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太平寺の戦いと木沢長政の滅亡

2020年05月23日 16:47

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 22:20:10.11 ID:umYPRi/P
畠山長経横死の後、かの家の執事である遊佐河内守長教は忠義を尽し、紀州より左衛門督稙長(長経弟)を
迎え取り、高屋の城に再住せしめ、堅固に守護して奉仕していたが、ただいかにもして、故長経を毒殺した
逆臣共を謀って討ち亡ぼさんと思慮をめぐらし、色々に工夫して、先ず逆徒の斎藤山城守を謀り寄せ、高屋城の
追手、不動坂と言う所にて忽ちに誅伐した。

これを聞いて残る逆臣である木沢左京亮(長政)、杉原石見守等は、次は自分たちであると察し、謀反を顕し
尼上ノ嶽に城を構え、一揆の土民を相語らい、高屋城を攻めんとした。その他、塩川伯耆守(政年)、若狭の
武田、粟屋なども皆これに一味し、河内へ集まり当国の落合上畠という所まで出張した所に、遊佐長教
近国の三好孫次郎範長(長慶)を頼って加勢を乞うた。範長は同心して、同新五郎政長等を相語らい、
落合表へ助け来て、天文十一年(1542)三月十七日、当所にて合戦した。

敵将の木沢、杉原は三千の人数を備えて待ち懸かる所に、遊佐方の阿州の住人、誉田山城守の子、三宝院という
法師武者が一陣に進み、落合川を渡り越えた。これに続いて味方の総勢ヒタヒタと川を渡り合戦と成った。
そして悉く切り捲って、木沢右近、粟屋父子を初めとして百余人を討ち取ると、残徒は悉く敗軍して四角八方へ
逃げ散った所を、遊佐三好両家の者共、競い立って追い駆け、悉く討ち取った。
中でも河内国住人・文字牛之助という者が、敵将木沢左京亮を討ち取って、終にその頸を得た。

この木沢左京亮長政という人は、気位の高い人物で、度々大軍を促し武功は勝れていたのだが、無双の悪人であり、
先年、大物の戦場にて俄に故常桓禅門(細川高国)に叛き裏切り、又三好の故海雲(三好元長)を讒死せしめ、
その後、主君の畠山故総州(畠山義堯)を殺して、今度も故畠山長経を毒殺した。これ稀代の悪人と言うべきである。

杉原石見守はこの戦場を落ち延び、多年流浪していたが、遥かな後、三好家へ降り、手を摺ってかの家僕と
成り果てた。

續應仁後記

太平寺の戦いと木沢長政の滅亡について



79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 22:54:00.20 ID:uq3FTHUO
遊佐長教が忠義を尽くしって書かれると????感が

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 09:00:47.65 ID:pvlENMfI
>>79
傀儡君主を貰うためには忠義くらい尽くすだろうさ
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木沢さんの優しさ

2011年05月12日 00:00

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 12:32:12.97 ID:brVDimk9
木沢長政、13代将軍 足利義晴を警護』 
人物叢書の三好長慶が出典

大物崩れで活躍し細川京兆家を継いだ細川晴元の片腕となり
河内畠山総州家の家臣で河内・大和半国を牛耳る木沢長政さん。

彼の心の優しさは天にまで登る勢いなのは纏めにもある様に皆さんもご存じ
阿波守護代の三好元長と主君畠山義堯を一向宗・法華宗を使って成仏させ
その元長の嫡男、三好千熊丸の命を助けるように懇願した木沢さんの懐は河内国の広さを感じさせる。

その時期、三好政長という数寄者が無法の限りを尽くしており木沢さんは頭の痛い日々が続いていた。
そして木沢さんの縁者である塩川氏(大物崩れで死んだ細川高国方に属していた為)
に三好政長・池田信正・三好千熊丸が攻撃をかけたので木沢長政さんは、伊丹氏・三宅氏と共に足利将軍義晴公に
『流石にそれはやりすぎとちゃいまんやろか・・・』と訴えたが義晴公は華麗にスルーした。
摂津勢力図
晴元側:三好・池田・原田・茨木・波多野(木沢)
高国側:三宅・伊丹・塩川・瓦林・能勢(木沢)   FREE:木沢長政

