FC2ブログ

新九郎は大いに喜んだ。

2018年08月05日 18:05

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/05(日) 09:00:37.54 ID:dcTjLiP3
新九郎(北条早雲)の住国をあるいは山城国の宇治といい、あるいは大和国の在原と申すのは異説である。

さてさて、この伊勢平氏の先祖を申せば桓武天皇第五の皇子・一品葛原の親王第二の御子・高見王の子息・
上総介高望王が初めて平の姓を賜り、子孫は平氏として武家に下る。清盛の一門がすなわちこれなり。

(中略)

尊氏公愁嘆の時節、尊氏公はある夜に、当家の先祖がことごとく平家を滅ぼしなさったゆえにその報いが
たちまち来たりて子孫長命ならず。されば、世に名のある平氏を召し寄せて国家の政事を執り行わせれば、
子息長命なるべし、との夢を見て目を覚ました。

尊氏公は喜びなさり天下の平氏を尋ねられ、伊勢守盛継に優る者なしとして盛継を近臣とされた。その後、
若君誕生の時に盛継は蟇目の役を勤められ、それより若君の繁昌があったとして御名付親とされた。以来、
公方代々はかの例に任せて、御子誕生の時は必ず伊勢守の家より御名を付けたということである。

(中略)

されば伊勢守の家は管領家にも劣らず出世し奉った。

さて、尊氏将軍より八代の孫を義政将軍といって慈照院東山殿と号した。初め御子のいらっしゃらぬ時に
御弟・浄土寺の義尋を還俗せしめて養子として左馬頭義視と名を改めて今出川殿と号し、天下を譲るとの

契約あって細川勝元を義視の執事となされた。その後、義政の御台所(日野富子)が男子を産みなさり、
公方相続の旨を山名宗全に仰せ付けられた。これにより細川と山名は大いに異論が起きて天下は乱れた。

世に“応仁の乱”というのはこれである。その頃、伊勢守貞親は政事を執行していた。貞親の弟・伊勢
備中守貞藤はかの乱の時に山名入道と深い知音であったゆえ、細川右京大夫勝元は貞藤を憎み公方へ

讒言したため、貞藤はひそかに花の御所を忍び出て伊勢国へ下った。義視公も御身の上を気がかりに思し
召して北畠の中納言教具を御頼みになって伊勢へ御下向された。この時に貞藤の子息・新九郎長氏も、

もとより今出川殿が御還俗の以前より御馴染みであったゆえにかの地へ参り、今出川殿へ見参したのだが、
あくまで御旅亭であるから、むやみにいつまでそこにいるべきかとなった。伊豆国には義政公の御弟・

政知公がいらっしゃった。そのうえ親族もいたから新九郎は関東へ下ろうと思い立ち伊勢大神宮へ参って
弓矢の冥加を祈念したところ不思議の霊夢を蒙った。そしてひとつの神符を求めたところ、

「諸願成就、子孫繁昌疑いなし」とあったので新九郎は大いに喜んだ。

――『北条五代記』

北条五代記もやっぱり早雲は伊勢氏出身としていますね。


スポンサーサイト

伊勢新九郎盛時という者があった

2018年07月20日 12:31

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 22:04:00.97 ID:VToEx01u
その頃、駿州興国寺の城主に伊勢新九郎盛時という者があった。後には北条氏長と改名し、剃髪した後は
早雲寺宗瑞居士と言った。

彼は文武二道に達し、才知抜群の士であった。京都にあった伊勢貞国の外叔父の甥にあたる。
彼の先祖である伊勢伊賀守盛綱は、建武年中等持院殿(足利尊氏)による天下草創の時手越河原の戦いで
討ち死にした。以来代々、京都公方家の御供衆であり、また一族であったので代々伊勢守家伊勢氏と
相親しんでいた。

新九郎盛時は先年、今出川殿(足利義視)のお供をし伊勢に下ったのだが、関東兵乱の久しきを鑑みて、
時運に乗じて我家を興起せんと思ったのか、京には帰らず、駿河国府中の城主である今川義忠という人が、
駿河一国の守護にて盛時の姉聟であったので、これを頼んで新九郎は駿州へ下った。

その頃、隣国との合戦があって義忠は討ち死にし、その家督である五郎氏親はようやく7歳の幼児であり、
国政に関われるはずもなく一族老臣たちが我意に任せ威を争い、様々に分かれて合戦に及んだ。
このような中、新九郎は氏親を助け様々に和議を以てこの騒乱を集収し、終には駿河を平和に治め氏親の
世と成した。氏親はこの忠義に感じ入り、同国興国寺の城に富士郡を副えて新九郎に与えたのである。

(應仁後記)

現在の研究に照らし合わせて、「盛時」の諱なども含めて、相当正しく伊勢新九郎盛時の履歴を描いている應仁後記の記事。


伊勢新九郎の伊豆討ち入り

2018年02月07日 19:38

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/07(水) 19:03:12.81 ID:p0mpqMFF
その頃、関東は上野を本拠とする山内上杉と、相模を本拠とする扇谷上杉の間が不和となり合戦に及び、
このため山内上杉の勢力下にあった伊豆の侍たちは皆、上野へと馳せ参じた。

