三河一向一揆の講和と大久保忠俊

2011年08月30日 22:11

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/30(火) 18:18:28.99 ID:tHRXCUMQ
三河一向一揆も永禄7年(1564年)になると一揆から吉田現太郎左衛門、蜂谷半之丞、石川善五左衛門、同半三郎、
本田甚四郎といった面々が離脱、家康の優位が決定的になっていった。
さて、この頃一揆の主力の籠っていた土呂の本宗寺は、先に降服した面々を通して、家康に対し講和を
働きかけた。そこで出してきた降伏の条件は3つ

第一・この度一揆に参加した諸侍達の本領安堵のこと。
第二・真宗の道場ならびに僧俗共に、元のように立て置かるべきこと。
第三・一揆の張本人、一命を助けられるべきこと。

この条件を受け入れてもらえれば、今後家康に対し忠節をなし、未だ抵抗を続ける上野城も自分たちで攻め落とし、
さらに諸方の残党たちも尽く退治し、忠勤をなす。
土呂の一揆勢はこう言ってきたのだ。

この事を老臣・大久保忠俊より聞かされた徳川家康は即座にこれを拒絶する意向を示した。
徳川家中を二分するほどの内乱を起こした一揆勢にとってあまりにも都合が良すぎる、そう思ったのだ。
が、ここで大久保忠俊が強いて言上した

「殿の御憤は御尤の事です。しかし、ここはよくよく、今後のことも含めてお考えください!

第一に、このように国中騒動に及んでいるうちに、もし他国から攻め込まれれば、内外の敵に挟まれ
御家の存亡は計りがたく、例えそういったことがなかったとしても、考えてみてください、今度の一揆の
勃発により去年の冬以来我が御家は、他国に進出することが出来なくなりました。
これは非常に嘆かわしい状況です。

そもそも、今度の一揆に遺恨を言うなら。この常源(忠俊)こそ1番でしょう。
私はこの一揆との戦いで子供や孫たちを始め、親類たちが数多く討死致しました。
この老齢になってからの私の嘆き悲しみは、言葉にすることもできません。
ですが、これも全て殿様の御為である以上、例え子供たち全てが相果てるような事になろうと、
決してそれを厭うものではありません。

その上で申し上げます。なにとぞ一揆共の御願いを、言った通りに了解され、残らずお宥しなされてください。
そして一日も早く、再び御家が他国に進出できる態勢を整えてください!」

そう、涙を流して訴えた。

家康はこの大久保忠俊の言葉に深く感じ入り、しばらくしてつぶやくように言った。
「いかようにも、お前の良きようにせよ。」

これにより2月28日、ついに和平整う。三河一向一揆はついに収束した。

大久保忠俊が、家康に講和を受け入れさせた事の逸話である
(三州一向宗乱記)




340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/30(火) 19:29:41.25 ID:IgoapiSr
忠俊さんは、この人の行動がひとつ違ったら徳川の行く末が全く違っただろう
っていう分岐点に必ずいた気がする。

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/30(火) 21:08:57.19 ID:hUKiH2sX
でも、この後、家中の一向宗徒を強制改宗させた上で、
「真宗の道場、元のように」更地にしちゃったんだよね。
一向一揆を半年程度で後腐れなく収めたケースとしては
いい話なんだろうけど。

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/30(火) 21:10:46.01 ID:ZstUeY06
むしろそれだけで済んで良かったんじゃないのかな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/30(火) 21:21:47.38 ID:4HyhmfHc
>>341
面白いなー

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/30(火) 21:24:31.88 ID:o7d314sJ
>>341
一向宗の道場というのは、記録などでも「城」と表現されることがあるように、大規模な堀と土塁を要した
要害設備だったと言っていい。なので領主としては何にかあればそこに篭られては困るので、破却は
領主の立場としてはしょうがなかったと思うよ。

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 01:13:41.78 ID:txKEWVJ3
偽和睦は家康の得意技だろ。

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 01:16:34.62 ID:ItUf5VjX
50年経ってもなw

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 01:25:16.75 ID:hGB7AKfa
更にこのときの事を根に持ってあとで大久保一族を・・・gkbr
まさに安心の家康クオリティー

