島津家の侍医許儀後、その後

2010年07月18日 00:02

許儀後   
218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 13:54:21 ID:EzEnIzKW
文禄の役の際、島津家の侍医許儀後は明へその情報を伝えた。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3179.html

で、この一件は後に豊臣秀吉の耳に入ることとなった。
一見の事を知った秀吉は…烈火のごとく怒り出した。
秀吉は許儀後を釜煎りにすると言い出し、その為の釜の鋳造を命じた。

この時秀吉を諌めたのは徳川家康であった。
「殿下、母国に唐入りの事を知らせた明人は許儀後だけではございません。
 殿下はそれらを皆釜煎りになさるのですか。」

秀吉の怒りは収まり許儀後は放免となった。
以後許儀後は島津家で大陸問題に関する顧問のような役割を果たしたという。




219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 13:58:27 ID:nuNRa5wI
スパイみたいなもんか。現代だと国家の機密漏らすと普通に法律に触れて罪になりそうだな。

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 14:14:03 ID:gCKeQ8N8
今の日本にはスパイを取り締まる法が無いから大して進歩してないねぇ

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 14:22:17 ID:gC1kehXT
今の日本はスパイ天国すぎて、
各国のスパイの動向が他国にも筒抜けになってしまい
かえって身動きが取れないって話は聞いた。

真偽不詳なうえ戦国には全然関係なくてすまない。

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 16:02:19 ID:A+78dNR5
琉球侵攻なんかも、事前に情報が琉球と明にもだだ漏れだったらしい。
というか明との講和の仲介を頼もうとしてた外交交渉が二進も三進もいかなくなって、「こうなったら征伐して
言うこと聞かせるしかないぞ」という外交官情報が流言込みで流れただけかもしれんが

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 17:37:37 ID:tBq5HXKL
>>221
国家機密の艦船のカレーのレシピが2ちゃんねるに書かれてたり、反日新聞が逐一情報を漏らしてるんだぜ
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許儀後、島津義久に倭寇討伐を訴える

2009年11月21日 00:12

許儀後   
474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 02:03:35 ID:NTQlLadG
倭寇に捕まり薩摩に売り飛ばされた許儀後
島津氏の医師となった後もその事を忘れることはなかった。

1585年許儀後は島津義久に倭寇討伐を訴える。
これを聞き入れた義久は陳和吾、銭少峰ら10名余りの倭寇の首領を殺害し
その妻子を奴婢に落とした。
散り散りになった残党は東南アジアに逃亡し、九州近辺は静まった。

1587年秀吉の九州征伐とともに倭寇は再び騒ぎ始める。
許儀後は義久に随行して関白秀吉に謁見、倭寇討伐を訴えた。
秀吉は命を下して倭寇の首領たちを捕らえさせて斬首し、首級を京に送った
こうして九州の海は平穏を取り戻したのである。




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 02:36:10 ID:NTQlLadG

許儀後は朝鮮役で島津氏の代表として明側の使者と会談したりと
島津氏の中枢に近い位置にいたらしい。

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 07:14:48 ID:ESzb/RKF
>>474
せっかくの特殊技能持ちをもったいないなぁ、と思ってしまう俺はゲーム脳だろうか。
しかし大陸出兵を考えると抱き込んだ方が……。

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 09:29:18 ID:QfLL2FMQ
結果を知っているから言えるけど、俺も明と戦う事考えたら倭寇は取り込みたいな
中国沿岸の事情に詳しいし、何といっても渡海するのに海に明るい技能者は欲しい

倭寇を制御できるかは微妙だけど

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 10:16:43 ID:NB2wvH52
でも、倭寇を捕らえてみたら半分が高麗人だった、てな時もあったようだから
統制が取れて組織として機能してるとは思えないし…。


481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 13:58:12 ID:yIGUwd5b
許儀後の動きも事前に察知されていたので
名護屋で島津が秀吉暗殺を狙ってるとか噂を立てられるんだよな

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:05:40 ID:hp9iF3FP
梅北もやらかしたし島津は肩身狭かったろうな
その分、大陸で活躍したけど

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:58:34 ID:gcbvPzKt
>>479
 そのほかに明国人やら琉球人やらその他色々と……はっ!!これぞまさしく東アジア共同体!!!

