65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 01:44:58 ID:cLj65MRj
伊達政宗の家臣といえば・・・
片倉景綱・伊達成実・鬼庭綱元の伊達三傑や
白石宗実・後藤信康・原田宗時の勇将3人なんかが有名だけど
伊達家中の中に彼らに劣らない勇将がいた。
山岡(志摩)重長
彼は戦国時代に国際結婚した人物である。
文禄元年(1592)、豊臣秀吉による大陸遠征「文禄の役」
伊達政宗は他の武将を救援のため梁山、蔚山(うるさん)、金海、晋州まで転戦していた。
伊達軍野営の中、黒武者が一騎で切り込んできた。
伊達の猛将、山岡重長(当時、小成田総右衛門)が騎馬武者を組み伏し兜をはずすと
色白の頬に血を上らせた若き美しい女性であった為困惑してしまった。
この女性、名をチューマといい釜山浦の部族の皇女だった。
伊達軍は高麗姫(チューマ姫)を丁重に扱った事により現地より
糧食の差し入れで将兵を喜ばせ交流を深めた。
又伊達軍は逃げ遅れた童子を保護し育て、宮城県北部の開拓に功した。
チューマ姫をはじめ高麗の主従は政宗に従い奥州に移り住んだ。
66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 01:46:37 ID:cLj65MRj
65つづき
重長は最愛の妻を亡くしてから妻を迎えず、奉行(家老)として外交など公務多忙の日々を送る。
慶長六年(1601)仙台に青葉城が完成した折、チューマ姫との再会を果たした。
この時、チューマ姫は20代中頃、重長は白髪が目立つ五十路
周りからは「チューマを妻に迎えてはどうか?」と勧められることがあったが
重長は自身の年齢に加え、亡き妻への想いもあり妻を新たに迎えることは考えていなかった。
重長のことを心配していた政宗・愛姫夫婦から
「チューマはそちを慕っておる。残りの人生面倒を見てもらうのもよいのではないか?」
と再婚を勧められる。
新築間もない仙台城大広間にて政宗・愛姫夫婦自ら媒酌を努め、
伊達家の重々一門をはじめ重臣達が喜びの縁を祝した。
後に重長夫婦は政宗の四男宗泰の傳役として岩出山城代となる。
重長・チューマの夫婦仲は睦まじく、
政宗のみならず徳川家康からも事あるごとに賛美され「白鷺の陣羽織」を下賜された。
二人の間に子供は無かったが、重長は愛妻チューマの入れてくれる茶をすするを楽しむ日々。
朝夕、杖をついて寄り添って領内を廻る姿は家士や領民達の間で評判になっていた。
これを伝え聞いた政宗は「夫婦とはかくありたいものよ・・・・」側近につぶやいたと言う。
67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 01:48:28 ID:cLj65MRj
65つづき
時は経ち・・・
寛永3(1626)年
長年の奉公に対して政宗から謝意を表され
「下戸のそこもとでも飲めるであろう・・・チューマと一緒に飲むがよい」と
南蛮渡来のワインを渡された。これが重長・政宗主従今生の別れと成った・・・
愛妻チューマとワインを交す重長の顔は幸福で満面の笑みであった。
下戸でもある重長は珍しく深酒をし縁先で寝姿のまま・・・
生真面目で武骨な人生を終焉していた。
チューマは身動きしない夫を不審に思い、事を知り嗚咽が漏れた。
その最愛成る夫・重長が全てのしがらみから解き離れたのを知り、
綺麗に着飾り、自らの意思で夫の後を付き添った・・・
夫・重長の側に綺麗に着飾ったチューマ姫が横たわっていたと伝えられている。
元高麗の皇女チューマ姫は日本に付き従ってきた高麗人の心の支えとなり、
高麗人達は仙台藩の興業の発展、領地の開発に尽力した。
チューマ姫は遠く離れた異国の地に唯一頼れるのは優しさに満ちた夫・重長だけであった。
又、山岡重長も異国の女性のストレートな感情に憂いを感じていたかもしれない。
後世の句に
「現(うつ)し世の まことのちぎりは
天(あま)の郷(くに)の 夢のまた丘に咲く」
翻訳
(何時の世においても、お互いを信頼、助けあって生き抜いた男女は
天国へ行っても仲慎ましく皆に幸せと分かち合う)
山岡重長・・・
一夫多妻が当然の様に行われていた戦国時代。
戦乱を生き抜いた武骨で実直な男は側室を娶らず、
終生二人(前妻とチューマ)の女性のみを愛し続けた男
天国で重長は前妻・チューマ姫と仲睦まじく談笑していることだろう・・・
68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 03:48:40 ID:GxA8QN5d
いい話だ(つД`)
なのに「死因は政宗のワインか」と思ってしまってぶち壊しにorz
69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 04:01:20 ID:Xm6HlQsu
>>68
政宗が毒殺したみたいに見えるよなww
重長の前妻は名前残ってないの?
