黒田如水、出費を嫌う理由、する理由

2009年06月30日 00:06

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 23:55:10 ID:NSVlnBSA
黒田如水はケチだったが、時には貧しい者、困っていた者のために多く
出費したこともあった。ある家臣が、ちょっと金の使い過ぎでしょう、
と諌めたところ、如水は

「私が出費を嫌った理由は、与えるべき者に思うように金銀を与え、
使おうと思った時に使うためだ。使うべき時にこそ使わなければ、
金銀も石瓦と変わるまい。」

と言った。






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鬼武蔵誕生

2009年06月30日 00:05

森長可   
903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 20:44:08 ID:B853aEjx
鬼武蔵誕生

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-382.htmlと、
いろいろやらかしてしまった森勝蔵長可、ついに第六天魔王からの呼出しを食らった。
さすがに覚悟を決め、硬くなった長可に信長の声がかかった。

「源平のころ、同じように五条の橋で人を討ったる、武蔵坊という者がおったそうな。
お前も、かの豪傑にならい、今日より「武蔵」を名乗るが良かろう。」

のちに信長は正式に武蔵守の官名を与え、これに奮起した長可は、その武者振りから
「 鬼 武 蔵 」 と呼ばれるようになったという。




904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 20:49:25 ID:znGVzzYS
んもう!お父さんがそうやって甘やかすから・・・

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 20:52:16 ID:9y0irWHv
甘やかし過ぎだろう・・・jk

乗り討ちの話に全くノータッチだから困るw

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 20:53:40 ID:wLpbwUqh
弁慶「一緒にしないで下さい」


佐竹義宣、父に白い鷹を献上した桐沢久右衛門を

2009年06月30日 00:04

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 22:21:12 ID:B/99TFaR
佐竹家が秋田に移った後のこと

ご隠居の義重は六郷というところに住んでいた
ある日、その義重が所用で久保田城下に滞在した
義宣から、ご機嫌伺いの使者として、桐沢久右衛門という者が派遣された
近況など話すうちに、久右衛門から、義宣が見事な白鷹を手に入れたという話が出た

「ほう、わしはかつて常陸で百万石にも近い領地を治めたが、白い鷹は見たこともない
義宣は果報者のようだ」
義重は感心したように言った。この親子、相当の鷹狩好きである
それを知る久右衛門は、「では明日お借りして参りましょう」と約束した

そして翌日、久右衛門は鷹を借りると、再び義重を訪ねた
「ほう、これは見事…」
義重は鷹を腕に乗せ、眺めていたが、やがて目からはらはらと涙を流した
思わぬ反応に久右衛門は動揺し、つい「献上いたします」と言って鷹を置いて帰ってしまった

さて、当然ながら義宣は怒った
御前に呼び出された久右衛門がちらと伺うと、義宣の顔は憤激に染まっている
久右衛門、覚悟を決した
申し開きはせず、手討ちを望んで首を差し伸べた
義宣は上座からつくづくとその態度を見つめていたが、その場では何も沙汰せず、奥へと下がった

三日後、久右衛門へ改めて命が下った
久右衛門を勘定奉行に任ずるという、義宣の上意だった




908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 22:27:15 ID:QQMmacwE
判らん
粛正してまで集権化を謀った義宣がなぜ久右衛門を許したんだ…

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 22:32:17 ID:8iCyRCML
さすがに父に献上したからって手討ちにしたらまずいと気づいたんじゃないか。

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 22:33:31 ID:E6IrYXBb
集権化の障害になるような大身じゃなかったんじゃない?
なんとなくただのDQNとは違うイメージがあるし

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 22:37:48 ID:QQMmacwE
しかし三日後に勘定奉行にしてるんだぞ
…と思ったけど昇進なのかどうか判らんな

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 22:47:29 ID:KCmaKrG7
オチがよくわからんね
正直者だから経理を任せるには適任って話?

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 23:01:11 ID:B/99TFaR
こうとしか書いてないので、完全に想像だけど
そもそも義重が落涙したのは、常陸への憧憬と義宣政権への安堵と、
感情がないまぜになったからだろうと思う
すると義宣が怒ったのは、常陸を引きずる親父への苛立ちゆえじゃないかなーと
久右衛門の潔さを見て、義宣は自分の大人気なさを反省したんじゃなかろうか

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 23:04:00 ID:pZAbnaCb
命にかかわるような事でも言い訳をしない=財政を預かる財務官を任せてもごまかしをしない、
って事なのでしょうね。

後細かいことを言うと、「勘定奉行」が成立したのは元禄期の幕府においてなので、
この時代は、財務担当官があったとしても呼び方は、「勘定方」でしょうね。
今の大河で兼続のお父さんが、「上杉家の勘定奉行」というありえない役職に付いてて
流石に驚いた覚えがあるw

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/30(火) 00:06:23 ID:CfdrBoK8
こやつは嘘がつけんなと思ったのかも知れない

916 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/30(火) 00:55:58 ID:hIZX6h/D
>>914
あれは大臥ドラマといって大いに寝るためのドラマに御座いまする。

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/30(火) 01:21:07 ID:HY2FH7E4
>>916
貴様、誰が上手い事を言えと言った!そこへ直れ!


東西の山伏「貝が森くずれ」

2009年06月30日 00:02

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 19:06:48 ID:pZAbnaCb
天文年間の事だそうだ

大和国、大峰に全国の山伏が集まって修験した事があった。
その時伊予の修験者福生院と、美濃の修験者利勝院とが、席順をめぐって争いとなった。

悪い事に、福生院は西国に、利勝院は東国にそれぞれ大きな影響力を持つ修験者で、
この争いはたちまち、東西の修験者の大喧嘩となった。

そして福生院は与党の山伏を引き連れ帰国、やがて土佐の貝が森にたてこもり、
三年にわたって紫燈護摩の祈祷を行い、その間西国の山伏達を糾合、そのため貝が森の山伏は
大勢力となった。

これを聞いた利勝院は脅威を感じ、彼らの復讐を受ける前にと、東国の山伏を集め軍勢を組織、
船団を組み、観音崎の有る土佐の下の加江に上陸。近江国の金剛院を先鋒に
貝が森に攻め寄せた。

不意を突かれた貝が森の福生院党はたちまち壊乱、敗走した。
福生院は部下の金王院、南蔵院等をつれて伊予へと逃れようとしたが、途中の長瀬という場所で
金剛院の軍勢に追いつかれ、ついに討たれた。

だが、この時金剛院も傷を受け竹部と言う場所まで引き返したものの、そこで斃れた。

そして東軍の大将である利勝院も、攻め懸けた折に負傷し、貝が森まで引き上げたときに
「この地に美濃国蔵王権現を祭れ」と言って、自害したとのことである。

この事は「貝が森くずれ」と呼ばれ、この周辺には、この時死んだ山伏達を弔った墓石が、
今も処々に残っているのだという。

山伏の東西合戦のお話。





800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 19:31:00 ID:B/99TFaR
>>798
とんでもない怨念がこもってそうだなあ・・貝が森

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 20:00:47 ID:QQMmacwE
山伏って独立独歩なイメージがあったけど徒党も組んだんだな


徳川家康、首を取ってきた陪臣に

2009年06月30日 00:01

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 22:38:50 ID:o0PnG/zJ
徳川家康の陪臣が、とある戦いで名の知られた者を討ち取って
首を持ってきた。
「すごい奴の首じゃないか!」と皆が陪臣を誉めそやした。
このことを聞いた家康は陪臣にこう言った。

「貴様の主人は年若いわけだが、貴様がそいつと戦っていた時、
主人は何をしていた。」

「そ、それは・・・どこにいらっしゃったか存じませんでした。」

この男、若い主人のことを忘れて敵と戦う事に夢中だったのである。

「己の手柄の前に若い主人のことを考え、主人に敵と手合わせ
させて、傍でそれを助けるのが貴様の役目だろう!戦場で主人を棄て、
独断行動で首をとっておいてなにが功名か!」

怒った家康は主人を呼び出し、その陪臣を追放させたのだった。




807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 22:46:24 ID:pZAbnaCb
>>806
家康の言うとおりなんだよねー。家来の機能って主人の補佐であって、家来が主人を放って
功名するようになったら、軍秩序そのものが壊れちゃう。


島津日新斎と貴久、死者を弔う歌

2009年06月29日 00:14

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:51:59 ID:4QYQHro9
>>776を見てて、島津日新斎と貴久もそういう句を読んでるのを思い出した。
芳春院さんほど凄いものではないけど、一応上げとく。


永禄九年(1566年)に島津義久、義弘、歳久兄弟は、伊東家が建設中の
小林城を攻め取ろうとしたが苦戦、なんとか城を焼き本丸を残すのみとなったが
ここで伊東軍の援軍が現れ、義弘が大怪我したことにより島津軍が撤退して戦いは
終結したのだが、小林城の内堀と外堀が双方の軍の将兵の死体で埋まるほどの
大激戦となった。
そこで、日新斎と貴久は双方の死者を弔うため「南無阿弥陀佛」が冠された和歌を
発句していている。


