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【雑談】元忠系鳥居家について

2016年09月07日 21:48

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 23:16:59.44 ID:vV2TbTzk
鳥居強右衛門さんは息子もかっこいいわ。向こうの鳥居さんとはえらい違いだ。

159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2016/09/06(火) 21:30:04.88 ID:/vOIaz6r
>>151
元忠死後のあっちの鳥居さんのその後
忠政:元忠次男。父の忠義のおかげで最終的には出羽山形24万石の大名に出世。でも領民からは嫌われてた
忠恒:忠政長男。死後、忠政時代から因縁あった大老・井伊直孝の進言もあって山形から信州高遠へ転封
忠春:忠政三男。転封先の高遠で父兄に輪をかけた暴政&贅沢三昧。特技は茶屋遊び。家臣に斬られた傷が元で死去
忠則:忠春長男。父同様の暴君。特技は借金踏み倒し。家臣が事件を起こして連座閉門中に自殺。妻は森忠政の外ひ孫
忠英:忠則次男。父のせいで能登下村1万石にまで落ちぶれるが最終的には下野壬生3万石。鳥居家初の名君

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/07(水) 17:03:36.02 ID:HlzQjCAB
>>159
元忠のいい話が…w救いがあるだけましかなぁ。

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/07(水) 18:23:30.49 ID:8ZCpfROX
いつか見た森家じゃないですかーヤダー

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/07(水) 18:33:05.62 ID:/A4kNzDY
忠政は鮭様の築城した山形城を使いにくくなるような改造をしたからな。そりゃ嫌われるわ。

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/07(水) 20:16:20.35 ID:aJPqcRBS
町に流れる川を埋め立てたんだっけ?

164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2016/09/07(水) 20:47:22.34 ID:7O2/S22j
>>159
山形~高遠時代の鳥居家は大概だけど山形時代の与力大名だった庄内酒井家(忠次の家)もこれまたひどい
酒井忠勝:家次の長男。鳥居忠政の娘婿。宮内。舅もびっくりの酷政を敷く。一説には自ら手打ちした人数120~140人とも
酒井忠重:家次の三男。白岩領主時代に兄以上の苛政を敷き改易。のち酒井長門守事件を起こして再び改易。最期は暗殺

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/07(水) 21:25:41.18 ID:7O2/S22j
>>161
でも磔右近の血が入った忠英の代ででようやくまともになってるんだが

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/07(水) 22:23:40.79 ID:N0qYphZ0
>>165
マイナスとマイナスをかけあわせるとプラスになるみたいなものかしら

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/07(水) 22:37:55.18 ID:7O2/S22j
鳥居忠英が亡くなった年(1716年)は家康が死んで100年目であり暴れん坊将軍の時代なんだよな

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/07(水) 23:25:09.81 ID:OwWgLhxX
>>163
鮭様が川を外堀にしてたところを田んぼ用の水をひこうとして流れ変えたら、水はけ悪く城の中が湿地になってしまい雨降ったら大変なことになるような魔改造を施した。

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忠臣の血痕

2015年11月09日 09:23

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 16:21:15.75 ID:9WP2/rEK
43、忠臣の血痕