この状況を察知した伊勢新九郎は、「願うに幸いである。これ天の与える所時を得たり」と、
自領の百姓どもを招き、この内武の用に立つべき者共を近づけて言った

「相模、上野両国に弓矢起こって、伊豆の侍たちは皆上野に参っており、今や百姓ばかりである。
私は、伊豆の国を切って取る。我に同心合力せよ。
その時はお前たちの忠恩に、必ず報いるであろう。」

百姓たちはこれを聞くと
「累年の御憐れみを忘れることは出来ません。御扶持人(在村給人)も我らも同意します。
我々は地頭殿を、一国の主に成し申さんと願い、たとえ命を捨てるとも微塵も惜しくはありません。
どうぞ、決断し実行されませ。」
そう、衆口一同に返答した。
新九郎はおおいに喜悦し、その上近隣他郷の者までも、この事を聞いて、新九郎殿に与力せんと参集した。

伊豆国北條には、堀越の御所成就院(足利茶々丸)という名高き人があった。
新九郎は「軍のはじめに、先ずこれを討ち滅ぼす!」と、延徳年中の秋、百姓たちを引き連れ夜中に
北條に押し寄せ御所の館を取り巻き鬨の声を上げ家屋へ火をかけ焼きたてた。御所は肝を消し、
防ぎ戦うべき事を忘れ、火炎を逃れ落ち行く所を追撃され、郎従共に皆討亡した。

新九郎が北條に旗を立てると、伊豆国の百姓たちはこれを見て「駿河の大将軍として、伊勢新九郎が
攻めてきた!」と、避難のため山嶺に逃げたが、新九郎はこのような高札を立てた

『伊豆国中の侍・百姓は、皆以って味方すべし。本知行は相違なく保護する。
ただし、もし出てこない場合は、作物を尽く刈り散らし、在家を放火する。』

これを見て百姓たちは我先にと馳せ来て「私はどこそこの百姓」「どこどこの郷の長」などと
申し上げると、彼らの地所相違なしとの印判を取らせ、皆々安堵した。

また、佐藤四郎兵衛という侍が一人、降人と成って新九郎の前に出た。
新九郎は「伊豆国中田方郡大見郷は、佐藤四郎兵衛先祖相伝の地であり、最初に味方したこと
神妙である。今度改めて地頭職を申し付ける。子々孫々永代に渡り、地の妨げは無い。
百姓らもこれを承知すべきで、あえて違失あるべからず。」
と、印判を出した。

上州に参じていた伊豆の侍たちはこのことを聞くと、急ぎ馳せ帰って降人となって出た。新九郎は、
本地皆領納すべき旨の印判を出した。そのため、伊豆の侍は一人残らず新九郎の被官となり、
30日の内に伊豆一国が治まった。

(北條五代記)

伊勢新九郎の伊豆討ち入りについて



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/08(木) 10:55:16.87 ID:ygpHBN7f
>>622
上野と伊豆が同心なら相模を挟めるのに上野に出向くとは阿呆の極み

最後の後南朝

2017年09月18日 18:40

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 18:27:32.39 ID:ur7iNDF1
最後の後南朝

明徳三年(1392)に南北朝の合一が成った後も、南朝の残党(後に後南朝という呼称が作られた)は
禁闕の変などの武装蜂起を起こしたり、応仁の乱で西軍に祭り上げられたりと度々歴史の舞台に登場していた。、
しかし15世紀末のある記事を最後に、遂に後南朝は史書からその姿を消してしまう。

明応八年(1499)
此年の霜月、王が流されて三島にお着きになられた。早雲入道が諌めて、相州へお送りになった。
『妙法寺記』

たった一行の短い記事だが、「王」(後南朝の王とされる)が関東へ流され、途中で伊豆の北条早雲(伊勢宗瑞)が
それを迎えて、何かの罪(南朝復興の活動か)を犯したことについて諌め、その後相模へ送り出したというもの。
この記事が史書に見える後南朝の終見で、相模へ送られた王のその後の行方はまったく分かっていないが、
南朝の歴史の最後に、意外な人物とちょっとだけ接触があったよ、という話。



235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/17(日) 18:54:07.83 ID:zv/ao8/x
森茂暁「闇の歴史、後南朝」だと確実な後南朝の最後は山名宗全関連のようだ、以下抜粋

東京大学史料編纂所編纂の 『大日本史料第八編 』の一一 、文明一一年 (一四七九 )七月一九日の条には 、
「小倉宮ノ王子 、越後ヨリ越前ニ到ラセラル 」という綱文のもとに 、
① 『晴富宿禰記 』文明一一年七月一九日の条 、
②同記 、同三〇日の条 、
③ 「妙法寺記 」文明一〇年霜月一四日の記事 、
④同記 、明応八年霜月の記事を掲載している 。
なお ③ ④は 『続群書類従第三〇輯上 』に収められる 「妙法寺記 」にも載せられている 。妙法寺とは甲斐国都留郡の妙法寺 。

①は山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた 「南方の宮 」が国人らに送られて 、越後より越前国北荘へ移ったということ 、
②は 「出羽王 」が高野へ向かう道中のこと 、
③は 「王 」が京都より東海に流され 、甲斐に赴き小石沢観音寺 (現山梨県笛吹市 )に滞在したこと 、
また ④は 「王 」が明応八年一四九九 )霜月に流されて三島 (現静岡県三島市 )に着き 、
「早雲入道 」 (北条早雲 )が諫めて相模国に送ったこと 。
『大日本史料 』当該巻の編者が 「王子 、越前ニ到ラセラルヽ日ヲ詳ニセズ 」
「王子ト出羽王 、並ニ妙法寺記ニ記セル王トノ関係明ナラ 」ずと注記しているとおりで 、詳細は不明のままである 。
比較的信頼のおける南朝皇胤の所見史料の最後は ①であろう 。