●日新斎

南: 何事も 何事もみな 南無阿弥陀仏 なほ討死は 名をあぐるかな

無: 無益にも むつかしき世に うば玉の 昔のやみの 報いはるらん

阿: あしき世に あらゆる物も あしなれば あからさまには あらじ身のはて

弥: 南には 彌陀観音の 御座なれば 身まかる時も 御名を唱えよ

陀: 誰にかも 誰ぞと問わん 誰しかも 誰かは獨り 誰かのこらん

佛: ふつふつと ふつと世も身も ふつきりに ふつとくやしく ふつと悲しも


●貴久

南: 名を重く おもふ心の 一筋に 捨てしや輕き 命なりけり

無: むらむらに しぐるる今日の 柴よりも 昨日の夢ぞ はかなかりける

阿: ありはてぬ 此の世の中に 先立つを 歎くぞ人の 迷なりける

弥: 水のあわの あはれに消えし 跡とてや 折々ぬるる 袂なりけり

陀: 立ちそえる 面影のみや なき人の 忘れがたみと 残し置きけん

佛: 佛ます 世をいづくとや たづぬらん 呼べば答ふる 山ひこの聲


この二人が同時にこのような発句をした例は他になく、相当の死傷者が
出たものと考えられる。(ちなみに木崎原合戦の頃は二人とも既に他界)





850 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/28(日) 04:24:00 ID:7LLTIife
>>848
むかし、"かきつばた"だけでもすげーとおもったが、島津親子もまけてねーな…

862 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/28(日) 18:06:19 ID:kN1VwwvQ
>>848
日新斎の句は北条と同じく全部南無阿弥陀仏になるようになっている。

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 19:27:27 ID:0x71UH0T
>>862
ちょっと反則気味だけどね

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 14:23:31 ID:74WCYhKH
>>848
爺ちゃん手抜きだろw


島津久保と木に吊るした首

2009年06月29日 00:12

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 04:20:18 ID:w+HcOaLF
島津貴久の逸話って少ないよな
ザビエル絡み以外で何かあればプリーズ



851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 13:04:12 ID:uP/JlwNl
>>849
貴久って前半生は分家とシバキ合い、後半生は伊東・肝付とドツキ合いの話ばっかで
(しかも出陣してるのは家臣や息子達)逸話らしいお話ってないんだよねー俺もプリーズ
というわけで貴久じゃないけど島津の珍しい人のお話

文禄の役の時のこと。『明軍来る』の報を受けた日本軍は、江原道・慶尚道の入口に近い
金化城での防衛を決定した。しかし諸将は、近くに都市が無く孤立しやすい金化へ行くことを
渋り、結局奉行らの指図で島津家がこの任に当たることになった。。

伊集院幸侃は、島津義弘に進言した。
「諸将が『防衛し難い』と言っている城を、我らだけで守るのは、賛成できません。
わが薩摩兵とて、金石のごとく固いわけではありませぬ。この任は辞退するべきです。」
これに義弘の嫡子・島津久保が反論した。
「『士は勇を尊ぶ』、と言う。諸将が断ったのは、勇なきが故だ!これに習えば、我らもまた
勇なき者ということだ。恥ずべきである!」義弘は久保の言葉に従い、金化に移った。

しばらく後、ついに明軍が来て金化城近くにある山に登り、城中をうかがった。
久保はみずから鉄砲隊200を率いて山を奇襲してこれを追い払い、首30余を得た。
思わぬ手柄に喜ぶ兵たちに、久保は言った。
「この程度の首を持って帰り、功を誇る気は無い。」
そこで首を全て木の枝に吊るし、銃創のある敵の遺体を木に縛りつけ、金化城に戻った。

これが良い敵への威嚇となり、敵は再び金化城を伺わなかった。
その事を知った義弘は久保を激賞し、諸将はことごとく久保の武勇に感服した。


ああ、この人が長生きしてくれれば…




852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 13:10:45 ID:Sskq/thZ
こんな剛毅なお兄ちゃんがポックリ逝くとは思わなかったろうなぁ
家久(悪)が油断しまくってたのも無理ないかもしれん。

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 13:19:33 ID:ELyd+h32
>>851
オレ的なぜ死んだしランキング二位のクボじゃないか!(一位長宗我部信親)
早くに病死したからはかないイメージだったけど猛将タイプだったのか・・・

854 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/28(日) 13:42:56 ID:7LLTIife
>>そこで首を全て木の枝に吊るし、銃創のある敵の遺体を木に縛りつけ、金化城に戻った。
ああ、ここはやはりなんとなく家久(悪)と血を共有しているなと感じたw


855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 14:07:51 ID:z8oC9o8m
死体吊すなんざ中国じゃ昔から、アメリカの西部開拓時代じゃ当たり前にやってた事。
さらし首だって似たようなものだし、何も特別じゃないじゃん


856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 14:19:05 ID:yz7Bynyz
>>855
それはその通りだけど、日本の文化としては死体を吊るすのは一般的ではないような…
死体に触るのは穢れるとされてた時代だし

相手が日本兵じゃないから、向こうの風土に倣ったのかな

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 14:21:19 ID:Ka59w4PW
磔のつもりだったんじゃね。
戦場ど真ん中で忙しかったから、磔の簡略版というかそんな感じで。

858 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/28(日) 15:21:43 ID:Ifb/F+VP
明軍兵士「俺は見た。朝鮮には人の首が実る木があるんだ」

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 17:17:55 ID:kds82dkt
悪久さんならさらし首どころか討ち取った武将を剥製にして晒しそうだ

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 17:23:47 ID:J1W0FazY
スレ違いなんで結論だけ書くと、日本中で死体をゴニョゴニョなんてのはやってることですよ

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 17:53:18 ID:NI5eE6km
信長「まったく死体を辱めるなど言語道断」


864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 19:21:23 ID:ssn2bPU+
>>858
It's strange fruits

明兵は世界最初のジャズメン

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 19:46:36 ID:5XbRp6Vs
>>851
300って映画で死体で飾った木があって、スパルタ人がビビっていたのを思い出した。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 19:56:24 ID:StcR6+CV
まあ、ビリーが子供の頃はリンチされた黒人は木に吊るしておくのが当たり前だったみたいだし

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 20:23:48 ID:hSDVW8B5
>>866
ペルシャの不死隊がどう見ても忍者なあの映画かw
ラストの3倍の敵?楽勝じゃん!と言ってのけるスペルタ兵は格好良かったが

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 20:40:30 ID:cTJvo23f
屍体を見せしめにというと、某吸血鬼な串刺し公を思い出す。


尼子家家宝の銘刀・荒身国行と大西十兵衛

2009年06月29日 00:09

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 19:51:37 ID:Kk9fETwV
永禄9年。武運つたなく、尼子義久は毛利に敗れた。
重臣らと共に毛利に下り、幽閉されることになったのだ。

義久は尼子家家宝の銘刀・荒身国行(頼国行)を毛利から隠した。
国は取られても家は取られたくないと、必死だったのかも知れない。
しかし天正16年。ついに刀の在処が発覚する。
輝元「家宝が欲しい」
義久「何のことですかな」
輝元「国行を隠し持ってるのを知っている。それを譲って欲しい」
義久「な、なぜ今更」
輝元「太閤に献上するのに、一番適しているのが国行だからだ。
   尼子の家宝というのも箔がつく」
義久「そんな理由で…」
輝元「譲って欲しい。幽閉されている義久には、刀は必要ないだろう」
義久「……。わかりました。私を生かすも殺すも毛利次第。
   刃向かうことなど出来ません。お譲りいたします。
   その代わり、貴方に家宝を教えた者の名を、聞いてよろしいですかな」
輝元「ふむ。家老の大西十兵衛だ。よい家臣をお持ちだな」
義久(嫌みか)
義久は輝元に家宝を取られ、憤った。
16年。懸命に隠してきた家宝が、家臣の告げ口で
簡単に取り上げられたのだから、それも当然である。
しかも天下人への媚びとして使うのだから、悔しさはひとしおだ。
そして、義久は刀を握った。
乱心であるを理由に、尼子家家老である大西十兵衛を切り捨てたのである。
もちろん、本当に理由は輝元に家宝の存在を洩らしたことなのは、明白な事実だった。

翌17年。ついに義久の幽閉は解かれる。
そして人質から客将へ立場が変わった。そんなあるとき、義久は刀の件について知ることになる。
輝元「今だから言えるが、十兵衛が家宝のことを告げ口したのは、義久のことを思ってのことなのだ」
義久「どういう事ですか」
輝元「家宝の在処を教えるから、そなたの幽閉を解いて欲しいと、大西は私に掛け合ってきたのだ」
義久は驚いた。
裏切られ続けた義久の人生にも、忠義の臣は居たのだ。
義久は十兵衛の忠義に感謝し、
その嫡孫・新四郎に大西家を継がせるとともに大西家を手厚く遇するのだった。


余談になるのだが、家宝である国行は、太閤の手から今度は大谷吉継に下賜されたそうな。







868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 19:52:27 ID:Kk9fETwV
やる夫口調が書けなかった。すまん

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 19:58:07 ID:+01SrhGo
>>867
なんというか、切ない話だね。
忠義の形は難しい。

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 20:19:22 ID:CpoRSVav
義久は宇山もやっちゃってるから微妙だなあ。
ていうか裏切りは全部毛利発端じゃないかw

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 20:23:48 ID:hSDVW8B5

>>868
そんな縛りねぇよw
しかしどちらかと言うと早とちりしてしまった義久の悪い話では…
輝元が煽ったとはいえ

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 20:36:00 ID:VSuGXJVv
いずれにしろ、大西の行為は裏切りだし、覚悟の上ではなかったかと思う