 明治の初め、政府に「弁官」という官があった。
この弁官の一人に武州忍藩出身の澤田某という人物いた。
詳しいことはわからないが、生真面目な性格の男だったらしい。

戊辰の役が終わってまだいくらも経たないころ、皇居西之丸にある門の楼上から一棹の長持が見つかった。
場所が場所だけに、徳川家の遺物であることは間違いない。
「いかがいたしましょう」
「中身がわからぬではどうしようもない。開けてみよ」
下役人から処理法を聞かれた澤田は、そう答えた。
そしてそのまま出かけていって現場に立ち合っているところをみると、案外興味もあったのかもしれない。
「鍵がかかっておりますが」
「壊せばいいだろう」
そこで鍵を壊して開けてみると、出てきたのは古畳が2枚と桃のタネが2つであった。
「……?」
意味も無くこんなところに畳をしまっておくというのも珍妙なので、
よくよく見てみると、畳の表面にシミのようなものがある。
「血の跡ではござりますまいか?」
なるほど、そのようである。
そこでよくよく調べてみると、驚いたことにこの畳は
慶長5年8月1日に、伏見城で鳥居彦右衛門元忠が切腹したときのものだとわかった。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 16:21:41.66 ID:9WP2/rEK
鳥居元忠、といえば、関ヶ原の前段ですでに捨城の伏見城に籠って壮絶な戦死を遂げた、徳川家にとって超一級の忠臣である。
「なんと忠臣の血痕であったか」
澤田は感動したが、当時のこととて幕府の遺物は塵芥と同類で、「そんな汚物は捨ててしまえ」という声が強かった。
そこで古畳は危うく廃棄されるところだったのだが、
澤田が密かに鳥居家の公用人に連絡しておいたので、身体中の毛を逆立てて飛んできた鳥居家の家臣に危うく下げ渡された。

外国の博物館で過去の偉人たちの血痕や弾痕のある衣服などを展示しているという話は聞いたことがあるが、
我国において300年も昔の忠臣の血痕をかくも鄭重に保存しておいたとは、まことにもって驚きとしか言いようが無い。
保存させたのは家康公に違いあるまい。
海内一の強剛者たちの集まりであった三河武士軍団が、
家康公のために死をも厭わなかったのは、公のこういう優しさがあった故であろう。

ところで、もう一方の「桃のタネ」であるが……
伏見の名物は桃であったらしいから、おそらく鳥居元忠が最期に食べたのがこの桃だったのではあるまいか……?


ttp://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/shigure-soushi/shigure-soushi.htm
ここの現代語訳志ぐれ草子より引用




966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 16:43:19.36 ID:WG5J2xR6
血天井といえば、徳島の丈六寺に元親によって謀殺された新開氏の血天井があるな
既出だから書かないが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12.html

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 17:44:37.66 ID:g/S5eUq6
10%は一回失敗したら即抜け安定
それをされる事ぐらいは承知の上だよなぁ?

百舌と竹千代と鳥居元忠

2012年09月02日 20:53

308 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/01(土) 21:13:27.32 ID:APD26eze
鳥居元忠は13歳の時から3歳年下の竹千代に仕えていたのだが、ある日、百舌を使って鷹狩のまねをしていた
竹千代の遊び相手をしていた元忠は、自分の手に百舌を乗せたところ、

「百舌の置き方が悪い!」

と縁側から突き落とされてしまった。周囲の者は竹千代を諌め、元忠を心配したが、
当の元忠は

「私は以前、父の忠吉から『普通であればこの忠吉の子だからと遠慮する所を思ったまま戒めるとは大将の器量を
 備えておられる。小事は注意するに及ばぬ。ただ忠勤に励め。』と告げられましたので、気にしていません。」

と答えたという。




そこで一計を案じたのが鳥居元忠である

2011年09月29日 22:10

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 22:00:36.67 ID:dUleUS2Q
長篠の戦いでのこと。

織田方や武田方も味方内での中は良くなかった(主に幹部)ようだが、徳川方にも雑兵の中で喧嘩する者が現れた。
長年はりあってきた武田勢との正念場である、徳川の幹部たちは当然これを憂慮した。
当然三河武士たちである。喧嘩をあらゆる(暴力的)措置をとって止めようとしたのであろうが、
ダガシカシ、一向にうまくいかなかった。

そこで一計を案じたのが鳥居元忠である。
「兵どもに楊枝を使え、と伝達すればよろしかろう。」
ポカーンな家康。つまり喧嘩を沈めるために「お前ら歯ぁ磨けよ!」と言う訳である。
元忠が言うには、
「もめるときの人間の顔は醜いもの。されば楊枝を携帯させ、身だしなみに気を使うようにさせれば、
 おのずと素行も良くなる。」
とのこと。

なんだか現代の先生の「ボタンは第2ボタンまで閉めろ!」というお説教に近い気がする。
これが実行されたかは不明(というか史実かどうかすら怪しい)だが、
元忠、意外と三河武士の中では相手の心を考えたり読み取ったりするのが得意であったのかもしれない。





