久世但馬守の反乱

2010年01月07日 00:03

502 名前:1/2[sage] 投稿日:2010/01/06(水) 00:09:47 ID:Oe5gUBV5
松平秀康が死んで、間もなくのことである。

越前松平家家臣、久世但馬守は元は佐々成政の家臣であり、その後秀康に仕えた。

同じく越前松平家に仕える伊木左衛門という侍があった。彼は元々関東の人間で、
算術に巧みであり、越前家において勘定奉行を任されていた。

ある時久世の領地の百姓が、伊木の領地の百姓から妻を娶ったことがあった。
ところが何事かあったのか、伊木領の百姓たちが久世領におしかけ、その女房を
取り戻す、と言う事件があった。

久世はこの事を大変に憤り、鷹師の某と言うものを使い、連れ戻しに押しかけた伊木領の百姓を
闇討ちにした。

伊木左衛門は、自分の領民が殺されたこの事件に驚き、独自に捜査をしたが、
犯人の目星は付かなかった。
そうしているうちに、先の鷹師が犯人である、と言う噂が世間に流れた。これを伊木は
取調べようとしたが、その前に、これも秀康に取り立てられた竹島周防守と言う者が、
密かに手の者を出してこの鷹師を殺させ、遺骸も埋め立てた。

鷹師が行方不明になったことに伊木はさらに不信の念を強め、ついに、この事件に関する
情報を伝えたものに賞金を出すと触れた。

この時、久世但馬の家来に堀内新三郎と言うものがいたが、これが賞金に引かれ、
伊木の元に申し出た

「伊木様の百姓を殺したのは、久世但馬の指図です!」

又同じ頃、竹島周防守の徒士に、罪を言われ逐電したものがあったが。これも伊木の元に
逃げ込み、鷹師を竹島の手の者が殺したことを暴露した。
これにより伊木は、自領の百姓を殺したとして、久世但馬を正式に告訴した

久世は伊木の元に密告があったことを知らなかったため
「証拠もないことを言われても困る」と、取り合わない。

ところが、伊木の元から証人が出、さらに鷹師の埋められた場所まで言い当て、
実際にそこから死体が出てくると、久世はもはや言い逃れることも出来なくなり、
自分の屋敷に籠り籠城の構えを見せた。この事件、いよいよ合戦へと発展したのだ。

越前家では、久世は歴戦の武功の者であり、容易く討つ事は出来ないと、しっかりと準備をして
討伐に向かった。
やがて大手には多賀谷左近、裏口からは吉田修理、落合主膳などが軍を集結、一斉に乱入すべく
屏を乗り越えんとした。

しかし久世但馬はかねてから屏の内側にも高もがりをゆわせてあり、これに引っかかった兵を
次々と鉄砲で撃たせた。
自身は邸内に物見の小櫓を作らせそこから四方を見て下知をしていたが、ついに兵が
屋敷の中に侵入すると、もはやこれまでと、屋敷に火をかけ自害して果てた。

寄手にも多くの被害が出たが、これは久世但馬が、普段人使いが荒く家来から嫌われていたにも
かかわらず、それでも「この期に及んで逃げ出すことは出来ない」と、皆とどまって抵抗した
故だと言う。
久世がかけた火は、他に延焼する前に無事、鎮火された。



503 名前:2/2[sage] 投稿日:2010/01/06(水) 00:10:45 ID:Oe5gUBV5
さて、この事を知った駿府の徳川家康は、越前家の家老たちを呼び出し報告をさせ、
その一部に、秀康の死後早々家中を混乱させ、合戦にまで自体を悪化させた責任をとらせた。

さて、この時あの鷹師を暗殺させた竹島周防守も駿府に召喚された。
「お主はなぜ、久世但馬に一味したのか?」

竹島、申し上げるに
「私は但馬とは何の繋がりも無く、また友達付き合いをしていたわけでも有りません。
ただ私には、秀康様の御重恩があった故に、この度の事を行ったのです。

