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酒井の太鼓

2023年05月15日 20:28

860 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/15(月) 10:25:40.96 ID:ZDewH9ua
中遠広域事務組合
中遠昔ばなし第70話酒井の太鼓(磐田市)
https://www.chuen.net/mukashi/mukashi_070.html
その昔、徳川家康が三方原の戦いに敗れて、浜松城へ逃げ帰ってきた後、武田方は勢いよく城門の近くまで追ってきました。
このとき家康は、後から逃げ帰って来る者のために、城門を開いたままにして、城門の外へ、とてつもない大きなかがり火を焚かせました。
武田方はこの大きなかがり火を見たとたん「何か策略でもあるのではないか」と城の近くで様子を見ることにしました。
すると城の中を守っていた酒井左衛門尉忠次が、突然、太鼓を高々と打ち鳴らし始めました。
驚いた武田方は「きっと何かあるにちがいない」と思い、急いで浜松城から離れていき、徳川家康は、かろうじて城を守ることが
できたという物語があります。その酒井忠次が打ち鳴らして、敵を退散させた太鼓が「酒井の太鼓」と呼ばれています。
「酒井の太鼓」と伝えられている太鼓は、その後、見付の所有となり、明治8年夏に見付小学校校舎(現在の旧見付学校)が落成した際、
小学校に寄付されました。そして太鼓は5階の楼上に据えつけられ、明治43年まで、生徒の登下校と正午には、毎日時報として打ち鳴らされました。
現在、この太鼓は、旧見付学校に展示されています。また、地元の磐田市立磐田北小学校には、太鼓クラブができて、
子供たちが酒井忠次に負けじと太鼓を打ち鳴らしています。

(磐田むかしばなしより)



861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/15(月) 12:44:34.52 ID:7IjTCzJh
信玄の体調もあるしそもそも浜松城は落とすつもりなかっただけだと思うけどな
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鬼武蔵と言われる者の鋒を挫けば

2019年02月26日 16:52

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/26(火) 15:10:57.23 ID:ViHYIV+B
長久手の合戦の時、秀吉は十万余騎を率いて青塚に陣し、源君(徳川家康)は二万五千余騎を率いて
小牧に陣した。

秀吉の全鋒である森武蔵守長一(長可)は、信長の愛童森蘭丸の兄であり、勇猛の名があって、
時の人は彼を鬼武蔵と号した。彼は羽黒に陣していたが、その先手が本陣から間遠く備えていた。
酒井左衛門尉忠次はこれを見て、

「武蔵の先手は味方を離れています。将もその部下も、兵法に練れていないのでしょう。
今これを撃って、鬼武蔵と言われる者の鋒を挫けば、見方は勝利に乗り、敵は鋭気を失うでしょう。
今少し御旗本を敵に寄らせれば、私が手勢を以て衝き崩しましょう。」
そう進言すると、家康は望み請うに任せた。

左衛門尉は軍勢に対して「首を取ることなかれ、斬り捨てにせよ。白旗を上げれば軽く引き、逃げる敵を
追ってはならない。」と軍令を定め、静々と斬ってかかり、武蔵守の先手を撃ちとった。これに武蔵守は
怒り酒井勢に駆け向かったが、その頃に酒井勢はすでに引き取っていた。武蔵守は歯噛みをしたが、
最早どうにも出来なかった。

(武将感状記)


忠次がいわれざる無礼を振舞ったせいで

2018年09月09日 18:21

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 06:54:02.22 ID:ecWFEVIE
織田殿の命を受けて甲信の諸城を守った諸士は皆々城を捨てて上洛すればその昔信玄に滅ぼされた諏訪頼重
の伯父・新太郎満隣の子・小太郎頼忠は旧好の家人を催して諏訪郡に押し入り高島城を乗っ取って20余年
の蟄懐を開いた。

信玄のため追い出された小笠原長時の弟・洞雪斎も上杉景勝の助けを得て深志城に還入し、川中島の旧領主・
村上信濃守義清の子・源吾国清(山浦国清)も越後より勢を催して、景勝の扶助で川中島を領略した。

(中略)

一揆の首長・大村三右衛門は誅に伏すといえども甲斐は未だ穏やかならず、所々に悪徒蜂起の聞こえあり。
これを静謐ならしめよとの仰せを蒙り、大久保七郎衛門忠世は甲斐に赴き上口に陣した。

石川長門守康通・本多豊後守広孝とその子の彦次郎康重・岡部次郎右衛門正綱らも同じく赴く。忠世は康通・
正綱らと議して佐久郡諏訪に赴き、諏訪小太郎頼忠を説諭して御味方となす。また大草左近知久・大和頼元、
同じく式部頼氏・下条らも同じく帰順せしめたのであった。

(中略)

14日に酒井左衛門尉忠次に信濃一円を賜り、忠次は東三河の勢を引き連れて伊奈口より諏訪に至り、諏訪
小太郎頼忠方へ使者を立てて「信州一円は某が拝領したので、これからは我が下知に従うべし」との由を

申し送った。頼忠は大いに怒って、「私は大久保忠世の勧めによってこそ徳川殿に従ったのだ。どうして
忠次の下知を守ろうか!」とたちまち敵の色をあらわし、高島に籠城して矢石を飛ばし忠次らを拒んだ。

忠次は高島城を取り囲んで東三河勢をもって攻めるも頼忠はまったく雌伏せず、その国人も多くが忠次の
下知に従わずに北条へ内通せんと見える由が聞こえたので、

忠次の信濃所領のことは停廃なされ(原注:武徳編年集成)、なおも忠次ならびに東三河勢をもって高島城
を囲ませ攻めさせられた。24日、城兵が松平又七郎家信の陣に夜討した。家信はわずかに13歳。

武田の家人が多かったのでよく戦って敵を退けた。26日、松平主殿助家忠は兵を偽って引き出し伏兵を
設けて多くの者を討ち取った。(原注:家忠日記・武徳編年集成)

(中略)

8月朔日(1582年)、北条氏直は甲斐を攻め取るために、4万余の人数で信濃海野口より甲斐若御子へ
発向せんと信濃役行者に出て梶ヶ原まで着陣した。この由が徳川家御本陣に聞こえて、高島城攻めに参った
酒井忠次以下の輩は皆白須まで引き返しせしめた。

3日、忠次ならびに大久保忠世・本多広孝・大須賀康高・石川康通・岡部正綱らは、乙骨(原注:武徳編年
集成に音骨)まで着陣した。この時までも氏直の大軍が間近の梶ヶ原にいるとはまったく知らなかった。

