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沈痾によって臥せ

2022年03月28日 19:11

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/28(月) 18:00:38.53 ID:oDQvJ5ak
天正十五年(1587)春、毛利右馬頭(輝元公)は、関白大相国(豊臣)秀吉公が島津征伐のため
御動座された時、輝元は豊前小倉に在ったのだが、そこに於いて沈痾(長く治らない病気)によって
臥せ、吐瀉、下血が止まらなかった。心臓の下に堅いしこりがあり、左脚脛が腫れ、高骨に痛みがり、
更に歩行も出来なかった。

私(曲直瀬玄朔)は殿下の命によって小倉に至り、これを治療した。
十数日ほどすると、足の痛みは大半減じ、輝元は馬に乗って、豊後を経て日向に入った。
私もそれに従い、治療を続けた。

島津降参の後、豊臣軍は撤収したが、輝元も安芸吉田に帰り、秋の末に至って病は平復した。
そのため私も帰洛した。

この治療において、初めは朮苓、陳通巳役乳、近膝参甘の類い、後は参朮苓、甘霍朴、半貴、青芍、膠帰の
類いを処方した。出入りの加減によって平安となった。

医学天正記

九州役の時に毛利輝元が病に臥せていたらしいというお話


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猫屋町由来

2021年07月21日 18:26

314 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/21(水) 06:09:29.35 ID:/VMhrDik
猫屋町由来

広島県広島市中区猫屋町。
天正年間、毛利輝元が吉田から移り広島を開府した際、猫屋九郎右衛門兼鎮と言う豪商が当地に屋敷を構えたことからその地名が生まれた。
猫屋は屋号であり姓を加藤と称し、元は府中・松崎八幡宮の棚守であった。
猫屋は私財を投じ、本川(旧太田川)に木橋を架けるなど広島の町づくりに大きく寄与し、この川と橋は明治辺りまでは猫屋川と猫屋橋と呼ばれた。
橋は現在では本川橋と名を変え、明治期に鋼トラス橋となったこの橋は1945年の原爆投下とその後の枕崎台風、阿久根台風の通過で落橋したものの4年後の1949年に復旧され今も使われている。

また、猫屋が棚守を務めた松崎八幡宮は多家神社に合祀され跡地として残っている。

余談だが、猫屋九郎右衛門兼鎮が猫好きだったかどうかは特には伝わっていない。

https://arch-hiroshima.info/arch/hiroshima/h_bridge.html

https://i.imgur.com/23z273O.jpg
23z273O.jpg

315 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/21(水) 06:10:17.91 ID:/VMhrDik
猫屋橋と猫屋町
https://i.imgur.com/N69strZ.jpg
N69strZ.jpg



316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/21(水) 08:46:48.96 ID:1kBYcaED
>>315
サムネ見た時なんか人の姿に見えた

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/21(水) 10:51:32.78 ID:LVJq9lcq
手前のネコまるで悪徳商人


324 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/21(水) 17:06:41.19 ID:ILFja671
>>315
猫屋町の余談として、この猫屋町は江戸期に入り、浅野家の時代には同家に仕える鉄砲隊の者達が多く住む商人町となり、明治期にはそこから派生して猫本、猫田、猫島と言う苗字が生まれ、猫屋町から少し北に行った安佐南区ではこれらの苗字がよく見られる。

https://nekomoto-gas.com/myneko/

↑地場ネタで恐縮ではあるが、猫本ガスを運営する猫本商事は当地にては最も有名かも知れない。

祖母の家の家伝、

2021年01月21日 17:13

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/20(水) 22:05:36.58 ID:8biGem2Q
祖母の家の家伝、というか祖母が父から聞いた話として私が聞いた話なので誰の話とも言い難いんだけど
強いていうなら毛利輝元の悪い話として。

祖母の先祖は毛利家の家臣だった(直臣なのか陪臣なのかは知らん)。関ヶ原後の大減封のあおりを食ってリストラ、帰農したという。
これは関ヶ原の少し前の話。
時は上杉征伐をするぞとかなんとかいっていた頃。ある日(祖母曰く)御家老様(実名不詳)に呼ばれて密命をもらった。
これより先、東海道で大きい戦があるので忍びの里(伊賀か甲賀かどうかも不明)に趣き協力を取り付けてまいれ、と。
ご先祖様は言われた通りに交渉し、話がまとまりそうだった。だが思ったより早くいわゆる東軍が戻ってきたのでお話は破談となり、そのままご先祖様も本国に戻ってきた。
くじ引き解雇だかそれとも口封じの指名解雇だったのか知らないけど、とにかくご先祖様は帰農し山口県で農民として以後暮らした。

まあそこまでだったら信憑性のない話で終わりそうなものだが、証拠が一つ残った。
忍者と交渉したとかいうご先祖様本人のお墓である。
山口に移住し帰農したせいで先祖代々の墓はそのご先祖様のものが一番古い。
そいつがでかい。宝篋印塔だか五輪塔だかとにかくそういう形式で、写真を見る限り3〜4mはあった。
(農民の墓って普通そんなにでかいか?そこまで大きいのはあまり見ない)
家伝に曰く「御家老様が先祖様を気に入り、慰労の意味で墓を作るにあたり特別な許可で"立派に作って良い"、と言われてこの大きさで作った」

少年期はふーんで聞き流していたんだけど、冷静に考えると毛利輝元さん、上杉征伐の前の段階でしれっと工作に動き出してますよね?
家伝が正確なら、という但書きつきだけど、輝元さんがかなり主体的に動いていて、かつなんの成果も出せず失敗したので悪い話




529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/20(水) 22:17:53.65 ID:8biGem2Q
>>528
ちなみに富農ではない。普通の農民だったんだな、というサイズの墓が立派な塔の周囲にあって
一本の大樹を囲う低木のような感じの「一族の墓」になっている

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/21(木) 08:32:34.92 ID:vFZTQxQ0
ちゃんと下準備してるいい話じゃね?いいというか当たり前か

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/21(木) 09:13:38.55 ID:t6NWs7gs
輝元が関ケ原で色々策動し、周囲に責任なすりつけたことは最近知られるようになってきたねい。
しかも輝元、懲りずに大坂の陣でもやっていたし。

