増田長盛・盛次親子の大阪の陣

2010年02月28日 00:07

268 名前:(1/2)[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:16:14 ID:LLCPYtkW
増田長盛の子に、兵大夫盛次という男がいた。
関が原後、処罰を受けた父とは異なり、徳川義直に召抱えられた。

さて、大坂冬の陣において、盛次は義直に従って出陣した。
しかし、旧主への想い捨てがたかったのだろうか。
大坂方が弱体だと聞けば涙を流し、寄せ手が苦戦していると聞けば大いに喜んだ。
これを聞きつけた徳川家康は、怒ることなく感心した。
「さすがは長盛の子よ。豊家の恩を忘れぬ志、見事じゃ」

こうしたことがあったからか、夏の陣ではお許しがあり、盛次は大坂方へ加勢した。
彼は豊臣秀頼から賜った赤地錦の羽織をつけ、若江の陣で味方が敗戦するなか、独り奮戦した。
そして、沢田但馬の従者と組討し、今にも止めを刺そうというところで、藤堂高虎配下の磯野平三郎に討取られた。
首を得たものの、平三郎らは盛次の顔を見知らなかった。
やがて、分捕りした刀が、秀吉から長盛への下賜品と分かり、正体も知れたということである。

269 名前:(2/2)[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:17:16 ID:LLCPYtkW
一方の増田長盛。
彼は関ヶ原の折の責を問われ、高力清長に預け置かれていた。
大坂の陣が起こると、清長は長盛へこう告げた。
「あなたは豊家の御恩深い身の上。秀頼様の行く末、さぞ気になるところでしょう。
 大御所様は、あなたが大坂へ入ることをお許しになりました」
盛次のことがあったゆえの沙汰だろうか。
だが、長盛は答えた。
「大御所のご配慮、まことにありがたく存じます。
 しかしながら、ハハハ、今のそれがしはこの通り落ちぶれ、家臣の一人もおりませぬ。
 大坂へ参り、新参の浪人の下知をしたとて、さしたる戦ぶりはお見せできますまい。
 かえって、それがしを重用してくだすった太閤殿下の名を汚すことになりかねず、それこそ無念。
 このまま、配所で生を終える所存です」

やがて、盛次が死に、豊臣家が滅亡したことを、長盛は清長から知らされた。
「この上は命を長らえる理由もない。どうか、お暇をいただきたい」
長盛はそう清長に請い、切腹したという。




270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:19:15 ID:SlIwXkrV
でその時、増田盛次を大坂城に入れた責任を問われて、父親の増田長盛は処刑。

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:34:44 ID:OR1RbpWC
>>269>>270
なんという樅の木は残った。



関連
増田盛次の討死について、『元和先鋒録・附録』より
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3751.html
[ 続きを読む ]
スポンサーサイト

徳川家康、今泉村の小さな寺に

2010年02月28日 00:05

272 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/27(土) 18:52:06 ID:inAtCu7F
家康が浦和周辺で鷹狩りをしたときのこと。
今泉村というところを通りかかると、小さな寺があった。
家康が住職に寺の名を聞くと、住職は片田舎なので名は特にありませんと答える。
家康がふと脇を見ると、軒下に十連なりに野菜が干してあった。
そこで、家康は、
「今日から干菜山十連寺と名乗るがよい。」と名付け、以後、寺を保護したという。

田舎の寺にも名前を考えてあげる家康のいい話・・・なのだが、
名付けのセンスについてはあまりなかったようである。

過去、まとめスレに出てきた家康の名付けの例

また、一番やり→又一と名乗れ。
七の字を書くとき最後に左に曲げた→左七と名乗れ。
本多家に山県昌景と同じ障害を持った子が生まれた。→本多山県と名乗れ。




273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:55:17 ID:aBgqETHL
ネーミングセンス無いってちょっとかわいい(?)よね
付けられた方は堪ったもんじゃないと思うが

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:11:30 ID:1H/hPpKI
奇妙とか茶筅とか・・・

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:28:41 ID:1YWh0T7N
信長のそれはある意味センスあるだろw

家康は実用一点張りって感じ
写実派というかw

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:31:13 ID:Uu8ny0CJ
>>272
山県昌景と同じってことは口唇口蓋裂ってことか
なんにしても某ゲームではあんな美男子なのになあ…当時知ったときはショックだった
幸村も腰のひねくれ曲がった爺ちゃんだったらしいし

水戸頼房の肝の据わったお話

2010年02月28日 00:04

275 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/27(土) 19:18:57 ID:inAtCu7F
あるとき、家康が義直(当時13歳)、頼宣(当時11歳)、頼房(当時10歳)の3人の子を伴って庭を歩いていると、蜂が襲ってきた。
義直と頼宣はあわてて逃げたが、頼房は顔に止まった蜂を片っ端から手でつかんで投げ捨て、ついに一歩も引くことがなかった。

また、あるとき、家康が焼き栗を息子たちに食わせてやろうと思って、囲炉裏の中に栗をたくさん放り込んだ後、三人を呼んだ。
火が回ると栗が勢いよくはじけ、義直と頼宣は驚いて飛び上がったが、頼房は近くに飛んできた栗を囲炉裏に投げ入れ、平然としていたという。

さらに、後年、頼房が家光や義直と狩に出かけたとき、義直が仕損じた猪を一矢でしとめ、
家光から、射撃の名人だった能登守平教経にちなんで、「今能登守」と賞賛されたという。

あのめんどくさい名君、義直公と豪胆な南海の龍、頼宣公がかませ犬にされてしまう、頼房公の肝の据わったお話。

なお、3番目の話を聞いた頼宣は、孫の新之助を、一撃で猪を殴り殺すよう鍛えたそうな。




276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:23:03 ID:wHinKBLb
>>275
> なお、3番目の話を聞いた頼宣は、孫の新之助を、一撃で猪を殴り殺すよう鍛えたそうな。

マジで腹抱えて笑ったw
どんなだw


280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:48:10 ID:1H/hPpKI
>>275
いやいやいや、息子の晩年の末息子をどうやって・・・というか、徳田さんの生まれる20年近く前に死んでなくね?

