大関夕安『雲はみな はらひ果てたる 秋風を 松に残して 月を見るかな』

2009年12月31日 01:18

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 16:35:15 ID:6KgjKYwY
下野の那須家重臣に、大関夕安と言う者がいた。

ある時宇都宮氏の軍勢が那須を襲ったが、那須氏はこれに大勝した。
もうすこしで相手の大将も討ち取れる、と言う時、夕安は追撃に反対し、
あえて宇都宮勢を撤退させた。
時の人々は夕安のやったことが理解できず、

「何故わざわざ逃がすような、不思議な真似をしたのでしょうか?
今回の戦ではあのまま追撃すれば、宇都宮を滅ぼす事もできたのに。」

と不満を持った。これに夕安

「こんな歌がある。『雲はみな はらひ果てたる 秋風を 松に残して 月を見るかな』

今、宇都宮の劣勢を利用して、那須優位の同盟関係を築く努力をする事無く、宇都宮を
滅ぼしてしまえば、我々は小田原の北条と直接に勢力圏を接してしまう。
もし国境を接した状態で強大な北条と敵対してしまえば、我々が那須を保持する事は
不可能だろう。ここは宇都宮を残し、彼らに北条の相手をしてもらい、その間に我々は
軍備を整え家中の紐帯を強くし、準備が整ったところで北条への敵対を宣言すべきなのだ。」

人々、夕安のこの答えに大いに感服したそうである。



ちなみに『雲はみな~』の歌についてだが、通常この歌の意味は
「雲をすっかり払ってしまった秋風を、松に残るさわやかな音として聞きつつ、澄んだ月を見ることだ。」
とされているが、もう一つの意味を後に徳川家康が説明している。それによると

「”雲”とは敵や不利な状況の事、”秋風”とは家臣、味方、優秀な作戦、といった自分たちの取りうる
手段の事である。すなわちこの歌は

『自身の努力や策謀が、敵を討ち悪状況を解消出来うるまで結実するのを待つ事ができれば、
最終的な勝利を手に入れ心安らかに月を楽しめるだろう』

と言う意味を含んでいるのだ。」

目の前の敵を倒し滅ぼすだけでは生き残ることは出来ない。戦国の深謀遠慮についてのお話。




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 17:37:24 ID:sE6J0gmM
大関高増だな。

頭はいいんだが悪いことばかりする事に定評のある大田原3兄弟の長男。
珍しく良い事してるが。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 18:45:39 ID:z7D2qpf0
>>662
というか、こういう視点を持った戦略家だからこそ武功第一の脳筋系武将には
言ってることのイミが理解されず
「正面切って戦わず悪巧みばかり巡らす陰謀家め!!」て、なんとなく
敵味方から疎まれたんじゃなかろうか。


本多正信なぞは同じようなことをやらかした上で
「私は長期的視野に立てないあなたたちとは違うんです! フフン♪」とか
周りの三河武士をわざわざ挑発しまくって、
自分一人で恨み辛みを全て引き受けてから死んで、徳川家と幕府を残したんだろうね

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:10:04 ID:5qafYXL9
丹羽長秀「ああ、あの腸腐れね」

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:11:07 ID:kMbs7ZOj
>>663
ひょっとして本多家改易って親父が遠因なんじゃないか?

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:12:21 ID:sE6J0gmM
>>663
いやぁ、違うと思うけどなぁ・・・

悪い話スレになんか書いとこうかな、その内

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:45:32 ID:Q6Rc7Qxy
>>661
こりゃいい話だね。
下野・常陸の小豪族は、対立しつつも連合しないと
大勢力の北条家に呑み込まれてしまうからね。

陰謀家と言われる人は、見方を変えれば
深謀遠慮の知将だったということだね。

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 22:07:50 ID:LJ0oN3Gf
戦わずに済めは何よりだもんな

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 22:07:55 ID:6oALwCzA
常陸下野あたりで常識人を見つけようとするのは難しい


671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 23:34:24 ID:iR0u7DDB
>>669小田氏治「よんだ?」

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囲碁で大名家が

2009年12月31日 01:17

431 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/30(水) 15:00:21 ID:guG6tYc+
流れをぶち切ってすまん。

三河水野藩主・水野忠胤が、ある日遠江浜松藩主・松平忠頼を自宅に招いて茶会を開いた。
この時、水野家臣久米左平次と服部半八郎の両名が囲碁を打っていたのだが、服部と旧知の忠頼は
後ろからアドバイスしてあげた。
松平「あ、そこじゃない。それよりほら、そう、そこ!」
服部「勝っちゃったwww」
久米「・・・・・・それ、てめーの実力じゃねえだろ?」
服部「はあ?俺、アドバイス関係無しに打ったもんね。何それ。負け惜しみ?」
久米「調子に乗ってると殺っちゃうよ?」
服部「てめえにできんのかよ。あ?」
   両者抜刀。
松平「まあまあ。たかが囲碁じゃん。仲直り仲直り」
久米「お前が原因なんじゃあ!!」
松平「はうあっ!!」

松平忠頼、刺殺。
さらに後継者幼少のため改易処分。
水野忠胤、責任取らされて切腹。
水野家も改易処分。

お家騒動の方がまだマシに見える、囲碁で大名家(それも親藩)が二つ潰れた話。




432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 16:06:58 ID:hS9w6Ztq
囲碁で潰れたり屁で潰れたり大変だな。
将棋と小便が揃えば完璧

上杉龍若丸の処刑

2009年12月30日 01:15

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 00:27:35 ID:DOj3UvUs
天文21年(1552)、関東管領・上杉憲政は、平井合戦で北条氏康に敗れ厩橋城に逃れたが、
手勢五百という凋落ぶりに厩橋からも逃走する。
紆余曲折の末、憲政は越後守護代・長尾景虎のもとに亡命、数年後に管領家の家督を
景虎に譲り、のちの「上杉謙信」が誕生する。

しかし、実は憲政には龍若丸というれっきとした嫡男がおり、憲政は家臣の菅野大膳と
上原兵庫に、この龍若丸を預け、厩橋城に置き去りにして逃げ出した。
すると、菅野・上原も逃げてしまい、あとには龍若丸と乳母の夫・目方(妻鹿田)新助の
一族だけが残された。

目方は、「憲政様が越後から戻られるまで、この城は支えきれん。天から見放された主君の
命を守って死ぬよりは、龍若丸を小田原に差し出し、知行の一つも頂戴しよう。」
と考え、主君の子を氏康に引き渡した。

縛り上げて馬に乗せられた龍若丸は、中間二人に馬の口を引かれて小田原に入った。
氏康は武士の習いに従い、翌日に宿敵の子の首をはねた。
目方一族は、幼君を売って手柄にせんとする二心ある態度を氏康に憎まれ、新助以下、
弟の長三郎や叔父の九里采女正など、八人が処刑された。

余談だが、大河ドラマ『風林火山』では、逸話と同じく処刑が決まる龍若丸だが、氏康は
その境遇への憐みから最後の抵抗を許し、少年に太刀を与える。
龍若丸は太刀を掴み、氏康に斬りかかるが、歴戦の将である氏康には通じず、一太刀で
返り討ちに会い、若い命を散らす。

しかし、その執念の一撃は氏康の額を傷つけ、「氏康傷」が出来る、というストーリーに
なっている。視聴率的には苦しんだ『風林火山』が、「近年の良作」として歴史ファンから
評価される所以である。




407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 00:31:07 ID:WBAQT8lB
>>406
古くは藤原泰衡を殺した河田次郎、これより後には小山田信茂なんかもそうだけど、
逃げ延びる途中の主を裏切る、土壇場で寝返る、というような寝返り方は忌避されるんだよね。
事前に内通していたとかなら別だけど、関ヶ原寝返り組で改易された連中も急遽現地で寝返った連中だし・・・

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 10:42:56 ID:ZTHsLThX
脇坂さんが大谷陣の横でアップを始めたようです

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 11:01:44 ID:y86l1xx6
朝倉景鏡「織田殿は寛容でしたよ?」

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 11:42:12 ID:AeTiCGkS
朝倉さん所はあっという間に崩れちゃったからちょっと違うかもしれないね

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 17:58:39 ID:Tn/va7Xj
大身の武家が人質見殺しにしてでも裏切る、とかいうと武略になるけど、
お付きの者が命惜しさにっていうと途端に見苦しくなるな

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 18:44:34 ID:KMkZJKVO
>>406
これがその時のシーンか
ttp://www.youtube.com/watch?v=4z6C7Ts0-9U

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 19:01:07 ID:rQtvZIdn
”脚色”ってのはこういうのを言うんだよなあ。
主人公だからエピソード捏造とか他人の業績適当にすげ替えるとか
道中飛ばしすぎて直線を待たずに一杯になるとかそういうんじゃなくて。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 21:06:39 ID:7XXMYVbI
>>413
他人の逸話をそのまんまいただきはほんとやめてほしいよなあ…よくあるけど…
元の話知ってると一気にさめるし主人公にも元の逸話の主にも失礼だと思う

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 21:19:19 ID:O+quvlG0
書いた人にしてみれば、

あーこのメイド服可愛いなぁ。
俺のご贔屓の女の子が着たらもっと可愛いぞ!
→アイコラしてみた
やっぱ可愛いじゃん!やってみた俺Goodjob!

