快川紹喜、俗界の介入を阻止す

2010年04月07日 00:02

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/06(火) 13:28:19 ID:oyn41orI
快川紹喜と言えば甲斐国塩山の恵林寺の住職として名高い戦国時代の名僧であるが、実は出身は
美濃国であると言われている(尾張との説もあり)

美濃崇福寺の住職を務めていた紹喜だが、この崇福寺の住職は代々「護阜」との肩書きを名乗っていた。
「仏法にて岐阜を護る!」との公言が許されるホドの名門寺院であったという証であり、信長支配前から
岐阜という地名が使われていたコトを示す名乗りでもあった。

美濃国主斉藤義龍は元々日蓮宗に帰依していたのだが、やがて一色氏として源氏を名乗るようになると、他の多くの
源氏大名と同じ禅宗に鞍替えをした。
が、そのやり方がまずかった。
膝元の快川らを無視し、京都から別伝宗亀という禅僧を招いて伝灯寺を建立、自らの菩提寺としたのである。

その上で「伝灯寺を美濃の禅宗の本山とし、各寺院や僧の管理は伝灯寺に一任する。また、京都の総本山へ行く際の
手続き等も伝灯寺が行う」とした。

義龍は別伝にねだり、僧としての修行などしていないのに、高位の僧しか身に付けるコトの出来ない僧衣を貰ったりと、
やりたい放題であった。

激怒した快川ら美濃の禅僧は、一寺に集まり相談。
皆揃って尾張犬山の瑞泉寺に退去するという過激な行動に出る。

慌てたのは義龍を初めとする美濃の国人衆。
僧がいなけりゃ法事が出来ない。葬式すら出来ない。この時代、な~んも出来ないのである。

先に出した触れを
「いや、アレね、部下が作った案なんだよ。一つの案に過ぎないの。それにオレが許可出す前に発表しちゃったモンだからさ。
オレが眼を通してたら、そんなん許可するワケないじゃん!」
と、義龍が撤回するコトで何とか帰国させるコトに成功する。

が、泥沼はココから。
「別伝とそれに従った僧を京都の総本山に訴えるのは待ってくれ」
と言う武家側。
「訴えるって人聞きの悪い。オレ達は事件を報告しただけだよ。別伝の処分は京都で決めるさ」
と耳を貸さない僧侶側。

終いには義龍、
「別伝が破門されたって、足利将軍に頼んで取り消してもらうかんな!」
と恫喝。再び犬山に出奔する快川ら禅僧一同。
しかもその際には
「美濃国主ったって、一国の主に過ぎないじゃねぇか。オレ達僧侶は三界の師として修行を積んでるんだ!
お前とオレと、どっちが偉いと思ってんだ!」
という捨て台詞さえ残している。

天皇家、足利将軍家双方が義龍に味方し、伝灯寺保護の方針を打ち出す。
しかし崇福寺も総本山妙心寺も真っ向からこれに反発。別伝一味を破門と決定した。

天皇&将軍まで巻き込んで、武家VS禅僧という全面対立にまで発展してしまった騒動。
しかし、決着がつくのは呆気なかった。

一色(斉藤)義龍、急死。
そのどさくさにまぎれて織田軍が濃尾国境を荒らし始めた為、美濃中の武家がそれ所ではなくなってしまったのだ。
後ろ盾をなくした別伝、伝灯寺に放火を試みるも失敗。姿をくらました。
別伝に加担した禅僧の一人も出奔。後に京都の妙心寺に放火をしようとして門前にて人々に殴り殺されたという。

天皇&将軍&国主。全てを敵に廻しても俗界の介入を阻止した快川の良い話……なのかなぁ?
快川の言動もどんだけ傲岸不遜なんだよ、と思わんでもないし。




217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/06(火) 13:37:58 ID:aKP7ILVb
別伝も加担者もなんで放火するw

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/06(火) 18:48:10 ID:WYgum1Dj
在地に根づいた宗教勢力は最強だぜえ
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甲州恵林寺の焼き討ち

2009年07月12日 00:04

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 22:31:24 ID:o7N+l+SE
甲州恵林寺の焼き討ち①

