川通り餅の由来

2016年12月21日 17:28

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 07:20:38.66 ID:Ex3Uxlra
川通り餅の由来

12月1日、広島城下の人は餅を食べる習慣があった。
 それは城下の人だけでなく、郡部もであり、このことを「川通り餅」と言ったり「膝塗餅」とも言ったそうだ。
 この餅を食べたら、川を渡っても転ぶことがないと言い伝えられている。」

この由来は正平五年(観応元年,1350年)十二月一日、毛利師親が石見の国の佐波善四郎との戦いで江の川を渡ろうとした際、川の水面に浮かび上がった石が鐙に引っ掛かった。
師親はそのまま戦に臨み合戦に勝利し、この時鐙に引っ掛かった石は神の助けに違いないと持ち帰り、宮崎八幡宮に奉納した。
師親が治める安芸国吉田庄ではこれを祝って十二月一日に餅をこの小石に見立てて食べるのが習慣となり、その後子孫の毛利元就にも引き継がれ、
元就の孫の毛利輝元が吉田郡山城から広島城へ本拠地を移した際に川通り餅は広島城下から安芸国全体へと広まったのである。

今では広島の銘菓として、親しまれている。

(知新集、高田群史、亀屋のホームページより)
http://i.imgur.com/FOegWlI.jpg
FOegWlI.jpg




447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 08:41:22.82 ID:TUG5wkvm
>>446
広島住みだけど、子供の頃やってたCMが怖かった思い出
能?の鬼が出てくる

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:48:24.78 ID:YU7aAtsW
>>447
あれは文楽だよ
https://youtu.be/ZhvuwRwmYmg

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:57:07.62 ID:YU7aAtsW
すまん、こっちも有った
https://youtu.be/6qT6wJz7J3s

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 11:26:32.70 ID:Iy76MskG
最近(でもないか?)武将の逸話が出尽くしたのか
風俗ネタが多いね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 12:01:41.46 ID:TUG5wkvm
>>449
まさにこれです!
夕方のアニメの時間帯によく流れていた記憶があります。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 16:15:04.15 ID:3vDWZHcv
>>446
666年も前から未だに伝わるとは…
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はや此分にては身上続ましき…

2016年10月10日 10:34

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 10:23:21.32 ID:cTGsgr3g
入道し毛利宗瑞となったTERUは祖父に鉄拳制裁を食らうわ叔父たちにガミガミ言われまくってた若き日々のことを回想しこう書き残している

…日頼様(元就)余御折檻候上に隆景元春さし合種々異見達被申、はや此分にては身上続ましき…

――『毛利家文書』より抜粋



毛利輝元の評

2015年09月20日 17:24

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/20(日) 01:09:46.85 ID:Mj1rml0Y
 輝元なる者がいる。京西の大師である。壬辰の役に元帥となった者である。
安芸中納言と称し、あるいは毛利中納言とも称している。(安芸は州名であり、毛利はその姓である。)

 まさに百済が亡ぼうとしたと時、臨政太子が船に乗って倭国に入り、大内左京大夫(倭人は王を大内という。それで、今に至っても、周防
州に大内殿の称号がある。)となって周防州に都した。その子孫は、四七世を歴る間、代々倭官となってその土地を継いだ。輝元の祖先はす
なわちその従者であった。臨政の裔は多々良氏となり、輝元の祖先は大江氏となったが、のち、毛利氏と改めた。臨政の子孫がすでに絶えて
しまってからは、輝元の祖先が代わってその土地を継ぎ、安芸州の広島に都した。

 物資にすぐれ、富んでいるのは、倭京に擬えられる。

 その風俗は、倭のうちでは、いくらかつつしみ深い。性質はとてもゆったりと大らかで、わが国人の気象によく似ている、という。

 輝元の年はその時四八、その食邑は京西、九州にわたっており、土地の所出は150万石、しかし実際はこれを越えている。

 宇喜多秀家ともども、賊魁(豊臣秀吉)の命令におさえられて、やむをえずわが国人の鼻を削いだ時も、いくらかわあわれみの気持ちが
あった、という。
(看羊録)

姜コウ、というよりも藤原惺窩? からの評価が高いことを忍ばせる毛利輝元の評




慶長五年九月二十五日、毛利輝元書状

2014年09月22日 19:19

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 17:33:03.35 ID:Y7ZVFnF2
慶長五年九月二十五日、毛利輝元より吉川広家への書状

そなたはとてもよくやってくれている。
ワシにはもうそなただけが頼りなんじゃ。

それはそうと、
福島正則と黒田長政が毛利の為に立ち回ってくれているようだが
こいつらはおべっか遣いも有るから頼りにはならないんだよ。
つうか、いまだ井伊直政に対面叶わずでお頼み入り出来てないみたいじゃん?
これはヤバいよ。
毛利家どうなっちゃうの?
とても心配だよ・・・。

(吉川家文書)




849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/21(日) 19:09:40.25 ID:xjz5QUXq
どこがいい話なの?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:14:36.63 ID:Y7ZVFnF2
>>849
すまねえ
どうやら悪い話の方だったようだ

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:47:00.95 ID:ayMSSC2t
>>849
TERUの調子のいい話

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:53:21.16 ID:dVF6Y+ZT
吉川ってのは本当に空気が読めないよな
親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる


856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 19:29:01.43 ID:82Ys0sln
>>848
こういうのは原文も併記して欲しいな。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 23:09:04.45 ID:R+fUIXZj
>>856
後半部分のみならこうらしい

羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:41:49.60 ID:R4jIaMgz
黒甲ってのは黒田甲州なんだろうけど羽左太は羽柴左衛門大夫の略?
すぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか

盲ぎり

2014年04月11日 18:54

944 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/10(木) 20:03:25.08 ID:JDN5WJMR
文句だけというもなんなので・・・
TERUさんのタグにはなかったので