つまり木沢さんは細川家臣でありながら敵方を庇ってしまったのである…

そして木沢さんが三宅・伊丹と組んで塩川氏の一庫城を後詰して政長・千熊丸軍を敗走させる事に成功する
これは千熊丸、後の三好長慶が野戦で唯一の敗退記録として記録され
長慶に唯一土を付けた木沢さんにとって誇らしい事この上ない。

その1541年の十一月十一日である、そんな木沢さんが足利将軍義晴公を警護するために上洛を果たしたのだが
そんな心やさしい木沢さんに対し足利義晴公の動きは残酷な物だった・・・
管領・細川晴元は29日に京都の岩倉に逃走
足利義晴公は30日、銀閣寺に逃走後、比叡山を越え近江の坂本に、木沢さんに全力で
お断りの姿勢を示したのである…。
その後伊丹・三宅・能勢は晴元側に河内では遊佐が反旗を翻し木沢包囲網が敷かれ、
戦国の謀君、木沢さんは最後を迎える。

不利な状況ながらも諦めない木沢さんの優しさがちょっとだけ滲み出ているホロリとくる話





567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 15:27:39.75 ID:brwS1LwW
べた褒めワロタ

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 19:41:16.68 ID:i/cJFJUp
>>566
> その元長の嫡男、三好千熊丸の命を助けるように懇願した木沢さんの懐は河内国の広さを感じさせる。

爆笑したwあんたそれ三好政長と対立してたから敵の敵である千熊丸を助けただけじゃないかw

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 20:21:01.45 ID:XSdc+v6L
>>568
わざと書いてるんだろ。なんたって河内の広さを対象にしてるんだから
しかし凝ろうとしたのはいいが文章として読み辛すぎるよ

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 20:28:00.18 ID:UT5FDcNb
前提知識無いと分かんないよね、キツイい方すると凝り過ぎて滑ってる。

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 22:33:34.96 ID:gmj0RpyU
お前らあんまりハードル上げないでん

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 22:40:19.81 ID:UT5FDcNb
いや、普通に書いてくれればいいんだってばw


574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 22:56:15.57 ID:XSdc+v6L
あとは無理やりいい話にしたてあげなくても良いのでは、と思います

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 01:05:46.07 ID:R4jsuRax
別にいいんでないのん。俺は凝ってれば凝ってるだけ楽しいぞ

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 21:44:01.38 ID:GUiT12rZ
>>570
>>571
すいません、文体もっと勉強します(´・ω・)
確かに畿内好きにしか解らない記号と皮肉を入れすぎてマニアックで解りにくかったかも。

木沢長政の主君挿げ替え

2010年05月11日 00:00

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/10(月) 01:24:02 ID:pBu6ITJK
木沢長政と言えば戦国初期を代表する梟雄である。

彼は畠山総州家(義就系)→細川高国→細川晴元と次々に仕える相手を変え、そのたびに自分の勢力を大きくしたこと、
これは有名であるが、この男の一筋縄で行かないことは、高国を打倒し京の支配を確立した細川晴元配下として
強い権勢を誇りながら、なおかつ畠山家被官と言う身分も捨てていなかった、と言うことである。

これは畠山家への愛着や忠義のため…、なんてものでは当然、無い。
全て自分のため、畠山家が守護として持つ河内や山城、大和などの権益を己で自由にするためなのだ。

ちなみに管領畠山家というのは、応仁の乱以来畠山義就系(総州家)と、畠山政長系(尾張家)に分裂していた。
もともと総州家家臣であった長政は、尾張家重臣、遊佐長教を仲間に引き入れ、二人で畠山家の利権を分け合った。

