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蜂須賀家の紋章は

2021年09月20日 15:57

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/20(月) 11:23:28.88 ID:HAfabZVB
蜂須賀家の紋章は古くは卍字を用いたが、後に鉄線に改め、また八重菊を用いた。

正勝公(蜂須賀正勝)の時に将軍家(室町幕府)より桐章を許されるも、秀吉に憚って
柏円を用いた。公(蜂須賀至鎮)に至って蛇目を用いる。

家康が南宮山に陣した時(関ヶ原の戦い)、正利公(正勝の父)の甥にして蜂須賀彦助
の嫡子である金左衛門政吉を招き、紋章卍字の由来を問うた。

金左衛門が答えるには「元祖兵庫頭源仲政の二男の右馬頭頼行の嫡子、小平太政員
が伯父の源三位頼政とともに兵を挙げた時、高倉宮(以仁王)より綸旨ならびに卍字の
小旗を賜りました。

当時、政員は母方の紋章柏円を用いましたが、戦死後に嫡子の平太郎政隆が卍字に改め、
以来家紋に定めました」との由をもって返答した。

そのため家康から「以後は家の紋となすべし」と命があったことより、ついに蜂須賀家
紋章と定めるに至った。

――『峻徳公略伝



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蜂須賀もとに 澄水の

2017年05月18日 21:17

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/18(木) 02:04:32.57 ID:wFnksFn3
蜂須賀修理大夫正勝は、日頃愛宕山を信仰し、その頃は播磨龍野におられた
ので愛宕山へ参詣なさり、祈念なさっていたところに、どこともなく老人の山伏が

法螺貝を持って来た。山伏は、「宿坊より献上いたします」と言い、法螺貝を差し
置いて帰った。正勝は不思議に思って宿坊に入り一礼を申されたところ、宿院の
僧はこれを聞いて、「左様のことは、こちらは一向に存じ申さず」と言った。

このため僧は、「きっと権現より奉りなさったのでしょう。戦場で貝を吹く事は獅子
の吼えるが如く、この一声には悪魔は降伏して怨敵は退散し、子孫は御繁栄と
なりましょう」と祝した。その夜、正勝の夢の中で山伏と童子が歌を吟じ、

"香をとめよ 蜂須賀もとに 澄水の 濁らぬ世々の 末が末まで" と吟じていた。
これより以後、出身なさって阿波守となられた。

――『明良洪範』


蜂須賀正勝、本能寺の変の報に際し

2011年12月09日 22:03

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 18:00:21.74 ID:73M5SAMd
天正10年(1582)、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉軍に対し、城将清水宗治と杉原家次は、自分たちの
自害を以って城兵たちの命を救うことを請い、秀吉はそれを許した。
6月、清水たちは切腹し高松城は陥落した。しかし、毛利氏本体との講和は未だであった。

そんな時、秀吉のもとに急報が入った。明智光秀が謀反を起こし、京に軍勢を入れ本能寺において
その主、織田信長を弑した、というのである。

秀吉は驚愕し、配下の諸将を呼び協議を行った。この時進み出たのが、蜂須賀正勝である。
正勝は進言する

「ここは先ず、毛利氏と講和をしてその上で賊を討つべきです!」

秀吉は正勝の方針に従い、毛利氏の寵臣である安国寺恵瓊を呼び出し毛利輝元と講和をしたいと伝えた。
しかしこの時、本能寺の変については伏せていた。

これに蜂須賀正勝は再び、秀吉に進言した

「信長公が弑殺されたという、この大事を伝えずに済ませることは不可能です!
今これを秘密にすれば、他日彼らがこれを聞いた時、我らが怯えていたのだと受け取るでしょう。
速やかにこれを伝えるべきです!
もしこれを伝えたことで毛利が講和をしないというのなら、ここで一戦し勝敗を決すればよいではありませんか!」

秀吉はこれに一言、答えた

「善し」

そこで正勝は自ら毛利氏の元に使いに行き、本能寺の変の事を告げた。その上で、この事態に対し
毛利氏はどのような去就を取るつもりかと聞く。

はたして、輝元は講和の方針を変えなかった。さらに秀吉の陣に使者を遣わして信長の死に対する
弔問を行い、誓書まで残していった。
ここに和平は成り、秀吉は全軍を以て光秀との戦いに向かうのである。

以上、蜂須賀家の記録にある、本能寺の変時の秀吉軍の模様である。
(蜂須賀家記)




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 18:59:00.97 ID:BhNkB160
ありえないだろ

