84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 14:16:29 ID:7lauRvrC
ROMるばかりじゃなくてたまには自分でも書いてみようと思った。
雑賀孫一という名前はここを見ている諸兄ならご存じだと思う。
雑賀衆の頭目で、石山合戦では本願寺に助力して織田軍を苦しめたとされる人物である。
紀伊雑賀衆に関する文献が少ないこともあり、それ以外の来歴はあまりはっきりせず、
一応今では『鈴木孫一重秀』が本名とされているが、以前には重意、重元、重治など本名は
いくつかの説があった。
さて、かつて雑賀孫一であろうと言われた人物に、孫一重秀の弟とも息子とも言われ
伊達家および水戸徳川家に仕えた鈴木孫三郎重朝という人物がいる。
水戸徳川家の史料である水府系纂に拠ると、彼の履歴は文禄元年の肥前名護屋城駐屯から
始まっているのでとても孫一とは言えないのだが、何故孫一候補に名前が挙がったかというと
どうも水戸の鈴木家は「我が家こそ雑賀孫一の後継である」としたかったらしく、
「我が家の当主が代々雑賀孫一」と自称した上に他に孫一を名乗れるような人物を
重朝の係累として系図に取り込んでしまったのである。
例えば重朝と同時期に紀伊徳川家に仕えた鈴木孫三郎某という人物がいるのだが
彼も重朝の弟として家系図に取り込んだりしている。
両方成人した兄弟同士が同じ名前と言うことはあり得ない事であるし、水府系纂より前に
編纂された新補水城実録には彼の記述は全く無い。
古いものにある記述が新しいもので省かれることはあってもその逆は中々あり得ない事を考えると
これも家系図の工作に因るものだろう。
鈴木家のちょっと外聞の悪い話し
ROMるばかりじゃなくてたまには自分でも書いてみようと思った。
雑賀孫一という名前はここを見ている諸兄ならご存じだと思う。
雑賀衆の頭目で、石山合戦では本願寺に助力して織田軍を苦しめたとされる人物である。
紀伊雑賀衆に関する文献が少ないこともあり、それ以外の来歴はあまりはっきりせず、
一応今では『鈴木孫一重秀』が本名とされているが、以前には重意、重元、重治など本名は
いくつかの説があった。
さて、かつて雑賀孫一であろうと言われた人物に、孫一重秀の弟とも息子とも言われ
伊達家および水戸徳川家に仕えた鈴木孫三郎重朝という人物がいる。
水戸徳川家の史料である水府系纂に拠ると、彼の履歴は文禄元年の肥前名護屋城駐屯から
始まっているのでとても孫一とは言えないのだが、何故孫一候補に名前が挙がったかというと
どうも水戸の鈴木家は「我が家こそ雑賀孫一の後継である」としたかったらしく、
「我が家の当主が代々雑賀孫一」と自称した上に他に孫一を名乗れるような人物を
重朝の係累として系図に取り込んでしまったのである。
例えば重朝と同時期に紀伊徳川家に仕えた鈴木孫三郎某という人物がいるのだが
彼も重朝の弟として家系図に取り込んだりしている。
両方成人した兄弟同士が同じ名前と言うことはあり得ない事であるし、水府系纂より前に
編纂された新補水城実録には彼の記述は全く無い。
古いものにある記述が新しいもので省かれることはあってもその逆は中々あり得ない事を考えると
これも家系図の工作に因るものだろう。
鈴木家のちょっと外聞の悪い話し
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