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/21(木) 10:58:02.90 ID:Jt3OtLfO
策を練るのは好きでも実行力がないのか

そして信長公と御当家の間は手切れと成った

2019年11月24日 17:27

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/24(日) 11:57:49.42 ID:QkJb/iy2
織田信長公が大坂(本願寺)を取り囲んでいた時、大坂は御当家(毛利)に対し
『是非とも頼み申す。兵糧が続くことが第一なのです。何分にも頼み奉ります。』
と頻りに要請があり、このため二度にわたって兵糧を大阪に入れ、そしてこのために
信長公と御当家の間は手切れと成った。

信長公は伊勢の九鬼大隅(嘉隆)に命じて、河口に大船二艘を据え置き、城のように
配備した。そこに毛利家は芸州の警護船を差し上らせた。そしてかの二艘の大船を共に切り崩し、
兵糧を入れた。しかしながら織田方は信長公の命により大阪周辺に数多の付城を作らせ、
特に茶臼山に塙九郎左衛門(原田直政)を置いて諸口を手堅く保たせており、この包囲を
破ることは出来ず、大坂方は逼塞した。これについて御当家も木津に一城を造らせここに
粟屋内蔵丞を置いた。児玉内蔵大輔は御家中の警護船の運用をよく知っており、度々大阪表に
詰めていた。兵庫花隈城もこちらに従う事になり、杉次郎左衛門を置いた。

そのような中、城介殿(織田信忠)がこの方面に出陣してきたため、乃美宗勝が淡路より
加勢として入った。同じく桂民部大輔も罷り越した。

城介殿は人数三百程にて未明に城近くまで寄り掛かり、これを攻略しようと考えていた。
城中の者達は攻撃を覚悟していたのだが、どうしたわけか、晩の七時(午後四時頃)に
撤退した。これに城中の者達は尽く寛いだ。

(老翁物語)

大坂本願寺攻め、特に第二次木津川口の戦いに対する毛利の認識。毛利としては、有名な信長の「大船」
は毛利の船団が切り崩し兵糧の搬入に成功した。ただし原田直政を中心とした陸上での包囲が固かった
ため攻勢に出ることが出来なかった。そのように受け取っていた模様。



【雑談】関ヶ原の毛利家のことなど

2018年09月29日 18:24

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:22:06.35 ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:40:57.66 ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 07:19:42.68 ID:xClyAv6P
>>205
とはいえ、支藩扱いになろうとする吉川と家中統制のためにそれを抑え込もうとする毛利宗家の
争いが幕末まで続くわけだが。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 09:17:42.46 ID:hSj2UTzI
>>207
それ逆だよ。
幕末の争いがあったから広家にまで遡及して仲が悪かったことにされてるが
広家の時期にはまだその手の問題はなかった

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:05:41.24 ID:h9l33jpv
独立大名になろうとした騒動を巻き起こしたのも秀元の方だしなあ

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:22:06.35 ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:40:57.66 ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 19:26:01.92 ID:1lUQP2X3
金吾は最初から徳川に通じてたし
開戦後即西軍に攻めかかってるから(問い鉄砲はフィクション)
吉川が西軍に味方しようが勝負は決まってた

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 23:14:04.33 ID:xClyAv6P
家康本隊到着、岐阜を制圧して東軍諸将はやる気十分、金吾は要地を押さえて好きなタイミングで攻撃を始められる、
西国は黒田が大友を蹴散らして、毛利は広島城の守備兵も足りない状況。
この状況で和睦を考えない方がどうかしてるし、輝元はここで判断を誤るほどぬるい武将ではない。

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 04:54:27.36 ID:vdEL2s7b
判断がぬるくないというより一時乗せられたけど
本来そんな天下に野心がある訳じゃないから和睦したってだけじゃないのか?
判断力を褒め称えるケースでも無いような

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 07:17:40.48 ID:1+xdDwkE
みんな関ヶ原好きだな

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 08:11:22.75 ID:5g1GriLD
>>216
毛利単独でその他の大名家全てを叩き潰せるほどの戦力はないようだし、
そんな事が出来るような体制もなっていないし、そんな意思もないようには見える。
輝元個人の資質や能力は一流で天下の切り回しにも足りるだろうけど、毛利家で天下統一は無理だろう。

毛利輝元、自分の少年時代を振り返って

2018年06月30日 21:10

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 14:43:23.66 ID:wJckDjva
毛利輝元、自分の少年時代を振り返って


以下は毛利輝元が、毛利秀元と福原広俊を通して嫡男の秀就(数えで19才)に
訓戒させるため、慶長18年(1613年)12月に送った書状。
長いので意訳&抜粋。


私が長門(秀就)の行儀に対して堅く申し付けてはいないのだと、世上で
言われています。(実際行儀はよくないので)仕方がないことではありますが
私は知音の上方衆から、(秀就が)領国に帰ると手荒く居丈高に物事を申し付け
『近年の毛利家中は申し付け様が緩いのでよくない。
 手荒く申すようにすれば人が恐れるだろう』
などと申していると聞きました。

私にも少々荒く申し付けた方が若い者らしく、人も(立派に思って)驚くと
下々の者が申したことがあり、それを真に受けてそのように振る舞っていたときが
ありました。しかしそれでは下々の者が迷惑し憎むようになるのでよくないと
聞いた後はそれに合点して、その後はよい振る舞いをするようになりました。
総じて若い間は、礼儀も善悪も全くないものなのです。

まぁ私も立派な人間ではありませんから、申すようなことはありません。
十一で親(隆元)と離れ、十三で嶋根陣(月山富田城の戦い)に行き
日頼様(元就)の側に詰めるようになってからは、私は十九になるまで、お側を
離れず御奉公したものの、それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

日頼様の(私への)御折檻は内々に人目を憚ったものでしたが、今も存じている者が
いるはずなので、尋ねてみてください。そういう訳なので私はこの年になっても
世上を敬い、当世の利根才覚がないので大事大事と朝夕考えながら日々を過ごして
国主などになりました。今時の風潮とは違うようですが(このような有様なので)
一つとして私は(秀就に)毛頭申すことなどありません。


――『毛利家文書 一一五七号』



901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 15:08:18.32 ID:0QCKxBzw
>>900
謙遜じゃなくてマジなのがせつないというかなんというか…