70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 04:44:35 ID:K3uU2JHc
ちょっと前に張られてたあの画像を思い出したw
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 07:38:03 ID:rAsKaV9E
>>68
つくづくタイミングが悪い男だww
80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 12:57:39 ID:DeIWjM8U
>>65-67
うちの娘が韓国人留学生と結婚したいと言い出したんだが…許してやろうかな、うっ
119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 02:24:34 ID:6JuHVBsA
>>67
若い身空で夫に準じた伊達家チューマ
一方、薩摩チューマは殿が死のうが嫁が死のうが生き続けた関ヶ原サバイバー
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-158.html
「そもそもせっつがはらともうすは、、、、、せっつがはらともうすは。。。(´Д⊂゜・ウワァ--ン」
伊達政宗の家臣といえば・・・
片倉景綱・伊達成実・鬼庭綱元の伊達三傑や
白石宗実・後藤信康・原田宗時の勇将3人なんかが有名だけど
伊達家中の中に彼らに劣らない勇将がいた。
山岡(志摩)重長
彼は戦国時代に国際結婚した人物である。
文禄元年(1592)、豊臣秀吉による大陸遠征「文禄の役」
伊達政宗は他の武将を救援のため梁山、蔚山(うるさん)、金海、晋州まで転戦していた。
伊達軍野営の中、黒武者が一騎で切り込んできた。
伊達の猛将、山岡重長(当時、小成田総右衛門)が騎馬武者を組み伏し兜をはずすと
色白の頬に血を上らせた若き美しい女性であった為困惑してしまった。
この女性、名をチューマといい釜山浦の部族の皇女だった。
伊達軍は高麗姫(チューマ姫)を丁重に扱った事により現地より
糧食の差し入れで将兵を喜ばせ交流を深めた。
又伊達軍は逃げ遅れた童子を保護し育て、宮城県北部の開拓に功した。
チューマ姫をはじめ高麗の主従は政宗に従い奥州に移り住んだ。
66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 01:46:37 ID:cLj65MRj
65つづき
重長は最愛の妻を亡くしてから妻を迎えず、奉行(家老)として外交など公務多忙の日々を送る。
慶長六年(1601)仙台に青葉城が完成した折、チューマ姫との再会を果たした。
この時、チューマ姫は20代中頃、重長は白髪が目立つ五十路
周りからは「チューマを妻に迎えてはどうか?」と勧められることがあったが
重長は自身の年齢に加え、亡き妻への想いもあり妻を新たに迎えることは考えていなかった。
重長のことを心配していた政宗・愛姫夫婦から
「チューマはそちを慕っておる。残りの人生面倒を見てもらうのもよいのではないか?」
と再婚を勧められる。
新築間もない仙台城大広間にて政宗・愛姫夫婦自ら媒酌を努め、
伊達家の重々一門をはじめ重臣達が喜びの縁を祝した。
後に重長夫婦は政宗の四男宗泰の傳役として岩出山城代となる。
重長・チューマの夫婦仲は睦まじく、
政宗のみならず徳川家康からも事あるごとに賛美され「白鷺の陣羽織」を下賜された。
二人の間に子供は無かったが、重長は愛妻チューマの入れてくれる茶をすするを楽しむ日々。
朝夕、杖をついて寄り添って領内を廻る姿は家士や領民達の間で評判になっていた。
これを伝え聞いた政宗は「夫婦とはかくありたいものよ・・・・」側近につぶやいたと言う。
67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 01:48:28 ID:cLj65MRj
65つづき
時は経ち・・・
寛永3(1626)年
長年の奉公に対して政宗から謝意を表され
「下戸のそこもとでも飲めるであろう・・・チューマと一緒に飲むがよい」と
南蛮渡来のワインを渡された。これが重長・政宗主従今生の別れと成った・・・
愛妻チューマとワインを交す重長の顔は幸福で満面の笑みであった。
下戸でもある重長は珍しく深酒をし縁先で寝姿のまま・・・
生真面目で武骨な人生を終焉していた。
チューマは身動きしない夫を不審に思い、事を知り嗚咽が漏れた。
その最愛成る夫・重長が全てのしがらみから解き離れたのを知り、
綺麗に着飾り、自らの意思で夫の後を付き添った・・・
夫・重長の側に綺麗に着飾ったチューマ姫が横たわっていたと伝えられている。
元高麗の皇女チューマ姫は日本に付き従ってきた高麗人の心の支えとなり、
高麗人達は仙台藩の興業の発展、領地の開発に尽力した。
チューマ姫は遠く離れた異国の地に唯一頼れるのは優しさに満ちた夫・重長だけであった。
又、山岡重長も異国の女性のストレートな感情に憂いを感じていたかもしれない。
後世の句に
「現(うつ)し世の まことのちぎりは
天(あま)の郷(くに)の 夢のまた丘に咲く」
翻訳
(何時の世においても、お互いを信頼、助けあって生き抜いた男女は
天国へ行っても仲慎ましく皆に幸せと分かち合う)
山岡重長・・・
一夫多妻が当然の様に行われていた戦国時代。
戦乱を生き抜いた武骨で実直な男は側室を娶らず、
終生二人(前妻とチューマ)の女性のみを愛し続けた男
天国で重長は前妻・チューマ姫と仲睦まじく談笑していることだろう・・・
68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 03:48:40 ID:GxA8QN5d
いい話だ(つД`)
なのに「死因は政宗のワインか」と思ってしまってぶち壊しにorz
69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 04:01:20 ID:Xm6HlQsu
>>68
政宗が毒殺したみたいに見えるよなww
重長の前妻は名前残ってないの?
70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 04:44:35 ID:K3uU2JHc
ちょっと前に張られてたあの画像を思い出したw
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 07:38:03 ID:rAsKaV9E
>>68
つくづくタイミングが悪い男だww
80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 12:57:39 ID:DeIWjM8U
>>65-67
うちの娘が韓国人留学生と結婚したいと言い出したんだが…許してやろうかな、うっ
119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 02:24:34 ID:6JuHVBsA
>>67
若い身空で夫に準じた伊達家チューマ
一方、薩摩チューマは殿が死のうが嫁が死のうが生き続けた関ヶ原サバイバー
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-158.html
「そもそもせっつがはらともうすは、、、、、せっつがはらともうすは。。。(´Д⊂゜・ウワァ--ン」
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