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「朝野雑載」から八丈島の話

2022年02月27日 12:21

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 22:17:47.71 ID:C/KFd0uw
朝野雑載」から八丈島の話

豆州の住人、朝比奈六郎知明という者、軍兵を集め、大船を催し、数年用意して、下田より船を出し、八丈島に着き、島中を従え、
今後より日本伊豆国の内なるべしと定め帰り、北条早雲へ申し、氏直まで五代領知し、日本の内となれり。下田より未申にあたる。
島の風俗、家主は女にて、男は入り婿なり。
女は髪長く、色白く、容艶にして、日本人にさしてかわることなし。
女は多く、男は少なし、女をうめば悦び、男をうめば捨てもののように思う。
知明渡海の頃は永正の初めなり。

おそらく「北条五代記」の記事をまとめたものと思われる。
「北条五代記」ではこのあと板部岡江雪斎の八丈島報告が書かれているが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3820.html
板部岡江雪と「八丈島」
で出ていたのでそちらを参照

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 22:21:19.29 ID:C/KFd0uw
ついでに択捉島に立っていたロシアの十字架を倒して「大日本恵土呂府」の標識を立てて日本の領有権を主張した事で有名な、
近藤重蔵の息子である近藤富蔵は殺傷事件を起こし、八丈島に流され「八丈実記」を記しているが、その中の話で「綜嶼噺話」という書物を引用し、
「大津波が起きて妊婦一人だけが助かり、男子を生み、母子が交わって子孫を作った」
という、小松左京「日本沈没」でも言及されていることで有名な「丹那婆伝説」について書いているが、
実は引用元の「綜嶼噺話」には「妊婦は女子を産んだ、これが女護島のゆえんである」と書かれている。
本来は上の話にもあるように、女性中心の神秘的な島の始祖伝説のはずだったのに母子相姦の始祖伝説にされるとは



72 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/26(土) 22:58:28.36 ID:9qpY0v6i
>>70
現時点で史実とされる経緯とは大分相違している。

八丈島は山内上杉の所領だった。
朝比奈は三浦の被官で、山内方或いは扇谷方の奥山という者と共に八丈島の支配に当たっていた。
後に伊勢宗瑞方で下田に拠る御簾という者の強襲を受けて争った結果、敗北して下田に抑留された。
伊勢が対上杉宣戦に踏み切る伏線を成す在地抗争の一つとみられている。

『北條五代記』では論じても詮方無いが…。
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その趣きを、私は記すのである

2021年03月25日 17:58

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/25(木) 13:52:15.72 ID:aTzJ8sRQ
聞きしはむかし、伊勢新九郎氏茂という侍が遠国より来て、伊豆国を切り取ったという事が
言い伝わっているのであるが、多説あって何れが正しいのか知り難い。

新九郎は京都より駿河に下り、今川氏親を頼み、牢人分であったが、武略の侍と船にて渡海し、
伊豆国を切り取ったよしを、老人が物語した。しかしこの説は覚束ない。

どういう事かと言えば、例えば私が江戸に在って、近辺の町人の噂話などを今日聞き、あくる日に
その実否を問うと、虚言ばかり多い事がわかる。江戸中の事ですらそうなのである。その上年月を過ぎ、
境を隔てている事について、言いたいように語るのは、世の常の習いであり、しかしそれを聞く人は誠と思い、
筆にて記し置くために、後世の人はこれを治定としてしまう。
兎にも角にもそら事の多き世なのである。

だからといって、今更世の噂を云うわけではない。右の新九郎は、名を得た達人であり、古き文に
一言づつ、数多に書き残されているのを愚老が近年見つけ出し、その趣きを、私は記すのである。

北条五代記

北条五代記の冒頭部分



「豆相記」の小田原城攻めの場面

2021年02月20日 18:08

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/20(土) 17:44:58.68 ID:tJgxCgXM
豆相記」の小田原城攻めの場面

長享の乱で争ったあと、山内上杉氏が扇谷上杉氏と和睦した際
「もともと両上杉が不和になったのは、自分のところの家老の長尾伊玄(景春)とそちらの宿老の太田道灌が互いに奢侈を極め、威を争ったためである。
こちらは景春を殺すのでそちらも道灌を殺してくれ」
と扇谷上杉に言ったため、
扇谷上杉はその言葉に乗せられて太田道灌を殺してしまった。
しかしこれは山内上杉の計略であり、山内が景春を殺すことはなかった。
こうして両上杉の和睦が破れた。
これを聞いた氏盛(早雲)は箱根山に材木を取ると偽り、日中に大嶋の牛を山の頂上に上らせて
夜になると牛の角に柴薪をつけ、火をつけ、壮士によって浜辺へと追わせた。
千万の勇士が鐘と太鼓を鳴らしながら攻めてくるようであり、まさに田単の火牛計そのままであった。
小田原城守の大森氏は大いに驚き、撃退するために兵卒を海辺にむかわせると
氏盛は反対側の山の方から自ら兵を率い、大森を襲ったため、大森は益々あわて、兵は潰えてしまった。
こうして早雲は小田原城を奪った。

敵陣に突撃させた田単とは違って、陽動に使っただけだから
ハンニバルのカリクラ峠での火牛計の方が近いかもしれない



北条五代の軍記物「豆相記」冒頭

2021年02月18日 16:52

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/18(木) 00:28:33.19 ID:dAvrlu3W
北条五代の軍記物「豆相記」冒頭