大久保の家人・石上兎角之助という者が6日夕に佐久郡蘆田小屋八ヶ嶽の方より来たり、この由を告げた。
諸将は大いに驚き、この地の庄司太郎左衛門は忠世が常に諸事用達をさせた者だったので、この者を見に

遣したところ、向かいの草木茂る中に敵が充満していた。「追い付けてここへ来ます!」との報告を受けた
諸将は、「この小勢ではどうして合戦叶おうか。しかし、夜中に引き取っては追い討たれて良くないだろう。

夜明けに早々に引き取ろう」と、その夜の将卒は用意して夜明けを待った。明けて7日(原注:柏崎物語・
武徳編年集成)、すでに打ち立たんとするに及び、忠世は、「私がせっかく諏訪小太郎を味方に引き入れた

というのに、忠次がいわれざる無礼を振舞ったせいで諏訪を北条方にしてしまった。だからこのような大事
に及んでしまったのだ!」と言った。忠次は大いに怒って口論し、今日の後殿を争ったために時刻

は移って巳の刻に及んだ。敵は早くも向かいの原に押し寄せてきた。諸将はいろいろと講和して一番は酒井、
二番は大須賀、三番は石川、四番は大久保、五番は本多、六番は穴山、七番は岡部と定まった。

――『改正三河後風土記』



「小姓ども」と、申された

2016年12月07日 17:29

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 02:18:24.54 ID:uvLUyMHH
井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)、榊原式部(康政)のことなどを、

(徳川家康の)御前などでも「小姓ども」と、酒井左衛門尉(忠次)は
申されたということである。

――『武功雑記』

酒井忠次は別格だったという話だろうか。



391 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 07:18:15.41 ID:iixZWz5X
>>389
そりゃ年齢も一回り以上違うし家格もダンチでしょ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 08:36:17.98 ID:4JYn8U5B
酒井は徳川と同族なんだっけか

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 12:04:15.65 ID:iixZWz5X
>>392
それもそうだけど、忠次自体がダブルで義叔父らしいから。

さてさて、御事はおこなる人哉

2014年07月30日 18:53

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 00:11:59.62 ID:1Iz7iLnm
同じ話はここに出ていますが、出典のある詳しいバージョンということで
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-231.html

天正壬午の乱の結果、甲斐を徳川が領有すると、旧武田家の一条、土屋、原、山県の配下にあった者達は、
そのほとんどが井伊直政に付けられた。そして家康は「山県昌景の赤備えは見事であった」と、
直政の備えを皆赤色にした。

この時家康は、最初は酒井忠次に甲州人を召し預けようと考えていたのだが、それよりも、
若輩の直政を引き立てるために彼に付属させたいと、忠次本人に相談した。

忠次はこれを聞くと
「殿の仰るように井伊直政は若輩ですが、私の目から見ても臆しているようにも見えません。
ですので、彼の者に甲州人を付ければいよいよ励み働くことでしょう。」と申し上げた。

さて、その後忠次の所に榊原康政がやって来てこのように言った
「甲州人を半分に分け、私と直政の両人に付けられるべきなのに、直政のみに付けられたことは
なんと口惜しい事でしょう!この康政、どうしてあの若輩者に劣るでしょうか!?
この後、もし直政に出逢えば刺し違えようと決意しました。ですので、今生の暇乞いに参ったのです。」

これを聞いた忠次は激怒した
「お前は馬鹿か!!!(さてさて、御事はおこなる人哉)

殿は私に預けようと言って来たのを、私が勧めて直政に付けさせたのだ!
これを聞き分けずに軽卒な行動をするつもりなら、殿に申すまでもなし、
私がお前の妻子一族まで、全員串刺しにしてくれる!!!」
そう以ての外に怒り罵ったという。
(武功実録)




830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 00:40:37.51 ID:nv8Xlm8h
甲州兵の戦経験値は異常

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:00:17.17 ID:CPc5dUvq
なんで喧嘩してんだよ。鬼武蔵つれてくるぞ。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:05:58.29 ID:LINdzkzZ
つれてきても討ち取られちゃうだろ。

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:20:22.98 ID:Oda6FVfj
出典かくならちゃんと徳川実紀って書いた方がよくない?
鳥居家譜とか武功実録って今見れる手段あるの?

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 01:45:28.87 ID:BP+5V0ZH
薩摩の兵は下がると斬るとか無茶苦茶な法で軍紀を守ったけど
甲州兵はどうやって軍紀を保ったのかね
戦えば損害も出るし規律の弱い補充兵も来るだろうし

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 06:19:59.64 ID:9LUB8Toi
康政おこなる?

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 08:59:12.87 ID:vkO2DVH/
酒井の激怒っぷりもすごいな 串刺しってw

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 13:58:11.91 ID:mSVmn9LE
激烏滸なの?

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 14:40:40.30 ID:Oda6FVfj
中世では無礼な奴は「尾籠(おこ)であるぞ!」と言われて責められるという話があるとかないとか

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 14:48:05.79 ID:nayFSFDk
当て字を音読みした、びろう、も悪い意味となるややこしさ

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 16:30:25.13 ID:SgluMGfl
三河武士ってよく刃傷沙汰にならねえなw

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 16:44:46.91 ID:LINdzkzZ
しょっちゅうなってるし

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 18:47:36.95 ID:HS4w3HiT
たしか同盟中にも織田勢とやりあってただろw

酒井忠次の妙技海老すくい

2014年07月28日 18:55

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 03:54:52.65 ID:BsmDQudM
長篠の戦いの前、徳川家康は竹広村の弾正山に陣を据えていたが、家臣たちは武田の猛勢を聞いて
恐れ、どうにも怯えた様子を見せていた。

そこで家康は酒井忠次を呼んでこう命じた。「いつもの海老すくいの狂言をせよ。」

忠次畏まり、つっと立って海老すくいを舞った。これは有名な絶技の芸であったので、一座の者達は皆
笑いのツボに入り大爆笑した。
これにより徳川の三軍にあった武田への恐怖の念はいつの間にか一散したのである。
(忠次かしこまりつと立て舞けるが、兼ての絶技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と
笑い出しにより、三軍恐怖の念いつとなく一散してけり)

(東武談叢)

酒井忠次の妙技海老すくい、徳川軍から恐怖を払う。というお話。




382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 04:15:08.51 ID:ieY8KXOP
太鼓も叩くし案外芸人肌な面白いおじさんだったのかもしれないね

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 04:43:26.31 ID:0U1KnlTJ
出ますぞ、酒井様の腰さばきが!