蜂須賀正勝と錫杖の馬印

2010年11月18日 00:00

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 17:06:05 ID:ia5QDJ/D
家紋とはちょっと違うが、馬印の話を。
ただいま、徳島では「蜂須賀三代 正勝・家政・至鎮~25万石の礎~」
http://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/event/2010/201010/20101023_01.html
なる展覧会が開催中。
これといった出物はなかったんだけど、そこで紹介されてたちょっとした逸話より。

蜂須賀正勝公、桶狭間の合戦の際、縁起を担いで縁の寺にあった鉄製の地蔵像を戦場に持ち運ぼうとした。
しかし、さすがに重くて運べず(当たり前だ…)、錫杖だけを持っていくことにした。
その合戦で武功を挙げたことから、感謝の念を深くした正勝は錫杖を自らのトレードマークとし、以降、
蜂須賀家では代々、錫杖が馬印となった。

蜂須賀正勝が桶狭間に従軍してたとか、戦場に地蔵像(しかも鉄製)運ぼうとしたとか突っ込みどころが多いのは勘弁。
そう書いてるんだもの。




367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 17:15:10 ID:MzSPG0CF
新・陸戦型モンスター伝説HACHISUKA

鉄製の地蔵を振り回し当たるを幸いなぎ倒す

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 18:03:43 ID:FFoV+e2P
錫杖が馬印とかカッケーな
家康のと違って軽くて持ち運び楽そうだしカッケーな

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 19:58:59 ID:0cdywh9X
>>366
俺はその徳島城博物館の、太宗の香炉と呼ばれる香炉の
小堀遠州の筆と伝わる箱書きが縦書きで

   賀
蜂須家

ってなってるのが気になって気になってしょうがないんだよおおおおお
書き損じないで!そしてごまかさないで!
あと香炉のボディ真正面に 宗 太 って書いてあって
なるほど太宗の香炉ねって安易さも地味に気になる

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 20:29:37 ID:R8fari4u
書道とかでもよくあるじゃん、文字の大きさ配分を間違ってしまうこと

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 20:35:35 ID:GSxnIyEx
いや、達人はそうはやらんけどな

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 21:59:26 ID:5HOHq1lI
達人とか言われてる人の字なんて一般人には何が書いてるのかわからんがな

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 22:07:06 ID:o3nj+Z7H
んなことない。
8世紀の伝説的な書の達人である顔真卿の『顔勤礼碑』
現在でも書道のお手本に使われるほど。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/64/Yan_Qinli_Stele.jpg

傾!!武辺塾 蜂須賀正勝編・いい話

2009年01月24日 00:03

655 名前:傾!!武辺塾  第参話[sage] 投稿日:2009/01/23(金) 22:54:34 ID:Ipw2FxlP
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家は、越前・北ノ庄に退却して行った。

勝家は途中の山に殿を残し、秀吉軍の追撃を阻んだ。 これを見た秀吉は人を選び、
騎馬隊を編成して攻めさせたが、上から鉄砲を撃たれて、隊長が戦死するありさまだった。

山登りに成功しても、伏兵が待ち構えているかもしれない。 かと言って、目の前の敵を
放置するのは武門の恥だし、迂回して時間を無駄にすれば、勝家が再起するかもしれない。

蜂須賀正勝「どうやら、俺が出ねばならんようだな。」
虎之助 「こ、小六さん!!」 市松 「こ、こりゃあオレたちの出番はなさそうだな・・・」

秀吉の前に出た正勝は、
「伏兵が大勢なら、すぐ戻ります。少数なら、馬を輪にして走らせる。それを合図に、
全軍で登って来て下されや。」 と言い残し、騎馬隊を組んで、柴田軍のいる山に向かった。

正勝は敵の射程ギリギリまで近寄って留まり、敵の射撃がいったん収まるのを見計らって
射程内に一度だけ踏み込むと、すぐ後退した。

これを見た柴田軍は、正勝が逃げたと思いこみ、斉射を止めて全軍で追撃を開始した。
敵の実数を見切った正勝も後退を止め、騎馬隊を車懸りにして、敵を向かえ討った。

正勝の馬が輪乗りになったのを見た秀吉軍は、一斉に敵に向かって殺到した。
一気に距離を詰められた敵は、鉄砲の用意が間に合わず全滅し、秀吉は安心して
勝家の追撃を続行できた。
(太平不忘記より)

眠いし、ネタも切れたのでこれにて失礼。スレ汚し御免なれ・・・