天正10年4月3日、天目山の戦いで武田氏が滅亡した後に武田の残党が相当多く
恵林寺に逃げ込んだとの噂を聞いた
織田信忠は、さっそくこの恵林寺を探索させることにした。恵林寺は古くから
武田信玄の深く帰依した菩提寺であって三百年の伝統を誇る古刹である。

ここの住職 快川和尚は稀に見る傑僧であった。この快川和尚は以前
岐阜の崇福寺の住職であったが、織田信長と意見が合わず、武田信玄がその才覚を見込んで
わざわざ恵林寺へ招請したのであって、岐阜長良の崇福寺には織田信長の墓と共に
快川和尚の肖像や遺品が残っている。

織田信忠はその部下の関小十郎左衛門、織田九朗次郎、長谷川丹後、赤座七左衛門の四人に命じて
寺内の探索に当たらせた。さて、この関小十郎左衛門。あの森家とは姻戚関係にあり、
妻は森可成の娘である。森一門の中でも勇猛果敢な豪傑であったと伝えられている。
(その後、小十郎左衛門の子 関民部成次と森忠政の娘 おごうの間にできた長継が
津山藩森家二代目藩主となる。)

関小十郎左衛門以下四人の武将は多数の部下を引き連れて恵林寺へ押しかけ、
「武田の残党、佐々木次郎、長坂長閑斉、その他のものがこの寺内へ逃げ込んだと聞いたが、
その者たちを寺から出してもらいたい。」と静かに要求した。

快川和尚が出てきて、「寺を頼って来た者には、御仏の加護をしてやるのが僧たる者の勤めである。
まして窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さずというではないか、野暮なことは言わないで、ここは
静かにお引取り願いたい。」
「何をつべこべいうか、さっさとここへ出せ!」
「仏門に入った者はそう簡単にだせぬ。」
こんなやりとりの間に、佐々木その他の者をこっそり裏から逃がしてしまった。

小十郎左衛門は武田の残党が多数入り込んでいることは、もはや間違いないとみたが、相手は
世に名高い高僧なので手荒なこともできず、この模様を主人信忠に報告してその指示を仰いだ。
「構わぬから強引に入って立ち調べよ」と勝ちに乗った信忠葉強気である。
快川和尚も一代の傑物である。一山を取りまとめて評判もよく、それに前年には朝廷から、
円常国師の称号をもらっているほどの高僧である。信忠は重ねて言った。
「調べてみて万が一、一人も出てこないようなら恵林寺を焼き払ってもかまわぬぞ!」と。

関小十郎左衛門ら四人の者は恵林寺を取り囲み、寺へ踏み込んでくまなく探したが一人も出てこない。
寺内には快川和尚をはじめ、高僧・役僧など十人とその他、学僧・小僧・老人など合わせて
五十余人の者がいたが、これらをすべて山門に集めて再び手分けして本堂、庫裏、物置など
くまなくしらべたが一人も見つからない。

「どこへ隠した!?」
「おのれ、逃がしたな!」
「さあ、どこへ逃がしたか、誰と誰がいたか白状しろ。」
と、口々に大声でがなり立てたが誰も黙って返事をしない。
「よろしい、誰も白状せぬなら全部山門に追い上げろ。」
快川和尚はじめ、高僧・役僧・若僧・小僧など全部の者が山門へ上がったところで、
「火をつけて焼き殺せ!」
と、激昂して山門の周囲に枯れ草と枯れ木を積み上げて火を放った。

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 22:35:25 ID:o7N+l+SE
甲州恵林寺の焼き討ち②

黒煙もうもうと立ち上がる中で、快川和尚は法衣を纏い静かに正座して読経を続け、泰然として頌を唱う。
「安禅心不用、滅却心頭火自涼」と。
この「心頭を滅却すれば火自ら涼し」は非常に有名な句である。