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 07:02:38.28 ID:g/gxe8er
ツボに入るってこんな古い時代からある表現だったんだ

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 09:44:31.66 ID:yaZjXFV0
海老掬いが無ければ長篠で負けていたかもしれないのか
これは歴史が動いた瞬間ですわ

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 09:50:16.77 ID:JPO4AgR6
筆頭家老自らエビすくいを披露し、長篠前哨戦では速攻で武田軍の側面をつく、こりゃ大河ドラマ級の活躍ですわ。

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 14:57:47.46 ID:bY1WnWpb
三軍て何?

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 15:11:02.63 ID:ZKq6NRc7
全軍

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 17:22:09.44 ID:wBqsu5SX
えっファーム以下のやつらじゃなかったのかよ

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 19:09:03.66 ID:hmwj7KpU
陸軍海軍空軍・・・えっ空?

真面目に答えると>>388の言う通り春秋時代の三軍(上軍中軍下軍)に倣い全軍を意味する

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 20:45:46.48 ID:0U1KnlTJ
実は三河軍団の略

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 22:39:54.15 ID:OF6jLvwu
>>384
戦国どころか、平家物語の有名なシーンでも使われてたりする。

大納言気色変はつて、さつと立たれけるが、御前に立てられたりける瓶子を、狩衣の袖に掛けて引き倒されたりけるを、
法皇叡覧あつて、あれはいかにと仰せければ、大納言立ち返かへつて、瓶子倒れ候ひぬとぞ申されける。
法皇も『笑壺に入らせおはしまし』、者ども参つて猿楽仕れと仰せければ、平判官康頼つと参つて、あああまりに瓶子の多う候ふに、もて酔ひて候ふと申す。
俊寛僧都、さてそれをば、いかが仕るべきやらん。西光法師、ただ首を取るにはしかじとて、瓶子の首を取つてぞ入りにける。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 22:55:27.49 ID:AM0twxp2
>>381
信長の野望で鼓舞の上位コマンドに海老すくいを導入すべき
士気↑
統率↑

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 23:17:39.03 ID:JGXRelj8
しかし景勝には効かなかった!

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 23:49:29.49 ID:dd979FBF
へうげものの海老すくい
http://www.youtube.com/watch?v=FVvxOgmxeGA


横山光輝の「徳川家康」では天正壬午の乱後、北条との同盟の席で
海老すくいを披露し、徳川は大した事ないと北条を油断させてたw

万能技過ぎるwww

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 23:58:28.40 ID:ibhhCUUn
えび酒井

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 00:18:46.24 ID:73ZyftsL
酒井シュリンプ

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 10:14:32.40 ID:Vr+xRufE
>>392
勉強になった。相変わらず侮れんスレだw

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 00:43:10.83 ID:s9grfJZd
浜名湖名物なのか海老すくい

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 17:03:30.45 ID:UsXN/Doc
へうげものスレの過去ログにこういうのが

名無しんぼ@お腹いっぱい[] 2010/01/23(土) 21:00:26 ID:Le1hu93a0

所用で酒井家のご当主にご挨拶に伺ったのだが、つい弾みで「えびすくい」について聞いてしまった・・

ついかっとなってやった
今は反省している

へうげものという漫画があることはご存じなかったそうです。

名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 2010/01/23(土) 21:06:52 ID:E5ISRcS80

それでえびすくいの方はどうだったんですか
現代に至るまで踊りの秘伝が一子相伝で当主に伝わってたりするの

名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 2010/01/23(土) 22:20:49 ID:Le1hu93a0

酒井の太鼓は歌舞伎の演目になっているくらい有名な話だが、歴史上の出来事としては「史実」と言いきることができるものではなく、
「逸話」と呼ぶべきものでしょう。忠次公も踊り自体は知っていたかもしれないが、海老すくいの話も同じように「逸話」と言うべきだと
思います。とのことでした。
あ、それから、踊れないそうです(笑


412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 09:21:34.33 ID:2ok5d24F
>>403
ご当主もなかなか見識が高いな
そういう受け答えはなかなかできないぜ

後の4人は誰だかわからない

2014年02月06日 19:03

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 15:01:46.67 ID:8SKyAvCh
幕末の酒井家・出羽庄内藩の藩士が、藩や地方の関連文書を収集して編纂したものから


神祖(家康)が三川(三河)に居られた頃は、配下に侍大将が8人いた。

大久保忠世は家中に集められた人質を管理していた。
酒井忠次は5000の兵を預かり、先陣の大将であった。織田信長から東国33カ国の武功の者と賞賛されたお方である。
大須賀康高はその次、本多忠勝も軍勢を率いる。

後の4人は誰だかわからない。
(大泉叢誌)

他の4人については本当にこれ以上書いてありませんw





292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 17:09:03.14 ID:uujho66q
スルーされたのは石川数正と鳥居元忠辺りか?あと誰だろ?

酒井忠次は御家人の中で第一の旧臣であり

2014年01月20日 19:04

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 20:39:20.29 ID:dV2qOaNU
俗に伝わることには、忠次は御家人の中で第一の旧臣であり、家康公のおばの婿(姨聟)であったので、
御家人たちは忠次を崇敬し、忠次が他人の家を訪ねるときに下馬をしなくても、これを無礼だと思う者はいなかった。

秀忠公は忠次の武勇にあやかろうということで忠次の諱字を貰い、
また秀吉公からも諱字を賜ったので、秀忠公とお名乗りになったのである。


『武家事紀』より、忠次の項にある秀忠の諱の異説である。




139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 00:59:16.60 ID:ODbzzr/b
家康「えっ、忠って普通に先祖から続く通字なのに。父上の広忠とかワシの最初の名の元忠とか」

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 01:01:49.28 ID:ODbzzr/b
いけね、家康の最初の名は元信だった

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 01:28:21.26 ID:07eURHZG
つーか酒井忠次の忠は家康の父親の広忠の忠だよなあw

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 01:36:04.32 ID:lHcbYmax
織田秀信公は秀吉公からも諱字を賜ったので、秀信公とお名乗りになったのである。
織田秀信「えっ、秀って曽祖父の信秀からとったんじゃないの?」

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 01:45:57.09 ID:7uIrQSkE
義元を信ずるからこその元信であろうが
その方の分際で義元を安んじる元康とは何事か!
古~い漫画の台詞

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 02:18:59.91 ID:lHcbYmax
義元を信ずる、だと信元にならないか、元信なら義元が信ずる
元康でも義元がやすんじる、でいい意味だと思う

145 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/20(月) 03:30:16.27 ID:QO2tIAkQ
元を頭に持ってきたのは一字をくれた相手を敬う形でつけんじゃねえの?