秀康様はご生前、良くこの様に言っておられました。

『私には越前を拝領して、嬉しい事が二つある。一つは北陸道の大名にしてもらい、実に良い城を
頂いたこと。
もう一つは、佐々成政秘蔵の臣として知られた久世但馬を我が家に迎えたことだ。

久世はかつて成政の家臣たちを取りまとめていた男で、成政のさらさら越の時、その家臣一人残らず
成政に付いて行くと言った。困った成政は、それならば久世但馬を残すと言ったところ、皆も、
但馬が残るなら我らも残るとして、皆留まったほどだそうだ。これほどその人間の確かさが
解る話はあるまい。また、鳥越の合戦での働きも、世の人皆知るところである。
このような男を望むままの領地を与えて家臣に出来た事、これほどの大慶があるだろうか?』

秀康様ががここまで思われていた但馬を、少しの事で、その身上破滅させてはお家のために
よろしくない。あの鷹師を殺しさえすれば別状はないだろう。そう思ってやった事なのです。
彼に親しみがあって行ったことでは、決してありません。」

家康は竹島の、その志に感じ入り、「罪を許し、前と同じように召し使われるように図ろう。」
と言ったが、

「一度縄目を受けたと同じ囚人の立場になった以上、再び御奉公するなど、私の本意ではありません。」

この様にそれを断ると、駿河、丸子において切腹して果てた、とのことである。




504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/06(水) 00:57:09 ID:TKz8zQ8p
>ある時久世の領地の百姓が、伊木の領地の百姓から妻を娶ったことがあった。
>ところが何事かあったのか、伊木領の百姓たちが久世領におしかけ、その女房を
>取り戻す、と言う事件があった。

鷹師殺す前になぜここをしっかり詳らかにしなかったのかと・・・

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/06(水) 12:36:41 ID:bIyLHG1K
露見して台無しになったけど、あくまで闇に葬り穏便に済ますつもりだったんだろうな
悪い意味で日本的

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/06(水) 13:31:04 ID:sqvCnYm8
そだな、取り繕って終わりにしようとしたら破綻したって感じだな。

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/06(水) 13:39:03 ID:JAYRqitJ
風通しをよくするために、時には空気読めない人も必要かも。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/06(水) 14:52:32 ID:uVtcBN0b
おいおい、空気読めよ、ここは殿様が自分より先に通るなといった橋だぜ?

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末森城攻防戦、後日談・悪い話

2009年03月30日 00:02

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 17:36:34 ID:c616FHnA
前田家家臣奥村永福が末森城で妻共々奮戦した話は有名
が、実際の戦はこれで終わっていないのである

佐々成政軍は突出と後退を織り交ぜ前田軍に追撃の隙を与えなかった
前田軍は追撃に度々失敗し結局は佐々軍本隊を逃す大失態を演じている
逆に久世但馬守率いる一隊がかつての一向一揆の激戦地、鳥越城を奪取し前田軍の侵攻を阻んだのである
佐々成政は秀吉軍本隊接近であっさりと降伏したと思われがちだが実際は前田利家と泥沼の消耗戦を繰り広げていた
事実この鳥越城、数倍の前田軍相手に秀吉の富山仕置まで一年近く保ちこたえた
佐々成政降伏後、久世但馬守も開城して牢人となったが越前に入封した結城秀康の家臣となった
秀康死後に越前騒動(久世騒動)に名が残る事からも久世但馬守は有能であったようだ

前田家の文書では末森城以後富山仕置までの話はスルーされている
もちろん主な小説や大河ですらスルーされた
大藩加賀藩の藩祖が小勢に手こずった事実を隠すかの様に

勝者の歴史、その陰の話




284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 18:21:20 ID:Rkh/mFwB
佐々軍はさっさと進軍したんだな。

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 18:26:31 ID:Su2M0lKK
前田に追撃されてりゃ当たり前だ

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 18:34:56 ID:YCtA8wVP
2発続けてコメントしにくいレス書くなよw

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 18:56:39 ID:kg5Ou1DT
川相さん帰りますよ(AAry

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 19:35:01 ID:hV3sgwva
>>287
井端乙