支倉遣欧使節団・スペインに残った武士についての、その後

2013年01月27日 18:56

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/26(土) 20:34:27.39 ID:J0oJwCr2
伊達政宗の派遣した、支倉常長の支倉遣欧使節団には、支倉と共に帰国せず、そのままヨーロッパに留まった者もあった。
その一人で、支倉とともにフェリペ3世の宮廷で受洗した武士、ドン・トーマス・フェリーペについて、1622年の記録が、
スペインに残っている

『私、ドン・トーマス・フェリーペは、日本の(支倉)使節と共にこの宮廷に来た日本の武士であり、キリスト教徒に成りました。
陛下(フェリペ4世)の、今は上の御元におられる御父陛下(フェリペ3世)は、その姉妹、極めてキリスト教的フランス王妃
と共に我が洗礼の代父母になって下されました。

サフラ在住のディエゴ・ハラミーリョは、私トーマスが彼に仕えていた時、私が奴隷身分でないにもかかわらず。
(奴隷の印である)焼印を私に押しました。これは、私トーマスが給与の支払を求めたためなのです。

この侮辱に大して正義が行われるよう、陛下に嘆願申し上げます。
また、日本への帰国の自由と許可をくださるよう、陛下にお願い申し上げます。
何故ならば神の恵みによって、私は自由人にしてキリスト教徒だからなのです。

以上の請願をお聞き届けいただけるのなら、喜びと感謝に絶えません』
(1622年 ドン・トーマス・フェリーペよりの請願書 A.I.G.,Indif.1452.))

これに、スペイン宮廷のインディアス枢機会議は、1622年9月26日の会議において、彼に帰国許可を与え、
翌1623年6月7日、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)艦隊によって、「ドン・トーマス・フェリーペ、日本人」を、
彼が来た地に向けて送り返した、と記録されている。
(A.I.G.,Contrat.5539,vol.Ⅱ,f.368r.)

スペインに残った武士についての、その後の記録である。




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支倉使節団、マドリードの宿泊先

2013年01月20日 19:02

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 13:57:12.00 ID:VMIu7Y9O
伊達政宗によって派遣された、支倉常長をリーダーとした慶長遣欧使節団。
さて、この遣欧使節団がヨーロッパでどのように受け入れられたか、スペインの
記録を見てみよう

『マドリードの同村のフランシスコ会修道院とその院長は申し立てます。
日本使節が当宮廷に来た際、彼らのマドリード到着のわずか数日前に、インディアス枢機会議議長が
院長を呼びに人をよこしました。この日本使節を修道院に宿泊させるべし、とは陛下(フェリペ3世)の
賢明なる命令であると、議長は言われました。

その頃、宿坊と僧坊は大変窮屈な状態では有りましたが、陛下の御ためになることであるので、
使節と彼に従う30人の日本人を受け入れ、使節に心から、喜んで仕えました。

修道院は8ヶ月以上に渡り、階下と病室と、そして他の僧坊を彼らの宿泊に使用させました。
それらの部屋はすべて、本来、老齢で病の修道士をいたわり、養生させる所でした。
この間、多くの者がこの修道院を去りましたが、そのかなりを死亡者が占めます。
居室が不足していたため、老病の者たちを養生させるのに極めて不便だったためです。

この修道院のいたるところにあの蛮人(日本人)が居るので、我が国の者達が絶えず見物に来て、
その数は無数であり、彼らによって破損された箇所の修理もできない有様で、たいへん大きな混乱と
無秩序の原因となり、この修道院ではそれが常態にすらなりました。

ですが陛下の御ためになることであるので、彼らが宮廷を退くまで我々は、忍耐して全てを
耐え忍んできました。しかし彼らは、宿泊していたこれらの僧坊を荒らし、破損したままに
して行きました。それゆえ、それらを修理し、以前のように戻すためには、修道院の管理者は
非常に多くの金子を費やさねばならない程などです。』
(ヴィーリャ・イ・コルテ修道院による覚書)

さて、ここにある「宿泊していたこれらの僧坊を荒らし、破損したままにして行きました」とは
どういう事か?これも記録が残っている

『日本人が使節を奉ずるために宮廷に上がった日のことを証言する。
彼ら(日本人)は、宿泊所に当てられたフランシスコ会同修道院の僧坊に鍵を残していった。
そのため、留守中に一室が開けられ、刀や他のものが盗まれた。
盗まれたものの中には、寝台に敷いていた麻の敷き布三枚があった。
それは陛下が下賜されたものであったが、敷き布の持ち主に、代金が払われていなかったからである。
以上は真実であるので、私はここに、本日1615年4月、署名する。』
(フライ・イグナシオ・デ・ヘスースによる証言)

と、使節団が宮廷に上がっている間に略奪を受けた模様なのであるw
これによって修道院は大いに荒らされたのだ。

以上、支倉使節団を受け入れたスペインはマドリードの宿泊先での記録である。





233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 15:34:01.90 ID:B7czfvlc
>>224
スペインの民度が低過ぎってことしかわからない

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 15:53:55.86 ID:qC4l2zOU
>>224
これ使節団のせいじゃないよね
指定した宿泊先に泥棒が入るってフェリペ3世の威光が行き届いてないんじゃ

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 16:09:10.57 ID:++PBvWax
>>224
これはひどい
野次馬が建物をぶっ壊すわ接待した側が逆恨みするわ

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 17:52:33.11 ID:bH2vIChk
しかも謁見したフェリペ3世に跪いて手に接吻しようとしたら手引っ込められたとか…
後にクリスチャンに改宗したらやっと受け入れてもらえたり

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 19:54:49.40 ID:Up3jsjfM
んで、やっと日本に帰って来たら禁教令で厄介者扱いで。

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 22:40:50.22 ID:qC4l2zOU
しかも家臣がキリシタンだったせいで息子が処刑
可哀想なくらいツイてない

支倉使節団とラテン女・悪い話

2008年12月23日 00:00

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/22(月) 23:00:01 ID:MAjscHCK
アメリカで思い出したが支倉使節団がアメリカ大陸にあるメキシコ経由でスペインに行ったが帰ってきたのは
二十数名中半数だけだった
その大多数は長旅による病ではなく現地の女に溺れて
家庭を作ってしまったため日本への帰省を拒否したからだとか
その影響でメキシコにはそのときの日本人の子孫が住む町がありスペインにはJAPONという姓が生まれた…
ラテン系の女は昔から凄かったんだろうか?女癖の悪い話



554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/22(月) 23:18:59 ID:IvBtJkC9
>>553
朝鮮の役の時の「沙也可」も、朝鮮に投降した理由が「現地に家庭を持ったから」だったなあ。
むしろ日本人に現地に溶け込みやすい何かがあるのかもしれないな。

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/22(月) 23:51:01 ID:hqIEygtQ
一年以上もいれば情も移るかも

556 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/22(月) 23:55:09 ID:5bYHOul9
♪どぉこぉか 遠くへ いぃきぃたぁあい~

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/23(火) 00:18:42 ID:FxRkBikI
>>553
それなんて佐藤賢一…というか
ハポン姓は複数の説があるから言い切れないけど、メキシコにいついた人も多かったみたいね。
ただしエロとかうんぬん以前に、旅がつらくてリタイアした面々も多かったみたい。

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/23(火) 00:26:20 ID:0eSpodTC
第二次大戦中にも逃亡や負傷中のドイツ兵をかくまって
戦後そのまま結婚したロシア女性が結構いたらしい

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/23(火) 00:59:13 ID:FxRkBikI
シベリア抑留中にソ連女性とできた日本人も結構いたんだよな。