謙信も『輝』虎 『政』虎
武田晴信や伊達晴宗や南部晴政や長尾晴景とかのも頭にあるが形だけはエライ人からの戴きものだったハズ…

146 名前:144[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 03:35:36.54 ID:B9onzyKh
>>145
無論それはわかってる
元信、元康の意味のその漫画での捉え方がおかしいと書いてるんだが

小牧長久手の戦いの逸話の脚注

2012年09月13日 20:29

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 19:20:49.67 ID:aJ01f6fr

以下、小牧長久手の戦いの逸話の脚注。

一説にこの時(豊臣秀吉が竜泉寺にいた時)、
酒井忠次が「秀吉を討つのは今日です!」と言ったところ、

徳川家康が)「『勝って兜の緒をしめる』とはここだぞ」と仰せになるので、
忠次は重ねて「先陣を破ってことごとく討ち果たすのです!」と言い、

「只今が最良の状況じゃ」などとやり取りしている内に敵はすぐに柵を
設けたので、忠次は「明日は秀吉に降参なさいませ」と言ったとか。

これも(先の逸話の)榊原康政と同様のことを伝えているのだろう。

――『徳川実紀』

関ヶ原以前にも例の言葉を言ってたというお話。
権現様の好きなフレーズだったりするのだろうか?




452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 20:12:02.71 ID:H9nOBwuI
忠次さん面白い
家康もだけど忠次みたいなのも頑固っていうのかな?

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 20:50:51.25 ID:qqkt/iTn
三河武士って言うんだよ^^

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 21:07:29.89 ID:bE75FO7m
>>451
家康に直言出来る身分は限られるんだろうけど
入れ替わり立ち替わりこんなんばっか来たら嫌だなww

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 21:40:55.74 ID:nQmp9Qs5
勝緒武士ですか…

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/13(木) 17:32:31.66 ID:IPx2QTOc
ああ、これな
http://hondashi.jp/scr/

酒井忠次「踊って紛らわせればよいのじゃ!」

2012年06月26日 21:00

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 00:40:49.65 ID:fS2uzXJp
長篠の戦の時、鳶ヶ巣山砦を奇襲する一軍は疲れていた。
そこで、酒井忠次は考えた末、

「踊って紛らわせればよいのじゃ!」

ということになり、松平又七、松平又八の二人とともに「井杭」の狂言を演じて兵の疲れを紛らわしたそうだ。

なお、この松平×2はどちらも「松平家忠」という名前である。
又七が形原松平氏、又八が深溝松平氏で、日記職人は深溝の方。

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 00:42:54.95 ID:fS2uzXJp
ちなみに又八家忠はこれが初陣で、父伊忠とともに武田勢に突撃しようとしたが、
「お前も一緒に死んでは家が残らない。それでは忠義にならない。生命を全うして主家に尽くせ」
と言い残し、武田勢に突撃して討ち死にしたそうだ。

長篠の戦いにおける松平家忠の話でした。

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 00:50:22.57 ID:fS2uzXJp
↑訂正。言い残したのは伊忠。申し訳ないorz




126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 00:59:24.00 ID:EPc2kKnn
お前は生き残れって言って実際死んじゃうのか

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 01:23:19.10 ID:pr+8WZq9
踊るって言うからてっきりebisukuiかと

忠次は豪気とか豪胆とかがお嫌い?

2012年05月18日 21:04

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 01:56:30.73 ID:fqzEgpTZ
酒井忠次の娘は見目麗しいと評判であった。
その娘を牧野康成が妻にしたがっているという話を聞いた忠次であったが

「右馬允は元来大胆な男だから、機に乗じて謀叛の志を抱くやもしれぬ。
そのような穏やかならぬ者に、最愛の娘をやることはできぬ!」
とまったく娘を嫁に出す気はなかった。

しかし、家康に「牧野が如き才幹ある者にお前の娘を嫁がせれば、
後々になって家臣とした時に、少しは力になるかもしれんぞ?」
と諭されると、忠次も心を決めて娘を嫁がせたという。

佐々との逸話といい、忠次は豪気とか豪胆とかがお嫌い?




250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 09:11:19.24 ID:NO73EV1b
>>247
忠次「娘は公務員と結婚させたい」

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 09:33:20.27 ID:sYI315Vu
??「もう戦なんて嫌だから娘は医者と結婚させてあげたい(キリッ」

酒井忠次・隠居後

2012年05月06日 21:10

42 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/06(日) 01:42:16.55 ID:8qz04Afk
酒井忠次は主君である徳川家康豊臣秀吉に臣従してからは、寺社の復興に尽力し、眼病を患うと
家督を嫡男の家次に譲り、秀吉からかねてより

「若者の師になって欲しい。」

と求められた為、京都の屋敷で隠居生活を送った。秀吉からはそれまでの武功を評価され、朝鮮出兵に
おける前線基地である肥前の名護屋城が完成した際の、場内に続く橋を初めて渡る役を諸大名を差し置いて
抜擢される栄誉を得ている。一方で家康に対する忠義心は全く衰えておらず、ある時、家康に対面すると

「目が見えないのでござる。久しく様子を伺えておりませんが、お元気ですか。」

とその手を押し頂いたという。そして、晩年は浄土宗への信仰に打ち込んだ忠次は、わずかな身内に
看取られながらその生涯を閉じたという。





老いてなおダジャレ

2011年11月06日 22:00

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/06(日) 15:32:28.60 ID:ZbnuNQB2
恵比寿も酒井忠次とは関係ないらしい
てっきり海老すくい関連だと思ったのに



422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/06(日) 17:22:23.98 ID:HhREQzJx
>>419
ではそんなまとめで後輩の榊原康政と並んでしまった忠次さんのお話。
忠次の逸話の中に1つ酒井忠世の逸話が紛れてるからこれで並ぶのかな。


酒井忠次は晩年京で自由気ままな隠遁生活を送っていた。
ちなみに年甲斐もなく子供も作っていたそうな。
そんな折、秀吉は唐入り(朝鮮出兵)のため名護屋城を築城した。
そこで秀吉は、城の橋の渡り初めという名誉ある勤めをすでに隠居していた忠次に命じた。

家康「忠次の最後の晴れ舞台となろう(´;ω;`)」
と家康は手づから忠次の装束を繕ったそうな。
しかしこのとき忠次はすでに失明しており、小姓とともに超スローペースで橋を渡っていく。
諸大名の軍勢も彼に合わせてスローペースで進んだ。
そして忠次は失明しているはずなのに堀や橋について褒めたという。