834 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/28(水) 22:27:26.94 ID:HvgZyHiS
>>832
商品棚の奥に鏡を設置したら万引きが減った・・・という話を思い出したw

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 22:56:25.47 ID:xvr4lmRN
「てめえ、口が臭えんだよ!」
「何だと!やんのかゴラア!!」

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 22:58:27.90 ID:pC8wEAvU
本多忠勝も、身だしなみを整えろと言っているし
三河武士はそういう気質も多いのかな

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 23:13:24.32 ID:GLMLxktH
首を取られた時に備えて化粧して出陣する武士もいるくらいだから
「武士なら見苦しくない格好をしよう。」みたいな認識はあったんじゃないだろうか。」

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 00:26:26.81 ID:XUBRYC9d
まあ雑兵足軽に至るまで徹底させる所がいいのではw

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 01:22:03.24 ID:owLIQX+T
家康自身も意外にも武士の身だしなみ(嗜み)にうるさかったりするんだよな
万が一の場合に備え、頭には香を焚き込んでおけとか言ったり

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 01:58:46.66 ID:zanImqqh
家康の衣類や鎧は、同時代的にもかなりド派手なんだよね。
全身黄金の鎧なんて秀吉でも付けないようなもの作ってるしw
どうも家康は後の質素倹約の時代に、地味な感じにキャラクターを変更された観がある。

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 02:12:27.00 ID:T+cE2pzF
ワシ等普段から質素倹約してんじゃん
だもんで戦装束ぐらい着飾るだらぁ
お前等もやってみりん

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 04:03:19.76 ID:+0TDz4Pk
桶狭間ん時の大高城に金色の鎧着て兵糧搬入したんだっけな。目立つよなあ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 06:12:14.80 ID:UxUhVSAl
ガンダムシリーズに出てくる百式のモデルが家康公だからな。
嘘だけど

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 07:03:23.68 ID:v2ygL4Kk
家康って、普段節約して合戦では出し惜しみしないのが武士の姿って考えだと思う。
関ヶ原の頃のキラキラした若武者に苦言を呈する逸話と整合性取れないけど。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 08:05:29.16 ID:JxBp5y97
>>843
一瞬納得しかけたw

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 09:22:38.85 ID:zanImqqh
>>844
家康みたいな大将がそうするのと、組頭レベルがキラキラした武装をするのはやっぱ違うんじゃないかね?
前の悪い話スレにあった一条さんの逸話じゃないけど、やっぱ下の人間が派手な武装するのは
集中的に狙われて損だと思ったw

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 09:36:33.15 ID:+m92HzHL
家康に然り、政宗に然り、クロカンに然り、早雲に然り、
こいつらは倹約家であってケチではないからね
節制をして貯蓄に励んでも、いざというときの出し惜しみはしないタイプ

ケチってのは、銭を連れて戦争へいけと嫁さんにマジギレされた前田利家みたいな人のことだからなw

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 10:41:41.80 ID:s2tN12eE
>>844
キラキラ通としては「そのキラキラは違うんだよ」とか言いたくなるんじゃね

849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/29(木) 12:22:05.43 ID:Rcwy8hs3
なにそれ可愛い

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 12:28:32.26 ID:CYQQUAaN
そのキラキラはキライってか

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 17:37:06.38 ID:XUBRYC9d
あまり関係ないが戦国武将の馬印も金が多いね。

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 18:23:37.06 ID:UxUhVSAl
動乱期の武士の遺訓みると、
最近の若い侍は茶の湯なんぞに金使って・・・
みたいな人多いからな。
戦があるのが常な時代の武士は武具にこそ金使うのがデフォなんだろうね

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 18:29:56.91 ID:7couifVY
直江状が本物として、山城守が三河者の家康に
「上方の武士は茶器などを集めているが、田舎武士は武具に金をかけるのだ」
と言っているのに違和感あったが、家康も派手好みだったのか

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 19:02:36.28 ID:s2tN12eE
>>853
侘び茶が広まってない地域だと茶の湯というと闘茶のイメージが強かったんじゃね?

