山科言継が巻き込まれた夫婦喧嘩

2014年12月18日 18:51

390 名前:夫婦喧嘩は犬も喰わない[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 23:11:11.57 ID:IOBS+uWI
山科言継が巻き込まれた夫婦喧嘩。
 『日記で読む日本中世史』の清水克行氏の執筆分から。

永禄二年七月十七日、山科家の下女が、盛大な夫婦喧嘩の挙句、髪を切られてしまった。
夫婦喧嘩の理由はわからないが、なんだか大げんかだったのは間違いない。
この当時、女性の髪は女性性の象徴。それを切ることは、大変な暴力にあたる。
……とはいえ、普通ならば一応、「家庭内暴力」の範疇ではある。

だが、下女の夫が同じ公家・甘露寺経元の下男だったから、話がややこしくなる。
この事件が、「山科家の下女が、甘露寺家の下男に攻撃された」という形になってしまうからである。
すぐさま言継は、甘露寺経元に対して「相当の成敗(=同程度の処罰)」を要求した。

しかし経元は当日「確認してから再度連絡します」と連絡したっきり、何日も言継へ連絡を返さない。
言継が問い返しても「留守です」のひとこと。
甘露寺家は、山科家の口入れで下男を処分することが体面に関わると判断したのである。
本来、言継と経元とは互いの家を訪問しあうなど、非常に親密な関係だったのだが……。

不誠実な甘露寺家に怒った言継は、二十日に曼殊院門跡へ仲裁を依頼したらしい。
翌日には、洛中の治安維持を担当する幕府侍所開闔・松田盛秀から、件の下男が20日の追放処分になった、と言継へ連絡があった。
曼殊院側が、甘露寺家にいろいろアドバイスしてくれたようだ。
「とりあえず隠しておいて有耶無耶にする」という甘露寺家の意図が丸見えだが、言継は了承した。

が、直後に山科家に謝罪しにきたのが、なぜか曼殊院の坊官であったのが、言継の癪に触る。
ただでさえ甘露寺側の不誠実な対応に苛ついていた言継は、「甘露寺側からの直接の謝罪があるべきだ」と怒って面会拒否。
松田盛秀を通して曼殊院に厳重に抗議した。

残念ながら、この後の経過は言継も記していない。
どうやら両家の対立は沈静化したようではあるが、どうにも体面とは難しいものである。


で、問題の下男。20日の謹慎が解けたのち、あっさり甘露寺家に帰った。
どころか、山科家の下女ともよりを戻し、元の夫婦生活に戻ったようである。
長年の交友関係にあった山科家と甘露寺家とが、一触即発になったことなんて、忘れてしまったかのように。
挙句、10月1日には、その下男が腹痛を起こしたと甘露寺家から連絡があり、言継が薬を調合してやった。


 というわけで、主人とは関係なく喧嘩して仲直りして、なんていう下男下女の、夫婦仲のいい話?




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/17(水) 23:27:44.44 ID:SdudZCHY
言継が黙ってればただの夫婦喧嘩だわな
言継も悪いと思ったんだろう

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織田信長、権大納言・山科言継にびっくりする

2009年06月22日 00:10

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 19:38:14 ID:zv3aED0w
まとめにちょろっとあったけどいいかな?

後奈良天皇の十三回忌の法会が近づいていた。しかし朝廷には金がない。
そこで権大納言・山科言継は徳川家康を頼ることを提案。朝廷もそれに
賭けることにした。

当時は盛夏。しかも行き先が三河となると、老人の言継の身に何かあっても
おかしくはない。言継は出発前、息子言経に神楽の奥義を伝授した。
それだけ覚悟した旅だったらしい。出発した言継はまっすぐ三河に向かわず、
岐阜に向かい始めた。言継は信長に会おうとしたのである。

まず信長の側近・武井夕庵と会った。夕庵も高齢だが、金華山を行ったり
きたりして、信長の「この暑さの中を老身だというのに本当にご苦労。
三河まで行くのは私用と公用のどちらなのだろうか。老身には山登りは
きついだろうから麓の邸宅でお会いしよう」という言伝を言継に伝えた。

次の日、信長が山を下りたとしらせが来たので言継は出かけたのだが、
やっぱり明日にしてくれとまたしらせが来た。ところが言継がやれやれと
宿に戻ると、今度はすぐに来てほしいとしらせて来た。こうした行き違いが
あったものの、なんとか言継は信長と面会できた。