北条家中興、伊豆の早雲、俗名は伊勢新九郎氏盛、後に長氏と改む。
姓は平氏は北条、いわゆる桓武天皇第五王子、葛原親王三代の孫、平将軍貞盛の曾裔なり。
元弘三年五月二十二日、相模入道高時自殺の時(新田義貞による鎌倉幕府滅亡時)、高時の舎弟四郎左近大夫入道の謀にて
諏訪三郎盛高(諏訪頼重と同一人物説あり)、高時の次男亀寿丸を誘いて、
負うて甲冑の上に戴き、ひそかに扇谷を出て信州に犇く。
諏訪の祝(ほうり)に依劉して三軍の師を申し起こし、相模二郎時行と号す(中先代の乱)。
その後、吉野の先帝(後醍醐天皇)の勅許を奉りて、奥州国司(北畠顕家)に従いて上洛す。
(顕家が戦死した)阿倍野の役の後は先帝に従う。
(「佐野本系図」によれば時行も摂津国阿倍野合戦に参加していたとされる)
延元二年九月、結城入道(宗広)の謀で、先帝の第八王子(第七皇子の後村上天皇?)関東下向時、時行扈従す。
兵船五百余艘、伊勢国大湊より出て船渡海の時、遠州天龍灘に於いて逆風に遇い、伊勢国に吹きよせらる。
故に宮は吉野に還行するも、時行は勢州に寓居す。
兵人散じ、力尽きて義旌を挙ぐるあたわず。
ついに微服潜行し隠居し呑炭漆身(予穣が主君・智伯君の仇を討つために姿を変えた故事)の風で名字を改め、伊勢次郎時行と号す。
時行行氏を生み、行氏時盛を生み、時盛行長を生み、行長氏盛を生み、氏盛にいたるまでいまだ伊勢氏を改めず。
伊勢新九郎と号する所以なり。行年七十にて出家し、法名を早雲寺宗瑞と号す。

後北条氏を執権北条氏の末裔にしたいもんだから、高時の遺児で中先代の乱を起こした北条時行が南朝帰順後、
後村上天皇(義良親王)と一緒に暴風にあい、伊勢に漂着し隠居して伊勢氏を名乗った、という設定にしたようだ。
実際、時行は伊勢で暴風に遭い一時消息不明になったようだけど
その二年後には信濃で諏訪頼継(頼重の孫)と一緒に小笠原貞宗相手に戦い、
その後も新田義宗(義貞の息子)らと協同して鎌倉を奪還しているのだけど。




585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/18(木) 00:38:08.65 ID:S0L8loM5
後北条氏は女系説と言うのがあったな
執権北条氏の末裔から嫁を取ったからなんだで

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/18(木) 06:56:00.71 ID:ODEcPW8f
そんな旧南朝方で地下人設定の伊勢氏だが
幕府の名門今川氏の縁戚って史実も堅持してるな
豆相記に真面目な校閲がいたら怒られる話の展開

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/18(木) 12:21:15.38 ID:ut9ycPXj
相撲でマメ取りした話か

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/18(木) 17:20:51.34 ID:dAvrlu3W
いっしょに難破した宗良親王が遠州に漂着した後、井伊谷に滞在している一、二年間に
井伊道政の娘との間に尹良親王を産ませたとされてるから
(「参考太平記」だと時行も宗良親王とともに井伊谷にいたとされる)
時行も伊勢滞在の間に産ませたとすればいいのに
1333年夏の鎌倉幕府滅亡時点で兄の邦時(8歳6ヶ月)より年下のため、年齢的には少し厳しい気もするが

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/19(金) 10:43:54.13 ID:BBbixgPB
まあそれ言い出したら徳川なんかも明らかにウソ系譜だし

長氏はその虚を窺い

2020年06月18日 18:13

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/18(木) 12:37:29.89 ID:s7L3jsJD
北条長氏(伊勢宗瑞)既に小田原を取り、その威は遠近に奮った。相模の豪傑は皆来て降ったが、
独り三浦陸奥守義同、同荒次郎義意は戦を挑むこと連年に及び、雌雄を決することなかった。
毎年六、七月に三浦より小田原の攻め入り、退き去る時は必ず馬入川にて遊泳し、汗馬を水に入れて
帰ること、数度に及んだ。しかし長氏は外に柔弱を示して共に争わなかったため、三浦の兵には
徐々に怠りが見えた。

明年、三浦の兵攻め来たり、民屋を放火し田圃を荒らしたが、長氏は兵を出さなかった。
故に三浦の兵は益々侮り、かの川辺にて酒宴を催した。長氏はその虚を窺い、これを襲った。
三浦の兵は驚き慌て、弓矢矛戟を捨てて四方に壊乱した。これより三浦の兵は濫りに小田原を
攻めなく成ったという。

名将言行録



暇を取らせた隙を考え

2020年06月17日 18:36

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/17(水) 17:03:07.84 ID:IBSnElbG
北条長氏(伊勢宗瑞)が妻田八郎を攻めた時、逆に追い崩され引き下がったが、今一返しせねば叶わずと励み、
酒肴を諸卒に与えてこれを鼓舞し、引き返して八郎を討ち取った。臘月(十二月)の末であり、八郎は
「戦には勝ちたり。皆々在所へ帰りて越年せよ」
と暇を取らせた隙を考え、長氏は還攻したのである。