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 20:19:44 ID:GoNdwPo8
なんだよ!暴れん坊将軍かよwwww

で、熊一撃はマジ逸話?それとも「暴れん坊将軍」?
後者……だよね?

282 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/27(土) 20:52:17 ID:inAtCu7F
新之助が猪を鉄砲で一撃で殴り殺したのは・・・・・・・・・・実話です。

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 20:57:25 ID:Y2y/Dq14
凄いな
海外のサバイバル番組で体重20キロの野生の豚ですら危険だってやっていたのに
猪を一撃で殴り殺すって化け物だなw

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 20:58:38 ID:1YWh0T7N
あの頃の連中っていったら今の軍隊のフル装備40キロとか60キロで戦ってたような
連中だからな

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 21:03:25 ID:1H/hPpKI
吉宗も後継者選びには、苦労したろうね。イノシシ退治したとか、田安さんでも無理でしょ

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 21:04:11 ID:Azu0pyoL
その話どうしてもなんで殴るのかというあたりが引っかかるよなw

[ 続きを読む ]

会津河原田家の最後

2010年02月28日 00:02

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 04:11:53 ID:wHinKBLb
伊南の河原田盛次と言えば、摺上原の戦いのあと会津盆地を制圧し、さらに勢力を拡大させる伊達政宗に対し、
会津蘆名氏の家中において一人頑強に抵抗を続けた、硬骨の勇者であった。

天正十八年(1590)、伊達政宗は小田原の豊臣秀吉の元に参陣、事実上の降伏をした。ここ東北の戦闘は停止され
盛次は危機を脱した。
秀吉が小田原から東北へと動座すると言う事を聞いた盛次は、早速お目見えすべく宇都宮へと罷り越した。
すると石田三成より、「本日中にお目見えをいたしますので、風呂に入ってくるように。」と指図を受けた。

ところでそのころ豊臣軍は戦時体制を解いておらず、誰もが半袴などの軽装でいたが、盛次は
故実を大切にしたため、脇差に長袴と言う姿でお目見えに望もうとしていた。
その姿は酷く場違いで、手ぬるいように見られた。

そして石田三成も、河原田盛次が天下の奉行である自分と同じ治部少輔を考えも無く名乗っていることが
奇怪だと思った。

そのような事のせいか、その日は色々と手違いも有りお目見えすることはならず、その後は
お目見えについて何の知らせも無かった。そのうちに三成より
「今は色々と忙しいので、取り合えす会津に帰った方がよろしかろう。その後こちらから良いように計らいましょう。」
と言われ、仕方なく会津に帰り、しかし程なく死んでしまった。

ところで、盛次には亀丸と言う一子があった。河原田家の郎党達は、会津に新たな領主として蒲生氏郷が
入ってくることを聞くと

「この上はせめて亀丸君に氏郷様に仕えていただき、所領を安堵してもらおう。」

と言う事になり、氏郷の家来の侍を頼んだ。
ところがこの亀丸は美少年であり、この氏郷の家来は亀丸にすっかり心を奪われ、離れがたさに
仕官の話を何かと引き伸ばしにした。これには亀丸も腹をたて、越後へと出奔したが、そのまま漂泊の身となり
死んでしまったそうである。

蘆名などとともに「会津四家」と呼ばれ、長く会津の地で栄えた河原田家の、その不運な最後である。




838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 04:21:45 ID:1YWh0T7N
この時代男で美貌だとロクな事ないな・・

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 04:31:17 ID:+epjpdsS
この後河原田家の中には佐竹さんとこに流れた人もいたみたいね

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 10:09:07 ID:kE1yd8hB
>>838
美形だととりあえず出仕は保障されるよ
そのあとの仕事内容がアレなだけで・・・

美形だと噂される鬼武蔵は信長の(グシャッ

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 11:05:32 ID:1YWh0T7N
>>840
君主のお気に入りの肉尻便器でも屈強な家臣に横恋慕されて
襲われたりするんだぜ?

どんだけ危険なんだよ・・アメリカの刑務所よりケツが寒いぜ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 11:35:08 ID:FPyrd2c2
俺は現代に生まれて良かったんだなあ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 12:04:24 ID:HrP5YEkJ
すると>>842は沖田総司バリのぽっちゃり系(笑い)なんですねわかります

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 12:09:39 ID:Azu0pyoL
しがない橋守として生きるでござる

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 12:46:13 ID:qqUJtOeW
清十郎、名古屋山三郎、亀丸と蒲生氏郷は美少年に縁があるんだなあ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 14:19:00 ID:7fEXyOrX
>>840
ご主人様のお手つきを心待ちしていたところ
とうとう暗がりに連れ込まれてドキドキワクワクしていたら

「ぬし、姉か妹はおらぬか?」
とのご下問を受けたでござるの巻

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:19:48 ID:m0zawFBG
お手付き心待ちどころか、そっちに目覚めさせる任務のはずが姉妹聞かれてズコーって話だろ

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:26:27 ID:1YWh0T7N

>>846
美少年好きなところまで信長そっくりだよな

秀吉「 おしーりペンペン!」

2010年02月28日 00:01

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 12:19:37 ID:BKC2AnPu

小牧・長久手の戦があった時の事。
小牧山に陣を引いた家康との睨み合いに業を煮やした秀吉、家康に決戦を呼びかけると言い出した。

秀吉「我が陣の後ろに柵を作り、一歩も退かぬ決意にて戦いをいたしたい。と家康に呼びかけよ」

まぁ、真正面から戦えば兵力が違う。明らかに秀吉の勝ちである。
秀吉自身、本気で決戦を呼びかけているのではなく、「悔しかったらかかって来いや」という挑発のつもりなのだろう。
この時代、こう言った「口合戦」と言われる挑発合戦は盛んに行われており、武田信玄や北条氏康、上杉謙信と言った超一流所もこれを禁じるホド、兵士の士気に洒落にならない影響を与えるモノであった。