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 01:33:18.92 ID:zCy8ZROv
そんな無理矢理悪い話に持っていかんでも

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 02:04:34.51 ID:IpxZHOjQ
ちなみに一応言っておくと、大阪冬の陣の和睦に関しては内堀の埋立も含めて最初からの条件通りだったと
現在はほぼ証明されている。

350 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/31(水) 07:38:35.51 ID:mLoQ80MG
それ本当かよw


てか徳川家の元通りってのは怖いなw

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 08:02:18.93 ID:SJXJRt7D
武士の嘘を武略といい、坊主の嘘を方便というからな
この時代だまされた方が悪いと言うことなんだな

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 13:29:43.45 ID:vTv6p+M0
>>341
26歳のやることじゃねぇよなw
後の大坂攻めの破却の件を彷彿とさせる無理やり加減が恐ろしいww

>>348
悪い話?
いい話だろ、武士的には。

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 13:48:49.52 ID:II1bBQ/N
別にそれくらい当たり前のことだよw

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 13:58:39.55 ID:v+j4tj8Q
>>352
そんなに褒めるなよw

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 15:52:49.19 ID:fG7f1JDA
>>350
>徳川家の元通りは恐ろしい

三歳「3回粗相をしたら、その家臣は元通りにしてやろう」

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 16:16:44.55 ID:LQ7cubPB
偽和睦というと信長が有名だけど江戸期以降の儒学に慣れた基準からすればけしからんってなるわけね
まあ大坂の陣に関しては>>349の言うとおりなんだけど、意外と知らない人多いみたいだねぇ
ただ有能さというものがお行儀の良さよりも優先される、実力主義の時代だったんだよな
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大久保弥三郎は寝言癖があったらしい

2010年03月19日 00:08

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/17(水) 23:21:20 ID:UxU4nkXu
>>368の関連で

三河において大久保新八郎忠俊が追放された主君忠広の帰還に向けて活動していた頃のこと。
ある時忠俊が二人の弟、甚四郎忠員、弥三郎忠久を呼んで言った

「最近は我々にとって状況も良くなってきたが、決して油断はしてはならんぞ?
特に弥三郎は昼間話したことを残らず寝言で言う様な人間だから、そういう事も心せよ。」

弥三郎、寝言癖があったらしい

「その寝言も我々が聞く分にはいいが、女房に聞かれると大変だ。
女房と言うのは夫のことを悪く言うものではないが、寝言は誰にでも面白いことであるから
大事のことだとは知らないで人に語ったりもするであろう。
そうでないにしてもこういう事は女房にはきかせられないものだ。恐ろしいことだと思い
顔色を変えてぐっとこらえて、返って人に不審に思われたりする。

この事、もししそこなえば妻子一族まで残らず死ぬこととなる。一生に一度の大事だ、心せよ。」

この言葉に甚四郎が
「まあそれはそうとして、弥三郎の寝言ってほんとに面白いよね。」
「こら甚兄、お主までそのような!」
「おいおい、甚四郎も弥三郎も真面目にしろ!まったく、笑い事じゃないんだぞ?」

などと言いながら、三人してどっと笑った。


翌朝

寝言を指摘された弥三郎が、変なことになっていた。

弥三郎「フガフガフガ」
新八郎「ど、どうしたのだ一体!?」
弥三郎「フガフガガ」
甚四郎「ふむ…なになに?昨日寝言に注意しろと言われたので…、寝言を言わないよう顎をくくりつけようと、
     帯を顎の下に通し頭の上できつく結んで寝た…」
弥三郎「フガガ」
甚四郎「それで朝起きてみると、顎がきかなくなっていた!?」
弥三郎「フガ」

新八郎・甚四郎「…」


   ぷ


早朝の大久保家、にわかの大笑につつまれた。松平忠広の岡崎帰還が決行されるのは、この三日後のことであった。
そして関係ないがこんなどうでもいいことをわざわざ記録した大久保彦左衛門の文才は本物だと思った。




404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/18(木) 07:50:36 ID:HivtgOkh
彼にはエッセイストの才能があるなw