盲ぎり

関ヶ原後、毛利家は八カ国に膨らんだ家臣団を防長二カ国で賄わなければならず、
まず家臣の家禄を五分の一に減らし財政の建て直しを計ったがそれでも見通しがたたず
いよいよ家臣団を整理するしか方法がなくなりました

毛利氏をしたい、生死を共に分け合った家臣を辞めさせるのは偲びがたいので
盲ぎりという方法をとったそうです

これは

殿様の前に家臣の名を書いた帳面を置き それを家来が一枚一枚めくっていく
殿様は目かくしをして 筆をもってその帳面に筋をひいてく
名前に筋がかかったものが武士をやめ帰農することになる 

という方法で、筋をひかれた者は運が悪かったとあきらめて帰農したということです


運まかせで整理されちゃう家臣ってことで悪い話に・・・
帰農した家臣が殿様へ直接的な不満をもたないようにワンクッション入れるための手段なんでしょうけどね




947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 23:25:48.02 ID:qdRMeZG3
>>944
これも一種の困ったときの神頼みみたいなもんかね

輝元の苦悩

2014年04月11日 18:54

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/10(木) 19:34:00.70 ID:JDN5WJMR
輝元の苦悩

関ヶ原後、八カ国に膨らんだ家臣団を防長二カ国で賄わなければならず、
もういっそ二カ国も返上して浪人になるしかない・・・と考えたのは有名ですが
実際にその決意を幕府に取り次ぐように黒田如水に依頼したとか・・・

さすがの如水さんも
「防長を返上しても借金は返さなければなりません 
輝元公が浪人になっても借金は身の上にかかったことなので唐・天竺まで逃げてもどこまでも追いかけてきます
私にも名案があるわけではありませんが・・・」と輝元さんのことを心配しつつ浪人なることを思いとどまらせました


如水さんのいい話になるのかな~
TERUさんがどーにでもなれ~!してたら幕閣が随分早くから浪人問題に頭を悩してたんですかね~

そんな黒田家譜の、家康の輝元評

2014年02月15日 19:00

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 22:23:17.97 ID:Nf6SSgKt
とある作品では輝元を減封で留めるために
家康と広家で一芝居うったって事にしてたな

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 16:33:15.67 ID:kB1KU6h5
>>366
黒田家譜読んだら恵瓊も
輝元の泥を被らされただけなんじゃないかと思えたり。




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 16:51:45.72 ID:RtxR2MJ4
そんな黒田家譜の、家康の輝元評

家康公仰せられるは「輝元は愚かなりといえども、頼もしき人なり。石田が秀頼のためなりと称して、誑かしたるを誠と思い、
悪逆に与して家を破ること、余人にはちがひ、私の心はなし」とぞのたまいける。

(家康公が仰るには「輝元は愚かであるが、頼もしい人でもある。石田三成が秀頼のためだと称して騙したのを本当だと思い、
今回の悪逆に与して自らの家に被害を与えたが、他の者達とは違い、私心からの事ではないのだ」と言われた)




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 21:59:25.56 ID:HcIKRIqh
>>376
輝元「という台本でお願いします。今後ともよろしく。」

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 22:16:15.74 ID:ms9BPVi/
実際のTERUさんはノリノリであちこちに手を出してたのになぁ

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 23:58:57.11 ID:m7sX+s0b
ノリノリで手を出してたからとっとと大坂明け渡して領国に戻ったんだろうなあ

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 00:43:15.54 ID:EFOL4QZL
大坂は出たけど領国には帰ってないような

秀吉「私は、輝元に劣っている」

2013年07月22日 20:05

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 21:24:23.77 ID:YjdkE5lI
徳川家康が臣従し、諸大名聚楽に出仕、秀吉の天下が固まった頃、
毛利輝元公は小早川隆景公がお伴して上洛をした。秀吉公との御参会では
大変丁寧なご挨拶をされ、大方成らぬ饗しであった。
この事は桂美作守が詳しく記録し、その書は今でもかの家に在る。

その後御対談の時に、秀吉公は御意に

「主君の敵を討ち、私の本意が天道にかなったが故であろうか、このように
日本を従え高位も備わった。しかし私は隆景、安国寺のような臣下を所持しない。
この事に関しては私は、輝元に劣っている、」

と仰った。
(老翁物語)




83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 22:02:53.88 ID:L/BPhP9p
既に死去していた吉川元春の名が出ないのは仕方ないな!

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 13:09:58.58 ID:5ma0hqxb
>82
悪い話・・・かな?

わたしは機嫌が悪い

2013年04月23日 19:52

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 19:59:31.98 ID:QtYTpxVI
朝鮮の役の時のことである。

熊川と言う地に築城することになったが、人夫が足りないため、歴々の侍衆・同心・中間などが
自身で鋤鍬を持って堀をうがち、おうご(てんびん棒)にて石を運び、地突きなどもした。

また一方で、石垣のためのくり石を運ばせたが、ここに久代殿(毛利配下の久代宮氏か)の家臣で、
江田甚内という侍、天秤棒で石を運んでいたが、数度運んで来たところで、工事を監督する奉行から
注意を受けた
「その石は小さくて役に立たない。」

甚内はこれを聞いて
「あまりに人々が集まって拾ったためにもう石が少なくなったのだ。
しかしこれは大きな石ではないが、重さはずいぶん大きいものだ。
とにかくここまで持ってきたのだから、これは受け取って頂きたい。」

これに奉行
「用にも立たぬ石を、何で受け取らねばならないのか」
と、ぶつぶつと文句を言った。

そこで甚内も仕方なく、その石をそこにガラリと捨てて、今度は大きな石を集めてきて、
奉行の前につっと寄って
「この石は気に入るだろうか?」
と聞いた。

奉行「これならば良い。受け取ろう。」と答える。

「最前石を持ってきた時は、色々と詫び言を行ったのに聞いてくれなかったが、
この石で機嫌は直っただろうか?」

「石で機嫌の良し悪しなど無い。そんな事より早く役儀を進めてくれ。」

これを聞くと、甚内
「其の方は機嫌が治ったかも知れないが、わたしは機嫌が悪い。」

と言い様、刀を引きぬき一刀にて奉行を討ち果たした。

そして甚内は多勢の中に紛れ込んだ。皆大騒ぎになり、あっちへ行った、こっちに行ったと
ひしめいたが、3万も5万もうち乱れて普請する中であったため、捜しようもなく、
甚内も主君のもとにも戻らず、どこに行ったのか、跡形もなく失踪した。

