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近衛応山と本阿弥某

2022年12月20日 19:13

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/20(火) 18:17:36.88 ID:5WV1esoO
朝野雑載」から近衛応山(近衛信尋)と本阿弥某
近衛応山のところに本阿弥某という刀剣の目利き師が出入りしていた。
ある日、応山のところに仙洞(後水尾天皇、近衛信尋の兄)が御幸された時、本阿弥の幼子を召して猿楽を舞わせた。
翌日、本阿弥が来て「昨日、我が子を御前で舞わせていただきありがとうございます」と謝すと
応山は「汝の子であるが、昨日の舞は普段よりも不出来であった」と答えた。
本阿弥が「あなた様は猿楽をなさらないのになぜ不出来とわかるのです?」と尋ねると
応山「確かにそうだ。ところで汝に頼みたいことがある。
汝に、われにあった刀を一振り作ってもらいたい。」
本阿弥「われらは刀の目利きこそしますが、刀を自分で作ることはできません。」
応山「おやおや汝が刀の目利きが上手なのは自分で作るからだと思っていた。
刀を作らないで目利きをすると言うのなら、われが猿楽を舞わずとも、猿楽のよしあしがわかってもおかしくないだろう」
本阿弥はとうとう閉口したそうだ。

ついでに過去に出ていた「寛永の三筆」の近衛信尹(近衛信尋の養父)と本阿弥光悦の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10992.html



664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/21(水) 10:44:47.40 ID:WROiu9Wo
サッカーの本並さんとは関係ないのだな
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近衛信尋公、無双の美少年成りし故

2012年04月29日 21:08

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 16:46:59.81 ID:XSm62Ux7
新井白石の『白石先生紳書』より

『近衛信尹の養子にて、後陽成天皇の第四皇子であった近衛信尋公と言えば、御幼少の頃無双の美少年であったので、
伊達政宗、並びに藤堂高虎、柳生宗矩といった人々は、上洛する時は常に、心やすく出入りしていた。』

(応山公(信尋)御幼少の時に、無双の美少年成し故、政宗、并 藤堂泉州、柳生但馬等、常に上洛の時は、
心安く出入り有し。)

『中でも伊達政宗などは、このようにせっせと訪問したため気に入られ、大変に睦まじい仲となって、ひとしお昵懇の
間柄であった。
そうであったので今でも近衛家と伊達家は家礼関係(公家の間の一種の主従関係)を結んでいるのだという。
藤堂高虎は、信尋公の以前の邸宅を造営してさし上げたそうである。』

(政宗などこれを以ってや亦り給ひけん、限りなくむつまじくなりて、一入昵懇の御事也。干今(いまに)御家礼申給ふ。
藤堂此前の亭を造営してまゐらせしなり。)


近衛信尋に対して、柳生宗矩は28歳差、伊達政宗は32歳差、藤堂高虎にいたっては43歳差である。
こんな、孫みたいな高貴で学識豊かな美少年に、戦国乱世を生き抜いたいい年したおっさんたちが
メロメロになっていたわけである。貴種で美形だと、なるほど無敵なのである。

どうでもいいが、ここでもやっぱり伊達政宗の表記は「政宗」である。政宗と書かないといけない決まりでもあったのか?
そんなこともふと考えさせる逸話である。




903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 16:57:52.38 ID:TbMbEuJJ
東の政宗、西の輝元

あと名前で直接書かれてる人っていたっけ?

近衛信尋、笑いの力とは強きもの

2010年01月16日 00:05

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 10:53:40 ID:FOCrxTPd
ある日、京の公家衆が福島正則主催の茶会に招かれた。
一同は邸内の庭に面した一室に案内され、しばし待ったが、やがて主人の正則が庭から
やって来て挨拶した。
「やあ皆様、お待たせいたした。どうぞ、この中門から茶室へ・・・・・・(怒)」
中門をくぐろうとした正則の顔に、クモの巣がかかった。どうやら茶室周りばかり綺麗に整え
本邸には目が届かなかったようである。

「・・・誰かある。ここを掃除した者を、すぐに連れて来い!」
(こ、これはいかん!福島殿なら、この場で手討ちもありうる!)
公家衆が顔を青くしながらもその逆鱗に触れるのを恐れ、正則に声をかけられずにいると、
「ホッ ホッ ホッ ホッ ホッ・・・・・・」
高らかに笑ったのは、古田織部を師に持つ茶人としても名高い新左大臣、近衛信尋だった。

「いや、邸内で待っている間、お庭を拝見させていただいたが、一匹のクモが松の樹から
ブラ下がりましてのう。
みるみるうち、あなたこなたに往き通い、早や一つ網を作ってしもうて、我が思わず興に
入っているところに、福島殿が出迎えに来られた。
これはさだめし、福島殿がクモに命じ我らに見せよ、との数寄の趣向に違いなし。
ぜひ、我にもクモの家臣とやらの伝手を教えてたもれ。」

「へ?いや、これは・・・ハハハ・・・・・・」
「ホホホ・・・左大臣は、ときどき妙な事を申される・・・・・・」
一同笑い出して正則は面目を保ち、掃除人は手討ちを免れたという。

教訓:笑いの力とは強きもの。
最近、大宮人の評価が下がってるようなので、こういうお公家さんもいた、という話を。
まぁ近衛信尋はのちに豪商と一流芸者を賭けて恋のバトルするような変わった人ですが。




31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 11:30:28 ID:9wC4AvPN
血筋から見ても、戦国一の傑物公家である近衛前久の娘、前子と
後陽成天皇の子ですからな>近衛信尋
母の前子もかなりの人物ですし(信尹は少しアレだけど)