名将言行録

これは武田信玄の初陣の、海ノ口城攻めの改変ですかね



正月2日の夜、宗雲が夢を見なさったことには

2019年06月13日 15:49

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 19:42:57.37 ID:h/jQFdtC
(前略。>>11)翌年正月2日の夜、宗雲(北条早雲)が夢を見なさったことには、2本ある大杉を鼠
1つが出て食い折った。その後、かの鼠が猪になった夢を見て、その夢は覚めた。

その如く両上杉の仲が悪くなるのを聞き、宗雲は是非とも時刻を見合わせて関東へ発向の工夫をされ
ることは二六時中暇なし。ある時、扇谷の上杉家は末となったのであろう、邪臣の諫めを崇敬して家
老の太田道官(道灌)を誅しなさった。その後、上杉殿の家老は尽く身構えをして騒ぎ立った。

この時、宗雲公は出て小田原を乗っ取り、相模の過半を手に入れて子息・氏縄公(北条氏綱)の代に
相模を皆治めなされば、いよいよ氏康公の代に伊豆・相模二ヶ国となり1万の人数の内2千を所々の
境目に差し置き、8千の軍兵をもって両上杉家と取り合いなされた。(後略)

――『甲陽軍鑑』



伊豆の宗雲が出て小田原を乗っ取った事は

2019年06月13日 15:48

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 20:16:00.45 ID:h/jQFdtC
一、(前略)この時節、伊豆の宗雲(北条早雲)が出て小田原を乗っ取った事は、明応4年(1495)
  乙卯の歳と承り及んでいる。前代の事であり、しかも他国の事を人の雑談で書き記しているので、
  きっと相違な事ばかり多いのは必定ではあるが、ただこの理究(原注:リクツ)を取って今勝頼公
  御代の比較になさるべし。(中略)

  まことに北条家は弓矢巳の時(盛りの時)と輝き、万事政事よろしいので上杉家の功者どもは「さ
  て危なし」と呟く。しかしながら管領則政公(上杉憲政)には、両出頭人の菅野大膳・上原兵庫が
  これを聞いて申すには、

  「北条宗雲は元来伊豆のいかにも小さき所から出たのであり、その族の氏康が何の深きことがあろ
  うか。伊豆・相模両国を持っても、北条2,3人を合わせた程の大身衆は越後・関東・奥両国(奥
  羽)へかけては、則政公の御旗下に5,6人もおります。

  上杉家に伝わる衆(譜代)にも北条程の者はいそうもないので、蔓延っている以上は則政公が旗を
  出されて、ただ一陣で北条家を誅罰しなされ!」

  との菅野・上原両人の口により、(後略)

一、北条宗雲は古来、伊勢国より乞食を致して(伊勢国より乞食をいたし)駿河今川殿の被官となり、
  今川殿の恩恵をもって伊豆へ移りただ今この如くであるから、元来伊豆の狭き所から出た宗雲の子
  孫は、少しも深き事なく候。

  宗雲の子・北条氏縄(氏綱)は甲斐の武田信虎に大いに争い負け申した。これは駿河あしたか山の
  下、東さほの原での事。その気勢をもって氏縄の手に入れた富士川の北は尽く信虎に取られた。

  この時、興国寺の城主・青池飛騨(青沼飛騨守)は人より先に信虎の被官となるに付き、青池の息
  子・与十郎と申す者を、信虎家中の足軽大将・小幡(小畠)入道日浄と申す侍の婿に、信虎の下知
  をもって仕る。ただ今は駿河の今川義元が信虎の婿になる故、息女の化粧田として信虎より今川殿
  へ渡す。

  これでさえも、父・宗雲が今川の恩恵をもって小田原までも発向したその恩を、子息・氏縄の代に
  なって忘れ、替り目を見合わせて今川の持つものを取ったけれども、氏縄が義理違い申すに付き、
  珍しく回ってこの場所が今川へ帰ったのは、天道より北条家を憎んだのである。(後略)

――『甲陽軍鑑』

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 20:23:10.63 ID:h/jQFdtC
>>164
北条宗雲は古来~は上杉憲政に家臣が申し上げた五ヶ条からの抜粋です



宗雲公などはきっと一仏一社の化身であったのだろう

2019年06月12日 14:59

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 20:04:18.34 ID:VUOAqq9u
(前略)宗雲公(北条早雲)などはきっと一仏一社の化身であったのだろう。

子細は、伊勢より7人が言い合せ、荒木・山中・多米・荒川・有竹・大道寺・宗雲ともに7人が武者
修行すると談合された。駿河の今川義元公の祖父子の御代に、牢人の身分で今川殿のもとで堪え忍ば
れた(牢人分にて、今川殿に堪忍有り)。

才覚をもって駿河屋形の縁者となり給い、すなわち駿河の内かたの郷という所にしばらくおられ、義
元公御親父の代に今川殿の威勢を借りて伊豆へ移り、大場北条辺りの百姓どもに物を貸しなさると、
後には伊豆半国の侍・百姓どもが宗雲公へ出入りを仕り、物を借りたので朔日・15日に礼に参った。

