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手島美作の逃亡

2009年12月26日 00:01

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 06:57:37 ID:TtScnEBK
武州忍の領主成田長泰の家臣に、手島美作と言う者がいた。

この手島、永禄3年(1560)上杉輝虎の小田原攻めの際、人質として謙信に出された長泰の
幼い二男に付けられ厩橋城にいたのだが、成田長泰はご存知のように、この小田原攻めの最中
上杉陣営から離脱し忍に帰った。
俗説では鶴岡八幡宮における輝虎の関東管領への任官の儀式で、輝虎から打擲されたためだという。

さて、明日はこの輝虎が厩橋に帰城すると言う夜、この城の宿直のものが手島を、
密かに物影へと呼んだ。

「手島殿、あなたの御主君長泰様が別心をいだき、忍に帰られたことご存知か?
明日輝虎様が帰城されるとあなたも、人質ともども殺されることになっているそうだ。」

手島、これに大いに驚いた。主君長泰からは、何の連絡も来てはいないのだ。
なんたることかと愕然としていると、宿直の男

「…ところであなたは、国に帰れば五千貫の大身だと聞き及びます。どうでしょう、私に
三十貫の知行をいただければ、あなたをここから脱出させ命を助けますが…?」

「そんなもの容易いことだ!」

すぐに約束状を書き与えた。そこで宿直の男は小舟を用意し、手島を人夫の姿にさせて
城を出ようとした。この時手島は「若君も連れて行きたい。」と言ったが、
「子供をつれていくのは無理ですよ。だいたい父親である長泰でさえ捨てたんですよ?
他人である我々が気に掛ける必要があるでしょうか。是非に及びません。」

と、若君がまだ寝入っている間に、城を出た。

翌朝、この二男は目を覚ましてから、自分が殺されると言うことを知った。
慌てて手島のもとに駆けつけたが、そこは既にもぬけの殻であった。
そうしているうちに二男を探しに来た追っ手が現れ、これから逃げようとし、最後には
川に飛び込んでそのまま死んだ、と言う。

手島美作は無事脱出に成功したが、長泰に対し「今まで一度も不忠の事は無かったのに、
棄て殺しにしようとしたのはあまりに酷い」とこれを恨みとし、後、長泰の嫡男氏長と共に、
長泰の追放に働いた、との事である。





352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 12:39:56 ID:jqpCh1IM
成田長泰次男って確か謙信が厩橋に帰ったあとも普通に厩橋に元気でやってて
謙信がおんぶして遊んであげてたとかいう話も残ってるんだが…。
成田の家臣が危険を冒して救出して連れ帰ったバージョンの話も見た覚えがある。

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 14:18:59 ID:VtI7ZOi6
というか、一般的に長泰の次男とされる長忠(当時九歳)にはそもそも上杉の人質に出された
形跡がない。
成田長泰が人質を見棄てたのは事実だが、本当は誰が人質に出されたものやら。

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 17:27:36 ID:eT+d0tKE
>>350
友誼とか同情じゃなくて知行目当てかよ!>宿直

「キリシタンなど居ない!」

2009年12月25日 00:29

森忠政   
478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 19:45:12 ID:k7GiXHDF
「キリシタンなど居ない!」


江戸幕府がキリスト禁止令を布いて諸大名に領内にキリシタンが居ないか
厳しく取締をしていたというのはよく知られたお話。
幕府に目を付けられぬようにと諸大名もこぞってキリシタン狩りのような真似をし、
バテレンを処刑したりと日本のキリスト教徒にとっては厳しい時代。
しかしながらそんな流れに別にキリシタン大名でも無いのに真っ向から逆らっていた人物がいた。

レオン・パジェス著の『日本切支丹宗門史』から

元和10年(1625)年
「美作の領主は、領内にキリシタンはをらぬと政庁に報告させ、目を閉じた。
彼の城下の近くに、或る美しい墓地があって、キリシタンはそこに行っては、祈祷を捧げてゐたが、
その中央に高さ十五パルムの素晴しい十字架を立てた。
之は『汝はもろもろの仇の中に王となるべし』Dominare in medio inimiocrum tuorumといふ、
詩篇の言葉を実現するためのやうであった」


元和10年(1625)年当時の美作の領主・・・すなわち津山藩主、森忠政であった。
忠政は「領内にキリシタンなど居ません」と幕府に報告しつつも、キリシタンが
津山の城下の近くに墓地を作り、その中央に十字架を立てて日々祈りを捧げているという事を
知りながらも見てみぬ振りをしてやっていた。
もちろん、幕府の上使の領内見回りなどで墓地が見つかれば言い訳のしようも無いのだが
のらくりらりと忠政はかわしていた。
後年、日本のキリスト教弾圧の歴史を調べていたレオン・パジェスはこの事実を知って
忠政の姿勢を旧約聖書のイスラエルの王に送られた詩篇の言葉を流用して評価したという訳である。



しかしながら幕府の津山藩の甘さをやはり認知していたのかもしれない。
寛永15年(1638年)キリシタン弾圧で島原の乱を生んだ松倉勝家の斬首刑は
わざわざ2代目津山藩主森長継の江戸の下屋敷で執行された。




481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 20:45:20 ID:vw1I1YHb
イスラエルの王=森忠政とは大きく出たな


482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 20:47:46 ID:KYuIpmHJ
確かにヤハウェは四天王級のDQNではあるが

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 20:55:44 ID:CVv6LmVG
ふと5人いる四天王を思い出した

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 21:46:38 ID:wl5es4RO
>>483
派閥の長が子飼を無理矢理推し込んだのが真相だろ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 21:47:02 ID:tbmJ6hMQ
まあ、江戸町奉行所の与力にキリシタンがいるような政権の取り締まりだから
ヌルヌルなんだわさ、キリシタン弾圧。

しまいにはキリシタンが発生すると責任問われるので、連中がよほどつけあがらない限りは
見て見ぬふり。

黒田長政と十八の少年

2009年12月25日 00:28

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 22:25:14 ID:w3qzOQDt
黒田家の家臣、小河藤左衛門は罪を犯して牢の中にいた。当然、刀はない。
時々、罪人になった小河の世話をしに、小河が可愛がっていた十八の少年が来ていた。

ある日、小河は少年に
「私は重罪を犯したゆえ、死罪は間違いない。だか、その前に切腹すれば
面目が立つ。頼む、刀をここに持って来てくれ」
と言った。そして少年がこっそり刀を持って来ると、小河は喜んで切腹した。

事態に気付いた役人が少年を問い詰めると少年は
「かつての主人が難儀していたので、私が刀を持って来ました。いかなる
処分も受ける覚悟です」
と答えた。役人はこの次第を黒田長政に伝えて少年の始末について伺いを立てた。

すると長政は不機嫌になった様子であった。
「お前がそこまで分別のない男とは思わなんだ。私はお前を買い被っていたかな?」
「…は?」
「罰せらるのを承知で、元主人に忠節を尽くすような者を罪人として扱う
としたら、それはお前の誤りである。見所のある少年ではないか」
その後、長政は少年をすぐに元服させ、要職につかせまでしたという。




487 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/24(木) 22:52:37 ID:Pycn5hbV
>>486
重臣一同「我々の諌言こそ真の忠節なり。これだから殿は…」

週刊ブログ拍手ランキング!12/16~/23

2009年12月24日 00:16

メリークリスマス!

12/16~/23までのブログ拍手ランキングでございます!



真田信幸は、遠くからこの騒ぎを見ていた 123

伊達政宗、復元された一番お気に入りの甲冑 63

徳川頼宣と「天下の名物」 55
爆弾正様、反旗の裏事情 54
森長可「澤姫の茶壷」 52

大久保忠常、預けられた三成を
43
福島正則、仕官を求めてきた後藤又兵衛を 42

”義理”とは不思議なものだ 40
水野国松(勝成)「わーん!わーん!」 40
徳川頼宣「わーん!わーん!」 39

赤松広通を知っているものは少ない 38
雑談・茶々さ…ま…? 38
長宗我部盛親、板倉勝重の尋問に 38

真田昌幸、チョー悪オヤジ、こんな人
35
鬼武蔵、最後の書状について 35
柴田勝家、進言す 33

土佐物語十九巻「盛親古き士の事」より 32
北条氏康、歌の力で 31
雑談・後世の武将の評価について 25



今週の1位は、2位にほぼダブルスコアで真田信幸は、遠くからこの騒ぎを見ていたです!
真田家らしいと言うかなんというか、なんとも言えないシュールさすらあるお話ですね。
お兄ちゃんは本当にご苦労様ですわw

2位は伊達政宗、復元された一番お気に入りの甲冑
有名な伊達政宗の甲冑の意外(?)な事実。正宗が振り向く度に、周囲の人達は大変そうですw
まあただ当時の大将にとっての兜は防具と言う以上に、旗印や馬印、指物と同じ、「自分がここに居るぞ」って
印の機能の方が強かったようで、派手なら派手なほど良かったのかもしれません。

今週ランクインした中で管理人のお気に入りは、
水野国松(勝成)「わーん!わーん!」、徳川頼宣「わーん!わーん!」の
わーんわーんシリーズです!w
書き込みの中に有った『豪傑はワーワー声を張り上げて泣かないとね。』と言う言葉に非常に共感。
例え嘆き悲しんでいる時も、戦国武将は雄々しくあって欲しいものです。

今週も各逸話に本当にたくさんの拍手を頂きました。いつもありがとうございます。
また、気に入った逸話を見つけられましたらどうか、そこの拍手ボタンを押してやってくださいませ!
( ´ω` )



さて、いよいよクリスマスイブと言うことで、今週は戦国時代の、とある日本人キリシタンに本を
紹介したいと思います。

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)
(2009/01)
釈 徹宗

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この不干斎ハビアン、禅宗の僧侶からキリスト教に改宗し、さらにキリスト教も棄て、最後には
キリスト教否定の立場からキリシタン弾圧の陣営に身をおきます。その思想遍歴の中、
『妙貞問答』、『破提宇子』と言う比較宗教論と言うべき書物を著します。

ハビアンの信仰、思想への素朴ながら深い考察が非常に興味深い。
正直この本の、ハビアンの宗教観をスピリチュアルなどの現代宗教と関連させながら解説していく部分は
余計だとも思いましたが、ハビアンの「信じる」事の遍歴は、いろいろなことを感じさせてくれます。

