尼子経久の嫡男・政久の死

2009年09月30日 00:08

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 14:52:29 ID:C1PIIUTr
信玄の他にも笛の音に誘われて殺されたとされてるのいなかったっけか?

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 14:59:21 ID:vBEzCNf8
信長だろ 笛の音に誘われて本能寺にいったら明智に襲われたっていう

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 15:08:17 ID:3DFo0nb9
笛を吹いてたら殺されたのが尼子経久の嫡男だっけ




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 15:11:24 ID:F6j2U0RO
>>897

尼子経久の嫡男・政久は文武両道の武将で、とりわけ横笛の名手であった。

1518年に桜井宗的が磨石(とぎし)城にて反旗を翻すと、尼子経久は政久を総大将して
磨石城の攻略を命じた。
しかし、尼子の大軍をもってしても容易には落ちず、長期戦の様相となり始めた。

政久は敵を油断させるため、櫓を築いて毎夜酒宴を開いては戦を
怠けているかのように見せかけ、政久自らも毎晩決った場所で笛を奏でた。
しかしこの手に櫻井宗的は乗らず、ある夜に城兵側の弓自慢が
笛の音が聞こえるほうに向かって矢を放った。
その一本が政久の喉に当たり、尼子政久は即死してしまったという。




901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 15:22:54 ID:vBEzCNf8
戦をなまけてるようにみせたっていうか実際怠けてたんじゃ…


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景勝くんからお手紙ついた

2009年09月30日 00:07

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 17:49:52 ID:fkolsBIA
景勝くんからお手紙ついた

謙信死後、御館の乱を機に同盟を結ぶことになったかつての宿敵武田・上杉は
いずれも新たな脅威織田を前にして、団結し対抗しようとしていた

そんなある日京に居た上杉の人間が、武田が単独で織田と接触したという報せを景勝に送った
その報せを聞いた景勝は急いで

「約束と違うじゃん!織田と交渉する時は一緒にねって言ったじゃんか!
どっちかだけの交渉でも経過はつぶさに報告し合おうって約束したのに
こんなんじゃ困ります!抜け駆けやめて下さいよ!」

という感じの手紙を甲斐に送った
すると程なくして勝頼から返事がきた

「報告しようとして忘れてたんであって抜け駆けじゃあーりーまーせーんー
そんなことより景勝さ、そっちこそ京で単独で織田と接触してたらしいね
どうしたの?まさかとは思うけど、抜け駆け?」

景勝の方も実は単独で織田と交渉していたのである。
これはかなり決まりが悪い、が、これがきっかけで
同盟にひびが入ったということはなかったようだ

武田滅亡直前の天正十年三月、援軍を長沼まで向かわせながらも
勝頼の安否を調べさせていた景勝は甲斐の鷹匠松鴎軒にあてた手紙にこう書いている

「勝頼のことが本当に心配だ
ただ、今はうかつに動けないので松鴎軒さんから信用できる人を
甲斐に送り込んで、状況を調べてくれないだろうか
どんなに世間が変わっても、自分がしっかりしていて
勝頼の身が無事であれば、逆転することはできると思っている」

三月十一日、武田勝頼は天目山で滅ぶ。
織田軍は北上し、北信濃は戦火に包まれた。
景勝は必死で守ったが、これももう風前の灯火かと思われた
天正十年六月、本能寺で信長が死に、
危ういところで踏みとどまることが出来たのだった

一応、勝頼にも味方はいたのだ。




909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 17:52:39 ID:3DFo0nb9
どっちも先代が有名で大変だからなあ>景勝・勝頼

910 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/29(火) 18:10:55 ID:52xXyha6
>>909
信忠「敵だけど分かる」
秀忠「仕方ないね」

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 18:35:08 ID:rrohfbPg
そして残ったのは徳川の天敵真田というわけか。

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 19:44:00 ID:ffjnatlG
たしか景勝は武田滅亡寸前と聞いて
「勝頼の身と武田の家督だけはなんとかする」とか書いた手紙出してなかったか。
御館の乱で勝頼が義理の兄弟のはずの景虎より景勝を取った理由に
会ってみたら景勝と意気投合したから、とか書いてる本を見たことがある。

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 19:54:44 ID:lC4Dx0Sz
寡黙な景勝と意気投合ってある意味凄いなw
愛の人あたりが上手な通訳してたのかも

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 23:26:13 ID:VCrsh0lg
>>917
「殿いつ」の愛の人しか思いつけんのだがw>通訳


雑談・フジのニュースジャパンで

2009年09月30日 00:05

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 23:47:04 ID:7VurfbcL
フジのニュースジャパンで自民はTERUに学べって…

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 23:55:07 ID:EOR1jKfT
山拓とか中川(女)とか既にTERU要素持ってる人が居る気がするが…


908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 00:29:49 ID:wTIJJZGN
TERUにだって良い所あるよ!!

・・・たぶん

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 00:51:17 ID:2AanhlC0
TERUはあれだな
基本的にダメ上司なんだけどなんか憎めない
会議では年がら年中くだらない提案を嬉してやんわりとキレモノ課長にスルーされる部長
しかもスルーされてることに気がついていないので本人も周りも軋轢がない


910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 00:56:57 ID:oJz6llJE
スルーといえば、

関ヶ原の結果、上杉が3分の1に減封されても、家臣を一人もリストラしなかったという事は、
直江兼続(何故か景勝ではなく兼続)の美談として伝わるが、
同じく3分の1に減封された毛利も、一人もリストラしなかったという事実は、
華麗にスルーされている。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 01:08:01 ID:Pg+FEUmR
>>905
マスコミはしばしばわけのわからないことを言うから

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 21:55:48 ID:LO91dxnf
上杉は、30万石になってもリストラしないて言うけど、本多正信の次男が上杉から
前田に仕え先を代えた時に、上杉家臣を連れて行って面倒見てる

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 21:55:48 ID:LO91dxnf
上杉は、30万石になってもリストラしないて言うけど、本多正信の次男が上杉から
前田に仕え先を代えた時に、上杉家臣を連れて行って面倒見てる

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 22:33:44 ID:/eAn9eaT
再就職先も分からないまま首切りじゃなく
就職先が見つかるまで雇い続けて
確実な再就職先を斡旋してくれた。いい話じゃないか。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 23:19:38 ID:9FMjXP+x
上杉や毛利って表高としては120万石→30万石、36万石に減封ってことだけど、
実高ベースではそれぞれ何万石から何万石に減ってるんだろう?

長門・周防は実高では初期で50万石ぐらいあった(というか無理やり打ち出した)らしいね。


971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 23:26:46 ID:Iv+yhoIN
この時代の職って子孫の優先就活権みたいなものも含まれてるからリストラは大事だな


尼子経久と、逐電した山中勘充

2009年09月30日 00:04

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 02:22:37 ID:oJz6llJE
主君、京極政経により出雲守護代職を剥奪、追放された尼子経久が、
その居城月山冨田城を回復、ようやく没落から立ち直った頃のこと。

冨田城の主に戻ったといえども、出雲には経久に敵対するものたちが多く存在していた。
特に国人の三沢氏は強大であり、経久としては自分の身の安定のため、何としても
これを屈服させねばならなかった。が、まともに立ち向かうには、尼子はまだ微弱である。
経久は家臣、山中勘充を呼んだ。

さて、それから間もなくの事、山中は富田城下において同僚と口論を起こし、怒りのあまり
その同僚を切り殺し、逐電してしまった。
その後しばらくして山中は、経久と敵対する三沢越中守の城下に現れ、
つてを使って三沢家への仕官を求めた。
が、三沢家では、敵対する尼子の元の家臣を抱えることに消極的であった。

そのうち尼子のほうから、こんな噂が流れてきた。
尼子経久が山中勘充の罪を怒り、山中の老母と妻を捕らえ監禁、さらに山中の居場所を
自白させるため、毎日拷問にかけている、と言うのである。

これを聞いた山中は、三沢越中守の前に現れ、涙を流して訴えた。
「尼子の所業は鬼畜と言うべきです!
喧嘩口論の末に相手を斬る事など、武士の意地を通すためありがちなことでしょう。
なのに、その罪を母や妻にまで及ぼすとは、残酷非道と言うより他ありません!
どうか私を、三沢家にお仕えさせてください。お家の力を借りて、何としても尼子に
復讐をしたいのです!」

三沢家でもひそかに調べたが、山中の母と妻が捕らえられ、拷問にかけられていること、
確かであった。
そこで、三沢家は山中勘充を召し抱えることにした。山中は心から三沢家への忠勤を誓い、
1年の間、ひたすら忠実に働いた。流石に三沢家も山中を信頼した頃、彼は三沢家にこう、
嘆願した。

「私がかねてより望んでいた尼子への復讐を、いよいよ決行したいと思います。どうか私に
300ほどの兵をお貸しください。富田城の中にいる協力者と共に、母や妻子を助け出し、
経久を殺し、あの城を乗っ取る所存です。
これに成功いたしましたらm月山冨田城は、三沢家の属城となるでしょう。」

三沢家ではこれに、山中の頼みよりも多い500人をつけた。しかも選りすぐりの精鋭ばかりを
集めたものであった。
山中はこの兵を率い、ある星も無い夜、密かに富田城へと近づいた。
そして「城内の同士と連絡を取る」と、一人その部隊を離れる。そしてそのまま、いつまでたっても
山中は帰ってこなかった。

勿論、罠である。

山中が斬った同僚は、実は死刑囚であり、母、妻の捕縛と拷問も、無論演技である。
そして山中の精鋭500は、今完全に、尼子方に包囲されていた。

尼孤軍は三沢の派遣軍を八方から攻めこれを壊走させると、その勢いのまま三沢領に攻め寄せ、
これを屈服させることに成功。さらに他の敵対勢力をも討ち下し、ついに出雲を平定した。

尼子経久が、大勢力への飛躍の一歩を踏み出した、謀略のお話。




919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 07:49:47 ID:7Jti8b2P
>>915
尼子経久は手元に引き寄せてから潰した後そのまま攻め落とし、
宇喜多直家はそのまま主を暗殺させる

埋伏の毒は中国地方の伝統芸なのか?w


陪臣について

2009年09月30日 00:03

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 09:14:22 ID:ql7tC/8j
陪臣について