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 16:38:51.60 ID:WAV9ogJV
なんか、尻すぼみ感がすごいな。輝元自身が、シオシオとなっていく感じが…

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 17:46:36.57 ID:v37hq9s4
偉大な祖父や叔父からひどい折檻受けて育てばなぁ…。
優秀すぎたせいで、そこそこの出来の子供の養育方法わからなかったのかもしれない。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 19:49:43.61 ID:Gy5MCzvM
アレらが殿上人のような存在だと自分を卑下してイエスマンで有り続けるしかない
次期当主がそれだと困るから折檻されるのだが思うようにやっても結果が伴わないので結局折檻される
こうして歪んでいき結果傾国したのであった

905 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/01(日) 21:47:16.21 ID:X9OW92xd
> それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
> 良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
> 思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

隆元も、元就に対して同じような気持ちだったんじゃないかな。せつないなあ……。

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 12:25:56.88 ID:bR/a18wF
>>900
自分を虎だ龍だと思い込んでる奴よりは余程好感が持てる

川通り餅の由来

2016年12月21日 17:28

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 07:20:38.66 ID:Ex3Uxlra
川通り餅の由来

12月1日、広島城下の人は餅を食べる習慣があった。
 それは城下の人だけでなく、郡部もであり、このことを「川通り餅」と言ったり「膝塗餅」とも言ったそうだ。
 この餅を食べたら、川を渡っても転ぶことがないと言い伝えられている。」

この由来は正平五年(観応元年,1350年)十二月一日、毛利師親が石見の国の佐波善四郎との戦いで江の川を渡ろうとした際、川の水面に浮かび上がった石が鐙に引っ掛かった。
師親はそのまま戦に臨み合戦に勝利し、この時鐙に引っ掛かった石は神の助けに違いないと持ち帰り、宮崎八幡宮に奉納した。
師親が治める安芸国吉田庄ではこれを祝って十二月一日に餅をこの小石に見立てて食べるのが習慣となり、その後子孫の毛利元就にも引き継がれ、
元就の孫の毛利輝元が吉田郡山城から広島城へ本拠地を移した際に川通り餅は広島城下から安芸国全体へと広まったのである。

今では広島の銘菓として、親しまれている。

(知新集、高田群史、亀屋のホームページより)
http://i.imgur.com/FOegWlI.jpg
FOegWlI.jpg




447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 08:41:22.82 ID:TUG5wkvm
>>446
広島住みだけど、子供の頃やってたCMが怖かった思い出
能?の鬼が出てくる

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:48:24.78 ID:YU7aAtsW
>>447
あれは文楽だよ
https://youtu.be/ZhvuwRwmYmg

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:57:07.62 ID:YU7aAtsW
すまん、こっちも有った
https://youtu.be/6qT6wJz7J3s

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 11:26:32.70 ID:Iy76MskG
最近(でもないか?)武将の逸話が出尽くしたのか
風俗ネタが多いね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 12:01:41.46 ID:TUG5wkvm
>>449
まさにこれです!
夕方のアニメの時間帯によく流れていた記憶があります。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 16:15:04.15 ID:3vDWZHcv
>>446
666年も前から未だに伝わるとは…

はや此分にては身上続ましき…

2016年10月10日 10:34

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 10:23:21.32 ID:cTGsgr3g
入道し毛利宗瑞となったTERUは祖父に鉄拳制裁を食らうわ叔父たちにガミガミ言われまくってた若き日々のことを回想しこう書き残している

…日頼様(元就)余御折檻候上に隆景元春さし合種々異見達被申、はや此分にては身上続ましき…

――『毛利家文書』より抜粋



毛利輝元の評

2015年09月20日 17:24

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/20(日) 01:09:46.85 ID:Mj1rml0Y
 輝元なる者がいる。京西の大師である。壬辰の役に元帥となった者である。
安芸中納言と称し、あるいは毛利中納言とも称している。(安芸は州名であり、毛利はその姓である。)

 まさに百済が亡ぼうとしたと時、臨政太子が船に乗って倭国に入り、大内左京大夫(倭人は王を大内という。それで、今に至っても、周防
州に大内殿の称号がある。)となって周防州に都した。その子孫は、四七世を歴る間、代々倭官となってその土地を継いだ。輝元の祖先はす
なわちその従者であった。臨政の裔は多々良氏となり、輝元の祖先は大江氏となったが、のち、毛利氏と改めた。臨政の子孫がすでに絶えて
しまってからは、輝元の祖先が代わってその土地を継ぎ、安芸州の広島に都した。

 物資にすぐれ、富んでいるのは、倭京に擬えられる。

 その風俗は、倭のうちでは、いくらかつつしみ深い。性質はとてもゆったりと大らかで、わが国人の気象によく似ている、という。

 輝元の年はその時四八、その食邑は京西、九州にわたっており、土地の所出は150万石、しかし実際はこれを越えている。

 宇喜多秀家ともども、賊魁(豊臣秀吉)の命令におさえられて、やむをえずわが国人の鼻を削いだ時も、いくらかわあわれみの気持ちが
あった、という。
(看羊録)

姜コウ、というよりも藤原惺窩? からの評価が高いことを忍ばせる毛利輝元の評




慶長五年九月二十五日、毛利輝元書状

2014年09月22日 19:19

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 17:33:03.35 ID:Y7ZVFnF2
慶長五年九月二十五日、毛利輝元より吉川広家への書状

そなたはとてもよくやってくれている。
ワシにはもうそなただけが頼りなんじゃ。

それはそうと、
福島正則と黒田長政が毛利の為に立ち回ってくれているようだが
こいつらはおべっか遣いも有るから頼りにはならないんだよ。
つうか、いまだ井伊直政に対面叶わずでお頼み入り出来てないみたいじゃん?
これはヤバいよ。
毛利家どうなっちゃうの?
とても心配だよ・・・。

(吉川家文書)




849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/21(日) 19:09:40.25 ID:xjz5QUXq
どこがいい話なの?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:14:36.63 ID:Y7ZVFnF2
>>849
すまねえ
どうやら悪い話の方だったようだ

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:47:00.95 ID:ayMSSC2t
>>849
TERUの調子のいい話

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:53:21.16 ID:dVF6Y+ZT
吉川ってのは本当に空気が読めないよな
親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる


