信貞爺ちゃんの、目の付け所・いい話

2009年01月21日 00:11

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 11:05:28 ID:/CQ6lAMN
いい土地、ってか湊が縁の話。

織田信長の父ちゃん信秀は今川方から那古野城を奪取した知略の人、
爺ちゃんの弾正忠信貞(信定)も先進的で経済センスのある人だったらしい。

信貞は尾張下四郡の守護代・織田大和守家(清洲さん)の陪臣で、守護・斯波氏からすれば家臣の家臣だった
当初は直轄で知行する土地もあまりない清洲三奉行の一人だったが、
木曽三川の渡しで盛っていた川湊の津島に目を付け、近所の勝幡に城を築いた。

信貞爺ちゃんがほぼ一代、じっくり時間を掛けて津島から海西郡(海部郡)に勢力を持つようになると、
津島湊からの冥加や運上金で、小禄ながら織田弾正忠家は財政が豊かになったそうな。
信秀さんの頃には那古屋や熱田(ここも神社の門前で盛っていた町ね)も押さえてゆき、
石高以上に資金力のある信秀さんは尾張・三河・美濃と神出鬼没で活躍して「器用な仁よのう」と評されたという

ここまではただの郷土史みたいな話でスマソ

で、時代がずっと下って永禄の頃、孫の上総介信長が桶狭間の合戦で今川義元を運良く?奇襲することができた件。
義元に一番槍をつけた信長馬廻の服部小平太一忠、ついで義元を討ち取った毛利新介(新助)良勝が、
那古野や清洲からの譜代ではなく、信貞以来三代仕えてきた勝幡衆・津島衆だったというンですよ、奥さん!

信長の飛躍は三代に渡って築かれた財政基盤や人材にもよっているという、信貞爺ちゃんの(目の付け所が)いい話。

※愛知の郷土史研究でいろんな話が残っていて、どこまで本当かはわからんけど




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