天下の三陪臣として豊臣秀吉が上杉景勝の家臣直江兼続、毛利輝元の家臣小早川隆景、
堀秀政の家臣堀直政を天下の仕置きができる人物と褒めちぎったのは良く知られる

しかし更にこうも言ったという
「天下の仕置きに大切なのは知・勇・志である。兼続は勇と志はあるが知はない、
隆景は知と志はあるが勇はない、
直政は知と勇はあるが志はない」
隆景に勇が無いから、おのれは天下取れたんだろうがと言いたいが、まぁ間違ってはいない

さて、この三つを備えていると言えるであろう人物が私見であるが一人いる
徳川家康の家臣本多正信である
何故彼を評した秀吉の話が無いかと言うと、話は簡単で秀吉は正信に会ったことが無いから、
というより故意に正信が秀吉に会おうとしなかった節がある

ある日、秀吉は正信に会いたいと思い、当時伏見にいた家康に正信を呼ぶように命じた
家康も直ぐに江戸にいる正信を呼び、正信が伏見に着くと早速、二人で密議をした
その夜、正信は増田長盛を訪ねて長話をした
帰る時になると、長時間座っていた正信は足が痛くなり燭台を持つ者に支えられながら、
長盛や周りの侍に丁寧に挨拶をして辞した
関東から来てすぐにこちらに来るとは正信は匪躬の人(わが身を顧みず、主君または
国家のために忠節を尽くす人)だと皆は言ったという

で、翌朝
家康は正信に直ぐに江戸に帰るように命じ、正信もそれに従ったので遂に秀吉は
正信に会うことはできなかった

つまり、できるだけ秀吉に会いたくなかったが断ると角が立つので、増田と会う事で
間接的に会ったという事にしたのである
しかも一番、ボンクラそうな増田を選んで
これより先、正信がその真価を発揮するのは秀吉死後、家康が天下を獲る事を決意する日からである




923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 09:46:38 ID:4f2aWXQr
なんで正信は秀吉に会おうとしなかったのかな
目利きのきく秀吉に会うとスカウトされてしまうのを警戒した?

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 09:56:38 ID:7Jti8b2P
>>923
石川数正という前例があるし、逆に暗殺される可能性もあっただろうし

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 10:06:26 ID:ql7tC/8j
>>923
人物を見定めようとしていたかと
関東で手広くやっているようだけど
いつの間にか、重要な地位に座っているという
かなり謎の人物ですし

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 10:17:45 ID:xdK2Z5/i
>兼続は勇と志はあるが知はない、

ヒデエw

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 10:18:06 ID:Jg9nO/ZB
小牧・長久手の石川数正は周知の通りだが、石川と並んで
徳川創業の功臣と言える酒井忠次もこの時期秀吉に篭絡されて、
官位と京の隠居領を貰って隠退してる
正信が警戒したのは、秀吉ではなくてむしろ主君である家康の方じゃないかな
この人割と執念深くて、前述の石川酒井や大久保など、
家中で豊臣家に近かった人間は天下取った後も冷遇してるから

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 10:19:32 ID:VCrsh0lg
増田長盛を一番ボンクラってのもなあ。

天下三陪臣については、堀でなく鍋島が入るバージョンもあったな。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 10:37:38 ID:tehnLx5p
増田がボンクラは主観入りすぎだな

主観入って論評して良いなら直江とか片倉とか直接秀吉に会って
申し開きした逸話ある人だっているんだから秀吉との面会を避けた正信は
むしろその程度の器だったと取れるんだが

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 10:41:26 ID:Jg9nO/ZB
「秀吉が引き抜こうとしたけど、主家への恩を優先して断った陪臣」
の逸話はテンプレ過ぎて、どこまでが史実なのかわからないのが実際のところ

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 10:43:14 ID:ccQwpt3M
>>927
酒井家次は順調に出世してるし、大久保忠隣は長安事件までは中枢にいるし
何を持って冷遇といってるのか分からん。

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 10:45:19 ID:Jg9nO/ZB
家次が越後高田10万石の大名になったのは家康死んでからのことだよ
長安事件そのものが家中で親豊臣派だった
大久保家を追い落とす謀略だったという説もあるわけで

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 10:48:37 ID:oJz6llJE
大久保が親豊臣ってのも言いすぎだなw
大久保家が家康の意向に逆らえるほどの権力や影響力を持っていたわけじゃないし。

単純な家内の派閥抗争だと考えたほうがいいよ。

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 10:59:27 ID:jj7Y8CQK
>>930
>秀吉が引き抜こうとしたけど(ry
「家康が最も恐れた男」と一緒で
調べればそこらじゅうにいたりしてなw

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 11:05:32 ID:ql7tC/8j
>>929
まぁ、確かに自分の私観だけど
でも五奉行では一番、与し易い相手じゃないかと

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 11:06:12 ID:I7ADhJeV
>>933
大久保一党はバリバリの三河武士だしなw
まぁ信康切腹関連で名前挙がってるのも酒井、大久保だったりする辺り、
この辺の逸話が出来た江戸の頃に酒井・大久保冷遇の話が、
広く一般に流布していたのは間違いないだろうけど

937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/29(火) 11:36:53 ID:Y+ToGOSl
大久保冷遇説は彦左が発信源だろ
兄や周りは大名になったのに、自分だけ旗本とか屈折した爺w

実際、神君は大久保家を改易にはしたが、忠常や石川忠総(元大久保氏)を厚く遇するように
遺命しとる


加治木の大工神田助左衛門、島津義弘に呼ばれる

2009年09月29日 00:30

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 21:34:38 ID:iBdRXPtC
鹿児島の加治木に神田助左衛門という大工が居た。
日頃から大口を叩き、荒っぽいところもあるこの男、あるとき島津義弘の居城の修繕を頼まれて
大工仲間とともに城内で仕事をしていた。

助左衛門が天井の修繕をするため、足場を組んで仰向けになって作業をしていたところ
「おうい」と助左衛門を呼ぶ声がする。
おそらく大工仲間だと思ったのであろう、助左衛門は天井を向いたまま「何だい?」と返した。
すると声の主は「もう飯は食ったのかい?」と尋ねてくる。
助左衛門はよほど腹が減っていたのか「いいや、奥の腐れ坊主達はまだ飯を出してくれんのよ」と
返した。
ここで言ってる「腐れ坊主」というのはお坊さんのことではなく城の奥にいる侍、要するに
殿様達のことなのだが…
暫くして大工の親方がすっ飛んできた。

親方「おい、助左衛門!お前いま話した相手が誰だか知っているのか!」
助左衛門「知りませんよ、誰ですかい?」
親方「馬鹿!お殿様だよ、お・と・の・さ・ま!惟新様その人だよ!
  そのお方にあんな無礼な事言いやがって…ああもう、どうなっても知らんぞ!」

そう、助左衛門は声をかけてきた義弘に背を向けたまま返事をした挙句、あろうことか
「腐れ坊主」呼ばわりしたのだ。
日頃から大口を叩いている助左衛門も、このときばかりは顔を青くして怯えだした。
すると案の定、使いの者がやってきた。義弘が助左衛門に用があるというのである。

もはやこれまで、きっと殿様直々の厳罰が待っているのであろう…
覚悟を決めた助左衛門が義弘の御前に見たものは…ご馳走と酒であった。
義弘は「さあ、奥の坊主のご馳走じゃ、たんと食え」と事も無げに言うと自ら
大杯に酒を注いで助左衛門に与えた。
既に覚悟を決めている助左衛門、こうなったら食える限りは食い、飲める限りは飲んでやろうと
ご馳走の山に敢然と挑む。
その食べっぷり、痛飲振りがよほど気に入ったのか義弘も次々と酒を勧めてくる。
だが人間である以上、胃袋には限界がある。
「どうじゃ、もう飲めぬか」と義弘に聞かれた助左衛門は逍遥として答えた。「はい、もういけませぬ」
ああ、自分はこんな形で人生を終えるのか…うなだれる助左衛門に義弘は言った。

「そんなら帰れ。また明日も頼むぞ」

…何のことか分からぬがとにかく助かったらしい。
助左衛門はそのまま帰ると日頃の大気が戻ったのか、心配して待っていた仲間達と供に
今度は蘇生の宴会を開いたという。

まあ、相手が人格者の義弘だから助かったようなもの。
みんなも人と話すときは相手の顔を見て、失礼が無いようにしよう!




860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 22:12:46 ID:0wke6yN/
これは維新公の良い話でもあるなwww



861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 22:14:32 ID:UsiYF+o/
次の代のお殿様だったらどうなってた事かw
いや、そもそも声なんか掛けたりしないか。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 22:15:04 ID:a+jvasE1
>>859
あれ?なんかいい話だな

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 22:15:35 ID:toa5IDI+
家久(悪)だったら・・・

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 22:27:06 ID:mp8JtL+/
>心配して待っていた仲間達と供に今度は蘇生の宴会

何気にすごいw

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 09:22:37 ID:AfYgJb8e
>>859は、いい話スレ向きな気がする。読後感が清々しいw


吉村宣充、助言を注意した武士を

2009年09月29日 00:28

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 00:10:53 ID:GAGgYi1U
念のために・・・

福島正則や松平定綱にも仕えた吉村又右衛門宣充がまだ、とある家に仕えていた時の事である。
同輩の家に招かれ、家中を見回っていると囲碁を中心に人だかりが出来ていた。
宣充もこれに加わって観戦していたが、片方に少しばかり助言をした。
すると、対戦相手は怒って
「分別のある武士は助言なんてしないものだぞ。」
とからかった。
宣充はこれが相当頭にきたが、その場は何も言わずに立ち去った。

その後、囲碁が終わって皆が退出する際に、宣充は先ほどの男に声をかけて男を難なく討ち取った。
さて、退却しようと門まで出た所で宣充はふと思ったのである。
宣充「又右衛門ほどの者が慌ててトドメも刺さずに逃げていった、なんて
後々馬鹿にされたらたまったもんじゃないな・・・」
すると宣充はゆっくりと引き返して、慌てずにトドメを刺してから再び去っていった。




867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 00:56:44 ID:6RvsZedv
その宣充って短気者は逃げた後どうなったんだろう。