伊勢宗瑞の伊豆取り

2015年01月13日 18:54

553 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 15:02:47.57 ID:QnBHyRdV
その頃、伊勢平氏葛原親王より続く子孫(桓武平氏)に、伊勢新九郎入道宗瑞という人があった。
伊勢国の住人であったが、壮年の頃より京都に上り、将軍家に奉公していたそうである。

少年の始めより生涯、山野江海において猟漁を好み、馬に乗って悪所を越え岩石を駆け上がる事は、
まるで神変を得ている如しであった。あの造父(周繆王に仕えていた優れた御者)は馬を御して
千里を走っても疲れること無かったと言うが、この新九郎以上ではなかったであろう。

水練もまた、馮夷(ヒョウイ:中国神話の水神)の道を得ており、驪竜頷下の珠(黒色の竜の顎の下にある珠)
をも奪うことが出来るほどであり、
弓は養由基(春秋時代の武将で弓の名手)の跡を追う程で、弦を鳴らしてはるかな樹上に居る猿を
落とすほどであった。
彼は謀に巧みで、人を良く観察し、気力健やかで心も不屈であったので、戦場に挑むごとに
敵を退け、堅きに当たり強きを破ること、樊カイ・周勃が得られなかった所を得ていた。

そういう人であったので、似た者たちを友とし、その頃伊勢国に荒木、多目、荒川、在竹、大道寺、
そして新九郎の7人、いずれも劣らぬ勇士たちであったが、彼らは常に近づき共に交遊していた。

ある時この七人、一同に関東へ弓矢修行に下る時、七人神水を飲んで誓ったことには、
『この七人、いかなる事があっても不和になってはならない。互いに助けあって軍功を励まし、
高名を極めるべし。もしまた、一人優れて大名となれば、残る人々はその家人となって、その一人を取り立て、
国々を数多治めよう。』
こうしてそれぞれに東国に下り思い思いに活動する中、伊勢新九郎宗瑞は駿河の国司である今川氏親に仕えた。
そして度々戦功があったので今川殿はその功を感じ、富士郡下方庄を与えられ、興国寺城に在城した。

その頃、伊豆国は山内上杉家の分国であった。伊豆は興国寺よリほど近く、どうにかして伊豆国を
討ち取ろうと、宗瑞は常に考えていた。

554 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 15:04:40.75 ID:QnBHyRdV
伊豆国には、堀越御所と呼ばれた公方があった。この御所は、去る長禄二年(1458)、京都の
将軍である足利義政の舎弟、政友卿が関東に下向あって伊豆国に御旗を立てたものである。
その子孫が今の堀越御所であった。
かの御所の侍に、外山豊前守、秋山新蔵人という忠功の士があったが佞人・奸臣らが彼らの出頭を妬み、
讒言したのを、御所も御運の末であったのだろう、糾明することもなく二人の士を討ち取ってしまった。
これに家中の面々大いに騒ぎ、お互いに疑い合って国中混乱した。

この時、宗瑞は伊豆国に湯治をしてこの有り様を見聞し、「今である」と判断した。
山内、扇谷の両上杉は関東において絶え間なく争っており、伊豆国は山内家の分国であったために
国中の軍兵、並びに御所侍たちも跡を払って関東へと出陣していた。残る兵は僅かであり、これに
宗瑞は大いに喜び、かつて七人の約束をした荒木、山中、大道寺など六人を呼び、また今川殿にも
この旨を申して加勢を請い、伊豆に向かって出陣した。

堀越御所は俄なことでもあり、立て籠もるべき兵もなく、いかがすべきと驚き、山林に立て籠もった。
御所の家中の武士の内、関戸播磨守という者名乗り切って出てしばし戦ったが、終に討ち死にした。
その後、堀越殿もかなわずと自害したため、宗瑞は伊豆を侵攻し北条に旗を立て、韮山の城に在城した。

そして『末代に至った凡下の侍は義を忘れ、欲に命を忘れるのだ。』と、多年蓄えた金銀米銭を取り出し、
これを尽く施した。このように民を撫育し軍兵を哀れんだので、伊豆国は申すに及ばず、近国の
牢人達まで、我も我もと韮山殿へと参った。

その中でも伊豆の住人である、三津の松下、江梨の鈴木、火見の梅原、佐藤、上村、土肥の富永、
田子の山本、雲見の高橋、米良の村田などという侍たちも我劣らじと駆けつけた。
彼らは山内上杉の支配に抗い、堀越御所の政道に背いた者達であったが、宗瑞の器量は只人に非ずと
それぞれ同心して、皆彼の下知に従うことにしたのである。

こうして、神水の誓いをした六人は宗瑞の家老となって伊豆国を治めた。
その威は近隣に響き、軍勢は招かなくても集まり、攻めなくとも従った。
それはただ風に草木がなびくようであった。
(相州兵亂記)

伊勢宗瑞の、伊豆取りまでの逸話である。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 19:02:05.84 ID:O+SAY8hh
これ深根城の戦いことかな?
この関戸播磨守って関戸吉信のことかと思ったら官職名見たら父・宗尚のことになってる。
と油断してたら吉信も播磨守の官職だったでござる。