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 19:43:36.01 ID:9Wn8sJjR
馬印は寧ろキラキラ目立たないいかんのじゃないか?

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 19:52:59.63 ID:6Svqa0cw
家康の馬印に赤丸が書いてある金の扇があったと思うけど、あれは何故傾けてるんですかね?

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 20:21:08.65 ID:+m92HzHL
扇子は91度以上180度未満で開くから、
片側を垂直に立てた棒にくくりつけると、片側は水平にも垂直にもならないから

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 20:30:22.28 ID:cyH9kFXl
>>856
棒に閉じた扇を括って扇を開くと自然とあの傾いた形になる
元々アドリブで作った馬印だし、弦を担いでその傾いた形から変える必要性がなかっただけかと

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 22:06:14.75 ID:xCOFNUC4
武者は目立って自分の手柄をアピールしてなんぼ。
目立つと敵の的になるのは当たり前で、敵に狙われるぐらいに自分の馬印を有名にしなくちゃいけない。


881 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/01(土) 02:38:40.67 ID:v/Z1mi6o
>>847
利家は信長のお気に入りを切って追放されてもそれでもどうしても
信長に仕えたくて二年間浪人で貧乏暮らしをしてこたえてるから
でしょう。
他のメンツはそこまでのビンボーを味わっていないからね。

豊臣秀吉、鳥居元忠の嫡男を縁組させる

2011年03月17日 00:00

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 22:49:27.84 ID:rvcmuil8
徳川家康麾下の鳥居元忠といえば、三河衆の中でも特に無骨な侍である。

家康が関東に移る少し前のこと、その鳥居元忠豊臣秀吉に呼ばれた。
元忠に官位を与える、というのだ。

元忠、これを聞いて
「私は無骨な田舎者にて、この身もまた、このように片端であります」

と、諏訪原城攻めで銃弾に貫かれたため、まともに動かなくなった左足をさすった。
そして

「こんな体たらくですので、叙爵などしていただいても殿下のお役には立ちません。
どうぞその件は、御免下されませ。」

と、断った。
だが秀吉は、そんな鳥居元忠を強く気に入ったらしい。少し後で再び元忠を呼び寄せ
こう提案した

「彦右衛門尉(元忠)よ、おぬしの嫡子新太郎を羽柴下総守(滝川雄利)の娘(養女・生駒家長娘)と
縁組させその養子とするのだ。その上でわしが召し使おう」

滝川雄利は羽柴性を頂いた秀吉の直臣大名である。その娘を、陪臣に過ぎぬ元忠の息子に娶せ、
天下人たる秀吉の直参としようと言うのだ。大変な栄誉であり出世であろう。が、これにも元忠

「我が愚息をもって下総守殿の息女と縁組せるということ、これは仰せに従いましょう。
…ですが、その息子を殿下に召し仕えさせるということ、これはお断り申す!

この元忠の家は、先祖以来徳川譜代相伝の家従の者であり、それは子孫へと伝えていくものです。
他家に奉公仕る事の出来るものではありませぬ!」

結婚は認めるが秀吉に仕えさせるのは御免被る、というのだ。
半ば秀吉の顔を潰すも同様である。しかし秀吉

「鳥居が申すところ、道理である」

とあっさりその条件を認め、滝川雄利の娘を鳥居新太郎(忠政)に娶らせた。

やはり秀吉は、元忠のような無骨で主家への忠誠の塊のような男が、心底好きだったのであろう。
そんな事を感じさせる、鳥居元忠豊臣秀吉のお話。





354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 23:34:50.63 ID:pELZY6x7
ここでラスボスさんが切れちゃうと自分の器が小さくみえるからそういうことはしないんだろうね~
まぁ、これが直臣だったら後で・・・

よりにもよって本能寺の変の時に京にいた2人の話

2011年01月07日 00:02

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 20:45:25 ID:PEfG71Ru
よりにもよって本能寺の変の時に京にいた2人の話

本能寺の変から3日経った頃、東福寺霊源院の裏手にある山から1人の男が降りてきて、長老にこう頼んだ。
「我々は本能寺の変で山に隠れた者ですが、三日何も食べておらず餓死寸前です。どうかお慈悲をもって
食事を頂けませんでしょうか」
これを聞いた長老が快く食事を差し出すと、その男は自分の分を平らげた後、残りを手ぬぐいに包んで
山に持って帰っていった。