さらに、彼は小姓に門の彫り物について尋ね、小姓が「鳳凰です。」というと、
「なるほど、’唐の鳥’ゆえ、殿下は’唐取り’をされるわけですな。」
とダジャレを言った。
これに大笑した秀吉は、忠次を褒め讃えた。

老いてもなお彼の頭の速さとダジャレセンスは衰えることはありませんでしたとさ。
※ダジャレセンス
→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4963.html




428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/06(日) 20:41:21.92 ID:ZbnuNQB2
>>422
家康も、晩年の忠次に対しては冷たかったのに、ここでは優しいんだね
しかし、忠次もウィットが効いてるなあ
こういうときも、彼特有のポーカーフェースで言うんだろうか

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/06(日) 21:19:42.78 ID:9F6jTtsx
>>428
イヤミかましちゃったとはいえ、基本「公」の立場での冷遇だからなぁ。
(息子さんは後々は加増もらってるし)

公に情無し、を実践できるってのが最終勝者の資格であったんだろうな。

三河者たち、緊急の大ピンチで

2011年03月26日 00:00

503 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 22:52:31.85 ID:bmRiC4wc
さあみんな、めんどくさい三河者劇場が始まるよー!

天正10年(1582)8月、いわゆる天正壬午の乱の真っ最中である。
信濃乙事(おっこと)には徳川軍甲斐・信州入りの先鋒と言うべき七手衆、酒井忠次大久保忠世岡部正綱
石川康道大須賀康高本多広隆・康重親子、そして穴山衆が軍を集結させていた。
いずれ劣らぬ歴戦の勇者、徳川軍の誇る戦争のベテランたちであった。

と、その夜、徳川方の信州国人、依田信蕃より知らせが入る

「北条氏直の軍4万3千が、この乙事から1里(4キロ)しか離れていない柏原に集結しています!」

驚いた七手衆から大久保忠世は偵察を出すと、たしかに北条軍の存在を確認、しかも乙事に向かって
進軍している。明朝にはここに押し寄せるであろう。対して七手衆はわずか3千!しかも乙事は
防備に向いた地形ではない

「直ぐに徳川勢力圏である甲斐に撤退するしか無い!」

誰もがそう思った。が、この三河者共が先ず始めたのは喧嘩であった
大久保忠世が吠える!

「左衛門尉(酒井忠次)のジジイ!あんたが諏訪頼忠をちゃんと味方に出来ないからこの有様になったんじゃ!」

諏訪頼忠の抱き込みに失敗した酒井忠次を罵った!これに忠次も

「なんだと新十郎(忠世)!?お前も北条軍の接近に気づかなかったくせに!」
「ジジイが信濃任されて張り切り過ぎて、信濃は俺が支配するとかいい気な事言ってるから信濃国人を
離反させ、そのせいで情報が入らなかったんだろうが!」

売り言葉に買い言葉。七手衆のトップ格である酒井大久保、頭に血がのぼり口論をヒートアップさせる。しかし

他の人々「あ、あの、それは後でいいのでそろそろ撤退しませんか?」

ごもっとも。罵り合っている間にも北条軍は近づいてくるのである。喧嘩している場合では全くもってないのである。
そこで酒井忠次

「お主達先に撤退せよ!わしは全員が撤退するまで、ここに残る!」

そうは言っても責任を感じていた忠次は、皆を逃がすため自分がここに最後まで踏みとどまる!と言ったのだ。
老武者(55歳)の感動的な決意ではないか。が、残念ながら三河者はそんな事に感動するほど、甘くない

504 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 22:54:39.44 ID:bmRiC4wc
大久保「なんだとジジイ!まさかそれで今回の責任チャラにする気か!?そんな事絶対にさせんぞ!
     先ずジジイから撤退しろ!」
酒井「なんだとこのクソガキ(50歳)!わしが殿軍するって言ってるんだから素直に先に撤退しろと言っておるのだ!」
大久保「馬鹿言うな、ジジイこそ先に撤退しろ!あんたが撤退するまで俺は絶対に撤退しないからな!」
酒井「ンだとこいつめ!わしだってお前が撤退するまで撤退などするものか!」

バトル再燃。もう子供の喧嘩レベルの意地の張りあいで収拾のつかない状況である。そうしているうち

偵察「あの~、北条軍の先鋒が沢を越えて、もう目と鼻の先に来ちゃいました」

岡部・石川・大須賀・本多親子・穴山衆「お前らいいかげんにしろ!!」

さすがにこれ以上はまずいと二人は無理やり引き離され、酒井忠次はいろんな意味で責任を取らされ
彼の部隊が最初に撤退することになった。
しかし忠次、これに腹の虫が収まらない

「なんと不名誉な。なんでわしが最初に撤退せねばならんのだ…。そうだ!おい、撤退するときわしの陣に火をかけろ!」
部下「え?そう言うのは全員の撤退が終わってからやるものでは…?」
酒井「いいからやれ!」

と、自分の撤退と同時に陣屋に火をかけた。夜である。その火は接近中の北条方からもバッチリ見える

北条方A「ややっ!徳川の陣屋の方から火の手が上がったぞ!」
北条方B「さては我々に気づいて撤退したか!急ぎ追うぞ!」

北条軍、火の手を目印に殺到し始めた!

酒井「やあみんな、北条軍が急接近してるみたいだよ?君たちも早く撤退してね。じゃ!」
と、酒井忠次さっそうと駆け去る。これには大久保忠世はじめ一同「あのキ○ガイジジイ!後で絶対殺す!」と
怒り心頭だが、とにかく他の者達も大急ぎで撤退を始めた。
この時の撤退は、殿が岡部正綱、二の手に穴山衆、三の手に大久保忠世、四の手に本多広隆・康重親子、
五の手に石川康道、六の手に大須賀康高、最後七の手が酒井忠次という陣容であった。


…で、何が恐ろしいってこの戦場生まれ戦場育ちのベテランウォーマシンどもはこの撤退で、大喧嘩した
酒井大久保も含めて、北条軍が攻勢に出れば各自連携してこれを防ぎ、北条軍が一旦下がれば各自に
威嚇を行い、あたかも一個の有機生命体のように、予めの打ち合わせがなくとも連動して行動し、
なんと、遂に甲斐までほぼ無傷での撤退に成功したのである!(史実)
あんな喧嘩してたのに!グダグダで滅茶苦茶な撤退開始だったのに!