この事件の後、諸奉行いずれにも
『普請の人々に慮外な事をしてはいけない。歴々の侍自身の働きであるのだから、
物事を思慮するように。』
と、堅く命ぜられたそうである。そのためこれ以後は、無事に普請は進んだという。
(義殘後覺)




357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 20:15:13.91 ID:SZjj+zeR
中間くらいは普通に石運びとかしそうだけどな。
それにしても、三成を髣髴とさせるような奉行だな

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 21:44:01.89 ID:46I3IBwm
どっちもめんどくさいw

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 21:47:07.51 ID:psuL4Gw0
刀装備したまま石運びって大変だな
いざというときに備えてるのか身だしなみなのかわからんけど

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 22:08:22.86 ID:czn8r6KG
刀は敵に備えるためじゃなくて
面子を保つために必要なんだよ
現にこうして役に立った

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 00:15:20.32 ID:JQ+ZSFwD
逆ギレだな
城作るにはいい石が必要だろ
石運んでる奴より奉行のが石の良し悪し判断出来るんだから、その奉行が不要と言ったんだから仕方ない
仮にその悪い石使って欠陥城作れってか

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 00:20:48.24 ID:vSdWIl3M
見たまんま逆ギレだわなw

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 00:45:33.54 ID:Kg9vg+Zq
>>361
いやこれ事前に作業者に良い石悪い石の区別を教えなかったってのがダメなんじゃないの?

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 08:01:06.69 ID:hp2IVLJF
今なら機械で石を削れるけど、この頃はまだ難しかったろうしなぁ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 09:35:18.04 ID:12ur/tUd
>「用にも立たぬ石を、何で受け取らねばならないのか」
>と、ぶつぶつと文句を言った。
キーはここだな

愚痴愚痴いわんかったら助かったものを

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 11:32:14.68 ID:lNCN+iR3
黒田の大殿なら悪い石も立派に役立てたはず
若殿なら愚痴愚痴言ってるところを家臣団にバカにされるテンプレになったはず

小西行長の息子のこと

2012年12月10日 19:51

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:29:24.96 ID:JNn1KvZV
西軍の武将 小西行長が関ヶ原で敗れた時、彼の息子は毛利輝元の手によりかくまわれていた
身の安全は保障すると約束して行長の息子を預かった輝元であったが、もっと安全な所へ移す、
と嘘を言って小西行長の息子を連れ出して処刑し、その首を家康の元へ送ってしまった。
 差し出された首を見た家康は「行長の息子には何の罪もないから命まで奪うつもりはなかったのに
なぜ勝手に処刑したのか」と激怒した
 輝元の使者は「これは処刑したのではなく、観念した行長の息子が勝手に切腹したのです」と
言い訳してようやく家康に納得してもらったが、後になって嘘がばれたので批判の的となった
(イエズス会年報集)




696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:42:25.03 ID:j+MiCoAF
毛利も勝ち組なら匿えただろうけど、
負け組のしかも首魁で匿えってのは無理があるし、
かといって差し出したら卑怯な振る舞いと言われるだろうし…。
自業自得だが詰んでるな。
結果的には、輝元の能力的にも悪くない対応のように思う。

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:43:39.50 ID:Sjj0jjjW
宇喜多秀家「薩摩に逃げてよかった」

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 00:31:34.84 ID:jMQkfFyF
家康が行長を処刑したからからTERUが変に空気読んじゃったんだな

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 01:24:29.74 ID:BZUKfJ7Z
西軍の末路はやりきれないわ

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 07:56:42.94 ID:OII7mYAN
TERUは全くあてにならん男だなぁ

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 11:22:10.71 ID:oFcJsWTt
小西行長の息子は関ヶ原当時まだ12歳の少年だったようだ
名前が伝わっていないのは元服前だったからだろうか

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 11:52:15.79 ID:TctNXsqN
多分行長の息子生きたまま家康に差し出しても首はねてたと思うよ
秀頼の息子の国松も8歳で処刑されてるし

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 12:52:07.85 ID:oFcJsWTt
石田三成の14歳になる息子の石田重家は関ヶ原の敗戦後に出家し、
京都所司代を通じて助命嘆願した結果、許されたそうだ
そうなると、小西行長の息子も生きたまま差し出されていれば助命された可能性はあった

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 12:59:38.64 ID:x6hnXt3j
そもそも小西行長って主犯格だっけ?
主犯は5大老と5奉行だった毛利、宇喜多、石田ぐらいで
小西は石田と親しくて関ヶ原で主力のひとつだったから罪を問われた感じだが、
でも斬首はちと重すぎるような。

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 13:05:21.54 ID:RVidLukH
国松と小西行長の子供じゃ全然違うだろう。
小西行長の子供なんてわざわざ殺す程の存在じゃない。

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 13:28:25.74 ID:zzZWxi3A
関が原と大阪では戦後処理が全然違うし
小西行長と豊臣秀頼の格は言うまでも無い

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 13:55:56.57 ID:WR8vgCU3
一方石田三成の子孫は津軽藩の厚遇を受けて、重臣として存続した

本州の端っこ同士なのにこの差はなんなのだろうか

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 14:57:27.39 ID:/JzyJ5vk
為信や信枚がヤリ手だったのが大きいと思うがw
TERUだし

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 16:07:56.04 ID:FrV9HigX
義理人情に厚い為信さんならではだな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 17:13:24.85 ID:DH1GjqF/
お隣さんとも仲良くの