その間にもしばしば参る者には貸銭を差し置きなさったことにより、我ましに(我先に?)宗雲公の
御屋敷の辺りに家を作って皆被官となり、前述の6人の荒木・山中・多米・荒川・有竹・大道寺も宗
雲の被官になった。

この衆を首として宗雲公ともに7手に作り、伊豆一国を治めなさって、絶えて久しき北条を継ごうと、
三島明神へ願を立てなさった。(後略)

――『甲陽軍鑑』



新九郎は大いに喜んだ。

2018年08月05日 18:05

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/05(日) 09:00:37.54 ID:dcTjLiP3
新九郎(北条早雲)の住国をあるいは山城国の宇治といい、あるいは大和国の在原と申すのは異説である。

さてさて、この伊勢平氏の先祖を申せば桓武天皇第五の皇子・一品葛原の親王第二の御子・高見王の子息・
上総介高望王が初めて平の姓を賜り、子孫は平氏として武家に下る。清盛の一門がすなわちこれなり。

(中略)

尊氏公愁嘆の時節、尊氏公はある夜に、当家の先祖がことごとく平家を滅ぼしなさったゆえにその報いが
たちまち来たりて子孫長命ならず。されば、世に名のある平氏を召し寄せて国家の政事を執り行わせれば、
子息長命なるべし、との夢を見て目を覚ました。

尊氏公は喜びなさり天下の平氏を尋ねられ、伊勢守盛継に優る者なしとして盛継を近臣とされた。その後、
若君誕生の時に盛継は蟇目の役を勤められ、それより若君の繁昌があったとして御名付親とされた。以来、
公方代々はかの例に任せて、御子誕生の時は必ず伊勢守の家より御名を付けたということである。

(中略)

されば伊勢守の家は管領家にも劣らず出世し奉った。

さて、尊氏将軍より八代の孫を義政将軍といって慈照院東山殿と号した。初め御子のいらっしゃらぬ時に
御弟・浄土寺の義尋を還俗せしめて養子として左馬頭義視と名を改めて今出川殿と号し、天下を譲るとの

契約あって細川勝元を義視の執事となされた。その後、義政の御台所(日野富子)が男子を産みなさり、
公方相続の旨を山名宗全に仰せ付けられた。これにより細川と山名は大いに異論が起きて天下は乱れた。

世に“応仁の乱”というのはこれである。その頃、伊勢守貞親は政事を執行していた。貞親の弟・伊勢
備中守貞藤はかの乱の時に山名入道と深い知音であったゆえ、細川右京大夫勝元は貞藤を憎み公方へ

讒言したため、貞藤はひそかに花の御所を忍び出て伊勢国へ下った。義視公も御身の上を気がかりに思し
召して北畠の中納言教具を御頼みになって伊勢へ御下向された。この時に貞藤の子息・新九郎長氏も、

もとより今出川殿が御還俗の以前より御馴染みであったゆえにかの地へ参り、今出川殿へ見参したのだが、
あくまで御旅亭であるから、むやみにいつまでそこにいるべきかとなった。伊豆国には義政公の御弟・

政知公がいらっしゃった。そのうえ親族もいたから新九郎は関東へ下ろうと思い立ち伊勢大神宮へ参って
弓矢の冥加を祈念したところ不思議の霊夢を蒙った。そしてひとつの神符を求めたところ、

「諸願成就、子孫繁昌疑いなし」とあったので新九郎は大いに喜んだ。

――『北条五代記』

北条五代記もやっぱり早雲は伊勢氏出身としていますね。


伊勢新九郎盛時という者があった

2018年07月20日 12:31

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 22:04:00.97 ID:VToEx01u
その頃、駿州興国寺の城主に伊勢新九郎盛時という者があった。後には北条氏長と改名し、剃髪した後は
早雲寺宗瑞居士と言った。

彼は文武二道に達し、才知抜群の士であった。京都にあった伊勢貞国の外叔父の甥にあたる。
彼の先祖である伊勢伊賀守盛綱は、建武年中等持院殿(足利尊氏)による天下草創の時手越河原の戦いで
討ち死にした。以来代々、京都公方家の御供衆であり、また一族であったので代々伊勢守家伊勢氏と
相親しんでいた。

新九郎盛時は先年、今出川殿(足利義視)のお供をし伊勢に下ったのだが、関東兵乱の久しきを鑑みて、
時運に乗じて我家を興起せんと思ったのか、京には帰らず、駿河国府中の城主である今川義忠という人が、
駿河一国の守護にて盛時の姉聟であったので、これを頼んで新九郎は駿州へ下った。

その頃、隣国との合戦があって義忠は討ち死にし、その家督である五郎氏親はようやく7歳の幼児であり、
国政に関われるはずもなく一族老臣たちが我意に任せ威を争い、様々に分かれて合戦に及んだ。
このような中、新九郎は氏親を助け様々に和議を以てこの騒乱を集収し、終には駿河を平和に治め氏親の
世と成した。氏親はこの忠義に感じ入り、同国興国寺の城に富士郡を副えて新九郎に与えたのである。

(應仁後記)