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 01:05:48 ID:r6+tq4gG
助言するのはマナー違反なんじゃないっけ。よく分からんけど。
ああ、だから悪い話なのか・・

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 02:49:37 ID:fsPRXQ1s
助言することがマナー違反だと聞いた
つまりマナー違反しといてやんわり指摘されたのを
根に持って殺したDQNってことだとおも


871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 09:27:38 ID:NM4eea2u
>>869
同意。そして逃げた。どうしようもねえクズだな。


吉村宣充、岐阜城抜け駆け

2009年09月29日 00:27

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 11:51:07 ID:GAGgYi1U
吉村宣充の逸話をもう一つ紹介する

岐阜城抜け駆け

岐阜城総攻撃の前日のことだ。
宣充は同輩に明朝抜け駆けの誘いをした、しかし、同輩は軍法を犯す事は重罪で
絶対にそんなことするんじゃないぞ、
と逆に窘められた。
宣充は黙って陣所に帰り、一人でよ~く考えたがやっぱり単騎でも抜け駆けしようと決意して、
まだ暗い時間から馬を岐阜城に向けた。

すると、10メートルほど先に馬を走らせる武者の姿を見つけた。宣充は
出し抜かれたと思い、こちらも馬を急がせた。
しばらくすると、敵城の手前に少し小高くなっている場所があった。
先に行った武者はこれを右から回りこんで城に近付こうとしたが
櫓から鉄砲によって討たれてしまった。これを見ていた宣充は左回りに進み、
難なく櫓まで辿り着いたのである。
すると、宣充は馬から降りて大胆にも門を叩き、こう言った。

宣充「俺は偵察に出てた者だ、門を開けてくれ!」

しかし、門番は宣充を疑って門を開けようとはしなかったので、続けてこう言った。

宣充「敵がもう、そこまで来てるんだよ、早く、早く櫓に上げてくれ!」

これには門番は大慌てになり、すぐさま宣充を櫓に上げた。
すると、宣充は隙を見て、隙間から小旗を出した。その旗にはこう書かれていた

 福 島 左 衛 門 大 夫 内 吉 村 又 右 衛 門

友軍が明け方に岐阜城に攻め込むと、この旗を見つけ
「げぇ、又右衛門が抜け駆けしてもう攻め込んでるぞ!」
「又右衛門を討たせるな!」
などと叫び、喚いて一気に攻め立て遂に岐阜城を墜としたのである。


吉村宣充の逸話は前にも書かれたことがあるんだよね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-654.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1892.html




875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 16:15:32 ID:kI2wZV1O
>>873なんというか、市松さんの家臣は武断なわりにデキるやつが多い…w

戦国時代末から江戸の幕藩体制へ転換期の武将の中では
(特に戦場じゃ)意地を通すけど、家や家臣を守るためなら我慢もする、こういう武士の話が
様々な角度で出てくるね。


秀吉、京での謀反計画の発覚で

2009年09月29日 00:26

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 16:57:11 ID:ShQ8HRVD
天正12年(1584)5月、東海では、小牧長久手の戦線が、膠着した頃の事である。

京において、佐久間道徳による、秀吉への謀反計画が発覚、道徳は逃走し、
その弟御兵は捕らえられ殺される、と言う事件があった。

秀吉はこの事件に非常に神経質になり、道徳らがすんでいた町から人質を取ろうとした。
が、町民達はこれを拒絶、難航した協議の結果、前田玄以の調停で、どうにか
人質提出で合意に至った。

秀吉は、この難航を、自分の面目を失わせたものと、激しく怒った。

5月17日、秀吉は淀の城番、小野木重次に命を下す

『道徳らがすんでいた二つの町の者は、妻子まで含めて全員捕らえよ!
そして京の町に籠を並べ、その中に押し込めるのだ。
籠に入れた者達は、7日ほどもそのまま、何の食べ物も与えずにおけ!」

逆らうだけでなく、自分に少しでも抵抗すればどうなるか、その見せしめである。

この命令に町の者達は恐慌をきたし、一斉に逐電をしたが、逃げ遅れた者達など
数十名が捕らえられ、2ヶ月近く監禁された。

さらに秀吉は、逃亡者達を捕らえるため、京の七口に厳重な検問所を設け、
公家などにかくまわれた者たちをも焙り出すため、その捕縛を、朝廷にまで申し入れた。

秀吉が自分の面目を失わせた者への報復には、どれだけ強圧かつ執念深いか、その一例である。





877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 17:15:14 ID:4cBOuUGj
つか、謀反を計画した上にケツまくった佐久間も悪いんじゃ・・・

荒木村重謀反の結末に似てるね、秀吉はここでも信長の真似をしたと


879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 18:32:40 ID:3B50hWQb
>>877
いや、村重を説得しようと色々手を尽くした信長と一緒にするなよw

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 19:00:06 ID:0y2Wdbcq
一般的なイメージの秀吉って誰が言い出したんだろう。
人がよくて、誰からも好かれて、勝家に妬まれ虐められて、
いわゆる「人たらし」の性格なんて知れば知るほど出てこないんだよね。

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 19:00:22 ID:Eh2VdOn3
>>876
例によって、ちょっとどころじゃなく悪い話だからスレ違いだぜw
秀吉は本当に後味悪いぜ。

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 19:24:04 ID:cMFhMbrN
>>880
若いころはコンプや黒い部分を隠し持ちながらも、明るく人当たりのいいタイプで
うまく世渡りしながら出世していったんじゃないの。
分不相応に出世しすぎて黒さ全開になっちゃったイメージ。

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 20:41:31 ID:6unkPdSO
一般人気に関しては判官贔屓で説明がつきやすいんじゃ?
大阪の陣関連での真田人気や秀頼生存説などそんな感じだろうし
そしてまぁ、人たらし的な一面は間違いなくあっただろう、
ってか無かったら基本的に後ろ盾の無い秀吉が立身出世出来ない罠

悪い逸話が多いのは政権が早々に滅んじゃって、
調べれば出てくる程度の資料に色々悪い事が残っちゃったって面もあるんだろう
丁度つい先日話に出た氏政に良い逸話が少ないのとかも同様だろうけど

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 20:53:55 ID:4cBOuUGj
>>879
いや、結末だけを見ればの話で
信長が村重を説得しようとしたのは自軍の交戦状況と損得を考えてのことだし、
村重がとんずらこいた後の悲惨な結末は似てるでしょ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:06:03 ID:tOZCvxhs
>>883
こんな政権、早々に滅ばないと困るがな

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:08:29 ID:YXHS0ve8
なんか秀吉の逸話を見てると洪武帝を思いだす
身分が高くない人間が権力持つと限度がわからなくなるのだろうか

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:14:22 ID:Ap/FpbfZ
結構前のコメにもあったけど、
羽柴秀長とか竹中半兵衛とか、諌めてくれそうな人に先立たれたのもあるかもなぁ

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:31:25 ID:ey+fsSUt
劉邦とか洪武帝とか卑賤からのし上がった皇帝って粛清やるイメージがある。
貴族社会に身をおいてなくてしがらみが少ないのかねえ。

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:40:45 ID:ZY81jrvo
「太閤の手紙」を読んでると、気配りが出来て、口がうまくて
ひょうきんな人であったんだろうという気はする。

統治者としては独裁者以外の何者ではないが・・。


890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:52:06 ID:PjXfbJpw
上に誰か担いで支える仕事をする分にはものすごく有能なんだろうな
トップで采配させるとやりすぎちゃってうまくいかないタイプ

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:54:34 ID:CGtU62dL
結構人のやることに感情を置いちゃうタイプだったんじゃないかなあ
その分裏切られたとか、バカにされたと思うと苛烈というか
ラスボスって道化役やりつつも繊細だよね
神君は秀吉ほど部下も身内も最初から信頼してないから結構サバサバしてるけど
(まあ祖父も父も身内に暗殺されてりゃそうなる気もするけどな)
そういう図太さみたいなものってラスボスの陽気さからは感じないなあ

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:56:25 ID:dQAuJfwn
>>880
そりゃ君が知らんだけだろ>いわゆる「人たらし」の性格
秀吉は「良い話」スレでも名前が挙がることが多い
二面性を持った英雄だったということ

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 22:00:38 ID:dQAuJfwn
>>889
母親や嫁に宛てた手紙はユーモアが有って面白いよね
戦国武将の手紙とかつまらんものが多いけど、秀吉と元就のは割と楽しめる
幼い秀頼に宛てた手紙みたいに笑えないものもあるけど

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 22:11:50 ID:CGtU62dL
ラスボス・元就・三斎・政宗の手紙はガチ
対して見た時に本当に神君の手紙はつまらんよな
部下たちの手紙は案外面白いけど

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 22:19:00 ID:fsPRXQ1s
>891
ラスボスは根底に卑賤コンプレックスが根深くあるんだろうけど
それを隠すために他人の倍ぐらい物分りいい振りしなきゃならないから
いざ堪忍袋の尾が切れたときには陰険さと苛烈さが5倍くらいに膨れ上がってる
そもそもの性質は細心かつ根暗そのうえ怒りっぽいって感じがするな

あとは若い頃の信長のハジケ具合を目の当たりにしてるから
てっぺん取ったらあれくらい許されるんじゃないかって思ってる節があるっぽい
が、信長はあれでそれなりの教育を受けてて要所で空気読んでたりしてたわけで
そこが帝王学など教わってないラスボスには分からない

「なぜ俺にはあの振る舞いが許されない」って被害妄想で余計攻撃性増してるのかも

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 22:58:50 ID:NM4eea2u
>>884
信長は張本人以外は人質も含めて助命しようという意思はあった。
>877のエピって、人質どころか無関係の人間まで八つ当たりじゃん。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 23:13:38 ID:dQAuJfwn
秀吉が町人に怒り狂ってるのはさっさと人質出さなかったから
「自業自得」と言うには気の毒すぎる事例だが、少なくとも「無関係」ではないと思うよ
この時点では何処へなりと逐電した佐久間某よりも、
言うこと聞かない町人の方がムカついたんだろう
お金も権力もある偉い人って大抵のことに寛容だけど、
「自分が舐められてる」と思ったら絶対に容赦しないから

[ 続きを読む ]

異説関ヶ原、本多正信、直江兼続に

2009年09月29日 00:24

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 22:19:54 ID:FD+F7yxy
関ヶ原に関する異説である


石田三成の挙兵により、小山より取って返した徳川家康。
家康は上杉景勝が白川から南下した場合の防衛のため、宇都宮城の大改修を行おうとした。

この時、本多正信は謀りを巡らし、自分の末子、於坊という当時12歳の少年を伴わせ、
秋本越中を会津へと派遣した。

直江兼続と対面した秋本は、正信の言葉を伝える、曰く

『今回、家康公が会津表に出陣した事、これは豊光寺での、貴殿からの返書が、
あまりに無礼だったためである。

―が、今になって考えれば、あれは石田、増田といった者達が、家康公を関東に下すために
貴殿を語らい入れて、返書をわざと無礼にするようにと勧めたに違いあるまい。
で、あるなら、家康公は景勝卿にも、そして勿論貴殿にも、遺恨のあるはずは無い。

さて、この度家康公は上方へと取って返し、石田、増田の輩を退治する事、
これは掌で転がすほど簡単な事である。

…ところで直江殿、貴殿も私も、互いの家中において、強い権力を持つ者である。
もしあなたが、景勝卿が白川より出馬しないように計らいあれば、上方を平定した後、
景勝卿にも、無論あなたにも、家康公は粗略に扱いませんぞ?