それから、宇山の死は家中の内紛が結構複雑にあった末のようなんで、
一概に義久個人の過ちとも・・


玉川義則、島津家久(忠恒)への忠義

2009年06月29日 00:08

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:05:00 ID:HYfzE76o
意外な人の忠義(?)の話

関ヶ原の戦いの後、薩摩に逃れた宇喜多秀家は、徳川と島津家久(忠恒)らの交渉により
死一等減じて八丈島に流罪となった。薩摩を去る日、秀家は家久に感謝しつつ言った。

「落人の身を今日まで養っていただき、感謝する術が無い。私には二人の家臣がいる。
玉川義則と山田半助と言い、節義ある士だ。この二人を、あなたに仕えさせてほしい。」
家久は了承し、二人は島津の家臣となった。

このうち玉川が馬術・弓術の達人と聞いた家久は、その馬術を試すことにした。
馬術披露の当日、三原重庸が玉川のために引いて来た馬を見て、家久は激怒した。

「それは誰も乗りこなせぬ悍馬ではないか!うぬら玉川を新参と侮り、辱めんとするか?!
ええぃ、オレの“小澤”を引け!あれは良い馬だ、玉川にくれてやれ!」

のちに玉川改め本郷伊予守義則は、
「薩摩に使えるのは、私の本意ではなかった。「士は二君に仕えず」とあるように、
十年働いて恩を返した上で、八丈島に行くつもりだった。
だが、家久様のお言葉は私の臓腑を貫き、今や薩摩を去るに忍びぬ。
これよりは一心に家久様に仕えん・・・」そう言って涙したという。

その後しばらくして、城近くで火事があり、筆頭家老・伊勢貞昌は馬で城に急行した。
家伝の馬術を誇る貞昌に先んじて、城門の前に弓を持った騎馬の士がいた。
「はて、わしに先んずるは何者だ?」
「本郷伊予にござる。新参者の私は騒動の中、城に入るべきではないでしょう。ここで異変に
備えまする。ご家老、早く城中を守られたし!」その態度に、貞昌は大いに感じ入った。

本郷義則はその馬術・弓術の全てを薩摩に伝え、慶長二十年、惜しまれつつ世を去った。
家久はこれを悲しみ、一首を詠んだ。

馴れ馴れし 見し世の春も 限りぞと 移ろう花の 跡の悲しき

本郷の教えた日置流印西派弓術は伊勢貞昌の従弟・東郷重尚が継ぎ、今に伝えている。
ちなみに同じ日置流印西派を学ぶ法政大学弓道部は、全国大学選抜大会6回、
全関東学生選手権大会11回、全日本学生選手権大会8回、全日本学生王座12回の
優勝回数を誇る、学生弓道界の雄である。





878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:14:09 ID:hSDVW8B5
家臣には配慮する方だよな家久(忠恒)
主君の配慮を心から理解して分を弁え驕らない家臣もまた良し

忠義の士の技が400年経って今でも継承されている
素晴らしいね

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:35:55 ID:E7TzFuK6
>>878
まだあなたは本当の家久(悪)を知らない・・・w
餃子の王将が卵一日100万個使うように
家臣を殺しているお方ですぜ

おっとこれ以上はスレ違いなんでまた後日・・・

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:45:12 ID:5xqYO+cU
ふと思ったんだけど
宇喜多秀家って朝鮮渡海やら薩摩への逃亡やら
八丈島への配流やらで移動距離が半端ないですな。


881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:46:22 ID:OU016/pP
…山田半助さんは?
悪久さんに苛められて黒歴史になってるとか?

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:56:58 ID:HYfzE76o
>>881
元ネタの注に「或云半助ハ早ク国ヲ去ル」とあるので浪人として過ごしたか、
八丈島にでも行って無名で終わったんでしょう。

きれいな悪久だって存在するんですよw

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 22:26:05 ID:+FKB6IvA
ああ、良い奴が良い事してもあまり印象に残らないけど
DQNが良い事すると凄い印象に残るということだな

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 22:31:48 ID:wSvR6dOs
本郷義則、調べてみたら石高多く貰ってるな。
慶長十八年の記録で1307石。
山田有栄が同じ年度で1806石だから破格の待遇じゃないか。

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 22:41:58 ID:ELyd+h32
お気に入りとは言え新参者に家老待遇か
ホント悪久さんは「家臣には」優しいな

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 23:20:00 ID:E7TzFuK6
>>884
うわ・・・こんなむけむけのことしてよく山田とか怒らなかったな。
確かこのころ新納忠元家なんかは1000石きってたのではなかった?

要は旧臣には自分の素性がバレバレだから
新参者を優遇して自分の言うことをきく親衛隊を作ろうとしてたのかも知れないな。

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 23:48:01 ID:wSvR6dOs
>>886
それはわからんけど、山田は寛永九年には2656石になってるから
勘繰るほどの事は別にないんじゃない?


889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 23:56:22 ID:hSDVW8B5
能力持ってる奴を優遇しただけかもな

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 01:11:49 ID:V1w/Sqt0
能力もそうだし、名分上も貰い受けた家臣だからそう粗略には扱えなかったのかもな。
弱味につけこんで安く買い叩いたなんていわれたくなかろう。

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 03:32:36 ID:zngWal9A
佐竹家みたいに戦乱から太平の世に変わりゆく中で人事異動が激しかったんじゃないかねえ
体制システムも変化していくし、新参でも有能なら厚遇、古参でも言うこと聞かないならビッシバッシ


892 名前:884[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 13:01:29 ID:KNH6/L5Z
追記だが、慶長十八年に於ける筆頭家老・伊勢貞昌の碌は2531石。
山田自身が我々が思ってるほどに、そのときは高い地位を得てなかったと
考えた方が妥当かも知れん。
ちなみに伊勢貞昌、寛永九年には3812石になってる。
急激な碌の上がり方は、義久の旧臣殺して浮いた分を与えたのか、
はたまた諸県地区の開拓推進がうまくいったためか。

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 18:41:46 ID:/d9JjttW
>>883
映画版のジャイアンの事ですね。


佐竹義重の宿老、和田昭為の変転

2009年06月29日 00:05

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:21:42 ID:GI1oQLto
佐竹義重の宿老に和田昭為という者がいた
ある日、佐竹と激しく抗争していた会津蘆名家から、和田屋敷に使者が遣わされた
和睦の使者だったが、条件が悪く昭為は独断で拒否した

ところが、これを察知した重臣の車丹波守は、昭為の内通を疑った
丹波がこのように上申したため、義重も昭為を猜疑し、和田家討伐を指図した
昭為自身は間一髪出奔したが、息子三人は上意討ちで殺された

出国した昭為は蘆名重臣の佐瀬源兵衛を頼った
しかし、「下位に置くわけにもゆかず、かといって上位に置けば蘆名の歴々が納得すまい」
と語るのを聞き、早々に見切りをつけて再度出奔
今度は南陸奥の白河義親を頼った
義親は昭為の境遇に同情し、またその計略の見事さから重用した
白河重臣となった昭為は、常々佐竹への復仇を口にし、義親にその策を話してもいた
ついに義親もその気になり、佐竹領へ軍勢を率いて打って出た

が、結果はこてんぱんに負けた
侵攻した義親を、東義久が迎え撃ち、さらに背後では昭為が反義親勢力を蜂起させたのだ
そう、昭為は佐竹への復帰のため、すべてを義久に内報していたのである
この敗戦で義親は佐竹に膝を屈し、昭為は宿老として返り咲いた

なんだか色々とおそろしい話





758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:28:00 ID:+01SrhGo
これぞ虚虚実実の戦国時代、って感じの話ですなあ。

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:30:16 ID:a/KKa78c
>>757
息子と一族が殺されてるのに出戻りしたいという気持ちとはどんなものなんだろうな

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:32:10 ID:8FHbrQqd
忠義・・・なのかな?

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:38:01 ID:epOWrp0B
それだけ「先祖代々の我が土地」への執着が強かったんでしょうこの時代の武士は

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:52:32 ID:4HL11caA
さすがに息子殺されてるの知ってれば疑わないよなぁ

763 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/28(日) 02:02:39 ID:Ifb/F+VP
直家さん家でも似たような話あったよな
あっちは全て台本通りって感じだったけど

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 02:14:37 ID:+01SrhGo
たしか義重が、蘆名への内通は誤解だってことに気がついて、昭為に書状で謝ったって
話じゃなかったかな?それで復帰の手土産として、義重に作戦内容を知らせたとか何とか。

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 03:13:17 ID:lYn4SFtr
>>752
謙信じゃなくて信玄に対抗してじゃなかったっけ?