こう言った事情を良く知る秀吉陣営の高山右近、細川忠興らは皆必死に止めるのだが、言い出したら後に退かない秀吉、忠興に命じて挑発の手紙を徳川の陣の目の前に置いてこさせた。

暫くして徳川から返事が届いた。
その返事は家康からではなく、渡辺守綱、水野正重の連署となっていたのだが、

「勝手にすれば? っつーか後ろに柵を作るって何? そんなコトしなくちゃ皆逃げちゃうの? その発想スゲーわ、三河者は誰一人、一歩も退かないからそーゆー発想が出てこねぇwww」

激怒する秀吉と、だから言わんこっちゃない、とため息を突く右近&忠興。

しかし次の瞬間、激怒した秀吉は数名の小姓のみを引き連れて本陣を飛び出した。
あっけに取られる周囲の者を尻目に、家康の本陣目の前に進み出ると……

おしーりペンペン!

三河兵「あ、あれは秀吉! 撃て、撃て~っ!」

弓矢鉄砲の飛び交う中、秀吉は悠々と戻ってきて

秀吉「天下の大将軍に弓矢など当たるモノではないわ」

と高笑いしたという。


めんどくさい人達との挑発合戦に一勝一敗の秀吉さん。でもめんどくさい人達は挑発のつもりはなく、素で言ってそう。w
いい話なのか悪い話なのか……とりあえず右近や忠興は胃が痛くなってそうだから悪い話に置いておこう。




847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 14:01:05 ID:HrP5YEkJ
>>845

やられてもただでは転ばないどころか倍返しな秀吉のいい話ではあるw
これが晩年耄碌してくると落首書いただけで倍返しどころじゃ・・・

丹沢正忠と家康

2010年02月28日 00:00

852 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/27(土) 19:39:13 ID:inAtCu7F
武田家の旧家臣で後に家康に仕えた丹沢正忠は鷹狩りのエキスパートで、家康が鷹狩りに行くときはいつもお供をした。

ある日のこと、
丹沢正忠「この道の先は行き止まりです。」
家康「わしは幼いときから駿河に住んでおり、道もお前よりよく知っておる。この道が正しい。いいからついて来い。」
しばらく行くと・・・・・・・・・・やっぱり行き止まり。
家康「何で行き止まりといわんのか。」
丹沢正忠(さっき言ったよ!)

また、しばらくして、獲物の偵察に出た丹沢が戻り、
丹沢正忠「この先に獲物はいません。」
家康「まあ、帰り道だし、このまま行くか。」
しばらく行くと・・・・・・・・・・鳥がいっぱい。
家康「いるじゃないか。なぜいないといったんだ!」
丹沢正忠「さっき見に行った時はいなかったんです。後から来たんでしょう。」
家康「そんなことは、とっくにわかっとる。」
丹沢正忠(じゃあ、言うなよ!)

この後、城に帰った家康は、「今日は、丹沢と口げんかをして、楽しかった。」と語っている。
丹沢にしてみればたまらないだろうが、家康も、口げんかと表現するあたり、自分が逆切れしていたことはわかっていたようである。




853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:42:37 ID:Azu0pyoL
主君が口喧嘩しかけてくるとかたまんねーw

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:45:43 ID:1H/hPpKI
軽くいじめても逆恨みされない人材と思われてたんでしょうかな

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 20:19:19 ID:L6UTzMu8
三河の連中とじゃこういうやり取りにはならんだろうからな。

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 20:22:13 ID:EYbPHkzE
丹沢正忠は現在の福生市に知行を与えられた旗本田沢氏(改姓した)の祖か。
何石取りかわからんけど面倒臭い三河武士たちに言いたい放題言われるのが
日常の家康には重宝されたんじゃないだろうかw

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 21:06:27 ID:kTOQN0z9
ツンデレ家康

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 21:20:13 ID:iHvQlNpH
1.その場で出奔
2.恥辱だ!腹を切る!!と騒ぐ
3.やってられん!隠居だ、隠居!!と騒ぐ
4.目クラな主君などに仕えておれるか!と面罵

三河武士に同じことをした場合の予想される結果

859 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/27(土) 22:02:00 ID:AT7HJW4N
>>852
前の職場で俺、丹沢さんみたいな扱いだったからちょっと同情する。
やるほうは「こいつにはこれくらい大丈夫だろ」と思ってんだろうな。

和歌山、元寺町の土手

2010年02月27日 00:09

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 00:13:00 ID:6YDDlcV7
紀州和歌山の元寺町には、かつて土手が築かれ、その上に生垣が植えられていた。
しかし、和歌山の町の発展に伴い、不便であるとして町人から訴えがあり、あるいは堤を崩し、
あるいは生垣を取り払って道を作った。

ところが、それを見て嘆息して嘆く老人がいたので理由を聞くと、老人は涙ながらに答えた。

「この土手は、浅野候がおられた頃は、松の並木しかなかった。それを藩祖・頼宣さまが
『要害として心許なし』と考え、みずから縄張りして堤を築くことにしたのじゃ。
しかし、なお不安に思った頼宣さまは、立花左近将監、真田伊豆守、両大将のもとに
当時の和歌山の絵図面を持参し、縄張りの教えを乞うた。