的な、極軽いノリなんじゃないのかな。
後世になってそんな迷惑になるとは思いもよらぬ・・・
いや、だからOKって話じゃないけど。

船が大嫌いな鍋島直茂

2009年12月30日 01:11

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 04:01:33 ID:aaJMMkAq
part5にも概要がありましたが、葉隠の鍋島直茂ネタ。

船が大嫌いな鍋島直茂。船の匂いも磯の香りも大嫌い。
そんな直茂が上方から佐賀に帰る船旅のお話。

当初順風だったが、海はやがて大荒れとなり、船の舵まで壊れて荒天の中を漂流する始末。
もう現在地がどこかも分からない。
かなりヤバイ状況だったようで、家臣の藤島生益は直茂を船室から連れ出すと、直茂を船の欄干に掴まらせ、
お付きの持永助左衛門にも直茂をだき止める形で欄干に取り付かせた。
生益「いいですか、絶対に手をはなさないように」

揺れる船の中、そのうち直茂が吐き、助左衛門が吐き、二人してゲロまみれ、見るも無残な状況に・・・。
「いやー、「兎の子取ろ」(←子供の遊びらしい)のようですな、はっはっは。」
と軽口を叩く生益。二人はきっと笑えなかったに違いない。

しばらくして少し波風も弱まったころ、僚船が近くを通り過ぎていくのが見えた直茂、
大声でこっちに来いと叫ぶが、僚船は素通り。
直茂「ムキーーーッ!港についたらあいつは切腹!氏ね!」 
生益「いやいや、この天候じゃ寄せるのは無理ですよ。」 
キレる直茂となだめる生益。
その後、また天候が悪くなり、予備の楫も破損し船はまた漂流を始めてしまった。

直茂「ちょ、また舵が壊れたのかよ!?」
家臣A「え?いや。誰かが板を踏み折ったんじゃないですか。」
直茂「適当こいてんじゃねーよ、わかるんだよ、ふざけんなよ氏ねよ!」

どうもこの時は沈む寸前だったらしく、直茂はもう覚悟を決めていたようだ。

直茂「生益、脇差を持ってきてくれ」
生益「いよいよとなればお持ちしますが、もう少し待ってください」
直茂「頼む。死んで岸に流された時に、鍋島加賀守が丸腰とは末代までの恥辱じゃ」
生益(あー、もう。この人に脇差渡したら沈む前に自決するだろーなー。)
脇差の件は無視し、船底の米俵を紐で結び海中にぶら下げたところ、少しは揺れも収まったため、
直茂も少し安心してきた様子。

そうこうするうちに夜も明け、播州明石手前の沖合500mあたりにいることが判り一安心。
波風も静まってきた頃に、上陸し事なきを得た一行であった。

帰国後、生益がこのときの様子を直茂家族一同の前で詳しく話したところ
奥さん(陽泰院)には泣いて感謝され、息子で当主の勝茂からは加増を賜った。

同席していた直茂
「いやいや、今聞くと笑えるけど、ヤバかったんだよ。
 脇差受け取ったら喉をついて死ぬ気マンマンだったのに、こいつ渡さないし。
 その時はけしからん奴だと思ったが、今は良かったと思う。」←本当だよ

もちろん直茂の船を素通りした僚船乗員にもお咎めはなかった。

後日の生益。
自分の孫にその時素通りした船には誰が乗っていたのか聞かれた時
「直茂公も口にされないことを、ワシが言うと思うかバカもん。」
と怒ったそうな。




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 07:49:05 ID:MF5AAGNs
>>649
どこかで聞いたことあるかと思ったら「死ぬことと見つけたり」に採用されていたエピソードか
葉隠ってエピソード集としては抜群に面白いなw

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 09:57:47 ID:egpLh/c9
>>649
ヤべー声に出して笑ってしまったwwww

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 11:00:52 ID:y86l1xx6
>>649
あれ、孫とのやりとりに本多家が被って見えるw

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 12:41:16 ID:ynyTObyz
>>632
金箔を貼ったド派手なケチ親父の兜の方が有名なのに
何故に息子の方を?

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 13:17:44 ID:WauPSlTL
>>649
大阪から船出して、兵庫県沖で遭難しちゃうんだ。昔の船旅は大変だねえ。

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 14:43:50 ID:ZZkmwf8k
>>649
やだ、直茂ったら可愛いw

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 15:26:53 ID:lHNvsxMn
明石手前ってことは明石海峡のあたり
時化と潮の干満がかぶったら現在でもやばい

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 21:58:06 ID:a/NvTb7t
生益さんの妙な冷静さもかわいい

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 00:37:39 ID:DV4z/6/G
ひどい船酔いになると死にたくなる。マジで。

鍋島直茂、船酔いを苦に自刃。
とかならなくてよかったね。

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 12:40:46 ID:Sn9mauPn
冷酷無比な御家老のイメージが音を立てて崩壊してるぜw
直茂かわいいよ、直茂

藤方入道慶田の「武士の義」

2009年12月29日 00:41

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:05:03 ID:XvFNtzYV
天正4年(1576)11月25日、織田信長の命による北畠具教の謀殺。
後世に言う「三瀬の変」が起こる。

元の国司、北畠具教に対し、北畠譜代の士である藤方刑部少輔朝成、滝川三郎兵衛、長野左京亮らが
刺客として向かうことを命ぜられ、彼らは元の主君を殺した。
藤方は自らは出向かず、家臣の加留左京を名代として行かせた。

この頃、藤方朝成の父、入道慶田は、北畠家に送り込まれた織田信雄の居城、田丸城に
人質としてとられていた。
具教謀殺を聞いた慶田は悲嘆にくれ、それに参加した息子朝成を口を極めて批判した。
曰く、人倫に非らず。

朝成これに
「私も本意ではありませんでした。が、父上が人質として田丸におられたのです!
その為仕方なく、この企てに参加したのです!」

「それが間違っておる!」

慶田は言う
「この企てを聞いたとき、お前は速やかに具教様にご報告し、共に織田と戦い命を捨てるべきであった。
そのうえでわしが磔になれば、それこそ当家の面目と言うべきではないか!
お主は武士の義を知らぬ!」

入道慶田はその後、自ら命を絶った。切腹だとも、入水したのだとも言われる。

信長の北畠一族謀殺の中で起こった、悲劇の一つである。




399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:38:49 ID:XQTJGUPJ
信長の命令なら仕方ない

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:53:59 ID:lBsAIquP
え?進撃止めの命令が殿から?
そんなんしらね。信濃甲斐の城は全部攻め落としてやるぜえええええええええええ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 16:44:20 ID:0HUrnFpJ
>>398

しかも自分の手は汚さない小狡さ。
だが、こういうこすい奴が結局は生き残って家名を残してゆくんだな。

平成の世にまで汚名が伝わる羽目にはなっているが。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 17:03:08 ID:8DnLaP79
しかし、北畠は南朝が完膚なきまでに打ちのめされた時、滅亡しておかしくなかった
ここまで、よくも伊勢の雄として存続したよ…

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 17:24:07 ID:AuUBKWNH
後南朝の時もやられてるしな
戦国に入るころから六角、細川と急接近した辺りが奏功した感じ

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 18:09:24 ID:4iMd+H3r
北畠って、公衆便所みたいな所の便槽に吊るされて
死んだんじゃなかったっけ?

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 21:05:09 ID:G9mHKhgu
足利義輝みたいな感じの最期じゃね?

後藤勝基の妻

2009年12月29日 00:39

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:52:57 ID:8ml9UIRG

後藤勝基の妻

天正七年4月上旬、宇喜多直家は重臣花房助兵衛・延原弾正に
娘婿で浦上宗景の重臣である後藤勝基が篭る三星城を攻撃させた。
しかし勝基はよく奮戦したため寄せ手は攻めあぐね、一旦兵を引いた。

その後援軍として到着した宇喜多詮家を交え軍議を開き、
城内の様子を知るために長光寺の僧を招き話を聞いた。
その僧は

「城内には安東相馬・難波利介・柳澤太郎兵衛という勇士がございます。
彼らがいる限り城は落ちないでしょう。もし計略をもって彼らを寝返らせることができたら、
落城すること間違いありませぬ。」
と進言した。

そこでその僧に頼み、この三人に内応すれば恩賞望みに任すとの旨を伝えさえたが
安東は納得したが他二名は納得しなかった。

それから四~五日が経ち、人々も安東の変心を察したのか、何となく城中は騒ぎ立ち、
疑心暗鬼となり、結束が弱まってしまった。
勝基は妻を招き

「近頃城内の気風は変わり、士卒の心は和合せず互いに疑心を深めている。
これでは到底篭城を続けることは出来ぬ。余が自害し、城内の者の命を助け城を明け渡そうと思う。」