856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 19:29:01.43 ID:82Ys0sln
>>848
こういうのは原文も併記して欲しいな。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 23:09:04.45 ID:R+fUIXZj
>>856
後半部分のみならこうらしい

羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:41:49.60 ID:R4jIaMgz
黒甲ってのは黒田甲州なんだろうけど羽左太は羽柴左衛門大夫の略?
すぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか

盲ぎり

2014年04月11日 18:54

944 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/10(木) 20:03:25.08 ID:JDN5WJMR
文句だけというもなんなので・・・
TERUさんのタグにはなかったので


盲ぎり

関ヶ原後、毛利家は八カ国に膨らんだ家臣団を防長二カ国で賄わなければならず、
まず家臣の家禄を五分の一に減らし財政の建て直しを計ったがそれでも見通しがたたず
いよいよ家臣団を整理するしか方法がなくなりました

毛利氏をしたい、生死を共に分け合った家臣を辞めさせるのは偲びがたいので
盲ぎりという方法をとったそうです

これは

殿様の前に家臣の名を書いた帳面を置き それを家来が一枚一枚めくっていく
殿様は目かくしをして 筆をもってその帳面に筋をひいてく
名前に筋がかかったものが武士をやめ帰農することになる 

という方法で、筋をひかれた者は運が悪かったとあきらめて帰農したということです


運まかせで整理されちゃう家臣ってことで悪い話に・・・
帰農した家臣が殿様へ直接的な不満をもたないようにワンクッション入れるための手段なんでしょうけどね




947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 23:25:48.02 ID:qdRMeZG3
>>944
これも一種の困ったときの神頼みみたいなもんかね

輝元の苦悩

2014年04月11日 18:54

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/10(木) 19:34:00.70 ID:JDN5WJMR
輝元の苦悩

関ヶ原後、八カ国に膨らんだ家臣団を防長二カ国で賄わなければならず、
もういっそ二カ国も返上して浪人になるしかない・・・と考えたのは有名ですが
実際にその決意を幕府に取り次ぐように黒田如水に依頼したとか・・・

さすがの如水さんも
「防長を返上しても借金は返さなければなりません 
輝元公が浪人になっても借金は身の上にかかったことなので唐・天竺まで逃げてもどこまでも追いかけてきます
私にも名案があるわけではありませんが・・・」と輝元さんのことを心配しつつ浪人なることを思いとどまらせました


如水さんのいい話になるのかな~
TERUさんがどーにでもなれ~!してたら幕閣が随分早くから浪人問題に頭を悩してたんですかね~

そんな黒田家譜の、家康の輝元評

2014年02月15日 19:00

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 22:23:17.97 ID:Nf6SSgKt
とある作品では輝元を減封で留めるために
家康と広家で一芝居うったって事にしてたな

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 16:33:15.67 ID:kB1KU6h5
>>366
黒田家譜読んだら恵瓊も
輝元の泥を被らされただけなんじゃないかと思えたり。




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 16:51:45.72 ID:RtxR2MJ4
そんな黒田家譜の、家康の輝元評

家康公仰せられるは「輝元は愚かなりといえども、頼もしき人なり。石田が秀頼のためなりと称して、誑かしたるを誠と思い、
悪逆に与して家を破ること、余人にはちがひ、私の心はなし」とぞのたまいける。

(家康公が仰るには「輝元は愚かであるが、頼もしい人でもある。石田三成が秀頼のためだと称して騙したのを本当だと思い、
今回の悪逆に与して自らの家に被害を与えたが、他の者達とは違い、私心からの事ではないのだ」と言われた)




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 21:59:25.56 ID:HcIKRIqh
>>376
輝元「という台本でお願いします。今後ともよろしく。」

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 22:16:15.74 ID:ms9BPVi/
実際のTERUさんはノリノリであちこちに手を出してたのになぁ

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 23:58:57.11 ID:m7sX+s0b
ノリノリで手を出してたからとっとと大坂明け渡して領国に戻ったんだろうなあ

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 00:43:15.54 ID:EFOL4QZL
大坂は出たけど領国には帰ってないような

秀吉「私は、輝元に劣っている」

2013年07月22日 20:05

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 21:24:23.77 ID:YjdkE5lI
徳川家康が臣従し、諸大名聚楽に出仕、秀吉の天下が固まった頃、
毛利輝元公は小早川隆景公がお伴して上洛をした。秀吉公との御参会では
大変丁寧なご挨拶をされ、大方成らぬ饗しであった。
この事は桂美作守が詳しく記録し、その書は今でもかの家に在る。

その後御対談の時に、秀吉公は御意に

「主君の敵を討ち、私の本意が天道にかなったが故であろうか、このように
日本を従え高位も備わった。しかし私は隆景、安国寺のような臣下を所持しない。
この事に関しては私は、輝元に劣っている、」

と仰った。
(老翁物語)




83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/21(日) 22:02:53.88 ID:L/BPhP9p
既に死去していた吉川元春の名が出ないのは仕方ないな!

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 13:09:58.58 ID:5ma0hqxb
>82
悪い話・・・かな?

わたしは機嫌が悪い

2013年04月23日 19:52

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 19:59:31.98 ID:QtYTpxVI
朝鮮の役の時のことである。

熊川と言う地に築城することになったが、人夫が足りないため、歴々の侍衆・同心・中間などが
自身で鋤鍬を持って堀をうがち、おうご(てんびん棒)にて石を運び、地突きなどもした。

また一方で、石垣のためのくり石を運ばせたが、ここに久代殿(毛利配下の久代宮氏か)の家臣で、
江田甚内という侍、天秤棒で石を運んでいたが、数度運んで来たところで、工事を監督する奉行から
注意を受けた
「その石は小さくて役に立たない。」

甚内はこれを聞いて
「あまりに人々が集まって拾ったためにもう石が少なくなったのだ。
しかしこれは大きな石ではないが、重さはずいぶん大きいものだ。
とにかくここまで持ってきたのだから、これは受け取って頂きたい。」