然るに、お二人から『元寺に土塁を築けば、言うこと無し』とのお答えを頂いた頼宣さまは、
『わが工夫、当たっておったか!』と喜び、いや高く堤を為し、竹垣を植えて犬猫もめったに
土手へ上がらぬよう築かれたのだ。

藩祖が縄張りし、名将二人が太鼓判を押した堤が消え行くこと、時の移ろいに涙せずには
おれぬわい・・・」




818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 00:20:31 ID:76RikIN+
>>815
なぜか
子供の頃は仰ぐようにでかく見えたデパートが、
スス汚れたシャッター下ろして空き店舗になってたことを思い出した

833 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/26(金) 17:54:50 ID:64svUUIN
>>815
これって豪華だよな
いずれも篭城で名を馳せた実父、軍神ともいえる養父に勇猛な弟と鬼の如くの嫁を持つ
戦場で不覚無しの名将二人のお墨付きだから老人が嘆息するのもよくわかる

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 20:46:18 ID:lBZNSwhI
>>833
嫁に思わず二度見してしまったw

織田信長、光秀婦人を

2010年02月27日 00:08

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 10:04:21 ID:MVMp+P7H
十数年記憶の片隅にあった話を投下してみる。
話の出所や詳細はほとんど分からないんで、
聞いたことがあったり似たような話をご存知なら補足していただけると幸いです。


明智光秀が織田信長の家臣になった頃、
光秀の奥さんは美人だと織田家中で噂になっていた。

これを耳にした信長は、
一目見てみようと廊下の角で光秀夫人が通るのを待っていた。

やがて彼女がやってくると、
角からいきなり姿を現した信長は、彼女の顔をまじまじと見つめだした。

「ほう、噂どおりなかなかの器量良しよ。」

始めは我慢していたものの、
あまりにもジロジロ見るのでついにキレた光秀夫人。

「無礼者!!」

一喝と共に平手打ちを食らわせ、
唖然とする信長を尻目にその場からさっさと立ち去っていった。

呆然と立ち尽くす信長は、ポツリとつぶやいた。

「なるほど、光秀はいい奥さんをもっておるわ。」




829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 10:27:44 ID:dhmpEFdP
セクハラ親父信長

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 10:44:28 ID:Jlp9Vh6I
>>828
信ちんってデバガメだったんですね_

平戸城の焼失

2010年02月27日 00:07

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 10:44:28 ID:Jlp9Vh6I

さて、ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1266400609/206 がらみで思い出した悪い話

長崎県の平戸にある平戸城と言えばあの松浦家の居城であることは有名だが
この城は安土桃山時代に松浦鎮信(法印)が心血を注いで建設した物の
完成直前になって突然その鎮信自身が火を付けて全焼させてしまった。

この理由については松浦家にも良い史料が無く真相は不明
関ヶ原の合戦後、嫡子・久信を徳川家康がなかなか帰国させてくれないので
疑われていると思った鎮信が嫌疑を晴らすために城を焼いたとも言われている
(が、久信は京で急死している 家康の疑いが晴れずに自殺させられたとも)

その後城の再建が許されたのは約100年後の元禄時代になってから。




示現寺の怪異

2010年02月27日 00:05

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 16:29:03 ID:KS4CzbBl
会津、喜多方の示現寺といえば、天授元年(1375)に、殺生石退治でも有名な源翁心昭和尚によって開山された、
東北の名刹である。
ところがこの寺で殺生石の謡を歌えば、必ず怪異のことが起こるのだと言う。

加藤明成の頃のこと。

江守金太夫と言う謡を良くするものが、喜多方に湯治に赴き、その折、この示現寺に遊んだ。
この時寺の住持に源翁行状記を読み聞かせてもらい、これに、

「その本には、垂示(禅宗の師家が大衆に教えを説くこと)の充実が熱心に説かれています。
それに対して殺生石の謡は、垂示が大きく衰えた時の話です。
ならば、この謡は源翁和尚の意に沿うものではないのでしょう。それ故に和尚の神霊がこれを受け入れず、
怪異のことが起こるのではないでしょうか?」

と、自分の解釈を語った。
住持やこれを聞いた人々、「なるほど、怪異が起こるには必ず理由と言うものがあるのだなあ」と、
大いに納得したそうである。

で、理由が解っても特に怪異の解決はしなかったようである。




834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 17:56:07 ID:mI8no7Zx
>>832
不覚にもオチに笑ったw

福岡城の天守?

2010年02月27日 00:04

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 02:11:52 ID:1fjA9n1J
このスレのアイドルの一人である細川忠興が手紙魔で
息子の忠利とこまめに手紙のやり取りをしてたのは有名な話ですが、
転封時の年貢問題で揉めに揉めて犬猿の仲になったお隣の黒田長政の行動を
半ばストーカーのように監視しては(こき下ろしながら)報告し合っていたのもたぶんよく知れた話だと思います

さて、その黒田家、二代藩主の時代にお家騒動を起こしたどさくさの時に都合の悪い文書を処分してしまったのか、
長政時代までの資料にやや乏しいところがあるようです(遺言状も偽書疑惑があるくらい)
黒田如水・長政が筑前に加増転封されて間もなく築城にかかったのが別名舞鶴城こと福岡城です
この福岡城、その規模も石垣も相当立派な52万石にふさわしい名城だったようなのですが、天守がありません
1646年に作成された『福博惣絵図』に天守が描かれていなかったため、最初からなかったというのが通説でした
ところが近年になって、細川親子の往復書簡の中に「ふく岡の天主、又家迄もくづし申し候。」という一文が発見されます
福岡城には天守閣があったんだけど長政が幕府に気を遣ってぶち壊した説が浮上しました。
(ちなみにこの書状の前年に福島正則が城の改修問題を理由に改易されたことも無関係ではないかもしれません)
現在、福岡城の天守閣論争はいまだ決着がついていないようですが、
細川親子が黒田家について細かく情報交換をしていたおかげで、新たな可能性が示されたわけです
さらに、毛利輝元が1611~1612年頃、密偵を使って九州の諸藩の城郭位置を調べさせた記録が発見され、
そこにも福岡城の天守が描かれているそうです

