20 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 17:14:32 ID:DwFBCdhh
文禄の役の休戦により、長宗我部元親が朝鮮より帰国した頃の事だそうだ。
長宗我部の配下に、土佐高岡郡志和を領する、志和と言う一族があった。
当時、難波家より養子に入った当主の宗順を初めとして、長男難波権之佐、
次男志和勘助、三男で志和、薬師寺の住職である椿蔵主まで、何れも無双の勇士と
称えられていた。
中でも次男勘助は、色白で背が高く、弁舌さわやかで文学にも通じ、とりわけ笛の上手として
有名で、普段は大変優しい性格だったが、事に及べば、太刀打ち、軽業、強弓の矢継ぎ早、
さらに1日に四十里を闊歩する事も、苦も無くやってのけたと言う。
特にこの健脚を、勘助は自慢しており、
「当国は他とは違い、六十町(約6.5キロ)を一里としている。私はこの測り方で
1日に四十里(約260キロ)を行く。人より少しは早いだろう?」
などと言っていたそうだ。
ある年長宗我部元親は、この勘助を阿波の蜂須賀家政の元に、使者として派遣した。
家政は勘助を見て大変感心し、家臣に
「あの勘助と言う者、骨柄と言い弁舌と言い、天晴れな器量を持った若者だ。
高禄を与えて、我が家で召抱えられないものかな?」
長宗我部より引き抜けないものか、というわけだ。これを承った家臣、
すぐに勘助の元に行って
「我が主君家政様は、あなたの事をこのように褒めておられました。
ところであなたの志和家は、元々は一条殿の家臣でした。しかし、一条家が没落したため、
今のように元親殿に仕えられました。あなたは長宗我部譜代の士と言うわけではありません。
武士は渡るものだと申します。当家に仕える気はありませんか?
もし望まれるなら私はそれを取り持ち、必ず高禄で召抱えられるようにいたしましょう。
しかし勘助は「ありがたいお噂でありますが、その話はまた後日…」と言って帰国した。
21 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 17:15:56 ID:DwFBCdhh
「後日」とは言ったがこれはあくまで当座の挨拶としてであり、その後この話が
進展する事はなかった。だが、どうしたわけか、この話が元親の耳に入った。
しかも『勘助は蜂須賀家に仕えることを許諾した』との尾ひれが付いて。
元親は『いかにもありそうなことだ』と甚だ怒り、実否を確認する事もせずに言った
「志和一族を誅殺せよ!」
先ず長男、難波権之佐を伊予に派遣し、「その帰りを討て」と、檮原の住人
船戸三郎左衛門、松原蔵人に命じた
彼らは権之佐の帰路で酒宴を行い、そこを通りかかった権之佐を誘う。
権之佐がこれに喜び酒器を受け取ったところを飛び掛って殺した。
次男、勘助は阿波へ使いに出した。
そして黒岩玄蕃に「その途中の安芸で仕留めよ」と命ずる。
黒岩は勘助が泊まった安芸の町屋の亭主に命じて風呂を炊かせ、
勘助がそこに入っているところを乗り込み、事の次第を告げて殺した。
後でこれを聞いた玄蕃の父、冶部左衛門は
「玄蕃はわが子と言うに及ばぬ不覚者である!士に対して太刀も持たせず、
丸裸であるところを討つのは死者の首を取るのと同じ事、武士の本意にあらず!」
と怒り、3年間にわたって勘当をしたという。
勘助の死骸は安芸の浜に葬られた。その塚からは夜な夜な、勘助の得意とした笛の音が
聞こえてきたそうだ。
この二人が殺されると、多くの軍勢が志和の城に攻め寄せた。
当主、宗順は自害。三男椿蔵主は落ち延びようとしたが、仁井田にて討ち取られた。
これらは文禄四年、四月十二、十三、十四日の出来事であった。
わずか三日の間に、志和一族は滅びつくしたのである。
一説に、幼い宗順の末子を、志和家の家士が抱きかかえて出奔した、とも言われるが、
定かではない。
長宗我部元親による、志和一族誅殺の顛末である。
22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 18:12:03 ID:tXbzqsfk
仙石さんが原因とは言え、本当劣化ぶりが酷いな…
23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 18:15:37 ID:jI7NAfur
仙石ちょっと悪い話
24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 18:43:55 ID:eOEYSt/K
>あなたは長宗我部譜代の士と言うわけではありません。
>武士は渡るものだと申します。当家に仕える気はありませんか?