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 04:28:02 ID:l4f06QhF
子はまた生めばいい的な発想もあったろうさ
子供は最大のライバルになりえることだってあるし
男親は腹痛めて子供産むわけじゃないからな

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 05:25:28 ID:dYaX0pPn
乳幼児死亡率が今よりも遥かに高かったし、
滅多なことでは子供が死なない今とでは親子の愛情や距離感も違うのだろうね
もっとも、長宗我部元親は子供亡くして鬱病になっちゃったけど

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 11:28:19 ID:epOWrp0B
>>767
むしろその方が、子供に対する執着は強まると思うが

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 12:25:38 ID:OU016/pP
一夫多妻制じゃあ、お気に入りの女から生まれた子供だけ可愛がる様になるんじゃないの。


『本佐録』より、本多正信、徳川秀忠への言上

2009年06月29日 00:03

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 18:29:29 ID:VSuGXJVv
本多正信が『本佐録』にて、徳川秀忠へ言上したこと

「ひとたび臣下となった者は、昼夜となく主君に忠節を尽くすことばかり考えています
大事に望んでは、一命を捨てて働く覚悟、毛頭偽りなきところです
ただし!これは己が生きている間、そして妻子や一族一党を養ってもらう代わりなのです

ですから、たとえ敗軍の時でも、諸将が枕を並べて討死してくれるよう、
情けをもって部下に接しなくてはなりませんぞ
まるで仇のごとく、高圧的に扱っていれば、部下は恨みを忘れません
敗軍となればたちまち主に背き、それどころか敵に突き出すことも厭わぬでしょう
敵より恐ろしきは味方なのです」

なんとも重みのある正信の説教
いい話、とも言えそうですが





784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 18:42:48 ID:4HL11caA
>>783
これに比べて豊臣は・・・

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 18:57:39 ID:0KVvy6O2
ご恩と奉公じゃないが、秀吉の死によって豊臣に庇護してもらうということは難しくなったからな。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 19:00:59 ID:XCegrnQf
孟子の「君之視臣如土芥 則臣視君如寇讐」が元ネタですかねw


803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 21:00:58 ID:SN5ld6EX
>>783
戦の時に敵に背を向けず討ち死にしまくる家臣団は最強だなぁ

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 22:26:28 ID:ziWv2AcE
>>803三方ヶ原でボロ負けした時か、

合戦はお話にもならんレベルで武田にチンチンにされた徳川軍団が
討ち死にした者悉く、頭が三方ヶ原へ向いた骸はうつ伏せに
浜松へ向いた屍は仰向けに……倒れてたって喧伝されたのね。

そりゃ風評にしても凄いわなあ


相良義陽と甲斐宗運の友情、宗運側の史料では

2009年06月28日 00:14

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 12:02:09 ID:zGrtFuXZ
人吉の相良義陽は島津家に降伏したのち、かねてよりの盟友である甲斐宗運を
攻めるよう命じられたが、盟友を攻めるに忍びなく守りに向かない響ヶ原に
陣を敷き、そこで後方より宗運の軍の攻撃を受け床几に坐したまま討たれたという。

・・・・・とするのは相良側の史料である。
実は宗運側の史料はやや違っている。

義陽は島津家に一旦降ったものの、実は宗運と謀り島津義久の軍を誘い出して
共にこれを討つ計画であったという。
しかし、島津がこれに乗らなかった。そのため宗運は義陽が裏切ったのではと疑い、
そのため濃霧の中、義陽の不意を衝いてこれを討ったと記している。
無論、どちらが真相であるかはわからない。

ちなみに相良家の人吉城は二度の大火に焼かれ、「求麻外史」、「南藤蔓綿録」と
いった相良氏を代表する史料は、だいぶ経年してから書かれたものである。





735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 12:20:41 ID:g5Oe/YK5
甲斐さんの話の方がリアルっぽいね。

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 12:50:10 ID:NzUZkB8S
宗運さん鬼畜だからな

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 12:52:14 ID:WDKg+v4k
宗運さんは猜疑心の強い腹黒ジジイの方が説得力がある。

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 13:17:15 ID:xAhuWoRe
義久も引きこもりだからなぁ

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 13:24:39 ID:/5snG5Pk
…なんにせよ義陽は不憫だなぁ

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 13:35:26 ID:Cr6VS3i4
宗運側の史料が正しいとなると、
義陽の死を宗運と義久が悲しんだ
とするのもウソくさくなるな。

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 21:33:09 ID:OW51D0jU
>>734
こういう、一つの物事の伝わり方の違いっておもしろいね
しかし、宗運容赦なさ杉w

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:45:31 ID:mbZveu05
義陽の判官贔屓が無くなったら
ゲームの相良家が一気に弱くなる(´;ω;`)

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:53:26 ID:xDdxvnJx
宗運さんの忠義っぷりはイカレてる感じがして好きだ




関連
相良義陽と甲斐宗運の友情・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1202.html


島津義久、家康に武勇伝をせがまれ

2009年06月28日 00:13

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:19:24 ID:WdVH1eIO
島津義久が伏見城に招かれた時の事。
家康に武勇伝を聞かせて欲しいとせがまれた義久は
「弟達や家臣が頑張っただけで自分の手柄と呼べるようなものは無い」と謙遜した。

既出の話題(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1094.html)だが
薩藩旧伝集だと、纏めサイトの話と若干状況が異なる。

慶長3年(1598)11月、徳川家康は京・伏見の自邸に島津義久を招いた。
招かれたのは義久だけでなく、本多や榊原、藤堂に井伊と言った面々も居た。
家康曰く、
「ここに居るのは皆、若年の頃から戦場を駆けて功をなした者達。
 それぞれの武勇伝をぜひとも聞きたいものだ。」とのことなので、
諸将はこぞって、年長の義久に
「龍伯殿ならば大友や竜造寺を相手にした武勇伝もおありでしょう、先ず最初にお話なさいませ」
と勧めた。だが義久は
「いやいや、自分にたいした手柄は御座らん。皆様方から先にお話下され。」
と辞退した。そこで井伊や藤堂等が自分達の手柄話を得々と述べ始めた。

諸将の武勇伝を一通り聞き終えて満足した家康だが、義久が辞退したことを
まだ忘れてはいなかった。
「ささ、今度こそ龍伯殿の武勇伝を!」
家康のみならず諸将もこぞって求めてくるので義久もやむなく口を開いた。

「手前は大友や竜造寺、伊東を相手にした合戦はあくまでも名目上の総大将として
 出陣しただけで御座います。戦に関しては弟の義弘や歳久、一族の忠長や征久、
 家臣の新納や山田を派遣して勝利を得ただけのこと。自身の働きなど何もございません。」

これを聞いた家康は
「自ら手を砕かず家臣への下知だけで勝利を得てこそ真の名将。
 いやいや、龍伯殿の名将ぶりは鎌倉の右大将(頼朝)にも引けをとるまい!」
と激賞したため、先に手柄話をした面々は大いに反省し、
この後の武功話は取りやめになったと言う。

義久が徳川の諸将の面目を潰した悪い話…というのは穿ち過ぎかもしれないけど
陣頭の猛将タイプの人達の中に、義久がポツンと混じってる状況と言うのも
義久には可哀想な気がしないでもない。





742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:25:44 ID:zYmohN8O
始めてから大名だった人と、一家臣から出世して大名になった人を一緒に出来ん罠

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:26:35 ID:xAhuWoRe
見事に脳筋ばっか…
なんでこのメンツで義久が招かれるんだ…

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:29:31 ID:WDKg+v4k
義弘とかが出席するべき席だったな

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:31:24 ID:i4ZYLPrQ
>743
脳筋ばっかで辛いからまともな人を1人呼んどいたんじゃね

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:33:17 ID:xAhuWoRe
1598年じゃ朝鮮行ってるがな
デ新納さんが行くべきだっな
もう70越えてるけど




747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 16:12:25 ID:g5Oe/YK5
>>741にさらに補足
こっちは あ の 『名将言行録』バージョンらしいが
過去某スレに載っていたのをコピペ
----------------------------
名将言行録には義久関連のこんな話も載っている。
「徳川家康は島津豊久を呼びだして、本多忠勝と一緒に
 ”耳川の戦いってどんな戦いだったのか?”
 と言う質問をした。豊久はかくかくしかじかと耳川の戦いの顛末を説明した。
 豊久が出ていった後、家康は
 ”豊久の言うとおりで有れば、島津義久とは非常に恐ろしい大将じゃわい
  負けたように見せかけて大友宗麟の大軍を罠に引き込むとは!”
 とため息をついたという。」












ところがこの話には続きがあって
「豊久の話は方言がきつくて家康と忠勝は聞くのに苦労した」
そうだ。苗w




748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 16:14:50 ID:i31hCh32
>>747
きつい薩摩弁を通訳無しによく判読した!感動した!w

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 16:36:31 ID:xAhuWoRe
>>747
楠木正成が隅田、高橋を天王寺に誘い込んだ話のようだと評してるな<家康

葵徳川に出てた津川の家康のアメリカンな演技はあんまり好きじゃ無かったけど
この話では豊久が出ていった後、家康が舌を出して首を振ったと書いてあるんだよな
案外間違ってなかったのかも知れん



関連
徳川家康、島津義久に感心する・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1094.html

島津義弘、案内してくれた老人に

2009年06月28日 00:10

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 01:41:42 ID:oJSFigjr
関ヶ原の戦いで、島津義弘はなんとか戦場から抜け出すことができた。
彼は薩摩に帰るために甲賀方面を通った時に、ある老人に奈良まで案内して
ほしいとお願いした。老人のおかげで奈良にたどり着いた義弘は「ここまで
よく案内してくれた。礼としてこれを授けよう。今度、これを持って薩摩に
来るといい。ではさらばだ」と言って刀と金龍の印の笄を与えて、去っていった。

その後、老人が笄を証に薩摩までやって来た。恩人の来訪に義弘は
「おお、なぜもっと早く訪ねてくれなかったのだね」と非常に嬉しそうだった。
二人は当時の辛かったことなどを語り合った。老人は連日、盛大にもてなされ、
観光案内もされたという。やがて老人が帰る時にはたくさんの黄金が与えられ、
老人を薩摩に連れてきた者にも黄金が与えられた。