あの時代の人間の「信仰」について考えるとき、非常に興味深い本だと思いました。

逃げられる、立ち向かわれる、

2009年12月24日 00:15

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 00:08:03 ID:fIsRRKSe
井伊直孝の家臣が規律にそむいた家来を手討ちにしようとしたが、30間くらい
まで逃げられてやっと家来を討った。直孝は「その場で討てないやつなど必要
ない」とその家臣をクビにした。

別の家臣が家来を手討ちにしようとしたとき、その家来は抵抗して主人に
傷を負わせたが、ついにその場で討たれた。家中の者は先例は手傷を
負わなかったのにクビだったのだから手傷を負ったならば切腹だろうと
思っていた。しかし直孝は「よく養生せよ。主人に傷を負わせるほどの
剛強な家来をかかえるとはたいした奴だな」と家臣を誉め、みなの予想を
裏切った。逃げられるのは恥だが、傷は恥ではないということか。




440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 01:28:01 ID:RECdIkAR
ただの気まぐれです

441 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/23(水) 02:10:12 ID:WWsNuUiF
足の速い人間はうかつに雇えないな。

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 02:54:47 ID:cCggpMg0
スピードタイプよりパワー派だったんだな

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 03:30:01 ID:3Uj1llWh
>>441
手の速い人間もね。

モンスターハンター、再挑戦

2009年12月24日 00:13

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 21:07:57 ID:jsxquVZs
天文20年(1551)3月、北条氏康は関東管領・上杉憲政の平井城を攻めた。
本拠地を攻められた上杉軍は長野業政・太田資正の援護を受けながら必死に抵抗した。

中でも上杉家臣の荒井伝八の武勇は凄まじいもので、巨馬にまたがり、大まさかりを
かついだ伝八は、北条武者の兜であれ馬の首であれ、当たるを幸いとなぎ払った。

北条軍は伝八一人に追い立てられたが、そこへ北条綱成の弟の福島勝広(北条綱房)が
現れ、樫の木の棒で応戦した。
まさかりの荒武者と樫の木の猛将は暴風の如く渡り合ったが、勝広が渾身の力を込め
棒を振り下ろすと、伝八はまさかりを捨て、両手で棒を受け止めた。
二人が力比べとばかり互いに樫の木をねじり合うと、棒は真ん中でねじ切れてしまった。

二人が勝負を預けて別れたその時、北条軍の弓の名手・横井新助が駆け寄って来て、
荒井の馬の横腹を射た。
地に降り立った荒井は、まさかりを拾い新助に襲い掛かったが、すでに新助は二射目の
用意を済ませており、放たれた矢は伝八の胸板を貫いた。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1633.html
での失敗に懲りたモンスターハンター、再挑戦で大手柄のお話。




451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 21:14:50 ID:4m0ULh95
もう関東選抜のモンスター武者達でラスボスに切り込めばよかったんじゃね?>小田原の陣

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 21:16:53 ID:SjEGs4Jp
なんで関東は陸戦型モンスターだらけなんだw

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 21:19:50 ID:pyRx8zGh
空戦型モンスターだと違う物語になるからだろ

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 21:45:54 ID:2JA3EQ5W
確かに暗殺型モンスターだらけの中国は別の物語が展開してるな

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 22:00:28 ID:hUauGQgQ
カシ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7
>漢字で木偏に堅と書くことからも判るように材質は非常に堅い。
また粘りがあり強度も高く耐久性に優れている 。

折れるもんなんだろうか…

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 22:14:56 ID:EeTThJtx
ふはは、この坂東武者の前に三本の矢など話にならぬわ!といって叩き折る脳筋三兄弟

想像するとぶち壊しだなw

457 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/23(水) 22:32:03 ID:WWsNuUiF
>>450
この姿を見たらラスボスも兄妹のことなんて聞かないだろうな。

それにしても、5年前までは美少年だったのに。
美少年だけどパワフルなだけか?

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 22:52:09 ID:KE5zhFWG
樫と言ったら真壁氏幹をまっさきに思い浮かべてしまう

樫を武器にするのが坂東武者の間で流行ったのかね

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 23:01:20 ID:iHHADzh8
棒とかマサカリとか大太刀とか・・・
何かもう関東は太平記の時代からなにも変わってないな
どんだけデカい武器愛してんだよw

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 23:08:09 ID:3Uj1llWh
大きいことはいいことなのさ。

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 23:14:10 ID:JX/sthJV
>>457
その頃の美少年ってムッキムキも条件じゃねーのか

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 23:21:53 ID:o85qGrOa
美少年って言うと誤解を招きそうだな
偉丈夫と言えばいいんじゃないか

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 23:40:51 ID:68B0fTrY
しかし、ラスボスが「女ならセックルしたい」と思わせるような容姿だったんでしょ?
それとも、ラスボスは実はがっちりした体格の女が好みだったんだろうか?
茶々様みたいな巨女がストライクゾーンだったのかな

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 23:50:53 ID:VvkfHFlh
>>463
秀吉が自分の側室の中で、どうも単純に女性として一番のお気に入りは
京極さんの娘の松の丸殿だったらしい。


465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 00:00:00 ID:uEeBMuNS
坂東武者全部が北条にいるならともかく
半分くらいは上杉とともにラスボス側に付いてんじゃないかねぇ。

送った壷に焼酎を詰めてくれ

2009年12月24日 00:07

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 01:08:00 ID:jsxquVZs
あれから、直接会えず残念だ。送った壷に焼酎を詰めてくれ。
今、手持ちが無ければ、ついでの時でも結構だが、ぜひお願いする。

送る時は、面倒でも壷の口をよく締めて、紙で封をしてほしい。
そちらの都合次第で取りに行かせる。

つまらない物で申し訳ないが、(謝礼として)単衣を一つ送る。
また、ヒマな時にでもこちらに立ち寄ってほしい。

なお、壷は二つ送る。焼酎を入れて返してくれ。できればもっと送ってほしい
ので、(それが可能ならば)その旨、使いの者に伝えてほしい。

六月二十三日 河原左京殿へ  真田信繁



河原綱家「濁り酒全盛の時代に、殿様の弟(受刑者)が
『蒸留酒たくさんよこせ』とか言ってきたでゴザルの巻」




312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 01:17:58 ID:+8vTAjYa
真田は相変わらずだなw

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 03:45:17 ID:k9zNedas
真田はまだ恵まれてるよな 宇喜多さんのほうは…

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 06:23:16 ID:oNU1F+0p
「真田」で一くくりにしてやるなw

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 06:32:59 ID:7K8aJLvN
働き盛りの成人男子が軟禁状態で家で内職ばっかとか
そりゃいい酒飲んだり子作りしたくなるよ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 11:48:11 ID:PqlOTI2t
九度山ニートの一発屋弟のほうが、あんなできた兄よりもてはやされるこんな世間なんて…

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 12:06:35 ID:FIq1R9v0
>>311
「真田の殿様はすっかり酒浸りか、安心じゃな」と、油断させてる気がしてならない

>>316
保守家ってのは同じ立場からすれば有り難い人だけど、逆の立場や後世から見ると
平凡な人物に見えるからねえ

一方最上義光は

2009年12月24日 00:05

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 12:23:39 ID:PqlOTI2t
一方最上義光は、

8/14
すばらしい肴と林檎をおくってくれてありがとう!
明日お祝いをするのでみんなで食べます。

8/20
蔵屋敷の祝儀に鮭塩引き二尺をおくってくれてありがとう!

9/29
そちらでとれた鮭一匹が届きました。とてもおいしかったです、ありがとう!


と、わざわざ北楯大学にお手紙でお礼を言っていた。あんまりいいもん喰ってないな。
当時のりんごはすももサイズのさくらんぼみたいなもの、らしい。




319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 12:31:29 ID:2Xt7cShF
鮭様相変わらずかわいい

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 12:38:55 ID:LbqNU4Mq
相変わらず鮭まみれだなw

編笠七蔵

2009年12月24日 00:04

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 14:36:18 ID:VvkfHFlh
伊藤七蔵と言う男がいた。
元々は相模の国の住人で、信長、秀吉に仕え、秀吉の旗奉行にもなった武勇の男であった。

この七蔵がまだ若い頃、父の武者修行に付き従い国々を転々とし、尾張の前田村と言うところに
住み着いた。ここでまだ尾張統一も成していない頃の信長に見いだされ、仕える事となった。

ある時、尾張の三本木と言う地をめぐって取り合いがあった。
信長はすぐに兵の収集をかけたが、それがあまりに急であったため、集まった兵の多くは
武装もままならぬ有様であった。中でも七蔵は頭に編笠をかぶっただけの姿だったが、
これで一番槍の手柄を立てた。

信長はこれを大いに激賞し、七蔵を呼んで言った

「お前は編笠をかぶって戦っていたな?」

「はっ」

「よし、今日からお前の呼び名は”編笠”だ!!」

「は?」

「これからも励めよ編笠!」

「は、はあ…」

剥げたネズミに似ているから禿鼠、金柑みたいだからキンカン頭、
そして編笠をかぶっていたからと言う理由だけで、「編笠」
どうも信長が付けるニックネームは、どれもこれも捻りもなく、ただただ『見たまま』である。

このようにして伊藤七蔵、幸か不幸か、この後信長が本能寺で死ぬまで
編笠呼ばわりされることになった。と言うお話。




322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 14:59:35 ID:+BDrlaHj
なんか絡みづらい上司思いだした

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 15:14:48 ID:Xkvew/5c
>>321
乙。
編笠の逸話書いてくれたから321は今日から編笠七七四さんということで

324 名前:編笠七七四[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 15:31:04 ID:VvkfHFlh
>>323
今日から「ビニール傘を差していても編笠とはこれいかに?」とか言われてしまうのか…

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 15:48:19 ID:LI+gxm4A
>>321
編笠七蔵の逸話は、司馬遼の「女は遊べ物語」で西田敏行主演でドラマ化もされてたな。

信長が付けたニックネームだと、川崎金左衛門が筑紫出身という理由で「筑紫川崎」、
平野甚左衛門が尾張津島出身のチビという理由で「津島小法師」なんてのもある。
一方、武勇絶倫の道化清十郎は「無双道化」というニックネームを付けられたが、「編笠七蔵」
も無双系統のかっこいいニックネームだと思うね。


326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 15:59:40 ID:+BDrlaHj
てか、国外出身者って結構いたんだな
武田の甲陽五名臣も国外出身者だった気がするけど

