そしてほのかに笑った

2017年04月05日 21:37

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/04(火) 19:26:50.38 ID:THk/5NjF
足利義政の弟である足利義視は、義政の後継者とされていたものの応仁の乱で義政と対立し、
乱後、美濃にて逼塞。後に鈎の陣で9代将軍義尚が没した後、息子義材と共に都へ戻ったが、
義政はその死の直前まで義視に対面を許さなかった。

義政の没後、その葬儀が等持院にて行われた際、義視は参列した高僧たちに嘆いた

「人の世において仲のいい兄弟といえば、私と東山殿(義政)であった。だが我々の間に様々な人が
介在し色々なことを言ったため、近年では相隔たる関係に成ってしまったのだ。」

これを聞いた高僧の一人が語った

「かつて義視様が美濃国におられた頃、京都五山に、美濃に住むある禅僧を、建仁寺と南禅寺の
住持に任ずるよう要請されたことがありました。

しかし五山の僧たちは、この禅僧が未だ住持に就任するために必要な修行を済ませていないと、
この要請を断ったのです。

ところが、これを知った東山殿がこう命ぜられたのです
『義視がせっかく要請してきたのだから、彼の面目が失われないよう、特別にこの禅僧を住持に
任ずるように。』

この命を五山あついに承服し、かの僧は住持と成ったのです。」

この事を初めて聞いた義視はうなずき、そしてほのかに笑ったという。

(蔭涼軒日録)



793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 22:19:38.62 ID:D+0ypimc
>>785
頼朝「やはり兄弟は仲良くしないとな」
信長「まことに」
家光「せやせや」
(´・ω・`)「弟が居たような…」

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 22:59:31.20 ID:5eYJ1gvP
山内経俊:頼朝の乳兄弟、文字通り頼朝に弓を引いたにも関わらず赦免
織田信興:長島一向一揆で一揆勢に殺されたため信長は報復に一揆勢皆殺し
保科正之:秀忠存命中は姿を隠していたにも関わらず、存在を知った家光に会津藩主に引き立てられる
みんな兄弟仲いいね
スポンサーサイト

侍の恨みについて・悪い話

2009年01月09日 00:20

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/08(木) 21:18:59 ID:GWRIoP2T
孕石元泰「家康くんは降伏した拙者を許してくれませんでした、ひどいです><」
家康「お前だけは死ぬべき。」



127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/08(木) 21:38:26 ID:rcXnxjYo
>>126
他の孕石一族はそれなりの扱いをされているからな…
徳川家に召し抱えられることこそなかったけど。



128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/08(木) 21:40:02 ID:zx7zh/8V
>>126
まあ、いったん受けた恨みはいつか必ず返すってのがこの時代の武士ですからw

応仁元年(1467)
応仁の大乱が巻き起こる中、将軍、足利義政の後継者とされた足利義視は、
西軍優位の政治情勢に伊勢に出奔、亡命を余儀なくされた。

ところが、この伊勢に落ちる途中、近江国石山において、田上荘(たなかみのしょう)という
荘園の領民から、落ち武者狩りを受けた。

進退窮まった義視はしかたなく、自ら身に着けていた刀剣を荘民に与え、
どうにか窮地を脱することができた。


さて、翌応仁二年(1468)
またもや政治状況は変化し、義視は伊勢より、騎馬500騎、歩兵1万数千という大軍勢を率いて
再び上洛の途についた。

で、上洛の途中、この軍勢を率いてわざわざ田上荘に立ち寄った。

「あの時は世話になったな」

田中荘、完膚なきまでに焼き討ちを受ける。



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/08(木) 21:40:06 ID:zXeZDGG/
魔人ブウと逆でいい奴が生まれ変わって悪くなったみたい