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竹束の仕寄

2018年12月10日 18:44

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 17:48:12.50 ID:ldA590QC
関ヶ原戦役における伏見城の戦いに、金吾(小早川)秀秋の先手である松野主馬、平岡石見、彼らは
一万石づつ知行していた。

彼らは先手として城に向かって仕寄(城攻めのための構造物)を築いたが、松野主馬の仕寄の竹束は、
城内よりの火矢にて焼き立てられた。この様子に坂崎出雲は「城内より激しく防がれ、仕寄の構築は難しい。
暫く様子を見てから竹束を付けよう」と言った。

しかし村上三右衛門、その頃は宇右衛門と言ったが、彼は
「この竹束の焼け跡に、もう一度竹束を付けずに引くということ有るべきか!」と、直ぐにまた竹束を
付けさせ、松野と相談して、竹束の上に、防火のため壁の下地と成る土を塗るべきだという事になり、
「外に出るのを遠慮したいという衆は内にて土をこねられよ!外に出るという衆は、出て壁の下地を
塗るように!」と呼びかけた。

松野主馬の組より八人が出て壁の下地を塗った。その他歴々の侍も皆土をこねた。そこで主馬は
「組の足軽共のうち、この土を塗った者は、中間凡下の者であっても侍に致す!」と宣言したところ、
中間足軽の内8,9人出て壁を塗った。それ以後、竹束の仕寄は焼けなかった。
(士談)

ボク「もしや最初から土を塗った竹束を用意しておけばよかったのでは。」


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大将がこのように傾いては

2018年01月23日 17:09

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 00:13:15.55 ID:XYFiAA4T
関ヶ原の役、西軍による伏見城攻めの時、惣郭はたやすく破れたが、本丸において激しい抵抗が
行われた。ここで小早川秀秋重臣の松野主馬が、一人立って下知をし、そこに向かって城より矢弾が
雨のように降り注いだ。

瀧権右衛門という者、主馬の振る舞いがあまりに傾き、猛々しいと、両手で主馬を
押し据えた
「大将がこのように傾いては、諸卒にも手負いが多く出ます!」

ところがこの時、主馬を押さえつけていた瀧の両手に銃弾が当たり負傷した。
しかし主馬に当たることは無かった。

(士談)



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 07:36:00.58 ID:yWfCI47D
>>587
これはどっちか言うと悪い話のような…

いつの時代も上司が妙に張り切りすぎると部下が割をくうんだなあ

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 07:51:42.48 ID:5r6YpFWm
蒲生氏郷「せやな」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 17:07:51.52 ID:jffKaeJ3
かぶくのを悪く言う奴にはバチが当たるいい例

関ヶ原の松野主馬・いい話

2008年10月16日 11:25

765 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/27(水) 14:55:52 ID:WpZrE5MP
食い気の話から無骨者の話。
関が原の合戦で小早川秀秋が4時間も悩んで、あげく大砲を打ち込まれて決心した、
という話が通説になっているが・・・

一番備を勤めた松野主馬、裏切りのことは極秘ゆえ事前に知らされてはいなかった。
そこに「西軍を攻撃せよ」命令が届く。
彼は激怒して「最初から東軍に属するならともかく、今に至って裏切るなど、そのような軍法はない」
と自軍をガッチリ固め、味方に対して壁をを作った。
小早川軍の動きを封じてしまったのだ。
再三の説得にも応じず時間は過ぎていく。
「主君の命を聞かないことこそ裏切りだ」と言われ、
それならばと自軍を引き連れて戦場を去って行ってしまった。
それでやっと小早川軍は動くことができた。

戦後小早川家を出奔したが田中吉政に3万石で召抱えられ、
晩年は本多能登守から500石を給され道栄と名のり安楽に余生を送る。