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 19:49:30 ID:2n2U9Saj
>>321
信長にあだ名付けて貰えるなんて果報者だなw

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 22:41:59 ID:oGlaTy4z
信長にもうつけものという立派な仇名があるじゃないか

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 23:04:06 ID:a048GT4W
自称第六天魔王

藤原摂関家の娘

2009年12月24日 00:02

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 16:57:17 ID:yrcay5tN
明日明後日一人ぼっちだっていいじゃない


中世、朝廷は徐々に権力を喪失していった。
が、限られたパイを守るため、かえって家格や家業が細分化・厳格化されてくる。

しかし、これが困った事態を引き起こす。
戦国時代になると、藤原摂関家の娘は格下の家と婚姻しない慣例ができた。
皇族か、同じ摂関家で適齢の者がいないと、結婚できないのである。
おかげで、近衛房嗣は、自分の娘をすべて尼僧にして院に入れてしまった。
息子の政家も、娘はすべて出家。
その息子の尚道はさすがにまずいと思ったか、足利義晴に一人嫁がせた。
だが、他はまたしても尼僧院へ。
さらに息子の稙家は、父にならって義輝に嫁がせ、他はまたまた出家。

お家の身分ゆえに尼にならざるをえなかった女性達、
不幸だったのか、かえって幸せだったのか、定かではない。




328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/23(水) 18:16:59 ID:t3KpnCA5
>>327
でも義晴に嫁いだ慶寿院は義輝に殉じているんだよな。
九条稙通も養女が十河一存に嫁いでいるようだけど、公家にとっては
大変な時代だったんだろうね

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/24(木) 01:44:24 ID:WwHvRJtu
<<327
そうか、わらわも藤原一門のはしくれ、家格のせいで1人なのじゃな…

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 09:11:42 ID:QXqW5TnJ
>>332
クソ、おれも摂関家に運れたばかりに

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 09:52:24 ID:oIwYFRIO
なるほど俺も家紋にも姓にも藤原氏の痕跡など無いが
つまりこの様は実は我が家が摂関家だったからなんだな

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/24(木) 10:06:15 ID:O/YlYDNN
貴い血筋の人が多いスレでつねw
         サ   ン  タ
みなみなさんに第六天魔王さんが来ますように

336 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/24(木) 10:50:40 ID:YUacFBGT
節子!それサンタやない、サタンや!

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難波田憲重、山中主膳の歌に

2009年12月23日 00:09

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 05:40:55 ID:frDtGcBL
天文六年(1537)四月、扇谷上杉家は父朝興の死去により、扇谷上杉朝定が僅か12歳で後を継いだ。
これを好機と見た北条氏綱は七月、扇谷家の拠点河越を攻略。朝定は河越城を放棄し、
家臣難波多弾正の守る武州松山城へと逃げた。これを追う氏綱の軍勢、難波多勢の籠る松山城に
押し寄せた。

これに難波多弾正はしぶとく戦い、北条勢を撤退させる事に成功するのだが、
この時北条方の侍、山中主膳と言う者が難波多に攻めかかった。

難波多は山中を軽くあしらうと、早々に城に引き上げようとした。山中、これを追いかけ
後ろから

「あしからじ よかれとてこそ戦はめ など難波多のくづれ行くらん」

と詠んだ。『みっともないぞ!勝算があると思って戦を始めたのだろう?どうして難波多殿は
逃げ崩れていくのか?』と言った意味である。まあ勝負をしてくれない難波多を煽ったわけですね。
難波多弾正これを聞いて

「君を置て あだし心も我もたば 末の松山波もこえなむ」

という古今和歌中の古歌を詠んだ。この歌、本来の意味は
『あなたを差し置いて、私が他の人を思う心を持ったなら、あり得ないことですが、末の松山を
波が越えてしまうでしょう』という恋の歌である。
これを転じて

『主君朝興を放って置いて、あなたと勝負するような心を私が持てば、松山城は
北条の軍勢の波に飲み込まれてしまうでしょう』

と言う意味で詠ったのだ。

当時の人々、この難波多弾正の雅な受け答えを大いに賞賛した、とのことである。





416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 06:21:26 ID:NhXhOxLP
難破田さん、井戸に沈んじゃうんだよなあ

犬猿だった義晴との同盟を斡旋したり扇谷家にとっては欠かせない人だったよね

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 06:44:41 ID:WLd1maVC
北条って提灯の人とか逸話いっぱいあるけど
一般の知名度低いのが悲しい

418 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/22(火) 09:51:20 ID:CFlAs2t3
天下統一を進める秀吉に対して、北条家が氏政の弟、氏規を送って、彼が帰国して言うには、上方は屋根が板、
北条家の家は萱ぶきであり、経済力が全然違って歯が立たない相手だと言った話があったような。

さすがに名外交官だけあって、観察力には優れているね。


>>417知名度については、戦国時代を扱った某ゲームで能力値が高い人物が少ないからかも。
やはり能力値が高いほうがユーザーは関心を持ちそう。
北条兄弟ももう少し評価されていれば、知名度は上がったかもしれないのに。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 12:22:13 ID:1Bl4bUcp
>>418
いや単純に、滅びてしまった家だから知名度が無いんだろう
源平や足利や豊臣も滅んだけど、あっちは天下を取ってたし、北条は地方だけだしね
その後に、家康という大物が関東入りして自分色に塗り替えてしまったのが大きい

>戦国時代を扱った某ゲームで能力値が高い人物が少ないからかも。
あのゲームにそれほどの影響力はないでしょw
前田利益が「花の慶次」でメジャーになったことから分かるように、
人気作家に漫画化してもらえば知名度はグンと上がる

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長尾遠江守藤景、酒の席でのちょっと悪い話

2009年12月23日 00:06

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 00:02:46 ID:/CLsSIzx
忘年会シーズンなので、酒の席でのちょっと悪い話。

長尾遠江守藤景という人がいる。
越後国守護代、三条長尾家の支流にして、
三条と栃尾を結ぶ軍事的要衝、高城を治める下田長尾家の当主である。

この人物、長尾一門であるばかりでなくなかなか武略に優れた将であったようで、
長尾政虎の軍中にあっても重きをなして謙信七手組の一翼を担い、
永禄二年に記された披露太刀之次第では披露太刀の中で第十位の序列につけていた。

実際の軍功では、永禄五年の第四回川中島で謙信を助けてよく戦い、
主戦場に到着した武田別働隊による挟撃で、総崩れとなった退き戦において抜群の働きを示している。

が、その後がいけなかった。
事実上の敗戦となった川中島合戦に直面して藤景は主君への忠誠心をすっかり失ったようで、
普段はまだしも酒が入るとことあるごとにこの時の謙信の指揮を批判するようになったのだ。
謙信はこのことを恥辱として甚だ恨みに想い、
数年後に下田長尾家に謀反の疑いありと濡れ衣を着せ、本庄繁長に命じて春日山城中で騙まし討ちにしてしまった。
その報を聞いた藤景の家老長尾外記入道興里は急ぎ兵を集めて高城に篭ったが、
時を置かずに攻め寄せた本庄軍によって防備も疎かな城は落城、
興里は討ち死にし、婦女子はその防戦の間に辛うじて落ち延びて何処かへと隠れ潜み、
これにて下田長尾家はまったく滅亡となってしまった。

いかに酒の席、無礼講といえど相手も人間。
言いたいように言われて赦してくれる上司はあんまりいないという悪いお話。

藤景を討った繁長に謙信が恩賞ケチって、
次はわが身と怯えた繁長が武田家の誘いに乗って謀反を起こしたのはまた別のお話。




280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 00:17:43 ID:NhXhOxLP
三条って謙信が餓鬼の頃に滅んだ訳じゃなかったのか

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 00:18:14 ID:/4OKj8Xf
そういう逸話もあるのか。
繁長が藤景と宴会の席で揉めて怒って斬り殺しちゃって
「やっべ俺謙信に信頼されてる一門衆の藤景斬っちまった!
どう考えても無罪放免になるとは思えない
だって相手は一門…どうしようどうしよう」
と城に真っ直ぐ帰ってそのまま謙信に謝らずに籠城、
謙信と散々戦って手を焼かせた末に
「もう怒ってないから帰ってこい…」と説得されて
戻ったんだとおもってたw

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 00:23:17 ID:9g5hpzzj
長尾も島津並みに分家がごちゃごちゃしてて覚えづらいな

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 07:44:11 ID:1Bl4bUcp
>>281
そっちのが、らしくていいなw

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 08:05:51 ID:WLd1maVC
確かに謙信のイメージなら、誅殺はあんましなそう
どっちかって言うと、「怒ってないから帰ってこい」ていう
オカン武将の印象


285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 09:17:39 ID:xnlAophU
謙信が怒らないイメージはないが
越後の国人たちを統制するのが難しくて怒るわけにはいかないというか
憤懣を戦争で晴らしてたのかなとも思う。

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 09:36:19 ID:/CLsSIzx
柿崎さん……

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 11:16:08 ID:Hm+sPVf7
逸話的謙信なら藤景を自らの手でスパンと斬って「悪は滅びた!」の方がそれっぽい。
別に藤景が悪くなくても正々堂々成敗。
騙し討ちにした挙げ句に褒美をケチる謙信って逸話は珍しいな。

288 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/22(火) 14:49:11 ID:vNoEqt3h
実際武将って剣術は特に強くないって人多いよね。創作だと、武将がバッタバッタと
敵兵薙ぎ倒すシーン多いけど。

太閤立志伝大人気の14代将軍さまの最後の逸話は、いつ聞いてもかっこいいw


293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 16:34:37 ID:vWeUBZyG
>>286
俗説です。

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 16:40:31 ID:CKWnxHnw
俗説になるほど上杉家中だと柿崎は有名だったんだろうな

雑談・戦国の酒、パンについて

2009年12月23日 00:04

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 15:23:21 ID:7JxY9Yka
戦国武将の逸話っていい話悪い話どっちも酒飲んでるシーンがたくさんでてくるけど
戦国時代の人で体質的に酒飲めない人っていなかったのかな?
戦国大名から一騎がけの武士までみんな浴びるように飲んでるイメージがあって
酒に弱い人がいないんじゃないかと思えてしまうんだけど
現代人でいうところの梅酒やビール一杯で一晩中吐き気に苦しむし酒に酔う=吐き気+頭痛で
酒に酔うのが気持ちいいなんて経験したこともないから
飲酒は罰ゲームとしか思えないってかんじの人っていなかったんだろうか?
酒が飲めない人は現代以上につらく厳しい時代だったのかな?