関戸吉信の奥さんは上杉憲実の娘なのねえ。

関戸家って関東管領家からかなり信用されてた家だったのか。

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 11:43:58.80 ID:8DfnmH1g
堀越と深根との両所に討ち死にしたって話があるみたいね
関係ないけど、早雲の小田原攻めは地震のあとのどさくさに紛れて行われたんだね

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 15:18:15.80 ID:I5LgzJhZ
>>556
小田原じゃなくて伊豆攻めじゃない?まあ伊豆攻めも明応大地震と時期的に合わないみたいだけど。
あと軍記物にあるような小田原攻めは存在しなかったというのが、昨今は定説だね。

北条早雲逝去

2015年01月11日 17:09

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 08:27:00.73 ID:aKWPqlZr
北条早雲逝去

永正十六年八月十五日、北条早雲伊豆国韮山の城で逝去された。
生年已に八十八歳、これまでもなお眼にかすみがなく、耳も定かで、歯牙にも欠損はなく、ただ白髪であるばかりで、
精神の正しき事、さながら壮年の時と変わらず、誠に布衣白屋(布衣=無官、白屋=貧乏人)の下から立てて、
一家を起こせるほどの果報がある故であると、人はみな感じ思わぬ者はいなかった。
当国の修禅寺で送葬し、一片の煙と焼き上げて、遺言の旨に任せ、小田原の湯本に墳墓を築いて、金湯山と号して、
洛陽紫野大徳寺の僧某長老を請いて、仏事を営み、早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門と称す。
昨日までは、相豆両州の太守となり、弓矢の威名を東国に震い、今日は忽ちに白骨を、黄壌に埋めて、一菊の卵塔に神魂を棲ませる。
人世誰かこの苦を免れるだろうか、高きも賤しきも、遂に同じく黄泉下に帰るのだ、誠に儚い生涯である。
(鎌倉九代記)



534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 09:42:09.93 ID:+DfIPhPS
己にしたがい行くは只是れ善悪業等のみなり
造悪の者は堕ち、修善の者は昇る
毫釐もたがわざるなり

『高祖出陣の守り

2014年03月21日 18:37

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 16:02:55.91 ID:L3GgUvBf
伊勢新九郎は小田原の城守大森筑前守を攻め出して、
小田原を取った。

その時、新九郎は搗栗(勝栗)を持っていて、
その噛んだ歯の跡のある搗栗を北条家は代々受け伝えた。

それを『高祖出陣の守り』といって、出陣の時に歯にあてた。
新九郎は北条家の先祖なので高祖と呼ぶ。

(其時新九郎。搗栗を持て。かまれし歯あとあるを。
代々取伝て高祖出陣の守りとて出陣の時歯にあてらる。
新九郎は北条家の先祖ゆへ高祖と云)

――『武功雑記』




665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 18:10:02.99 ID:vn2csnUK
北条六代の全員に前歯があったことが確認されたな

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 20:33:01.98 ID:xXn8FclR
勝ち栗ってそんなに長持ちするのかよ

【話題】「火牛の計」は津波?

2013年07月27日 19:56

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 08:05:18.88 ID:or5clOXr
本当だったら面白い話

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130726-00000009-kana-l14
「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川


780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 08:18:36.59 ID:MbCsF4HX
>>779
これはさすがにありえないなあ。
明応の大地震・大津波の時、伊勢宗瑞は小田原どころか伊豆討ち入り前だし、
そもそも小田原城奪取も、扇谷上杉配下だった大森氏が山内上杉に寝返ったことから。
扇谷上杉の要請で攻め落としたというのが今はほぼ定説になっているし。

北条早雲『夢の御剣』

2013年07月18日 19:50

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/17(水) 20:11:52.75 ID:Er1CMP1q
伊勢新九郎長氏は子供の頃から武芸に励み、家を興し父母の名を後代に残さん事を工夫し、
備中国吉備津大明神に願をかけ、三七日(21日)参籠が満るその夜、夢のなかに

『東国に行き給え、御剣を遣わすであろう。』

と顕れたため有難く思い、東国に向かうとその途中、華表の傍にて旅人に行き会った。
彼が申すには

「私は路銀が無くなってしまい、大変難儀しています。この刀を差し上げますので、
代金を頂けないでしょうか?」

新九郎は『夢に出た御剣とはこの事である。』と悟り、刀を買い取り三度押し頂いた。
それから武者修行を思い立ち、近郷にて名家の子息、内藤、笠原、二階堂、大道寺、
松田、井上、平井といった勇士30人が新九郎に同道して、諸国に武者修行に出た。

そして数度の戦功があった後、駿河太守の妻は新九郎の叔母であったため、駿河に下り
扶持を請け、新九郎は大気者であるとの評価を得て、興国寺城番大将となった。

延徳年中に堀越城主足利茶々丸を攻め取り城主となる。
その後相模国小田原城を乗っ取り、姓名を改め北条早雲瑞公となり、関八州の太守と成られた。

(中國兵亂記)

伊勢新九郎盛時の故郷である備中のあたりに伝わったと思われる、北条早雲についての伝承である。





伊豆の生薑は伊勢のはじかみ

2013年01月04日 19:59

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/04(金) 18:25:46.25 ID:UOm9OmPL
足利茶々丸の死後、北条早雲は伊豆の侍の帰順や土民百姓の待望を
背景に御所の跡を残らず押領した。その時、茶々丸の侍・戸山が早雲の
野宿する御堂へ忍び入って火を放ち夜討ちを仕掛けた。