事の次第を知った信長は「仰天」した。そして信長は「老体が猛暑の中、
三河まで赴くのは大変であろう。それに家康は駿河辺りにいるはずだ。
他用がないのなら、三河まで行くこともない。わしがなんとかするゆえ、
岐阜でゆっくりしておられよ」と心強い言葉をくれた。また、あとで夕庵が
「家康殿がダメだったら殿が一、二万疋は用意してくださるでしょう」と
信長の内意を伝えてくれた。

こうして初めは死ぬかもと思っていた旅だが、信長の計らいで一件落着となった。
結局、二万疋が献上されたのだが、その四分の三は信長の献上したものだった。
また、信長は言継に渡状を渡して、献金は京都まで運んであげたという。





639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 19:57:24 ID:WjDgFaeg
なんで頼るべき人物の提案で、信長じゃない家康の名が出て来るのか理解出来ないな。
江戸時代になってからの作り話じゃあるまいし

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 20:00:38 ID:2+2GW7hB
たしかこの時、家康は朝廷に貸しがあったから、だったかな。
名前を家康と改名した際、朝廷が何かして上げたとか何とか。
で、それをネタに家康に無心に行ったと。たしかそんな内容だった気が。

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 20:08:18 ID:H2lWurYe
>>640
家康でなくて松平を徳川に改姓した時の借り
毛利みたいにある程度、歴史のある国人と異なり、松平は生粋(?)の氏知れぬ身
三河を統一した時に三河守になるには血統的に問題があるので系図を公家に
拵えてもらった
また、これによって他の松平家に対して上位であることを示した

それなりに借りはありますな


山科言継「ここで果ててはお上に申しわk」・悪い話

2009年02月27日 00:11

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 20:07:11 ID:ZZFsMA44
万能お公家さんこと、山科言継の話

1556年、言継は今川家に朝廷への献金を「命ずる」べく、駿河に下向した
その途中、伊勢国から三河国の篠島へ船で渡ることになったのだが…
用意された渡し舟、言継から見てあまりに小さかった

言継「渡海するのは波の荒さで有名なところ…ああ、なんと恐ろしい。ここで果ててはお上に申しわk」
船主「わ、わかりました。大きな船を手配させますので」

さて、無事篠島まで到着した言継。早速、渡し賃を支払うことになった

船主「船賃百疋になります」
言継「おお、百疋ですか…」
船主「え、ええ、百疋ですが」
言継「百疋…ああ、使命を果たせずお上に申しわk」
船主「わ、わかりました!五十疋で結構です!」

大きい船を用意させた上、船賃を半額に値切った男、山科言継
確かに万能お公家だった




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 20:12:36 ID:AJIRKsxd
>>410
麻呂AAで喋らせたくなった

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 20:13:59 ID:TUzfnU1K
>>410
言継さんサバイバーすぎるな。
どんだけ生活力有る公家だよw

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 20:21:36 ID:2UiormE5
         ,l、::::::::::::::::::::::::::::::::::|:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:l
        ,ハ::`丶、:::::::::::::::::::::::|:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;_,, -‐:〈
        {;;;;ヽ、:::::`丶、:::::::::::::l:;:;:;:;:;:; ィ";:;:;:;:;:;:;:}
        ,l;;;;;;;;;シ丶、:::::::`:`:ー'‐::'':"::::::::_, ィ"´;;l
       fうl;;;ミミ、  ``丶 、::::::::,: - ''"´  リ;;;;;;f-、   渡海するのは波の荒さで有名なところ…
       { l l;;;;;ッ=`   (三> `^´ (三シ  ム;;;;;;ソl}
       t !;;;リ    _,,...,,_     _,,..,,_    l;;;//    ああ、なんと恐ろしい…
        ゙l ヾ;l  :'ィテヘ9ンミ   ,: ',シヒ9ン、  l;//
        `ーll!   `''==ヲ'  l:.:^''==彡'" ,!リノ    ここで果ててはお上に申しわけが立たぬ…
            ll   ` '' "   l:.:.:` '' "  ,i;;l´
          li,     ,r .: :.ヽ、    ,:,り
           t、   / ゙ー、 ,r '゙ヽ  /,K′
           ゝ、 ,:'   :~:    } // /ヽ、
           /{lヽ ,ィ==ニニ==,ノ,ノ7 /:.:.:.:ヾニヽ
         , ィ/:.:い ヽ `` ー一 ''"/,/,/:.:.:.:.:.:.:.:ソ }- 、、
        / /:.:.:.:ヽヽ `' ー‐ -- '"//:.:.:.:.:.:.:/ /   ` 丶、
     ,, - {  ヾ:.:.:.:.ヽ丶     //:.:.:.:.:, -'" ,/       ` 丶 、
  ,, - ''"   丶、 `` ーゝ、ヽ.,_,,ィ"ェくユ- ''" , ィ"

