327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/28(日) 21:34:38 ID:ahjpanlK
まとめ見てみたら寿桂尼の話が無い・・?
というわけで、ファンタジスタのおばーちゃん。
今日、女戦国大名と呼ばれる寿桂尼。
父は、当時歌人としても知られていた権大納言中御門宣胤である。
戦国時代、夫に代わって出陣したり、夫の留守中に城を守った女性は何人かいたが、
政務まで執った女性は、寿桂尼と播磨赤松氏の洞松院尼くらいだと言われている。
夫の今川氏親は、晩年の10年程は中風を患っていたため、その間、彼女が代わって政務を執り行っていた。
また、氏親死後、長男氏輝が後を継ぐが、氏輝は若年・病弱であったため、さらに2年程寿桂尼が補佐として政務をとった。
義元が家督を継いだ後、義元には雪斎という補佐役がついていたこともあって、
寿桂尼が表に出る必要はなくなり、ようやく彼女も穏やかな日々を送ることが出来るようになる。
この頃が今川氏の黄金時代。城中の女性達と香の遊びに興じたり、近くの湯山に湯治に行ったりして過ごしていたようである。
ちなみに、人質として駿府に来ていた実孫の北条氏規を大変可愛がっていたようで、湯治に行く際には一緒に連れて行っていたりする。
しかし、そんな穏やかな日々が、いつまでも続いたわけではなかった。
永禄3年、義元が桶狭間で織田信長に討たれるにおよび、
孫氏真と共に、今川氏の力を回復するため日夜奮闘しなくてはならなくなった。
そのまま、永禄11年3月に没したが、死に臨んで
「墓を駿府今川館の艮に建てよ」と、遺言したと言われている。
艮は古くから鬼門として知られている。死後も今川氏を守り抜こうとしたのであろう。
こうして、駿府今川館の艮の方角に竜雲寺が建てられた。
しかし寿桂尼の願いもむなしく、同年12月、武田信玄が駿府に侵攻。
今川氏真は駿府を守ることが出来ず、遠江の懸川へ落ちて行くことになったのである。
まとめ見てみたら寿桂尼の話が無い・・?
というわけで、ファンタジスタのおばーちゃん。
今日、女戦国大名と呼ばれる寿桂尼。
父は、当時歌人としても知られていた権大納言中御門宣胤である。
戦国時代、夫に代わって出陣したり、夫の留守中に城を守った女性は何人かいたが、
政務まで執った女性は、寿桂尼と播磨赤松氏の洞松院尼くらいだと言われている。
夫の今川氏親は、晩年の10年程は中風を患っていたため、その間、彼女が代わって政務を執り行っていた。
また、氏親死後、長男氏輝が後を継ぐが、氏輝は若年・病弱であったため、さらに2年程寿桂尼が補佐として政務をとった。
義元が家督を継いだ後、義元には雪斎という補佐役がついていたこともあって、
寿桂尼が表に出る必要はなくなり、ようやく彼女も穏やかな日々を送ることが出来るようになる。
この頃が今川氏の黄金時代。城中の女性達と香の遊びに興じたり、近くの湯山に湯治に行ったりして過ごしていたようである。
ちなみに、人質として駿府に来ていた実孫の北条氏規を大変可愛がっていたようで、湯治に行く際には一緒に連れて行っていたりする。
しかし、そんな穏やかな日々が、いつまでも続いたわけではなかった。
永禄3年、義元が桶狭間で織田信長に討たれるにおよび、
孫氏真と共に、今川氏の力を回復するため日夜奮闘しなくてはならなくなった。
そのまま、永禄11年3月に没したが、死に臨んで
「墓を駿府今川館の艮に建てよ」と、遺言したと言われている。
艮は古くから鬼門として知られている。死後も今川氏を守り抜こうとしたのであろう。
こうして、駿府今川館の艮の方角に竜雲寺が建てられた。
しかし寿桂尼の願いもむなしく、同年12月、武田信玄が駿府に侵攻。
今川氏真は駿府を守ることが出来ず、遠江の懸川へ落ちて行くことになったのである。
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