この時、運も尽きたということだろうか、早雲はぐっすりと寝入っていたので
枕の上に火が及んでも気付かなかった。しかし間一髪のところで笠原が
走って来て、手で火を払い早雲を救い出した。

だが、笠原の左手は焼けてしまい、指も皆焼け落ちて生姜のようになって
しまったのだとか。夜討ちを仕掛けた敵は皆逃げ落ち、あるいは討ち取られた。

元々生姜は『はじかみ』と呼ばれた。しかしこの一件より伊豆国では早雲を
恐れて『しょうが』とばかり言うようになった。その頃、何者かが早雲の門に
落書を立てた。

「草の名も所によりて替りけり伊豆の生薑は伊勢のはじかみ」

本名が伊勢氏だったのでこのように言ったのである。

――『異本小田原記』




27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/04(金) 20:21:43.58 ID:E79KxmtN
早雲の代は伊勢しか名乗ってないから当然のような。北条を騙るのは氏綱から。

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/04(金) 21:15:27.58 ID:86vESgDD
いくらなんでも早雲は寝入りすぎだろw
寝耳に水でも起きないタイプかよ

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/04(金) 22:55:13.82 ID:UOm9OmPL
>>26
申し訳ありません、手で火を除いて助けたのは笠原だけど
左手が焼けたのは早雲の間違いです。

吉備津宮明神の太刀

2012年01月15日 22:00

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 14:17:58.79 ID:PnXnnzPl
伊勢新九郎が若年の頃のことである。
彼はその頃、備中にあった。

ある夜、夢のなかに新九郎は、吉備津宮の明神から、太刀を賜った。
翌朝、見知らぬ人物が現れ、彼に『毘沙門』の文字が彫られた太刀を持ってきて、
これを新九郎に与えた。そして

「後日、この太刀によって僥倖を必ず受けるだろう」

と言い残し去っていった。
それより新九郎はこの太刀を、累代の重宝として大切に扱った。

その後、新九郎は伊勢に居住した。文明年間は意図せずに得た護符を、
太刀と共に家の中に丁重に納めた。これらは今(寛永期)に至るまで北条家に伝わるという。

長享年間、新九郎は駿河に趣き、姉の子である今川氏親に仕えた。
氏親は彼を、興国寺城に置いた。
(寛永諸家系図伝)

伊勢新九郎に僥倖を与えた、吉備津宮明神の太刀、という話である。




468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 14:28:28.06 ID:6Zk0HwxU
>>467
まさか軍神様はそれを奪うために関東に執着

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 14:42:38.92 ID:vdvFJhDw
今起きたことをありのまま話すぜ!以下ry

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 18:34:14.48 ID:VuOO3RbO
その太刀、今でもあるんかなあ


471 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/16(月) 01:46:03.24 ID:YL6C6JHo
この前友人に好きな武将聞かれて鮭s…最上義光って答えたら何故か「玄ww米ww茶www」
って笑われたが未だに理由が分からないorz

それはそうと、こういう夢のなかで神様から太刀を受け取ったって逸話は多いけど
実際には夜、家臣がこっそり太刀を枕元に置いておいて
、次の日「きっとこれは神が(ry」とか言いつつ主君の士気を高める
…とかありそうな気がするのは自分だけでいい

まあ逸話と史実は違うし、無理に現実的に考える必要はないのだがw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 02:23:37.97 ID:wWpLZu63
>>471
なにその、クリスマス方式。

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 02:30:28.53 ID:blEvnCZ+
>>471
一瞬戦国鍋TVかと思ったがそんな事もなく、戦国BASARAのようですぜ >玄米茶

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 10:49:52.19 ID:eymfK7ns
玄米茶ってそんな時代からあったのか?

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 10:56:22.77 ID:UMtwRRff
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4407.html
政宗から義光に送られてきた紅茶の茶葉をひじきだと思って食べちゃった、て逸話とは
多分関係ないんだろうな

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 11:17:25.92 ID:UMCm6O+O
いい茶葉はそれはそれでおいしいぞw

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 11:57:46.24 ID:Z7H2vYjl
なんだこのくせぇひじき、とか思っただろうなw

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 13:09:33.96 ID:p91pD8I1
戦国大名最上義光 違いの分かる男のゴールドブレンド
義光「ムシャムシャしてやった」

もともと松平一族の本宗家は

2010年09月28日 00:00

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 20:32:56 ID:+J+LgG29
十六松平で思い出したが、『三河松平一族』によるともともと松平一族の本宗家は
岩津松平だったが、伊勢新九郎(北条早雲)による今川家の西三河侵攻でヌっ滅ぼされて、
それで本来分家だった安城松平が、この戦いでの活躍から本家になったんだそうな。




290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 21:40:12 ID:sIVLtUOV
伊勢さんはホント業が深いでぇ

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 22:01:58 ID:7O5cEVJo
>>289
晩年はしょうもない抜け殻だったにしても、長親さんは頑張ったんですね

早雲様のありがたいお言葉~友について~

2010年02月17日 00:17

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 22:07:45 ID:7dTwAIMf
早雲様のありがたいお言葉~友について~