ちなみに福岡城は1601年に築城が開始され、1607年に完成しています
1604年に亡くなった黒田如水はその完成を目にすることはなく、
1602年に誕生した黒田忠之は城が完成してないので、実は筆頭家老であるあの栗山さんちで生を受けたとか

個人的には、父と同じく吝嗇家ではありながら見栄っ張りな性分に見え隠れする長政が
あれだけ立派な天守台を作っておきながら、天守閣を立てなかったとは思えないんですけどね




207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 02:51:28 ID:tWngrnu0
「長政は変わりもんだから、そういうこと(天守破壊)もやるだろう」って書かれてたってやつかな。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 02:53:05 ID:47OcUZ6C
>>207
そうなると、長政からしちゃ、まさしくお前が言うな、な文だなあ。

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 03:24:09 ID:K8L6PN/u
大坂の陣で天守が砲撃目標になった戦訓から
実用性を考えて天守撤去とかした可能性は無いだろうか?

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 03:43:05 ID:tWngrnu0
大坂城普請の部材に転用したっていう噂話があったらしい。

大塚一族の生き方

2010年02月27日 00:03

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 09:57:12 ID:u8cIdJIO
伊達政宗の家臣のお話
政宗の家臣に大塚宗頼という者がいる。宗頼の父は天文の乱において中野宗時、牧野久仲、桑折景長と並ぶ最高の功労者として名をあげた。
宗頼も伊達家に仕え、政宗の信頼厚い人物であったが、岩出山移封の時、自分が老年であったので
未開の地で土地を開拓していく自信がなかった。
政宗に帰農の申し出をして、自分は置賜の地に残る事にしたが、代わりに自分の息子二人をついて行かせる事にした。
政宗はこれを許し、息子二人には名家に相応しい知行を与えようとしたが、この息子二人は
「父は帰農し、大塚氏は断絶しました。私たちは新しく大塚家を建てただけですのでそのような立派な知行はいりませぬ」
と頑なに断った。政宗は納得し、この二人にはほんの少しの知行180石を与えただけにしたが、
代々伊達家に仕えてくれた大塚氏の事を思い、長男の方には「伊達一族」の格式が与えられている。
男気がある大塚氏とそれを高く評価してくれた政宗のちょっといい話?




雑談・一ノ谷形兜の事などについて

2010年02月27日 00:02

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 13:16:01 ID:8vvH5+QA
武将兜ペーパークラフト無料ダウンロード 
ttp://www.yonezawa-naoe.com/information/080813.html

徳川四天王の二人目、榊原康政が登場。 
以後は井伊直政→本多忠勝の予定。 



214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 19:42:59 ID:ZQ0pIszw
>>212
黒田長政のなら黒い厚紙ペタッとはればできそうだな

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 20:04:02 ID:2LhlYkWX
>>214
ワロタ

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 20:24:37 ID:hlwC5mYe
天地人の企画なんだから、兼続のはベースボール前立ての兜も作るべき

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 20:44:34 ID:FnS/7hxi
>>214
大水牛のでも角が結構大変だし、兜鉢も桃形だからそこで転用できるのはないと思うけど・・・一の谷も構造が難しいんですよ?

一の谷は、歯磨きチューブの使い終わりによく似てるw

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 20:48:22 ID:ryUBB9NV
>>214
一ノ谷形兜だよね
一ノ谷形兜っていうと黒田長政のが有名でさ、なんじゃこれwって話題になるたびに
「当時の流行だよ、義経の一ノ谷での活躍をイメージ化した由緒正しい意匠だよ」みたいに
言われるけどさ
こないだ読んだ甲冑の本に「一ノ谷形」兜が複数載ってたけど
黒田以外はもっとおとなしくて、形も工夫されててなかなかスタイリッシュな兜だったんだよ
これは流行ってもおかしくないな、と思った
みんながみんなソーラーパネルみたいじゃないんだよ
なのに黒田長政の兜ばっかり有名になって、また子孫が似たような形のを愛用するもんだから…

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 21:03:19 ID:KS4CzbBl
>>218
この肖像画の力もあるよね
http://www.sengoku-expo.net/portrait/images/L/004-q02.jpg
0226長政
長政の苦虫を噛み潰したような表情といい兜のインパクトといい、傑作だわw

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 21:04:50 ID:q9tjcJF6
馬のたてがみって結ぶもんなん?

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 21:11:13 ID:QnYhq1Ac
くるくる回ってレーダーになるんじゃないの?

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 21:18:33 ID:1fjA9n1J
>>219
その絵は幼少時から長政とともに育った側近中の側近で義弟の黒田美作が長政一回忌くらいに描いたものだから、
適当な絵師が伝聞とかおぼろげな記憶を頼りに描いた他の肖像画に比べるとおそらく本人の姿に忠実なんだと思う

一ノ谷の兜は、半兵衛→正則→長政と渡っているんだよね、確か
長政が交換してもらったのはレプリカらしいが

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 21:21:46 ID:FnS/7hxi
後の福岡藩主がつくらせた、長政の兜のレプリカ。
現在東博所蔵品の画像。

ttp://image.tnm.jp/film/1024/C0051145.jpg
ttp://image.tnm.jp/film/1024/C0051146.jpg
0226一の谷01 0226一の谷02
てっぺんがかなりオーバーハングしてるのがわかると思います。

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 21:23:03 ID:vZMOWD1R
>>220
競馬中継見なさい

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 21:37:18 ID:QaUb4ziH
>>222
じゃあ、あのしかめっ面が長政のデフォってことか・・