私はこの事を信じてもらうため、愚息を人質として、こちらに参らせた。』

兼続は考えた。
もし家康が上方で勝利した場合、景勝様がどれほどの大大名であろうと、
これは滅ぼされてしまうだろう。ここは保険をかけておくべきだ…

「承知いたした。家康公が上方に出馬している間、景勝様が白川より出馬することは無い。
その約束の証拠として、あなたのご子息をこのように留め置く。」

家康は正信よりこの報告を受ける。が、
「しかし兼続が心変わりすれば、おぬしの息子の身は…」

「主君のために愚息一人の命くらい、惜しむものではありません。
…それに、直江も馬鹿ではありませぬ。少なくとも上方の大勢が決まるまでは、
そんな粗忽な所業はいたさぬでしょう。

ともかく、宇都宮の城普請などはもう止めにして宜しいかと。」

家康は正信の進言に従った。
正信の計算したとおり、上杉は出羽方面には出兵しても、白川から南下する事は、
ついに無かった。

上杉を足止めした、本多正信の智謀、のお話

まあこれも、後世の創作だとは思いますが、正信もそうだけど直江も、大河よりもこっちの人格のほうが
個人的には好きだなw




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 23:07:30 ID:2xz0WrLN
伊達もいるしどちらにしても関東侵攻は難しかっただろうね。

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 23:20:20 ID:8tc//BMx
正信ならいかにもやりそうだね

851 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/27(日) 23:43:03 ID:yW2+a2t1
>>848
ただそれだと、上杉の大幅な減封の説明が難しくなるんだよなw


徳川家康、不寝番の近習に

2009年09月29日 00:23

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 23:57:43 ID:pvGP3nE/
徳川家康は大坂での戦いの最中、近習に不寝番をさせていたのだが
戦いが長いので疲れて居眠りする者もいた。

ある時、家康が近習たちを呼んで
「今夜、あちらこちらで鉄砲の音がしたが、聞こえたかな?」と聞いた。

家康は聞こえたと答えた者には褒美を与え、聞こえなかったと言った者には
「ほう、よく眠れたようじゃの。」と言った。

そんなことがあってからは自然と居眠りする者はいなくなったという。





853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 02:25:32 ID:MrZ0yDXF
普通聞こえたって答えるだろうことを逆手にとって聞こえなかったという答えが
正解なのかなと思ったら
そのまんまですか

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 08:45:34 ID:Oja2tE7R
>>853
むしろその罠があるから寝てた奴は迂闊に「聞こえた」と答えられなかったのかも。
とはいえ戦の真っ最中だしなあ・・

宇喜多秀家、遭遇したと思しき災害の数々

2009年09月29日 00:23

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 17:23:24 ID:SenUd9gb
宇喜多秀家の余生において、遭遇したと思しき災害の数々。

1604年12月 西国で地震発生。津波が八丈島を襲い、人家ことごとく流失。死者五十余。
1605年9月 八丈島噴火。田畑に多大な損害。
同年11月 火山活動収まらず、再度噴火。
同年12月 三度大噴火。一夜にして大山が出現する。
1642年3月 三宅島噴火。
1643年2月 三宅島雄山噴火。溶岩で村が焼失。
1652年3月 青ヶ島噴火。

このほか、八丈島にも関係しそうな地震、暴風雨も毎年のように記録が残っている
天寿をまっとうできた秀家は結構ラッキーだったのかもしれない

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 17:23:33 ID:p5c/HEq3
>>842
松永弾正
「プラズマですよ。 プラズマで説明が付く」

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 18:26:41 ID:Kk06/e8N
>>864
大仏「こいつだけは痛い目あわさにゃいかんな」

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 18:38:27 ID:J4DiWRcq
仏や天罰なんてありませんよ…
ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから

867 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/28(月) 21:12:46 ID:P8dGGUoB
>>863
噴火・地震はいつおきるかわからないけど
暴風雨は毎年の行事だろw
そりゃ、余生送るには最適な環境とはいえないけどさw

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 22:39:37 ID:BsAHcdGg
>>863
そんな環境で無事に過ごせたなんて凄いな。
こんだけ逞しい人だから泳いで参って欲しい・・・とか言われるのか・・・。
宇喜宇喜フェスタでは八丈島での生活も聞けるのかな。


小瀬甫庵、取材する

2009年09月29日 00:22

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:30:07 ID:qpfM/E9a
小瀬甫庵、取材する

小瀬甫庵は太閤記を編むにあたって武将たちを取材した。
ある時、甫庵は立花宗茂を取材した。甫庵が

「太閤記にあなたの事蹟を載せたいので、昔の事を教えて
もらえないでしょうか?」

と頼んだところ、宗茂は

「私は自分の行い全てを隠さずに公表してきた。私の事蹟は
世論が決めるだろう。だから私が語る事はなにもないな」

と言った。また甫庵は黒田長政にも武功を教えてほしいと頼んだ。
長政の家臣達は、長政に

「殿のご武功を喧伝する好機ですな。私達が資料を作りましょうか?」

と言うと、長政は

「この天下泰平の世に、過去の武功を誇示してもなんの得にも
ならない。むしろ全て隠して、公表しないべきではないのかね」

と言って家臣達を納得させた。甫庵はまた断られた。





869 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/28(月) 21:43:38 ID:gsEbrDDM
さすが宗茂 名声は捏造しようもないということだな
徳川史観とか入ってるバカに爪の垢でも飲ませてやれ

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:50:19 ID:fuJNNWcV
「太閤記」って徳川の世になってから編纂されたものだよね。
その辺の事情もあるんじゃないかな。
「神君記」だったならあるいはと。

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 21:52:59 ID:tOZCvxhs
というか、今ある戦国の歴史資料って
大部分は徳川の世になってからじゃない?

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 22:00:27 ID:YXHS0ve8
太閤記であんま持ち上げられて名声を得ると
徳川に目をつけられそうって政治的配慮もありそう





関連
立花宗茂さんの取材拒否・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-560.html


北条氏政、麦を刈り入れを見て

2009年09月28日 00:12

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 22:04:22 ID:PnnGojQG
まとめスレを見ていたら載って居なかったのでカキコ
有名な話なのでみんなが避けてたのかも知れないが


1562年(永禄五年)四月、北条氏政はとある合戦に出陣し、
兵達の勇敢な声や昂揚振りでにぎわう陣内を家老の松田憲秀と
共に視察していた。そんなある時…氏政は北条鱗の軍旗がはためく
彼方に、地元の農民が田畑より麦を刈り入れている光景を見た。

北条氏政>>おぉ。農民が麦を刈り入れておるな!!。゚+.(゚∀゚*)。+.゚
松田憲秀>>左様でございますな。(゜、。 )ンナニメズラシイカ?

北条氏政>>よし!今日の昼飯はあれで決まりだな。刈り立ての麦だ、
      きっと旨いに違いないぞ!!  。゚+.(゚∀゚*)。+.゚ワクテカ

松田憲秀>>…は。ゎ、若殿…?(゜、。;)ソレハヒョットシテジョークデ(ry

そしてこの話を聞いたのが御隣は甲斐国の戦国大名、甲斐の虎こと武田信玄。
その浅墓な様子を大いに酷評したという。

武田信玄>>(*>ヮ<) ははは、流石は北条氏政は大身の御家のおぼっちゃまだなァオイ!!
      言うことが違うわ、そこに痺れんし憧れもせんが!!

      麦っていうのは刈り取って直ぐに喰えるものではない。
      刈り取ったあと扱いで、こなして、潤して、搗いて脱穀して、
      天日に干して乾かして、また搗いて、水に浸してから煮る。
      そこまで手間をかけて、ようやく喰えるものなのじゃからな。』

他にも、北条氏政の食に関するエピソードに橙とオレンジの話がある。

一時期同盟関係にあった徳川家康が、海外より渡来した南蛮人よりオレンジを
手に入れた。当時は蜜柑の品種改良が進んで居なかったため美味ではなく、
そもそも手に入れようにも紀伊でしか栽培法が確立していなかったため
大変な珍品である。もちろん、家康はこのオレンジを北条氏政にも贈った。

しかし北条氏政、これを受け取っても眉をひそめるばかり。
北条氏政>>…――なんじゃ、これは橙ではないか。こんな煮ても焼いても食えぬもの、
      家康殿は何がめずらしゅうて贈ってきたのだ?。゚+.(゚皿゚#)。+.゚
松田憲秀>>…。(そこで考えるんだ、橙じゃないから贈って来たんだと。)(゜、。;)

なお、橙(だいだい)というのは正月を祝う鏡餅のてっぺんに乗っている蜜柑に
良く似たアレのことである。見てくれは蜜柑に似ているが酸味と苦味がひどく
食用には向かないが、『代々』に音が通じるため縁起物として扱われていた。
大坂冬の陣で遊郭に出かけて失態を犯した薄田兼相が『橙武者』と罵られたのは
『正月の鏡餅飾りにしか使えないような奴』という侮蔑に通じている。