と語った。
妻はそれを聞き勝基を諌めてこう言った。

「貴方の御覚悟は決死て時宜を得たものとは損じませぬ。
誠に無益の御自害と申せましょう。この期に及び敵に寝返るような武将は尋問して確かめ、
罪状明らかならばこれを殺し、士卒の心を静めたならば篭城を続けること何で困難でありましょう。
ここは私にお任せくださいませ。」

そしてその晩のこと、奥方は頭分の侍に料理を振舞うと称し
安東・難波・柳澤及び長光寺の僧を呼び広間で料理を出し、囲碁等をしているところに
侍女が菓子を持ってきて

「奥方様よりの下されものでございます。」

と安東に渡した。
安東が座を退き、菓子を頂戴しているとき勝基の妻が物陰より
急に現れ、一刀のもとに安東の首を打ち落とした。
しかしこの事を誰にも漏らさず、密かに隠していたので、城内でこの事を知る者は誰一人いなかった。

そして翌朝
大手門外に安東の首が晒されていた。
これを見た敵方に内応をしようとしていた者や変心した者は震え上がり、決心を翻した。
そしてまた心をひとつにした城方は宇喜多の大軍を相手に奮戦したという。

流石宇喜多直家の娘といった感じでしょうか。




613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 01:06:46 ID:pdElsfMA
>>611
でも結局落城して後藤勝基も妻も自害しちゃったんだよな

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 12:02:57 ID:ODcq0ctN
>>611
さすがに富田信高夫人の従姉妹だけあるなw
(富田信高夫人、関ヶ原戦役で富田信高が敵の武者に組み敷かれて討ち取られかけた時、
突如あらわれて、相手武者を討ち取り、富田信高を救出)



奥様リンク(しかも親戚同士)
富田信高と謎の黒武者の正体・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1432.html
雑談・岡山だと…
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2947.html

小山家「腹切り左右衛門」

2009年12月29日 00:36

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 02:15:43 ID:rhODrmbe
最上の話は置いておいて

小山家「腹切り左右衛門」

小山秀綱の家臣に「腹切り左右衛門」と呼ばれる男がいた。
戦場では敵の胴を鎧の上から横断し、
刀に刃こぼれを残さない剣の名人と称されていた。

戦後の酒の席で同僚の藤岡山城が左右衛門に聞いた。
藤岡「お主、なぜわざわざ敵の胴を斬って倒すのだ?もっと戦いやすい方法もあるだろうに?」
左右衛門は周りを見回しこっそり藤岡に耳打ちした。
「この戦い方に慣れ過ぎて、他の戦い方(斬り方)が出来んのよ」

剣の名人と思われていても、本人には別の悩みがある典型的なお話。




641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:47:38 ID:8DnLaP79
>>617
一つの分野に特化しすぎると転職しづらくなるよね…と


643 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/28(月) 16:07:25 ID:0XH6tn5V
>>617
黒田にもそんな人いたよな
確か左のコテで刀を受け止めて右の刀で突き刺すだけの

富永さんは一体どうやって亡くなったんだろう?

2009年12月29日 00:35

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 05:50:11 ID:/VtalsW3
富永山随の最期はまとめの逃亡中に鶏の鳴き声で見つかって討ち取られた話が有名だが
こんな話もある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-610.html

丸山城が落城し、陸には鶏がいて危ないので船を漕ぎだし逃亡、伊豆半島を廻航し
下田に逃げ込もうとした。
しかし、下田も既に豊臣方の大船団に包囲されており、恐らく小田原も同じであろうと、
よもや逃げ場なしと悟った。
富永山随とその手勢は下田を包囲する船団の間を素知らぬ顔で通り抜け、小田原を目指した。

その後、小田原沖を包囲する豊臣方船団に何か騒ぎが起こったのが小田原城から確認された。
城からはそれ以上の事は確認できなかったが、何者かが豊臣船団に殴り込んだらしい。
やがて騒ぎは収まり、数刻後、何者かの死体が小田原の浜に打ち上げられた。
小田原まで落ち伸びる事が出来た富永残党により、それは富永山随の死体であると確認された。


富永さんは一体どうやって亡くなったんだろう?




鍋島直茂「上を向いて歩こう」

2009年12月29日 00:33

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 07:40:18 ID:8Ot25ZLZ
今年最後の月曜日、出勤のみなさんご苦労様。

鍋島直茂の家老、鍋島安芸守茂賢は、主君に用があって御座所へ向かったが、直茂は
あいにく不在だった。誰に聞いても行方を知らないというので城中くまなく探した所、
外堀に面した隅櫓に登っているのを見つけた。

「殿、こちらでしたか。なぜ、このような所に来られたのです?」
「ここは、佐賀の街が良く見える。ここ二、三日、わが国の風俗を眺めておったのじゃ。
人通りを見ていて、感じた事があったのでな。・・・嘆かわしい事に、この肥前国の侍どもは
弱くなり始めておる。」
「ほほぅ!それはまた、どういう訳でございましょう?」

「家老たるその方も、良く心得ておけ。ここで街を往来する者を見ると、大抵が伏し目がちに
地を見ながら通る者ばかりよ。
これは、佐賀者の気質がおとなしくなったからじゃ。勇み足を踏む位の気持ちでなければ、
槍も突けぬものだがな。
忠義も良いが、律儀に正直に、などと考えてばかりで心が固まっていては、功も立てられん。
時にはハッタリの一つもかまし、胸を張り背を反らす気構えこそ、武士に必要な事よ。」

これを聞いた茂賢はホラ吹きとして知られるようになったが、名家老としても名を残した。


お仕事中・出勤中の諸君、上を向いて歩いてるかい?地べた見てタメ息ついてないかい?
直茂公に笑われるぞ?!




623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 08:43:10 ID:HeOkibIU
了解!上を向いて通勤中。
痴漢に間違われない様に両手はいつも上向きなのだが、顔も上げねばな。

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 09:12:38 ID:AHuxj+lS
息子も上を向いとるぞ

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 10:24:05 ID:/T4Gr/V6
>>624

さすが当代きっての槍弾正殿ですな
栗栖益の初陣に功名を立てられず涙を流した某も御高名にあやかり
槍を扱いて次ぎの夜戦(大晦日)に備えなければ!

伊達政宗「最近は若いもんのみならずいい年こいた爺まで」

2009年12月29日 00:31

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 10:05:03 ID:LnL1OOKg
出てなかったと思うんだけど重複だったらすまん

ある時まーくん側近へ語るに

(●д゚)<最近は若いもんのみならずいい年こいた爺まで変な髪型したり
袴ずり下げて引きずって歩いたり刀も脇差程度しか満足に差しやがらねえでもっそり歩きやがる
流行りなの?馬鹿なの?死ぬの?
若者文化にはしゃぐとかないわ、爺は爺の威厳ってもんがあるだろうが
いいか、立派な武士ってのはきちんと髪を結い、大小を差して、
袴の帯はすっきり上げてはき、身分があるなら歩かず馬に乗るもんだ
いくら流行りだからって、「さすが田舎者だせぇプッ」とか陰口叩かれても
お前らはこんなみっともないことするんじゃねえぞ、いいな!

政宗卿御名語集より
語り口からして爺になってからかな?
意外に保守的な爺だったようです




628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 11:45:24 ID:kdHC3kDJ
>>625
長袴と殿中差のことかとも思うが
袴の帯ずり下げて履くってのは今でいう腰パンみたいなものだったのかな?

ということは見せフンとか流行ったんだろうか


633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 13:18:00 ID:ncelOEYF
>>625
この時代だと地域間の情報格差もあるだろうし、田舎者は無理して流行りを追うより
田舎武者は古風できちんとしているというブランドを確立した方が結局かっこいい
という美意識かもしれんよね

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:47:38 ID:8DnLaP79

>>625
秋田佐竹の梅津日記にも
最近下郎から上役までヤンキーみたいなかっこして困るわぁ
みたいな記事があったような気がする
幕府が風俗規制に乗り出す理由はあったってことかね


645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 21:46:43 ID:XcvO58yT
>>625
それと同じ調子で小姓頭に手紙も出してるね。

最近小姓どもが変な髪形してるけど、
あれって誰得?何処がいいの?
それぞれ配下の小姓どもから聞きだして、
五日以内に報告上げろ。

みたいな感じの。
変な髪形=きっちりひっつめない、ゆったりとした髪型(ふくろがみ)らしいけど
長い袴を履いて裾跳ね上げて歩く様子とか、
江戸初期に流行ったらしくて、絵とかにも残ってる。

政宗的には「皆この髪型にしてるけど、これ捕まれたらどうにもできなくて
ねじ伏せられちゃうだろ!」とか言ってるので、
武士としての嗜みの観点からも嫌ってたみたいね。

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 00:25:55 ID:RhomdJ5B
>>645
かぶき者ってヤツかね…

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/29(火) 01:37:39 ID:ajxa05M1
>>625
おしゃれ大好きな政宗は
若い頃から色々な服装を試して、ついには
きちんとした格好をすることが一番おしゃれなんだという境地に達した