227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 22:02:37 ID:lBZNSwhI
>>226
まぁ、何事につけても親父さんと比較されてダメだしされてりゃそんな顔にもなるわな。

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 22:44:33 ID:r5vH1VDH
単純に
苦み走った俺シビィイ、俺カッコええ、なのかもしれんけどなw

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 22:47:07 ID:P63uiLM5
若殿は自分に自信が持てないから自然体で居られないのだ
暴虎馮河の行いもその裏返しよ、大殿と比べるととてもとても…

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 22:56:59 ID:tzwGmNeT
又兵衛自重w

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 23:14:41 ID:eV2RmtHd
能力だけなら経歴見ても実績見ても戦国最高クラスだからなー>官兵衛
初期の寡兵での戦いでもすげぇ勝ち方してるし大軍運用させても隙がない

官兵衛が織田にいたら最低でも明智は超えてるだろ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 23:18:30 ID:1fjA9n1J
如水さんはここ一番でポカが多いというか、いまいち出世できないタイプだからなあ

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 23:20:54 ID:f0qHaXOf
何でも切れる妖刀みたいな奴に大権持たせる奴なんてそうはおらん

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 23:23:32 ID:47OcUZ6C
妖刀如水……うん、ありそうだ。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 23:23:37 ID:eV2RmtHd
ラスボス全盛期の如水の見極めがハンパなかっただけじゃね

酒井忠次と信長

2010年02月26日 00:09

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 01:34:00 ID:Iuv63Z4R
酒井忠次と信長


長篠の合戦(設楽ヶ原会戦)直後のこと。
鳶ヶ巣山の奇襲を成功させ、武田軍を設楽ヶ原におびき出す大功を立てた
徳川家四天王筆頭酒井忠次に、信長がねぎらいの言葉をかけた。

「おお、酒井殿!此度の貴公の働き、見事であった!
 まるで後ろに目があるかのようであったぞ!」

忠次はニコリともせずこう答えた。

「いえ、後ろに目はありません」


( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)
あまりの空気読まない発言に居合わせた諸将、呆然。
( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)


一方、信長は空気を読んだ。

(;´ー`)
あ、うん。ごめんね。
別にそういう意味で言ったわけじゃないんだ。
えと、今日はお疲れ様。



当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった織田信長の面前での
この振る舞いに、世の人は忠次の豪胆を讃えたという。



三河武士、かくの如し。




174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 01:41:34 ID:i4MzDWyv
>>173
そんな忠次さんも三河衆の中ではかなり社交的な方なんだよ!
得意技「海老すくい」で、何度殺伐とした場を和ませてきたことかw

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 02:15:31 ID:lLvC4f9O
どれ……戦の終りを祝ってひとつそれがしが……

おっ 出ますぞ!
酒井様の「海老すくい」が!!

はぁ~~~ 浜名の~うみ~~~に
そい~そいっ


177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 03:26:24 ID:lZHnDqaJ
>>175
これはこれで味があるものでござるなボヒヒヒヒwwwwww

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 09:02:36 ID:XtQBLR92
>>175
さすが酒井様、俺たちに出来ない舞を平然と舞って見せるッそこにシビれる!憧れるぅ!

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 11:13:02 ID:Q5z6k+/H
>>175
殿以外の人間に褒められる訳にはいかんということか喃。
別組織の親分に褒められた挙句に身を滅ぼした義経の例なんか、
武士ならよく知ってるだろうし。


181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 11:47:01 ID:eLhHNsGI
実はめちゃめちゃ緊張してたとか……ないか、三河武士だし。

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 12:12:33 ID:+rTdDHwd
>>180
義経が滅んだ理由はまた違うと思うけど・・・スレ違いなので遠慮しときます

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 12:18:37 ID:SaXVchiX
>>173
忠次が安土城を見て「大したものではありませんな。」と言った、という話を聞いた
家康だったか信長だったかが「ああ、あいつならそう言うだろう。」と答えた話がなかたっけ?


184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 13:07:11 ID:jTGTU1Cq
まぁ、ドヤ顔で言ったんじゃなくて
冷や汗だらだらで言ったんだと思う
そういうやせ我慢って割と尊重されるし

じゃなかったら家康がまず許さないと思う
平然と言う様なら尊大で無礼なだけだから

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 13:23:09 ID:mKh4Dgv0
>>184
そこまでやせ我慢て印象もないなぁ
素で爆弾発言しても嫌味や尊大な態度にならないのが天然物の凄さだと思う
無骨なキャラは逆に大事にされるって愛されるっていうか
「自分、不器用ですから…」みたいな

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 23:48:54 ID:11u1C/Np
海老すくい踊りってどんな踊り?
大河ドラマとかで披露されたことあるかな?

にゃんこさん、太田道灌を導く

2010年02月26日 00:08

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 13:26:44 ID:inEfsfs/
関東では超メジャー武将の太田道灌。
多数残る逸話からは才能をひけらかし、しかも結果を残してしまう有言実行のヤな奴という印象ですが……


ある時、道灌の娘が疱瘡の病にかかった。
「ね、ねぇ、大丈夫? 苦しくない? パパに何か出来る事ない?」
可愛い娘の為に、わざわざ京都から疱瘡に霊験があるという一口稲荷を勧請して江戸城内に祭った。
現在の太田姫稲荷神社である。


