fc2ブログ

「朝野雑載」から伏見城の戦いにおける甲賀衆

2023年02月16日 19:29

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/16(木) 18:52:52.58 ID:7PzQHc1V
朝野雑載」から伏見城の戦いにおける甲賀衆

名古屋丸には甲賀佐左衛門などが守備に入った。
この甲賀は瀬田の城主・山岡道阿弥(山岡景友、神君伊賀越えの協力したともいわれる山岡景隆・山岡景佐兄弟の弟)の末子であり、
道阿弥は家康公に御見方していたため、与力同心を召し連れて伏見城に上り、名古屋丸を固めていたという。
また松の丸は深雄清十郎、太鼓の丸は佐野綱正、上林竹庵(宇治の茶師)がかためていた。
小早川秀秋鳥居元忠にひそかに書状を送り、家康公に味方したいためともに籠城したいと申したが、鳥居は承知せず
「それほどまでに意志が堅いのであれば関東へ御注進なされよ。籠城は断り申す」
とのことだったので、秀秋の家老平岡頼勝は黒田如水の縁者であったため、平岡の家来をひそかに関東に遣わし、黒田長政に秀秋の内通を申し上げたそうだ。
伏見城の東は宇喜多秀家、増田長盛、石田三成、長束正家(陣代は家所帯刀、武者奉行は伴五兵衛)などかれこれ一万人が攻めた。
周囲から昼夜の境もなく攻めたけれども、城兵堅固で持ちこたえて七、八日過ごした。
長束正家の軍勢の中に鵜飼藤助というものがいた。
彼は松の丸に籠った甲賀の者の一類であったため、松の丸に矢文を射込んで
「面々が籠城しているため、在所に置いてきた妻子をとらえ水口において磔にかけよう、と長束正家殿がおっしゃっている。
近々に妻子らを召しとる手筈である。
もし返り忠をなしてその郭を焼き立てれば妻子の命は助けられるのみならず、汝らに恩賞もあるだろう」
と伝えたところ、甲賀の者どもは大いに驚き、永原十内、山口宗助一族四十余が同意して
「それならば明夜亥子の刻に必ず火の手を上げよう。その時に攻められよ」と返答した。
こうして翌日子の刻に松の丸に火の手が上がったため、城兵は意気消沈し、寄せ手はついに城中へ乱れ入った。
松の丸をかためていた深尾清十郎は戦ったが生け捕られ、のちに大坂で誅されたという。
また名古屋丸の松平近正も小早川秀秋の家人、比奈津角助五左衛門と島田勘右衛門により討ち取られた。
松の丸、名古屋丸の攻め落とされ、三の丸の松平家忠(「家忠日記」の作者)も供とともに三度まで突き出たが討ち死にした。島津義弘の家人である別所下野が首をとったという。
(このあと内藤家長、佐野綱正、鳥居元忠の奮戦と討ち死にの記述)

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/16(木) 19:03:21.00 ID:7PzQHc1V
長束正家配下の伴五兵衛については、同名の甲賀忍者が「甲賀衆肥前切支丹一揆軍役由緒書案」によれば、島原合戦の時に敵陣を偵察している。
(落とし穴におっこちた甲賀忍者の望月与右衛門らを背負って脱出)
上ノ郷城の戦いについては大河に出ていた伴与七郎のほか(家康の感状がある)、鵜飼孫六という甲賀忍者も参戦していたとか。
伴も鵜飼も甲賀二十一家だけど、上ノ郷城攻めでは家康方として、伏見城攻めでは長束正家配下で西軍として戦ったことになる。
ついでに上ノ郷城攻めでは、神君伊賀越えの時に手助けしたとされる多羅尾光俊が甲賀忍者を派遣したと言われる。



スポンサーサイト



長束正家、最後の模様

2013年07月09日 19:50

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/09(火) 18:13:17.65 ID:KgHgRreq
正家は後事についての遺言を書き残し、家人奥村左馬・西川兵庫・小西
治右衛門・長束与十郎らに形見を与え、白装束で切腹の座についた。

池田(備中守長吉)・亀井(武蔵守茲矩)に向かい「ここまで御出でいた
だきご苦労な事です。それでは今生の暇をたまわりましょう」と告げ、
切腹しようとしたところで、長束は再び両人に向かって「それがしの
家来奥村左馬は身近くで召し使ってきたものであるので冥途の供をする
覚悟と見えます。しかし無益の事でありますから殉死を留めて頂きたい」
と懇ろに言い残して切腹した。