その日の夕刻、今度は先程の1人に加えて4人が降りてきて、同様の説明をし匿って欲しいと恭順の証か5人とも
刀と脇差を手拭いで括い、差し出した。
長老は5人を院の天井に隠して寺の他の連中にも知らせないようにしていた。
その後、彼らが東国に帰ってしばらくすると刈谷城主水野忠重の使者が来て、先頃は長老のお陰で急難を免れ
恩儀は付きませぬと言った。
そうあの5人は水野忠重とその家臣だったのである。
その後、霊源院は水野家の菩提寺となり寺領50石を与えられたそうである。


そしてもう一人、京にいた男がいた。
その名は鳥居元忠、彼は家康と共に上洛していたのだが堺へ行く前に瘧を患い京の旅館に投宿をしていたのである。
本能寺の変を聞いたとき元忠は狂乱した。
自身が危うい事にではない、家康の側にいないことにである。
京では様々な噂が飛び交い家康の安否は全くの不明、ここに至り元忠は決心した。
「此の様な状況下では家康様も逃れられまい。自分は病に倒れ、主君側に居れぬは何とも悔しい。この期に及んでは
死んで冥土のお供をせん」
…何と言うか流石に幼少よりの仲というか言うことがクリソツである。

しかし老臣の高須信次がこう言って押しとどめた。
「家康様は並の大将ではございません。それに切腹するのは家康様の是非が解るまで抑えるべきです。短慮は
いけません」
その説得に元忠も切腹を思いとどまり、潜伏することになったが問題はその場所である。
これも高須が長年祈願をしていた愛宕山の長床坊を提案し、これが容れられた。
しかし、長年のよしみとは言え何があるか解らない。そこで高須のみを馬上とし、元忠含めた彼らは下郎の格好をして
元忠の家臣として長床坊へと向かった。

結果として長床坊の者達は快く迎えてくれたので、元忠も直ぐに身分を明かしてそこで身を潜めていた。
その間、長床坊の者たちが堺などで情報収集をするさなか、家康が三河に生還したという飛脚が届き、元忠も急ぎ
三河へと戻った。
戻った元忠を家康は大いに喜び、また元忠も高須に大いに感謝して彼に何時も佩用している刀を与えたそうである。


どっちもいい話なんだが、やっぱり京にはセーフハウス的なモノが必要なんだなと思ったり。




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 21:44:00 ID:TlENGPMs
もしこの時元忠さんが死んじゃってたら…

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 22:37:16 ID:2aaph1/H
>>140
伏見は作左かな?

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 22:50:54 ID:H2lH6u2r
関ヶ原の前に作左は死んでるじゃないかな?
家康さんらより一世代上のイメージあるけど~

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 23:04:55 ID:7UfslUNG
京都は普通に一見さんお断りだしな普段から付き合いをよくしとかないと
「~どうかお慈悲をもって食事を頂けませんでしょうか」
これを聞いた長老が快くぶぶ漬けを差し出すと~ということになる


144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 23:52:19 ID:UwLpa3H8
平岩さんじゃないの


145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 07:18:07 ID:QYeMgOvr
>>144
親吉は駿府人質時代からの
同い年の親友だから、
家康が出さないんじゃ無いかな?

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 08:07:55 ID:2fFFgccM
>>145
元忠のことは実は疎ましく思ってたんかい・・・最近出てきた、三成挙兵が寝耳に水で、伏見城が戦場になるなんて家康は思っていなかった説か
最初っから三成は挙兵すると思っていたかで、伏見城に残す意味合いがまったく変わっちゃうだろうしね

前者なら松平康元、後者なら大久保彦左衛門で・・・

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 08:57:31 ID:LloT+Aod
>>146
彦左衛門ってそこで名が出るほどの大身ではないんじゃ。

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 13:15:13 ID:8mb9beZL
もういい年だからこれで楽隠居させるつもりだったとかじゃね?