現在の研究に照らし合わせて、「盛時」の諱なども含めて、相当正しく伊勢新九郎盛時の履歴を描いている應仁後記の記事。


伊勢新九郎の伊豆討ち入り

2018年02月07日 19:38

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/07(水) 19:03:12.81 ID:p0mpqMFF
その頃、関東は上野を本拠とする山内上杉と、相模を本拠とする扇谷上杉の間が不和となり合戦に及び、
このため山内上杉の勢力下にあった伊豆の侍たちは皆、上野へと馳せ参じた。

この状況を察知した伊勢新九郎は、「願うに幸いである。これ天の与える所時を得たり」と、
自領の百姓どもを招き、この内武の用に立つべき者共を近づけて言った

「相模、上野両国に弓矢起こって、伊豆の侍たちは皆上野に参っており、今や百姓ばかりである。
私は、伊豆の国を切って取る。我に同心合力せよ。
その時はお前たちの忠恩に、必ず報いるであろう。」

百姓たちはこれを聞くと
「累年の御憐れみを忘れることは出来ません。御扶持人(在村給人)も我らも同意します。
我々は地頭殿を、一国の主に成し申さんと願い、たとえ命を捨てるとも微塵も惜しくはありません。
どうぞ、決断し実行されませ。」
そう、衆口一同に返答した。
新九郎はおおいに喜悦し、その上近隣他郷の者までも、この事を聞いて、新九郎殿に与力せんと参集した。

伊豆国北條には、堀越の御所成就院(足利茶々丸)という名高き人があった。
新九郎は「軍のはじめに、先ずこれを討ち滅ぼす!」と、延徳年中の秋、百姓たちを引き連れ夜中に
北條に押し寄せ御所の館を取り巻き鬨の声を上げ家屋へ火をかけ焼きたてた。御所は肝を消し、
防ぎ戦うべき事を忘れ、火炎を逃れ落ち行く所を追撃され、郎従共に皆討亡した。

新九郎が北條に旗を立てると、伊豆国の百姓たちはこれを見て「駿河の大将軍として、伊勢新九郎が
攻めてきた!」と、避難のため山嶺に逃げたが、新九郎はこのような高札を立てた

『伊豆国中の侍・百姓は、皆以って味方すべし。本知行は相違なく保護する。
ただし、もし出てこない場合は、作物を尽く刈り散らし、在家を放火する。』

これを見て百姓たちは我先にと馳せ来て「私はどこそこの百姓」「どこどこの郷の長」などと
申し上げると、彼らの地所相違なしとの印判を取らせ、皆々安堵した。

また、佐藤四郎兵衛という侍が一人、降人と成って新九郎の前に出た。
新九郎は「伊豆国中田方郡大見郷は、佐藤四郎兵衛先祖相伝の地であり、最初に味方したこと
神妙である。今度改めて地頭職を申し付ける。子々孫々永代に渡り、地の妨げは無い。
百姓らもこれを承知すべきで、あえて違失あるべからず。」
と、印判を出した。

上州に参じていた伊豆の侍たちはこのことを聞くと、急ぎ馳せ帰って降人となって出た。新九郎は、
本地皆領納すべき旨の印判を出した。そのため、伊豆の侍は一人残らず新九郎の被官となり、
30日の内に伊豆一国が治まった。

(北條五代記)

伊勢新九郎の伊豆討ち入りについて



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/08(木) 10:55:16.87 ID:ygpHBN7f
>>622
上野と伊豆が同心なら相模を挟めるのに上野に出向くとは阿呆の極み

最後の後南朝

2017年09月18日 18:40

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 18:27:32.39 ID:ur7iNDF1
最後の後南朝

明徳三年(1392)に南北朝の合一が成った後も、南朝の残党(後に後南朝という呼称が作られた)は
禁闕の変などの武装蜂起を起こしたり、応仁の乱で西軍に祭り上げられたりと度々歴史の舞台に登場していた。、
しかし15世紀末のある記事を最後に、遂に後南朝は史書からその姿を消してしまう。

明応八年(1499)
此年の霜月、王が流されて三島にお着きになられた。早雲入道が諌めて、相州へお送りになった。
『妙法寺記』

たった一行の短い記事だが、「王」(後南朝の王とされる)が関東へ流され、途中で伊豆の北条早雲(伊勢宗瑞)が
それを迎えて、何かの罪(南朝復興の活動か)を犯したことについて諌め、その後相模へ送り出したというもの。
この記事が史書に見える後南朝の終見で、相模へ送られた王のその後の行方はまったく分かっていないが、
南朝の歴史の最後に、意外な人物とちょっとだけ接触があったよ、という話。



235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/17(日) 18:54:07.83 ID:zv/ao8/x
森茂暁「闇の歴史、後南朝」だと確実な後南朝の最後は山名宗全関連のようだ、以下抜粋

東京大学史料編纂所編纂の 『大日本史料第八編 』の一一 、文明一一年 (一四七九 )七月一九日の条には 、
「小倉宮ノ王子 、越後ヨリ越前ニ到ラセラル 」という綱文のもとに 、
① 『晴富宿禰記 』文明一一年七月一九日の条 、
②同記 、同三〇日の条 、
③ 「妙法寺記 」文明一〇年霜月一四日の記事 、
④同記 、明応八年霜月の記事を掲載している 。
なお ③ ④は 『続群書類従第三〇輯上 』に収められる 「妙法寺記 」にも載せられている 。妙法寺とは甲斐国都留郡の妙法寺 。