北条さん家の教養シリーズ・北条氏政

2009年06月28日 00:08

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 00:17:38 ID:i31hCh32
北条さん家の教養シリーズ


北条氏政の下に、都より勅旨が参られた時の事。
氏政は小よろぎの磯という所で、月見の宴を催した。

ここで歌合せが行われたのだが、氏政は最初の句として

『秋もなかば 我身もなかば こよろぎの いそがぬ年の いかでたつらん』

氏政はこの時三十歳。六十を一期として、「我が身も半ばとなった」と詠んだのである。

この見事な歌に勅旨は感じ入り、「今夜は、この上の詠歌はいらないでしょう」と、
その夜は、この一首のみの宴となった。

やがて勅旨が京に帰ると、その歌は勅旨の口から叡聞に達し、叡感の余り
御薫物五香を氏政に下された、ということである。

氏政の歌、帝も唸らせるの巻






吉田孝頼、長宗我部国親に

2009年06月28日 00:08

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 00:30:42 ID:PYisLs/d
一条氏の援助を得、長宗我部国親が岡豊に復帰したころのこと
国親はまさに四面楚歌の状況にあった
仇敵・本山氏とは和睦したものの、依然大きな脅威だった
吉良氏、山田氏ら本山氏とともに岡豊を攻めた家々も健在である
後援者である一条氏の本拠・中村は、地理的に遠い
その上、四散した旧臣達は、国親の実力を測りかね、なかなか集まってこない

「仇敵に囲まれているというのに、仇討ちどころか孤立するばかり
行く末もおぼつかぬ。どうしたら父母の無念を晴らせるか」
国親は日々、嘆いていた

そんな彼に心強い味方が現れる
近隣の領主で、知謀に長けた吉田孝頼である
孝頼は国親に具申した
「天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず
大事をなすには、まず人です
人を懐かすため、真っ先になすべきは慈悲をかけることです」

国親は納得し、早速政治を改めた
高すぎた税は引き下げ、法度を緩和し、領民一人一人に目を配る善政をしいた
人々は一斉に国親を称賛し、この評価を聞いた旧臣も次々に帰参してきた

長宗我部躍進の基礎を用意した、天地人の話




827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 01:28:16 ID:qsFADB/g
>>826
ナイスパパン♪ というか吉田のじっちゃまナイスアシストだよね。

吉田一族には大備後って大物も出てくるんだな、なんつーか創業の功臣の鑑というか

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 11:58:42 ID:vp2JoLH/
>>826
吉田一族は人物が多いね
黒い仕事も道化役もこなす孝頼はえらい


佐竹義重と蘆名盛隆の、ラブ&ピース!

2009年06月28日 00:06

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 02:22:37 ID:i31hCh32
美男子と言うと、すごい有名な話だけどまだ出てないようなので書き込んでみる


蘆名盛隆公は武勇の大将としても有名であったが、なにより、
絶世の美少年として名が高かった。

蘆名が佐竹との合戦に及んだ時のことである。
佐竹の大将、佐竹義重は、合戦の最中、この盛隆を見て、衝撃をうけた。

一目惚れをしてしまったのだ。

その晩、義重は思いのたけをつづったラブレターを書き、送った。敵の大将に。
盛隆もこれを読み、義重の自分への想いに感動した。

そんなこんなで双方、書状をやり取りしているうちに、ついに合戦は止み、和議がなった。
愛が戦争を止めてしまったのだ。

そんな戦国の、ラブ&ピースのお話。




830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 02:33:33 ID:8A9V4Iuo

でも、結局男色のもつれで死ぬんだよな

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 03:22:55 ID:Xm0CccBk
ちなみに盛氏は盛興の後室を養女にして盛隆を婿にした
妻は元主君の内室である、しかもこの室は彦姫といい伊達晴宗の四女で
盛隆の母の妹にあたり叔母だったのだ
盛隆は抱く前に平伏して「ご免」と言ったとか
このあたりは兼続と舟に通ずるいい話

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 03:30:23 ID:4lNd8l5V
>>829
なにその戦国ランスw

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 11:42:07 ID:TLN5qwiH
>>833
アレは鬼畜イケメンと姫武将がラブってコメるファンタジーだけど
コレは太田三楽や真壁氏幹を飼ってる鬼とショタのアーッ!なリアルである件


秀吉、新納忠元に

2009年06月28日 00:05

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 20:46:24 ID:MOoY7jOw
秀吉が島津義久を下した後のこと。

秀吉は島津家臣の新納忠元と会った。秀吉は忠元に
「まだわしと戦いたいかね?」
と質問すると忠元は
「我が主君と敵対なさるならば何度でもお相手しましょう。」
と言った。

秀吉は
「さすが勇士であるな。」
と言って着けていた陣羽織を忠元に授けた。受け取った忠元が
下がろうとすると・・・
「待て。まだやる物が残っておる。」
秀吉は白刃の長刀の首もとを掴んで、石突の方を出して授けた。
この状態なら、忠元が殺ろうと思えば秀吉を刺すことができる。
しかし秀吉の豪胆な振る舞いに、忠元は身震いしながら受け取ること
しか出来なかった。

その後、帰宅した忠元に若侍たちが会見はどうでしたかと聞いてきた。
これに忠元は
「・・・俺が刃向かえるような御仁ではなかった。さすがの俺も腰が抜けたわ。」
と答えたという。




838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 20:58:29 ID:TLN5qwiH
まあその割に太閤検地が始まっては反乱を勧め
歳久処罰と聞いては反乱を勧めるんですがねw

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 21:01:32 ID:/RGWkIuE
ラスボスのすることといったら
刃が潰してあったら面白いんだが

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 21:05:57 ID:z27LfoEp
>>838
そりゃあ、新納さんは刃を向ける者じゃなくて、その者が持つ、相手に向けられる刃の方だからな。



関連
南の方の武蔵、新納忠元・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-688.html

小西行長、グネッキ・ソルディ・オルガンティーノ神父に

2009年06月28日 00:04

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:13:04 ID:kexM5wdj
1587年、日本のキリシタンたちは恐れに震えていた。
豊臣秀吉によりバテレン追放令が発せられたのである。
蒲生氏郷、黒田孝高、小西行長などの代表的キリシタン大名達は表向き棄教し、
太閤の意志に準じる態度を取った。

しかしこの命令をやはりと言うか何と言うか高山右近だけは拒絶した。
表向きの棄教ですらしなかった。
右近にとって信仰は所領や地位より大切なものだったのである。
彼は棄教を拒否すると身をくらました。


その頃小西行長は秀吉の怒りを買うことを恐れ、堺に戻り怯えていた。
日本のキリシタン大名達の中でも地位が高く、政権の中枢に近い行長の許へは
毎日のように逃げてきた宣教師やキリシタンが助けを請いにやってきた。
行長はそれを冷たくあしらい追い返していた。

「助けるのは無理だ。俺だって立場がある」

その行長の言葉に宣教師たちは絶望し、ほとんどのものが長崎に逃げていった。
しかし留まりなおしつこく行長に会おうとする者がいた。
イエズス会の良心グネッキ・ソルディ・オルガンティーノ神父である。
彼は危険をおかして行長の屋敷を訪問すると行長と何時間も議論をした。
そして行長に自分が殉教を覚悟していること、逃げるつもりは全くないと言うこと、
もちろん信仰を偽るつもりも、ごまかすつもりもないことを語った。

行長は、さながらペテロの様に肩を震わせ号泣した。

そして現実に負けて信仰を曲げた己を恥じた。
オルガンティーノとなぜかその時やってきた高山右近は、
そんな小西を励ました。

その後、小西はすっかり信仰を取り戻し、キリシタン大名として生きるために
秀吉の目をたばかり、ごまかし、色々やっちまったりしたが、
それでも彼が最後まで地位や名誉を捨てることができなかったのは
皆様ご存知の通りです。





842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:21:56 ID:i31hCh32
>>841
遠藤周作が「鉄の首枷」の中で、そういう行長を書いていましたねー。

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:28:02 ID:xAhuWoRe
誰もが聖人君子に馴れるんなら宗教に戒律なんて無いさ
小西行長は自分の信ずる下へ行けたのかねぇ

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:32:04 ID:qS28HBjN
信仰を取り戻した小西に(一時的にだけど)
受け入れ拒否られたフロイスはさすがだと思う

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:41:15 ID:kexM5wdj
>>845
フロイスは真っ先に逃げてるからなあ……

一応ネタ元はオルガンティーノ神父の書簡からです


「北条さん家の教養」古河公方足利晴氏妻、芳春院

2009年06月27日 00:12

芳春院   
776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 22:55:12 ID:uQipr9fi
北条さん家の教養 その一端

永禄三年(1560)、第四代古河公方足利晴氏が死んだ時、その妻芳春院(氏綱の娘)が
詠んだ歌六首


亡き跡を 嘆くばかりの 涙川 流れの末は 永き滝つ瀬

睦まじく 結ぶ契りの 睦言も むなしき空に 紫の雲

あはれさの あとに残りて あぢきなや あけぼの照らす 有明の月

満ち潮に み法の船の み(水)馴れざお 弥陀の誓いと 身はなりにけり

たれも皆 頼みをかけよ 他念なく 他力の心 ただ仏なる

二つなく 不捨の請願 不思議やな 深き願ひぞ 不退とはなる


各句の上の字を並べると全部「なむあみたふ(南無阿弥陀仏)」になる
教養とはちょっと違うかもだけど、初めて見た時スゲー感心した覚えがある
幻庵さんとかにミッチリ仕込まれたんだろうなあ