そんな北条氏政の、(北条家五代で最大勢力を為した君主なのにろくな逸話しかない)悪い話。





796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 22:33:22 ID:hvB3zYXE
>>727
氏政は本当にいい逸話が無いんだよな
逸話自体少ないのに悪い逸話しかない


798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 23:04:09 ID:38wPH0Rn
>>792
その逸話(麦の方)自分の持ってる本だと
筆者がフォローしてたw
相模は甲斐と違って豊かだから
ボンボンの氏政には麦は身近な食い物じゃなかったんだろう的なw

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 00:55:33 ID:0Ags9n1x
>>798
豊かとかどうかって話でなく、単に創作だと思う。
中国の東晋の皇帝にほぼまんまな話があるし。


812 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/27(日) 05:35:32 ID:yW2+a2t1
>>792
芝の覇王の家だと、芳情過信^h^h^h^h北条家臣もそう思ったようにかかれてて、
駿河では橙が珍しそうだから、相模からも送るということやらかして、
ますます老廃国との印象をだしてたな

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 12:22:06 ID:PLclCwD4
>>812
司馬さんは徳川にも厳しいけど
それ以上に東国の武士に関してはかなり厳しいよな……
基本的に東側の人間からすると時々納得いかん書き方の時あるわ
滅ぼされるべき旧勢力以上の見方はしてくれてないイメージ

氏政は北条贔屓倒しの小田原北条記ですら
歴代北条家当主の中で一人だけ呼び捨てだったり
武勇をアピールする逸話が全然なかったりするし
フォローは難しいのはわかるんだが……


駒姫の斬首、最上義光の苦悩

2009年09月28日 00:10

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 01:34:10 ID:FD+F7yxy
文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次は高野山にて切腹をする。いわゆる秀次事件である。
この時、秀吉の命により、秀次の子供、側室、侍女をも無残に殺された事は有名であろう。
そして皆さんもご存知だろうが、その秀次の側室の中に、
最上義光の娘、駒姫もいたのだ。

義光は秀次の家族も処刑されると言うことを知ると悲嘆にくれ、各所を回って
娘の助命を嘆願した。
が、ついに秀吉の許しはなく、8月2日、京の三条河原にて斬首と言うこととなった。
(ちなみに秀次の妻子すべてが殺されたわけではない。そもそも秀次の正妻である
池田恒興の娘、若御前などは助命されている。)

絶望した義光は、伏見の屋敷において家臣、浦山筑後を呼び、「お前は急いで京に上り、
娘の最後の姿を見届けて来てほしい」、と、頼んだ。

この命を受けた筑後は、この事を同僚に話し、こう、決意を告げた

「この度の京行きは、私の生涯の大事である。
主君の娘が斬られるのを見て、おめおめと伏見に帰るようでは、武士の面目が立たない。
よって、私は駒姫様を人手にかけるくらいであれば、その前に走りよって私の手で姫を討ち賜り、
その上で自害して果てる覚悟である。」

これを聞いた同僚は急ぎ義光にこれを知らせた。
義光は筑後を呼び

「おぬしの所存は無理の無いことだ。お前のような堂々たる武士に、このような事は
頼むべきではなかった。」

そう言って筑後の変わりに、召し使っていた下人2、3人を、京へと派遣したのだという。


駒姫の死骸は他の者達と共に、後に「畜生塚」と名付けられた、河原に掘った穴に、
捨てられた。

斬首を見届けた下人たちは、伏見に帰り、そのことを義光に報告をした。

義光は懊悩のあまり、食事を取る事も出来ず、うち塞ぎ、ただ座り込んでいた。
そして時々、歯を食いしばり目を怒らせ、

「口惜しい、口惜しい」

と、のみ、つぶやいていたそうである。


駒姫処刑時の、最上義光の苦悩と悲しみを伝えるお話。





808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 01:38:24 ID:oNbMTvrs
貴重なおっぱいが

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 01:41:21 ID:QmNj6CGP
>>807
こういうやりきれない話って悪い話スレ向きなんだろうかいい話スレ向きなんだろうか

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 02:06:53 ID:ILpFE1AD
>>807
これはやっぱり悲惨だな
ちなみに何故正妻は助かったのか?秀次の切腹理由に関係してる?

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 06:34:30 ID:l6/YundP
>>811
父親の恒興が秀吉に合流して山崎の戦いに参加し、清洲会議で秀吉とともに三法師を後継者に推挙、
秀次と一緒に小牧・長久手で動いたけど討ち死にしてしまったことが影響しているんじゃないかな。
後を継いだ次男・輝政は豊臣一族に準ずる扱いを受けてるし。


816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 08:23:00 ID:91Gwwv5e
最上の駒姫が悲惨なのは側室にあがった直後で実質的には
まだお手つきですらなかったと言う点だな

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 08:41:27 ID:OlQZ/L5/
なんで助命とおらなかったの

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 08:54:21 ID:YZvEafdW
戦国ものすごく悲惨な話

872 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/28(月) 09:46:59 ID:HwRG+R+f
>>817
一応は通ったみたいよ。
ラスボスも直前になって流石にお手つきでもないのに可哀想と思ったのか
誰かの嘆願が効いたのか分からないが、「あれだけは鎌倉で尼でもさせるか」
と気まぐれのように口にした。
すぐに使いが三条河原へ走ったが間に合わなかった。
しかし遺体の扱いは他と同じ畜生塚。やはり気まぐれだったらしい。


今川彦五郎の死の謎

2009年09月28日 00:09

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 17:19:42 ID:PLclCwD4
天文五年(1536年)3月17日
駿河の大名今川家の八代当主氏輝が死んだ
そしてまったく同じ日、その弟彦五郎も死んでしまった

これについてこんな話がある
今川氏輝という人は生まれながらに病弱な性質であり、
床から立ち上がって政務を執ることがままならないほどであった
よって今川家の政は彼の母、寿桂尼が全てを取り仕切っていたが
体の弱く政治はおろか結婚し子を儲けることも出来ない
つまりは当主でありながら当主としての役目を何一つ果たすことが出来ない氏輝は
そんな己を不甲斐なく思い、良くはならぬ体調に絶望を深めていった
やがて精神を病んだ彼は、入水し自らの命を絶ってしまった
という話である

しかしこの逸話は弟、彦五郎の死には触れていない
彦五郎については実は氏輝と同一人物ではないか?などという説もあるが
共に心中を図った、などという話もある
とにかく史料が少なく曖昧で謎に満ちているのだ

またこの自殺説の他にも
①純然たる偶然の病死
②室町幕府の陰謀
③武田信虎の陰謀
④北条氏綱の陰謀
⑤五男・梅岳承芳の陰謀
⑥母・寿桂尼の陰謀

など様々な説がある
しかしどれもこれもあやふやで確証に欠けている
というかどの陰謀に関しても
「あるあるあるw……あるあるあるwww」
となるメンバーばかりなのだ

とにかく氏輝・彦五郎兄弟が亡くなったということは、
当主と実質その跡継ぎ的立場だった人物が消えたということである
今川家はすでに僧籍に入り、本来は家督継承から完全に外された
三男の玄広恵探と五男の梅岳承芳が血みどろの争いを繰り広げ
結果として五男の梅岳承芳が家督を継ぐこととなった

真相はそれきり歴史の深い闇の中にある
そんな花倉のミステリー




850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 18:26:52 ID:iFrsVgpM
>>847
結構な大事件だよな。それなのに端折られてるって事は
誰かの陰謀で暗殺されて隠蔽工作したとしか。

ところで太原雪斎の名前が挙がっt・・・、ん?誰だこんな時間に


852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 19:10:54 ID:PLclCwD4
>>850
⑤五男・梅岳承芳の陰謀 を雪斎の陰謀にすりゃ良かったなw
つか俺はなんとなくこれが一番正解な気がする

義元の家督継承を期に今川の外交姿勢が北条との協調路線から
武田との協調に変わってるのもなんか意味ありげなんだけどな

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 19:34:13 ID:UZHJpiR/
今川の史料にはまったく痕跡が無いんだよな。弟彦五郎
多分同一人物だと思うがね

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 19:45:21 ID:qJKbRqaq
(((( ;゚Д゚)))


857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 20:34:53 ID:W2ZShsYS
>>852
雪斎と義元・氏輝の生母って仲悪かったみたいだしね
花倉の乱で血を引いてない恵探を支援するくらいに
もっともお互い暗殺に踏み切るような、無分別な真似はしなかったが


島津義弘、関ヶ原の述懐

2009年09月28日 00:07

848 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/27(日) 17:34:31 ID:XGNYksmp
島津義弘の述懐

関ヶ原では、まったくひどい目に逢いました。
素人の石田三成に振り回され、まったくやる気もなかったのです。

高みの見物と東軍西軍との合戦模様を眺めておりました。
しかし、まあ、ここだけの話でござるよ、老人のたわごとと御海容を。

東軍先鋒DQNで有名な細川忠興少将、
ひときわ美々しき甲冑に身を包み、ご本人は奥様なくされ獅子奮迅の
お働きのおつもりのようですが、
爺の目から見ればまだまだでございます。まるで雛のようでございますなあ。
薩摩の兵ならば、ひとひねりでございますよ。

などと思っているうちに、帰り道では死ぬような目に逢いましたが。




851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 19:10:24 ID:la9KCZOR
関ヶ原当時の細川三歳は少将ではなく三位宰相では?