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 21:49:42 ID:ESzb/RKF
>>483
通訳や工作員として重宝した可能性もあったかも?
やっぱりただ殺すにはもったいないなぁ。

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 22:02:35 ID:hp9iF3FP
>>491
捕縛して分散させて配置するとか、少数でもいいから地元を知る人間がいれば楽だと思う
それこそ工作員としてとか、倭寇を続けさせて明に嫌がらせさせるだけでもいいんじゃないかな
裏切らないよう金与えるとか、人質取るとか

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/21(土) 00:35:37 ID:bzcbmfx5
>>491
秀吉の大陸情勢の情報源の一つは日本にいる倭寇の明人達だった。
明の官軍に追われた経験がある彼らはむしろ入明を煽りたかったらしく
「明は日本を虎のように畏れている。大唐を手に入れるのは
手のひらを返す様に容易い」とまで言ったとか。

また明人商人達からも熱心に話を聞いている。
秀吉が「大陸の政治は乱れている!!」と言ったのも明人商人がそう言ったのを信じたからで
何の根拠もない発言ではないんだ。

許儀後と朱均旺、情報を届ける

2009年11月20日 00:18

許儀後   
449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/19(木) 06:10:59 ID:hJ+LSkLN
許儀後という人物がいる。
明国江西の人であったが1571年に広東で倭寇に捕まり、彼は薩摩に売られてしまう。
その後彼は島津氏の御側医師となった。

1590年、許儀後は恐るべき噂を耳にする。
日本の関白が大明に侵入しようと船5000隻を造っているというのだ。
さらに翌1591年には薩摩内にいる唐人の総点検が始まり、唐人が薩摩から
出港することが禁じられる。

この時薩摩に林紹岐という商人の船があった。
島津氏はこの船の出向も差し止めようとしたのだが
許儀後が『この船は商船であり、それを停めれば交易が途絶えてしまう。』と説いた為
出港の許可を出した。
1592年1月16日は林紹岐の船に薩摩を出る。

許儀後が林紹岐の船が出港できるよう働きかけたのは理由があった。
彼はこの船に明への報告書を託した朱均旺という人物を乗り込ませていたのだ。

朱均旺は許儀後と同郷の人であり、福建で商売をしていたが1577年
交趾に渡った帰路倭寇に捕まってしまう。
薩摩に連れてこられた朱均旺は島津氏の菩提寺である福昌寺の僧に売られ、
そこで許儀後と出会った。
許儀後は同郷の朱均旺の事が気に入り、彼を引き取って薬書の筆写などをさせていたのだ。

大明への侵入という噂を聞いて以来許儀後と朱均旺は罰せられることを覚悟した上で
明への通報を試みていた。
3度に渡って平戸の明人商人経由での通報を試みたがなんの音沙汰もない。
そこで朱均旺は自ら志願し、使者となるべく林紹岐の船に乗ったのだ。

すでに薩摩に売られてから20年近くがたち、許儀後は妻帯し、子も生まれていた。
許儀後は報告書の最後に朱均旺への詩を付している。

「遙かなる異境でめぐりあってから何年もの歳月が経った。ある朝別れて君は遠くへ旅立つ。
 忠君の事(日本警戒情報の提供)は君に懇ろに託したので、意を尽くして(秀吉の陰謀を)
 挫いてくれ。
 君は本国へ帰れば蘇武のように歓迎されるのだから、どうして(薩摩に残った私が)
 李陵のような境遇となることを心配する必要があろうか。
 霜台(弾正台)にもし日本のことを聞かれたら、ただ民草は苦しみ(それがし許儀後も)
 憂えているとのみと言ってくれ。」

2月28日朱均旺は無事福建省に到着、報告書を官吏へ提出し貴重な対日情報源となる。




450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/19(木) 08:43:10 ID:jqefHWkw
日本は島国だけにイギリス並みに海賊国家だったんだな
もっと海軍力あれば東南