ということじゃなかろうか。

水原常陸の錦の直垂

2009年12月29日 00:29

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 13:38:17 ID:C1edwapH
>>633
上杉さんちの本庄さんだか水原さんだかが
確か古くさい服着てきたら
「さっすが上杉さんちだぜ古風でまじかっけえ!」と
なんか褒められたという話があったような。



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 16:02:44 ID:3QO/1iQD
>>635
水原常陸だったと思う>まじかっけえ

長年愛用した鎧はもうボロボロ、鎧の上に能衣装を羽織って大阪に出陣
それを見た家康が「見よ、あの者は錦の直垂を付けておる。」

さらに水原を本陣に呼んで「それはどのような由来のものか?」
これに水原は「どのような由来のものか定かではありません」」と回答
家康は「由来がわからぬほど古いのか。さすがは上杉、古雅なことだ。」




吉川元春の文学への関心

2009年12月28日 01:24

545 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/27(日) 00:08:51 ID:MLGNuEb8
有名な話ではありますが。

武勇を以て知られる吉川元春ですが、実は教養人としても有名で、尼子家・月山富田城を
攻めているときには太平記を書写しているなど、文学への関心も深かったそうです。
吾妻鏡(吉川本)が彼の下に巡ってきたのも、彼の文学愛好の故なのでしょうか。
父親にせがんだのかもしれません。

本当に元就の子どもたちは優秀だわ。




546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 00:11:15 ID:SlaT5LUP
そのうえ無駄にイケメン率が高い

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 00:15:16 ID:JZNNyjy/
そういや広島カープの小早川もイケメンだったな

駒姫と怖いものがくる話

2009年12月28日 01:23

駒姫   
548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 00:28:47 ID:/EaaLi9F
駒姫と怖いものがくる話

注)伝承ですので実際の歴史的事件とは関係がない場合がございます。

戦国時代の末期頃に山間の田舎大名に
それは美しい珠の様な姫君がおわしたそうな。
父親は荒くれ者の土豪の出身であったが、、
この娘をいたく大事に育てていた。

娘が8歳の夏に真夜中に起きてきて父親の布団の中に潜り込み
「こわいものが来る」と泣く事を止めなかった。
連日に渡り娘が夢に怯え衰弱すると
父親の大名は腹心の飯田播磨と大和田典膳を呼び話を始めた。

(´・ω・`)「お駒が夢に怯えるんだが、ワシの殺生がまずいのか?」
播磨が答えた。
「殿は寺社仏閣をたいそう大事にされておられる。
妖がそれを妬み姫の夢に出てくるのでは?」
典膳がそれに続けた。
「ならば悪夢を食べる獏の絵をこの城の中に置いてみては如何でしょう?」

数日後、獏の絵が出来てからは姫は悪夢を再び見ることはなく
快方に向かったという。

専称寺に残る獏の絵がそれと同じものかはわからんが。
とっぴんぱらりのぷー




550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 00:34:52 ID:YXPusJJ+
>>548
>娘が8歳の夏に真夜中に起きてきて父親の布団の中に潜り込み


なん……だと!!

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 00:41:29 ID:tJDBUQTJ
>>548
それのどこがいい話なんだ?

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 00:47:23 ID:fRxX7qlH
>>551
娘の悪夢が治ったいい話だし、
娘がかわいい話だし、
獏の食欲がいい話じゃないか?

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 00:57:43 ID:h8gvQDPs
よかった…悪夢の子供はいないんだ…

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 01:17:20 ID:ZTa+BFFg
>>548
みんなわかっててあえて突っ込まないと思うが
「駒姫」「飯田播磨」「専称寺」ときたら

最上義光の娘を思ういい話

だろ?

ついでに「大和田」「獏」

>>550
だめ、パパ!ママが帰ってくる!
ーまで読んだ。

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 01:34:47 ID:ZTa+BFFg
>>550
>>551
い(やらし)い話に見えてくるな

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 01:37:39 ID:ZTa+BFFg
秀次「夢と違う!!」
駒姫「!!!!!」

なんだ、ただの都市伝説か。

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 01:43:21 ID:QvKxRh7H
とっぴんぱらりのぷー
って小森だよな

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 13:16:22 ID:8NXLjS1Z
貘「(熱々ご飯に塩のきいた鮭の悪夢で飯が旨い!メシウマ!)」

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 14:40:22 ID:OWXBB29b
>>569
鮭本人じゃなくて咲娘な

塩鰤

2009年12月28日 01:21

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 01:59:53 ID:QD8xndPE

塩鮭が駄目なら塩鰤の話を一つ

富山県氷見市と言えば寒ブリで有名なところ
ここにある書状が残されているそうな
「良い鰤があったら塩鰤にして京都へ送ってちょーだい」という内容の書状の送り主は
そう、前田利家(実際には命令を中継した家老が出しているのだが
年取り魚として正月に欠かせないとされた鰤を
お歳暮としてラスボスに贈っていたのである




564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 03:20:14 ID:Mpj8RqVb
犬っころは貢物とか如才ないよなぁ・・・

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 08:32:58 ID:+E1ZKakE
昔は「花の慶次」での利家の描かれ方が酷いなあと思ったけど
最近はあれで充分だと思うようになってきた

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 08:38:15 ID:ehZGeS3v
ラスボスが貢ぎ物・贈り物の天才だから元親友もそうなったんだろうな

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 08:51:16 ID:uW8A9YWW
鮭から慶次へ…
この流れ

花の鮭児への前ふりなのか

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 11:07:55 ID:ieiBMGUo
だれうま


最上義光と坂紀伊守とのやり取り

2009年12月28日 01:20

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 15:11:15 ID:OWXBB29b
鮭様と身嗜みの心得

最上義光と坂紀伊守とのやり取り

秀吉の天下が決まり京都で観兵式がとり行われる事となった。
手紙でのやりとりなので判り易くまとめてみる。

坂「天皇を交えての観兵式との事ですが、軍装はどのようになさいますか?」
(´・ω・`)「全軍一統するか、各将の持ち味を出させるか…」
坂「伊達勢は黒で一統するようです。我らも旗指しは丸に二引きで一統しますか?」
(´・ω・`)「猿マネ言われるの癪だから、丸にニ引きは軍が判る程度に固めて、
諸将の旗も用意させんと、部下たちが不平を言うだろう?」
坂「鎧は統一しないのですか?」
(´・ω・`)「各将好みはあるだろうし、みすぼらしい者には金を惜しまず好みの武具を用意させよ」
坂「まとまりがなく、奇異に見えるのでは?」
(`・ω・´)「戦は個々の者が指揮の下に働き功名を立てるもの。一統したのでは
個々の面白みを無くす事になる。
味方だとさえわかれば身分以上の武具を着ていても、
それに見合う功名を立てれば問題はなかろう。
金は惜しむな。返せぬ者がいるなら義光の名でくれてやれ」

普段は質素を心掛けていても「金の使い方」を知っていた鮭様の良い話。




572 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/27(日) 16:06:31 ID:SmoZxO9k
サーモンピンクに統一すりゃよかったのに
それか銀魚鱗小札の具足
鮭備の最上軍

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 16:35:01 ID:OWXBB29b
井伊の赤備え
伊達の黒備え
最上の鮭備え

そんな最上軍やだ(´・ω・`)

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 16:39:53 ID:eoyz/Tm/
最上の鮭備えワロタwwww

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 16:44:38 ID:QD8xndPE
>572
なんか鎧の小札が鮭とばで出来てそうで生臭そうな感じがw>鮭備え


576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 16:45:05 ID:ZfIbvFk7
http://www.wordfun.net/aec4/image/B001TZUCRQ.html

こんな感じで

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 17:08:34 ID:BzWH+HOH
>>571
都で恥をかかないように無理しようとしてるようにも見えるな
坂紀伊はもろに伊達への対抗心出してるし・・

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 17:43:45 ID:h8gvQDPs
ふと鮭をくわえた義光公の置物が頭にうかんだ

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 17:46:50 ID:XP3uER7I
俺なんて兜に替わりに鮭のかぶりものをまとった義光公が頭に浮かんだよ。

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 17:55:49 ID:JZNNyjy/
熊ならともかく、鮭くわえた狐は想像できん

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 18:15:26 ID:iLG5qSFw
鮭は捨てる所が無いと言われるだけに
アイヌ人は鮭皮の靴を履き、鮭骨の矢尻を使ったらしいんで
鮭皮の鎧があったとしてもおかしくない。
鮭骨の穂の槍を武器に、新巻鮭の立物の兜で最上の鮭備えになるだろう。

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 18:39:38 ID:h8gvQDPs
もがみだけにさいじょうということで…

最上四天王…?

2009年12月28日 01:19

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:27:22 ID:3TovJypq
河北文書に面白い内容があったので挙げておく



とある戦での名乗り

《゚Д゚》「某、最上四天王が第一、楯岡光茂!」
(・∀・)「同じく最上四天王、知恵伊豆こと志村光安!」
(`Д´)「最上四天王、同じく剛勇無双!延沢満延!」
(〃`Д´)「同じく最上四天王、槍の鮭延越前!」
ミ゚Д゚彡「最上四天王、同じく中代比興里見民部!」

どこがおかしいかは判断は任せる。




605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:29:12 ID:/ppUMlL5
5……人……?