これに奉行
「用にも立たぬ石を、何で受け取らねばならないのか」
と、ぶつぶつと文句を言った。

そこで甚内も仕方なく、その石をそこにガラリと捨てて、今度は大きな石を集めてきて、
奉行の前につっと寄って
「この石は気に入るだろうか?」
と聞いた。

奉行「これならば良い。受け取ろう。」と答える。

「最前石を持ってきた時は、色々と詫び言を行ったのに聞いてくれなかったが、
この石で機嫌は直っただろうか?」

「石で機嫌の良し悪しなど無い。そんな事より早く役儀を進めてくれ。」

これを聞くと、甚内
「其の方は機嫌が治ったかも知れないが、わたしは機嫌が悪い。」

と言い様、刀を引きぬき一刀にて奉行を討ち果たした。

そして甚内は多勢の中に紛れ込んだ。皆大騒ぎになり、あっちへ行った、こっちに行ったと
ひしめいたが、3万も5万もうち乱れて普請する中であったため、捜しようもなく、
甚内も主君のもとにも戻らず、どこに行ったのか、跡形もなく失踪した。

この事件の後、諸奉行いずれにも
『普請の人々に慮外な事をしてはいけない。歴々の侍自身の働きであるのだから、
物事を思慮するように。』
と、堅く命ぜられたそうである。そのためこれ以後は、無事に普請は進んだという。
(義殘後覺)




357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 20:15:13.91 ID:SZjj+zeR
中間くらいは普通に石運びとかしそうだけどな。
それにしても、三成を髣髴とさせるような奉行だな

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 21:44:01.89 ID:46I3IBwm
どっちもめんどくさいw

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 21:47:07.51 ID:psuL4Gw0
刀装備したまま石運びって大変だな
いざというときに備えてるのか身だしなみなのかわからんけど

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 22:08:22.86 ID:czn8r6KG
刀は敵に備えるためじゃなくて
面子を保つために必要なんだよ
現にこうして役に立った

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 00:15:20.32 ID:JQ+ZSFwD
逆ギレだな
城作るにはいい石が必要だろ
石運んでる奴より奉行のが石の良し悪し判断出来るんだから、その奉行が不要と言ったんだから仕方ない
仮にその悪い石使って欠陥城作れってか

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 00:20:48.24 ID:vSdWIl3M
見たまんま逆ギレだわなw

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 00:45:33.54 ID:Kg9vg+Zq
>>361
いやこれ事前に作業者に良い石悪い石の区別を教えなかったってのがダメなんじゃないの?

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 08:01:06.69 ID:hp2IVLJF
今なら機械で石を削れるけど、この頃はまだ難しかったろうしなぁ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 09:35:18.04 ID:12ur/tUd
>「用にも立たぬ石を、何で受け取らねばならないのか」
>と、ぶつぶつと文句を言った。
キーはここだな

愚痴愚痴いわんかったら助かったものを

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 11:32:14.68 ID:lNCN+iR3
黒田の大殿なら悪い石も立派に役立てたはず
若殿なら愚痴愚痴言ってるところを家臣団にバカにされるテンプレになったはず

小西行長の息子のこと

2012年12月10日 19:51

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:29:24.96 ID:JNn1KvZV
西軍の武将 小西行長が関ヶ原で敗れた時、彼の息子は毛利輝元の手によりかくまわれていた
身の安全は保障すると約束して行長の息子を預かった輝元であったが、もっと安全な所へ移す、
と嘘を言って小西行長の息子を連れ出して処刑し、その首を家康の元へ送ってしまった。
 差し出された首を見た家康は「行長の息子には何の罪もないから命まで奪うつもりはなかったのに
なぜ勝手に処刑したのか」と激怒した
 輝元の使者は「これは処刑したのではなく、観念した行長の息子が勝手に切腹したのです」と
言い訳してようやく家康に納得してもらったが、後になって嘘がばれたので批判の的となった
(イエズス会年報集)




696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:42:25.03 ID:j+MiCoAF
毛利も勝ち組なら匿えただろうけど、
負け組のしかも首魁で匿えってのは無理があるし、
かといって差し出したら卑怯な振る舞いと言われるだろうし…。
自業自得だが詰んでるな。
結果的には、輝元の能力的にも悪くない対応のように思う。

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:43:39.50 ID:Sjj0jjjW
宇喜多秀家「薩摩に逃げてよかった」

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 00:31:34.84 ID:jMQkfFyF
家康が行長を処刑したからからTERUが変に空気読んじゃったんだな

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 01:24:29.74 ID:BZUKfJ7Z
西軍の末路はやりきれないわ

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 07:56:42.94 ID:OII7mYAN
TERUは全くあてにならん男だなぁ

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 11:22:10.71 ID:oFcJsWTt
小西行長の息子は関ヶ原当時まだ12歳の少年だったようだ
名前が伝わっていないのは元服前だったからだろうか

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 11:52:15.79 ID:TctNXsqN
多分行長の息子生きたまま家康に差し出しても首はねてたと思うよ
秀頼の息子の国松も8歳で処刑されてるし

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 12:52:07.85 ID:oFcJsWTt
石田三成の14歳になる息子の石田重家は関ヶ原の敗戦後に出家し、
京都所司代を通じて助命嘆願した結果、許されたそうだ
そうなると、小西行長の息子も生きたまま差し出されていれば助命された可能性はあった

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 12:59:38.64 ID:x6hnXt3j
そもそも小西行長って主犯格だっけ?
主犯は5大老と5奉行だった毛利、宇喜多、石田ぐらいで
小西は石田と親しくて関ヶ原で主力のひとつだったから罪を問われた感じだが、
でも斬首はちと重すぎるような。

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 13:05:21.54 ID:RVidLukH
国松と小西行長の子供じゃ全然違うだろう。
小西行長の子供なんてわざわざ殺す程の存在じゃない。

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 13:28:25.74 ID:zzZWxi3A
関が原と大阪では戦後処理が全然違うし
小西行長と豊臣秀頼の格は言うまでも無い

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 13:55:56.57 ID:WR8vgCU3
一方石田三成の子孫は津軽藩の厚遇を受けて、重臣として存続した

本州の端っこ同士なのにこの差はなんなのだろうか

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 14:57:27.39 ID:/JzyJ5vk
為信や信枚がヤリ手だったのが大きいと思うがw
TERUだし

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 16:07:56.04 ID:FrV9HigX
義理人情に厚い為信さんならではだな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 17:13:24.85 ID:DH1GjqF/
お隣さんとも仲良くの