当初この二人は政長系の畠山稙長を立てていた。が、天文三年(1534)、稙長が本願寺に接近すると、これを危険と見て
あっさりと追放。稙長の弟、長経を擁立した。だがこれも傀儡として思うようにならなかったのか、わずか二年後の
天文五年(1536)、殺害。
そして木沢長政は義就系の畠山在氏を擁立、遊佐長教は政長系の畠山政国を擁立。これにより畠山権力は
事実上分割され、長政、長教二人のものとなった。

戦国期と言えども、ここまで露骨に主家を「モノ扱い」したのは、この木沢長政と遊佐長教くらいだったであろう。

戦国初期の畿内における、木沢長政の露骨な主家権力の簒奪、のお話。




薬問屋の嫁と木沢某・悪い話

2009年05月03日 00:02

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/02(土) 01:06:28 ID:D68E/Cnu
堺の豪商べに屋には、同じく堺の豪商の薬問屋に嫁いだ娘がいた。
この娘にはある噂があった。夫が明に商売に行っている間、さる公家と
浮気しているというのである。この噂を耳にしたのが畠山尚順の家臣、
木沢という男だった。ある日、彼は公家のふりをして嫁の家の門を叩いた。
「あっ、あの方がいらっしゃったわ」と思った嫁は迂闊にも下女に門を
開けさせてしまう・・・。

それ以降、べに屋から畠山家に多額の資金援助がされるようになった。
つまり「不義をバラされたくなかったら金を用意するんだ。断ったら
どうなるかわかってんだろうな?」ということである。




139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/02(土) 01:09:40 ID:nqL9dxLH
でもこうやって伝わっていると言うことは結局ばれたんだな

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/02(土) 01:14:07 ID:SCHixyT7
>>138
この木沢が、あの戦国初期の奸雄木沢長政本人だとも、その父だとも言われているんだよなー。

参考
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-146.html

木沢長政の転変・悪い話

2008年10月16日 11:52

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/29(金) 22:34:07 ID:LZQYPXp2
木沢長政のお話

戦国初期の梟雄である木沢長政。彼は主君の畠山義宣から独立を図り、細川晴元に接近した。
当時晴元は、対立していた三好元長を攻めあぐね悩んでいた。そこで長政、アイデアを出す。

「細川家と友好関係にある、一向宗を使えば宜しい」

晴元の要請を受け扇動された一向宗徒は、三好軍を粉砕した。

だが、これですませる長政ではない。
かれはこの一向宗の大軍をその勢いのまま、主君、畠山義宣の元に向かわせたのだ。
義宣のこもる河内誉田城はたちまちのうちに攻め滅ぼされ、義宣は討ち死にした。
長政は畠山家からの独立を達成したのだ。

ところがこの一向宗の軍団、自分たちの力に目覚め、畿内を制圧せんばかりの勢いを見せた。
一体あいつらをどうするのだ、と、これにも困り果てた晴元に、長政

「心得ております」

彼は今度は、一向宗と仲の悪い法華の門徒を扇動したのだ。「一向宗は佛敵である」
長政は法華宗と連合し一向宗を撃破。敗れた本願寺は当時の本拠地山科から退去した。

しかし今度は法華宗が京を支配する有様。これにも長政、今度は比叡山を扇動し、あい争わせ、京は焼け野原に。
最後に皆が我に返ったとき、最も勢力を大きくしていたのは、一向宗でも、法華宗でも、比叡山でも、無論晴元でもなく、
裏で彼らを操り、争わせた、木沢長政一人であったと言う。





15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/30(土) 00:27:00 ID:XMpNf281
悪すぎる件(`・ω・´)

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/30(土) 00:52:34 ID:jN1IP28x
>>14
そんな事ばかりしていた木沢長政を憎む者は多く

最後には細川晴元、三好元長の子・三好長慶、遊佐長教等などに破れ

討ち死にしてしまいましたとさ