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 20:45:04 ID:XGNYksmp
三歳公、この4年前から参議になってたみたいですね、失礼をば。


織田信長と斉藤の刺客

2009年09月28日 00:05

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 22:48:58 ID:UQmUhKQx
織田信長が将軍義輝に拝謁するために京都にいたとき、
斎藤義竜は信長を亡き者にしようと暗殺者を送り込んだ。

この事はすぐに信長の知るところとなったのだが、信長は
なにを思ったか暗殺者の潜伏先に自ら出向いて行った。
そして信長は暗殺者に言った。

「わしを殺すつもりらしいが、それはカマキリが斧で龍車に
挑むようなものだ、やめておけ。だが貴様らの志は認めてやる。
本当にわしを殺したいのならば、かかって来るがよい。」

突然の事に動揺した暗殺者たちは逃げ出してしまう。
この事件はすぐに広まり、義竜は卑怯者と笑われたという。




七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 03:52:30 ID:tJIoQMtE
後の関白豊臣秀吉である。

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 08:54:01 ID:KCfP00UN
後年の本能寺の変の発端である。

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 09:32:46 ID:nmyksotX
>835
物陰に目を爛々とさせた森武蔵がいたりしてw


…無いな。アレはきっと止めても殺すよな。

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 09:47:27 ID:fWQvHNKC
本能寺に殺しに来たのはその時の齋藤の刺客達であった めでたしめでたし

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 09:51:12 ID:l6/YundP
>>839
歴史群像新書にありそうだ


松永弾正と落雷

2009年09月28日 00:04

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 16:01:15 ID:brw+mTnh
松永弾正と落雷

大和領内の寺院で落雷があった。

この時に、松永弾正が寺院へ手紙を送っている。

弾正「落雷にあったと聞いた。
何やら天罰だと落ち込んでいるそうだが、自然現象なので気にしない方がいいぞ。
早く修理しろよ。」

迷信を信じない松永弾正の(見識の)いい話。





842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 16:13:24 ID:dxLg3bs4
>>841
松永さんは「彗星も落雷もただの自然現象」の一言で片づけるあたりは、カッコいいね。


藤枝、白子の由来

2009年09月28日 00:03

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 16:21:44 ID:PLclCwD4
白子の由来

めっちゃ地元ネタなんだが
俺の地元藤枝の駅前にある小川眼科の先生のご先祖さまは
元々伊勢の白子に住む農民だったらしい

伊勢の農民、小川孫三の前に、天正十年のある日、三河の大名徳川家康の使いが現れた
この時の家康、有名な伊賀超えを果たして伊勢にたどり着いたばかりで
この伊勢から海を渡り自領に帰ろうとしていたのだ
孫三はこの命令を受けて、すぐさま船を用意すると、家康一行を豊橋まで送り届けた

これに感謝した家康は孫三に朱印を与え、更に褒美として藤枝に土地を与えたため
小川家はここを故郷と同じく白子と名付け代々この土地に住むことになったのだそうだ

眼科なのに歯医者みたいに泣いて困らせてすみません






三浦安針と伊東

2009年09月27日 00:50

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 11:11:24 ID:gKTVgodM
ではイギリスに関係あるいい話

徳川家康に仕え、その外交、貿易政策に助言、活躍した、三浦安針こと、
英国人ウィリアム・アダムス。
彼は現在の静岡県伊東市において、日本初の洋式帆船を建造しました。

この伊東市、この縁から今でもアダムスのことを大切に扱い、
夏には、彼を記念した『按針祭』というお祭りを行っています。
(今年で63回目。花火大会が有名です)

そしてそのお祭りのために、『按針音頭』と言うものまでつくりました。

「伊豆の湯けむり伊東にあつめ ぱっと花火は海に咲く 
見たか聞いたか按針祭は いでゆ伊東の夏げしき

船をつくった按針さんは 青い目をしたサムライよ 
見たか聞いたか按針祭は いでゆ伊東の夏げしき」

そして伊東市はアダムスの出身地である、イギリス、 メドウェイ市と友好都市の提携をしています。

過酷な航海の後、関ヶ原の年に豊後臼杵に漂着し、徳川家康に助けられ、徳川の旗本として活躍し
異国の地で侍として死んだ英国人は今も、日本とイギリスの友好の一助として、
存在をしているのです。




811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 11:28:09 ID:YDQlyL6m

>>810
ヤン・ヨーステンの方はどうなんだろう。
八重洲のあのあたりはビジネス街だからやりようもないか。


豊臣秀吉「この世で一番旨いもの」

2009年09月27日 00:49

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 20:42:56 ID:EmccWD8N
既出の話かも知れないが…

織田信長の覇業を継ぎ、見事天下人へと駆け上った豊臣秀吉。
早喰いで濃い味付けを好んだ織田信長、大名になっても麦飯を通し
旬の魚や野菜以外に箸をつけなかった家康など、食事の嗜好にも
戦国武将達の逸話は多いが、そんな彼らと並び賞賛されるラスボスこと
豊臣秀吉は、というと…黄金で茶室を作ったり大坂城に三百人の妾を囲ったりと
豪奢なイメージがある反面、食事については…割と庶民的な感覚だったそうである。

『異説まちまち』には、そんな豊臣秀吉の食に対する思いが書き留められている。

豊臣秀吉>>いやぁ、余も偉くなって酒食も美味珍品思うままになったが
     やっぱり、何がこの世で一番旨いかといえば…アレじゃな。
     『飢えそうなほど腹が減ってる時に喰うもん』に勝るものはないわ。

     余が身分卑賤であったころ、よく叔母の家へおつかいに行ったんだが
     叔母が『お前が来ると思ってて用意してあったんだよォ』って、
     大椀いっぱいに麦飯を盛って、棚においてくれてあったんだわ。

     こっちも忙しいからゆっくり喰う暇も無い、その木椀の麦飯へ水を掛けて
     立ちながら喰って、急いで帰る。

     これ、毎度毎度の事なんじゃが…ありゃあ本当に旨かった。
     余も天下人になって色々飽食美食に明け暮れたが、あんときの
     麦飯ほど旨いと思ったもんは一つも無い。'`,、('∀`)'`,、』

ちなみにこの時代の麦は本当に水気がなくぱさぱさで、急ぐ急がずに関わらず
水か湯をかけねば喰えたものではなかったそうだ。おそらく天下人になってからは
毎日銀シャリであったのは間違いない秀吉でも、一番うまかったのは
腹が減ったときに喰うものだった、という身も蓋も無いが気障も飾り気もない
庶民的なことだった。

ほかにも、大道寺友山(大道寺政繁の曾孫)の覚書によれば、
秀吉は生まれ故郷の尾張中村には年貢を課さないかわりに、年始祝いの挨拶に
大根と牛蒡を献上するようにと命令を出している。尾張中村の大根と牛蒡、といえば
名物だったらしく、貧乏な頃に食べたその味が忘れられなかったのだろう。

そんな豊臣秀吉の(天下獲った割には案外庶民的側面も忘れてなかった)良い話。




831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 21:08:38 ID:tsDgWQrJ
このラスボスはいいラスボス

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 21:11:52 ID:vEZaErYb
食べ物ってのは、食べるその人を如実に表現してしまうものだな

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 21:17:43 ID:WmJAprxm
まぁ最近じゃ症状からして秀吉は脚気だったんじゃないかって
説を打ち出した医者がいたりするけどね

ゴボウの話は多分これだな
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-24.html

834 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/26(土) 22:00:06 ID:IeQ2CJsG
秀吉△

[ 続きを読む ]

遠州錯乱と今川氏真

2009年09月27日 00:48

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 00:10:30 ID:DfgjsB5V
いい話スレで遠州錯乱の話題が出たので

父義元が死んだ後今川氏真は徳川家康と三河を巡って争っていたのだがちょうどその時
西三河で一向一揆が起こり、松平家は家臣が二手に分かれて争う事態になっていた。
それを聞いた氏真、それに乗じて松平家を滅ぼせ…なかった。
駿河と三河の間の国遠江で家臣の反乱が相次いだのだ。

まず井伊谷の井伊直親が松平家に通じた疑いで朝比奈泰朝に殺されたのを初めとして
見附端城の堀越氏延、二股城の松井氏、犬居城の天野氏、引馬城の飯尾連竜が
相次いで反乱を起こしたのだ。
後に遠州忩劇とも呼ばれるこの事件は永禄五年(1562)から永禄八年まで続き、
最終的に飯尾連竜が再度家康に通じたとして駿府城で誅殺されるまで続いたのである。

この乱によって今川家は西三河に侵攻するどころか東三河を家康に完全に掌握され
残った遠江の諸将からも反感を買い、国力の弱体化を内外に示すこととなったのである。

その後氏真は領国の立て直しを図るべく検地や楽市などを実施するのであるが時すでに遅し、
信玄に完全に目をつけられており武田・徳川連合軍に攻められた挙げ句遠州掛川城から
小田原へと落ち延びるのはそのわずか3年後のことである。






第26代当主南部信直の誕生

2009年09月27日 00:47

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/26(土) 15:03:15 ID:opgZPqmz
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-918.htmlでも触れられていた、
南部さんちのお家騒動の話

南部信直は養父に命を狙われ、実父を津軽で失い、何かと家族に恵まれない男だった。
しかし彼には親子ほど年の離れた頼れる家臣がいた。
名前が読めないことで有名な北信愛である。

信直は12歳のとき従兄弟の三戸城主・南部晴政の婿養子になったが、
その後晴政に実子が生まれたために命を狙われ、自宅(田子館)にも帰れない有様だった。
一門の北信愛は当時まだ晴政の家臣だったが、信直の器量を憐れみ、
彼を自分の城である剣吉城に匿い、晴政による数度の城攻めを耐え続けた。

そんなこんなの内に、晴政と男子が急死してしまう。
空いた三戸城主のポストをめぐって、晴政の娘婿やら一門の実力者やら様々な候補が出る。
衆議の席は揉めに揉めた。
皆が真剣な顔で話し合っているなか、突然北信愛が声を上げて笑い出した。

北「(´_ゝ`)クッククク・・(´∀`)フハハハ・・( ゚∀゚ )ハァーハッハッ!!」
一族「北殿、どうしたの!?」
北「咲かすべき論に勝ちたり!」

北は大笑しながら座敷を出た。そこには鉄砲を持った大量の兵たちが控えていた!