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 17:52:18.61 ID:VNKcRzxX
義理を果たすでもなく、実利を追及するわけでもない輝元の中途半端な判断…身につまされる話ですな

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 19:15:24.22 ID:thJISNUt
義理人情言っても、
西軍の首魁で一番幕府から睨まれてる立場で匿うのは難しいからな。
それでなくても家の取り潰しが見えてる状況で津軽などとは違うし。
差し出した小西息子がテルの更なる策謀を証言しました、
とか徳川側に主張される可能性もある訳だし、
死人に口無しは口実与えない観点からは考えられない訳じゃない。

…まぁ単純に先走っただけだと思うけど、テルだし。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 20:20:54.21 ID:VNKcRzxX
その首尾一貫しない感じが警戒された原因だと思うよ。
筋目を通して匿うってんならそれはそれで良かった。
「ああ、アイツはそういう思考なんだ」ってことでコントロールする方法が分かる。
逆に行動原理の読めない対応は外交において最悪。何しでかすか分からん以上は厳しく押さえつけるしかない。
関ヶ原以前からそうだったから今更どうなるもんでもないけど、大減封を食らった原因はそこなんだろう。

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 20:49:09.14 ID:thJISNUt
>>713
その仮説は結果を知って言える事であって、
当時の情報に制限がある中で、
筋目を通せば大丈夫、と判断しろってのは厳しすぎるだろw
所詮仮説に過ぎず、実際大丈夫でなかった可能性も否定できないとなればなおさらやね。

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 10:27:40.03 ID:MDsAJeiJ
>>703
ググったら享年100歳越えてて吹いたw
小西の息子とはえらい違いだなw

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 11:22:26.03 ID:AvncbbWD
>>724
最後は岸和田で、三成の曾孫だか玄孫の弘前藩士に看取られたそうな

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 16:14:10.35 ID:QmhEt8hH
>>725
いい話だな

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 19:38:48.99 ID:GvO91ry1
>>729
感動的だな
[ 続きを読む ]

酒と返礼

2012年09月12日 20:31

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 08:31:53.66 ID:50PrEYgu
織田軍の中国毛利攻めにおいて、羽柴秀吉の部将、羽柴秀長が毛利方の因幡丸山城を囲んだ時の話である。
秀長軍は丸山城を厳重に取り囲んだが、丸山城も守将・山県九衛門を中心に堅く守り、戦況は膠着。
この攻防戦は長くなった。

その様な中、ある時城のある丸山の中腹に棲んでいた狼が火縄銃の音に驚き茂木の中から姿を表した。
狼を見た寄せ手の秀長軍からは、これを撃とうと鉄砲を放ったが、狼は再び林の中に戻っていった。

こんな事があって、秀長は丸山城中に遣いを出した。

『この山中に狼がいるのを見つけました。お互いに人数を出して、長陣の眠気覚ましに狼狩りをいたしませんか?』

この申し入れに山県九衛門は応諾し、双方の士卒が協力してたちまちのうちに狼を狩り取った。

さて、この獲物に羽柴秀長は、狼を分断して頭の方を自分の得分とし、尾の方に美酒十樽、良き肴の折り詰め十合を
副えて城中に贈った。
丸山城中の者たちは上下皆、長い籠城に水さえ尽きようとしていた状況であったので、酒盃の噂を聞いただけでも
口に唾が湧き、我先に飲もうとした。

が、ある者が言う
「ちょっと待て!これに酖毒などが混ぜてあったらどうするのか。これは飲んでいいものなのか!?」
皆、飲もうとした手を止める。と、この時籠城衆の一人、境三右衛門が声を発した。
ちなみにこの境三右衛門、この地に普請で来ていた所を、巻き込まれて籠城するはめになった者である。
ともかくも、境

「その疑問は確かにアリだな。だが疑うばかりというのも良くないだろう。まあいい、ここは俺が試しに飲んでみる!」

そう言って飯椀で6,7杯も飲み、そのまま酔っ払って寝てしまった。
境があまりにぐっすり寝ているので、籠城衆の中には彼が酖毒にやられてしまったのかと考え、彼の呼吸が有るかと
確認するものも居た。しかし泥酔していたので全く起きる気配もなく、さては毒殺されたのだと恐れるものもあった。

そうやきもきしていた所、薄暮れ燭台に火の灯る時分になって境三右衛門、茫々然として起き上がり目をこすり
欠伸をしながら曰く

「この酒は各地の銘酒にも負けない上物であるぞ!」

これを聞いた籠城衆、では我も飲まんと酒樽の前に蝿のように集まった。全く現金なものである。が、境は

「まてまて、ここで大酒して沈酔している間に敵が寄せてくれば、防御することも出来ないぞ!ここは俺に任せろ」と、
上戸下戸の分限に応じて過不足無く与えて飲ませた。

さてさて、酒を飲み干すと籠城衆、この謝礼に何を秀長の陣に遣わすかを話し合った。
こういう所、実に律儀である。
しかし兵糧さえ尽きかけており、余っているものなど何もなく、ただ鉄砲の弾薬が二十斤ばかり在るのみであった。
そこでまた境三右衛門、「では、この弾薬を贈ってやればいいんじゃないか?」

当然ながら他の籠城衆は反対した。「敵が寄せてきた時の用心のため、これは残しておくべきである!」
しかし境はこれを聞くと

「二十斤程度の弾薬なんてあっても、どれほどの役に立つっていうんだ?敵が猛勢で乗り込んでくれば、
こんな飢渇に疲れきっている城中に兵じゃ、たとえ何百斤の弾薬があってもどうやって勝利できるっていうのさ?
みんな刀を抜き連れて一文字に斬死するしかないよ。だから、あいつらに贈ってやればいいさ。」

この言葉に守将の山県九衛門も同意し、弾薬を積んで敵陣の前に置き、慇懃に酒肴の礼を述べた、とのことである。
(陰徳太平記)