①は山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた 「南方の宮 」が国人らに送られて 、越後より越前国北荘へ移ったということ 、
②は 「出羽王 」が高野へ向かう道中のこと 、
③は 「王 」が京都より東海に流され 、甲斐に赴き小石沢観音寺 (現山梨県笛吹市 )に滞在したこと 、
また ④は 「王 」が明応八年一四九九 )霜月に流されて三島 (現静岡県三島市 )に着き 、
「早雲入道 」 (北条早雲 )が諫めて相模国に送ったこと 。
『大日本史料 』当該巻の編者が 「王子 、越前ニ到ラセラルヽ日ヲ詳ニセズ 」
「王子ト出羽王 、並ニ妙法寺記ニ記セル王トノ関係明ナラ 」ずと注記しているとおりで 、詳細は不明のままである 。
比較的信頼のおける南朝皇胤の所見史料の最後は ①であろう 。

伊勢宗瑞の伊豆取り

2015年01月13日 18:54

553 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 15:02:47.57 ID:QnBHyRdV
その頃、伊勢平氏葛原親王より続く子孫(桓武平氏)に、伊勢新九郎入道宗瑞という人があった。
伊勢国の住人であったが、壮年の頃より京都に上り、将軍家に奉公していたそうである。

少年の始めより生涯、山野江海において猟漁を好み、馬に乗って悪所を越え岩石を駆け上がる事は、
まるで神変を得ている如しであった。あの造父(周繆王に仕えていた優れた御者)は馬を御して
千里を走っても疲れること無かったと言うが、この新九郎以上ではなかったであろう。

水練もまた、馮夷(ヒョウイ:中国神話の水神)の道を得ており、驪竜頷下の珠(黒色の竜の顎の下にある珠)
をも奪うことが出来るほどであり、
弓は養由基(春秋時代の武将で弓の名手)の跡を追う程で、弦を鳴らしてはるかな樹上に居る猿を
落とすほどであった。
彼は謀に巧みで、人を良く観察し、気力健やかで心も不屈であったので、戦場に挑むごとに
敵を退け、堅きに当たり強きを破ること、樊カイ・周勃が得られなかった所を得ていた。

そういう人であったので、似た者たちを友とし、その頃伊勢国に荒木、多目、荒川、在竹、大道寺、
そして新九郎の7人、いずれも劣らぬ勇士たちであったが、彼らは常に近づき共に交遊していた。

ある時この七人、一同に関東へ弓矢修行に下る時、七人神水を飲んで誓ったことには、
『この七人、いかなる事があっても不和になってはならない。互いに助けあって軍功を励まし、
高名を極めるべし。もしまた、一人優れて大名となれば、残る人々はその家人となって、その一人を取り立て、
国々を数多治めよう。』
こうしてそれぞれに東国に下り思い思いに活動する中、伊勢新九郎宗瑞は駿河の国司である今川氏親に仕えた。
そして度々戦功があったので今川殿はその功を感じ、富士郡下方庄を与えられ、興国寺城に在城した。

その頃、伊豆国は山内上杉家の分国であった。伊豆は興国寺よリほど近く、どうにかして伊豆国を
討ち取ろうと、宗瑞は常に考えていた。

554 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 15:04:40.75 ID:QnBHyRdV
伊豆国には、堀越御所と呼ばれた公方があった。この御所は、去る長禄二年(1458)、京都の
将軍である足利義政の舎弟、政友卿が関東に下向あって伊豆国に御旗を立てたものである。
その子孫が今の堀越御所であった。
かの御所の侍に、外山豊前守、秋山新蔵人という忠功の士があったが佞人・奸臣らが彼らの出頭を妬み、
讒言したのを、御所も御運の末であったのだろう、糾明することもなく二人の士を討ち取ってしまった。
これに家中の面々大いに騒ぎ、お互いに疑い合って国中混乱した。

この時、宗瑞は伊豆国に湯治をしてこの有り様を見聞し、「今である」と判断した。
山内、扇谷の両上杉は関東において絶え間なく争っており、伊豆国は山内家の分国であったために
国中の軍兵、並びに御所侍たちも跡を払って関東へと出陣していた。残る兵は僅かであり、これに
宗瑞は大いに喜び、かつて七人の約束をした荒木、山中、大道寺など六人を呼び、また今川殿にも
この旨を申して加勢を請い、伊豆に向かって出陣した。

堀越御所は俄なことでもあり、立て籠もるべき兵もなく、いかがすべきと驚き、山林に立て籠もった。
御所の家中の武士の内、関戸播磨守という者名乗り切って出てしばし戦ったが、終に討ち死にした。
その後、堀越殿もかなわずと自害したため、宗瑞は伊豆を侵攻し北条に旗を立て、韮山の城に在城した。

そして『末代に至った凡下の侍は義を忘れ、欲に命を忘れるのだ。』と、多年蓄えた金銀米銭を取り出し、
これを尽く施した。このように民を撫育し軍兵を哀れんだので、伊豆国は申すに及ばず、近国の
牢人達まで、我も我もと韮山殿へと参った。