奥村左馬は介錯したその刀を腹に突きたてようとしたが、(池田)備中守
家人武蔵掃部・瀧川織部らが間髪入れずに飛びついて刀を奪い、色々と
教訓したので奥村も力なく承引した。後に寺沢志摩守が召し出して領地
千石を与えられたと言う。

(關原軍記大成)

長束正家の最後の模様である





長束正家の丹羽時代

2012年02月21日 21:51

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 15:24:43.89 ID:KPCabQ3p
今度は長束正家の丹羽時代

長束藤兵衛藤原正家は近江の産。彼は英才俊逸にて将帥の器量、勇謀は常の人のものではなく、
その上天下無双の算術の使い手であった。

かれは若年の頃から諸国を遊歴し、ある時、未だ小身であった丹羽長秀に、僅かの切米(サラリー)で
召し出された。この時正家は

「一人の食はこれで足ります」

と、長秀に仕えた。

以後、長秀の軍事を助けたが、その戦功、謀才は比類なく、まさに将帥の器量であり、
おいおい加増され、長秀が近江に転封になった頃には千石となった。
しかしそれとて、正家のそれまでの軍忠功労には全く足りない僅かなものであったが、正家は不満を
漏らすこともなく、むしろ諸臣を上回って戦功忠貞にいささかも怠ることがなかった。

天正に至ると、丹羽家世子鍋丸(長重)7歳にいたって、これに補佐の良臣を選ぶこととなった。
長秀は深慮により誰にも相談すること無く、突然正家に1万石を与え、棟梁の職の補佐として、
鍋丸に付くことを命じた。

この大抜擢に丹羽家の諸老臣はこの人事を喜ばないこと、甚だしいものだったという。
しかし正家は実直に長重を補佐した。

この、比較的軽輩であった正家を、俄に重職に付けたことは、後年太閤秀吉が、丹羽長秀の深慮の
素晴らしさであると、徳川家康に物語ったそうである。


(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)





49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 15:34:09.28 ID:0g2MJ6pw
最後に負けちゃったから算盤得意な官僚みたいな認識になっちゃったんかね

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 16:56:36.20 ID:JsKOu3DC
>>49
実際には、軍功は無かったような。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:09:31.57 ID:RQ7L1Xdl
>>48
正家の嫁さんが本多忠勝の妹らしいんだけど
忠勝は正家の助命嘆願しなかったのかね?

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:18:05.51 ID:dfb/uBpK
信之が東軍だった真田は擁護もできるがなぁ
思いっきり西軍に付いた上に伏見攻めの動きがある以上嘆願のしようが無いでしょ

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:27:47.03 ID:2aJOXZC0
>>54
謎が多いんだよな>長束正家の妻
本多忠勝の父は、忠勝が3歳の時に亡くなっているから、異父妹なんだろうがそれでも
長束正家と歳が離れていると思うし、真田家と違って積極的な交流をした痕跡は無いし

長束正家が秀吉家臣になった過程

2012年02月20日 21:56

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:19:56.53 ID:nLmDcz47
天正13年(1585)、越前の丹羽長重は家臣が佐々成政と内通したとの疑いにより、羽柴秀吉によって
改易された。丹羽家の家臣団は解体し皆流浪の身となったが、秀吉は、自分への謀反に関わっていない
忠孝の士は召し出すと伝え、中でも長束正家に対しては、別して自分に仕えるように要請した。

しかし長束正家はこれを固辞し、丹羽長重が転封された若狭に供奉し続けた。
この正家の態度に秀吉は激怒し、丹羽長重がこれをさせていると判断した。そして長重の元に

『お前は長束正家の事に関して、上意に背くつもりか!?』

と疑念を伝えた。これに驚いた丹羽長重は正家を説得し、秀吉のもとに上京させた。
秀吉は正家を召し出すと、以ての外の形相で叱りつける。しかし正家は少しも恐れず、こう、申し上げた

「仮に秀吉公に召しだされたのが、故越前守(丹羽長秀)の御在世の頃であったなら、わたしも有難き仰せであると、
すぐにこれをお受けいたしたでしょう。ですが今、我が主君長重は至って若輩であり、特にこの度、亡主長秀の
封国を召し上げられ、長秀の旧功ももはや効力を持ちません。

このような状況で年若の主を見捨てて、秀吉公の碌を拝領するなど出来る訳がありません!

