錦の羽織の大将

2013年11月02日 19:07

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 17:30:55.86 ID:jZSxebqC
大阪夏の陣、八尾・若江の戦いから5年ほど経った頃のこと。
ある日、藤堂高虎家臣、磯野平三郎(行尚)の屋敷を一人の老女が訪ねてきた。
平三郎への面会を求めてきたため、これと対面すると、老女はこのように尋ねてきた

「先年、大阪表での合戦において、あなたは錦の羽織を着た大将を御討ち取りになり、
その差料、銘の付いたものを三腰まで添えて手に入れられたそうですが、それに相違ないでしょうか?」

「その通りである。しかしその大将が誰であったか、未だに名は知れぬ。
そして三腰のうち、太刀は澤田但馬守殿の家臣に、戦場で助けてくれた志への謝礼として与えた。
その他の二腰と錦の羽織は、私が所持している。」

「そうですか…。何卒!その品々を一目見せていただけないでしょうか!」
平三郎は老女があまりに熱心なことを不審に思い

「其方、女の身でありながら武具を見て、どうするというのだ!?」
となじると、老女は涙を流し、言った

「何を隠しましょう。あなたが御討ちになったその大将は、増田兵部(盛次)殿なのです。
私はその兵部殿の乳母でございます。

あの頃、兵部殿は大阪方にお味方されましたが、これを秀頼様は殊の外お喜びになり、
お手で自ら、錦の羽織と二腰の太刀を下され、組下の足軽その他三千人の大将に
仰せ付けられました。
この時、私は女のことですから何のわきまえもなく、兵部殿が元の大将に立ち帰られたように思い、
大喜びしたものです。

そして5月6日の夜中に出陣され、二度と戻っては来ませんでした。

付き添った者達が逃げ帰ってきて、彼らに尋ねても、『平野の近くまでお伴したが、その後は知らない』
と申し、又は平野で討ち死にしたのを見たものがある、とも聞きました。

口惜しく、悲しく、せめて亡骸を見つけ出し弔いたいと思いましたが、女の身であり尋ねに出ることも出来ず、
その日を命日と考え、水を手向け回向をいたしましたが、目当てにすべき墓所もなく、たいへんに
心苦しい月日を送ってまいりました。

ところが、この頃人の噂にて、藤堂様の御家中の磯野平三郎という人が、錦の羽織を着た大将を打ちとったが、
その姓名もわからない、という話を聞きました。これこそ!と思い、ここまで参ったのです。」

平三郎は尋ねた
「それだけでは本当のことかどうか判断できない。その錦の羽織は如何なる紋柄で、何色であったか?」
老女はそれに詳しく答えた。そこで三腰の刀について尋ねると

「太刀は備前兼光、脇添え石船切と銘のある一尺八寸のもの、馬手指し(短刀)は吉光の九寸五分のものです。」
と答えた。

「全て相違無い。今は疑いも無くなった。」
平三郎はそう言うと羽織と刀を取り出して老女に見せた。そして彼女の心底を察し

「これらの内一つ、何であっても望みにまかせ、あなたに遣わそう。」

と言うと、老女は
「この吉光の短刀は、兵部殿がお生まれになった時、父君の右衛門(増田長盛)殿より遣わされた
品です。そのため、兵部殿は常にこれを、身から離さず持たれておりました。
これを私に頂ければ、仏壇に置いて、回向をしたく思います。」

平三郎は老女の望む通りにその短刀を与えた。

この事により、磯野平三郎が大阪夏の陣の折に、増田盛次を討取ったという高名が初めて判明した。
そこで元和五年十月に、追って三百石が加増され都合千石となり、また鉄砲頭を申し付けられた。
(元和先鋒録)




470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 14:31:17.57 ID:KQLn7oWZ
>>468
平三郎って磯野員昌の孫なんだな
石田三成の逃避行に最後までついてったのもこの人
エピソード二つもあって出自もそれなりなのにドマイナー

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 18:36:37.00 ID:f9c0yZEa
>>470
この人もなかなか数奇な運命を辿ってるよね

スポンサーサイト

増田盛次の討死について、『元和先鋒録・附録』より

2010年03月05日 00:09

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 18:15:36 ID:KGjRQfAN
空気読まずにスマン。
まとめ読んでて思い出したんだが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3731.html
増田盛次は藤堂家臣磯野平三郎に討ち取られたわけだが、当初は誰なのか解らなかった。
そこへ増田家に仕えていた老女が噂を聞きつけて尋ねてきた。
老女の話と、その若武者が身に付けていた武具が一致した為、ようやく身元が解った。
磯野は老女に盛次の形見として短刀を与えたと言う。

で、藤堂家でこの一件についてこんな論評があった。

甲「あれほどの勇士なら最初から討死は覚悟してただろうね。
それなのに、武器や甲冑、羽織の裏に名前を書いてなかった。
若いから興奮してて、細かいところまでは気がまわらんかったのかな?」

乙「盛次の立場になってみろよ。父の長盛は幽閉されていたんだぞ。
自分が大坂方について討死したと知れたら、長盛は徳川家に死を命じられる。
だから大坂方へつきながらも名前をだせなかったんじゃね?」

甲「なるほど。親孝行者だなあ。でも、長盛は自殺させられてるし。結局、ばれたんだな」

乙「大坂の陣が起きる以前には真田父子や長宗我部さえ助命されてる。
けど、豊臣が滅亡しちゃえば、もうジャマものはない。長盛やっちゃっても誰も文句いう奴はおらんからな。
ぶっちゃけ息子が大坂へ入城しようがしまいが殺されてたと思うよ。
そのあたりは若い盛次には読めなかったんだろうね。でも父を思う心は尊敬するよ」

『元和先鋒録・附録』より。多分、記録者の論評。