970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/10(水) 01:11:47 ID:q4JQeDWc
意外にもこれがまだだったな
毛利元就は尼子と断交し、大内の傘下に入った。
英雄、尼子経久から家督を継いで間もない孫の晴久をはじめ、尼子家中はこれに怒り、「毛利討つべし!」との
声が大きくなった。その中、一人反対した者がいた。晴久の叔父、経久の弟、尼子久幸である。
「元就は、お前たちが考えているような、簡単な相手ではない。」
ここは戦よりも、外交的解決を図るのだ、と言う久幸に、主戦派は怒った。たかだか安芸の一国人に過ぎぬ
元就ごときに、数ヶ国を領する大尼子がなめられたままでよいと言うのか。
この久幸、かねてより、物事を戦にならないように謀り、経久の頃でさえそれが無謀と考えれば、その戦に
反対していた。
「下野守(久幸)殿は戦が恐ろしいのじゃ!だからいつも戦に反対しなさる。臆病野州と呼ぶが良かろう。」
臆病野州。あるいは野州比丘尼。主戦派は彼のことをこう呼び嘲った。彼はこの屈辱にじっと耐え、あくまで
この戦に反対したが、天文9年(1540年)、晴久はついに毛利征伐の命を下した。
尼子三万の兵が毛利家の本拠、吉田郡山城を攻めたこの戦い、当初の目論見に反し尼子は攻めあぐね、
天文10年正月十三日、尼子軍は毛利軍の猛攻と大内からの援軍の背面攻撃を受け大混乱に陥る。
このままでは、撤退も出来ず全滅もある。絶望的な状況の中、尼子側の一部隊が突出した。尼子久幸であった。
「臆病野州の最期を見よ!」
久幸は敵に突進し、先ず大内の軍を蹴散らした。大内軍は名のある家臣、深野平左衛門、宮川善左衛門が
あっという間に討ち取られた。後世に語り継がれたほどの、恐るべき武勇であった。
久幸のこの奮戦により、尼子は混乱状態から体勢を立て直す余裕が出来、退却をはじめた。
彼は、尼子の撤退を支援すべく暴れまわったが、毛利家臣、中原善右衛門尉に射抜かれ、討死した。
臆病野州と呼ばれた男の奮戦は、尼子軍の誰よりも、あれこそもののふであると、敵である毛利、大内両軍から
すら、高く称えられた。
意外にもこれがまだだったな
毛利元就は尼子と断交し、大内の傘下に入った。
英雄、尼子経久から家督を継いで間もない孫の晴久をはじめ、尼子家中はこれに怒り、「毛利討つべし!」との
声が大きくなった。その中、一人反対した者がいた。晴久の叔父、経久の弟、尼子久幸である。
「元就は、お前たちが考えているような、簡単な相手ではない。」
ここは戦よりも、外交的解決を図るのだ、と言う久幸に、主戦派は怒った。たかだか安芸の一国人に過ぎぬ
元就ごときに、数ヶ国を領する大尼子がなめられたままでよいと言うのか。
この久幸、かねてより、物事を戦にならないように謀り、経久の頃でさえそれが無謀と考えれば、その戦に
反対していた。
「下野守(久幸)殿は戦が恐ろしいのじゃ!だからいつも戦に反対しなさる。臆病野州と呼ぶが良かろう。」
臆病野州。あるいは野州比丘尼。主戦派は彼のことをこう呼び嘲った。彼はこの屈辱にじっと耐え、あくまで
この戦に反対したが、天文9年(1540年)、晴久はついに毛利征伐の命を下した。
尼子三万の兵が毛利家の本拠、吉田郡山城を攻めたこの戦い、当初の目論見に反し尼子は攻めあぐね、
天文10年正月十三日、尼子軍は毛利軍の猛攻と大内からの援軍の背面攻撃を受け大混乱に陥る。
このままでは、撤退も出来ず全滅もある。絶望的な状況の中、尼子側の一部隊が突出した。尼子久幸であった。
「臆病野州の最期を見よ!」
久幸は敵に突進し、先ず大内の軍を蹴散らした。大内軍は名のある家臣、深野平左衛門、宮川善左衛門が
あっという間に討ち取られた。後世に語り継がれたほどの、恐るべき武勇であった。
久幸のこの奮戦により、尼子は混乱状態から体勢を立て直す余裕が出来、退却をはじめた。
彼は、尼子の撤退を支援すべく暴れまわったが、毛利家臣、中原善右衛門尉に射抜かれ、討死した。
臆病野州と呼ばれた男の奮戦は、尼子軍の誰よりも、あれこそもののふであると、敵である毛利、大内両軍から
すら、高く称えられた。
スポンサーサイト