この度長重が受けたお疑いに関しては、私が今説明したように、長重には全く身に覚えのないものであります。
もしこれで主人長重への疑いが解けないというのなら、私はたとえ、命を奪うとと言われても秀吉公の
御要請を受ける事はできません!」

これを聞くと秀吉はしばらく黙り込んだ。そして表情を和らげ

「お前の言ったこと、全て受け入れよう。長重に罪はない。ただし逃げ去った逆臣共を召し捕らえるまでは、
その旧領は預かり置く。
誓って長重に対して疎意は無い!」

そう懇切に語りかけた。この天下人の言葉に正家は平伏し、ここで秀吉に奉公することとなった。


長束正家が秀吉家臣になった過程である。

(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)




31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:23:12.36 ID:vI3rFB5f
全盛期の秀吉だな

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:25:52.76 ID:blQA/Yqh
預かったまま返さない所がラスボスだな。


33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 18:28:35.55 ID:UWar5jKR
丹羽家の石高長秀亡くなったあたりの時代はたしか百万石超えてたよな
長重が相当な器量じゃないと秀吉じゃなくて家康だとしても召し上げだろうよ

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 20:41:14.76 ID:LpPsIjhQ
前田家も利家が秀吉より先に死んでいれば半分以下になってだろうね
かつ関ヶ原まで生きていれば取り潰されたかも
上手い時期に死んだよなあ

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 20:57:53.49 ID:Lb8o9tNP
家を考えると秀吉より先に死ぬわけにはいかん!と必死に養生してたんじゃないかと思ってしまうw

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 21:02:35.87 ID:bkyxPwdY
利家さんって、ラスボスの悪行に対してストッパーになったことあるのかしら?

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 21:32:03.20 ID:G8DkWrOh
長重が1571年生まれで長秀が死んだのは1585年
その時点での長重が相当な器量を見せてたらむしろ警戒されるよな

病床の親父の代わりに出陣したりしてるだけでも立派なもんなのに

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 22:14:00.81 ID:LX5lPerm
丹羽家が駄目だったのは、長秀に優秀な親戚が居なかったから。
堀家の堀直政や龍造寺の鍋島のように。
同じように蒲生ちゃん家もかわいそう。

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 22:45:14.72 ID:6vZ1ILT0
でも何とか大名に返り咲いてんだよな

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:02:25.26 ID:IQuINJMQ
>>39
長重は徳川秀忠と「深い仲」だったとかなんとか…

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:18:19.83 ID:G8DkWrOh
長重の母親は織田信広の娘、妻は信長の娘だからな
縁戚に頼るどころか逆に丹羽家が守らなきゃいけなくなってる

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:20:03.85 ID:v4XNkNyx
親も息子も人並みの器量ならば、
跡継ぎは20代後半に作って60歳過ぎで死ぬのが最もいい世代交代だな。


43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 09:24:37.09 ID:KWQMo+UP
>>38
森家の場合は末弟に跡継がすなと長可が言い残したのに
感激されながら継ぐことになったんだっけ

かがみん超優秀

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:05:00.20 ID:1OKi15MZ
>>34
利家は、秀頼の傳役を確保した時点で安全圏だろ。

それまでは、量産型中納言の中でも下位だったのが
大納言に任命されてランク急上昇だしな。

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:08:21.94 ID:3F2J2OTb
柴田から自分にひよったりしているのに、前田頼っちゃうのな

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:18:34.59 ID:Vi4JJYHc
若い頃からの友達だったからというのもあったかもな

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 12:32:21.49 ID:WDpK0d5P
>>44
秀吉より先に死んでいた場合、傅役だからとか関係なくなるだろ
利家の子じゃ当てにならんし

織田信澄討伐顛末

2011年10月22日 22:03

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 22:02:09.69 ID:nVKMcVLq
天正十年(1582)六月、丹羽長秀織田信孝の四国攻めの補佐として大阪にあった。
ここに、明智光秀が京の本能寺、および妙覚寺において、織田信長・信忠親子を弑殺したとの情報を得る。
長秀は切歯扼腕し、信孝と共に大逆の光秀を討つことを議した。
この時、織田信澄は、彼が明智光秀の婿であったのでこれを大阪の守備に残し、長秀・信孝は馬を走らせ
森口まで進んだ。