290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 15:31:29 ID:LUH5kywv
今程清酒の技術が発達してないからアルコール度数弱くて殆ど水だったんじゃなかったか?>酒

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 16:03:45 ID:BDILQLDI
信頼には値しない話でいくと光秀が下戸なのに無理やり飲まされて信長を恨んだとか、
幾分信頼性の高い話でいくと、甘いもの好きな信長はフロイスの接待のときも酒を飲まなかったとか。

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 16:17:31 ID:SYiYRNj5
アル中で家族亡くしてる元就も飲まなかったんじゃなかった?


295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 16:48:37 ID:RWdERj4f
醸造がすすまないと考えたら、今よりアルコール控えめで甘い酒が主流だったのかな。
下戸だったと伝わる人って本当に>289な人だったんじゃないかね。

スコッチ派の俺は現代人で本当に良かった。

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 17:03:52 ID:HehlvT1Q
ってか当時はみりん飲んでたんじゃなかったっけ?

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 17:08:40 ID:vWeUBZyG
>>290
それは水で薄めて売っていた話と混同してるのでは?
アルコール化が進んでいないとしても、それは残った糖分や乳酸が大量にあるということだから
酸味や甘味が強くなる。水みたいってことはない。

それに、高級品として現在の清酒と変わらないもの(澄み酒とか呼んでたらしい)も作られていたし、
戦国時代も末になれば蒸留酒も造られていたはず。

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 18:06:04 ID:7JxY9Yka
あー、なるほど・・・
現代の酒よりアルコール控えめで飲みやすかったのか
じゃ、現代の酒だったならあまり飲めないって人もいたんだろうなぁ。
日本人は実はあまりお酒強くない体質って話も本当か嘘か知らんけど昔に聞いたことがあるから。

そういえば宣教師だったかがミサか何かに使おうとしてお酒を前日に買っておいたら
翌日お酢になっていたって話もどっかで聞いたことがあるような。
宣教師はワインの作り方とかパンの作り方とかあっちのほうの食品は伝えなかったんかな?
なんとなく信長とかがワインみたいの飲んでるイメージはあるけど
パン好きで食ってたって大名や戦国時代のパン屋さんとかは聞いたことがないし。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 18:34:56 ID:CKWnxHnw
日本人ならコメ 腹持ちいいし
世界でもコメのとれる所は人口が多かったって聞いた

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 18:35:04 ID:HehlvT1Q
ワインの作り方といっても原料のブドウがそもそも手に入らないだろう
十六文先生が栽培したって記録があるらしいが(誰か調べてくれ)
それもブドウの品種自体違うだろうし
ワインにしてもパンにしてもイースト菌が必要だ

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 18:46:15 ID:NS4hgffn
焼酎くらい振舞えよとかなんとかの職人の落書きが残っていたのっていつのだったっけ?

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 18:48:27 ID:TwvT88e/
西洋の船はパン種を持って航海していたんじゃなかったっけ。
あとキリスト教の儀式で、聖餅として一種のパンを使うし、
全く無かったわけではないのでは。

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 18:53:31 ID:HehlvT1Q
>>301
これか
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2585.html
戦国半ばぐらいかな?

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 19:00:11 ID:9HDy/OEe
ザビエルは日本でパン作りをしたらしい。

パンじゃないけど、金平糖やカステラ以外にもボーロやビスケット、
ケジャト(チーズケーキみたいらしい)など伝わっており
キリシタンたちはクリスマスには信者以外も参加自由のパーティーを開いて、
菓子を作って配ったり劇をしたりして祝ったらしい。

江戸時代の蘭癖大名はパン好きで食ってたってどこかで見たような。

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 19:11:35 ID:KIOJ6AKE
前テレビでなんかどっかの大名家の資料に残ってたやつの再現とかいうので
酒粕か何か使った江戸時代のパン作ってるの見たよ
ワイン作ってたかは不明だが、干し葡萄はあったという話を見た覚えはあるけど(うろ

306 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/22(火) 20:23:42 ID:Zs7DZ+jh
酒も現在のものとは違うけど、茶も違うんだったっけ、
明るい緑の緑茶は江戸時代に製法が発明されたもので、
戦国時代に茶道で使われていたものはどんな色だったかよく分かってないとか

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 21:05:05 ID:WbjooeIa
当時は濁り酒が主流
火入れの記録は永禄11年にある
佐竹家の記録に御酒之日記ってのがあって、これの成立時期がもっと早いらしいから
16世紀はじめから半ばには清酒に近いものが造られてるらしい

ちなみに鴻池家では、七難八苦の男の子供・山中新六が江戸に清酒を運んで
大もうけしたという伝承がある

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 21:24:11 ID:cIq8qww7
そういやDQ眼竜が柳生さんとこから杜氏を招いて
葡萄酒とか色々作らせてたとかいう話があったね
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2945.html

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 23:24:08 ID:LvYbHjbI
>>305
多分鉄腕DASHかな。
確か斉昭時代の水戸藩の資料から当時のパンを再現してた。

大久保忠常、預けられた三成を

2009年12月22日 01:35

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 23:07:12 ID:EX3RZcIh
関ヶ原合戦の後、捕縛された石田三成、小西行長、安国寺恵瓊三人の身柄が、
大久保忠隣に預けられた。
しかし、この頃忠隣は家康の側にあり大変忙しく、その子息、加賀守忠常(当時二十歳)が
彼らの管理に当たる事になった。

忠常が、三成達の拘束されている場所に行って見ると、三人は高手小手に縛られており、
その中でも三成は、当時腹を壊しており、この苦しさからその場に臥せていたそうだ。
これを見た忠常、自ら暖かい粥を三成の前に持って来て

「どうぞこれを、一口お召し上がりください。」

と言った。これに三成

「おぬし、何者だ?」

「は、これは申し遅れました。先年の奥州の御検地であなたが関東に御下向された時一度、
お目にかかったことがございます。大久保忠隣のせがれ、忠常であります。」

三成、忠常をじっと見て。

「ずいぶん前の事だし、全く覚えていない。」


そう正直に答えた。いかにも三成らしい。

「ところで忠常殿、久しぶりの対面早々何だが、この有様では粥を飲むことも出来んよ。」

と、体中に掛けられた縄を見せた。
そこで忠常、縄を解き手を自由に使えるようにした。三成はこれを大いに喜び、
「今の芳情忘れぬぞ」と礼を言って、小ぶりの茶碗に一杯半ほども粥を飲んだ。
その後、三成達を厳重に縛める事をやめ、首に形ばかり縄をかける形に改めた。

三成は隣室の小西行長を、「摂州!摂州!」と大声で呼び
「家康は果報な男だ。譜代の子供まで良く育っておるわ!」
と、語ったそうである。





368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 23:13:43 ID:motJ3TQ1
ツンデレw


372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 23:35:31 ID:iesOXET8
>>366
忠常は一角の人物だったらしいねぇ

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 08:57:17 ID:2sGqDGmN
>>366
なんか死の間際なのにさっぱりしているな やっぱ三成も武人だったんだな

>三成は隣室の小西行長を、「摂州!摂州!」と大声で呼び
死罪待ちで牢屋に入っているのに普通に世間話しててフイタw

392 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/21(月) 12:37:38 ID:9vtGt5bY
>>389

あまり言い訳をしないところや死罪に際しても動じないところは、広田弘毅にも似ているよな。

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/21(月) 13:14:55 ID:SAFYxAn0
>>392
それこそ城山三郎の小説が元ネタで実は「死刑」
になりたくないから黙っていただけと笹川良一が「人類皆兄弟」
で書いていたよ。


397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 14:23:56 ID:ln0/mB8j
>>393
広田弘毅については『落日燃ゆ』の影響もあってか実像と創作の部分が
ごっちゃになっるとはいえ(なので光と陰、功罪を信用のおける資料で過不足なく
見直す必要があるけど)、大体の資料が「泰然自若としてた」とあるし
概ね信用していいんじゃないか。
むしろ笹川良一のほうが、言い方は悪いが収攬されたことすら
自分の栄達に利用したような男だし、よほど信用ならん。
(スレ違いでスマン)

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徳川頼宣と「天下の名物」

2009年12月22日 01:31

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 01:27:20 ID:iX+oLkmP
徳川頼宣は早くから大名の地位を家康より授かったが、それとともに「天下の名物」と
呼ばれる茶入を譲られていた。
ある日、頼宣の蔵を預かる役人が蔵の道具の虫干しをしていると、家老安藤帯刀の息子、
彦四郎重能がやって来た。「ご重宝の茶入を拝見したい。コッソリ見せてはくれぬか?」

彦四郎は日頃から酒癖が悪く、この日もプンプンと酒臭い息を吐いていたので、役人は
断ったが、彦四郎は聞かない。
「・・・そこまで言うなら、どうぞ蔵に入られよ。ただし、他言は無用ぞ。」「分かっておるわ!」

二日酔いで薄暗い蔵に入った彦四郎は足元が定まらず、近くの箱の上に倒れこんだ。
驚いて箱を開けて見ると、中身は件の茶入だった。
さすがに黙っている訳にも行かず、彦四郎は父・帯刀に、斯くの如しと申し出た。
「これは、殿に申し上げねばなるまい。場合によっては、わしも責任を取る。お前も覚悟を
決めておけ。」「・・・・・・」

報告を受けた頼宣は、帯刀に言った。「して、その破片はあるか?」
「破片は、そのまま置いてあります。」「ならば、漆でも使って継いでおけ。」
「・・・彦四郎には、いかなるお咎めを仰せつけになりますか?」
頼宣は笑って答えた。
「茶入は『天下の名物なり』、と父上に授かった品ではあるが、戦場で弓鉄砲も撃たず、
槍刀も使えず、先頭に押し立てて『天下の名物なり』と呼ばわったとて敵が恐れ入るわけも
なし。彦四郎は酒癖は悪いが、ひとかどの者である。捨て置け。」
「ははーッ!有難き仰せ!」「・・・・・・」

その後、彦四郎は人が変わったように職務に打ち込むようになり、口癖が出来た。
「武士には『伊達』というものがあるが、存じたる者は少ない。そして、伊達の最たるものは
主君のために死ぬることよ。」
その言葉通り、大坂夏の陣で彦四郎は一番槍を果たして戦死した。
有言実行を遂げた彦四郎を賞賛せぬものは無かったが、その死は父親を悲しませた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-684.html