一族「Σ(゚д゚;)!?」
北「三戸城主になる御方はと っ く に 決 ま っ て ん だ よ !!」

要するにクーデターである。北は兵に命じ、田子に信直を迎えに行かせた。
第26代当主南部信直はこうして誕生したのである。

まあこれだけ強引な家督相続をしたので、当然の如く家中は反発の嵐となった。
信直と信愛はこの後も様々な困難に見舞われたが、ガッチリ信頼で結ばれた彼らは
二人三脚で南部家の地盤固めに尽力した。
南部の知将北信愛の、ちょっとアグレッシブなお話。






戦国時代のとうもろこし

2009年09月27日 00:45

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 15:38:34 ID:r+1ra3R9
いい話スレで食べ物が賑わっているようなのでこっちにも


千葉県市原市には戦国時代から伝わるとされる話に、とうもろこしが登場します。

里見家に仕える多賀氏の池和田城が、小田原北条家に攻められ落城しました。
城主の姫は城から落ち延びますが、逃げた先にはとうもろこし畑があり、
風でとうもろこしの葉が音を立てると、敵の追っ手と勘違いした姫は自害してしまいました。

それ以来、池和田城周辺の人々は姫の死を悲しみ、落城から400年以上経った現在に至るまで
とうもろこしの栽培をしないということです。

つまり戦国期には、すでにとうもろこしは日本で栽培されていた事になります。
まぁとうもろこしは連作障害が酷いので勝手に廃れた、というあたりでしょうか。




773 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/26(土) 16:27:54 ID:lrF/GiKy
>>772
土地がやせる割には食うところが少ないからな。
北朝鮮でも目先の収穫にとらわれてとうもろこし栽培
奨励して、益々土地がやせていったそうだ。


図  年  卯  坂  大

2009年09月26日 00:04

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 13:00:25 ID:RdPG4WNK
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/de/Osaka_U-no-toshi-zu.jpg

┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃    図  年  卯  坂  大    ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛

     災_∥
     ソ )二)   ,,,,,,     ま
    /( (  )`ヽ″.(    さ
   ノ>( ハ三メ  入_>   む
  ;,// ) ‐‐/入 ヾ    ね
     ~’   ~’ ~’

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 13:08:55 ID:Ebqi6SP2
>>740
うおーすげー
どこから持ってきたんだ?

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 13:14:36 ID:RdPG4WNK
よくわかんないけど英語Wikipeの大阪の役に貼ってあったよ。
記事曰く最古の瓦版らしい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Osaka


相部次郎右衛門の切腹

2009年09月26日 00:02

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 14:27:34 ID:T489/zDC
さてさて、>>708で主君村上頼勝をも狼狽させた、幻術師相部次郎右衛門。
狼狽させたほうは大成功だろうが、狼狽した頼勝のほうは、彼のことを非常に不安に思った。

頼勝は家老を呼び、その不安を語る

「次郎右衛門の幻術、あれはあまりに怪しすぎる。
あの男をこのままわが家に抱えては、世の中に至らぬ噂を振りまくだけでなく、
下手をすれば最近ご禁制となった、切支丹の類とすら見られるのではないだろうか?

だからと言って暇を出しても、その後何か騒ぎを起こされて、わが家がそれに
巻き込まれぬとも限らない。

よって、大変不憫なことではあるが、無益な術を身に付けた事、不肖であるとして、
次郎右衛門に切腹を申しつけよ!」


家老の面々は、頼勝の決心を変えることは無理だと考え、次郎右衛門の元に検使を派遣し、
その旨を伝えた。
しかるに次郎右衛門は、「それではしかたがありません」と、抗弁すらなくあっさりと承諾。
かねて懇意にしている寺に行き、そこで切腹するとした。

腹を切る前、次郎右衛門はその寺の住職に

「私が切腹した後は、その遺体を長持の中に納め、それを鎖で巻いて、埋葬していただきたい。」

そう言い置き、腹を真一文字に切る。
そこを介錯人が首を打ち落とすと、彼の遺言の通りに埋葬した。

そこまで見届けた検使が城へと帰り、報告を行っていると、そこに家老宛の書状が届いた。

「あ、相部次郎右衛門からです!」
「なんじゃと!?」

さっそく書状を開くと、そこにはこうあった

『それがし、何の罪も無く死罪に会うことになったようなので、ただいま城下を出て、
どこそこまで退いたところであります。』

一同大いに驚き、検使は大急ぎであの寺に帰って死体を入れた長持を掘り出した。
その蓋を開けてみれば、中には腹を切った、巨大な狸が入っていたそうだ。

これは後に美濃の加納家に仕えた次郎右衛門のかつての同僚が、語ったことだそうである。




744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 15:53:15 ID:lsujLIsc
戦国イリュージョニスト現る

745 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/25(金) 17:16:55 ID:8Xun/+mH
松永さん「妖術ぐらいで狼狽するなんて情けねーw」


746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 17:22:11 ID:GCY73Ivv
もちろん腹切ったタヌキは家中でおいしくいただきますた

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 17:24:27 ID:ocoDKqOi
タヌキといえば化かすものというのが日本人の共通認識だが、
化かすための道具として腹を切らされたタヌキがいるなんて不憫すぎる

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 18:07:22 ID:cJmuv4Ow
動物愛護側からすると、かなり悪い話

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 18:08:44 ID:WD3XCd6a
タヌキっていっても家康のほうでしょ?

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 18:13:33 ID:pv8zzC7d
「ばかも~ん!そいつが次郎右衛門だ~!」

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 19:34:39 ID:+8kOTPuM
そういや今俺たちが一般的にタヌキと聞いて思い浮かべる獣と
童謡なんかに登場するタヌキ鍋に用いられるタヌキは別の生き物らしいね
童謡とかで鍋にされているのはアナグマの類で脂身が少なくてまあまあの味で
現在一般的なタヌキって言われる獣は煮ても焼いても食えない位不味いんだそうな
アナグマとタヌキは地域や時代によって呼び方や種別が混在しててまぎらわしいということらしい

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 20:46:51 ID:tj/WCdUM
タヌキムジーナ事件ってのもあったな。


753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 20:49:08 ID:Vwz80bEc
左慈とか于吉みたいに術を使う奴を殺そうとすると碌な結果にならんな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 22:03:36 ID:uox+CSPH
>>743
わざわざ長持を鎖で巻いて脱出困難にするとか本気で奇術師じゃねーかw

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 22:07:21 ID:3cVhZO/0
>>754
完全にショーの構えだよねw

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 22:39:56 ID:Of+vPYs+
律儀に巻いちゃう介錯人&住職も相当なもんだな。

何の疑問も持たずに巻き巻きしちゃったのか。

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 23:29:18 ID:leGLu6Rn
当時の人間にしてみたら棺桶(みたいなもの)を何で鎖で縛るのか不思議だったろうな

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井伊直政の異例の出世について

2009年09月26日 00:01

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 11:49:44 ID:Z/DFrWpq
赤備えで有名な井伊直政だが、彼が三河衆主体の徳川家中で異例の出世をした
(井伊氏は遠江国人)のは
徳川家康の衆道相手であったからだという説が現在主流となっている。

ところで徳川家康の妻、築山殿は関口義広の娘でありその妻は義元の妹であるとされている。
だが、『井伊年譜』にはこのような記述がある。

「初為今川義元側室、後義元為妹、嫁関口刑部大輔源親永、生一女、乃、
義元為媒嫁神祖者、筑山御前是也、」

関口義広の妻は義元の側室であったが、後に妹ということにして義広に下げ渡し、
その妻が生んだのが築山殿である、という内容である。そしてその義元の側室というのが
井伊直平の娘である、としているのだ。

そうなると家康と井伊氏は婚戚関係であり、その事を知っている家康が信康が死んだ後
信康と血縁関係にある直政を寵愛し、抜擢した。という可能性も考えられるのである。

寵童故の立身出世というのであれば陰口を叩かれるものであるが、当時の家臣やその関係者が
直政への不満を記述していないことから、もしかしたら『井伊年譜』の記述通り
家康と直政は親戚だったのかもしれない。




780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 12:01:28 ID:zf3YaXNf
井伊さん家は女当主の家じゃなかったけ?
勘違いかな。

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 12:03:09 ID:d3xk7QJB
家康はノーマルだったって事か

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 12:33:57 ID:lsujLIsc
>>781
まあそもそも衆道は、
通常女を連れて行く訳には行かない戦場、特に長期在陣で、
遊女などの素性の知れないものとセクース中に大将が殺されたらかなわないっての代替だからな。
入れ込んじゃう奴もいるけど、やっぱり女の方がいいって奴は多いかと。

家康なんかは小牧長久手や大坂なんかだと側室連れだし、結構ノーマル。
まあ後家好き幼女好きって時点でノーマルとは言えないかもしれんがw

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 12:41:17 ID:3cVhZO/0
>>779
ややこしいな
家康のお姑さんが井伊家出身ってことか
井伊直政は家臣の中では唯一娘が家康の息子と結婚してるし
書状だかで扱いが他の家臣と違ってて、元々は徳川家の同盟者のような
立場だったんじゃないかという話はどっかで見た
スピード出世他の特別扱いも他の家臣と立場が違うとすれば説明がつくと

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 17:50:57 ID:UU7GevNM
>>7781-82
衆道は衆道で長い歴史を持つ文化。女の代替で仕方なく、なんてもんじゃない。
日本ではそもそもは寺・僧侶から貴族へ、そこから武士へと伝播していった。
当然、戦とは関係なくね。そもそも戦場以外でも日常で衆道の習慣があるのに、
どうして「戦のときの限定」なんて話になるのか。そもそも伊井直政以外にも
衆道を勤めたとされる人物はいる。

ついでに言うと、当時の武家は衆道である方が「ノーマル」

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 17:51:49 ID:UU7GevNM
>793
最後の一行間違えた。「衆道」→「両刀」で。

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 18:02:16 ID:bVw7p1rg
最初の一行も間違ってるけどな

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 19:19:03 ID:Ec6kpYIZ
心の眼で読めば大丈夫!