しかし、織田信澄はやはり明智光秀に与していた。

信澄は長秀たちが出陣すると密かに伊丹の一揆を大阪に呼び寄せ、長秀勢が明智との合戦に及べば
この一揆勢を持って挟撃する、という密謀を進めていたのだ。

時に、大阪に残っていた丹羽長秀の家臣である長束藤兵衛正家がこの情報を察知した。

長束はすぐさま急使を立て森口の長秀に伝える。長秀は知らせを聞いて驚愕し、すぐさま信孝の元へと行くと

「信澄は大賊の婿であります!更に長年それと親しんできました。先ずこれを誅するべきです!」

信孝も同意し、軍勢を大阪に返し、信澄の居る大阪城(本願寺の跡地に作られたものだろう)を、
信孝は搦手より、長秀は追手より攻め立て、ついに信澄を千貫櫓にて討ち取った。
ちなみに信澄の首を取ったのは、長秀の家臣、上田左太郎重安(宗箇)であったという。

時に六月六日。これこそ賊魁明智光秀に打撃を与えた、最初の一撃であった!
…と、丹羽家では記録している。

なにげに10年ほど後には有名になる人たちが活躍している、丹羽家においてはこう事になっていた、という、
織田信澄を討ち取った顛末である。
(丹羽家譜)




425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 22:36:17.23 ID:Mukm8SQ5
胸糞悪い話だ

島津義弘の撤退と長束正家の家臣

2010年06月01日 00:05

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/31(月) 21:34:53 ID:tzPu8f7K
関ヶ原の戦いで石田・小西・宇喜田・大谷など西軍諸隊が総崩れになる中、
ただ一隊、陣を崩さずにいた島津勢は壮絶な敵中突破→退却戦を敢行する。


陣していた北国街道から主戦場を南下して、伊勢街道に抜けようという計画
だったが、西軍総崩れの報により前進する徳川本陣の傍を通り抜ける形となった。
交錯する部隊が島津勢と知った井伊直政・松平忠吉・本多忠勝の軍勢が追撃するも
井伊・松平は負傷、本多忠勝も馬を撃たれて落馬する。しかし、自軍も島津豊久、
長寿院盛淳らをはじめ、多くの兵を失っている。


ようやく徳川勢の追撃を振り切った島津勢だが、今度は行く手に別の軍勢が現れる。
南宮山方面から退却してきた長束正家や長宗我部盛親の軍勢である。
同じ西軍ではあるが、寝返りの可能性がある。島津維新入道は両軍勢の去就を疑い、
伊勢貞成を撤退挨拶役として派遣し、彼等の真意を問い質した。

使者に立った伊勢はまもなく一人の騎馬武者を連れて帰還する。
結局、長束・長宗我部勢ともに自軍の退却で一生懸命であり、島津勢に害意はなしと
いうことであった。


同行した騎馬武者は長束正家の家臣であった。彼は言う。

「島津殿は地理不案内とお見受けする。我が主正家はほど近き近江水口の領主。
 地理に詳しゅうござる。それがし、主より島津殿ご案内の役を仰せ付かった。
 さあ、参りましょう。」

長束正家は自軍敗走の最中、遠方から来た島津勢のため親切にも道案内役を付けて
くれたのである。案内役は翌日の夜明けまで島津勢と行動を共にし別れている。


長束正家、あんまりいい話聞かないけど、こういうこともしているんですね。
奥さんが本多忠勝の妹っていうことも知りませんでした。




411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/31(月) 21:37:37 ID:Kb4DFEO2
>>410
自軍だけでも手一杯だろうに
そういう状況の中こういう細やかな気配りが出来る人って凄いよな

武州忍城攻防戦・速水時之ブチ切れ編

2010年04月04日 00:05

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/03(土) 13:53:40 ID:5Sc1c9z9
ラスボス秀吉の関東仕置きの際、武州忍城攻防戦での一幕。

圧倒的兵力で忍城を囲んだ石田三成の率いる上方勢。
時を移さず攻撃に入るが、堀と沼と田んぼに囲まれ、「登城するのに船を使う」といわれた忍城に、
中々効果的な攻撃が出来ずに苦しんでいた。

一方の攻め口を受け持っていた長束正家、先鋒の速水時之に厳しい言葉の使者を送る。

「他の攻め口からは鬨の声が厳しく聞こえて来るのに、ウチの陣だけは、ただ悪戯に日を費やすの
みだ。いくら難所とはいえ、宇治や瀬田の橋と比べるようなモノではないだろう? 過去の歴史に残
るような武士がおらずとも、この程度の堀を踏み越える者はおらんのか!?」