149 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/06(木) 15:41:13 ID:Eyqnb04f
伏見の切腹者って、何で放置されたの?

町人、佐野四郎右衛門の義侠

2010年06月29日 00:00

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/27(日) 22:36:01 ID:bpDOvLfE
市川茂右衛門と加藤甚九郎は、鳥居元忠の家来であった

慶長5年(1600)彼らは関東の元忠の所領にいたが、蜂起した石田三成等の軍勢により
元忠のいる伏見城が囲まれたということを聞くと、取るもの取らず、急ぎ伏見に向かった。

ところがその手前に大津城主、京極高次によって関が設けられ、怪しいものが通らぬよう
人改めをしているという話が聞こえてきた。
そこでこの両人は急ぎ出家の姿になり、わずかばかり覚えていた経文をとなえ、
これによりどうにか関を通過した。

だが伏見城は西軍に厳重に囲まれ、どうにも入城する方法がない。
そこで二人は京に上り、鳥居元忠が常々懇意にしていた、佐野四郎右衛門と言う
町人のところに行った。

「我々は、どうにかして伏見城に入りたいのだ」

伏見城は大軍に囲まれ援軍の当てもなく、誰が見ても落城は時間の問題であった。

それでもなおこのように言う二人に、四郎右衛門は感動し、両人のため具足、槍、薙刀を用意、
密かに城内と連絡を取り、7月末日の夜、二人は無事、入城に成功した。

彼らは鳥居元忠と共に討死し、見事本意を遂げた。

また、この佐野四郎右衛門は、伏見落城の後、大阪で獄門に掛かっていた鳥居元忠の首を
盗み出し、京に持ち帰り葬儀を行ない、さらに知恩院の寺内に龍見院という寺を建て、そこで
元忠の霊を厚く弔った、とのことである。

町人、佐野四郎右衛門の、義侠についての逸話である。




970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/27(日) 22:49:34 ID:FuDqvqoT
>>969
出家の姿になり、というのは
頭も丸めたという意味なのかな。

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/27(日) 22:51:13 ID:bpDOvLfE
>>970
そういうことですな

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/27(日) 23:29:04 ID:EtqXN1hS
>>969
家来も天晴れとしか言えん奴らだな
イイハナシダー

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/27(日) 23:42:33 ID:92jvn3n7
面倒臭い三河武士のことだから伏見城に入城した時に「何で殿の元へ行かなかったのか!」とか言われてそう。

974 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/28(月) 00:16:43 ID:jGVV42iW
この者達の子孫は厚遇されているの?

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/28(月) 00:51:09 ID:v+SPD03B
>>974

東照大権現「お前たちも自分の子孫が可愛いか!?」

976 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/28(月) 00:57:39 ID:byBVe5DO
>>969
名のある武士にも出来ない事をやってのけるとはスーパー町人だなあ

977 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/28(月) 09:39:20 ID:8iggxO7F
鳥居勝商はその辺の武将と同程度の立派なお墓だったが
子孫がどの様に扱われていたのだろうか?

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/28(月) 12:52:52 ID:9VyHiFu3
鳥居勝商の子孫は奥平信昌の四男、松平忠明を祖とする奥平松平家に仕えた。
1500石だから大身だね。
奥平家にとっても家運を開く合戦だったわけだし墓も立派になるさ。

鳥居元忠の妻、伏見城の図面を見て

2009年10月02日 04:06

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/01(木) 01:06:08 ID:HqDKjD66
鳥居元忠の妻と言えば、ご存知の通り武田信玄に仕えた鬼美濃こと、馬場信春の娘である。

さて、徳川家康が鳥居元忠に伏見城の留守居をまかせ、上杉征伐のため関東に下った頃の事、
この妻は、自分の夫が籠る伏見城の図面を見て、このように言った

「この城は、松の丸が横からの攻撃に弱い構造になっています。
もし城が落ちるとすれば、この松の丸からでしょう。」

果たして伏見落城の折、最初に攻略されたのは松の丸であった。
これに世の人々、「馬場美濃といえば城割の名人として有名であったが、
その娘でさえもこれほどとは、血は争えぬものである。」と、大いに感嘆したそうである。





965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/01(木) 07:13:43 ID:Uv3iX2c0
>>959
鬼美濃って武田家臣でも複数いるのか
原の方しか知らなかった

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/01(木) 08:02:59 ID:JchZkwDs
原さんの武功にあやかるようにと言う事で美濃守の官途を名乗ったんでなかったかな
不死身の鬼美濃さんのほうが有名かしら?