377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 01:29:59 ID:3QHMS5cS
>>376
ああ、南龍公は名君だねえ。これは惚れる。

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 01:35:05 ID:W9E+adKX
罪を許された礼を自分の命で返したのか…(ノ_・。)

北条氏康、歌の力で

2009年12月22日 01:27

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 00:21:20 ID:3QHMS5cS
北条氏康はその武辺は勿論、文事の嗜みも深く、特に和歌を好み、多くの秀逸な歌を
詠んだそうだ。

ある夏の夕暮れの事

氏康が高楼に上って涼んでいたところ、ふと狐が鳴いた。
側に侍った近習の人々これに、「夏の夜に狐が鳴くのを聞けば、その身に不吉が起こると
申します」と言った。

それを聞くと氏康、歌を詠んだ

『夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ』

翌朝、その高楼の側で狐の死骸が見つかったと言う事である。

氏康、歌である種の呪い返しをしたというお話。




266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 00:35:14 ID:yo5VxcXl
>>265
なんか漫画みたいだなw

真田昌幸、チョー悪オヤジ、こんな人

2009年12月22日 01:25

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 10:42:01 ID:wqiwGjVh
>>169遅レスだがチョー悪オヤジ、こんな人

天正12年(1584)、本能寺の変後の混乱が続く中、真田昌幸は小県郡の覇権を巡り
笹洞城の室賀義澄と対峙した。双方が陣を整えた時、室賀の家臣・松沢五左衛門が
真田の陣近くまで物見に出て来た。

真田の武者が一騎出て五左衛門に斬りかかると、五左衛門は右手で太刀を抜いて受け、
左手で真田武者の頭をつかんで自分の馬の鞍に押し付けると、あっという間に武者の首を
落とし、地面に投げ捨て立ち去った。
「おのれ、逃がすか!」追いかけようとする家臣を、昌幸は止めた。
「待て!わしに策がある。追っつけ室賀を討ち、あの松沢もわが家臣にしてくれよう。」

しばらくして後、義澄と和睦した昌幸は彼を居城に招き、祝宴の用意が整うまでの間、
嫡男の信幸と御用医師の坂巻夕庵が接待した。
「それがし、夕庵と将棋を打ちますゆえ、それでも見てお慰みにしてくだされ。」
「おお、それは良い。ぜひ拝見させてもらおう。」

義澄は手をついて盤面を覗きこんでいたが、そこへ真田の重臣・北能登守がやって来た。
北は脇差を抜くと、義澄の胸めがけて襲いかかった。
間一髪、義澄は皮一枚斬られただけでこれをかわしたが、北はそのまま部屋を走りぬけて
出口の前に立ちふさがり、さらに三人の刺客が現れた。

(謀られた!この上は、せめて真田の嫡男を道づれに・・・)
義澄は信幸に斬りかかろうとしたが、三人の刺客のうち木村五兵衛に組み付いて倒され、
残る二人に刺されて血の海に沈んだ。

夕庵「 (゚Д゚≡゚Д゚)エッナニナニ? 」
信幸「知らないうちに暗殺の片棒かついでたようだな。真田昌幸にはよくあること。」

主君を失った室賀氏は降伏し、松沢五左衛門は真田の被官となった。



関連
真田信幸は、遠くからこの騒ぎを見ていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3356.html


308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 21:10:33 ID:mutVHffy
>>267
油断も隙もねえぇwww
しかもよくあることなのかよwww昌幸スゴス

水野国松(勝成)「わーん!わーん!」

2009年12月21日 00:07

356 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/20(日) 22:06:43 ID:HMPbJJK7

1579年3月末日の事

武田勝頼に奪取された高天神城を取り戻すため徳川軍は兵を送り横須賀で対峙、
武田軍としばらく睨み合っていた。

その日は結局文字どおりただ両軍睨み合うばかりで双方が仕掛ける気配は無く、
一向に戦況が変わらない状態だったので、先に武田軍が痺れをきらせて城へさっさと
引き上げてしまった


徳川軍もここは退き時と心得て、何事も無く帰国の途に就く事となった
だがこの時無事に帰れると言うのになぜか1人だけワーワーと泣きわめく若武者がいた

水野国松(勝成)「わーん!わーん!」

槍をあわせて怪我をした訳でも無し、仲間が死んだ訳でも無しなんで泣いているのだ?
と周りにいた大人達も訳も分からず泣き出したこの子供に困ってしまったので

雑兵某「一体どうしたんだボウズ腹でも痛くなったのか?」と話しかけた所

国松「違う!そうじゃないんだ!私は今日が初陣だと言うのに結局なんの活躍も出来なかった、
それが悔しくて悔しくて…」

それを聞いた周りの大人達は呆れると同時にとんでもないガキだと驚いたそうな

時に水野勝成14歳




358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 22:19:37 ID:lqJ5a/X6
なんて厨二w

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 22:30:06 ID:3Aex2iC8
やっぱり初陣の日に手柄を立てたれず悔し泣きをするってのは
武将の初陣話のセオリーだなw

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 22:47:03 ID:dtyoMaJo
>>356
大河ドラマなどで昔の武将が泣くとき
「うぅ、うっうっ・・・」ボロボロ・・・
という現代人っぽい情けない泣き方をするのは非常に違和感がある。

豪傑はワーワー声を張り上げて泣かないとね。

徳川頼宣「わーん!わーん!」

2009年12月21日 00:06

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 22:45:33 ID:HMPbJJK7

1615年5月夏の陣の事

戦争は終結、徳川軍にもかなりの痛手はあったものの遂に豊臣家を滅ぼす事が出来た
各大名は家康に挨拶と報告を済ませ、各々が帰国の途に就いた
だがこの時無事に帰れると言うのになぜか1人だけワーワーと泣きわめく若武者がいた

徳川頼宣「わーん!わーん!」

槍をあわせて怪我をした訳でも無し、仲間が死んだ訳でも無しなんで泣いているのだ?
と周りにいた家臣達も訳も分からず泣き出したこの子供に困ってしまったので

本多正信「一体どうされたのですか?」と話しかけた所

頼宣「私は今日が初陣だと言うのに結局なんの活躍も出来なかった、それが悔しくて悔しくて…」と
答えた

すると
正信「若君はまだお若いのだから、今後いつでもお手柄をたてる機会はございますよ」と慰めたが

頼宣「ワシに14歳が二度あるか!」と正信睨み付けたと言う

そこにたまたま居合わせた水野勝成は
( ´з`)oO(コイツ俺と似てできる!)と思ったかどうかは伝わっていないが大変感心し
一目置いたそうな

他にも細川忠興と家康もそこに居合わせて見ており後者は
家康「その言葉こそ槍なり!」と称賛したと伝わる




362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 22:50:20 ID:muOWrPoI
>>360
頼宣の場合大坂の陣以降戦自体が無くなるわけだから泣く気持ちもわからなくもないね。


363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 22:52:04 ID:HMPbJJK7
>>358-359
まぁ忠勝とか13歳の初陣で鬼強だったみたいだし、こんな奴等が周りに居たんじゃ
落ち込んじゃうのもしょうがないかもなw

雑談・後世の武将の評価について

2009年12月21日 00:05

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 00:20:59 ID:8JRZ8P6U
>>175
江戸時代は明智光秀と斉藤道三の人気が特になかったらしい

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 00:26:46 ID:G1sta73l
まあ近い時代の人って評価が難しいよな
自分が昭和とかの政治家評価しろって言われても情報ありすぎて上手く評価できない

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 00:31:58 ID:dtyoMaJo
斉藤道三は、司馬遼太郎が小説に書くまで
ほとんど忘れられた存在だった、というのは本当か?

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 00:37:04 ID:+fIaV8M3
ちょっと時代は前になるが朝倉(英林)孝景ほど死んだ時の皆様の評価の声が
ボロクソな奴は居まい。

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 00:46:36 ID:nPe+3bmL
時代によっては考えまちまちだよな
江戸・豊臣悪
明治・徳川悪
昭和・豊臣神
な感じで。


212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 01:04:59 ID:badG+iQv
今は信長の時代かな
光秀や三成なんかは再評価の揺り返し部分というか
今はいい目で見ることに傾注し過ぎてきらいがあるね。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 01:09:41 ID:nPe+3bmL
そう考えると、世間一般の感覚は司馬史観に基づくところが強いな。
実際俺も、歴史上の人物のイメージはここと司馬作品に影響されてるところが強いし

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 01:20:25 ID:sS5fIm1E
でも戦後の三英傑マンセーの流れを作ったのは山岡荘八じゃないか?
司馬の影響が強いのはむしろ幕末の方かと

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 01:35:45 ID:nPe+3bmL
言われてみれば。結構作家の影響って大きいよね。
俺は司馬→山岡って流れで、歴史好きになっていったタチなんでw

ちょっと悪い話なのに脱線すんまそ。




216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 01:39:45 ID:EX3RZcIh
では武将の評価と言う事で

江戸は元禄の頃、戦国時代の「良将」と言えば、明智光秀、柴田勝家、石田三成の三人を
指したそうだ。
これはこの三人ともに、天下分け目の合戦をした故であると言われる。



219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 08:26:24 ID:VN5alRVg
>>216
そういえば光秀、三成の再評価は進んでいるけど、勝家は・・・

220 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/20(日) 09:22:16 ID:CEa4krhm
>>209
忘れられてたのではなく、悪者としてしか認識されないから、岐阜県では話題になることも少なかった、
程度の記述だったとおもわれ。
戦国大名って、昔は露骨にお国自慢の材料だったからね。


221 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2009/12/20(日) 09:29:19 ID:8hvqw1Bj
それでは「道三めん」の立場がないではないか。
[ 続きを読む ]

クリスマスも近いという事で、松永久秀の話

2009年12月21日 00:02

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 22:15:33 ID:zFDIvZda
クリスマスも近いという事で、松永久秀の話を…