快川和尚は火が身近に迫って来ても少しも動ぜず火達磨になって立派に焼け死んだ。
その他の役僧や学僧たちも、みな大悟徹底した僧であるので、少しも騒がず快川和尚に従って
何れも壮烈な死を遂げた。快川和尚の兄の子の朴蔵主はまだ子供なので、暑さに堪え切れず、
煙の中から逃れようとして、山門の左右の桜の木にとびつく。これを見て、若僧・小僧な
どもわれ先に桜の木にとびつき逃れようとする。武者共は槍を突きつけて取り囲み、片端から
突き殺してしまった。

しかし、朴蔵主だけはさすがに可愛そうに思ったのか、殺すのをやめて助けてやった。この朴蔵主は
後に淳岩和尚と号し、岐阜大竜寺中興の祖となりさらに恵林寺の跡を継ぐ名僧となった。

さて、寺の始末が一応片付いたので、検視の武士たちはお寺から十町ばかり離れたところで、
今後の対応を協議している時、その前を陸蔵主という僧が通りかかった。
関小十郎左衛門は、これを呼び止めて、「おい坊主、どこへ行く?」と尋ねると、陸蔵主は
「托鉢に出ていて、今から恵林寺へ帰るところだ。」と平然として答えた。
「しばらく待て。お寺は先刻焼け落ちて、快川和尚初め仲間の坊主どもはみな焼け死んだぞ。
おまえもどうせ百までは生きれんぞ。」とその僧の背中をぽんぽんと叩いて話した。

この僧は後に作州津山の初代藩主森忠政の招きに応じて、津山東海寺雲竜寺(後の本源寺)の
開山海晏和尚となった名僧である。しかし、慶長10年5月3日森忠政の妻 お岩様が32才で
病死された際、その引導を渡してもらうため京都紫野大徳寺の王室和尚を招請したところ、
「いくら大徳寺の格式が高いとはいえ、地元の雲竜寺和尚を出し抜いて引導を渡してもらうとは
不都合だ」として、あっさり葬儀場から立退き、寺を捨てて越前法泉寺へ。さらに虎哉禅師の推薦により
松島青龍山瑞巌円福禅寺、すなわち瑞巌寺へ第96代住持として招聘された。

恵林寺焼き討ちの約二ヵ月後、焼き討ちの命を下した織田信忠は本能寺の変において親子共々、
雄々しく討ち死にを遂げ、関小十郎左衛門もまた長久手の戦いで森長可と共に壮烈な戦死を遂げた。
このように、生き残りの僧は名僧となり世の尊敬をあつめ益々栄えたが、焼き討ちに関係した
武将たちはいずれも年若くしてこの世から消え去った。

人の運命の奇しき巡り会わせに今更ながら感慨深いものがある・・・。

・・・のではあるのだが、関小十郎左衛門が森一門も聞いて
「やっぱり、ヒャッハー体質だったのかしらん」とか、「おめぇの帰る寺ねぇから~ヒャッハー!」とか
妄想してる俺は心が腐ってるのではないかと心配になる今日この頃。





258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 22:45:55 ID:0e+Fk+yS
この時代坊主も肝据わってるよな
しかしその後の運命は縁というかなんというか不思議なもんだな

259 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/07/10(金) 22:50:13 ID:hHhseL9G
>>256>>257
> ・・・のではあるのだが、関小十郎左衛門が森一門も聞いて
> 「やっぱり、ヒャッハー体質だったのかしらん」とか、「おめぇの帰る寺ねぇから~ヒャッハー!」とか
> 妄想してる俺は心が腐ってるのではないかと心配になる今日この頃。

おれも、森一門で、後に津山藩2代目藩主のおじいちゃんと聞いて、ヒャッハー!体質と思った。

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 23:11:12 ID:oEQzV/vF
でも確か恵林寺って信長を恐れて野晒しになっていた
首のない勝頼親子と北条夫人の遺体を放置したんじゃなかったっけ
見るに見かねた放浪のお坊さんがようやく収めて葬ってあげたってどっかで読んだぞ

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 23:22:02 ID:AmflQ7N8
何がでもなのか良く分からないが、
勝頼没後20日ちょっとで焼き討ちにされた恵林寺に、
そこまで完璧を求めるのはさすが悪い話スレと言わざるを得ない