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 21:26:13 ID:gHoH6z6e
>>780
女当主は井伊直虎だんね
直政を養育し徳川家に出仕させたのもこの人

かなり幸薄い女性で、父を桶狭間、一族の殆どを政争の末に亡くしてる
夫となる筈だった井伊直親は朝比奈泰朝に討たれ、自身は山県昌景と戦い城を奪われてる
直親に操を立てたのかなんなのか、生涯独身だったそうだ

結構凄い人なんだけど、悪い話向けの人物な気がするのでここではあんまり詳しくは書けない

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 21:58:56 ID:T489/zDC
>>798
この人ですな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2634.html

直虎が当主になったころの遠江は、遠州錯乱って、ものすごいカオスな状況だったようで。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 21:59:10 ID:kAuRHBH8
>>798
まとめサイトにすでにある。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-439.html
こっちで書かれたみたいよ。

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/25(金) 22:20:52 ID:Mqj2ZqUL
>>798
家督を巡っては上に下に翻弄され、戦下にあっては信長、朝比奈、山県が相手ってなんてぇか、
すげー運悪い一族だな


伊達政宗の白萩文書

2009年09月25日 00:05

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 20:54:34 ID:BJTnYKup
伊達政宗の白萩文書


現在の東京都あきる野市に、大悲願寺というお寺がある。
約1400年前、聖徳太子が全国行脚をした際にこの地を訪れ、
草堂を建てたのが起源といわれ、その後、源頼朝の命により、
京都の醍醐寺から澄秀僧正を招き平山季重が建立した。
このお寺は庭の白萩が見事で、時期ともなれば見事に咲き誇った
美しい白萩を見ることができるのでも有名である。

さて、このお寺に、伊達政宗が立ち寄った事がある。
「政宗公実記」から推定すると、元和9年(1623)ごろ。
秋川に川狩りに来た際に立ち寄ったという。
当時の住職は徳川幕府に影響力のあった、名僧の誉れ高い第13世海誉僧正で、
政宗は海誉僧正に敬意を表して訪山したと言われている。

政宗が立ち寄ったのはお彼岸の頃だったようだが、
ちょうど白萩が見事に咲き誇っている時期だった。
これにいたく感動した政宗は、仙台に帰ってから飛脚を立てた。

「 追て曽掛(そかけ)(粗末な衣)に候(そうら)へ共、折節に任(まか)せ、
小袖壱重進(ひとかさねすす)め候(そうろう)。以上。
 態(わざわざ)飛脚を以て申し入れ候。
先度(せんど)は参り、会面(かいめん)を遂げ
本望に候。仍(よって)無心の
申す事候へども、御庭の
白萩一段見事に候(そうらい)き、
所望致し候。先日は申し
兼ね候(そうらい)て罷(まかり)過ぎ候。預(あずけ)(使いの者に)
候(そうら)はば、恭(かたじけな)かるべく候。
猶(なお)後音(いん)を期(こ(き))し候。
恐惶謹言(きょうこうきんげん)
   松平陸奥守(むつのかみ)
八月廿一日 花押(政宗の書き判)
彼岸寺御同宿中」

要約すると、
「先日訪問した際、白萩が見事だったが、
欲しいと言い出しかねて帰ってしまった。ぜひ一株譲って欲しい」
こんな内容になるだろうか。
寺では早速、白萩を仙台に贈る。
(これが後に伊達騒動を描いた「伽羅(めいぼく)先代萩」の萩である)

時は流れて昭和になってから、仙台からこの寺に
政宗に縁の臥竜梅が贈られたそうだ。
政宗から寺に送られた書簡は「白萩文書」として、
現在も大悲願寺に保管されている。


思わず独眼竜も遠慮するほど見事な、良い白萩の話。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 20:56:05 ID:BJTnYKup

さて、ここからは私見入りまくりの余談である。
いらない人はスルーして欲しい。


この大悲願時には第13世海誉僧正の弟子で、秀雄という者がいた。
幼名を鶴若といい、後に第15世住職秀雄僧正となる人物なのだが、
この秀雄、寺の記録では政宗の末弟(あるいは舎弟)となっている。

政宗の父・輝宗には側室や妾がいたという確たる資料がなく、
一般的にはいなかったとされているようだ。
故に政宗の弟と言えば、毒殺未遂事件の時に政宗に切られて死んだ小次郎の事である。
ではこの秀雄という、政宗の弟とは誰なのか。

輝宗に側室あるいは妾がいて、その子だと考える向きもあるのだが、
実は密かに生き延びていた小次郎その人だという説がある。
確たる根拠はないようだが、毒殺未遂事件が実は参陣の遅れに口実を設けるための
母子揃っての狂言だったとする説だ。
故に小次郎は死んだことにして世間から消えた。
そしてここの寺で秀雄と名乗っていた人物こそ、小次郎なのだという。

「花の慶次」などでも見られるように、
小次郎生存説はわりと根強く語られている。
政宗の窮地を救うために母は悪者になり、弟は死んだことにして世間から消え、
しかしこの地で兄弟ひっそりと再会したとするなら、ある意味ロマンだからだろう。
そんな異説を思いながら政宗の手紙を読み返すと、途端に意味深に思えてくるから不思議である。
「先度(せんど)は参り、会面(かいめん)を遂げ本望に候。」
政宗が会えて本望だったと言ったのは、果たして誰のことだったのか。

小次郎が切られたとされるのは会津の黒川城だが、
政宗が退去した後に蒲生氏郷が会津に入り、城を建てて「鶴ヶ城」と命名した。
その際、地名も黒川から「若松」に改められる。
そして秀雄の幼名とされるのは「鶴若」である……。




729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 21:35:55 ID:GcrkXNh5
>>727-728乙

あんまり関係ないけど
梵天丸(梵天)→政宗、竺丸(天竺)→小次郎と来てるのに
なんで鶴若(鶴)?こいつ余計じゃね?とか思ってた
もし秀雄=小次郎で、鶴若とかいう幼名はダミーなら
梵天と天竺できれいにそろうな

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 22:45:06 ID:WX4L4hlC
>728-729
いい話聞かせてもらった、有難う
たしかに梵天と天竺でセットになってる


伊達政宗と七つ森の仏像

2009年09月25日 00:05

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 05:55:59 ID:JynSuhxS
久しぶりに文化財クラッシャーな話

仙台の北は大和町という所に「七つ森」という場所があり
名の通りに七つの山が綺麗に並び、仙台から現在も眺めることができる

ある時、政宗が七つ森に巻狩りに来たが、一向に獲物が獲れなかった

( #●Д゚)「・・・・・」

イライラしつつも、最後に他の山々から少し離れた位置にある最高峰の笹倉山にやってきた

( ●Д゚)「終わりよければ何とやら…ってな」

だが・・・・




( #●Д゚)「・・・・・・・・・・・・・・・・」

ここでも一向に獲物が現れない
ついに山頂まで登りきってしまい、そこらを見渡すと杉林の中に何かを見つけた

近づくと穏やかな顔の真っ黒な仏像が鎮座していた

( #●Д゚)「おい、あれは誰が祀った物だ?」

小十郎が答える

( ´ー`)「あれは、昔この地の豪族八巻氏が祀った薬師如来と聞いています」

( #●Д゚)「フーン・・・この野郎、よくも狩りの邪魔をしやがったなゴルァ!」

眺めるうちに、仏像の穏やかな顔が不猟を嘲笑っているように思えたのか、
鉄砲で仏像を撃ち抜き、真っ二つにしてしまった

( ●Д゚)「フッ・・・また詰らぬもn・・・痛ッ!」

その時、突然に政宗は何者かに鼻筋を打ち据えられて、血が止まらなくなった

( ;´ー`)「と、殿!」

慌てた小十郎は仏像の足元に生えていた笹の葉で鼻を押さえると、途端に血は止まったという

( ;●Д゚)「・・・・・?」

政宗は両手を合わせて如来に詫び、割れた仏像を包帯で巻いて一つにした
この包帯巻きの仏像は現在でも山頂の薬師堂に安置されている

他にも、里の者が参拝しやすいように笹倉山を一周する道を造り、伊達林道として今も残る

どうせなら新しい仏像を祀って差し上げれば…と思う文化財クラッシャーな悪い話


笹倉山に登った後に、この逸話を見つけてしまった…
薬師堂の裏に政宗公の御覧場の標柱をあったらしいし、御開帳の時にまた行くか





687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 06:07:09 ID:cLVH4A76
仏像を撃つとかDQNすぎるだろw

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 06:19:38 ID:nj5WQ+95
これはもうざまぁという感情しか浮かんでこねぇw

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 09:28:46 ID:qM8DXRtP
親父や味方以外にも犠牲者はいるわけね

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 09:42:10 ID:B3rI6PVW
さすが四天王の名に恥じぬDQNw
だが最近ラスボスとかのおかげで、この程度なら、ち ょ っ と 悪い話だと
思ってしまう自分は、このスレに慣れすぎているorz

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 11:10:54 ID:a/TfLvt2
まあ現代人からすれば人を殺す話より後味は悪くないわな。

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 11:15:24 ID:ynw6rBQL
奈良の大仏焼いて爆死するハメになった人もおられたから
仏罰ってのは仏像の大きさに比例するのかもね

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 12:21:02 ID:14vtlrSS
>>692

タリバンオワタ
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c8/Bouddhas_de_B%C3%A2miy%C3%A2n_-_Aout_2005.jpg

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 13:54:10 ID:hUIm5xEX
>>693
それどんだけ昔の話だよ
それで報いがあるんならとっくにタリバンなんざ米軍に殲滅されてるよ

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 14:34:36 ID:aqo2+uLU
>>694
東大寺の大仏が焼けたのが1567年
松永さんがあぼ~んしたのが1577年

タリバンがバーミヤンの大仏を破壊したのが2001年
ということは・・・

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 14:46:36 ID:9YhtJ1No
仏の力って遅効性なのかよ

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 14:56:16 ID:rsE9ABFD
大きさに比例して罰が下るのも遅くなりますw

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 15:59:49 ID:LCJBCqrX
それ150年後とかに全然関係ない子孫が巻き込まれたりしたら悲劇じゃないか。

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 16:02:11 ID:qkjuJk9L
祟りってのは子々孫々まで続くのがセオリーですから

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 16:48:53 ID:QEw2sfsH
2011年のアフガニスタンにご期待下さい。



・・・しかし、アフガン情勢が混迷を究めている中笑えないネタだ・・・


702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 17:14:06 ID:94ALnD7q
まあ、「すぐ来てやるからな」と言いつつ二千年近く立ってる人?もいることですし。


710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/24(木) 19:57:40 ID:selr+qMJ
>>694-696
戦国とは全然関係ないがこんなジョークがあったのを思い出した

1904年の日露戦争の際に、ロシア正教会は全教会をあげて
日本に天罰を 下すように神に祈りをささげた。
結局なにも天罰は降りず、ロシアは負けた。
20年後、日本で関東大震災が発生。
ロシアの物理学者カピッツァはこの事実から
「神はわれわれから9光年以内にいる」と結論を下したという。

もしかすると仏のおわすところも5光年ぐらい離れてるのかもしれません