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古の士は弓射ちして矢を作ってこそ

2021年10月08日 17:01

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/07(木) 20:40:00.08 ID:TSXgTVil
ある老父が語って曰く「古の武士は兵具を各々自分の手で作って用いるのを
上士といったのである。我が曾祖は香川郡井原の郷司の漆原という者だった。
寛正の頃であるが将軍家に参勤した。

ある時、細川勝元へ将軍家より征矢を賜る。勝元は拝して自愛深く、漆原を
呼んでこれを見せた。漆原某は曰く『この矢はこの私が作った矢です。どう
いう入れ違いで上覧に入ったのでしょうか』と言った。

勝元がその証拠を問うと、漆原はその矢の沓巻を解いて、矢柄の中から“讃州
井原ノ住漆原”と記された書を出し、また元の如く沓巻して勝元に返進した。

勝元は称美して奇作とし『古の士は弓射ちして矢を作ってこそ、上能の武士
である』と称誉したのだ」ということであった。

――『南海通記老父夜話記)』



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細川勝元、料理の賞翫について

2014年03月19日 18:58

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 21:38:28.03 ID:9DuFYx0x
幕府管領である細川右京太夫勝元は、一家無双の栄耀人であり様々な遊興に財宝を費やし、奢侈の聞こえも
あったという。普段の珍膳・妙衣は言うに及ばず、客殿屋形の美々しきこと、言語道断であると言われた。

この勝元は常に鯉を好んで食されていたので、家来の大名たちは勝元におもねって、数えきれないほどの
鯉を贈った。

ある日、とある人が勝元を招いて、様々の料理を尽くして饗した。この時もまた、
鯉を料理して出された。この時相伴の人3,4が、恭しく陪膳していた。

さて、この鯉料理を人々は多く賞翫し、それをよろしき料理であるとばかり褒めたが、
他の言葉がなかった。勝元も料理に一礼を述べたが、この時さらに言葉を進めて

「この鯉は、名物であると感じました。きっと客への饗しのため、使いをはせて求められたのでしょう。
それに対して、この場の人々の褒め様はあまりに無骨です。それはおおむね、膳部を賞翫するまでの
有り様についてです。折角の饗しに、その素材について語らないのは、あっていいはずがありません。

この鯉は、淀より遠来したものであると見ました。その印があります。他の国の鯉は、捌いて酒に浸すと、
一度箸を入れればその汁は濁ってしまいます。しかし、淀の鯉はそうではありません。
どれだけ浸しておいても、汁の色は薄く、濁りがありません。これこそ名物である淀の鯉の印です。

皆さんの中で、重ねてこのような饗しを受ける人が有れば、この勝元の言葉を忘れないようにして
料理を褒められるように。」

そう申された。

誠に淀の鯉のみに限らず、名物は大小となくその徳のあるべきものである。こういった心を持って、
よろずに心配りをして味あうべきであると、その時陪膳した人の子という人物が、ある人の所で
語ったという。

(塵塚物語)

細川勝元の、グルメマンガみたいな料理の賞翫についての教訓。


関連
淀川の鯉


650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 21:42:35.02 ID:Ytxw/L/I
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4016.html
淀川の鯉
同じ話のはずなのに勝元の口調が違うのがなんか面白い

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 23:34:27.03 ID:AYAz2v/O
ここだけ見たら人畜無害な風流人のようだ

文明元年(1469)3月16日、忍びを使って

2010年10月26日 00:01

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 01:11:25 ID:jkxbSDOS
文明元年(1469)3月16日の事。

将軍義政の養子、足利義視を迎えて意気上がる西軍に対し、東軍の総帥細川勝元

「西軍は遠国の兵が多く、長い滞陣に気力も衰え、守備の怠りもあるだろう。」

と、伊賀、河内の忍びの者数百人を集め西軍の陣に忍び込ませ、さらに夜軍の準備をした。

この作戦、忍びの者達のうち西軍総帥、山名宗全の陣に忍び込んだ者が合図の燧火を上げる。
それと同時に西軍の陣を放火、これに混乱している間の夜討ちの軍が攻め入る、という物であった。