三河者、緊急の大ピンチで通常営業の巻。




505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:03:59.76 ID:w5Q318qD
梅雪が死んだあとの穴山衆って徳川直参扱いだったの?

しかし、真田さんとこはよくこんな奴ら相手に勝てるなー。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:07:15.83 ID:10g3/AbD
平山優の「天正壬午の乱」から引用したのか。
あの本『三河物語』を史実として扱ってるからなぁ。

史料的価値が高いとされる『家忠日記』では、諏訪撤退のくだりは
普通に軍を引いたようにしか書いてないけどね。
『三河物語』では三河衆が切った張ったの大活躍して北条を振り回して撤退したように書いてあるけどさ。

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:14:20.86 ID:f5x4eJ3r
なんか読んだことがあるようなないような・・・

「ソギ」由来

2010年12月16日 00:01

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 21:58:32 ID:SPZySiTH
アバウトすぎて誰を調べたらいいのか解らないので既出だったらゴメンナサイね~
あと悪い話でもないのでこちらに・・・

正月の門松の竹の先端を斜めに切り落としてるのと平らに切ってあるのがありますよね?
斜めの切り口は「ソギ」と呼び、平に切られた切り口は「寸胴(ずんどう)」と呼ぶそうです。

「寸胴」は節が詰まっていて漏れないと縁起を担いで金融関係で使われるそうです。
元々は「寸胴」だけでしたが「ソギ」の門松を広めたのが徳川家という説があるそうです。

ある年の大晦日に、武田家から松平家(後の徳川家)へ次の一句が送られました。

「松枯れて 竹類なき 明日かな」


これを見て松平から武田に返句が送られる。

松枯れで 武田首なき 明日かな」

松平家では、こう詠みながら門松の竹の上部を斜めに切り落としたといいます。
この時を境に、松平家の門松の竹の頭は「斜め切り」となり、
江戸開幕後、関東に「ソギ」が広がってたそうです

返句を酒井忠次さんが詠んだという話もあるそうですよ~


門松に「ソギ」と「寸胴」の二種類あるのか不思議だったのでググってみたらこんな話にぶち当たった次第。

関連
信玄の門松と家康の門松with歌合戦


855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/15(水) 22:25:18 ID:gGh/wb+j
>>850
やっぱり、刀ですっぱり切り落としたのかね?

酒井忠次と信長

2010年02月26日 00:09

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 01:34:00 ID:Iuv63Z4R
酒井忠次と信長


長篠の合戦(設楽ヶ原会戦)直後のこと。
鳶ヶ巣山の奇襲を成功させ、武田軍を設楽ヶ原におびき出す大功を立てた
徳川家四天王筆頭酒井忠次に、信長がねぎらいの言葉をかけた。

「おお、酒井殿!此度の貴公の働き、見事であった!
 まるで後ろに目があるかのようであったぞ!」

忠次はニコリともせずこう答えた。

「いえ、後ろに目はありません」


( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)
あまりの空気読まない発言に居合わせた諸将、呆然。
( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)


一方、信長は空気を読んだ。

(;´ー`)
あ、うん。ごめんね。
別にそういう意味で言ったわけじゃないんだ。
えと、今日はお疲れ様。



当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった織田信長の面前での
この振る舞いに、世の人は忠次の豪胆を讃えたという。



三河武士、かくの如し。




174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 01:41:34 ID:i4MzDWyv
>>173
そんな忠次さんも三河衆の中ではかなり社交的な方なんだよ!
得意技「海老すくい」で、何度殺伐とした場を和ませてきたことかw

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 02:15:31 ID:lLvC4f9O
どれ……戦の終りを祝ってひとつそれがしが……

おっ 出ますぞ!
酒井様の「海老すくい」が!!

はぁ~~~ 浜名の~うみ~~~に
そい~そいっ


177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 03:26:24 ID:lZHnDqaJ
>>175
これはこれで味があるものでござるなボヒヒヒヒwwwwww

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 09:02:36 ID:XtQBLR92
>>175
さすが酒井様、俺たちに出来ない舞を平然と舞って見せるッそこにシビれる!憧れるぅ!

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 11:13:02 ID:Q5z6k+/H
>>175
殿以外の人間に褒められる訳にはいかんということか喃。
別組織の親分に褒められた挙句に身を滅ぼした義経の例なんか、
武士ならよく知ってるだろうし。


181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 11:47:01 ID:eLhHNsGI
実はめちゃめちゃ緊張してたとか……ないか、三河武士だし。

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 12:12:33 ID:+rTdDHwd
>>180
義経が滅んだ理由はまた違うと思うけど・・・スレ違いなので遠慮しときます

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 12:18:37 ID:SaXVchiX
>>173
忠次が安土城を見て「大したものではありませんな。」と言った、という話を聞いた
家康だったか信長だったかが「ああ、あいつならそう言うだろう。」と答えた話がなかたっけ?


184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 13:07:11 ID:jTGTU1Cq
まぁ、ドヤ顔で言ったんじゃなくて
冷や汗だらだらで言ったんだと思う
そういうやせ我慢って割と尊重されるし

じゃなかったら家康がまず許さないと思う
平然と言う様なら尊大で無礼なだけだから

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 13:23:09 ID:mKh4Dgv0
>>184
そこまでやせ我慢て印象もないなぁ
素で爆弾発言しても嫌味や尊大な態度にならないのが天然物の凄さだと思う
無骨なキャラは逆に大事にされるって愛されるっていうか
「自分、不器用ですから…」みたいな

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 23:48:54 ID:11u1C/Np
海老すくい踊りってどんな踊り?
大河ドラマとかで披露されたことあるかな?