その中でも伊豆の住人である、三津の松下、江梨の鈴木、火見の梅原、佐藤、上村、土肥の富永、
田子の山本、雲見の高橋、米良の村田などという侍たちも我劣らじと駆けつけた。
彼らは山内上杉の支配に抗い、堀越御所の政道に背いた者達であったが、宗瑞の器量は只人に非ずと
それぞれ同心して、皆彼の下知に従うことにしたのである。

こうして、神水の誓いをした六人は宗瑞の家老となって伊豆国を治めた。
その威は近隣に響き、軍勢は招かなくても集まり、攻めなくとも従った。
それはただ風に草木がなびくようであった。
(相州兵亂記)

伊勢宗瑞の、伊豆取りまでの逸話である。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 19:02:05.84 ID:O+SAY8hh
これ深根城の戦いことかな?
この関戸播磨守って関戸吉信のことかと思ったら官職名見たら父・宗尚のことになってる。
と油断してたら吉信も播磨守の官職だったでござる。

関戸吉信の奥さんは上杉憲実の娘なのねえ。

関戸家って関東管領家からかなり信用されてた家だったのか。

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 11:43:58.80 ID:8DfnmH1g
堀越と深根との両所に討ち死にしたって話があるみたいね
関係ないけど、早雲の小田原攻めは地震のあとのどさくさに紛れて行われたんだね

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 15:18:15.80 ID:I5LgzJhZ
>>556
小田原じゃなくて伊豆攻めじゃない?まあ伊豆攻めも明応大地震と時期的に合わないみたいだけど。
あと軍記物にあるような小田原攻めは存在しなかったというのが、昨今は定説だね。

北条早雲逝去

2015年01月11日 17:09

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 08:27:00.73 ID:aKWPqlZr
北条早雲逝去

永正十六年八月十五日、北条早雲伊豆国韮山の城で逝去された。
生年已に八十八歳、これまでもなお眼にかすみがなく、耳も定かで、歯牙にも欠損はなく、ただ白髪であるばかりで、
精神の正しき事、さながら壮年の時と変わらず、誠に布衣白屋(布衣=無官、白屋=貧乏人)の下から立てて、
一家を起こせるほどの果報がある故であると、人はみな感じ思わぬ者はいなかった。
当国の修禅寺で送葬し、一片の煙と焼き上げて、遺言の旨に任せ、小田原の湯本に墳墓を築いて、金湯山と号して、
洛陽紫野大徳寺の僧某長老を請いて、仏事を営み、早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門と称す。
昨日までは、相豆両州の太守となり、弓矢の威名を東国に震い、今日は忽ちに白骨を、黄壌に埋めて、一菊の卵塔に神魂を棲ませる。
人世誰かこの苦を免れるだろうか、高きも賤しきも、遂に同じく黄泉下に帰るのだ、誠に儚い生涯である。
(鎌倉九代記)



534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 09:42:09.93 ID:+DfIPhPS
己にしたがい行くは只是れ善悪業等のみなり
造悪の者は堕ち、修善の者は昇る
毫釐もたがわざるなり

『高祖出陣の守り

2014年03月21日 18:37

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 16:02:55.91 ID:L3GgUvBf
伊勢新九郎は小田原の城守大森筑前守を攻め出して、
小田原を取った。

その時、新九郎は搗栗(勝栗)を持っていて、
その噛んだ歯の跡のある搗栗を北条家は代々受け伝えた。

それを『高祖出陣の守り』といって、出陣の時に歯にあてた。
新九郎は北条家の先祖なので高祖と呼ぶ。

(其時新九郎。搗栗を持て。かまれし歯あとあるを。
代々取伝て高祖出陣の守りとて出陣の時歯にあてらる。
新九郎は北条家の先祖ゆへ高祖と云)

――『武功雑記』




665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 18:10:02.99 ID:vn2csnUK
北条六代の全員に前歯があったことが確認されたな

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 20:33:01.98 ID:xXn8FclR
勝ち栗ってそんなに長持ちするのかよ

【話題】「火牛の計」は津波?

2013年07月27日 19:56

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 08:05:18.88 ID:or5clOXr
本当だったら面白い話

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130726-00000009-kana-l14
「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川


780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 08:18:36.59 ID:MbCsF4HX
>>779
これはさすがにありえないなあ。
明応の大地震・大津波の時、伊勢宗瑞は小田原どころか伊豆討ち入り前だし、
そもそも小田原城奪取も、扇谷上杉配下だった大森氏が山内上杉に寝返ったことから。
扇谷上杉の要請で攻め落としたというのが今はほぼ定説になっているし。

北条早雲『夢の御剣』

2013年07月18日 19:50

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/17(水) 20:11:52.75 ID:Er1CMP1q
伊勢新九郎長氏は子供の頃から武芸に励み、家を興し父母の名を後代に残さん事を工夫し、
備中国吉備津大明神に願をかけ、三七日(21日)参籠が満るその夜、夢のなかに

『東国に行き給え、御剣を遣わすであろう。』

と顕れたため有難く思い、東国に向かうとその途中、華表の傍にて旅人に行き会った。
彼が申すには

「私は路銀が無くなってしまい、大変難儀しています。この刀を差し上げますので、
代金を頂けないでしょうか?」

新九郎は『夢に出た御剣とはこの事である。』と悟り、刀を買い取り三度押し頂いた。
それから武者修行を思い立ち、近郷にて名家の子息、内藤、笠原、二階堂、大道寺、
松田、井上、平井といった勇士30人が新九郎に同道して、諸国に武者修行に出た。