時間は五更(夜明け前)、決行の時間である。敵が深く寝ていることを計り、忍びは火を放ち
東軍の軍勢は攻め込もうとしていた…が、

山名宗全はそう甘くはなかった。彼は普段から守りの備えに対し万全を期していたため、
東軍は攻めいること全く出来なかった。
その間に山名宗全自身が甲冑をつけ現れ自ら指揮をし、そのため潜入させた忍びの多くが
殺され、夜討ち軍も逃げ帰ることになったという。


長い応仁の乱の中の、忍者を使った作戦とその失敗についてのお話。




細川勝元、文安三年(1446)五月の地獄絵図

2010年04月18日 00:08

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/16(金) 22:11:04 ID:9R3dRsqQ
細川勝元といえば、文安三年(1446)五月、勝元17歳の時のある夜、
勝元が衆道の恋人の内藤四郎左衛門と、同じ蚊帳の中に入ってキャッキャウフフしていると、
同じく勝元の恋人の塩飽(しわく)某という少年が、嫉妬のあまりヤンデレ化して、密かに忍び込んで
勝元と同衾していた内藤を斬り殺し、さらに近くに侍っていた同朋衆の一人も殺して逃走、という
色んな意味で地獄絵図の事件に巻き込まれてるな。




226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/16(金) 23:27:25 ID:g6oFnpgg
ハイティーンのうちからそんなただれた生活送ってるから
息子が魔法使い目指すようなアレな人に…

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/16(金) 23:56:56 ID:KwgRXSlN
管領細川家が代々アレすぎたんが戦国時代の遠因だからねえ…
おつむもシモも、切れてるというか何というか

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 00:31:00 ID:VhFwW+ah
痔かよ>シモも切れてる

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 00:40:03 ID:iZs4IDJk
政元が俺空も飛べるはずにならずちゃんと子作りして京兆家の後継が
盤石だったら時代の趨勢は確かに違っていたかも知れないが…

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 00:46:35 ID:eozggVIB
⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /⌒ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /| 政元 ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /⌒ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        | 政元./       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ

これそのものだからなぁ


231 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/17(土) 02:23:14 ID:bI7kWT2P
俺も子供の頃は夢想したことあるけどな。
高校のときは遊体離脱して女の子の部屋を覗きに行こうと企んだ。
中学の頃は通販の「隣の部屋が見えるメガネ」購入しようとした。
小学生の時は小説「透明人間」で油を使って透明人間になれたって
一文を読んで、サラダ油を身体に塗って透明になって
好きな女の子の部屋を覗きに行こうと思ったり。

でも大人になって空飛ぼうとしちゃいかんわな。


232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 08:32:40 ID:bDIp2bww
政元「俺、魔法使いになる!だから一生セックスしないよ!」
謙信「俺も政元公みたいな魔法使いになる!だから一生セックスしないよ!」
俺「俺も政元公や謙信公みたいな魔法使いになる!だから一生セックスしないよ!」

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 08:53:28 ID:WMUKfG0g
俺はまだ何の魔法も使えないぞ
迷信じゃないのか

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 09:36:25 ID:B49jXcJq
>>232
謙信と政元は、やろうと思えばいくらでもできる環境下で
あえてセクロスしないことを選んでいるんだけど、
あんたの場合は、ただできないだけじゃないかw

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 09:41:40 ID:HSfC399q
今の日本だってやろうと思えばいくらでもできるだろ
基盤ありとか全然珍しくない

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 14:08:20 ID:pzmAaJlW
まあ、飯綱法って女とセックルしないってのは、あくまで数ある戒律や修行のうちの一つだし
セックルをせずに真言唱えたり、若い男の子掘ったり、滝に打たれたり、酒死ぬほど飲んだり、
「将軍の元服?烏帽子親だから行け?えーやだー烏帽子かぶんないとじゃーん。
めーんーどーくーさーいー。大体あの将軍いまいち好みじゃないのよね。
そそらないわー。えー私待ってるのー?きもいー超きもいー」くらいしないと
魔法使えるようになんねーんじゃないかな?