酒井忠次から指揮下の松平家忠に手紙が届いた

2009年10月21日 00:08

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/20(火) 20:21:10 ID:u1TPEx0q
駿河拝領したお礼に上洛した徳川家康とその重臣
その一人、酒井忠次から指揮下の松平家忠に手紙が届いた

「今度、中国に出陣することになったが、畿内の指物(背中に付ける目印)は
しない(しなる棒に長い布を付けたもの)が主流なので、それに替える事。
これまでの四半旗(真四角の旗)では田舎者と言われるぞ」

意外に流行に敏感な三河武士であった
そしてこの数日後、本能寺の変が生じるのであった




761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/20(火) 21:01:20 ID:87lk7TI6
酒井さんの家中はめんどくさいことにはならんのかね?
もし、めんどくさい旗本連中に家康公がそんな発言しちゃったら…

大勢が真四角でキメて、指示に従ったごく少数のお洒落さんの差物を
見るも無残にへし折って主君に啖呵切りそうなイメージなんだけど…

「ああ情けなや、お家滅亡の兆しなり…」とかなんとか

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/20(火) 21:10:02 ID:MvQOQF3R
>>761
いやそれが、めんどくさい代表の作左衛門さん、他の事には厳しいのだが、
事ファッションに関しては寛大、というかむしろ、積極的に「どんどんお洒落な格好しろ」って
感じだったらしいw

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/20(火) 21:27:16 ID:hx0dcsy9
なんつーか、意外だ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/20(火) 21:31:08 ID:87lk7TI6
>>762
なんでだろ…家康公は、木綿で質素にまとめるような人なのに…
それはファッションとは関係ないかもしれんけど



765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/20(火) 21:33:29 ID:MvQOQF3R
家康には何故か地味なイメージがあるが、例の三方ヶ原の武田軍による、
「家康に過ぎたるもの~」に上げられている、「唐の頭」からもわかるように、
実は家康の軍装と言えば、派手できらびやかな事で当時有名だったらしい。

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/20(火) 21:58:02 ID:B0qY4o6l
ファッションごときで殿に対して後ろ指を指させるわけにはいかーん!ということだろう。

皆殿が評判落ちることに関しては過敏だから

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/20(火) 22:18:36 ID:YFXzevTt
>>764
小説かもしれんけどなんだったかで、木綿はその頃高級織物で
(確かに歴史の授業で普及したのは江戸時代からって習ったような)
家康が木綿を着てたのは領地の特産品だったので歩く広告塔と
して木綿スタイルを広める目的とかなんとか

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/20(火) 23:00:05 ID:BAesZqHK
>>767
かもね。木綿は室町時代には朝鮮・中国からの輸入品で、かつ重要な軍需物資でもあった。
戦国の頃から東海地方で栽培が始まり、国内産がじょじょに広まっていく。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/20(火) 23:04:43 ID:MvQOQF3R
実は三河は日本の木綿栽培発祥の地。
伝えたのはインド人(自称)

浜松、布橋伝説

2009年09月10日 00:09

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 16:41:32 ID:2c2/JmW6

布橋伝説

1573年の冬、三方ヶ原の合戦で武田軍に大敗した家康は、浜松城へ向け逃げ帰った。
浜松城で留守居していた酒井忠次は、武田軍の追撃をかわすため、浜松付近の犀ヶ崖で、
一計を案じた。
その計略とは、雪の降る中に白い布で犀ヶ崖に「偽物の橋」を架け、
付近で野営中だった武田軍を夜襲するというもの。
そして、徳川軍の夜襲でパニックに陥った武田軍を布橋に追い込んで、
崖に谷底へ追い落とし浜松城を包囲させるのを
諦めさせたという。

浜松市内の「布橋」の地名はこの伝説に由来する。





160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 17:03:44 ID:CJ3YaFqN
ほう、空城の計だけじゃなくちゃんと色々やってたのね

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 19:53:50 ID:xDxuQe3Y
>>159
合戦由来の地名って結構多いな。三方ヶ原の合戦の敗走時に家康が小豆餅屋
で餅を食い逃げしたのが由来でその地区を小豆餅になった話とか。

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 19:59:12 ID:xQsVskGX
>>162
やはり宣伝になるからでしょう
「ここは普通の村です」「ここはただの村です」「ここは小さな村です」
といわれるより
「ここは昔家康が~」の方が覚えがいい

宇津山城守小原鎮実、酒井忠次の軍勢に・悪い話

2009年05月30日 00:03

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/29(金) 11:51:39 ID:6mMSABlq
城爆発ネタ?

今川義元が桶狭間で敗死後、氏真と手を切った徳川家康は三河から遠江へと勢力を伸ばした。
宇津山城を守る小原鎮実は、家康の家臣酒井忠次の軍勢を迎え撃つが、多勢に無勢。
自身の重臣増田団右衛門も討ち死にしてしまう。
そこで城を抜け出すことにしたが、せめてと一計を案じて城中に焔硝を埋めておき、
敵が入り込んだときに爆発するよう細工した。
そして、これは酒井忠次が城に乗り込むと同時に確かに爆発した。
・・・・・・派手に爆音が響いただけだったが。
死傷者は出ず、酒井忠次らは大いに驚いたがそれだけだった。
火薬の量が足りなかった話。





817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/29(金) 13:07:45 ID:54WsOsTq
>>813
酒井忠次が驚くんだから鉄砲の音の何倍もあったんだろうなぁ
でもやっぱり当時の火薬じゃ爆殺は無理があるだろ

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/29(金) 19:14:11 ID:zs9Ttgcx
>>817
火薬をむざむざ敵に渡したくない、てのが先にあったんじゃないかね
で、一か八かに賭けてみたが、やっぱ駄目だったと…


酒井忠次、息子家次の石高に・悪い話

2009年05月23日 00:03

597 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/21(木) 23:36:03 ID:EaQkEsto
酒井忠次の墓。
徳川四天王筆頭の坂井忠次。
彼は関東へ家康が移封の頃はもう・・・・・・・

ご隠居様になっていた。つまり引退。

さて、移封後所領も増えた事もあり、各家臣に加増という話が来た。
他の四天王は10万石程度をもらえた。
忠次は家の石高も10万石だと知らせを今か今かと待っていたが、

「酒井家次君 全部併せて3万石に任ずる 家康」

忠次はすっ飛んで徳川家康の所へ行った。
忠次「殿!私は隠居したりとは言え今までたくさんの合戦に出て手柄を立てました。
   例えば姉川の戦いでは(この後、戦果自慢を小一時間)という事もしましたし、
   伝家の一発芸『海老すくい』で(一発芸自慢を小1時間)という事もありました。
   家次の石高もう少し何とかなりませんか!」
家康は答えた。

家康「だめ。絶対ダメ。今のままでは3万石!もう決定したんだ。ごねるな!」

酒井だって黙っちゃいない。四天王筆頭=三河武士の面倒くさい筆頭である。
DNAまで深く刻み込まれた、面倒くさい三河武士魂にかけて引き下がるわけには行かないのだ!