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 17:52:18.61 ID:VNKcRzxX
義理を果たすでもなく、実利を追及するわけでもない輝元の中途半端な判断…身につまされる話ですな

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 19:15:24.22 ID:thJISNUt
義理人情言っても、
西軍の首魁で一番幕府から睨まれてる立場で匿うのは難しいからな。
それでなくても家の取り潰しが見えてる状況で津軽などとは違うし。
差し出した小西息子がテルの更なる策謀を証言しました、
とか徳川側に主張される可能性もある訳だし、
死人に口無しは口実与えない観点からは考えられない訳じゃない。

…まぁ単純に先走っただけだと思うけど、テルだし。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 20:20:54.21 ID:VNKcRzxX
その首尾一貫しない感じが警戒された原因だと思うよ。
筋目を通して匿うってんならそれはそれで良かった。
「ああ、アイツはそういう思考なんだ」ってことでコントロールする方法が分かる。
逆に行動原理の読めない対応は外交において最悪。何しでかすか分からん以上は厳しく押さえつけるしかない。
関ヶ原以前からそうだったから今更どうなるもんでもないけど、大減封を食らった原因はそこなんだろう。

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 20:49:09.14 ID:thJISNUt
>>713
その仮説は結果を知って言える事であって、
当時の情報に制限がある中で、
筋目を通せば大丈夫、と判断しろってのは厳しすぎるだろw
所詮仮説に過ぎず、実際大丈夫でなかった可能性も否定できないとなればなおさらやね。

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 10:27:40.03 ID:MDsAJeiJ
>>703
ググったら享年100歳越えてて吹いたw
小西の息子とはえらい違いだなw

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 11:22:26.03 ID:AvncbbWD
>>724
最後は岸和田で、三成の曾孫だか玄孫の弘前藩士に看取られたそうな

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 16:14:10.35 ID:QmhEt8hH
>>725
いい話だな

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/11(火) 19:38:48.99 ID:GvO91ry1
>>729
感動的だな
[ 続きを読む ]

酒と返礼

2012年09月12日 20:31

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 08:31:53.66 ID:50PrEYgu
織田軍の中国毛利攻めにおいて、羽柴秀吉の部将、羽柴秀長が毛利方の因幡丸山城を囲んだ時の話である。
秀長軍は丸山城を厳重に取り囲んだが、丸山城も守将・山県九衛門を中心に堅く守り、戦況は膠着。
この攻防戦は長くなった。

その様な中、ある時城のある丸山の中腹に棲んでいた狼が火縄銃の音に驚き茂木の中から姿を表した。
狼を見た寄せ手の秀長軍からは、これを撃とうと鉄砲を放ったが、狼は再び林の中に戻っていった。

こんな事があって、秀長は丸山城中に遣いを出した。

『この山中に狼がいるのを見つけました。お互いに人数を出して、長陣の眠気覚ましに狼狩りをいたしませんか?』

この申し入れに山県九衛門は応諾し、双方の士卒が協力してたちまちのうちに狼を狩り取った。

さて、この獲物に羽柴秀長は、狼を分断して頭の方を自分の得分とし、尾の方に美酒十樽、良き肴の折り詰め十合を
副えて城中に贈った。
丸山城中の者たちは上下皆、長い籠城に水さえ尽きようとしていた状況であったので、酒盃の噂を聞いただけでも
口に唾が湧き、我先に飲もうとした。

が、ある者が言う
「ちょっと待て!これに酖毒などが混ぜてあったらどうするのか。これは飲んでいいものなのか!?」
皆、飲もうとした手を止める。と、この時籠城衆の一人、境三右衛門が声を発した。
ちなみにこの境三右衛門、この地に普請で来ていた所を、巻き込まれて籠城するはめになった者である。
ともかくも、境

「その疑問は確かにアリだな。だが疑うばかりというのも良くないだろう。まあいい、ここは俺が試しに飲んでみる!」

そう言って飯椀で6,7杯も飲み、そのまま酔っ払って寝てしまった。
境があまりにぐっすり寝ているので、籠城衆の中には彼が酖毒にやられてしまったのかと考え、彼の呼吸が有るかと
確認するものも居た。しかし泥酔していたので全く起きる気配もなく、さては毒殺されたのだと恐れるものもあった。

そうやきもきしていた所、薄暮れ燭台に火の灯る時分になって境三右衛門、茫々然として起き上がり目をこすり
欠伸をしながら曰く

「この酒は各地の銘酒にも負けない上物であるぞ!」

これを聞いた籠城衆、では我も飲まんと酒樽の前に蝿のように集まった。全く現金なものである。が、境は

「まてまて、ここで大酒して沈酔している間に敵が寄せてくれば、防御することも出来ないぞ!ここは俺に任せろ」と、
上戸下戸の分限に応じて過不足無く与えて飲ませた。

さてさて、酒を飲み干すと籠城衆、この謝礼に何を秀長の陣に遣わすかを話し合った。
こういう所、実に律儀である。
しかし兵糧さえ尽きかけており、余っているものなど何もなく、ただ鉄砲の弾薬が二十斤ばかり在るのみであった。
そこでまた境三右衛門、「では、この弾薬を贈ってやればいいんじゃないか?」

当然ながら他の籠城衆は反対した。「敵が寄せてきた時の用心のため、これは残しておくべきである!」
しかし境はこれを聞くと

「二十斤程度の弾薬なんてあっても、どれほどの役に立つっていうんだ?敵が猛勢で乗り込んでくれば、
こんな飢渇に疲れきっている城中に兵じゃ、たとえ何百斤の弾薬があってもどうやって勝利できるっていうのさ?
みんな刀を抜き連れて一文字に斬死するしかないよ。だから、あいつらに贈ってやればいいさ。」

この言葉に守将の山県九衛門も同意し、弾薬を積んで敵陣の前に置き、慇懃に酒肴の礼を述べた、とのことである。
(陰徳太平記)

丸山城攻防戦における敵味方の、酒とその返礼に関するエピソードである。





437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 08:49:32.17 ID:pn7vjQcF
もう降参したらいいのにw

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 09:16:02.89 ID:9xDUJjoA
境さん、巻き込まれて入城した割には人徳あり過ぎだろ…