777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 22:57:07 ID:R5bwm38Z
>>776
縦読みうめぇwww

あ、でも、本物は縦書きだから横読み?うめぇ

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:00:14 ID:vgls2+1C
夏衣キツゝナレニシ身ナレドモ別ルゝ秋ノホドゾモノウキ
虫ノ音ハ涙モヨホスユウマグレサビシキ床ノオキフシモウシ
アハレゲニ思フニツレズ世ノナラ七ナレニシ友ノ別モゾスル
見ルカラニ猶アハレソウ筆ノ跡今ヨリ後ノ形見ナラマシ
誰トテモ終ニユカン道ナレドサキダツ人ノ身ゾ哀ナル
吹ハラフ嵐ニモロキ萩ガハナタレシモ今ヤオシマザラメヤ


伊達政宗が原田宗時を弔った漢詩『国風六首』も、実は頭文字が
南無阿弥陀仏になる。

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:05:59 ID:rCSAwqB3
島津義久が甥の久保(忠恒の兄)を弔った際に詠んだ歌も
頭文字が南無阿弥陀仏だったりします。

南 なく虫の 声は霜をも 待ちやらで あやなく枯るる 草の原かな 
無 むらさきの 雲にかくれし 月影は 西にや晴るる 行くへなるらむ
阿 あめはただ 空に知られぬ 習ひあれや うき折々の 袖にかくれて
弥 みし夢の 名残はかなき 寝覚かな 枕に鐘の 声ばかりして
陀 たづねても 入らましものを 山寺の ときおく法の ふかきこころを
仏 ふでをみぎり 弓を左に もてあそぶ 人の心や 名に残らまし

横読み?の南無阿弥陀仏って結構メジャーだったのかな?

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:17:39 ID:tkYs3VGa
>>776-780
笑点でよく単語の頭文字をお題にしてることあるだろ?
それと同じ感覚なんじゃないか?

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 04:51:56 ID:ZSDBP3/O
>>780
冠とか沓って技法は昔からあってな・・・

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:31:12 ID:ij6isIwG
>>776
うわーwまとめのコメント見て気づいた!
これ句の頭だけじゃなく五七五七七の頭もナムアミダブで揃えてる!
すげーw感動!!


846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:34:23 ID:xAhuWoRe
>>844
マジだ…
良く考えつくもんだ

島津義弘、朝鮮陣にて

2009年06月27日 00:10

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:08:23 ID:tkYs3VGa
ここにも老いてなお教養を身に付けんとする武将が

朝鮮出兵の時、島津義弘は暇が出来ると必ず筆を手に取って
書家として名の合った近衞公(信尹?)の筆跡を学び
良く書けたものは国に居る近衞公に送って批評を仰いだ

義弘は朝鮮出兵時に古今和歌集、千載集、拾遺集、論語等
数十冊の本を持って行っていたという

義弘が朝鮮に渡ったのは57歳
老いてなお学ぶ事に貪欲ってのは美徳だよな
現代じゃ若い頃から勉強が嫌で学ぶ事を放棄することが多いってのに




782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:12:55 ID:iszQnAcw
しかも地獄の戦線での話だからな


792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 00:27:05 ID:Q6csKigg
>>781
奥さんに返事書いて貰おうと字を綺麗にしたり
古典からネタ持ってきたりで必死だったんじゃないか?w


建部三十郎家臣、興十郎の野望

2009年06月27日 00:09

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:23:35 ID:45gTEMVr
大阪の陣が始まろうと言う頃のことである

尼崎に、わずか8歳の領主、建部三十郎と言う者がいた。
領地も小さく、僅か五百石であった。

蒲生家牢人、興十郎は、この三十郎付きの家臣であった。
興十郎には野望があった。どうにかして、この幼い三十郎君を、取り立てていただくのだ。

大阪と関東の間には既に、不穏な空気が流れていた。
もし会戦した場合、幕府軍にとって、尼崎は大阪攻め戦略の重要拠点になる。

「そうだ!」

興十郎は家康に通じ、三十朗の名で誓紙を出した。
それから「秀頼公からのご命令である」と、尼崎近郊の庄屋を呼び集め、突然宣言をする
「お前達、早々に人質を出すように!もし異論あらばここで成敗する!」

このようにして興十郎は人質として、庄屋達の妻子兄弟を集め、それをことごとく
尼崎の屋敷に入れた。そして「もし我々に反抗するなら、人質を焼き殺す!」と、威した。

さらに主君三十郎にも、「もしこの謀が失敗した時は、三十郎君はそれがし、そして
人質とともにここで焼け死んでいただきます。」と、覚悟をきめさせた。
幼少の主君は、この家臣を信じた。

また、三十朗の母には、その時には三十朗の弟を連れ、親類である池田家に逃げるようにと、
あらかじめ決めていたそうだ。

関東と大阪が手切れとなった時、興十郎の措置のおかげで、尼崎で大阪に通じる者は無く、
ことごとく幕府方に従ったそうだ。

戦後、幕府は建部三十郎の功に対し、一挙に二十倍、一万石の所領が与えられた。
そう、ギリギリではあるが、大名に取り立てられたのだ。この時三十郎、12歳。

ちなみに興十郎は、建部の姓を与えられ、主君の親族扱いとなり、
伊丹有岡城の代官となったそうである。彼もまた、小さいながら城持ちとなった。

ちなみに、この時出来た建部氏林田藩は、外様ながら改易されることもなく無事、明治まで
続いた。

乱世の最後に、小さいながらも実を結んだ、とある野望のお話。





787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:31:26 ID:tkYs3VGa
博打打つなぁ
まぁ世の中見えてないとこんな博打考えつかないから優秀な家臣だったことに違いはない

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:45:00 ID:9bCDjiSp
しみるねぇ・・・

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 00:03:10 ID:LwPdU1EY
>>786
久々に清々しい気分になったよ。いい話だな~

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 01:06:24 ID:55A3U5n0
>>786
日本史板某スレで弱小藩ネタで盛り上がったときに話題となった林田藩には
そんな誕生秘話があったんですね・・・
関西の住人で「林田藩」と言ってもどこにあったか即答できる人は0.1%以下でしょうけどw

ちなみにそのスレで林田藩以下に存在感のない藩として認定されたのが仁正寺藩(市橋氏)だった・・・

809 名前:奇矯屋onぷらっと@非常用PC ◆ZawoPLATttff [sage] 投稿日:2009/06/26(金) 09:40:03 ID:tejLW0Bv
>>786
ググってみたらその三十郎、下間頼龍の外孫なんだな。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 19:39:39 ID:THqWf7pA
建部氏林田藩ってほとんどの藩主が70歳から80歳ぐらいまで生きてるな。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 21:26:19 ID:OJq6uNOW
>>816
じゃあ幼い殿様はギリギリ戦国の語り部になったのかな
ググったら外様だけど池田家の親戚なせいかわりと重用されてて
色々な仕事やってた


「七人の侍」の約束

2009年06月27日 00:07

790 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/26(金) 00:12:51 ID:OiOww81/
ある時伊勢の国での出来事である。
七人の侍が神社に集まり、その中の一人が言った。

侍「これから東国へ下るが、我々は仲間だ。この七人の中で一人が出世して大名になったら、
  残りの六人は家臣としてもり立てよう。
  そして大名になった者は主君として、家臣となった六人を重臣にしよう。」
六人「おう!」

こうして七人の侍達は神水を酌み交わし、出世したときの約束を取り交わし、東国へ向かった。
長い期間が過ぎたがその中の一人が大名になった。北条早雲である。
六人の家臣となった仲間達は約束を守り、家臣として北条家草創期の早雲を
陰となり日向となり、又、戦の時は手足となって働いた。
早雲は、これら仲間達との約束を守り、重臣として取り立てたのである。

後の創作といわれているが、早雲の野望を支えた者達の話でした。
ちなみに、この話で出てくる大道寺と多目は「御由緒衆」として本当に重臣となっています。
多分北条家内に、元ネタはあったのでしょう。




791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 00:22:03 ID:ylmha9Ft
漢ってやつぁ・・・

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 00:27:05 ID:Q6csKigg

>>790
( ;∀;)イイハナシダナー

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 01:18:02 ID:r3yc8kAS
>>790
創作ってわかってなけりゃ感動できたんだが・・・


鳥居元忠、伏見城にて

2009年06月27日 00:06

795 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/26(金) 01:18:59 ID:OiOww81/
漢ネタで。

関ヶ原直前の上杉攻めへ向かう徳川家康は伏見城へ寄った。
ここは、鳥居元忠が守将であったが、今回はちょっとどころかとんでもなくいつもと異なっていた。
そう、家康が伏見へ立ち寄ったのは・・・

鳥居元忠へ、死守命令を下すためであったのだ。しかも確実に死ぬ命令を。
さて、伏見城で鳥居と対面した家康は、命令を下してから鳥居に言った。

家康「伏見の城兵は少ない。必要な兵数と武器弾薬は置いていく、申してみよ。」
鳥居「殿。今はお家にとって兵も武器も弾薬も必要なとき。殿が多くお持ちください。
伏見は現在の手勢で守ります。」

こうして、鳥居は少ない手勢で大きな伏見城を守る事になった。家康がしつこく聞いても
断ったからである。
その夜、家康と鳥居は夜遅くまで談笑した。家康人質時代からのつき合いである。
つもる話もあっただろう。
鳥居が下がるとき、家康は小姓に案内をさせるように命じた。これが2人の最後の別れとなった。