竜造寺じゃないんだからさ……

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:30:35 ID:kSL+Ftgu
お前らもかw

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:30:59 ID:pdElsfMA
昔の人も受け狙いのネタでやってたのかね

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:37:31 ID:SfDB7iEt
一人はザシキワラシである

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:38:02 ID:HfK8FNJU
この世には三種類の人間がいるでござる・・・
数を数えられる者と、数えられ無い者にて候!

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:47:58 ID:rhODrmbe
延沢満延「1、2、たくさん・・・」
志村光安「延沢殿・・・(汗」

誘導
www.noukin.com

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:57:03 ID:P0woocDz
戦国時代は数字の四と五の順番が入れ替わってたんじゃなかろうかと思えてくる

おあむ物語

2009年12月28日 01:17

おあむ   
380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 22:10:28 ID:a2uNevY3
「おあん様おあん様、昔話してくれろ。」「はいはい。」
…おらが親父は山田去暦と言って、石田治部少輔様に仕えて近江の彦根におったが、
関ヶ原の戦の時は、美濃大垣城に篭もることになり、家族みんなで篭城した。

城中では不思議なことがあってなぁ。真夜中になると、どこからともなく男とも女ともつかぬ
三十人ばかりの声で、『田中兵部どの…田中兵部どのぉぉ……』とわめき、その後わッと
泣き出すので、夜な夜な恐ろしゅうておぞましゅうてならんかった。
しばらくして後、徳川様の攻め手が大勢、城へやって来て昼も夜もなく戦となったが、
攻め手の大将は、なんと田中兵部大輔吉政というお人じゃった。

石火矢(大砲)を撃つ時は、城の近所にその旨、触れが出たものじゃった。
なぜかと言うと、石火矢を撃てば櫓も動き、地も裂けるほどに凄まじい音がするもんで、
気の弱い女衆は、すぐ目を回して難儀するんで、前もって知らせたんじゃ。
初めのうちは触れがあれば生きた心地もせず、ただ恐ろしや怖やと言うばかりじゃったが、
後には慣れて何とも思わんようになった。

普段は、おらも母者も、その他家中の内儀・娘も、皆々天守で鉄砲の弾を作ってのぅ。
またある日、味方が取った首を天守に集めて、それぞれ名札をつけて分かるようにしたが、
その首にお歯黒を付けにゃならんかった。
昔は身分の高い者はお歯黒を付けたもんで、首を取った者から首の価値を上げるためと
頼まれたのじゃ。
なに、生首なんぞ怖いもんではない、おら達はその首の血生臭い中で寝たもんじゃ。

さて、そうしていると、ある日攻め手より激しく鉄砲が撃ち放たれ、もはや落城じゃ、と
噂が流れ城中、事の外騒がしゅうなった。
そこへ侍頭が来て、『敵影は無くなった、去ったのだ。もう騒がれるな、静まれ。』
と言っているところへ、また鉄砲が撃ちかけられ、おらの十四歳になる弟に弾が当たって、
そのままヒクヒクと痙攣して死んでしもうた。むごいものを見てしもうた……


この後、おあん一家は徳川家で手習い師匠をやった父のコネで脱出を許されて土佐に逃れ、
おあんは土地の侍と結婚し、六十余歳で亡くなったという。
上記は、おあんが語った原文も口語体で記された、落城悲話である。




382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 00:40:58 ID:W1PGHEo+
>>380
助かった人間でもこんな体験してるわけで、実際には悲惨な目にあった人が大勢いたんだろうな…

実録「九戸城の落城」(祐清私記より)

2009年12月28日 01:16

383 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/27(日) 06:08:04 ID:SmoZxO9k
>>382
その悲惨な例

実録「九戸城の落城」(祐清私記より)

九月四日に戦が終わった。城方の降参が決まり明日にも開城である。
篭城する兵、譜代の郎党達は一様に落胆の色を隠せない。
もはやこれまでと人質の父母妻子を見捨てる者もいれば、一方で人質を勝手に連れ出し
落ち延びる者もいる。
宵の月が山の陰に隠れた夜半、彼らは闇夜に紛れて我も我もと抜け道より落ち延びる。
城内での彼らの持場は旗と幕だけを残すのみである。
降参の前に逃げ出した者は、落城の報を聞き事の推移を見極めようと近場に潜伏している。
落人は、ある者は松前、津軽、秋田に。また、ある者自領に引きこもる。それぞれ
思い思いの地に落ち延びる有様である。
足が弱いからと年老いた親、幼い子供を縁故の町人、百姓に預ける者もいれば、
一蓮托生という者もいる。
(続く)

384 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/27(日) 06:12:32 ID:SmoZxO9k
(続き)
本道は監視の目があるので、落ちるには脇道を行かなければならない。
木々を掻分け、道無き谷をよじ登れば、旅慣れぬ老若男女の足の裏は石や枝で傷付き、
足跡は血で真っ赤に染まる。
痛い痛いともう歩くことができずに木陰に伏せ転び、目に涙を浮かべながらそのまま
寒風の中一夜を過ごす。
食料の持ち合わせもなく、歩くこともできず、人知れず山奥で飢え死にする者もいれば、
妻子を殺し自害する者もいる。
食料を得ようと村へ降りて殺される者もいれば、逆に運良く落ち延びることができて
他国で慣れない仕事をしながら生きる者もいる。
いずれの落人も九戸が繁栄していた頃には、肘を張り、肩をいからし、美しく着飾っていた人々である。
九戸という大木が一本倒れて、彼らのような小木千本が残った。小木の末路とはなんと悲惨なことか。

ちなみに落ち延びずに城に残った人達は城ごと焼かれた。




385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 08:23:45 ID:J7SGr3iU
降れば助命するって、浅野の空約束でしょ?

なんか、浅野のってあんまりいいイメージないんだよなあ

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 17:16:29 ID:BzWH+HOH
>>383
リアルだなあ
名のある武将のもとには無数の人生があるんだよな

おきく物語

2009年12月28日 01:14

おきく   
389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 12:36:32 ID:7RAvVMLX
が、こういう女性もいる。

その日、大坂城で淀殿に仕えるおきくは小腹が減って、「ソバ粉の焼き菓子を作れ。」と
下女に命じ、台所に向かわせた。
あわてて戻って来た下女が「玉造口が燃えています!」と言うので、おきくが千畳敷の間の
縁側へ出て見ると、すでに他の方面からも火の手が上がっていた。

時に元和元年(1615)5月、大坂落城である。

急いで自室に戻ったおきくは、着物を三枚ほど袋に詰め、秀頼から拝領した手鏡を懐にして
逃げ出すことにした。
部屋を出ると、物頭の竹田永翁らが黒具足に身を固め、「お女中方、出てはなりませぬ!」
と叫んでいたが、構わず外に出た。

城外は竹束があちこちに立っていたが人の気配はなく、先を急いだ所、急に竹束の陰から
錆び刀を持った男が現れた。
「金目の物を出せ。」と言うので、隠し持った金塊を一つ差し出し、「藤堂殿の陣はどこじゃ。」
(おきくの祖父が、浅井家時代の高虎の上司)と聞くと、「松原口だ。」と答えたので、
連れて行けばもう一つ金塊を渡す約束で案内させた。

途中、常高院(京極高次妻、淀殿妹)が降伏勧告の使者に来ていて逃げ遅れていたのに
出くわし、「お供いたします。」と言って一行に加わり、無事に城外へ逃げることが出来た。


この後、おきくは常高院の縁で京極家出身の元秀吉側室・松の丸殿に仕え、のちに
備前池田家の医師・田中意徳に嫁ぎ83歳まで生きたという、たくましい戦国OLの話。




390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 17:16:29 ID:BzWH+HOH

>>389
雑兵とのやりとりなんか、手馴れたもんだなw
地獄の沙汰も金次第とはこのことか

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 17:32:55 ID:yCWykjXL
予め金塊用意かぃw
冬の陣が終わった時点で逃げゃ金塊渡さずにすんだのにw

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 17:40:06 ID:MYouKdxA
落城寸前まで菓子食いたいとかかなり肝の据わった人だな。
しかもその後の手際の良さといい、淀殿に殉じようとは一瞬たりとも思わなかったようだし。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 17:40:40 ID:h8gvQDPs
夏の陣じゃないと金塊もちだせなかったりして

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 19:24:54 ID:hdW1Vj35
というか降伏勧告の使者送ったタイミングで強襲掛けたのか

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 22:26:35 ID:h8gvQDPs
降伏勧告をうけた後で攻めるのはいくらなんでもまずいからなぁ

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:00:47 ID:oQ7vuB03
>>389
「おきく物語」って残ってるんだよね。
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/nihon/okiku.htm

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:02:42 ID:AHuxj+lS
講談社だったかの戦国クロニクルに、おあんもおきくも載ってたなあ