友はよい友を求めなさい。手習学問の友がよい友である。
碁、将棋、笛、尺八などの友は悪友である。こういう事は知らないから
恥になるというわけではない。習って悪いとは言わないが、いたずらに時間を
ついやす事になるであろう。

人の善悪はすべて友によって決まる。三人集まれば、その中に必ず師がいるものである。
友の中の善い人を選んで従いなさい。悪い人は遠ざけて、つき合ってはいけない。




945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 22:27:38 ID:4GI3bVQw
>>944
早雲さまは本当にいい事を言うな

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 22:35:55 ID:nu+sYiRw
要するに漫画とかゲームとか音楽とかやってる暇あったら勉強しろよって言ってんだぜ?w

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 22:42:43 ID:WofikhEd
惜しいな
このスレ読んでるぐらいなら勉強しろって事だ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 23:26:10 ID:tTbVKweV
>>944
仲間内で先に大名になったやつに従うって約束をした話があったよね、早雲。
殺伐とした時代だったからこそ友人のありがたみが身に染みたんだろうね。

まぁ一方で元就さんは「俺に真の友達なんて一人もいやしねえよ」って愚痴ってるがw

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 01:09:38 ID:dTj6ePcN
良い友を選びなさいか
よーし、>>948、>>937、>>916とお友達になる

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 05:11:57 ID:OfGb73Pj
>>944
下の2行は早雲様オリジナルじゃなくて
論語だったか孔子あたりが言ってた気がするが

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 05:20:52 ID:oGVz7wa8
論語にあるね。

孔子曰「益者三友、損者三友。友直、友諒、友多聞、益矣。友便辟、友善柔、友便佞、損矣。」

[ 続きを読む ]

北条早雲「我が領内に盲人は無用である」

2009年10月03日 00:14

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 16:57:59 ID:JAxanAu3
北条長氏(早雲)がある時
「我が領内に盲人は無用である」
と言い出した
「これより先、我が領内の盲人は悉く捕らえて海に沈めてやる」と言うのである
驚いた北条領内の盲人達はみな我先にと四方に逃げていった

しかし早雲は捕らえてみせた数名の盲人を殺しはしなかった
早雲は彼らを再び釈放すると
「このまま北条の領内に居ては死んでしまうと言い、他国へ入れ
そしてその国のことを儂に知らせよ」
とこっそり命じた

かくして北条領内から逃げ出した盲人達は早雲の間者として働いたという




27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 17:40:57 ID:hJPfuS3G
盲人を間者にかあ。考えるなあ……ってか、当時はそんなに盲人いたのかな?

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 17:43:36 ID:o7gqpU5D
昔は目医者もいなかったし、薬らしい薬がなかったので目を病む人がとても多かったんだよ
幕末の頃に蘭学のおかげでようやく進歩が見られるようになりました

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 17:48:42 ID:hJPfuS3G
>>28
なるほどなあ、㌧

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 17:49:16 ID:vu/RrDqQ
黒田如水がアップを始めました。

106 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/03(土) 19:35:18 ID:hqLa50eM
>>27
島津日新斎も盲僧をスパイとして送り込んだって史料にある


だんごくび

2009年09月11日 00:20

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 22:01:41 ID:SsWmRsdc
いい話スレで地名についての話題が出てたの、こっちに書き込んでみる。


だんごくび

永正9年(1512)のこと、相模の国、相模野の大庭城に、北条早雲率いる軍勢が
攻め寄せた。

が、大庭城の周辺は一面の沼地であり、さすがの早雲も攻略の糸口すら
見つけられなかった。

「あの沼地を何とかせねば。どうにか水を引かせることはできないか?」

しかしいたずらに軍議を重ねるだけで、日は過ぎていった。

そうして困り果てていた北条軍のある武将が、ふと、城の対岸で牡丹餅を売っていた老婆に
相談してみると、その老婆

「そんなの、わけも無い事ですよ。大庭城は堤を作って城の周囲に水をためているのです。
その堰を切れば、水はたちまち干上がりますよ!」

武将は大いに喜んだ。が、老婆の口からこの情報が他に漏れるのを恐れ、
その場で切り殺した。

そして早雲の軍はその夜のうちに堤を崩す。すると城の周囲の水はたちまち引き、
早雲の軍の総攻撃に、さしもの大庭城もついに落城した、とのことである。

さて、殺された哀れな老婆は、土地の人たちに大庭城の近くに葬られ、そこに
地蔵が祭られた。その地蔵は『船地蔵』と呼ばれ、今も土地の人々に、大切にされている。

そして老婆が牡丹餅を売っていた場所は、それ以後「だんごくび」と、呼ばれたと言う事である。

そんな、今も相模に伝わるお話。


まあ、ぶっちゃけると、牡丹餅売りなんてのが現れたのは江戸期からだし、
なにより早雲の軍による大庭城攻め自体、存在しなかったらしいのですが、
地名に関しての伝わる、戦国時代の伝説のお話。







「七人の侍」の約束

2009年06月27日 00:07

790 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/26(金) 00:12:51 ID:OiOww81/
ある時伊勢の国での出来事である。
七人の侍が神社に集まり、その中の一人が言った。

侍「これから東国へ下るが、我々は仲間だ。この七人の中で一人が出世して大名になったら、
  残りの六人は家臣としてもり立てよう。
  そして大名になった者は主君として、家臣となった六人を重臣にしよう。」
六人「おう!」

