168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 22:30:22.72 ID:q6HYpvs1
大阪五奉行の一人であった増田右衛門尉(長盛)は、関ヶ原の後、高力左近(清長)へ御預となり、
武蔵国岩槻に置かれた。
増田長盛の息子である兵太夫(盛次)は、大阪冬の陣の折は将軍秀忠の軍勢に加わり
大阪表へ参ったが、戦いにおいて寄せ手の宜しき噂を聞く度に苦い顔をし、少しでも城方の
宜しき情報を聞けば喜悦していたという。
冬の陣和睦の後、駿府城に置いてこの事を徳川家康の耳に入れた者があった。
家康はこの話を聞くと
「それは近頃、奇特なる心入れであるな。流石増田の子だ。」
これだけを言い、何の咎めも無かった。
夏の陣の折も、もし牢人でいるようなら召し出し、親の長盛への監視も緩やかにせよと命じた。
しかし大阪夏の陣で、増田盛次は大阪城に入り秀頼の家臣として、長宗我部盛親の部隊へ入り、
5月7日、藤堂高虎の部隊と戦い、討ち死にした。
親の増田長盛も後日、武州岩槻にて切腹したという。
(駿河土産)
170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 02:16:29.78 ID:5wQcQ5X+
ましたは二重スパイだったという説があるけど、三成寄りというよりは豊臣寄りだったんかな
大阪五奉行の一人であった増田右衛門尉(長盛)は、関ヶ原の後、高力左近(清長)へ御預となり、
武蔵国岩槻に置かれた。
増田長盛の息子である兵太夫(盛次)は、大阪冬の陣の折は将軍秀忠の軍勢に加わり
大阪表へ参ったが、戦いにおいて寄せ手の宜しき噂を聞く度に苦い顔をし、少しでも城方の
宜しき情報を聞けば喜悦していたという。
冬の陣和睦の後、駿府城に置いてこの事を徳川家康の耳に入れた者があった。
家康はこの話を聞くと
「それは近頃、奇特なる心入れであるな。流石増田の子だ。」
これだけを言い、何の咎めも無かった。
夏の陣の折も、もし牢人でいるようなら召し出し、親の長盛への監視も緩やかにせよと命じた。
しかし大阪夏の陣で、増田盛次は大阪城に入り秀頼の家臣として、長宗我部盛親の部隊へ入り、
5月7日、藤堂高虎の部隊と戦い、討ち死にした。
親の増田長盛も後日、武州岩槻にて切腹したという。
(駿河土産)
170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 02:16:29.78 ID:5wQcQ5X+
ましたは二重スパイだったという説があるけど、三成寄りというよりは豊臣寄りだったんかな
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