上杉征伐中に石田三成挙兵の知らせがきたとき、伏見では籠城戦が始まっていた。
鳥居元忠は家康の命令を忠実に守り、一人でも多く、一分でも長く、西軍を地獄へ引きずり込んだ。
江戸に家康が戻った頃に届いたのは、鳥居元忠戦死の知らせだったという。




797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/26(金) 01:41:49 ID:LWuBiqiK
>> 795
いつ聞いても泣ける、ガチで。

つーか、改めて思うけど、こういう本当の有名どころって意外と出てないのなw

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 01:45:39 ID:BF8rRTKe
戦後の鳥居の息子の加封具合を見ると
ホントにこんな感じのやり取りがあったんだろうなと感じる。

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 02:05:22 ID:/1jsvC7B
ちゃんと報いるのな。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 02:09:20 ID:jkSISPqo
>>795
高橋紹運と同じで、意味のある玉砕なんだよな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 02:49:42 ID:r3yc8kAS
>>795
島津軍を城に入れなかったのもいい意味でであってほしい。
背景に黒いものが見え隠れしてしまうと、気持ち的にトーンダウンしてしまうから。

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 03:48:31 ID:KQ3O81Nr
妖怪・鳥居耀蔵ってこの元忠の子孫?

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 04:23:45 ID:dMcfxStj
>>802
違う。鳥居耀蔵の父は林衡という儒者。庶流の旗本鳥居家に養子に入った。


804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 04:27:29 ID:KQ3O81Nr

血の繋がりはないんだね
良かったw

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 04:50:38 ID:dMcfxStj
ちなみに鳥居耀蔵の実弟の林復斎は、国際通の開明派で、日米和親条約のときの
交渉責任者をやったりもしてる。

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 04:55:31 ID:ZSDBP3/O
妖怪さんは流刑先での評判はいいんだよねえ
人って難しい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 05:42:56 ID:ih+AFcua
>>797
最初の頃のスレの感じは「皆があまり知らない、戦国のちょっと良い話を書こう。」
みたいな感じだったから有名な話は敢えて書かないってのが、暗黙の了解みたいなね…
最近は「戦国逸話集(良い話編)」な感じだから、有名な話も結構投下されて来たよね。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 11:29:00 ID:HW8wqwDJ
>>808
有名所はもう既出だろうからって避けてるってのもあるかと

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 20:44:06 ID:kLhfT7QE
>>802
有名どころだと、大石内蔵助が元忠の子孫だな


島津光久の側室、陽和院殿の江戸初期セレブ女性の京風マナー講座

2009年06月27日 00:04

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 02:55:39 ID:dMcfxStj
>>698
そんな光久さんの数多い側室の中でも、ちゃんと名前が残っている人のお話


島津光久の側室に、陽和院殿という人がいた。

この陽和院殿、後光明天皇掌侍、交野時貞の娘で、公家の娘らしく古今の教養に溢れ、
とにかく大変な才女であったそうだ。

そんな彼女が侍女などに、今時の女性に対しての評をしたことがあった。

「最近の若い女の子はね、花見だ寺参りだなんて言っては、流行のファッションで着飾って
出かけて行くじゃない?あれってみんな、見に行くんじゃなくて、見られに行ってるのよね。
女として、そういう心がけはどうなのかしら?

京の朝廷の内裏じゃ、昔も、そして今も、開くと五、六尺になるような檜扇をかざして、
姿を人に見せないことを、『女の慎み』ってしてるのよ?

ところが関東じゃ、そんな慎みなんてありえない。もう自分からお化粧やヘアメイクを工夫して、
菅笠なんかのおしゃれなアイテムを付けて、顔をあらわにして見せびらかしてるけど、
こんなの恥ずかしいことだって思わないのかしら?

昔から、男は心美しく、女は姿美しく、なんて言うけど、作った美人じゃ、
本当に心の美しい男性からは、振り向いてもらえないわよ?

女の慎みってものはね、花を見るなら人無き所の花を眺めて、人がたくさんいるような場所には
あえて行かないもの。
寺参りに行く時も、本堂より奥に行っちゃ駄目よ?
だって、法師なんて言っていても、戒律をきちんと守ってるお坊さんはめったにいないんだから。
凡情解脱なんて、中々出来ないものなのね。
そんなお坊さんと二人っきりになったりしたら、自分から災いを招くようなもの!
そう言う事も、気をつけるようにしましょうね。」

陽和院殿による、江戸初期セレブ女性の京風マナー講座でした。





705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 02:57:58 ID:c+YppTWn
なにやら篤姫を見直してるかのような気分になってきたw

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 06:28:15 ID:4WSk7QOE
光久「上の口でそんなことを言っても下の口は見られたがっているようじゃの」
悪い話スレなので


丹波福知山城主・小野木重勝の妻「女のたしなみ」

2009年06月27日 00:03

島左近   
707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 11:02:25 ID:syO5g19u
女のたしなみの話

丹波福知山城主・小野木重勝は出世前の若いころ和歌に狂い、妻さえも
「和歌の心得のある人が良い!」と八方手を尽くしたあげく、教養深い妻をもらった。

が、重勝は貧乏結婚した後も相変わらずの和歌狂い、連日ろくに蓄えも無いのに
四、五人も連れて来て歌会を催した。
ついにキレた重勝の細君、その夜は重勝に頼んで広間に簾を吊るし、自分もその中から
歌会に参加した。

「これは、殿上人のようじゃ!」と集まった人々は無邪気に喜んでいたが、しばらくして
侍女が細君のもとに来て言った。
「今夜のお客様に奉るべき物がございません。いかが致しましょう?」
細君は、すぐに短冊に歌を書いて一座に見せた。

月さへも 漏る宿なれば 春雨の ふるまう物も 無かりけるかな


なんだか教養豊かに懐具合を暴露された重勝の胸中いかばかりか。
ちなみに関ヶ原の戦いで和歌の師匠・細川幽斎を攻めた重勝、その子・忠興の怒りを
買い、切腹するハメになったが、この細君も歌を残してともに自害した。

鳥啼きて 今ぞおもむく 死出の山 関ありとても われな咎めそ

この細君の父の名を、島清興という。




708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 12:21:22 ID:s7KS0PHM
>>707
島左近の娘ってシリーズものになるような

もう一人、たしか柳沢兵庫の側室になってたべな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 13:05:43 ID:ETY/R24T
>>707
三歳さんの悪い話ですね、わかります

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 16:16:27 ID:Nq7aKGEN
幽斎さんに誘われても和歌の勉強しなかったぐらいだから歌つながりで
小野木たちが攻撃を手加減してた事実なんてガン無視だったんだろな>三歳さん

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 17:05:38 ID:BF8rRTKe
ガラシャを失って気が立ってるどころじゃないからな
ついでに言えば田辺城包囲組みは最後に降伏した総大将格の小野木以外は
細川の取り成しもあって戦後ほとんどが本領安堵だったりする

717 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/26(金) 18:55:31 ID:czaBdXSI
>>711
三歳様は和歌を学んでいるよ。そりゃ、DQN四天王の中でも一番格が高い人だもの。
田辺城後の三歳様は、絶対に頭に血が上っていたな。

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 20:30:44 ID:4aIt4cAT
三斎様の和歌の才能は、三十六歌仙で証明されているじゃないか。

管領家畠山氏の分裂

2009年06月27日 00:01

713 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/26(金) 18:05:49 ID:dnNfQY4u
畠山家は能登・越中・河内・紀伊の守護で、管領も務める室町幕府の大物。
よくある話で当主持国には子供がいないので、甥の政長を養子にして跡を継がせるつもりだった。
しかしその後側妾が男子を出産、持国気が変わった。

1448年にその男子、義就が家督を認められてからが騒動のはじまり。
応仁の乱の引き金をひき、諸大名がうんざりしても戦い続け、
山城国人に追い出され、
領国をほぼ全て失うまで、100年以上争ったのだった。

義就流は没落して義昭還俗のころを最後に歴史からこぼれおちる。
政長流は1574年に信長包囲網に参加した昭高が自刃して滅亡。




714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 18:16:06 ID:dMcfxStj
>>713
この「妾」がすごいのよ。畠山持国のほかに、小笠原長将や飛騨の有力国人
江間氏の「妾」にもなって、
それぞれで子を産んでいる。どうも当時の高級娼婦だったようだ。
小笠原家で産んだ子も、しっかり家督争いの元になっていますw

んで、畠山義就の幼少の時の呼び名は、「小者」
ひどい。




715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 18:49:53 ID:ylmha9Ft
まこと傾城の美女ですな。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 18:51:41 ID:YzrtN8xY
>>714
(T^ω^)<・・・

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 19:15:37 ID:Lo8bzXOe
>>714
奇妙丸よりインパクトあるわ「小物」

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 19:31:14 ID:yef37KXD
>>716
試合中だ、さっさと帰れw

出産能力があるからって後家が良いってのは神君だっけ?
しかしこの場合はそんなレベルでもないけどw

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 20:03:31 ID:CCsuFq4Y
>>714-715どっかの小少将さんに匹敵するアクージョ様だな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2181.html

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 22:36:21 ID:ayQTUn1S
>>718
奇妙の弟には大洞、小洞、酌、人、縁とか居るけどな
信長パパはやっぱりおかしい

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 22:57:18 ID:TrrFgPOI
お前は自分の子供に「人間」と名づけるのか?