忠次「だってそうじゃないですか!私だって政治的交渉で(この後、実績自慢を小一時間)
しましたよ。
   豊臣対策だって(この後豊臣対策自慢を小一時間)だったんですよ。えーいもう面倒くさい!
   私の実績を加味してもっと増やしてくれ!」

ついに家康の方が切れた。額にデカイ筋を立てて、三河武士相手に
言ってはいけない事を言ったのだ。
家康「た~だ~つ~ぐ~・・・・・・・」

家康「お前 も 我が子はかわいいか!あぁ?」

あちゃー言っちゃった。そう家康は、信康切腹の件で信長に忠次がちゃんと弁明しなかったのを
かなり 恨んでいた のだ。
家康の言いたい事を察した忠次はそのままブンむくれて退出し、二度と家康に会わずに死んだ。
だが、彼も三河武士で意地っ張りである。

忠次「ワシの墓は江戸に背を向けておけ!」

と言っちゃった為、彼の墓は今でも江戸に背を向けて現在も意地を張ってしまっている。

でも考えてみれば3万石の所領って「家次に与えられた」もので酒井の働き分を増やせなかった
家次の責任じゃないのか?これに関する家次のコメントは、無い。




599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 00:05:25 ID:di4DMbjo
>>597
俺が最初この話を読んだときは、「お前も我が子が可愛いか」の
一言の厭味を言いたいがために3万石にしたんだと思ってたな。

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 00:07:04 ID:KNqx3nK9
>>597
実を言うと家康は井伊・本多・榊原も酒井と同じ位にしたがったが、
秀吉に「流石にその三人は10万石にしたら」と言われ渋々そうしたとか

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 04:12:22 ID:DgZed3XF
>597墓までめんどくさいんだ、。、

信康切腹のいきさつも忠次よか家康自身もどうしようもなかった出来事だし
結局、忠次を仕えさせていたんだから恨みというのもどこまで本音だったかわからんけどね。

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 05:23:58 ID:he0ROy+A
どうしようもないっていうか、切腹推進したのは家康の方だしな
この逸話自体が信長に無理矢理若様を殺された家康公っていう逸話からさらに派生した逸話だろう

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 08:29:34 ID:cUGEASPV
>>603
実は家康は信康を死なせたくなかった。
しかし信長の手前上、処断すると言上せざるを得ない状況。。
忠次にはその辺をうまく取り繕って信長に「そ、そこまでしなくていいよ」と言わせようと思ったが、
「思うままにせよ」と言われてしまい引っ込みが付かなくなってしまった。
そして忠次を逆恨みに至る。

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 11:29:14 ID:YnbuejGM
事件直前に家康と信康は激しい口論をして信康を岡崎から追い出している
家康は信康の墓をずっと放置している(五徳は信長が倒れた後も面倒みているのに)
あげくに信康には暴君テンプレの悪評がついてるとなれば
家康の息子にたいする悪意は透けて見えるってもの。ちょうど武田でも息子の謀反未遂があったしな
殺したくないなら信長に打診するにしても蟄居でいい
最初に「信康に反逆の意思あり」と切り出す時点で明白
酒井の息子三万石も妥当だろ

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 11:35:03 ID:twUI4tMF
>家康は信康の墓をずっと放置している
これ、大きいよな。
もしかつての通説通りに家康が信康を死なせたくないのに信長に強制された
というのなら、早くても本能寺以後、遅くとも関が原以降には誰はばかる事
なく信康の供養をし、信長へのうらみつらみも発言できただろうに。

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 11:51:54 ID:K7lY9xCu
いや、もう辛すぎて思い出したくないってのもあったかもしれんよ。

608 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/05/22(金) 12:02:06 ID:rYvzmf/z
>>606
下手に直したら信長への当てつけになるから出来なかったかな?
信長没後とはいえ、執念深さを他人に気取られるのを案じたとか。

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 12:22:59 ID:7DOo/6pW
俺はむしろ信康謀反は徳川家中の政治的な派閥争いの結果で、
岡崎派と駿府派とか親尾張派とかそういう色々な立場の対立があったんじゃないかと思う
家康個人の感情うんぬんではなく家中の空気みたいなものが結構深いんじゃないかね
武田の方もそういう空気あるよな

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 12:53:19 ID:T172qYSi
酒井家次も別に疎まれてないしな。
井伊直政は例外として、家次は彼の世代の中では順調に出世してる方だと思うぜ
(関東移封時は数え27歳)

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 14:58:07 ID:twUI4tMF
>>608
豊臣政権以後の織田家に、何をはばかることがあったと?
通説通りなら、家康は被害者なのだから。

>執念深さを他人に気取られるのを案じたとか
それなら「お前も息子は可愛いか」なんてエピソードは抹消を図るだろう。

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 16:15:30 ID:he0ROy+A
>>608
本能寺以降に信長に殺された息子の供養をして、それを執念深いと取るのはよっぽど偏屈な人間だろう
息子を理不尽に殺した罰が当たったのだ!とか言いながら信長の墓を足蹴にしたとかなら兎も角な
何年も前に訳あって殺してしまった息子を盛大に供養するのは格好の「いい人」アピールになると思うね
小牧長久手の時期なら家臣の結束&旧織田系の豊臣に対しての敵愾心を煽ることもできるし

墓放置はもうホントに信康のことを思い出したくなかったんだろ
それが信康本人に対する嫌悪じゃなくても
家康が(っていうか織田&徳川が)一番辛い時期のゴタゴタなんて思い出したくもないだろう
彼が隠居する地に決めたのは駿府だし

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 19:52:05 ID:AcApi+BE
>>609
つまりあれか 家康はバリバリの武田派で
織田を倒す機会を伺っていたが
織田派の息子にバレそうになり成敗したと


615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 19:59:04 ID:CL6QCjLC
まぁ真実は家康本人のみぞ知るってことで。
さまざまな可能性をそれらしく昇華させるのは
作家の領分だろうし、ここで喧嘩しててもしょうがない。

617 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/05/22(金) 22:41:02 ID:UHyRQc1G
なんやかんやいっても家康公は信康血統を優遇しとる
一人は四天王の忠勝系本多氏(千姫の再婚先でもある)に、
もう一人は小笠原氏(江戸時代通して譜代の重臣)

622 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/05/22(金) 23:38:04 ID:hMHIULrY
>>613
隠居の地が駿府って、考えさせられるな。
岡崎でも浜松でもなく、人質時代過ごしたけど
本拠地にしたことのない駿府か。

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/22(金) 23:41:19 ID:1M/qbpsf
>>622
いやいや、甲州征伐後から関東移封まで本拠地駿府ですがな。

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/23(土) 12:26:56 ID:Ted+crNF
>>622
人質っというよりも将来の今川家の宿老候補として丁重に扱われてたみたいだね。

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/23(土) 12:52:07 ID:K7xGLS39
1家臣としてみれば松平は十分な大身だったからね
感情的なこじれから織田方に奔られると大変面倒なことになるし