鳥居元忠、伏見城にて

2009年06月27日 00:06

795 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/26(金) 01:18:59 ID:OiOww81/
漢ネタで。

関ヶ原直前の上杉攻めへ向かう徳川家康は伏見城へ寄った。
ここは、鳥居元忠が守将であったが、今回はちょっとどころかとんでもなくいつもと異なっていた。
そう、家康が伏見へ立ち寄ったのは・・・

鳥居元忠へ、死守命令を下すためであったのだ。しかも確実に死ぬ命令を。
さて、伏見城で鳥居と対面した家康は、命令を下してから鳥居に言った。

家康「伏見の城兵は少ない。必要な兵数と武器弾薬は置いていく、申してみよ。」
鳥居「殿。今はお家にとって兵も武器も弾薬も必要なとき。殿が多くお持ちください。
伏見は現在の手勢で守ります。」

こうして、鳥居は少ない手勢で大きな伏見城を守る事になった。家康がしつこく聞いても
断ったからである。
その夜、家康と鳥居は夜遅くまで談笑した。家康人質時代からのつき合いである。
つもる話もあっただろう。
鳥居が下がるとき、家康は小姓に案内をさせるように命じた。これが2人の最後の別れとなった。

上杉征伐中に石田三成挙兵の知らせがきたとき、伏見では籠城戦が始まっていた。
鳥居元忠は家康の命令を忠実に守り、一人でも多く、一分でも長く、西軍を地獄へ引きずり込んだ。
江戸に家康が戻った頃に届いたのは、鳥居元忠戦死の知らせだったという。




797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/26(金) 01:41:49 ID:LWuBiqiK
>> 795
いつ聞いても泣ける、ガチで。

つーか、改めて思うけど、こういう本当の有名どころって意外と出てないのなw

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 01:45:39 ID:BF8rRTKe
戦後の鳥居の息子の加封具合を見ると
ホントにこんな感じのやり取りがあったんだろうなと感じる。

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 02:05:22 ID:/1jsvC7B
ちゃんと報いるのな。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 02:09:20 ID:jkSISPqo
>>795
高橋紹運と同じで、意味のある玉砕なんだよな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 02:49:42 ID:r3yc8kAS
>>795
島津軍を城に入れなかったのもいい意味でであってほしい。
背景に黒いものが見え隠れしてしまうと、気持ち的にトーンダウンしてしまうから。

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 03:48:31 ID:KQ3O81Nr
妖怪・鳥居耀蔵ってこの元忠の子孫?

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 04:23:45 ID:dMcfxStj
>>802
違う。鳥居耀蔵の父は林衡という儒者。庶流の旗本鳥居家に養子に入った。


804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 04:27:29 ID:KQ3O81Nr

血の繋がりはないんだね
良かったw

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 04:50:38 ID:dMcfxStj
ちなみに鳥居耀蔵の実弟の林復斎は、国際通の開明派で、日米和親条約のときの
交渉責任者をやったりもしてる。

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 04:55:31 ID:ZSDBP3/O
妖怪さんは流刑先での評判はいいんだよねえ
人って難しい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 05:42:56 ID:ih+AFcua
>>797
最初の頃のスレの感じは「皆があまり知らない、戦国のちょっと良い話を書こう。」
みたいな感じだったから有名な話は敢えて書かないってのが、暗黙の了解みたいなね…
最近は「戦国逸話集(良い話編)」な感じだから、有名な話も結構投下されて来たよね。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 11:29:00 ID:HW8wqwDJ
>>808
有名所はもう既出だろうからって避けてるってのもあるかと

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 20:44:06 ID:kLhfT7QE
>>802
有名どころだと、大石内蔵助が元忠の子孫だな