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/18(木) 08:06:36 ID:QTTdS4zE
亭主が帯で顎縛って寝てる時点で嫁さんのネタにされるだろw

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/18(木) 12:48:33 ID:pp9yoI1Y
>>405
「うちの旦那ったら、何を考えてんだか紐で顎縛って寝てんですよw」
ってのと、
「うちの旦那ったら、寝言でご主君の帰参も間近って言ってるんですよ。ご主君はきちんといらっしゃるのにねぇw」
だったら、前者は単なる笑い話だけど、後者は機密情報漏洩だから、ヤバさが格段に違う。

419 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/18(木) 20:04:05 ID:3hvMDSot
>>403
三河物語か?

大久保新八郎忠俊と「七枚起請」

2010年03月18日 00:02

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/17(水) 00:15:56 ID:UxU4nkXu
天文四年(1535)、松平清康の陣中における突然の落命、いわゆる「森山崩れ」は、西三河に大きな動揺を巻き起こした。
清康のあとを嫡男広忠が継いだものの、大叔父にあたる一門の有力者松平信定はそれを認めず自らが松平家総領を名乗り
広忠を三河より追放。広忠は少数の家臣と共に伊勢に落ち延びた。

しかし三河に残った松平家臣団の中にも、広忠の三河復帰を画策する者たちが少なくなかった。
その活動の中心となったのが、大久保一族の惣領、大久保新八郎忠俊であった。

そんな大久保忠俊を信定は強く警戒する
「もし広忠を岡崎城に入れるものが有るとすれば、それは他の誰でもない、大久保だ!」
そのように考え、信定は忠俊をわざわざ伊賀の八幡に呼び、八幡神の前で

『私は決して広忠を岡崎に戻さない』

と七枚起請を書かせた。この七枚起請とは、熊野牛王の誓紙7枚を継ぎ合わせて書いた起請文で、
誓紙の中でも最も厳重な形式のものである。

大久保忠俊は誓紙を書いて自宅に戻ると、弟の甚四郎忠員、弥三郎忠久を呼んで言った

「お前達もう聞いたか?信定というのは全く馬鹿げたことをやる奴だ。
あいつは私に伊賀の八幡の御前で「広忠を岡崎に戻さない」と七枚起請を書かせた。馬鹿者にもほどが有る!」

これを聞いた弟たち、笑って、
「我らは主君広忠様を迎え入れ家督を継いで頂くために、この岡崎にとどまりました。
起請を破れば死後罰を受けて地獄に堕ちるそうですが、起請の通りにすれば、こっちは主に背いたということで
七逆罪となります。

どっちみち罰を受けるのなら、主君を世に出し思い残すこと無く罰を受けましょうよ。
なあに、兄上一人の罰ではない。起請で信定が油断するのなら、兄弟三人地獄に堕ちるまで、百枚でも千枚でも
起請を書きましょう。そうしてなんとしても、広忠様を岡崎にお入りになって頂きましょう!」

百枚でも千枚でもと言ったが、信定はまだ不安で、その四、五日後本当に

『一度の起請では心もとないのでまた伊賀の八幡の前で起請を書け』

と言ってきたのだ。更にその四,五日後にも。忠俊は計3回、七枚起請を書かされるはめになった。


天文11年(1542)5月31日、大久保忠俊たちは松平広忠の岡崎帰還を実現させる。この時信定

「広忠を引き立てたのは他の者ではありえない!大久保の仕業であろう!
腹を斬らせておくべきだったのに、伊賀の八幡の御前で七枚起請を三度も書かせたので
油断をしてしまった!残念至極だ!!」

と、地団駄を踏んで悔しがったそうである。
しかし信定が私の野望のために神を使った罰が当たったのではないだろうか、そんな事も
思わせるお話である。




371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/17(水) 00:41:21 ID:3m+GlTY2
>>368
神も家臣も信じられず何枚も書かせるからごらんの有り様だよwww

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/17(水) 03:31:45 ID:ra6k1jj/
神仏に誓ったのであなたとの約束は守ります!
なんてことになると思ってたのだろうか…