻に抜け、さらにその後ろにいた足軽の胸に当たり
二人ともその場で死んでしまった。
一石二鳥と言うが、これは一発二足軽であろうか?

これに大阪方は大いに盛り上がったが、ここに浅野軍の上田宗箇が駆け寄り、
やおらその大筒の上に乗り立った。
そして大阪城の方を覗き込み

「さあ撃ってこい!撃ってこい!」

と挑発。これに怒った大阪方からの銃弾が上田宗箇に集中したが、しかし一発も当たらなかった。

これには敵味方双方から『主水(上田宗箇)のありようは見事!』と賞賛されたそうである。


上田さんにとってはいい話だけど銃弾一発で犠牲になった上、上田さんを引き立たせる
役回りになった足軽2人にはお気の毒なおはなしw




770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 23:58:17 ID:IhRenedr
頭から尻に抜けって想像しただけでグロい…
まぁこれは上田さんの良い話だろう
精度が悪いって分かってても中々出来るもんじゃない

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/12(土) 00:17:11 ID:2ADAvvr6
人体を縦に貫通するほど威力が火縄銃にあるとは思わなかったな。

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/12(土) 00:25:51 ID:f3XLYuZu
いや、逆じゃなくてよかった。
尻に図星ときたときにゃあ体感的にスローモーでいくんじゃないか。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/12(土) 00:53:04 ID:QyWR3jky
鉛に掘られながら死んだ足軽A
焼き味噌弾で死んだ足軽B
運命の弾を共有した戦場の悲劇だな
だが、彼らの整備していた大砲こそが後々…
権現様が矢弾飛び交う掘りの前で憂愁に耽るわけだ

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/12(土) 22:43:18 ID:kVqRZ+4N
>>769
大坂の陣の時って浅野幸長死んでるんじゃ…
まあ浅野の陣ってことか

上田宗箇さんの、討ち死に、ワンポイントアドバイス!

2009年02月25日 00:14

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/24(火) 18:51:23 ID:v+xCGVxx
いいのか悪いのか書いてて訳が分からなくなったので、あえてこっちに投稿して見る


上田宗箇さんの、討ち死に、ワンポイントアドバイス!


ハーイ!SOKOだヨ!
侍は常に、戦場で討ち死にして首になったときのことを考えておくべきなのは、もう常識だよネ!

そのために大切なのはそう、『月代』!月代の後ろが下がった感じに剃っちゃうあなた!
それはミステイク。
首になったとき、なんだか詫び言をしているような顔になって、とってもかっこ悪いんだゾ!

月代は後ろ高に剃るように。これが首になったときかっこよく見せる秘訣!
そうそう、当然陣中にも剃刀を持参して、合戦の前日には月代をそって首を綺麗にしておくのも
オシャレ武士の身だしなみだゾ☆

この点に注意して、君もかっこいい討ち死にライフをエンジョイしようネ!



※東照大権現より一言
『さすが文武に秀でた古強者、SOKOのアドバイスは完璧だね!
ボクからもう一つ付け加えると、戦場に出るときは、鎧なんかはグっと抑えたものにして、
思い切って兜にお金をかけちゃおう!
討ち取られた時首とセットになるアイテムは兜だけ。首実検の時「この兜から察するに、
この武者はひとかどの者だったのであろう…」なーんて、周りの評価も一気にポイントアップ
しちゃうよ!』




211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/24(火) 19:23:54 ID:4U8LpgOM
>>210
あんた大坂城下で竹藪を物色していた数奇者の……

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/24(火) 21:21:23 ID:fzrGVHGj
>>210
そーなのかー
おれも明日から月代後ろ高に剃るわ

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 13:05:58 ID:fGiSbwt6
>>210
戦国時代のいけてるファッションは
・月代後ろ高剃り
・鎧は質流れのボロでいい 兜はブランド品
・ふんどしはもっこふんどし


こうですか分かり(ry

上記にもう一つ南の国から島津日新斎忠良おじいちゃんからのアドバイスがあるよ
「身分高く名のある武将はな
 戦場にあっても身だしなみを忘れぬ物じゃ
 どんなに過酷な戦場であっても
 眉剃り+眉書き+おはぐろ!!!
 絶対毎日忘れてはならぬ!」
(以上出典「日新菩薩記」(『島津史料集』所収)


・・・上記の話を読んだときから、
私の頭の中では島津一門+その部下は
大河ドラマに出てくる今川義元のように天井眉にお歯黒姿

上田宗箇と大阪の陣・いい話

2008年10月16日 11:17

716 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/25(月) 00:00:19 ID:B9t2JU0x
関ヶ原の決戦によって、西軍に属していた上田宗箇は牢人となった。

しかし、ほどなく家康から罪を許され、宗箇は浅野家に、1万石で仕える事となった。しかし、古田織部の
高弟でもあった宗箇は、武将としてではなく、茶堂として召抱えられた。これは、新たに大領の主となった
浅野幸長が、当時の上流社交の基本である茶道の基礎を、浅野家に打ち立てるために、宗箇のその方面の
才能を必要としたためであったが、それは、浅野家のほかの家臣からの嫉妬と嘲笑を買うことにもなった。
彼らは、

「我が殿はさすがに大身である。茶坊主を万石でかかえるとは。」と、あからさまに宗箇を侮蔑した。

幸長は「気にするな。一旦事あらば大いに働いてくれ」と、宗箇に脇差を与え、我慢するよう言った。
宗箇は「そのときは、この脇差に必ず、血をつけてご恩に報いましょう」と誓った。
浅野家の家中の者たちはそれをも「茶坊主が血をつけようとは。鼠の血か猫の血か」と、さらに嘲った。

やがて、大阪の陣が起こる

和泉国樫井で陣を張っていた浅野家は、大阪より、、勇将、塙団右衛門の部隊が接近との報を聞き、
一旦退却の方針を取った。が、宗箇は
「ならばわしは隠居する。隠居ならば軍令を守る義務は無い。」と、自分の部隊だけそこに残った。
やがて、やってきた塙の軍勢に踊りかかった宗箇の部隊は、先ず団右衛門の胸を槍で一突きに突いて
重傷を負わせ、さらに一気呵成に攻め立て、塙の部隊の武将の一人の首を、先の脇差にて取った。
この攻撃に、大阪方は壊乱した。彼はここにて、浅野家随一の戦功を立てたのだ。
自らの働きを持って、武将、上田宗箇は、自身の面目を保ったと言えよう。


戦後、宗箇は、浅野家家中一同の前で
「さてさて、ここにお集まりのお侍衆の中で、この茶坊主よりも手柄を上げた方はいらっしゃるかな?」
とやって、さらに家中の憎しみを買ったのは、まあ、これはご愛嬌w




717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/25(月) 00:32:53 ID:PZIS9tjA
最後が余計だw

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/25(月) 07:55:54 ID:h4fKZp6z
相当頭にきてたんだろうなw

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/25(月) 08:01:15 ID:WsVaOkwp
明らかに最後の戦乱だったから他の家臣どもは負けっぱなしで終えなければならなかったと。
やりきれんだろうなぁw