乱世の梟雄、松永久秀。
彼が三好長慶に仕えていたのは、ご存じの方も多いだろう。

(諸説あるが)長慶は、後々一族の者が松永に暗殺され、実権を握られるなど夢にも思わず彼を非常に信頼していた。
また、松永の器量に惚れ込み自分の娘を松永に嫁がせる。

しかし、ここでちょっと考えてほしい。
松永の生年は1510年前後。対して、主である長慶の生年は1522年。
そう、この二人実は12歳の差があるのだ。

長慶には20歳の時に嫡男の慶興が生まれている。その後に生まれた姫が、松永に嫁ぐのだが
逆算すると松永は30歳以上歳の離れた姫を娶る事になったのだ。
初夜の光景を考えると、どう考えても松永がロリコ(ry


この時代では幼くして輿入れしたり、かなりの歳の差での婚姻も珍しくないが
主君の娘を、30歳前後の歳の差があって娶った話はあまり聞かないので投下。

ちなみに松永の嫡男、久通は生年から考えておそらく前妻の子。
その妻が病か何かで亡くなり、その後長慶から娘を娶ったんだと…


まとめサイトに長慶の妻を自分の物にした話もあったが、それってもしかして親子(ry

乱世の梟雄、松永久秀。
彼はやっぱり凄過ぎる。いろんな意味で。




261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 22:28:46 ID:EX3RZcIh
>>260
松永一族って長慶が死ぬ直前には、家中において三好一族に匹敵するほどの
大勢力になってるんだよね。
それだけ有能だったんだろうけど、あれじゃあ長慶がいなくなれば内紛になるわ。
長慶が松永を信用しすぎて家中のバランスを考えなかった悪い話でもあるな。

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 22:51:13 ID:NQXQWG5k
兄弟の死が続いて一族の藩屏が崩壊していたってのもあるがな

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 23:07:12 ID:qiwXvu45
>>260
クリスマスが近いから久秀の話ってのもなんだかなぁw

それはさておき、
その幼妻は久秀の秘伝のテクによりメロメロにされちまったわけだ。

なんという悪い話。

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/20(日) 23:27:23 ID:bRQN8E0O
>>261
三好氏の場合、久秀と長逸が三好長慶への取次ぎ全般を行っているので、長慶が
衰えてくると自然このふたりが台頭してくる。阿波も三好実休がかなり強い権限をもって
統治しており(「新加制式」も実休が生前支配してた範囲で適応された分国法だし)、
主要な一族(実休、長逸)・家臣(松永兄弟、篠原)に権限が集まる傾向があったみたい。

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 10:42:15 ID:pBnMzuLX
>>263
如安ってことかな?
それとも岐阜にいったのが24日だからかな?

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/21(月) 11:18:16 ID:0UehFI5j
>>268
日本で最初にクリスマス休戦したからでしょ?

伊達政宗、復元された一番お気に入りの甲冑

2009年12月20日 00:05

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 16:35:05 ID:Ht50Mwk8
頭の話題だから兜でも。

戦国時代の甲冑の中でもおそらく一番人気の伊達政宗の甲冑ですが、本人は同じタイプの替具足を
何領か用意していて、一番のお気に入りを墓所の瑞鳳殿に副葬させました。
仙台市博物館に所蔵されて有名な具足も、実は二番目のものだったんですね。
瑞鳳殿は戦災で消失した後、戦後になって発掘調査が行なわれていますが、その時に甲冑も復元が
試みられています。
錆びて朽ち果てていましたが、特徴的なのが兜の三日月の前立て部分、全長で98センチと換算されました。
カーブをなぞれば1メートルを越します。仙台市博物館のものの1.5倍近いですね。
戦国パロディでは、あの三日月が長すぎるとかいうネタがありましたが、それ以上に長かったわけです。
なお三日月の材質は、革製で金箔押しです。




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 22:35:54 ID:kLTu+EMM
>>324
あのダース・ベイダーの前身鎧のモデルになった鎧かな

327 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/19(土) 23:36:16 ID:TPV5EROB
>>324
あれ革製だったのか。金属かと思ってたが…そうだよな、
金属のような木材はいざって時に折れなくて困るって三歳様が言ってたよな。

上杉謙信、越後へと撤退する最中のこと

2009年12月20日 00:04

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 17:39:11 ID:ikzixm6a
上杉謙信が川中島で退けられ、越後へと撤退する最中のこと。
道中、野原を大河がどうどうと流れている。
往路にこんな河を渡ったか、謙信は驚き、
傍らに控えていた和田嘉兵衛という武士に、「あれはなんという河か」と尋ねた。
「あれはそば畑です。花の盛りなので、白波に見えるのでしょう」
嘉兵衛の答えに目を凝らすと、
確かに、そばの花が風にさらさらと揺らいでいるだけだった。

謙信は悔やんだ。
「ああ、一代の失言であったわ
謙信ほどの大将がこの合戦で慌て、目がくらんでそば畑を川と見間違えたよ、と
世間に語られることになる。不覚だった」
大将たる人はよくよくものを考え、口に出すべきで、
下郎のように口数を多くしていれば軽く見られるものだ、と反省したという。

そばの花シリーズですが、オチが面白かったので。




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 17:59:58 ID:37iqIsOF
なるほど、その教えを受けて景勝は・・・

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 18:29:00 ID:6j3SZpHd
飲み過ぎ(ボソッ!!




187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 19:57:26 ID:0QvjZqbG
>>180
その話の出所は知らないけど、
吉川英治の「上杉謙信」でもその蕎麦の花の話があったな。
そっちは傍にいた武士の名前が和田喜兵衛ってなってたけど。
謙信が勘違いするところは同じだが、反省の言葉とかは特に書いてなかったな。


ただこっちにはもっとひどいオチがあるので蛇足だけど書いてみる。

その後無事春日山に戻れたものの、
和田喜兵衛はまもなく異様な吐き気をもよおしてしまった。
これを憐れに思った謙信は手ずから薬を飲ませ看病したものの、
それもむなしく喜兵衛は血を吐いて死んでしまった。
これに関して広がった噂がこちら。

「謙信ほどの大将が川と蕎麦の花の群生を見間違えるとはまさに一代の恥。
 天下の笑いものになるに違いないから口封じのために殺したのだろう。」


さらに蛇足だけど、
この和田喜兵衛は和田業繁の弟で、
兄の反乱計画を察知したときに兄の説得役を買って出ている。
もっともこの説得には時間稼ぎの意味もあったらしく、
説得が失敗してもすぐに鎮圧できるように、
喜兵衛の派遣と同時に謙信自身密かに軍を動かしたらしい。
が、どこからかこの話が業繁にばれてしまい、
喜兵衛はそれを知らせるため謙信のもとに駆けつけたのだが、
「この俺に無駄足を踏ませた上に恥をかかせるとは不届き千万!」
と、激怒した謙信に手討ちにされてしまったそうな。


和田喜兵衛、その死の真相や如何に…。

と、蛇足のくせに長くなってしまいましたが、
どちらも謙信のお人が悪い話ということでひとつご容赦を。




鬼武蔵、最後の書状について

2009年12月20日 00:02

森長可   
183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 19:02:24 ID:xteQPDvS
『センゴク』のムック本の中で、
座談会を参加していた小説家さんが
『戦国武将の感動した書状』に、鬼武蔵の書状を上げてたな。

内容妹にあてた書状でいい話スレでも出ていたかもしれない
『俺が死んだら、武士とは結婚するな、医者と結婚しろ』って内容らしいんだが、
その人曰く

『父親も長兄も討ち死にしてるし、弟達も本能寺で信長に殉じた。
ほとほと戦が嫌になってたんでしょうね』


このスレの住人としてはその感想にはツッコミ入れたい気分なんだがw




184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 19:43:55 ID:G2vX0x9d
つまり戦争のない平和な世の中を作るために、敵どころか戦争ごと撃滅する勢いで闘ってたんだな。
そう考えると数々の無茶な振る舞いにもそこはかとない哀しさを感じ…マ、ス…ネ

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 19:48:35 ID:37iqIsOF
これかな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-306.html

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 20:26:33 ID:+WaNqXG4
>>183>>185
件の長可書状、いわゆる死亡フラグが立てまくりの、「鬼武蔵」らしからぬ
かなり悲観的な内容の文書なんだよねこれ。

妻子(妻と娘、あと姉妹と思われる「おひさ」という女性がいた模様)には、金山城は要衝なので秀吉方の
確かな人を置いてもらえという次の条で、大垣に引っ越すように伝えて、その上で秀吉方が惣敗北(壊滅)
したら死んでくれといっている。娘の「おこう」の行く末についても、
「娘のおこうについては、京都の町人のもとへ出して下さい。医者のような人に嫁がせるようにして下さい」と
言っていて、文章を読む限りだと娘や弟に自分と同じような生き方をしてほしくないと考えてるような
印象すら受ける。

・・・・それだけに、このスレの数々の逸話を見た時には、大分驚いたものだがw

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 20:28:36 ID:jSH3qOpY
多分、武器を持つと人格変わるんだろ。



190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 21:07:51 ID:NVkFy0ZG

一、澤姫の壷、秀吉様へ進上。但し、今は宇治にあり。
一、台天目(茶碗)、秀吉様へ進上。仏陀(山城仏陀寺)にあり。
一、もし討ち死に候はば、此の分に候。母に候人は堪忍分、秀吉様へ御もらい
  京にお入り候べく候。せん(忠政)は、今のごとく、御側に奉公の事。
一、(忠政を)我々跡目、くれぐれ嫌にて候。此の城(兼山)は要にて候間、確かなるものを
  秀吉様より  置かせられ候へと、御申すの事。
一、女どもは急ぎ大垣へ御越し候べく候。
一、悪しき茶の湯道具、刀脇差、せんに御取らせ候べく候。
  いづれもいづれも、仏陀の如く御届け候べく候。仏陀の他は皆せんに取らせ申し候。
  但しなり次第此の由、御申し候べく候。

天正十二 三月二十六日朝  (鬼)武蔵  尾藤甚右衛門(友宣)さま(へ)申し給へ

又、申し候。
京の本阿弥ところに秘蔵の脇差二つ御いり候。せんに取らせ申し候。尾甚に御申し候べく候。
おこう(鬼娘)事、京の町人に御とらせ候べく候。薬師の様なる人に御しつけ候べく候。
母に候人は、構いて構いて京に御入り候べく候。せん、此処もと跡継ぎ候事、いやにて候。
十万に一つ、百万に一つ、総負けになり候はば、皆々火をかけ候て、御死に候べく候。
おひさ(妹?)にも申し候。以上。



191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 21:11:45 ID:IF82WoWm
>悪しき茶の湯道具、刀脇差


どんなんだと毎度突っ込みたくなる、ココ

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 21:24:38 ID:6FkgXE1T
こち亀の本田並に武器持ったらキャラ変わるんじゃね?