丸山城攻防戦における敵味方の、酒とその返礼に関するエピソードである。





437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 08:49:32.17 ID:pn7vjQcF
もう降参したらいいのにw

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 09:16:02.89 ID:9xDUJjoA
境さん、巻き込まれて入城した割には人徳あり過ぎだろ…

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 09:56:41.64 ID:tnas0R4k
酒の返礼に鉛玉送るって秀吉の小田原攻めでもあったな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 12:34:19.08 ID:imopRN8v
歌を贈ったり舞を踊ったり…日本の戦って
ほのぼのするようなムズムズするようなw

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 15:36:13.73 ID:5ZKU6dU9
粋だねぇ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 16:03:18.08 ID:pn7vjQcF
>>441
共通の文化を持つ同士の内戦だからな
異民族が相手ならこうはいかない

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 16:28:46.27 ID:qqkt/iTn
西欧なんて捕虜をもてなして祝宴だぜ
ただし身分の高い捕虜に限る

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:18:11.69 ID:szRimrgY
>>444
おもてなししても身代金でペイできるからね
捕虜取るのは身代金目的だし
したがって身分の低いものは捕虜にしない

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:28:57.92 ID:qqkt/iTn
しかもこの回とこの回は俺(捕虜)の主催だから
身代金に上乗せしといてとか言っちゃうからこっちがクラクラしちゃうよ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:34:08.07 ID:9xDUJjoA
>>446
シャルル5世「親父のために払う身代金無いから帰って来なくていいよ」

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:44:38.34 ID:nt03bDac
父親の身代金集めるのに苦労してなかったか?
実はハナから恒常的な税収アップを狙ってた、というはなしだが

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 18:19:25.35 ID:pG/zhTHO
王弟ジョンがどうして重税をかけたかと言えば……

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 19:17:51.71 ID:m5DSgVvi
イタリアの戦争なんて死んだのが数人とかザラだし。戦列歩兵の時代だと3割4割死ぬが
>449、ライオンハートがマジキチな出兵するからだろ・・・ジョンのほうがマシかもしれんw

「黒田家譜」の毛利輝元の扱いが酷い件

2012年07月18日 20:56

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 06:11:28.25 ID:zs54iqdY
わらた。ひどいw

> 569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 22:18:22.12 ID:BJDZhdpE
> 「黒田家譜」の毛利輝元の扱いが酷い件
> 登場人物が次々にダメ出ししてゆく、不幸な立ち位置
>
> 孝高「輝元は天下の主たるべき器量ではありません」(小寺政職に)
>   「輝元は大身ですが、天下をとるべき力量などありません」
>   (宇喜多直家に)
>   「どうして、輝元が天下の主になれるでしょうか?」(別所孫右衛門) 
>   「あの輝元も隆景のおかげで、今までは見事に見えていたのだ」
>   (隆景の死に際して)
>
> 隆景「輝元を天下の主にするなら、たちまち天下を失うだけでなく、
>    毛利の家も滅亡してしまいます」(吉川元春に)
>   「輝元は天下を保つべき器量にあらず」(隆景遺言)
>
> 家康「輝元は愚かではあるが頼もしい人だ。石田が秀頼のためと称したのを
>    信じて味方し、家を傾け破ったものの、他の人とは違って
>    私的な野心などなかったのだから」(関ヶ原のあと)   
>
> 「輝元は天下をとる器量にあらず」―大事なことなので皆で何回も言いました

> 570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 23:05:50.99 ID:P/DLDS1d
> 細川書状の「あいつ生まれつきバカだから・・・」な毛利秀就評よりはましと思えば・・・

【合子形兜】 黒田孝高総合スレ 2 【圧切長谷部】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293800734/




548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 07:52:34.90 ID:ZTMrcPEv
>>547
毛利は代々馬鹿を売りにして領地を治めている。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 08:20:19.84 ID:GpySKgI3
>>548
バカではないは、そうせい公と呼べ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 08:24:14.72 ID:4xiXU/nk
戦国の世が終わりを迎える時代にキレイな馬鹿が産まれるのも家が持つ運だよなあ。
家康にして毛利残してもいいか。って思わせた訳だし。

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 09:32:25.84 ID:rqzLch3R
前田利常はバカ殿を装って家を守った
一方毛利輝元は馬鹿で家を守った

どうしてこんな差がついた…

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 11:18:52.91 ID:GpySKgI3
>>551
とはいえここ見てる殆どの人間よりTERUや利常の方が実績考えたら有能なんだろうな

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 11:25:38.41 ID:9irL3ZNz
隆元&両川以前と輝元以降の深い溝。謎だな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 11:42:40.71 ID:FGZjr13x
>>552
そりゃー一般ピーポーに比べるならそうだろ、というかホントにボンクラだったら家残せんだろうw
でも、関ヶ原の際に私的な野心が無かった、ってのはひじょーに疑問が残るw

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 12:42:56.40 ID:35oWiEoP
西軍総大将とか輝は己を知らないにも程があるだろ
東軍総大将の権現様の経歴考えたら普通に固辞するだろ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 12:53:54.11 ID:IhImhVkT
TERUはやればできる子のはず…

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 12:57:02.76 ID:bdjR7Vzr
ためしにやってみた結果が関ヶ原なんですけどね

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 13:05:50.22 ID:rqzLch3R
>>552
俺らと比べれば優秀に決まってるだろ、なにいってんだ

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 13:14:29.38 ID:wOO/aXJl
>>558
輝・利「ならさも自分が賢しげに馬鹿馬鹿言うんじゃねーよ」

560 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/18(水) 13:21:44.43 ID:mQqAyNaB
TERU「吉川と小早川に任せていれば、今まで大丈夫だったのに」

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 18:29:27.85 ID:2MSkOlz0
>>547
元就の遺言からして察してあげて下さい。

でも2代目将軍のポジならしっかり治めれたんじゃないのかな。
あの時代の藩政改革の実行力がトップクラスなのは証明済みだし。

568 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/18(水) 20:00:25.55 ID:k96a6zb7
TERUの話は盛り上がるな