こうして七人の侍達は神水を酌み交わし、出世したときの約束を取り交わし、東国へ向かった。
長い期間が過ぎたがその中の一人が大名になった。北条早雲である。
六人の家臣となった仲間達は約束を守り、家臣として北条家草創期の早雲を
陰となり日向となり、又、戦の時は手足となって働いた。
早雲は、これら仲間達との約束を守り、重臣として取り立てたのである。

後の創作といわれているが、早雲の野望を支えた者達の話でした。
ちなみに、この話で出てくる大道寺と多目は「御由緒衆」として本当に重臣となっています。
多分北条家内に、元ネタはあったのでしょう。




791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 00:22:03 ID:ylmha9Ft
漢ってやつぁ・・・

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 00:27:05 ID:Q6csKigg

>>790
( ;∀;)イイハナシダナー

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 01:18:02 ID:r3yc8kAS
>>790
創作ってわかってなけりゃ感動できたんだが・・・


二人の又四郎・怖い話

2009年05月28日 00:01

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/27(水) 12:00:40 ID:+liEFnnL
ちょっと怖い話に便乗

北條早雲こと、伊勢宗瑞の頃の事である。小田原城下に、百姓と家臣の下輩の者たちが少々
住んでいる村があった。中間の西岡又四郎と言う者もここに住んでいたが、あるとき煩い、
程なく死んだ。

その夕刻、日が暮れてから野原に埋めようと、又四郎の家に朋輩達が集まって、日が落ちるのを
待っていると、そこに見慣れぬ男がやってきた。

彼は集まる人々に挨拶もせず死者の前に座ると、声を限りに啼いた。その哀れな様子に、
おそらくこの人は、又四郎の親族か親しい友人なのだろうと皆は思った。
所がこの時である、突然、死体がむくりと起き上がった。

これに啼いていた男も立ち上がり、この死者と取っ組み合い、殴り合いを始めた。
しかし殴り合っているものの、双方一言の声も発しない。
集まっていた人々は大いに驚いたが、どうしていいかもわからず、皆その家から逃げ出し、
その家の戸を閉め二人を閉じ込めた。

しばらく戸の内から、打ち合う音が聞こえていたが、日が暮れた頃にそれも静まったので、
人々、再び集まりその家の戸を開けた。

そこには二人が並んで臥し、死んでいた。

見れば二人、背の高さ、顔かたち、髪や髭の有り様、その衣服まで全く同じ姿であった。
又四郎にいつも接していた朋輩ですら、どちらがどちらか、見分ける事ができなかった。

そのような事なので、一つの棺に二人を入れ、塚を作りそこに埋めた、とのことである。

何がどうなったのか良くわからない、二人の又四郎のお話。








763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/27(水) 16:42:01 ID:kRrENiSz
>>759
これ面白いな。
ドッペルさんにしては実態があってしかも死亡してるし、
実は双子だったにしても服装など一致しすぎてて妙だし、
影武者にしても行動の意味が分からない・・

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/27(水) 18:07:27 ID:h66OkbIN
>763鬼や物の怪の類と何か取引があって、契約を果たさないまま(半身が)なくなってしもうたんかね。

まあ不思議噺で意味は分からないんだけども


北条早雲の評価

2009年02月03日 00:04

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/02(月) 08:54:48 ID:p9PBXyvO
北条早雲の評価

当時の人
「彼は痩せているけども天下の英雄だよ
 徳のある彼の領地は平和的に治められている」

「老人になっても壮年とほとんど変わらず身体も心もしっかりしている
 低い身分からあそこまで繁栄したことに人々は感じ入っている」

「金持ちのように蓄えることばかり考える者は武士に相応しくない
 しかし早雲は針のような小さなものすら蓄えるが、いざ合戦になれば
 玉を砕くこともいとわない人だ」


しかし江戸時代になると
「小田原城を奪った時のやり方は裏切りもいいところ。卑怯極まりない」

「早雲寺の肖像を見ればわかるけど嫌な顔してるよね。醜い顔だ」

「あんな人を馬鹿にした食えない男は英雄じゃねぇ」




192 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/02(月) 09:23:25 ID:jHcr0HH1
>>191
(一応小さな大名として続いてはいても)基本滅んだ家は、あまりよく言われないよね。
小早川秀秋とかもこの類。
逆に前田家は大大名として残ったために、徹底的な情報管理が出来た。

あと、江戸の庶民は大名なら10万石以下、旗本なら1000石以下は相当馬鹿にしてたらしいね。
狭山藩1万石じゃ、ぼろぼろに言われていたんだろうなあw

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/02(月) 10:01:58 ID:yRP2NTQM
>>191
最上義光の場合

当時の人
「義光公は智勇仁の三徳を兼ね備えておられ、評判の御方です。
近隣のみなが慕ってつかないということがありませんでした。」

「およそ出羽のうち、秋田家の領土以外がみな彼の領土になったのは、
彼の智勇が先祖よりはるかにすぐれていたからです。」

「武勇は人にすぐれ、よく部下をいたわり、たとえば親が我が子をあわれむように
接していました。」

「その性格は寛大で柔軟、しかも勇敢なのに邪悪ではありません。
この人が太守ならば、この人の家臣であると皆もうしております。」

「最上義光公は年貢をとらかったのに、今の殿様は魚や網までかける。」

義姫も
「義姫様は日頃の戦乱を見ては心をいため、国がやすらかに反映するよう
気にかけておいででした。」

ついでに駒姫は京都でもその美貌と最期が評判になっていたのだが…

上杉から
「上杉家は徳川家康公に従うつもりでしたが、とりあえず最上義光は
悪いので、憂慮なされた景勝公は最上を襲いました。」

伊達成実から
「義光は極悪非道、輝宗公にも政宗にもたてつきやがった。
おまけに娘殺されてざまぁw」

伊達家中記録はもうめんどくさいので省く。
昭和になってから「羽州の狐」orz

そして今…義理2…orz

198 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/02(月) 16:52:59 ID:ayLw29dF

