右衛門塚

2010年03月21日 00:00

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/20(土) 18:44:52 ID:GopwGXGs
右衛門塚

永禄十一年(1568)、今川氏真は武田信玄によって駿府を追われた。
今川家譜代の重臣たちもことごとく寝返り、氏真が向かう先は、今もまだ氏真を支える姿勢を明確にしている
朝比奈泰朝が守る掛川城しかなかった。

掛川城に氏真が入った。これを聞いて急ぎ掛川に向かったのが、氏真の寵臣、三浦右衛門佐義鎮である。
義鎮は今川義元の時に見出され、氏真の代になって重用された一代取り立ての臣であった。
その恩故であろうか、彼は最後まで氏真と運命を共にしようと一族郎党70人余りを引き連れ掛川城へとはせ参じた。
ところが、である

掛川城主朝比奈泰朝は、義鎮の入城を拒否した。

朝比奈泰朝と義鎮はかねてから仲が悪く、駿府において出会っても、面をそむけて擦れ違うほどであったと言う。
それだけではなく譜代重臣の家柄である泰朝としては、義鎮のような取り立ての氏真側近が今川家を誤らせ
今のような事態に陥れた、と言う気持ちが強かったのであろう。

主君氏真が間近にいながらどうにも出来ない義鎮は、肩を落とし仕方なく、妻菊鶴の兄で今川家臣、小笠原信興に
仕える四ノ宮右近の元に向かった。
とりあえず小笠原家の元に身を落ち着けよう、と言うことであった。が、

四ノ宮右近は暖かく義鎮を迎えたと言う。ところがその主小笠原信興は義鎮がいることを知るや、すぐに追っ手を差し向けた。
信興はこの時既に、徳川家康に通じていたのだ。

「もはやこれまで」

義鎮は追っ手が迫っていることを知ると、妻とともに自害して果てた。
彼の連れてきた一族郎党70余人も、あとを追って皆ことごとく自害したそうだ。


三浦義鎮とその一党七十余人の遺骸は付近の村人によって沓掛原に運ばれ、そこに埋葬された。
その場所は今も、右衛門塚と呼ばれる。

最末期の今川家の政務を一手に担ったといわれ、奸臣とも呼ばれた三浦義鎮の、その最後である。




448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/20(土) 19:28:57 ID:UVuR1iCX
>>447
可哀そうな最期だな
氏真様もちょっと口添えしとけばよかったのに…
逆効果かもしれないが

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/20(土) 19:35:25 ID:Yliw6vLD
氏真さん何してたんだろ?
リフティング練習?

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/20(土) 19:46:11 ID:lCGJmAmu
朝鮮まで行って延々とリフティングして人じゃあるまいし

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/20(土) 19:49:03 ID:p7bC8CVb
この人、武田の長坂長閑斎と被るんだよね。
奸臣扱いされたり最後まで忠節尽くしたのにそのことを忘れられたりと。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/20(土) 19:54:53 ID:iyzWtRb+
忠誠尽くして死ぬのも奸臣の務めだろ

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/20(土) 22:04:43 ID:YN3BMIOM
久武親直「そうだよね~」
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