速水はこの使者の口上を聞き、
「我等の攻めがぬるいと大将よりお叱りを受け、この時之、面目を失った! 各々、命を要らぬと思
う者のみ我に続け! 命の惜しい者は後陣へ退くが良い!」
と配下の軍勢に声をかけると、一目散に敵陣へと駆け込んだ。

が、いくら気合が入っていようと堅い城は堅い城。
あぜ道を一列にならないと進めないような場所で、まともに攻撃など出来はしない。
城からは先頭を突き進む速水時之目掛けて狙撃が繰り広げられる。

その内の一発が、時之をかすめ、彼のすぐ後ろにいた小栗某の胸を直撃した。
小栗は落馬し、助け起こされた時には息を引き取っていた。
時之の側仕え、真下藤兵衛はこれを見てヤバい、力攻めはムリだ、と思ったのか、時之の乗馬の轡
を取り、無理矢理引き返させる。
時之は「おのれ真下! 主命に逆らうとは何たる曲者! 離さぬと討ちすてるぞ!」と怒り狂うが、
それでも真下は怯まず、
「主を犬死にさせぬためなら、手討ちにされるのはむしろ本望である」
と真っ向から言い返した。

一方、叱責の使者に対する速水時之の返答を聞いた長束正家、少々狼狽していた。
「え、えっと……さっきの使者なんだけどね、キミらを励ます為にちょっとキツいコト言ったんだ
ケド、別に責めるつもりはなかったんだ、いや、ホント。だから早まらないで、お願いっ!!」

その、宥めるための使者が速水の陣についた時も、まだ真下と時之の揉み合いは続いていた。
「離せ!」「離さぬ!」
押し問答を繰り広げる、頭に血の上った主従二人。
そんな所に「真面目に攻めろよ!」と言った本人から「さっきの無しね? 命を大事にね? 早まっ
ちゃダメよ?」なんて伝言が届いたのである。
時之、火に油。

「ざけんなぁっ! 他の陣と比べて攻撃が緩いっつったのは誰だ! それは先陣たるオレらの責任だ
ろ! オレらが命を惜しんで攻撃の手を緩めてると思われるのは我慢ならない! オレはここで死ぬ
から、ラスボス様によろしく言っとけ!」

そう言うと、馬の轡を握ったままの真下を切り捨てる為に刀を抜く時之。
慌てて周囲の者がその手を押さえ、真下と共に時之を拘束にかかる。
暴れる時之を皆で宥めている所に、長束正家の帰依が厚い僧が、使僧としてやって来た。

「何たる勇将! 何たる忠士!」
涙を流して速水主従を褒め称え、長束の軽率を謝罪し、今無駄死にするより、後の決戦で励むのが
忠義であると切々と訴えた。
この僧の説得に、ようやく速見時之は刀を収め、真下藤兵衛を許したと言う。
っつーかその時にはもう夕方で、辺りは暗くて皆引き上げていたとか。





三成の佐和山城は空っぽだったが

2010年03月23日 00:05

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 19:38:58 ID:mB+2/skb
金の話といえば関ヶ原の合戦後石田三成の佐和山城は空っぽだったが
同じ五奉行の長束正家の居城には大量の金が残されていたとか。
三成はすべてを投げ打って合戦に臨んだが長束はこっそりため込み金を惜しんだ。




944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 19:51:13 ID:gCMz6UWP
巻き込まれた人と首謀者いっしょにしてやんなや

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 20:02:26 ID:eA3OzKPB
三成は挙兵の中心人物なんだから
それくらい当然なんじゃないの
19万石の身分で五大老筆頭に刃を向けようとしたんだし

長束正家の最後

2010年03月15日 00:06

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/13(土) 22:57:03 ID:bk22E319
長束正家の最後

関が原の合戦で西軍は崩壊した。この時奉行衆の一人、長束正家は退却の途中、東軍である山岡景友の軍に遭遇し
小勢の山岡に散々に打ち払われるなどの醜態を見せたが、
家臣の松田秀宣(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-671.htmlの二)に助けられ、どうにか居城である
水口城に逃げ帰ることが出来た。しかし当然ここにも東軍の追っ手が迫る。
この水口城を担当したのは、池田輝政、長吉兄弟らであった。

池田たちは水口城を攻め立てたが、この城守りの固い要害で、兵も兵糧、武器も豊富であり、
なかなか簡単には落ちそうも無い。そこで輝政は一案を思いつき弟長吉を水口城に派遣した。

長吉は正家に対面すると、言う

「正家殿、あなたと我が兄輝政はお互い幼い時より友達づきあいをしていた、まさに竹馬の友ではあります。
それ故に輝政はあなたと争うことを嫌い、私をここに遣わしました。

率直にお聞きいたします。あなたは今、誰を頼みとして籠城なさっているのでしょうか?