>>193
逸話だから突っ込み入れるの無粋だが
秋田家以外の出羽をって・・・明らかに当時の人の意見じゃねーよなぁ。
上杉の庄内米沢や小野寺横手や戸沢角館や由利や六郷やら
すべて黙殺って、あまりにマンセーし過ぎだろ。
秋田転封後なら佐竹の名を出すだろうし。
そのレス自体がwikiからの転載だろ?そんなら
「軍記物語における江戸期の評価」ってwikiには書いてあるのに
意図的削除してまでマンセーすんなよ。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/02(月) 17:08:19 ID:I8VF2RHy
お前らモメるならせめてちょっと悪くモメろ

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/02(月) 21:30:23 ID:3ZeJ10Ju
>>202
「うるせぇ、百段で踏み潰すぞ。」こうですか?(悪く揉める)

早雲寺殿廿一箇条、 第十四条・教訓

2009年01月10日 00:12

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 21:06:38 ID:Z68yCiyN
戦国の幕開けを飾った英雄、伊勢宗瑞(北条早雲)の有名な早雲寺殿廿一箇条より、
第十四条にある、いい言葉


「いいか、身分の高い者にも、低い者にも、どんな人に対しても、一言でも、半句であろうとも、
決して嘘だけはつくな。
どんなささいなことでも、ありのままに話すんだ。

嘘で物事を取り繕えば、それは必ず癖になる。そうなったらたちまち信用を失い、人から見限られる。
そうして、その嘘を人から糾弾されるようなことになれば、それは一生の恥になる。

いつも、そう心得ておくんだぞ。」




5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 21:09:15 ID:elpnJgLB
嘘ばっか付いてる俺には耳の痛い話だな…

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 21:34:28 ID:X6OtJiIx
>>4
あれ?

早雲さん、どうやって小田原城盗りましたっけ?

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 21:38:16 ID:elpnJgLB
仏の嘘をば方便といい、武士の嘘をば武略という。百姓は可愛いことなり

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 21:46:52 ID:Z68yCiyN
>>6
例の鹿狩りは後世の創作だからねえ。
小田原城主の大森氏は、もともと扇谷上杉方で、伊豆公方-山内上杉ラインと対立する
宗瑞の味方だった。
なんせ、山内方の小田原城への攻撃に対し、大森氏への援軍として伊勢宗瑞の軍勢が
入ったって記録すら残ってる。


宗瑞さんの小田原城攻略の経緯は、

大森氏、扇谷から山内に寝返る→伊勢宗瑞、扇谷の要請を受け小田原城を攻める→大森氏を破り奪取

こんな感じらしい。

北条早雲の初夢・いい話

2009年01月02日 00:05

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 19:14:23 ID:QmmgLQvF
初夢

ある年、北条早雲は不思議な初夢を見た。
一匹のネズミが杉の木にかじりつき、二本目をかじり倒すと虎に変身する、という夢だった。

早雲「なんという吉夢!今年から当家は大躍進する事、疑いないわ!!」

家臣「はて、そんな夢がなぜ当家の開運につながるので?」

早雲「フッフッフ、教えてやろう。実はワシはネズミ年の生まれじゃ。つまりネズミが杉二本を
   倒すとは、このワシが扇谷・山内の両上『杉』を倒し、関東の王になる、という事よ!
   これが吉夢でなくてなんであろう!!」

早雲の話を伝え聞いた家臣・領民は奮起して、打倒上杉に力を振るうことになる。

また、早雲は虎を開運の霊獣として、自分の印章に虎を描いた、いわゆる『虎印判』を
使うようになり、以来この印が北条五代の当主の印となった。 (北条記)

最近じゃ早雲さんは幕府官僚で、関東下向は幕命って説もありますが、逸話は逸話として。
みなさんの初夢が早雲のようにビッグかつ正夢でありますように・・・



729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 19:32:33 ID:75dBz+oJ
まあ、深谷上杉なんてのもいたんですけどねw

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 23:11:37 ID:KSZ4CMuh
>>728
なんだ両上杉を倒したら寅年寅月生まれのあの人が
湧いて出てくるから気を付けろという予知夢かと思ったのに。


736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 23:54:40 ID:oxcACgSi
>>735
!!

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 23:57:39 ID:p4WPm5sj
そういう解釈もあるな気付かんかった

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/02(金) 01:16:20 ID:k1NiOHWC
>>735
鼠が虎じゃなくて猿に変身してたら完全に悪い予知夢だな

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/02(金) 03:15:52 ID:G1XD6MOF
>>728 「虎だ!お前は虎になるのだ!!」
幕府のひみつ訓練所「東国支配の穴」で特訓を受けた
覆面浪人・伊勢新九郎盛時さんが早雲仮面に変身して堀越公方をやっつけたんですよね。


>735-737おぉぅ; そいつは皮肉が利いてるなあ