遠江に賎しい身分の者の妻がいた。

2009年12月27日 00:26

茶阿局   
501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 22:35:20 ID:zj1nO1ZZ
遠江に賎しい身分の者の妻がいた。彼女は賎しくとも大変美しい人であった。
そんな美しい人だから、彼女は土地の代官に「グヘヘ、俺の女にしてやるぜ」と
狙われてしまう。そして、その悪代官は罪をでっちあげて彼女の夫を死刑にし、
彼女を無理矢理に監禁してしまった。

さて代官は「俺の女になれ」とあの手この手で彼女を責めるのだが、彼女は
決して屈しなかった。そしてある夜、彼女は三歳の娘おはちを連れて脱走し、
浜松城に逃げ込んで徳川家康に直訴したのである。家康は「よしわかった」と
彼女の訴えを受け入れ、代官を呼び出して糾弾、罪を咎めて処分した。

さて夫を失い、帰る場所のない妻であったが、なんせ大層な美人である。
家康は彼女をとても気に入り、側室にしたのであった。彼女こそ家康の側室で
ただ一人、家康の死に水をとった於茶阿である。




502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 22:54:33 ID:5X6qny4H
茶阿局と阿茶局
まぎらわしい

豊臣秀吉以来だよ

2009年12月27日 00:23

503 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/25(金) 23:22:04 ID:lvkVEHQc
海運大手・日本郵船には、かつて徳川家の当主(徳川恒孝氏)と
前田家の当主(前田利祐氏)が勤務していて、二人は同部署にいたこともあるそうな。

その時の上司は、「徳川と前田の当主を従えるなんて豊臣秀吉以来だよ」とはしゃいでいたとか。

改めて、信長・秀吉の偉大さを物語るいい?話

財務省・日銀とかでも同じ経験をした人はいそうだな。
確か財務省や世界銀行に勝海舟の子孫がいたし。




504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 23:44:32 ID:VtI7ZOi6
>>503
つ東條英機陸軍大将
参謀総長/陸軍大臣兼務時代の部下に、
ボルネオ守備軍司令官前田利為大将(侯爵)と、
御三卿清水家の陸軍航空士官学校校長徳川好敏中将(日本人で初めて空飛んだ人)がいる

まあ前田中将をいじめ殺したなんて言われたりもするけど

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 23:57:52 ID:lah3g+Td
最上義治氏の絵を持ってるとか
真田幸俊准教授の生徒とか
料亭御花の常連とか

知らないで接してる人けっこういるんじゃなかろか


507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 00:07:11 ID:TFC2EsAr
知らないだけで、気付かずに子孫の方と接したりしてんのかもな
世の中は狭いもんじゃ

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 00:13:00 ID:DjuibA9D
地方の城下町には今でも、有名武将、部将の子孫の方が結構いたりする。

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 00:13:23 ID:/Ule6nw8
生きている人間はみんな誰かの子孫だし
もしかしたら誰かの先祖になるかもしれない
偉業を成し遂げてなくても命をつないできた事自体が凄い
激動の戦国時代はそういう意味でもロマンだね


523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 09:09:56 ID:9/9LnqbC
>>504
ヒデキ直属の部下には甘粕景継の子孫もいたな。
甘粕事件の甘粕正彦憲兵大尉。

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 09:27:46 ID:/cWkobTg
東京の水天宮の宮司は、久留米藩有馬氏の直系子孫。
その宮司の祖父さんは、有馬記念の創始者。


525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 09:39:09 ID:WTULfA1b
大陸に渡ったDQ眼竜の子孫w

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 21:38:53 ID:G8WTCa5z
>504

17代様を二等兵とか近衛の若御所も二等兵・・やりたい放題でつな。

乞食大名鮭延秀綱

2009年12月27日 00:20

494 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/25(金) 12:10:53 ID:w003/1n4
そういや乞食大名の話、まとめサイトに無いんだね。
もしかしてまだ未出だったのかな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 00:04:49 ID:DjuibA9D
>>494
そう言えば出てないね。是非紹介を。

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 00:24:28 ID:hZMzdej0
>>494
乞食大名はあくまでフィクションなんだ。
実際の鮭延は五千石もらったのを、すべてくっついてきた家臣にわけあたえていた。
乞食大名だと家臣の家で養ってもらった、だったと思うけど逆なんだよね。
まあどっちにせよいい話だけども。家臣は彼を慕って鮭延寺を建立したという。

ちなみに鮭延は正室がすでに亡くなっていて、古河にうつってから別の女性とのあいだに
男児をもうけたけど、鮭延家は継がせずに意図的に断絶させている。
また、当初は徳川忠長家老職業五千石を幕府からオファーされていたりするのを蹴っている。
とか考慮していくと、逆にわざと改易ねらった!? という悪い話になっちまったりもするんだよな。
俗説だが、嫡男を義光に殺されたのを恨んでいたとか云々。
ただしこれは義光が、鮭延嫡男の壮大な葬式を出しているし、家臣の嫡男を殺す理由もないから
ガセとされているが。
真相は闇の中…。



511 名前:゚Д゚|!゚∀Y`∀´ ◆k71Imjgdp0b2 [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 00:26:56 ID:vh6o6LDx
乞食大名について書かせて頂きます。ちょいと待ってね。

 人人人人人人人人人人人人人 
> ゆっくりしていってね! <
 ∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨ 

514 名前:゚Д゚|!゚∀Y`∀´ ◆k71Imjgdp0b2 [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 01:01:20 ID:vh6o6LDx
秀綱が江戸神田橋土井利勝邸を宥免されて門を出たとき
垢面放髪、乞食のような集団から声が発せられた。
(´;ω;`)「殿、宥免祝着にございまする・・・」
改易の折、山形で付き従った家臣たちであった。
「おう、その方等息災でなにy・・・」
秀綱は胸がつまり、それ以上何も言えなかった。

数日後、神田川べりに乞食の掘っ立て小屋が立ち並んだ。
近くの人達は、身なりは粗末だが、人品・ふるまいは乞食とは思えず、
いかなる素性の人かみな首を捻った。

掘っ立て小屋の住人は物売りや商人、土方、物乞いなどがいたが、
頭領と見える初老の男を中心に、いつもほのぼのとした空気の中で暮らしていた。

八年後、駿台徳川中間衆がこの掘っ立て小屋の若い娘に乱暴しようとしたところ、
乞食たちが中間等を叩きのめし追い払った。
数日後、数十人の応援を得た中間たちが大挙して押し寄せると
掘っ立て小屋の中からいかつい初老の男が槍をかざして号令した。
(`・ω・´)「下郎共を叩き伏せよ!」
その号令で乞食たちが数に勝る中間に殴りかかった。
(`・ω・´)「鮭延越前勢の戦振りをひよっこ共に思い知らせてやれ!」
なにしろ長谷堂で直江兼続を押し返した猛将の戦い振りに中間達はさんざん痛められ逃げ去って行った。

この騒動の後、剛勇鮭こと秀綱とその旧家臣たちの忠義一徹ぶりが江戸の噂となり、「武士の鏡」としての
秀綱にオファーが各大名より掛かるが
(`・ω・´)「某は最上の臣にて。あしからずお引取りください」
とそれらの使者に対する秀綱の返答は決まっていた。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 01:12:26 ID:qXPbFcLf
いい悪い話スレの投下でコテとかいらんから

516 名前:゚Д゚|!゚∀Y`∀´ ◆k71Imjgdp0b2 [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 01:35:31 ID:vh6o6LDx
秀綱編・乞食大名ファイナル?

しかしこうしてる間にも秀綱も家臣たちも老いた。
時は非情である。
中間どもの襲撃の翌年、人足働きをしていた
下濃(すそご)又兵衛の三男が土木作業中に土砂崩れで圧死した。
その夜掘っ立て小屋に変わり果てた遺体が運ばれてくると秀綱は
草地に伏し、頭髪を掻き毟り号泣した。
(´;ω;`)「ワシのつまらん意地で
有望な若人を死に追いやってしまった・・・」

翌朝秀綱は土井利勝邸の門を叩き
「これまでたびたびのお勧めをいただきながら、
その都度辞退申し上げ、真に失礼仕りました。
今となっては心苦しきことなれど、先行きわからぬ老骨で
どれだけの奉公が勤まるかはわかりませぬが、
この老骨を土井家に飼うて頂けるよう、
かくは参上つかまった次第でござる。」
と言うと一礼した。

利勝は以前からの家禄の5000石で秀綱を家臣に迎えた。

土井家分限帳では
トップ土井内蔵10000石
次席寺田與右衛門6000石。
客分秀綱の大切にされた様が良くわかる。

ところで秀綱は利勝に願い出、この5000石を
山形以来の家臣20名に分け与え、自分は一文も受け取らず、
家臣の家々を居候しながらその生を終えたと言われる。

鮭延寺(けいえんじ)文書に
「14人の家臣に当分に知行を与え」といった表記があるため
最初20人いた家臣も流浪の生活中他界し
14人に減ったとも受け止められる。

海音寺小説の「乞食大名」により上記が有名になったが
実際は5000石の知行を貰った後は300石と屋敷を除き、
家臣に残りの180-190石をほぼ等分に分配し、
最上義光宜しく「友達君主」としての生を全うしたらしい。