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 22:06:51.73 ID:jxMIoW5e
>>568
アイドルだからな

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 22:13:54.84 ID:Yqpiy80x
色々と残念な人だからな

毛利輝元「まるで先祖伝来の重宝のように」

2011年12月08日 22:04

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 16:51:29.41 ID:ClsVNs56
慶長8年(1603)、毛利輝元が江戸からの帰路、伏見より出した吉川広家への書状

『ご子息がいよいよご成人なされると聞きました。前よりも一段と利発に見えると、竹庵が聞かせてくれました。
心からお喜び申し上げます。藤七郎(秀就)にも私から伝えておきました。本当に吉事ですね。

先日頂いた書状に付けて、思いもよらず御酒2樽、それに加えてこちらでは珍しい野大根の漬物まで頂き、
ご厚志の至だと感じ入っております。

今私はとりわけて、これらを賞味しています。お酒は特にいいですね!
両方とも私の直ぐ側に置いて、日夜頂いています。
まるで先祖伝来の重宝のように、秘蔵しているのですよw』

(吉川家譜)

吉川広家に贈ってもらったお酒と漬物に、大いに喜ぶ毛利輝元という、
ちょっとほっこりするお話。





939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 17:03:03.25 ID:QNTDHXVF
関が原後でも仲良さそうで良かった、実に良かった

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 18:19:23.25 ID:8rP/6yQc
社会人としてのマナー

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 18:38:46.57 ID:Yl/Jmt+7
吉川が冷遇されだしたのは関ヶ原後じゃなくて江戸期に入ってからだぞ
そのあとのお家騒動でぐだぐだになったんであって
関ヶ原でこじれたのではない

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 18:59:52.40 ID:tD6YN2m6
吉川が冷遇されたのって広家の代か?広家以後か?

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 19:10:33.86 ID:ps204bLX
吉川冷遇は江戸後期、毛利宗家が毛利秀元系になってから。

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 19:17:13.51 ID:92Ca0BMr
支藩が独立したいって言い出してからだよね、揉めだしたの

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/08(木) 23:19:13.29 ID:UZMJMXDq
広家の嫡男、広正の嫁は輝元の娘だし
萩藩の財政を握った益田元祥の嫁は元春の娘であり広家の姉妹だし
輝元の姉婿の吉見氏に養子に入ったのも広家の次男だし

なんだ、江戸初期はけっこう大事にされてんじゃん、吉川
ほっこりしたw

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 00:31:52.37 ID:jNZKzdb4
こういうのはあくまで政略結婚だろ。感情が入り込む余地がない
てか秀元系になってから軋轢が生じたってことは
裏を返せばその時代まで関ヶ原の因縁が根絶しなかったってことじゃないの

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 00:39:55.65 ID:iZwvPy1k
>>946
毛利宗家と吉川家との軋轢は江戸後期からであり、それも江戸期においてのいきさつが積もり積もった
面のほうが大きい。
さらに言えば関ヶ原後吉川広家と毛利秀元は完全に連携して輝元を支えており、そこに確執は
全く見られない。

さらに言えば、関ヶ原云々を言い出したのは幕末、親幕府的だった吉川家岩国藩に対し
本藩の反幕府過激派が罵倒として言い出したことであり、決して歴史的にそう言われたことではない。

過程をすっ飛ばして、結末から過去を類推してはいかんよ。

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 01:57:45.55 ID:smQJjfNe
相変わらずためになるスレだ

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 08:03:30.77 ID:VeOVHRRz
毛利家文書に、広家と秀元の仲を輝元が取り持ったときの書状とかがあるから、
確執がまったくなかったってわけでもないんだろうね
険悪な状態だったからこそ輝元がテコ入れしたんだろう
本人同士はどうあれ、少なくとも家来たちの衝突はあったみたいだ

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 10:42:53.67 ID:izhjoEs0
>>947
なんで毛利本家は岩国藩だけ藩として幕府に届け出なかったの?

徳山藩、長府藩の藩祖よりも若干家格が下だからかな?

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 10:54:54.18 ID:IP4dQZ5g
>>950
まあ、いたって正当な理由ではあるな。
吉川広家は『吉川』元春の子供であって毛利家の子供じゃないしな。

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 11:00:48.84 ID:5HCtQl0O
逆に言うと、なぜ元氏は毛利姓になったんだろ?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 11:21:02.24 ID:iZwvPy1k
>>950
岩国だけじゃないぞ?長府や下松もあくまで本藩支配下の支藩としているわけで。

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 19:17:26.85 ID:+urX3RXs
>>953
いや、長府や徳山は「支藩」にはなってるわけでしょ?
岩国はなってないので、本藩の家老の領地とかと同じ扱い。

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 19:27:21.21 ID:iZwvPy1k
>>959
この通りだと思う

> 元々輝元の養嗣子でありながら、輝元の嫡子誕生によって豊臣政権から分知を認められて大名としての
> 資格を得ており、宗家継承権も有していた秀元の長府藩や、輝元の実子である毛利就隆の徳山藩の両藩と
> 輝元の従兄弟である広家との血縁の親疎を考えた場合、輝元の子を祖とする長府・徳山と
> 庶家の1つでしかない岩国の間に処遇が違いが発生する余地はあり、岩国藩吉川家が冷遇されたというより
> 長府藩毛利家の家格が上昇したと見た方が適切との見方もある
>
> (参照:脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』(1993年、雄山閣
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E8%97%A9

毛利家、賤ヶ岳の裏で

2011年10月05日 22:03

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:51:34.89 ID:ipCvu13n
天正11年4月、近江では賤ヶ岳の戦いが進行していた。

さて、柴田勝家は3月より備後鞆にある将軍足利義昭と連絡を取り、義昭の上洛を支持し、
義昭を通じて毛利が対秀吉の軍を出すことを求めた。
ちなみにこの義昭の上洛に関しては、徳川家康も支持を表明しているので、かなり大掛かりな
政治的策動があった模様である。

