無残! 修験者抗争・悪い話

2009年02月13日 01:02

宥源   
887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/12(木) 21:56:06 ID:KcrRc00Q
宗教つながりで素朴そうな山伏もやるこたやってるぞネタ。

無残! 修験者抗争

出羽三山のひとつ・羽黒山も戦国末期には衰退の一途をたどっていた。
関ヶ原後、最上義光は復興行うも、僧侶同士で対立が起こる。
はじめは義光の三男・清水義親と懇意の尊量が幅を利かせ、敵の宥源を仙台へと
追放した。
この騒ぎの最中、修験者から藩主すら呪術をかけられ一時期危篤となったともいう。
復興に協力した殿様を呪うのだから、羽黒の修験者、容赦がない。

義光死後、義光二男・家親が当主となると宥源は彼にとりいり、
羽黒に復帰する。そして敵対した尊量をおいつめた。
と、はじめのうちこそ意気軒昂だった尊量はあっさり切腹することになった。
一体何故だろうか?

というのも、宥源は宿敵である彼を山伏の掟による
「石子積み」にすべく運動を始めていたからなのだ。
この刑罰、穴をほって中に処刑者を首まで埋め、そこに修験者や信者が拳大の
石をもって集まる。そして念仏を唱えながら次々と石を投げつけていく。
これで即死できればいいが、死ねないとそのまま放置プレイというおそろしい
ものだった。尊量はこれにおびえ、せめて罪一等減じて切腹にしてくれ、と
懇願したのである……。この後、宥源のもと出羽は一山をあげて
復興に取り組むことになる。その前に起きた修験者同士の生々しい抗争事件であった。

ちなみに最上氏のあと山形藩に入った鳥居忠恒は、
若くして亡くなり嗣子なきため断絶となる。
彼の政治に反感をもつ民が多かったためか、彼が亡くなったとき
「修験者に呪い殺されたのだ」という噂もまことしやかにたった、ともいう。
山形藩は領主交替が激しい藩であるが、その裏にはもしかして
オカルトな理由があったのかもしれない……。




923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/13(金) 19:34:18 ID:V0o+0raM
>>887
>「石子積み」にすべく運動を始めていたからなのだ。
>この刑罰、穴をほって中に処刑者を首まで埋め、そこに修験者や信者が拳大の
>石をもって集まる。そして念仏を唱えながら次々と石を投げつけていく。

イスラームに同じ処刑方法があるな
向こうは姦淫の罪だかで地面から首だけ出した状態で頭に布袋をかぶせて
死ぬまで石をぶつけられるらしいが
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