快川紹喜の慈悲とロック・いい話

2009年01月25日 00:09

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 15:49:19 ID:5ks4DbcG
快川紹喜は、正親町天皇から『国師』の称号を授かり、天下の名僧として知られた。

直江兼続と交流のあった南化玄興、自身の後を継いで妙心寺住職となった大虫宗岑、
そして、伊達政宗の師として名高い虎哉宗乙らの、優秀な弟子を育てた教育者でもある。

その評判が遠く甲斐にも伝わり、武田信玄から特に招かれて、塩山恵林寺の住職となった。
勝頼を喪主として、信玄の葬儀を執り行ったのも、彼である。

天正10年(1582)3月、甲斐武田氏は織田信忠に滅ぼされ、その庇護を受けていた
六角承禎の子・義弼らが、恵林寺に逃げ込んで来た。

当然、信忠は義弼らの引渡しを求めた。
「申し訳ない。 『寺内は聖域、俗世の法に寄らぬ』と、昔から決まっております。
それに御仏に仕える者が、殺されると分かっている人間を、引き渡せる訳がありませぬ。」

快川は引渡し要求を蹴り、義弼らを逃がした。 (後に義弼は秀吉のお伽衆になった)

従う者は手厚く保護し、従わぬ者は仏教の中心・比叡山とて容赦しないのが織田家である。

4月3日、森長可の義兄・関長安らに率いられた織田軍は、修行僧など150人が残る恵林寺を
取り囲み、周囲に柴や枯れ草を積み上げた。
織田兵が柴に点火したその時、快川が青年僧を引き連れ山門に姿を現し、吠えた。

「ええか、お前ら!静かに座禅を組むのに、何も山奥や湖水のほとりへ行く必要なぞないわ!
 『無』じゃ!心を『無』にすれば、炎の中とて、涼風に吹かれるようなもんじゃい!!
カ━━━━━━カッカッカッカッ!!!!! 」
(安禅必ズシモ山水ヲ須イズ、心頭ヲ滅却スレバ火モ自ラ涼シ)

快川の気迫に打たれた織田兵がぼうぜんと見守る中、一代の傑僧は炎の中に消えた。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」は今なお、精神統一の究極の境地を表わす言葉とされる。

快川紹喜 ~ 戦国史上最も慈悲深く、最もロックな坊主、の話。




709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 16:07:16 ID:/hMtyaHH
こんなところにも鬼武蔵の影が・・・

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 16:11:09 ID:do8AXyCp
信玄公の心の友で明智光秀の親戚なんだよね
和尚

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 16:19:56 ID:fCb36TeC
>>710
光秀にはこの理由もあったのかもしれないな。

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 16:28:03 ID:gxHI5CQ0
比叡山焼いたけど森可成の墓を作ってくれた寺だけは焼かなかった信長

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 16:30:44 ID:KGeA51AM
>>712
すごく・・・依怙贔屓しすぎです第六天魔王様
あっ、依怙と贔屓は権現様曰く違うのかw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 16:37:18 ID:v52fZuSn
>>712
聖衆来迎寺の住職は寺にとって敵だった森可成が討ち死にした後に丁重に弔ったらしいからね。

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 16:44:44 ID:yc5UIpBr
信長が織田家当主になる前、ある寺の坊主を切って捨てた
周囲が理由訪ねると
「あの坊主は太ってていた。悟りを開かんと厳しい修行に精錬しているはずの坊主が太っているはずがない。かの者は仏の言葉を借りて人を惑わし私腹を肥やす外道よ」

これが信長

716 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/24(土) 16:59:48 ID:o82EU4+d
理屈っぽいが筋は通ってるなw

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 17:03:51 ID:eMftPUaE
>>714
こういう話は好きだがまた森家かという気もしたw

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 18:52:17 ID:clQ8WJBU
「心頭の火滅却すればまた涼し」と読むんじゃないか、なんて記述をどっかで読んだな
ソースはない

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/24(土) 18:56:43 ID:fCb36TeC
>>725
なるほどな
冷静に考えれば悟っていようが生きている限り神経はあるわけだから、
心頭滅却すれど火はまだ熱い
だよな