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 23:13:13 ID:yrdg0G1C
>>723
な、なるほど、デーモン小暮閣下理論で言うと信長公は…

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/26(金) 23:16:15 ID:tEtCezfn
幻の銀侍よかマシ

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 23:46:45 ID:uUR2pr5E
>>722
酌とつけられたのは母親がお鍋という名前だったから。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 04:11:47 ID:7+DZAWec
天才丸もインパクトがある

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 08:03:01 ID:LAoA2rbc
>>724
魔王と自称しているくらいだからなw

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 09:04:06 ID:nDsM6bZX
山の中で生まれたのに幼名が「海賊」という
恥ずかしい人もいましたなそういえば

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 09:19:09 ID:mbZveu05
兵庫第三協栄丸さんかよw


732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 11:03:56 ID:7lq8JICA
>>720
細川真之1538年生
長宗我部右近大夫1575年以降生

真之生んだ時13,4歳だとするとぎりぎり有り得るのかな?

しかし長宗我部元親は1539年生で、おかんみたいな歳、しかも
50を超えてる熟女に挑んで孕ませるとは勇士にも程がある。
姫若子って呼んだ奴出て来いよ!

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 11:08:10 ID:xAhuWoRe
重度のマザコンって事で姫若子で問題なし

750 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/27(土) 19:46:05 ID:f/ldyfHP
>>729
そうか、これで謎は全て解けた…
なぜ閣下がリアリティのない年齢を詐称するのか
そして信長の魔王自称
なにより遺体も発見されてない事実
そこから導き出される答えは………




信長公も閣下も相撲好きだよね(´・ω・`)


751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 19:51:10 ID:m2NKC5RR
そういえば閣下も歌うと声が高くなる…

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 20:43:46 ID:kexM5wdj
ナッナンダッテー!



第六天魔王ってシヴァ神のことで、
謙信が毘沙門天名乗ってるって聞いて
マジちょーwウケるwww
あの坊主が毘沙門天なら俺第六天魔王じゃねww
ワロタwwww邪気眼乙www
って感じに言ったジョークだったらしいよね

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 23:21:23 ID:i31hCh32
>>752
謙信じゃなくて信玄だね。信玄が確か不動明王を称していたんですよ。
んで、それを知った信長が謙信に

「信玄が不動明王とか言うのなら、俺は第六天魔王ですよwww」

とかお手紙書いた。


三村一族、夜泣石伝説

2009年06月26日 00:17

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 00:08:47 ID:JR4sURwd
夜泣石伝説

信濃の有力者である三村一族は小笠原陣営だったが、寝返って武田信玄に
ついていた。ある時、信玄は恩賞を与えるとして三村長親を呼び出した。
長親は家来二百人程度を連れて揚々と現れ、甲府一蓮寺に滞在した。

しかしこれは罠だった。信玄は裏切り者はまた裏切る、信用できないと考え、兵をさし向けて
寺に火をつけて三村一族を皆殺しにしてしまう。ここに三村一族は滅びた

塩尻市の釜井庵には長親の館があったといわれる。
そこにある石は三村一族が謀殺されてから夜ごとに啜り泣くようになった。
それは三村一族の妄念が泣くのだと今日まで伝わっている。






上村長種の怨霊

2009年06月26日 00:16

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 01:32:44 ID:EXns0a1v
肥後国、水俣城に住まう上村長種は、相良義陽の実の祖父・上村頼興の弟である。
長種は、戦っては度々葦北方面の兵乱を鎮圧して武勲を重ね、書や連歌の才に
長けていた。特に連歌における名声は高く、高名な上人らが訪れるほどである。
また温和な性格であったため人望も厚く、その声望は高まる一方であった。

そのため誰ぞが長種を担ぎだし、現当主・相良義滋に叛くことを危惧した頼興は
重臣らと謀り、長種を殺害することに決する。
隔して、上からの御召しであるとして呼び出された長種は、頼興の命を受けた
蓑田長親により城中にて刺殺された。

ところが話はそこで終わらず、長種の怨霊が蓑田長親の子・源十郎を祟ったのである。
源十郎は言葉を発することができなくなったばかりか、手足も不自由となってしまった。
そこで修験者を呼び、霊を憑依させてその意志などを語らせる「口寄せ」を行ったところ、
長種の霊は 「時知らて 匂うや梅の花盛り」 と発句した。
それを聞き一同が 「白玉や 根こめに植し萩の露」 と返すと、霊は

「望みを達した! ♪~ヽ(゚∀゚)ノ(ノ゚∀゚)ノ(ノ゚∀)ノ(ノ゚)ヽ( )ノヽ(∀゚ヽ)ヽ(゚∀゚ヽ)ヽ(゚∀゚)ノ ヒャハハハ~♪」
とこれに大いに喜んだ。

それ以来、源十郎の病は治癒したという。





665 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/25(木) 01:58:34 ID:SrdUcRQx
>>663
発句「時知らて 匂うや梅の花盛り」

返歌「白玉や 根こめに植し萩の露」

どうしてこれで、霊が望みを達したと喜んだのだろう?
 

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 02:16:55 ID:EXns0a1v
「時間の経過がわからないんだけど、今は梅が盛りなのかな?」 と問うたら、
「いいえ、萩に露ができる夏(白玉の季語は夏)ですよ」。と返したので

「ああ、夏なんだ! スッキリした~ 」・・・ということなのかと自分なりに解釈

そんな単純じゃないかもね・・・

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 02:17:23 ID:qEUShzWM
ネタ振ったのにヌルーされたら寂しいだろ


肝付兼太さんについて、そして肝付兼三の顛末

2009年06月26日 00:14

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 15:59:03 ID:s9G3LJzz

「スネ夫」役だった肝付兼太さんの本名って兼正(かねまさ)なんだよな
通字を使ってるのもそうだが昔の武家みたいなお名前やね
鹿児島市生まれらしいが上京して出身校は帝京高校だそうだ

アーケードゲーム、クイズマジックアカデミー(QMA)のアニメ&ゲーム問題で
肝付兼太さん連想クイズの設問の一つとして「薩摩藩家老の子孫」って表示されてたり。

まぁこれが本当ならば肝付本宗ではなく庶流の兼光流
戦国期で言えば加治木を領していた兼演-兼盛-兼寛-(兼三)-兼篤の系統
後裔はかの小松帯刀を輩出した家格一所持の喜入領主

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 16:06:36 ID:s9G3LJzz
で、若干どころか大幅にスレ違いだから強引に上記の庶流肝付氏に話に戻すと

32歳で死去した兼寛の後の6代当主を相続したのは養子の兼三。伊集院忠棟の三男だった
兼寛の弟の兼篤はこの時まだ若年で、子のいなかった兼寛からの家督の継承は
スムーズにいったらしい
とは言っても兼三も5~7歳なので大概だが。
(ついでに忠棟は他にも五男も頴娃家へ送り込もうとしてたりする)

兼三は10歳のとき(1595)に加治木から転封で喜入郷を賜り、
5500石あまりを領し順風満帆の人生だった。
実を言うと1598年まで続いた慶長の役の間に父の忠棟らが薩摩大隅の太閤検地を主導して
朝鮮出兵中で主のいない各家を領内で転地・転封しまくっていたのだ

留守の間に先祖代々の土地から引き剥がされることとなった各地の領主はそりゃもう怒った怒った
1599年に伊集院忠棟が朝鮮から戻った島津忠恒に伏見で手討ちにされ、
その後伊集院一族が蜂起した庄内の乱が勃発するに及び兼三は肝付家を離れることとなる…
喜入肝付家は兼篤が継いだ

そして乱の収まった直後の1602年、すぐさま忠恒により暗殺。兼三17歳の若さであった。
肝付氏の話を書いたつもりだったが……忠恒が悪な話?でいいのか?




673 名前:641[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 18:16:55 ID:vZp2N3Kl
>>672
凄く詳しい話ですね、サンクス!
当時の常識だと、領内の揉め事の火種を消すってのも、当主の役目だから
一概に忠恒が悪いとは…
忠棟=意地が悪い
兼篤=運が悪い
忠恒=間が悪い

かな、個人的に。でも彼は色々暗殺しまくってるからな。
それに亀寿姫の件もねぇ…


674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 18:40:29 ID:x82uxB0C
直家「そうそう・・暗殺はよくないぞ!!」

675 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/25(木) 18:47:38 ID:UM73WblF
久秀「暗殺なんて酷すぎる!」

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 19:22:09 ID:tkYs3VGa
>>672
なんかドロドロだな薩摩藩('A`)

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 19:28:41 ID:45gTEMVr
>>676
まあそのドロドロなのを粛清しまくって力ずくで押さえ込んで、近世薩摩藩を作ったのが
忠恒さんなわけで。

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 19:32:24 ID:87GC/j2m
力づくでもやらなければいけない事をやりきって泥を被った・・・あれ、名君じゃね?




と、思ったが執拗な嫁いびりとか東郷さん襲撃事件とかどうしようもないので気のせいだった。

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 19:38:59 ID:rCSAwqB3
>>674
>直家「そうそう・・暗殺はよくないぞ!!」


>>675
>久秀「暗殺なんて酷すぎる!」

       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩<そうだ!手討ちにしよう!
    (つ忠恒丿 \___________
    ⊂_ ノ
      (_)