ある時、道灌の妻が男の子を産んだ。
「よぉし! パパ、息子の為に頑張っちゃうぞっ!」
可愛い息子の武運長久を願って八幡神社を建てた。
現在の誕生八幡神社である。


ある時、江古田原で豊島泰経と戦をした。
散々に追い散らされ、道灌は自軍とはぐれて一人、道に迷ってしまった。
と、目を巡らせたその先に……
「にゃ~ん」
「ねこ~~(はぁと)」
もう回りは見えていない。既にココが戦場であるコトすら忘れてしまったようだ。
「ねこさん~~もふもふさせて~~」
猫の方は鎧武者に抱っこなんかされたくない。当然逃げる。目をハートにして追う道灌。
猫が飼われていた寺に逃げ込んだ時、ようやく道灌はココがどこだか気がついた。
自分の位置さえ判れば軍勢と合流するのも簡単だった。
「殿! ご無事でしたかっ」
「う、うむ。そこの寺の猫が道に迷った私を皆の元まで導いてくれたのじゃ。これは仏の導きに間違いない。
この戦、勝ったぞ!(もふもふしたかったのに……)」
「おぉ~~~!!」
士気の上がった太田軍は見事逆転勝利を収め、豊島氏を滅ぼした後、その寺に地蔵堂を寄進した。
現在の自性院の猫地蔵である。


敵にも上司にも厳しかったが、子供と動物には弱かった太田道灌である。





187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 15:41:41 ID:VOkMJT4d
ちょwww
我が子の幸福を願って神社建てまくるのはともかく
仮にも戦場でしかも敗走中なのに
もふもふを追いかけるなんて何と暢気なwww
だが、気持ちはわかる!

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 17:01:26 ID:u+QR3Z/P
竹を求める数寄者が居るのだから猫を求める好き者が居ても見事だと感心はするが少しもおかしくない。

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 17:29:01 ID:cES4Pvgc
戦場で竹を求めるのも猫を求めるのもどっちもおかしいとは思うが、だがそれがいい。

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 17:32:06 ID:rV8PAXOF
敵から逃げる中で、猫と追っかけっこをする人間がいてもいい。自由とはそういう事だ。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 22:08:02 ID:3+qGwjnD
>>191
ロジャー乙

阿部忠秋、転属命令を拒否する僧に

2010年02月26日 00:07

193 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/25(木) 19:15:45 ID:FCValMqL
阿部忠秋のエピソード
ある寺の僧侶が他国の寺へ転属する様命令を受けた。ところがこの僧侶、どういう訳か頑として
この命を聞き入れなかった。そこで忠秋は松平信綱と共に説得に向かった。
最初に信綱が僧侶に理路整然と僧侶に転属の理由を述べ説得したが・・・
僧侶「信綱様の申される事、一々最もだと思います。」
信綱「おお、では転属の件、受けて頂けますな?」
僧侶「だが断る!拙僧の最も好きな事の一つは理路整然と理由を話せば納得するだろうと思っている者に
  「否」と断る事です。どうしてもと申されるなら他の方を転属させればよろしいでしょう。」とかえって反発してしまった。

今度は忠秋が説得を試みた。
忠秋「「誰だ」って聞かれる前に自己紹介しますが私はおせっかい焼きの阿部忠秋!同僚の信綱殿が心配で付いて来た。
   僧侶殿、どうしても他の寺へ行きたくありませんか?」
僧侶「たとえこの事でお咎めを受ける事になろうとも、ここから離れる気はありません。」
忠秋「では咎めとして御坊には転属を申し付ける!これなら文句はありますまい。」と忠秋がいったとたん、僧侶は笑いながら
僧侶「これは一本取られましたな。知恵伊豆様(信綱)より豊後様(忠秋)の方が上手ですね(知恵がある)。
私もクールに去るとしましょう。」
と話を受け入れたという。上手く相手の揚げ足をとった忠秋のいい話。




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 19:37:26 ID:wFCamCAf
俺が信綱なら、このクソ坊主を叩き斬ってやりたいw

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 20:55:13 ID:3lmPwJE/
>>193
文章の感じからして忠秋が僧侶に向かって「コイツはくせぇー!」とかやるのかと思ったが、
さすがにそんなことはなかった

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 21:06:46 ID:jo1znmYw
理由が分からないからどうしてもただのへそ曲がり坊主にしか読めない。
禿頭に落書きしてやりてえw

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 21:14:36 ID:jTGTU1Cq
こういうの好きそうなのってやっぱ禅僧かなぁ

松本図書助氏輔が討死したわけ

2010年02月26日 00:05

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 00:40:35 ID:Q9fNAjel
>>787
待ってました松本図書助

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 00:47:46 ID:SLv4aaG9
と、図書助だと・・・

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 01:16:03 ID:Q9fNAjel
あの本を殿に届けてくれよ! あれは、いいものだぁ!!
って言いながら死んだらしいな



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 02:33:54 ID:i4MzDWyv
>>797-799

では図書助さんの話を

松本図書助氏輔が討死したのは、その父右京のためだと言う。

ある年、那須が白河を攻めたとき、白河方への加勢として会津より、佐瀬氏とこの松本右京が派遣された。
ところが、佐瀬氏の勢の働きは諸事キビキビとしていたものの、松本右京の勢は働き甚だ鈍く、人々はこれを
大いに嘲笑した。
敵である那須方からは

『佐瀬殿は聞及しよりも無慈悲な人だ。しかし松本殿の御慈悲によって、我ら那須勢は多くが無事国に帰ることが出来た。
松本殿のご芳志には、かたじけなく存じております。』

と言う、嫌味たっぷりの落書を出される始末であった。

さて、時過ぎて松本図書、ある時鷹狩に出かけたおり、地下の女童たちが磨臼を引きながら歌を唄っているのを聞いた。
その歌は

『松本殿はするす米、敵だに見れば引け引けと~』

こんな内容だった。
するすとは米のモミを取り除くこと。モミを取るため米を引くのとかけているわけだ。

図書は、父の汚名が今だ消えていないことを知り、これを深く恥じた。
そして討死をして家の汚名を注ごうと心に決め、程なく討死をしたとのことである。




803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 12:00:25 ID:dlQ6QRrk
>>800
己の身より名を惜しむいい話だな