この言い方が面白いな
戦国ではこういう感覚だったのか
25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:27:01 ID:JawmazIO
>>22
まあ長宗我部も島津と同様、四国統一寸前で土佐一国に転落してしまい、
中央集権も中途半端で終わったわ、大量に召抱えた家臣たちを食わせる為に
自分で自由になる領土があまりなかったわと、悲惨な状況だからなぁ。
長宗我部にしてみれば、中央集権化と直轄領拡大のために、形振り構わない状態じゃなかったの?
家久(悪)の場合は、子供を有力家臣団にばら撒く事ですんだけど、元親には手駒が殆どいなかったし。
26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:39:41 ID:MUPBnWCG
いわゆる元親の乱行は、検地や元親百箇条制定らへんの時期なんだよね
信親が死に、幼い盛親の政権を見据えねばならなくなって、ブーストかかったんだろうな
27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:44:55 ID:avNHC3/C
>>24
戦国っていうか当時はいったん収まった時期だから当たり障りない言い方だ
「お前、ご先祖の恨みとか、ちょっとは感じてないの?ウチに鞍替えしなよ」っていう上品な言い方だと思う
28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 20:17:01 ID:scxfnkTu
>>26
当時の評判が悪い話ってそういうとこあるよね
もちろん、だから本当は悪い話じゃないってわけでもないけどさ
29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:44:36 ID:tn1pXveN
幕府も、不安要素排除と所領の別分配のために
些細な落ち度で改易しまくったりとかだもんな
32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 14:14:45 ID:5L3r9W/W
>>29
実際にはそうとは言えないぞ。
特に大坂の陣以降は、むしろ大名家存続に力尽くしてる位。最上や蒲生はその一例。
些細な落ち度で改易しまくったのは、綱吉の時くらいだろうねぇ。
あれはもうやりたい放題だったから。
文禄の役の休戦により、長宗我部元親が朝鮮より帰国した頃の事だそうだ。
長宗我部の配下に、土佐高岡郡志和を領する、志和と言う一族があった。
当時、難波家より養子に入った当主の宗順を初めとして、長男難波権之佐、
次男志和勘助、三男で志和、薬師寺の住職である椿蔵主まで、何れも無双の勇士と
称えられていた。
中でも次男勘助は、色白で背が高く、弁舌さわやかで文学にも通じ、とりわけ笛の上手として
有名で、普段は大変優しい性格だったが、事に及べば、太刀打ち、軽業、強弓の矢継ぎ早、
さらに1日に四十里を闊歩する事も、苦も無くやってのけたと言う。
特にこの健脚を、勘助は自慢しており、
「当国は他とは違い、六十町(約6.5キロ)を一里としている。私はこの測り方で
1日に四十里(約260キロ)を行く。人より少しは早いだろう?」
などと言っていたそうだ。
ある年長宗我部元親は、この勘助を阿波の蜂須賀家政の元に、使者として派遣した。
家政は勘助を見て大変感心し、家臣に
「あの勘助と言う者、骨柄と言い弁舌と言い、天晴れな器量を持った若者だ。
高禄を与えて、我が家で召抱えられないものかな?」
長宗我部より引き抜けないものか、というわけだ。これを承った家臣、
すぐに勘助の元に行って
「我が主君家政様は、あなたの事をこのように褒めておられました。
ところであなたの志和家は、元々は一条殿の家臣でした。しかし、一条家が没落したため、
今のように元親殿に仕えられました。あなたは長宗我部譜代の士と言うわけではありません。
武士は渡るものだと申します。当家に仕える気はありませんか?