もはや西軍は崩壊いたしました。願わくば速やかにこの城を、我らにお引渡しして頂き、
徳川殿に降参して頂きたいのです。
その折には我ら兄弟が揃って徳川殿に取り繕い、あなたの罪を許してもらい、所領安堵もして頂けるよう
働きかけましょう。
ですが、この事を承諾していただけないと言うのならしかたありません。我らは城に押し寄せ
貴方がたと一戦に及びましょう。」

これに正家も長束家の家中も、先に山岡軍に打ち負けたことも有り気弱になっており、また
先の展望も無いまま籠城するのはやはり無謀であるとも思い、長吉の言葉に従い開城することにした。


すべて罠であったにもかかわらず。


正家が長吉に連れられ輝政の元に到着すると、その場でたちまち捕縛された。
同時刻、城に入った池田の兵により、長束家の重臣である嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞以下6人も
ことごとく召し捕られた。正家はほぞを噛んだが、もはや後の祭りである。

『竹馬の友』

池田輝政は、そう表現した長束正家およびその重臣を、近江日野にて速やかに切腹させ、
その首を京に送った。ちなみに水口城に残された豊富な物資などの財産はすべて、池田長吉が
奪い取ったそうである。

小田原の役、朝鮮の役などで兵站を担当し、天才と呼ばれた男の、その最後である。



253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/13(土) 23:24:38 ID:PVo7wvRz
元々の『竹馬の友』って言葉の出典も確か中国で
桓温って奴が自分の幼馴染を讒言で蹴落とした後に酒の席で
「あいつとは昔は一緒に竹馬で遊ぶ中だったけど、あいつはいつも俺が遊び終わって
捨てた竹馬を後から拾って遊んでた。その程度の男だった。」とか言ったのが元なんだよな
友とか親友なんて軽々しく使う奴はあてにならんのは万国共通か

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/13(土) 23:30:44 ID:ACATTsPi
まぁ完全な讒言ってわけでもないけどな。
殷浩失敗したのは確かだし。

こっちは…完全な虚言だな。
姫路宰相でかいのは一物だけか。

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/13(土) 23:33:56 ID:m2JSWHKp
純粋にワルイハナシダナ-

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/13(土) 23:53:01 ID:2C7Owdfu
池田輝政っていい話なんもねーようなw
政治家としては有能だと思うけどすげぇ嫌な奴だよな

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 00:00:41 ID:GgW+5uru
織田の関係者ですから謀略大好きなんでしょw

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 00:06:57 ID:8iV1vwF+
池田輝政は周りに烈女が揃いすぎてるイメージくらいしかない

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 08:12:34 ID:2KAU5EjE
池田輝政の話ってスカッとする話が何もねーなw
唯一スカッとするとすれば輝政死後に姫路城が徳川家に分捕られたぐらいか

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 08:42:24 ID:g0qv+SD0
>>252
秀吉から、陪臣から大名に取りたてられた者はほとんど消えたね。
残ったのは、立花宗茂くらい。

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 08:54:11 ID:0Wd8rZV0
>>268
藤堂高虎

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 09:01:27 ID:R75MZSMU
鍋島直茂

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 10:19:53 ID:Wgos2T4U
おっと黒田家を忘れてもらっては困る。

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 11:42:26 ID:+dGNWGBE
溝口氏も丹羽旧臣だったよな

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 11:51:23 ID:str7mi4u
秀長、秀次系の陪臣だったやつ入れたら結構いるぞ
田中吉政、桑山重晴、小堀正次、有馬豊氏、溝口秀勝、村上義明など

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 19:35:12 ID:g0qv+SD0
>>273
田中吉政は、すぐに子孫が絶えたけど

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 19:58:35 ID:b0y9jcNS
>>274
まぁおかげで立花宗茂は柳川に帰ってこれたわけだからいいことしたよな