鳥居元忠と娘狩り・悪い話

2009年01月23日 00:04

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/22(木) 13:13:00 ID:fs698siZ
名前ネタ飽きた人向けの有名な話

信濃侵攻後、家康は武田家縁の娘を求めて女狩りを行った
武田の血を血縁に引きずり込むことで旧武田領での統治基盤の安定を狙ったのだ
第一目標は美女と噂の高い信玄の娘松姫
が、見つからない
松姫の動向は既出っぽいんで省きます
この際、武田重臣馬場信春の娘も候補になった
しかし、調査に向かった鳥居元忠からは「見つからない」との回答だったのである
結局、家康は秋山虎康の娘を穴山梅雪の養女にして娶った(下山殿)
後日、その馬場信春の娘は鳥居元忠に匿われ内縁関係にあることが判明
家康は笑いながら許し正式に正室と公表させた
忠臣が主命に反したちょい悪な逸話




674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/22(木) 21:36:14 ID:o9TQznAa
>>662
その時の鳥居さんのコメントも聞きたかったな
まるでいいわけしないで無言w 

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/23(金) 00:02:51 ID:CQq4MtH3
>>662
けっこういい話だと思ってしまった
一目惚れしたんだろうな

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/23(金) 00:21:44 ID:0rGmEj6n
>>662
鳥居さん可愛いなw

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/23(金) 00:36:17 ID:bHz51Zqi
康政「赤備をくれなかった殿への意趣返しに山県と並び称せられた
   馬場の血筋を引き入れたかったんだよなわかるよ、
   すごくわかるwww」

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/23(金) 00:47:23 ID:1bgd7ExV
作左『あんな若造に赤備えをやるなど殿もモウロクしたわい』

数正『んじゃ一緒に猿のとこいかね?』

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/23(金) 07:11:52 ID:pMpmOYQS
氏康「うちの真似してりゃ五色もあって揉めたりしなかったのに。」

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/23(金) 10:07:19 ID:Wg0qpWsk
>>681
小田原戦隊・北条ファイブ参上!

軍装の乱れは心の乱れ、断じて許しませんわよ~

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/23(金) 11:26:38 ID:PU4OPCI0
Yes、北条キュア5

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/23(金) 12:56:06 ID:srlJWbUo
関八州に平和をもたらさんがため
悪の組織、カントー・カンレーと戦いを繰り広げるのか

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/23(金) 13:29:18 ID:fvTPMjZ/
二人は氏キュア

鳥居元忠と雑賀孫一・いい話

2008年10月16日 11:33

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/08(月) 11:53:52 ID:Lki0zbnp
鳥居元忠と鈴木(雑賀)孫一

関が原の直前、伏見城上代・鳥居元忠は甲賀者を駆使して三成の動向を調べ、
逐一家康に報告した。
三成が挙兵し、伏見城は大軍に囲まれて孤立し、元忠は壮絶な討ち死にを遂げた。
この時、元忠を撃ち取ったのが雑賀党の首領、孫一だった。
実は鳥居家は鈴木家とは同族で、昔からの顔なじみだった。
「どうせ死ぬなら孫一に手柄を立てさせてやろう」
死を覚悟してなお配慮が働いたと思われる。
元忠の子・忠政は父の功により24万石の大名に引き立てられた。




916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/08(月) 19:15:24 ID:NLKdfSJs
>>915
加増されて二十万石超えたのはだいぶ後年のようだけど、
それでも譜代ということを考えると石高的に非常に厚遇されているね。

元忠は家康の人質時代からずっと側近くで仕え続けてきたし、
家康にとっては忘れられない家臣なんだろうね。

そういえば、駿府の人質時代、鷹が飼えない家康が
トンビ?か何かを鷹の代用として飼っていたら、
元忠の父親が家康をしかりつけ、大将の心構えを説いた、
ていう逸話なかったっけ?


917 名前:たられば君[sage] 投稿日:2008/09/08(月) 21:38:07 ID:qsmNJ5vO
その孫一や潰した最上家の舎弟を拾い上げて水戸家に付けるのは
おもしろい巡り合わせだよね