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 21:31:06 ID:AJIRKsxd
腹立つw

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 21:41:58 ID:qwy+XQ5D
>>413
公家といっても貧乏公家だし、庶民と風呂 (といっても当時だから蒸し風呂のはず)
に入るような人だからねい。

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 22:25:27 ID:2MlL96Wo
>>416
貧乏って言っても羽林家の出なんだけどね・・・

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 22:55:24 ID:D7X4d4r3
商売上手、オマケに酒豪、なのに町民の病気をタダで診る人情溢れる言継さんだが、
重大事件が起きた日の日記はことごとく破り捨てて、身を守る抜け目無さも持ってたと。

恐るべしは下級公家。

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 22:57:43 ID:qwy+XQ5D
>>417
でも、摂関家、清華家ですら困窮していた戦国時代、羽林家となると…

まあ、半ばヤクザと化している地下人よりはマシなのは確かだけど。

山科言継の略歴・いい話

2009年01月25日 00:12

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 03:05:41 ID:/kZ5OgZf
戦国武将の話が続いている中で公家の話を


山科言継(やましな ときつぐ)

戦国時代の公家で山科言綱の子。
内蔵頭から正二位・権大納言に昇った人物。


”公家”という概念だけでは語ることの出来ない人物
それが、山科言継。


公家と聞くと内向的なイメージの人物が多い中で、
積極的に外交・交友をしていったのが言継だった。
また、多種多様な才能で生き抜いたマルチ人間でもあった。


1548年に室町幕府によって代々の家領であった山科荘が事実上横領されて
しまう。普通の公家だとここで泣き寝入りするが、言継は違っていた。

言継は自ら染めや仕立ての技術を習得しており妻や家人とともに装束製作に当たり、
天皇の服ばかりでなく諸家からの注文にも応えていた。また器用な言継は医術や調薬も修めていて、
しばしば人々の依頼を受けて診察したり、薬を調合して届けている。
収入が途絶えがちで苦しい公家の財政事情を言継は己の技能によって
山科家の収入を支えたのである。


669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 03:06:42 ID:/kZ5OgZf
668続き

また、言継は朝廷の財政の最高責任者である内蔵頭として後奈良・正親町両天皇下で逼迫した
財政の建て直しに奔走する。
当時の朝廷財政の収入の中で最大のものは諸大名からの献金であった。
言継はその献金獲得のために各地を訪ね歩いた。


言継の奔走記録として

1533年

歌舞音曲を扱う楽奉行として、尾張の織田信秀を訪問。
信秀や平手政秀以下の家臣団に和歌や蹴鞠の伝授を行って人脈を深め、
後に天皇の即位式に対する信秀からの献金獲得に成功。


1556年

義理の叔母にあたる寿桂尼・今川義元親子を訪ねて駿河を訪問し、
献金の確約を得た。


1566年

結城氏重臣の水谷正村に働きかけて御料所回復に成功し、
その謝礼に正村の従五位下伊勢守への任官を推挙している。


以上のように言継は持てる人脈をフル活用して朝廷への金策に奔走した。
弁舌に優れている他にも、大酒のみであったことや朝廷を守らんとする直向さに
多くの大名は好意を寄せたものと思われる。

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 03:07:56 ID:/kZ5OgZf
668続き

また、あまり公家に好意的ではなかったと言われる織田信長も言継とは良好な
関係にあり言継も信長と朝廷との橋渡しに協力を惜しまなかった。


これだけだと言継の人脈は大名や公家・有力者のみに見られるかも知れないが、
言継の人脈は決して上の方ばかりではなかった。
その気さくな人柄で庶民とともに入浴する事もあり、優れた医療知識をもって
天皇や公家達のみならず、京の庶民に対しても治療をしていた。
しかも無理に治療費を取るようなことはしなかった為、言継は庶民から大変人気がある公家であった。


それ以外に言継は数々の著作物を現代へ残している。

『言継卿記』(ときつぐきょうき)なる日記。
大永7年(1527年)から天正4年(1576年)の50年に渡って書かれている。
(散逸部分もあるが)有職故実や芸能、戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料となっている。

この日記内には山科言継と”剣聖”として名高い上泉信綱との交友記録が書かれている。
また医療に精通した言継が、自身で治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も書かれており
現存する日本で最古のまとまった診療録(カルテ)であるとも言われている。

戦国の世でなく、現代であったならば山科言継はどれだけ社会に貢献しただろうか・・・
などと考えてしまうくらい才能溢れる人材だった。




671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 03:12:57 ID:KuwCqWmM
山科言継と言えば、戦国大名と酒の飲み比べをして、相手を酔い潰させて
言う事を聞かせると言う、暴飲戦術の大家。