そして数度の戦功があった後、駿河太守の妻は新九郎の叔母であったため、駿河に下り
扶持を請け、新九郎は大気者であるとの評価を得て、興国寺城番大将となった。

延徳年中に堀越城主足利茶々丸を攻め取り城主となる。
その後相模国小田原城を乗っ取り、姓名を改め北条早雲瑞公となり、関八州の太守と成られた。

(中國兵亂記)

伊勢新九郎盛時の故郷である備中のあたりに伝わったと思われる、北条早雲についての伝承である。





伊豆の生薑は伊勢のはじかみ

2013年01月04日 19:59

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/04(金) 18:25:46.25 ID:UOm9OmPL
足利茶々丸の死後、北条早雲は伊豆の侍の帰順や土民百姓の待望を
背景に御所の跡を残らず押領した。その時、茶々丸の侍・戸山が早雲の
野宿する御堂へ忍び入って火を放ち夜討ちを仕掛けた。

この時、運も尽きたということだろうか、早雲はぐっすりと寝入っていたので
枕の上に火が及んでも気付かなかった。しかし間一髪のところで笠原が
走って来て、手で火を払い早雲を救い出した。

だが、笠原の左手は焼けてしまい、指も皆焼け落ちて生姜のようになって
しまったのだとか。夜討ちを仕掛けた敵は皆逃げ落ち、あるいは討ち取られた。

元々生姜は『はじかみ』と呼ばれた。しかしこの一件より伊豆国では早雲を
恐れて『しょうが』とばかり言うようになった。その頃、何者かが早雲の門に
落書を立てた。

「草の名も所によりて替りけり伊豆の生薑は伊勢のはじかみ」

本名が伊勢氏だったのでこのように言ったのである。

――『異本小田原記』




27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/04(金) 20:21:43.58 ID:E79KxmtN
早雲の代は伊勢しか名乗ってないから当然のような。北条を騙るのは氏綱から。

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/04(金) 21:15:27.58 ID:86vESgDD
いくらなんでも早雲は寝入りすぎだろw
寝耳に水でも起きないタイプかよ

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/04(金) 22:55:13.82 ID:UOm9OmPL
>>26
申し訳ありません、手で火を除いて助けたのは笠原だけど
左手が焼けたのは早雲の間違いです。

吉備津宮明神の太刀

2012年01月15日 22:00

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 14:17:58.79 ID:PnXnnzPl
伊勢新九郎が若年の頃のことである。
彼はその頃、備中にあった。

ある夜、夢のなかに新九郎は、吉備津宮の明神から、太刀を賜った。
翌朝、見知らぬ人物が現れ、彼に『毘沙門』の文字が彫られた太刀を持ってきて、
これを新九郎に与えた。そして

「後日、この太刀によって僥倖を必ず受けるだろう」

と言い残し去っていった。
それより新九郎はこの太刀を、累代の重宝として大切に扱った。

その後、新九郎は伊勢に居住した。文明年間は意図せずに得た護符を、
太刀と共に家の中に丁重に納めた。これらは今(寛永期)に至るまで北条家に伝わるという。

長享年間、新九郎は駿河に趣き、姉の子である今川氏親に仕えた。
氏親は彼を、興国寺城に置いた。
(寛永諸家系図伝)

伊勢新九郎に僥倖を与えた、吉備津宮明神の太刀、という話である。




468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 14:28:28.06 ID:6Zk0HwxU
>>467
まさか軍神様はそれを奪うために関東に執着

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 14:42:38.92 ID:vdvFJhDw
今起きたことをありのまま話すぜ!以下ry

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 18:34:14.48 ID:VuOO3RbO
その太刀、今でもあるんかなあ


471 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/16(月) 01:46:03.24 ID:YL6C6JHo
この前友人に好きな武将聞かれて鮭s…最上義光って答えたら何故か「玄ww米ww茶www」
って笑われたが未だに理由が分からないorz

それはそうと、こういう夢のなかで神様から太刀を受け取ったって逸話は多いけど
実際には夜、家臣がこっそり太刀を枕元に置いておいて
、次の日「きっとこれは神が(ry」とか言いつつ主君の士気を高める
…とかありそうな気がするのは自分だけでいい

まあ逸話と史実は違うし、無理に現実的に考える必要はないのだがw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 02:23:37.97 ID:wWpLZu63
>>471
なにその、クリスマス方式。

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 02:30:28.53 ID:blEvnCZ+
>>471
一瞬戦国鍋TVかと思ったがそんな事もなく、戦国BASARAのようですぜ >玄米茶

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 10:49:52.19 ID:eymfK7ns
玄米茶ってそんな時代からあったのか?

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 10:56:22.77 ID:UMtwRRff
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4407.html
政宗から義光に送られてきた紅茶の茶葉をひじきだと思って食べちゃった、て逸話とは
多分関係ないんだろうな

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 11:17:25.92 ID:UMCm6O+O
いい茶葉はそれはそれでおいしいぞw

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 11:57:46.24 ID:Z7H2vYjl
なんだこのくせぇひじき、とか思っただろうなw

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 13:09:33.96 ID:p91pD8I1
戦国大名最上義光 違いの分かる男のゴールドブレンド
義光「ムシャムシャしてやった」