あ、鮭延寺(茨城県猿島郡総和町大堤)は
旧家臣が秀綱が正保3年(1646)に死んだとき、
主君土井利隆に頼んで鮭延屋敷跡に菩提を弔う一寺を建立した
その「寺号」だお。




520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 02:16:01 ID:DjuibA9D
いや、面白い逸話だった。ありがとう。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 07:40:22 ID:YgZVF6Aq
>>519
面白かったですよ。
こういう落ちぶれても気概のある男たちの話は好きだ。

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 21:13:35 ID:qqWs6Wu+
>>516
亀レスかつ蛇足だが、
鮭延寺のある旧・猿島(さしま)郡総和町は
町村合併によって現在は古河市になっているよ。

もう一人の乞食大名「北楯大学利長」

2009年12月27日 00:17

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 01:54:30 ID:vh6o6LDx
もう一人の乞食大名「北楯大学利長」

「乞食大名」というと「鮭延越前秀綱」の名前を上げれる方が多いと思いますが
こちらの方も立派の乞食大名かと。

北楯利長・・・最上義光の命により、庄内平野の治水に努め
「庄内の石高を10倍にした男」と評され、義光からは綿帽子をもらい、
自身も義光に鮭をあげるツーカーの仲として知られた。
だが元和8年(1622年)最上氏が改易されると、利長も所領を失い、
庄内に入封した新領主・酒井忠勝からの召し出しを断り
代わりに子の助次郎を薦め、自らは托鉢僧となり俗世に別れを告げた。




南部信直の葬儀と猫塚

2009年12月27日 00:17

526 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/26(土) 10:46:21 ID:kc0sJDVg
慶長4年(1599)、南部信直は福岡(現在の岩手県二戸市)で息を引き取った。
その葬儀を行っていたところ、突然風がゴウゴウと吹き出し、
砂塵を巻き上げながら黒い雲が下りてきて、殿様の棺が空中に舞い上がってしまった。
辺りは真っ暗で、天地も見えない。
「これは祟りか、鬼の仕業か!?」一門家臣は驚き慌てた。
僧侶たちが必死に読経をするものの、一向に変化はない。
家臣団は近所の神社から神主まで引っ張ってきて加持祈祷をさせたが、
棺はプカプカと空中に浮かんだままである。

そこで一人の若い和尚が呼ばれた。
和尚が数珠を繰り念仏を唱えると、たちまち風雲は収まり、殿様の棺が静かに
地面に下りてきたので、葬儀は無事終わらせることができた。
信直の子・利直は和尚に深く感謝し、和尚に引き出物をたくさん持たせ、寺領も30石与えた。

和尚が家に帰ると、和尚の帰りを寺で待っていた母が不思議な夢の話を始めた。
これより少し前のある夜、母の夢枕に和尚が子供の頃から可愛がっていた
30歳にはなろうかという老猫が現れ、こう話したという。
「今までずいぶんお世話になりました。
 私もようやく御恩に報いることができる機会に恵まれました。
 和尚様は出世なさるでしょうが、私はもう寿命もないので、これにてお暇をいただきます。」
その日からトラは寺から姿を消した。
和尚は、一連のことは全てこのぬこのおかげであろうと思い、
寺の鬼門にあたる森の中に猫塚を築き、その霊を崇めた。

浄法寺町のインター近くの福蔵寺というお寺には本当に猫塚というものがあるらしい。
殿様の葬式が庄屋の娘の葬式になったりと、いろんなバージョンの話が伝えられているようだ。
個人的には北爺が腰を抜かしてないか心配になった。

527 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/26(土) 10:51:30 ID:kc0sJDVg
スマン、トラってのはぬこの名前な。



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 11:27:49 ID:iCsmT+VD
南部信直「おのれ妖猫め、ワシをダシに使いおったな!」
いやまあ、それは冗談として、世話になった礼を返した義理堅い猫ですなあ。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 11:39:09 ID:gdwMsE/T
それ
大店だか庄屋だかの娘のバージョンがあるね
昔、まんが日本昔話でやってたよ

どっちが古いのかなあ

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 11:40:49 ID:gdwMsE/T
ゴメン
最後まで読んでなかった

531 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/26(土) 13:36:51 ID:T2t0Wtig
九戸政実の祟りだな

戦国の遺品がなんでそんなところに、如水愛用「合子形兜」編

2009年12月27日 00:15

532 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/26(土) 14:53:14 ID:bhb+Lec1
戦国の遺品がなんでそんなところにという話

福岡藩黒田家の筆頭家老栗山大膳は、藩主忠之をいさめたが聞き入れられず、いわゆる
「黒田騒動」が起きるにいたった。
幕府による裁定で、とりあえず福岡藩は安堵されたが、大膳は盛岡藩南部家預かりとなって
生涯を終えることとなった。
大膳の父は如水の右腕というべき重臣だったので、如水愛用の「合子形兜」を拝領していた。
これは漆塗りのお椀型の兜で、鉢かぶり姫みたいな代物である。
忠之がこれを自分に寄こせと言ったのも、いさかいの原因の一つであった。
栗山家はその後盛岡藩に仕え、更に後、兜を藩主に献上した。
そういう訳で、何の関係もない南部家に、如水の兜が伝わっている。
結局福岡藩には、忠之が作らせた複製品しか伝わっていない。しかも現物の寸法を確認して
制作できなかったので、一部違っている。




533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 15:03:56 ID:I3DkP3RL
黒田忠之、加藤忠広、加藤明成で何かユニットが組めそう

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 16:41:34 ID:rojAa77F
前田綱紀と伊達綱宗が何か言いたそうにみてます

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 19:37:11 ID:Tyal8fin
伊達忠宗と細川忠利と島津光久もユニットが組めそう

戦国の遺品がなんでそんなところに、「諏訪法性兜」編

2009年12月27日 00:14

532 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/26(土) 14:53:14 ID:bhb+Lec1

山形県の新庄藩戸沢家では、縁戚の鳥居家から定盛(鳥居忠政の次男)を婿養子に取ったが、
早世したので跡は継げなかった。
婿入りの時に持ってきた家宝はそのまま戸沢家のものとなったが、それが武田信玄愛用の
「諏訪法性兜」だった。鳥居氏が甲州を所領とした時期に、旧武田家臣から献上されたもの
と伝えられる。
その後は戸沢氏の家宝となったが、戊辰戦争で新庄藩は、隣の庄内藩酒井家の大軍に城下を
焼き払われ、藩主一家は着の身着のままで逃げだすこととなった。
そういう理由もあって、消息不明である。
なお、「諏訪法性兜」と伝えられるものは複数ある。




福岡石見守の奮戦

2009年12月27日 00:12

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 01:47:09 ID:DjuibA9D
天正元年(1573)、信長の越前攻めに朝倉義景はついに一乗谷を放棄、大野へ退くと言う時、
家臣、福岡石見守に二人の娘を預けた。

「一人は、女ながら髪をおろさせ、後々比丘尼として出家させよ。もう一人の喝食(稚児)の姿を
している方は、大阪の本願寺にいる顕幸殿に嫁がせると約束しているので、そこまで送り届けよ。」

しかし福岡
「私にはこのお二人を預かることなど出来ません!死のうとも殿のお供を仕りたいのです!」
と抗議したが、「達ての命である」と言われ致し方なく、急ぎ二人の子女を連れて宿所に帰り、
一首の歌を書き残すと、妻女にも告げず出立した。

『今日出て 廻り合わずば小車の 此輪の内に無しと知れ君』

今日出立して行くが、このまま音信が無くなれば、もはや私はこの世にはいないものだと考えて欲しい。
自信の運命を覚悟をした、別れの歌である。

福岡は御息女を馬に乗せると中間を2,3人連れ豊原寺に向かって進んだ。

ところが途中、落ち武者を狙う野伏達に遭遇、押し留められた。
「おまえたちは何者で、どこに行く!?」
福岡はありのまま、正直に語った。

「ふむ…。で、お主の名は?」

「福岡石見守である。」

「!?、ならば通すことはできぬ!先年我らの村と鳴鹿の村との訴訟のとき、お主は鳴鹿村の
奏者となった。そのため我らはその訴訟に負けたのだ!
今ここでめぐり合った事こそ幸いである!あの時の返報をさせて頂く!」

言うやいなや合図を送り、村より多数の人々が出て彼らを取り囲んだ。
福岡は「多勢にに無勢、ここを無事通り抜けることはできない。」と覚悟を決めると、下人に持たせた
薙刀を手にとり、御息女を逃がすようにと中間に任せ、野伏たちに一人斬りかかった。
彼は多人数を相手に大いに戦い、野伏たちを苦しめた。だがやがて討ち取られた。

