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養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状

2017年05月16日 16:44

養徳院   
904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 18:05:48.54 ID:Es7c86KE
養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状


織田信長の乳母だった養徳院は、慶長13年10月16日に94歳で死去した。
非常に長寿だったために、実子と共に義娘である善応院(輝政母)にも
先立たれた養徳院は、慶長4年には輝政に遺言状をしたためている。

時期ごとに計四通あるが、以下は慶長8年に書いた最後の遺言状。
__________________________________

一筆書き置きます。私は八十九になり時間がありませんので申します。
私が果てましたら、長良の真福寺・鵜飼のあたりの知行八百石は
太閤様(秀吉)の御朱印通り相違ありません。
桃巌様(信秀)、総見院様(信長)より長らく知行されていることを
太閤様が御改めになり、そのまま長良八百石を賜ったのですから
妙心寺の桂昌院と護国院に、私が果てましたら寄付して下さい。
もし不届き者が何か申しましても、堅く仰せ付けて下さいませ。

私が果てましたときには、人の知らない内にすぐに焼いてしまって
志の事はあり次第で茶湯料にもすること
宙外(桂昌院の住持)へ申し置きます。
儀式よろずのこと御無用と、宙外へは堅く申し置きますので
後々の二寺のこと御油断なく御心懸けなさって下さいませ。

総見院様の御為に桂昌院は建てました。
護国院は勝入(恒興)の為、六親(親族全体のこと)の為に建てました。
ですから御油断なく御肝煎りして下さいませ。
其れ様皆々が御繁盛されているのを拝見してから
仏になることに満足しています。
返す返す二寺のことを頼みますので、詳しく申し上げておきます。

慶長八年三月廿一日の天赦日に書き置きます。めでたくめでたくかしく。

なお、今の大府様(家康)も、私に御目を懸けて下さいますので
(このことを)詳しく御申し上げになって下さいませ。
__________________________________

同年の2月12日、家康の将軍宣下の同日に輝政は少将に昇進している。


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織田家の大御乳

2009年10月04日 00:14

養徳院   
33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 08:04:26 ID:GCBF9Pl9
よく知られた話だけど載っていなかったので。


織田家の大御乳

織田信秀の嫡男・吉法師。いわずと知れた後の織田信長である。
癇の強い赤ん坊で、乳を与える乳母の乳首を噛み切るという、とんでもない癖があった。
何人もの乳母が逃げ出し、信秀が困っていると、家臣の森寺秀勝から推薦があった。
朋輩の池田恒利の正室・養徳院である(出家後の名前。本名は伝わっていない)。

召しだされた養徳院が吉法師と対面し、乳を与えようとした。
吉法師はこれまでどおり乳首に噛みつこうとしたが、

      ∩))
( ´Д`)彡  ピシャン!
  ((⊂彡☆∩ 
   ⊂(⌒⌒(;゚Д゚)
      `ヽ_つ ⊂ノ

「吉法師さま、乳を飲まねば大きくなれませぬよ」
穏やかな口調で諭す養徳院。吉法師がなんだこの、とばかりまた噛みつこうとすると、

       ピシャン!
 ( ´Д`)
  ⊂彡☆))(_(_, )←尻


         /:/  -  ̄  ハ ` ‐ 、ヽ  !,
         Y .// / /  |:i    \、 i
         /ー-、/、_ :/ ', i i,.ヘ ',  ヽ:i|
       r―´   ´  /   i /:  ト 、  i:ヘ
      ノ          ヘ | ,.ィ  i  `ー 、 i
     i ,.イ        / ハi,|//|  i    `
      /   i ハ  i /  i|`ー- |
      'i i  ハ ト! ィ:ハ i ハ   ノイ /  i  吉法師さま。
      ハ/|  |iL__V`'くハハ     |イハ  :i
      / V\ト卞乏`ミヾ`  ー-=≠―| ./
    /  | :ト、ゞ、:.:.:´彡  i えzゥ‐ラ/:/  /
   /   :/| /iト-=;,;_i'    `   ‘/イi イ /
- ´  / :/ | i :ヘヾ、;,/       /イ//イ |ハ
   /  /,.イ :/ :||;ヘ=:{ _`´_   /イ|i  |  i
  / .:ノ´./:/  |:|:i,:\{ `ー- `  ,.イ: `| i |   i
/_ -/ //  /:|:i:',: \ ` ,. イi;:/:.  | l ト、
ニ -/  :/´  :/ \:i,.  ` ´  i:;ハ:  | :l | ヽ
.:/   /´  /   `!      /  ヽ |  i:l ヘ

※イメージです。


今度はおとなしくオパーイに吸い付く吉法師。
「こんなに、いい子なのにね」。そう言って吉法師を優しくなでる養徳院。
以後吉法師は素直に乳を飲むようになった。

こうして正式に乳母となった養徳院は、生まれたばかりの実子・勝三郎(後の池田恒興)を
森寺秀勝に預け、
清洲城に移り住んだ。2年後には夫の恒利が病死したが、髪を下ろして
出家したこと以外は変わらなかった。
吉法師の養育に専念したのである。

信長は養徳院の育ての恩を終生忘れず、「大御乳(おおおち)」「大乳人様(おおめのとさま)」
と呼んで敬った。
英語なら「BIG MAMA」というところだろう。
養徳院は秀吉・家康の代まで生き、慶長13年(1608年)に94歳で大往生した。




34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 09:08:02 ID:vryiuWTd
信長が童貞を捧げたという噂の人か

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 09:40:44 ID:qaBB+dVj
よっぽど恐れられてたのか秀吉まで宛先に
「大御乳 まいる」って書いた手紙が残ってるんだよな

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 09:48:37 ID:UF7bdwTe
春日局以前にこんな女性がいたのか、天晴れじゃ

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 10:59:38 ID:LXolYnpR
でも、親子で「おおちち」と「いちもつ」かよ....。

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 11:11:39 ID:GCBF9Pl9
>>35
秀吉は池田恒興が小牧・長久手の戦で戦死しているから、信長とは別の意味で
敬意をはらう必要があったのでは。
恒興が戦死したとき秀吉は養徳院に対して、
「恒興をみるつもりで筑前(秀吉)をご覧ください」
と丁重な弔意を述べている。