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 09:56:41.64 ID:tnas0R4k
酒の返礼に鉛玉送るって秀吉の小田原攻めでもあったな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 12:34:19.08 ID:imopRN8v
歌を贈ったり舞を踊ったり…日本の戦って
ほのぼのするようなムズムズするようなw

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 15:36:13.73 ID:5ZKU6dU9
粋だねぇ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 16:03:18.08 ID:pn7vjQcF
>>441
共通の文化を持つ同士の内戦だからな
異民族が相手ならこうはいかない

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 16:28:46.27 ID:qqkt/iTn
西欧なんて捕虜をもてなして祝宴だぜ
ただし身分の高い捕虜に限る

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:18:11.69 ID:szRimrgY
>>444
おもてなししても身代金でペイできるからね
捕虜取るのは身代金目的だし
したがって身分の低いものは捕虜にしない

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:28:57.92 ID:qqkt/iTn
しかもこの回とこの回は俺(捕虜)の主催だから
身代金に上乗せしといてとか言っちゃうからこっちがクラクラしちゃうよ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:34:08.07 ID:9xDUJjoA
>>446
シャルル5世「親父のために払う身代金無いから帰って来なくていいよ」

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:44:38.34 ID:nt03bDac
父親の身代金集めるのに苦労してなかったか?
実はハナから恒常的な税収アップを狙ってた、というはなしだが

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 18:19:25.35 ID:pG/zhTHO
王弟ジョンがどうして重税をかけたかと言えば……

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 19:17:51.71 ID:m5DSgVvi
イタリアの戦争なんて死んだのが数人とかザラだし。戦列歩兵の時代だと3割4割死ぬが
>449、ライオンハートがマジキチな出兵するからだろ・・・ジョンのほうがマシかもしれんw

「黒田家譜」の毛利輝元の扱いが酷い件

2012年07月18日 20:56

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 06:11:28.25 ID:zs54iqdY
わらた。ひどいw

> 569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 22:18:22.12 ID:BJDZhdpE
> 「黒田家譜」の毛利輝元の扱いが酷い件
> 登場人物が次々にダメ出ししてゆく、不幸な立ち位置
>
> 孝高「輝元は天下の主たるべき器量ではありません」(小寺政職に)
>   「輝元は大身ですが、天下をとるべき力量などありません」
>   (宇喜多直家に)
>   「どうして、輝元が天下の主になれるでしょうか?」(別所孫右衛門) 
>   「あの輝元も隆景のおかげで、今までは見事に見えていたのだ」
>   (隆景の死に際して)
>
> 隆景「輝元を天下の主にするなら、たちまち天下を失うだけでなく、
>    毛利の家も滅亡してしまいます」(吉川元春に)
>   「輝元は天下を保つべき器量にあらず」(隆景遺言)
>
> 家康「輝元は愚かではあるが頼もしい人だ。石田が秀頼のためと称したのを
>    信じて味方し、家を傾け破ったものの、他の人とは違って
>    私的な野心などなかったのだから」(関ヶ原のあと)   
>
> 「輝元は天下をとる器量にあらず」―大事なことなので皆で何回も言いました

> 570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 23:05:50.99 ID:P/DLDS1d
> 細川書状の「あいつ生まれつきバカだから・・・」な毛利秀就評よりはましと思えば・・・

【合子形兜】 黒田孝高総合スレ 2 【圧切長谷部】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293800734/




548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 07:52:34.90 ID:ZTMrcPEv
>>547
毛利は代々馬鹿を売りにして領地を治めている。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 08:20:19.84 ID:GpySKgI3
>>548
バカではないは、そうせい公と呼べ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 08:24:14.72 ID:4xiXU/nk
戦国の世が終わりを迎える時代にキレイな馬鹿が産まれるのも家が持つ運だよなあ。
家康にして毛利残してもいいか。って思わせた訳だし。

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 09:32:25.84 ID:rqzLch3R
前田利常はバカ殿を装って家を守った
一方毛利輝元は馬鹿で家を守った

どうしてこんな差がついた…

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 11:18:52.91 ID:GpySKgI3
>>551
とはいえここ見てる殆どの人間よりTERUや利常の方が実績考えたら有能なんだろうな

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 11:25:38.41 ID:9irL3ZNz
隆元&両川以前と輝元以降の深い溝。謎だな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 11:42:40.71 ID:FGZjr13x
>>552
そりゃー一般ピーポーに比べるならそうだろ、というかホントにボンクラだったら家残せんだろうw
でも、関ヶ原の際に私的な野心が無かった、ってのはひじょーに疑問が残るw

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 12:42:56.40 ID:35oWiEoP
西軍総大将とか輝は己を知らないにも程があるだろ
東軍総大将の権現様の経歴考えたら普通に固辞するだろ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 12:53:54.11 ID:IhImhVkT
TERUはやればできる子のはず…

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 12:57:02.76 ID:bdjR7Vzr
ためしにやってみた結果が関ヶ原なんですけどね

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 13:05:50.22 ID:rqzLch3R
>>552
俺らと比べれば優秀に決まってるだろ、なにいってんだ

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 13:14:29.38 ID:wOO/aXJl
>>558
輝・利「ならさも自分が賢しげに馬鹿馬鹿言うんじゃねーよ」

560 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/18(水) 13:21:44.43 ID:mQqAyNaB
TERU「吉川と小早川に任せていれば、今まで大丈夫だったのに」

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 18:29:27.85 ID:2MSkOlz0
>>547
元就の遺言からして察してあげて下さい。

でも2代目将軍のポジならしっかり治めれたんじゃないのかな。
あの時代の藩政改革の実行力がトップクラスなのは証明済みだし。

568 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/18(水) 20:00:25.55 ID:k96a6zb7
TERUの話は盛り上がるな

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 22:06:51.73 ID:jxMIoW5e
>>568
アイドルだからな

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 22:13:54.84 ID:Yqpiy80x
色々と残念な人だからな

毛利輝元「まるで先祖伝来の重宝のように」

2011年12月08日 22:04

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 16:51:29.41 ID:ClsVNs56
慶長8年(1603)、毛利輝元が江戸からの帰路、伏見より出した吉川広家への書状