この義昭よりの要請に毛利家当主毛利輝元は、談合衆(毛利家最高幹部)の吉川元春小早川隆景
福原貞俊に意見を求めた。

彼らの出した結論は

『両軍の強弱が解らない以上、我らは両方にいい顔をして、動静を見守っているのが良いでしょう。』

方針はそのように決まった。

現実的といえば実に現実的、野心がないといえば実に野心の無い、なんとも毛利的な政治判断と言えるだろう。
(毛利家文書)




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 00:10:45.93 ID:wZjgziK+
佐竹さんが羨ましそうな眼差しでこちらを見ています

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 08:50:36.51 ID:+/YwN+r7
関ヶ原とは状況が違うから比較できないけどな

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 15:58:58.06 ID:EJ5Trvwq
よっぽど秀吉軍がトラウマだったのか?

毛利輝元と幸若舞

2011年08月04日 23:02

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/04(木) 11:43:33.99 ID:gjgsfj31
毛利輝元のちょっといい話を。

慶長17年(1612)、幸若舞を愛好する毛利輝元は、自分の御伽衆奈良松友嘉の息子、
善吉と善三郎を越前の幸若舞小八郎家(おそらく六代桃井安信)へと派遣、
これを学ばせる。
この時小八郎家は奈良本家に幸若舞の相伝を許可し、「幸」の一字を与え幸坂家を名乗ることを
許した。

さて、その兄弟は舞の教本を長州へと持ち帰り、以来大切に受け継がれた。

これこそ、現在も山口県の毛利家博物館に保存され『毛利家本』と呼ばれ
幸若舞の祖・桃井直詮より始まる越前幸若系の純粋な文体を受け継いでいると考えられる、
現存する唯一の揃本なのである。

毛利輝元、幸若舞の貴重な史料を現代に残す、というお話。




雑談:毛利輝元の呼び捨て

2011年08月03日 23:00

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 22:33:13.66 ID:dhsypo1c
いまNHK教育でやってる番組で千利休の茶会記「百会記」が
映ってたけど、そこに書かれてた毛利輝元の名前が「輝元」って
呼び捨てになってた。w
家康は「家康公」って書いてたのに。

やっぱり呼び捨てには何かあるのかな?

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 22:41:17.41 ID:KwxfFYhg
実は出家していて「輝元(きげん)」と名乗っていたとか

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 22:44:33.27 ID:3Es4cdLL
それとも盆暗だからか。

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 22:57:29.24 ID:NJBD9gUS
>>266
マジレスすると輝元の法名は「宗瑞」。何故かあの北条早雲と同じ。

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 23:22:05.12 ID:yDsQ3rRc
正確には幻庵宗瑞
北条幻庵宗哲と伊勢早雲庵宗瑞の2人からとったような号だし
明らかに狙ってるとしか思えないわw

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 23:27:44.94 ID:Szq1d5UD
>>269
何狙ったんだろう
一応毛利家は小田原征伐のあと、北条家の娘を引き取ってはいるけど

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 23:38:31.61 ID:2lHLzScx
>>266
出家してるからって呼び捨てにしてもいいもんなの?

273 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/03(水) 10:04:37.20 ID:qElR3MOD
資料とかみてないから適当だけど、輝さんは弟子なんじゃね?

呼び捨てにされる毛利輝元

2011年07月24日 23:03

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/24(日) 09:40:56.28 ID:dNZZMTow
前々からなぜか伊達政宗が大体「政宗」と諱呼び捨てにされがちだっていう話が出てたけども
毛利輝元も呼び捨てにされやすいのかな?

福岡県史の近世史料をぱらぱらめくっていたら、目についた

慶長九年(?)正月十九日 黒田如水から真鍋次太夫宛書状

能申聞候、去年鯨をハ心懸取申候哉、(略)
次従 輝 元 参候船屋形取集、舟二可仕候間、損候ハん様二仕可置候、
筑前方へも此通可申候、恐々謹言


年不明五月廿六日 黒田長政から大嶋又衛門・毛屋主水・庄半大夫宛印判状

一書申遣候、中村藤兵衛所(略)
又 輝 元 へ大角弐其地有之由二候、彼地奉行へははや福越より被申遣候間請取、(略)

と黒田親子にまったく関係ない別の書状で呼び捨てにされてるんですが……
ちなみに上の如水書状ではちゃんと長政を「筑前」と書いていますし、
下の長政の書状では「中村藤兵衛」や「福越(福原広俊)」と諱呼びはしていません
他に諱が出てくるのは身内を除けば、長政書状に「秀頼様」とあるのが散見できるくらいです
しかし、輝元は呼び捨てです
ちなみに長政は再三再四息子やその守役に
「手紙の書き方がなってない」「字が汚い」「くだんねー用事に祐筆使うな、自分で書け」
と口うるさく注意しており、死ぬ直前にまで書状の中での人物の敬称について細かく注意しています
それなのに呼び捨てにされる毛利輝元って一体……




118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/24(日) 10:49:13.09 ID:WAkfEI4+
>>117前に、伊達政宗は一回も改名してないんで諱が定着しやすかったのかな、と考えて
他の改名してない人を調べたらあっというまに30人超え、関係なさそうだな~と思って調べるのやめたんだけど、
秀頼と輝元も改名してないね。
黒田長政もずっと同じ名前だけど、長政はいっぱいいてわかりにくいんで使わなそう。

毛利輝元、人質の森高政・重政兄弟に

2011年05月08日 00:03

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 23:38:01.30 ID:PUegEPCq
天正10年(1582)6月、本能寺の変の報を受け、中国で毛利と対峙していた羽柴秀吉は、
急遽毛利との講話をまとめる。さてこの時双方よりこれを保証する人質が出されたのだが、
秀吉から送られたのは家臣の森高政・重政兄弟であった。