「えー?僕に戦なんて無理ですよー・・。」
         ↓
「ヒャッハー!汚物は消毒だー!」


193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 21:28:12 ID:713FLDVo
忠政に家継がせるなは華麗にスルーされたが、娘を医者に嫁がせよはどうなったんだろ。
これもスルー?


194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 22:20:04 ID:LHDwpXuE
弟の葬儀の日に出陣とか、手元に数珠しかないタイミングでもヒャッハー全開思考の鬼武蔵だぞ?
中ボス格なだけに、秀吉のラスボス覚醒を感じ取ってたとかなんじゃね

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 22:21:22 ID:aks7vrkh
>>191
名物は秀吉様に!身内にやるのは微妙な奴ですよ!
ってポーズなんじゃねえの

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 22:22:35 ID:q1nN+eV0
基本的に遺書だけは合戦のたびに用意したんだろうね。まあ領主として
討死の後遺書も無いようじゃ無責任だし。

で、この遺書だけは実際死んじゃったので後世に残った、って事ではないかと。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 22:49:26 ID:6U0ICtd0
人間無骨って呪いのアイテムか何かだったんじゃないか

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 22:57:49 ID:6FkgXE1T
名前からして物騒だしな

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 23:35:10 ID:CHM2In/6
人間無骨……
その槍を振るう度に使用者は魂を削られ
その果てに鬼武蔵になるといふ……

あれ?

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 23:37:55 ID:6FkgXE1T
まるでヴァンパイアハンターのあの鎧のようだ。

[ 続きを読む ]

豊臣秀次は武具の好みに拘りのある男であった

2009年12月20日 00:01

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 19:53:38 ID:q1nN+eV0
豊臣秀次は武具の好みに拘りのある男であった。

金の御幣のまといと言えば、柴田勝家のそれが有名であったが、「あれは大変見事である。
あれにすべき。」と、御幣をまといとした。

甲冑は、「様々あるが、日根野弘就の唐冠の形のものほど見事な物は無い。」と、
これを所望した。日野根、これを拒みがたく献上したが、この時

「これは我が家に秘蔵の甲冑ではございますが、貴き命令により献上仕ります。
ただしこの甲冑は今まで、押し付け(鎧の後部、背中の部分)を見せた事の無い鎧であります。
この意味をどうかお忘れないように。」

そう、念を押した。

その後、木村常陸介の鳥毛の羽織を所望し、これを陣羽織とし、指物は金の棒とした。

さて、天正十二年四月、小牧長久手の戦いにおいて秀次は三河中入りの大将として、
例のまとい指物甲冑羽織にて出陣した。その後の大敗、皆知るところであるが、
この折、唐冠の冑鳥毛の羽織を着ながら甚だ見苦しい有様であったと、人々に言いそやされた。

秀次はこれを大変に恥じ、自分が任を務められなかった事を悔い、この時より、鷹狩り狩猟の時は
勿論の事、詩歌の会、酒宴、遊山のような時であっても供の者に必ず具足箱を持たせ、
その行動も剛強をもっぱらにしたのだという。

が、このように武張った事が後に、殺生関白の汚名に繋がる事にもなる。

秀次の、その思いと噛みあわぬ結果、の話である。






土佐物語十九巻「盛親古き士の事」より

2009年12月19日 00:09

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 03:03:42 ID:+KnLqQFE
土佐物語十九巻「盛親古き士の事」より

長宗我部盛親改易の後長宗我部家中は、新規外様は勿論、譜代恩顧の者たちも、
新たな主君を求めて土佐を出、散り散りとなった。
吉田猪兵衛は福島正則に仕えたが、大阪の陣の勃発に、旧主盛親が豊臣方として
参戦したという事を聞くと、彼は当時江戸にいたがすぐさま出奔し、盛親に合流すべく
大阪へと向かった。

ところが大阪では既に合戦は始まっており、猪兵衛が大阪城に入る事は出来なくなっていた。
途方にくれあちらこちらと彷徨っているうちに、幕府方の寄せ手の中に、同じく長宗我部旧臣、
桑名弥次兵衛一孝を見つけその陣所を尋ねた。

「土佐退散の後は音信もありませんでしたが、本当にお久しぶりです。」

猪兵衛と桑名は、互いに涙を流して旧交を懐かしんだ。そして猪兵衛

「私は福島家に仕えていましたが、この度の事を聞き、盛親様のところに駆けつけねば
どうにもならないと思い、こちらへ参りました。しかし来て見れば寄せ手の警戒は厳重で、
とても城に入ることが出来ません。」

と言う。桑名はこれを聞くと

「お主が大阪に入城しようと言う志、まことに立派だと思う。
どうにかして城に入り忠勤をなされよ。

…私も伴に入城したいが、今仕えている和泉守(藤堂高虎)様から、非常な厚恩をいただいた。
今もし籠城衆に参加してしまえば、主君に弓を引く罪人となり、しかし主君に忠義を成そうとすれば、
譜代相伝の主を敵とすることになる。八逆罪の無道人とはこの事だ。
正直に言って、進退窮まっている。

この上は敵が大勢居る所に駆け入り、何も手を出さずに討死して、主君に不忠を成さず、
旧主に不義をなさないようにしよう。そう思い定めている。
どうか私を、お主たちの手にかけよ。…これは暇乞いである。」

そう行って盃を交わし、涙ながらに別れた。


翌年
八尾の合戦において、長宗我部の部隊の前に、藤堂家の部隊が立ちふさがる。
そこに、桑名弥次兵衛の姿もあった。
盛親はこれを見つけると

「おのれ譜代の主に向って弓引く曲者!誰でも良い!弥次兵衛を討ち取った者を
今日の合戦一の高名の者とするぞ!」

すると吉田中務、および和食の人々進み出て「弥次兵衛は我らが一族であります。
どうして他人の手に懸けさせましょうか!」

桑名弥次兵衛は真一文字に駆け入った。そこを長宗我部の部隊に取り巻かれ、
たちまち討ち取られた。
弥次兵衛は討ち取られる時、槍を構え直す事もなく、真正面を向いたまま討たれたのだと言う。

その首が盛親の元に実検に持ち込まれる。桑名の首は兜をかぶったままだった。
桑名は兜の忍緒を真結びにして、両端を切り捨てており、兜が取れないようにしていたからである。
この時、吉田猪兵衛が盛親の前に出て、先に桑名と対面した時の話をした。
これを聞くと

「さては桑名は今日、討死すると思い定めたのか。不憫な事だ…」

そう、涙を流した。長宗我部旧臣同士が戦い会った中で起こった、悲劇の一つである。




130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 03:37:39 ID:pKgGud1U
盛親の話が出てるんで便乗なんだけど、
以前読んだ小説に盛親の部下に唖の部下がいて、他の家臣はなんでそんなやつを
召抱えたんだって非難してたけど、
盛親が大阪に入場する際に、この人が各地に散らばった家臣を集め軍勢を集めたってような
小説があったんだけど実話かな?
なんか元ネタとかありそうな気がして気になってたんだけど・・・

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 06:24:52 ID:9aNZY2yQ
盛親って改易されて寺子屋教師時代の逸話ってあるかな?
町民相手だったのか下級武士相手の教師だったのか

宗茂と違って改易されてからもちゃんと働いていたのに御家再興は出来なかったのは
やっぱ伝手が無かったのか

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 09:31:08 ID:l1zn3xgh
寺子屋ってんだから町人じゃないかな
大岩祐夢でググッてもまあ、「寺子屋で学問を教えていた」と出る。

京で武家の子弟の教育を許すとか危険すぎるし。

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 09:59:37 ID:cHvoePbf
伝手もないし宗茂みたいに勇名を知られた大将でもないし
関ヶ原後のお家騒動での兄殺しで不興をかったのがやっぱまずかったんじゃない

真田信幸は、遠くからこの騒ぎを見ていた

2009年12月19日 00:07

134 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 10:31:05 ID:5TKBqXIu
慶長5年(1600)9月、真田昌幸は信州上田城において、徳川軍に十重二十重に囲まれた。
物見に出ていた部隊も、徳川の先鋒・牧野貞成隊の猛攻に手もなく退き、間もなく
城付近に攻め手が迫って来た。

上田城に迫った牧野隊は、空堀に飛び入り土塁を越え、城壁の前までやって来た。
と、その時、城兵が塀の上に現れ、竹の皮を下にバラまいた。
「・・・・・・・・・」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-502.htmlである。ベタである。古典ネタである。

「・・・って、見えていれば何という事もないわ。構わぬ、進め!」
牧野隊は竹の皮を踏まぬよう避けてさらに突き進み、とうとう城壁に取り付いた。
と、その時、城兵が塀の上に現れ、柄杓から何かをブチまけた。

「熱っつうううううううううう!!!!!」
煮えたぎった粥をかけられた牧野隊はあわてて逃げ出したが、一面に広がった竹の皮に
滑って転んで起きてまた転んだ。
その間にも非情の粥爆弾は降り注ぎ、人も馬も火傷だらけになって転がりながら、ようやく
本陣まで逃げ帰った。

135 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 10:32:31 ID:5TKBqXIu
さて、先だって逃げた真田の物見は囮部隊で、城主の真田昌幸親子みずから率いていた。
まんまと敵の先鋒を釣り上げ、城門まで戻って来たところで昌幸は信繁に言った。
「おまえ、まず先に入れ。」
これに対して、信繁は昌幸に言った。「いや父上、お先にどうぞ。」
「まだケツの青い小僧がイキがるんじゃない。早く入れ。」
「年寄りの冷や水とか、みっともないですよ。早く入ってください。」

見ていた重臣の池田長門がキレた。
「うるせーッ!こんな時にくだらねえ親子ゲンカしてんじゃねえ!早く入れ!!」
(原文:詮ナキ御父子ノ御時宜ニテ候モノカナ。御入リアレ。)
(´・ω・`(´・ω・`)ゴメン
池田がムリヤリ昌幸の馬の口を取って引き入れ、続いて信繁も入城した。

真田信幸は、遠くからこの騒ぎを見ていた。
「敵が後ろに来てるのに、何やってんだアイツら・・・」信幸は馬に飛び乗った。
重臣の祢津らは、驚いてこれを止めた。
「な、何をなさっておられるか!」「いや、あのバカどもの仲裁をだな・・・」
「家康公への忠節を水に流すおつもりか!」「・・・・・・」
信幸、家族の危機を前に、何か大事なものが飛んでしまったらしい。

「気でも狂われたか?!」
「それなら、最初から東軍と西軍に別れなきゃよかったでしょ!?」
(´・ω・`)ゴメン
信幸は落ち着きを取り戻し、陣中に戻った。




関連
真田昌幸、チョー悪オヤジ、こんな人
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3366.html


136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 10:52:21 ID:Lp8S6qp1
この親子はw

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 11:00:53 ID:W6rfzcIg
信之兄ちゃんも熱くなるタチだったと見るべきか
骨の髄まで苦労性の仲裁役が染み付いてる気の毒なお人と見るべきか…w

まったく、寿命が縮んじゃっても知らないよ?