もし望まれるなら私はそれを取り持ち、必ず高禄で召抱えられるようにいたしましょう。
しかし勘助は「ありがたいお噂でありますが、その話はまた後日…」と言って帰国した。
21 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 17:15:56 ID:DwFBCdhh
「後日」とは言ったがこれはあくまで当座の挨拶としてであり、その後この話が
進展する事はなかった。だが、どうしたわけか、この話が元親の耳に入った。
しかも『勘助は蜂須賀家に仕えることを許諾した』との尾ひれが付いて。
元親は『いかにもありそうなことだ』と甚だ怒り、実否を確認する事もせずに言った
「志和一族を誅殺せよ!」
先ず長男、難波権之佐を伊予に派遣し、「その帰りを討て」と、檮原の住人
船戸三郎左衛門、松原蔵人に命じた
彼らは権之佐の帰路で酒宴を行い、そこを通りかかった権之佐を誘う。
権之佐がこれに喜び酒器を受け取ったところを飛び掛って殺した。
次男、勘助は阿波へ使いに出した。
そして黒岩玄蕃に「その途中の安芸で仕留めよ」と命ずる。
黒岩は勘助が泊まった安芸の町屋の亭主に命じて風呂を炊かせ、
勘助がそこに入っているところを乗り込み、事の次第を告げて殺した。
後でこれを聞いた玄蕃の父、冶部左衛門は
「玄蕃はわが子と言うに及ばぬ不覚者である!士に対して太刀も持たせず、
丸裸であるところを討つのは死者の首を取るのと同じ事、武士の本意にあらず!」
と怒り、3年間にわたって勘当をしたという。
勘助の死骸は安芸の浜に葬られた。その塚からは夜な夜な、勘助の得意とした笛の音が
聞こえてきたそうだ。
この二人が殺されると、多くの軍勢が志和の城に攻め寄せた。
当主、宗順は自害。三男椿蔵主は落ち延びようとしたが、仁井田にて討ち取られた。
これらは文禄四年、四月十二、十三、十四日の出来事であった。
わずか三日の間に、志和一族は滅びつくしたのである。
一説に、幼い宗順の末子を、志和家の家士が抱きかかえて出奔した、とも言われるが、
定かではない。
長宗我部元親による、志和一族誅殺の顛末である。
22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 18:12:03 ID:tXbzqsfk
仙石さんが原因とは言え、本当劣化ぶりが酷いな…
23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 18:15:37 ID:jI7NAfur
仙石ちょっと悪い話
24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 18:43:55 ID:eOEYSt/K
>あなたは長宗我部譜代の士と言うわけではありません。
>武士は渡るものだと申します。当家に仕える気はありませんか?
この言い方が面白いな
戦国ではこういう感覚だったのか
25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:27:01 ID:JawmazIO
>>22
まあ長宗我部も島津と同様、四国統一寸前で土佐一国に転落してしまい、
中央集権も中途半端で終わったわ、大量に召抱えた家臣たちを食わせる為に
自分で自由になる領土があまりなかったわと、悲惨な状況だからなぁ。
長宗我部にしてみれば、中央集権化と直轄領拡大のために、形振り構わない状態じゃなかったの?
家久(悪)の場合は、子供を有力家臣団にばら撒く事ですんだけど、元親には手駒が殆どいなかったし。
26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:39:41 ID:MUPBnWCG
いわゆる元親の乱行は、検地や元親百箇条制定らへんの時期なんだよね
信親が死に、幼い盛親の政権を見据えねばならなくなって、ブーストかかったんだろうな
27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:44:55 ID:avNHC3/C
>>24
戦国っていうか当時はいったん収まった時期だから当たり障りない言い方だ
「お前、ご先祖の恨みとか、ちょっとは感じてないの?ウチに鞍替えしなよ」っていう上品な言い方だと思う
28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 20:17:01 ID:scxfnkTu
>>26
当時の評判が悪い話ってそういうとこあるよね
もちろん、だから本当は悪い話じゃないってわけでもないけどさ
29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:44:36 ID:tn1pXveN
幕府も、不安要素排除と所領の別分配のために
些細な落ち度で改易しまくったりとかだもんな
32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 14:14:45 ID:5L3r9W/W
>>29
実際にはそうとは言えないぞ。
特に大坂の陣以降は、むしろ大名家存続に力尽くしてる位。最上や蒲生はその一例。
些細な落ち度で改易しまくったのは、綱吉の時くらいだろうねぇ。
あれはもうやりたい放題だったから。
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