福岡が奮戦している間に逃げた二人の息女は、その後方々を流浪したがどうにか逃げ切り、
喝食姿の方は無事、顕幸の妻になった、とのことである。


朝倉家崩壊に際し多くのものが裏切った中で、朝倉義景の命を守り抜き死んだ、
一人の忠臣のお話である。




浅井長政の降伏

2009年12月27日 00:11

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 17:06:50 ID:DjuibA9D
天正元年(1573)9月1日、
織田信長の攻撃により近江小谷城は陥落寸前となり、浅井長政は今まさに
切腹に及ぼうとしていた。

ところがこの時信長より、不破河内守を通じて

『我らは縁者である以上そなたを疎意に思ってはいない。悪いようにはしないので、
ただ兜を脱いで降参なされよ。』

と言ってきた。長政は「このようなもの返答に及ばない。ただ腹を斬るだけだ。」と拒絶したが、
傍の者たち、「信長がこれほどまで慇懃に言ってくるからには、何かの仔細があるのでしょう。
どうかここは降参なさって、お家の存続を図るべきではないでしょうか?」
などとしきりに言うため、長政も「父久政も許されるならば」と、ついにこれに同調し、
百二三十騎ばかりで、降参の体でもって城を出た。

ところが信長、矢倉の上よりこれを見つけると、彼らに向かって

「あれは長政か!?何の面目があって降参するのか!?」

と、声高に叫んだ。
長政は大いに面目を失い、すぐさまその道沿いの赤尾美作の屋敷に入り、自害して果てた。

信長は長政に、この恥辱を与えんがため降伏勧告を送り続けていたのだろうか?

一般には長政は降伏勧告を最後まで拒絶し切腹したとされているが、浅井家滅亡に関して伝わる
異説の一つである。




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 18:57:41 ID:jQOt8u8V
|┃三ガラッ! ____
|┃    |どっきり|
|┃ ≡/⌒\ ̄∥ ̄ミ
|┃ ( 信長 ) ∥ サッ
|┃≡(_》^ω^)E)
|┃=⊂   ノ
|┃≡(_ノノ

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 20:47:22 ID:FFAKAVw5
>>375
不破さん気の毒

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 20:53:11 ID:vx2EV2jQ
信長、二重人格説

379 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 20:59:40 ID:byqSJsF4
赤尾曲輪の位置。

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 00:10:06 ID:+MQzUgek
>>379
これ原文には「赤尾美作の屋敷」じゃなくて、「赤尾美作の衣装部屋」になってるな。

鮭延秀綱のちょっといい話

2009年12月26日 00:04

488 名前:゚Д゚|!゚∀Y`∀´[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 01:00:30 ID:a+DSXneO
まぁ、有名なところなんだが載せておく。

鮭延秀綱のちょっといい話。

最上家の御家騒動で最上家信(義俊)は「奥羽に置ける鎮守の力量無し」として
近江大森と三河の合わせて1万石に大幅に減封された。

最上義忠を当主として最上家再興を願った真室(まむろ)鮭延城主秀綱も主家改易に伴い
土井家預りの身上となった。

数年後、土井利勝は秀綱に切り出した。
「太平の世とはいえ、お主ほどの剛の者を埋もれさすには忍びない。
大身で無いため、5000石程しか御用意出来ないが、家臣として仕えてはくれまいか?」
秀綱はこう答えた。
「某は亡き義光公に才を見出され、先代家親公にも最上の行く末を託された。
義俊様に節を尽くすことは出来なかったが、義光公、家親公に頂いた1万1500石、
米一粒たりとも欠けては最上に対する礼儀を失う。
他家に仕えることは考えておりません。」

この後の話は「乞食大名」で検索してもらった方が早いか。




489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 01:27:46 ID:WeYUHXFI
義俊の愛されなさはちょっとひどいと思う
まあ本人がどうこう言うより家中の派閥争いがひどかったんだろうけど、
もめたら改易食らうとは思わなかったのかね。

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 01:50:21 ID:a+DSXneO
>>489
家親36歳で頓死の時、最上義俊わずか12歳(だったと思う)。
将軍秀忠に顔の利くバリバリの働き盛り(家親)に死なれて、
海の物か山の物とも知らない子供(義俊)よりは、器量人と言われた家親の弟(義忠)に
期待するなーというのも酷な話だ。

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 01:53:27 ID:a+DSXneO
追加:DQ眼竜の甥っ子も最上の改易を聞いて
(●Д゚)<なにも潰すことはねえんじゃないの?
ーと言っていたのも有名な話。

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 02:30:31 ID:3BKadZZq
改易時は結構な大所帯だしなぁ最上。独眼竜も最上家臣、相当な人数
引き取ったよな。

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 04:58:42 ID:bwsBCTRe
幕府の仲裁を蹴っちまったからなぁ

494 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/25(金) 12:10:53 ID:w003/1n4
そういや乞食大名の話、まとめサイトに無いんだね。
もしかしてまだ未出だったのかな。

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 16:45:40 ID:1BMAPNo0
>>492
結構どころか松平忠輝とかを除けばたしか最上家57万石改易が改易された大名の
石高トップなんじゃないかって気がする。
他の改易された大大名って
加藤家(熊本)52万石、福島家49万石、加藤家(会津)40万石、田中家32万石、堀尾家24万石
蒲生家24万石、筒井家20万石、森家18万石、生駒家17万石、中村家17万石
それに本多正純の本多家15万石ぐらいだったとおもうし。

あ、ある意味豊臣家65万石があるか・・・

会田五ヶ郷、殿村遺跡の発見

2009年12月26日 00:03

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 20:19:52 ID:VtI7ZOi6
信濃国小県に、会田という土地がある。
その統治者は海野一族の会田氏ともいい、あるいは同族の岩下氏ともいう。
本城である虚空蔵山城が、武田家に屈した天文年間に誰の支配にあったかも判然としない。
武田信玄によって越後に逐われた会田小次郎幸継であるとする史書もあれば、
永禄十年に生島足島神社に奉納された信濃諸将の起請文に名を連ねる岩下幸広らともされる。
資料や系図ごとに並ぶ会田・岩下一族の名はばらばらで、
現代においても確かなことは分からない。正統争いの末に、何時しか事実が失われてしまったのだ。
戦乱の世に同族相食んで滅んだ家の、宿命のようなものといえるだろう。

その会田五ヶ郷に、近年大きな発見があった。
虚空蔵山城に程近い、平時の会田氏(或いは宗家の名跡を継いだ岩下氏)の居館たる殿村遺跡。
ここで、東日本の築城史を百年近く遡る――というより日本最古級の『石垣』が発見されたのだ。

そればかりではない。
城の遺構、特に堀のあとからは多数のかわらけ(素焼きの盃)や木製の箸が出土した。
これは領主の会田小次郎一族が、頻繁に家臣や近隣の地侍、農民を集めて
その結束を高めるための親睦の宴を執り行っていたものだと推察されている。
さらに戦国時代初期の遺構であるにも関わらず、天目茶碗や茶入れといった茶器の類も多数出土した。
当時、茶道の文化圏は未だ西国や都市部にとどまるものと考えられているこの時代に、
文化圏の中心から大きく離れるこの信州の奥地に到達していた、という文化上の大発見があったのだ。



497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 20:20:51 ID:VtI7ZOi6
これ以外にも、多くの文化的発見がこの一年に相次いだ。
非常に貴重な文化遺跡として、保存の話が持ち上がった。
これにゼネコンと地元政界が猛然と反発した。
そもそも今回の遺跡発掘は、この地に大きな小学校を新たに建設するためのもの。
一通りの調査が終わったなら、さっさと遺跡を壊して建設を始めさせろ。
何百年前の殿様ごとき、なんだというのだ。子供たちが地震にあったら大変だ。
未来の命を守るためなら、遺跡なんぞどうでもいいことではないか。
彼らはそう主張したのだ。

それが今年の三月のこと。
喧々諤々の議論が起こり、その間に政府がころりと転げた。
そうして半年経った十月、文化庁から役人がやってきた。
やって来た彼が出した勧告は、
「非常に地域の文化財の豊富な場所だ」
「周辺の文化財一帯を合せた将来的な町づくりについても考えていかなくてはいけない。
その点では、この地域はメニューが多い」
という二点に力点が置かれたもの――つまり、小学校建築計画の見直しを強く求めたもの。

かくして、殿村遺跡の本格的な学術調査がほぼ決まった。
記録保存のための事前調査ではなく、遺跡保存を前提とした学術調査として。

戦国の歴史に新たな1ページが書き加えられることも近いかも知れない。
そんなちょっといいお話。




498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 20:49:25 ID:yV6EENhY
ちょっとしたコネがあれば辺鄙なとこでも文化人が立ち寄っていたりするんだけどね

解説員とかは、有名な大名のところにしか行かないとか思ってるんだろうなあ

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 21:13:31 ID:5X6qny4H
山口に行けばものすごい歓迎されて贅沢させてくれていたらしいから
西に行く印象が強いのも無理はない

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 21:46:08 ID:eT+d0tKE
茶の文化自体、貿易との関係が深いし、西国イメージはやはり強いね
でも歌に関しては、結構東国へも人が往来してるんだよな
それにしても、発掘の面白さがよく分かるお話だ