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 14:33:00 ID:OZln4Fzn
どうせなら飯綱法より真言立川流で魔法を使えるようになりたい

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 15:57:40 ID:+dLsvSDB
ゴダイゴ天皇「そこにーゆーけばー どーんなゆーめーもかなうというよー」

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 19:44:04 ID:DI5o/PX3
カタカナにするなw

241 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/17(土) 19:57:36 ID:kUyQn0DP
おにゃの子が大好きな後醍醐天皇には魔法はムリだw
仙人になる方法も接して漏らさずだから似てるな。

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/18(日) 06:39:08 ID:/fKRorin
>>231が何気なくすごいと思ったの俺だけか?その発想はなかった。

淀川の鯉

2010年04月17日 00:00

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/16(金) 11:53:46 ID:bpk/dX0X

淀川の鯉


細川勝元は無類の鯉料理好きで、中でも淀川の鯉には目がなかった。
あるとき、勝元が大名に招かれて鯉料理をふるまわれた際に、客が「立派な料理だ。」としか誉めない
のを聞いて、勝元は怒ってこう言った。
「この鯉は淀川の鯉で、その証拠に酒にひたしても汁がにごらない。これこそ日本一と言われる
淀鯉だけのことはある。客として招かれたのなら、これぐらいの気の利いた褒め言葉を言え。」

またあるとき、勝元の料理人が鯉料理を膳にあげたが、勝元は一口食べたきりで箸を置き、苦い顔で
こう言った。
「これはよその鯉であろう。鯉は淀川産に限る。このことしかと心得よ。」




215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/16(金) 13:10:35 ID:EXaivfmT
この鯉を調理したのは誰だぁっ!(AA略

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/16(金) 13:45:34 ID:D+BCfFF6
恋は淀川秋刀魚は目黒

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/16(金) 17:07:37 ID:6+DhYf+q
封建制の権力者が美食家だと
やたらと舌が肥えちゃうんだよね。

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/16(金) 18:48:28 ID:RjJLpFae
川の上流部で育った鯉のほうが臭みがなくておいしい、と聞いたことがある

223 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/16(金) 19:07:09 ID:yH+13z/i
>>200
俺は貧乏舌でよかったよ。
何食っても基本的に美味しいと思える。
コシヒカリからよくわからん米に変えたとき家族は
大ブーイングだったが、俺だけ違いがわからなかった。

そんな俺が不味いと思うものは本当に不味いんだとおもう。

上御霊社の戦いの畠山政長と細川勝元・悪い話

2009年05月16日 00:08

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 01:49:03 ID:45BpY0Ah
応仁の乱は畠山政長の挙兵から始まった。政長は後ろ盾の細川勝元に
期待していた。

しかし、政長が要請しているのに勝元からの援軍は来ない。勝元が
将軍義政の命令を遵守したからだ。対して政長の敵畠山義就の後ろ盾
である山名宗全は命令を無視して援軍を送っていたので、政長の敗色は
濃厚だった。

やがて政長は勝元に酒肴の差し入れを要求した。援軍が駄目ならせめて
死ぬ前に酒を、ということだろうか。だが勝元が贈ってきたのは鏑矢一筋
だった。せめて武士らしく散ってみせろ、という意味である。

結局、政長は敗れ、勝元の意に反して逃亡した。相国寺に逃げた兵もいたが
ことごとく自害したという。





細川勝元と宇高有光のだまし討ち・悪い話

2008年10月16日 11:53

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/30(土) 02:03:05 ID:YOJDVcFh
応仁の乱の、少し前の頃のお話

和泉守護細川常有の家臣に、宇高有光と言う者がいた。
この君臣、関係が非常に悪化し、常有は宇高の屋敷に、軍勢を率いて夜討をかけた。
しかし宇高は常有の軍勢を撃退、そして一族郎党を連れ大和の古市に逃れた。

しばらくすると、古市の宇高の元に、先の管領、細川勝元の使いがやってきた。なんと、自分の直参として
仕えないか?と言う話であった。同じ細川家臣と言っても、傍流の和泉細川家と、勝元の本家とでは、
立場は全く違う。しかも牢人して早々の身。これはありえないほどの幸運であった。

「承知仕りました」

宇高は喜び、一族郎党を引き連れ京へと立った。同じ時古市にいた安位寺経覚と言う僧侶は、この話を聞き、
日記に書いた

「早速の義、はなはだ不審なり。もしくは仔細あるか…」

その6日後、古市に知らせが届いた。宇高は京でだまし討ちに会い、一族郎党皆殺しにされた、と。
勝元と和泉細川家はグルだったのだ。

経覚はその日の日記に、こう書いた

「案ずるが、ごとし。」




21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/30(土) 09:44:02 ID:YbpasvLl
騙まし討ちと言えば真田安房守を思い出すなあ。