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 11:07:01 ID:Cj3QT00u
>>137
第一次上田では無双状態だったらしいじゃない


139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 11:08:58 ID:NeHqNgpO
>>137
じゃああの苦労が無ければ150くらいまで生きてたのか……

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 11:47:47 ID:j1cOpn+M
親子喧嘩を始める親父と弟、仲裁に入る兄ちゃん。
それを( ゚д゚)ポカーンと見守る敵味方の軍勢。

               シュールだ。

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 14:55:57 ID:97dTTb9z
敵味方に別れてたのに仲裁しに行くとか、
お兄ちゃんはほんとに家族思いだなぁ。

にしても喧嘩のレベルが低いw

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 16:13:32 ID:ZR0E+Ofu
>>141
中山道軍3万8千を相手にGIANT KILLINGやってる真っ最中こんなアホな喧嘩が始まるあたり、
安房守ってガチでチート武将なのか、こすい田舎のおっちゃんなのか評価に迷……わないかw

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 16:49:31 ID:k5VnTuhj
ガチにチートで守備ゲリラ戦の鬼でこすい田舎のオッサンなんだろうな。
悪い魅力満点。

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 17:34:25 ID:HqlyF4Bu
暇だったら昌幸公のお墓(真田地主大権現)参りに来てくれ~

(↓のページの管理人とは関係ないのであしからず)
ttp://sanadamaru.syuriken.jp/s-kudoyama020925.html

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 17:51:47 ID:UuBFxvjy
>>143
あれ?
楠木正成思い出した

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 20:57:26 ID:c27vVMz/
ヨーロッパの戦争だと、煮えたぎった油とか、汚穢とかぶちまけられたらしいけど
煮えたぎった粥というのが、日本的かつ合理的だね
敵に降りかかる瞬間まで熱い保温性、まとわりつく粘性、滑って転ぶぬるぬる
そして何よりも引火しないというのがいいね。
日本で油撒いたら、引火して逆に城燃えちゃいそうだし

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 21:23:24 ID:scQH2dKM
しかし城に篭ってるのに、よく食い物を攻撃手段として使うよな。
熱湯攻撃なら水だけで済むだろうに。
水もそう浪費できるもんじゃないだろうが、
粥攻撃は両方消費するからやるにはけっこう勇気いると思う。

物資に余裕があるってとこを見せ付ける意味もあったのかな?

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 21:37:12 ID:pyxlKd12
粥は粘性が高い点にポイントが有る
熱湯は喉元過ぎればだが、粥は皮膚に付着する上、熱を保持し続ける
後、中国にも粥攻撃はあったと思う、うる覚えだが

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 21:46:12 ID:4a9B4k6J
その後、ちゃんと回収して食べるんだよ
無駄にしませんよww

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 21:57:44 ID:sQJHEESd
船でお粥を作りながら航海して海賊に遭遇した時にひしゃくでぶっかけて撃退する
もちろん無事に港に着いたら船員たちで美味しくいただきますみたいな風習があるんだよってのを
昔何かでみた気がする。
でも何でみたか思い出せないし小説とかだったら作者さんの創作かもしれないから
本当にやっていたかはわからないなぁ
本当にやっていたとすると粥はある意味食べられる武器あつかいだったのかな?



ところで竹の皮をばらまいておいて敵を滑らそう作戦はそんなに戦国時代では
メジャーな戦法だったんですか?
[ 続きを読む ]

徳川家康は義直と頼宣に何故差をつけたのか

2009年12月19日 00:05

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 23:52:31 ID:odGnWk0N
大坂の陣のとき、徳川家康は息子の徳川義直に頭黒に白葵の丸を付けた
旗五本を与えた。ところが弟の頼宣は将軍秀忠と同じ黒紋を付けた旗七本だった。
この差別が義直の生母於亀には気に入らなかった。彼女は家康に泣きながら言った。
「あなたはなんと無情なお方でしょう。義直は御兄君であるのに、弟君の頼宣様だけ
将軍様と同じ御旗ではありませんか。何故このようなことをなさるのか」

すると家康は於亀をこうなだめたという。
「武家には総領の庶子、庶子の総領があるのだ。かつて信康が死んだ後に
秀康を立てるはずだったが、秀康には同腹の弟がおらぬ。しかし秀忠には
忠吉がおったから、わしの後継ぎにした。

もし将軍になにかあった時、義直にはそうした弟がいないが、頼宣には頼房がおる。
よって天下の総領は頼宣なのだ。

義直と頼宣の格には優劣はない。だから二人は同時に縦四位下に叙任された。
二人の家に優劣はない。だから弟のいる頼宣が天下の総領である。
これが道理ではないか?」




275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 00:09:06 ID:OkXHX8AL
>>274
一夫多妻制度って、
嫁のコントロールが本当に大変だったんだろうな・・・

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 00:12:12 ID:2bVPa5OW
秀康を嫡男にしなかったのはそういう見方もあったのか
この時代の子作りって母方の立場が結構重要だったんだなー

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 00:47:27 ID:20XWtxfG
>>274
尾張と水戸の因縁は既にここから始まってたんかね

281 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/18(金) 00:58:33 ID:sJ2zw943

>>275
市松「本当命懸けっすよ。」

池田和泉守の自殺・別Ver

2009年12月18日 00:15

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 22:18:12 ID:FFHn0w5r
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1232.html

この話の別Ver

主君村重が尼崎城に脱出した後、池田和泉は荒木久左衛門と共に有岡城を守っていたが、
明智光秀の降伏勧告を受け、温厚篤実な人柄で知られた久左衛門が村重の説得のため
尼崎城へ向かうのを見送った

しかし久左衛門は尼崎城に入城することもできず、かと言って有岡城に帰ることもできず、
進退窮まった久左衛門はそのまま淡路岩屋に逐電してしまった

一方有岡城の池田和泉は久左衛門が逐電したということを聞いて絶望し、

「もはやもう何も見とうはない 聞きとうもない さらばじゃ」

と言い残して鉄砲自殺してしまった




116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 01:37:25 ID:UcECl7/o
なぜ鉄砲自殺w切腹じゃなく爆弾正さんみたいに新しい自決方法模索してたのか

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 01:47:51 ID:3DKjujp/
これは日本初の鉄砲自殺だったりするのかな?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 10:01:01 ID:yet//tKj
腹切るより遥かに楽に死ねるじゃん。
もう絶望して武士の意地とかもどうでも良くなって
とにかく早く楽に死のうと思ったとか?

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 13:41:18 ID:iir5zqbG
拳銃と違って火縄銃で自殺って難しい気がするがw
確かに火縄ってセルフタイマーみたいなもんだろうけど
自分撮りの写メみたいな自殺って何だかなあ

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 14:45:12 ID:xK+OPYMG
短筒も存在したし、それで自決したんでない?

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 14:48:05 ID:sG8zLLZG
足で引き金引くんだろ

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 16:59:15 ID:dvTkZJ3w
>>122
昔そうやって自殺した俳優いたな

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 17:35:55 ID:4xBNAjrY
大河の毛利元就で井上なんとかが「新しい切腹して死んでやる!」
って火縄で自害してたな。

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 19:43:32 ID:KpSqNdPh
>>116
最初の鉄砲自殺は毛利元就に粛清されたか滅ぼされた豪族じゃなかったっけ?

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 19:51:07 ID:cSbKqOhD
>>126
それ>>124?
正直ドラマの話だと思う

128 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/17(木) 20:55:30 ID:MYVooW02
だろうね
明確ではないが種子島銃の製造・普及がおそらく1550年以降であるから
井上一族の粛清はちょうど1550年に起きたから鉄砲自殺とは考えにくい

長宗我部盛親、板倉勝重の尋問に

2009年12月18日 00:13

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 09:58:27 ID:WKfhg8Bs
いい話といえばそうなんだけど、語っている内容自体は別にいい話でも無いので
こっちに。


大阪夏の陣による大阪落城後、捕らえられた長宗我部盛親は、二条城において
板倉勝重の尋問を受けた。
このとき板倉

「実際に戦ったあなたから見て、幕府方において最も軍功が優れていたのは
どなただと思いましたか?
それから、夏の陣における大阪方の敗北のきっかけは、何であったと考えますか?」

と、質問をした。これに盛親、

「幕府方で軍功最も優れていたのは、井伊掃部頭(直孝)殿でしょう。
そして大阪の敗北のきっかけ…、それは、わたくしです。」

「盛親殿が?」

「はい。5月6日の合戦(八尾・若江の戦い)、あの時幕府方の先手は藤堂和泉守(高虎)殿と
井伊掃部頭殿、大阪方の先陣は木村長門守(重成)殿と、この、盛親でありました。
長門守殿は井伊殿の部隊に当たり、私は藤堂殿の部隊と対峙しました。

『天晴れ高虎を討って忠勤に備えん』、そう意気込んでいましたが、長門守殿が
不意に討死し、その部隊が壊乱した為、それに当たっていた井伊殿の軍勢に、
我が部隊の横合いから攻めかかられました。これにより我々は、この合戦に
敗北したのでありますが、この敗北の影響は大きく、大阪方では多くが逃亡し、
軍隊として崩壊してしまったのです。

すなわち、大阪が落城した原因の第一は、私の敗北にあるのです。」

敗北の責任は自分にある。そう言い切った盛親に、板倉は大いに感銘を受けたと言う。




125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/17(木) 19:32:40 ID:CVV1MnXC
>>118
盛親かっこいいなー、信親兄貴さえ健在なら改易されなかったろうに
盛親って浪人七衆じゃ一番の大身で、幸村の真田丸に兵貸してたんだっけ