672 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/24(土) 03:28:07 ID:y69lVpzS
謙信だったら大歓迎だろうな

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 03:41:46 ID:o4s6NbFs
黒田家は代理を立てればおk



674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 03:44:21 ID:p3OaSnRB
言継で金策といえば、
後奈良天皇の十三回忌をやりたいけど、例によって金が無いのが朝廷。
公家衆だけでなく天皇まで頭をひねるが良い案がない。
そこによぼよぼの言継さんが名乗りを上げる。
言継「徳川家康には貸し(徳川改姓に奔走した)があるから、ちょっと行って金貰ってくる ノシ」
天皇「え、あ・・・?よ、よろしいように」

天皇のお墨付きを貰った言継はふらふらと京を出て三河へ下る。
途中、旧知の信長に会っていこうと岐阜へふらふら。
言継「ぃょぅ!調子どう?」
信長「ちょwじじいww なんでこんなところにいんだよwww
    金が無い?それにしたってあんたが行かなくたって・・・。
    だいたい家康はいま、駿河にいるしなあ・・・。その歳で長旅は・・・。
    よし、俺に任せろ。じいさんは岐阜でのんびりしてろ」
と、代わりに家康を脅はk、もとい交渉を始め、
信長「じいさん、ほら、これは家康から。それとこれは俺からも。あんま無茶すんなよ」

おかげで法会も無事済み、山科言継の面目も大いにたった。
しかし信長をしてそこまで親切にさせるだけの何かを持つ、とある公家の話。



675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 04:05:58 ID:cURY9O9K
>>674
信長さん、いい人だな
自分の職務を全うしてる人にはえらく優しいね

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 04:48:51 ID:Kt14Kj+g
>>668-670
何かそれだけで1本の大河ドラマ出来そうな気がするなw
もしかしてもうあったりする?

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 05:44:32 ID:o4s6NbFs
マイナー武将の基準を大きく間違っているNHKが取り上げるわけがないかと

山科言継と禁酒令・悪い話

2009年01月05日 00:04

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 19:41:21 ID:w/e6+Y2O
お正月もそろそろ終わりです・・・





北畠具教が国司をつとめる伊勢に公用で出かけた山科言継

大の酒好きな言継殿
早速酒でも呑もうかと思うが伊勢一帯に禁酒令が出されているのを知り、

とりあえず日記に書き残す

別の宿に泊まった再、宿の亭主が甘口の白酒を隠れて持って来るのを知って、事実であると知る。

更に密かに酒を売った者12~13人が財産をボッシュ~トされ、その内一人は処刑されたことを聞いて
『これは京に帰るまで酒にはありつけんな・・・ハァ~』と絶望する。

もうとっとと京に帰りたい言継殿、しかし公用の旅である以上仕事はしなければならないので嫌々ながらも
北畠具教の国司の舘に辿りつく・・・・・・・





しかし天は彼を見放しはしなかった
一年にわたった伊勢の禁酒令は言継殿が国司の舘に到着する直前に解かれ
北畠具教は歓迎の宴を開催、言継殿は無事に酒にありつけましたとさ。


左党(酒好き)にとっては悪い話






自分も禁酒令出されました、いつ解けるかは未定・・・・orz



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 20:19:55 ID:Erw1stmZ
オチは自分かよw

ところでなんでその時代に禁酒令なんか出てたんだろ

962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/04(日) 20:25:46 ID:+xI16PLc
>>961
このときの理由はわからないけど、稲が不作になると、少しでも食用にまわすため、
酒の醸造を禁止することはよく行われていたから、もしかするとその一環じゃないかな?

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 20:29:21 ID:UuipDDzt
>>961-962
後奈良帝の平癒祈願の為っぽいよ。
伊勢の人々にとってはいい迷惑だったろうな…

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 20:35:58 ID:Erw1stmZ
>>962
>>963
なるほど、ありがとう
稲が不作でも禁酒、偉い人が俺のために祈れっていったら禁酒か
前者は仕方ないのかも知らんが

しかし、何か聞くと即答えてくれるこのスレの住人が時々怖いw
みんな良く知ってるなー

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 20:36:56 ID:5VfqAVxT
戦国板じゃよくあること

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/04(日) 22:47:44 ID:gXQZO9YE
山科言継の場合大名と酒飲んで人脈増やしてた。禁酒令は死活問題に当たるはず。

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 23:04:24 ID:3kjl7ABA
山科さんはアグレッシブな公家