『ご子息がいよいよご成人なされると聞きました。前よりも一段と利発に見えると、竹庵が聞かせてくれました。
心からお喜び申し上げます。藤七郎(秀就)にも私から伝えておきました。本当に吉事ですね。

先日頂いた書状に付けて、思いもよらず御酒2樽、それに加えてこちらでは珍しい野大根の漬物まで頂き、
ご厚志の至だと感じ入っております。

今私はとりわけて、これらを賞味しています。お酒は特にいいですね!
両方とも私の直ぐ側に置いて、日夜頂いています。
まるで先祖伝来の重宝のように、秘蔵しているのですよw』

(吉川家譜)

吉川広家に贈ってもらったお酒と漬物に、大いに喜ぶ毛利輝元という、
ちょっとほっこりするお話。





939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 17:03:03.25 ID:QNTDHXVF
関が原後でも仲良さそうで良かった、実に良かった

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 18:19:23.25 ID:8rP/6yQc
社会人としてのマナー

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 18:38:46.57 ID:Yl/Jmt+7
吉川が冷遇されだしたのは関ヶ原後じゃなくて江戸期に入ってからだぞ
そのあとのお家騒動でぐだぐだになったんであって
関ヶ原でこじれたのではない

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 18:59:52.40 ID:tD6YN2m6
吉川が冷遇されたのって広家の代か?広家以後か?

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 19:10:33.86 ID:ps204bLX
吉川冷遇は江戸後期、毛利宗家が毛利秀元系になってから。

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 19:17:13.51 ID:92Ca0BMr
支藩が独立したいって言い出してからだよね、揉めだしたの

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/08(木) 23:19:13.29 ID:UZMJMXDq
広家の嫡男、広正の嫁は輝元の娘だし
萩藩の財政を握った益田元祥の嫁は元春の娘であり広家の姉妹だし
輝元の姉婿の吉見氏に養子に入ったのも広家の次男だし

なんだ、江戸初期はけっこう大事にされてんじゃん、吉川
ほっこりしたw

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 00:31:52.37 ID:jNZKzdb4
こういうのはあくまで政略結婚だろ。感情が入り込む余地がない
てか秀元系になってから軋轢が生じたってことは
裏を返せばその時代まで関ヶ原の因縁が根絶しなかったってことじゃないの

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 00:39:55.65 ID:iZwvPy1k
>>946
毛利宗家と吉川家との軋轢は江戸後期からであり、それも江戸期においてのいきさつが積もり積もった
面のほうが大きい。
さらに言えば関ヶ原後吉川広家と毛利秀元は完全に連携して輝元を支えており、そこに確執は
全く見られない。

さらに言えば、関ヶ原云々を言い出したのは幕末、親幕府的だった吉川家岩国藩に対し
本藩の反幕府過激派が罵倒として言い出したことであり、決して歴史的にそう言われたことではない。

過程をすっ飛ばして、結末から過去を類推してはいかんよ。

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 01:57:45.55 ID:smQJjfNe
相変わらずためになるスレだ

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 08:03:30.77 ID:VeOVHRRz
毛利家文書に、広家と秀元の仲を輝元が取り持ったときの書状とかがあるから、
確執がまったくなかったってわけでもないんだろうね
険悪な状態だったからこそ輝元がテコ入れしたんだろう
本人同士はどうあれ、少なくとも家来たちの衝突はあったみたいだ

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 10:42:53.67 ID:izhjoEs0
>>947
なんで毛利本家は岩国藩だけ藩として幕府に届け出なかったの?

徳山藩、長府藩の藩祖よりも若干家格が下だからかな?

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 10:54:54.18 ID:IP4dQZ5g
>>950
まあ、いたって正当な理由ではあるな。
吉川広家は『吉川』元春の子供であって毛利家の子供じゃないしな。

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 11:00:48.84 ID:5HCtQl0O
逆に言うと、なぜ元氏は毛利姓になったんだろ?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 11:21:02.24 ID:iZwvPy1k
>>950
岩国だけじゃないぞ?長府や下松もあくまで本藩支配下の支藩としているわけで。

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 19:17:26.85 ID:+urX3RXs
>>953
いや、長府や徳山は「支藩」にはなってるわけでしょ?
岩国はなってないので、本藩の家老の領地とかと同じ扱い。

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 19:27:21.21 ID:iZwvPy1k
>>959
この通りだと思う

> 元々輝元の養嗣子でありながら、輝元の嫡子誕生によって豊臣政権から分知を認められて大名としての
> 資格を得ており、宗家継承権も有していた秀元の長府藩や、輝元の実子である毛利就隆の徳山藩の両藩と
> 輝元の従兄弟である広家との血縁の親疎を考えた場合、輝元の子を祖とする長府・徳山と
> 庶家の1つでしかない岩国の間に処遇が違いが発生する余地はあり、岩国藩吉川家が冷遇されたというより
> 長府藩毛利家の家格が上昇したと見た方が適切との見方もある
>
> (参照:脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』(1993年、雄山閣
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E8%97%A9

毛利家、賤ヶ岳の裏で

2011年10月05日 22:03

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:51:34.89 ID:ipCvu13n
天正11年4月、近江では賤ヶ岳の戦いが進行していた。

さて、柴田勝家は3月より備後鞆にある将軍足利義昭と連絡を取り、義昭の上洛を支持し、
義昭を通じて毛利が対秀吉の軍を出すことを求めた。
ちなみにこの義昭の上洛に関しては、徳川家康も支持を表明しているので、かなり大掛かりな
政治的策動があった模様である。

この義昭よりの要請に毛利家当主毛利輝元は、談合衆(毛利家最高幹部)の吉川元春小早川隆景
福原貞俊に意見を求めた。

彼らの出した結論は

『両軍の強弱が解らない以上、我らは両方にいい顔をして、動静を見守っているのが良いでしょう。』

方針はそのように決まった。

現実的といえば実に現実的、野心がないといえば実に野心の無い、なんとも毛利的な政治判断と言えるだろう。
(毛利家文書)




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 00:10:45.93 ID:wZjgziK+
佐竹さんが羨ましそうな眼差しでこちらを見ています

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 08:50:36.51 ID:+/YwN+r7
関ヶ原とは状況が違うから比較できないけどな

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 15:58:58.06 ID:EJ5Trvwq
よっぽど秀吉軍がトラウマだったのか?