さて、この秀吉からの人質と体面をした毛利輝元は、彼らにこう語りかけた。

「毛利と羽柴両家の好のはじめに、貴方達が我が元に来たのですが、
あなたが他の苗字が森ということは、苗字の地は我らと同じ、相模国毛利(森)庄ですね?
これは不思議な因縁です。

どうでしょう?よろしければ貴方たちも我らと同じ毛利の姓を名乗り、末永く兄弟の契りを
結ぼうではありませんか?」

これにより森高政・重政兄弟は、この時から森を改め毛利を名乗り、毛利輝元と親しい関係を
築いたという。

秀吉からの人質の心を取った、毛利輝元のいい話。


まあ、そんな毛利高政は関ヶ原の時、丹後田辺城攻めの最中に西軍から東軍に寝返るんですけどねw




444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 23:48:45.31 ID:uzrOxlpc
オチさえなければいい話で終わってたのにw

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 01:02:14.64 ID:XTGBTF8p
さっと変えられるという事は毛利氏は「もりし」と読む物だったのか?

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/07(土) 01:18:45.07 ID:P6nvllnN
10年くらい前に宇宙に言った毛利衛さんは、
『本当は もうり じゃなくて、もり なんです』って、TVで言ってたような記憶がある。

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 01:28:10.62 ID:jXsXohqo
毛利の苗字の起こりからするともりの方が正しいんだろうな

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 01:33:03.17 ID:+PSHSDJF
毛利高政って元々佐々木系の鯰江氏なんだな
なんとなく毛利勝信の親戚かと思ってて、勝信は若い頃の木下藤吉郎の若党かなんかだったと言う話を見てて、
氏素性のない人物を親戚にされた毛利氏の悪い話かと思ってた

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 04:00:42.92 ID:UERcBcAA
毛利勝永の家も元は森姓だったというよね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 08:09:37.31 ID:32NWQ9yC
そういや黒田節の人も。

毛利輝元には気に入りの僧侶がいた

2011年03月03日 00:00

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/01(火) 22:25:50.97 ID:TH9k78ZG
 
流れ読まずに投下。

毛利輝元には気に入りの僧侶がいた。
その僧侶は、大寧寺の変で大内義隆が山口から脱出する時に一時立てこもった法泉寺
という寺の住職で、法泉寺は大内氏が滅びてからは毛利の支配下にあった。
輝元はこの僧侶とよく気が合い、しょっちゅう城に出入りさせていた。
だが、どうしても手近に置きたくなったTERUは、一計を案じる。
いつものようにかの僧侶を呼び寄せ、料理を振舞った。
「ほら、食べて食べて!」
「では頂きます」
「おいしい?」
「はい、とても」
「声が小さいよ!もっと大きな声で!」
「とてもおいしいです。しかし…」
「ぜんっぜん気持ち伝わってこない!もう一回!」
「 お い し い で す !! それでですね、今食べたコレ、ひょっとして……」
「はい!食べた!魚肉食べたー!いま君の僧侶の資格は無くなったよ!! 還 俗 だ !!!」
「ちょwやっぱりww」
僧侶に隠して、なまぐさである魚肉を食べさせ、無理矢理還俗させてしまったのだった。
かくして僧侶は還俗してその姓の土井氏に戻り、代々毛利氏に仕えることになった。
住職のいなくなった法泉寺は放って置かれたため、そのまま寺は断絶。
今ではもう、地名にしかその名は残っていない。




76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/01(火) 22:55:22.07 ID:BZzQS7Hi
テルにしては気のきくいい話じゃないのこれ

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/01(火) 23:11:44.67 ID:oArg7q/P
なんで修造なんだw

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/01(火) 23:16:37.91 ID:gRa5ccaO
騙しで強引で褒められた行為じゃないけど
坊さんの方も満更じゃなかったみたいだし、なんだか微笑ましいな

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/01(火) 23:43:33.98 ID:GMFhZYaz
寺放置しなくてもいいだろw

81 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/02(水) 00:28:56.10 ID:mtgtRlj6
後ほど叔父貴たちにたっぷりしぼられたのか。

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/02(水) 01:01:13.52 ID:7kv92AjI
俺はこういう話好きだなー

秀吉の、毛利家への信頼

2010年10月09日 00:07

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/08(金) 17:20:20 ID:GpZFLjJ7
天正18年の、豊臣秀吉による北条征伐の時のことである。
秀吉は軍勢を東海道に集結させていた。
しかしこの時出された動員令は主に秀吉の旗本や直属の大名に向けたもので、
その他への指令は書かれていなかったという。

さて、この北条との戦争に対し、安芸の毛利家はこのように考えた

「我々も大大名であり、秀吉公は家康卿を動員している以上、次には
輝元様を動員されるに違いない。軍勢を登らせておくべきである。」

この判断により毛利家は輝元を先に上洛させ、順次京に軍勢を登らせた。
ところが輝元に対し秀吉は

「よくぞ上洛なさった。この聚楽を輝元に預ける。
秀吉が出陣している間、天下の仕置はここで天下殿(秀次)と輝元、お主とで
行うが良い。」

と言い、当時の天下の政調というべき聚楽を輝元に預け、さらに重要拠点である尾張の清洲城は
小早川隆景に、三河の岡崎城は吉川広家に任せた、という。

豊臣秀吉の毛利家への絶大な信頼がよくうかがえる逸話である。




554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/08(金) 17:58:28 ID:D+SH3lLH
また、人をたらしこむんすか太閤w

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/08(金) 18:37:20 ID:WTaeVHhA
>>553
あれ、岡崎城ってこの頃は家康のものではなかったのか?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/08(金) 18:42:56 ID:Xq+wgCts
>>556
後詰的な意味合いででしょ。清州だって、信雄君のだし

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/08(金) 18:43:42 ID:/GtPGYY6
TERUそれで知行増えたのか?

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/08(金) 23:02:08 ID:JodTH8yo
>>553
此頃の広家ってまだダメな餓鬼だった頃じゃ