こんな逸話があるのに信長の野望での扱いが・・・(´・ω・`)

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 12:20:31 ID:Q9fNAjel
>>800
全米が泣いた

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 12:26:15 ID:pge/KgLK
>>803
ちょっと悪い話

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 13:02:42 ID:jTGTU1Cq
>>803
ほぼまるっきりの犬死にだから悪い話だと思う

遅れて千宗旦家にやって来た清巌宗渭を出迎えたのは、

2010年02月26日 00:03

千宗旦   
809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 18:15:01 ID:Erwxtxr1
>>776
遅レスだし悪い話かは微妙だが、逆に宗タソが怒られる話。

ある日、千宗旦は禅の師・清巌宗渭を茶席に招いたが、清巌は所要が出来てしまった。
遅れて千家にやって来た清巌を出迎えたのは、
「あいにく、主人は出かけました。明日、またお越し下さいとの事です。」という宗旦の使用人のみだった。

「明日って…それでも茶の湯の宗匠かい。」
大徳寺170世住持という禅宗の頂点に立ち、茶の湯を細川三斎に学んだ清巌に、そんな言い訳は
通用しない。清巌は紙と筆を所望すると、宗旦あてに書置きを置いて去った。

懈怠比丘不期明日
(懈怠の比丘、明日を期せず=わし、遅刻するようなナマケ坊主じゃけぇ、明日の約束なんて知らんわ。
『今日』約束したら、『今日』茶席を開くために全力尽くすのが、茶の湯の心と違うんかい?)


これを見た宗旦、感じるところがあり、一句詠んで大徳寺に駆けつけ、清巌に不心得を詫びた。

今日今日と 言ひてその日を 暮らしぬる 明日の命は 兎にも角にも


現在、裏千家最高の格式を誇る茶室、『今日庵』の名は、この話に由来するという。




810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 21:00:51 ID:GRSHGU9Z
遅刻されたほうにこんな事書かれたら溜まらんな

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 21:18:48 ID:RQqhpF1v
ちょうど姉妹スレのほうも坊さんの話が来てたな
坊主めんどくせぇw

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 22:31:03 ID:D1De4RBe
坊主と三河武士の共通点はそこか!

それで一向一揆があんなに・・・

週刊ブログ拍手ランキング02/17~/24

2010年02月25日 00:06

02/17~/24までのブログ拍手ランキングでございますー


福島正則「それは違う」 57

古田織部の罠 55

忍者の修行は大変でござるよニンニン 52
金上盛備、めごい。 49

流石イトコ殿は容赦がなかった 44
槍の話その一 43

謙信の願文 39
真田昌幸の策 39

伊奈忠次エピソード三話 33
早雲様のありがたいお言葉~友について~ 29
細川忠興「希首座」 28
角田の臼 26

脇坂治兵衛と老母 24
本多忠勝「ぬるい奴らは」 23
加藤清正「あれはしずヶ岳の戦いの時だ」 20
遠路ご使者とお便りありがとうございます。信繁 20
が、いきなり正重がキレた 20

この男の場合は並ではなかった 19
大将は日頃から 18
合計 1309


今週の1位は福島正則「それは違う」
正則さんの三成を擁護したお話。正則の武人としての性格がよく出ていると思います。
最初に罵ったのも、へこたれていない三成への正則なりの激励だったのかも知れません。
わかりやすい天邪鬼と言うところでしょうか?w

2位は古田織部の罠
茶の湯と言うもののイメージを、後世にまで強烈に残したと言う意味では、利休よりも織部の方が上かも知れませんね。
こういう話を見るとホントにそう思います。
しかし罠は罠でもまた大仰な罠ですねー。機嫌の悪かった家光も大爆笑させたし。
流石「ひょうげ者」

今回管理人がぐっときたのは細川忠興「希首座」です!
それにしても
>しかし忠興は希首座に何かを感じ取り、斬ったのだ。
どんな本能だw
戦国時代と言うのはこういうキチ○イ危機察知の達人がウロウロしていたのか、それとも忠興だけの特殊例なのか、
願わくば、後者でありますように。

今週も本当に沢山の拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます。
また、気に入った逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやってください!
( ´ω` )



さて今回は拍手コメントから

>いつも乙です。餅御膳は一ノ関駅そばのふじせいというお店が美味しいですよ。
>8種類の味付けがちがう餅と大根おろしがついていてオプションでお雑煮も。
>機会があればご賞味ください。おとりよせもあったはず。

八種類の餅にオプションで雑煮!?どれだけ餅が好きなんだw
東北の方に用がある時は、是非足を向けてみたいと思います。情報ありがとうございますー!

あ、あとプロフィールでも書きましたがツイッター始めましたー。
http://twitter.com/1059kanri
ぼちぼちつぶやいていますので、興味のある方は、良かったらなまぬるーく見てやってください。
(´・ω・`)

母里太兵衛の日本号は現存している…が

2010年02月25日 00:03

162 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/23(火) 17:48:50 ID:M7qRwq02
いい話でもないが

ちょっと前に出ていた通り、母里太兵衛の日本号は現存している。
(福岡市立博物館にある)

…が、文化財として何の指定も受けていない。指定してくれよ…



163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 17:54:21 ID:5oDsR1mX
確か持ち主が拒否したら指定できないだろ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 19:23:14 ID:3daMQjnz
銘といい箔といい相当な一品なのにな

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 10:05:13 ID:RqQ2vfLz
文化財指定を受けると移動とかが容易に出来なくなる・・・くらいかなぁデメリットは
金銭面でのメリットしかないから金銭に困ってなければ受けなくてもいい程度

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 16:31:50 ID:vnGqCpBs
>>167
あと、担当の役人の態度が尊大でぶち切れてって可能性かな。
知り合いのお寺さんの門が歴史あるもので、補修するのに個人じゃまかなえないってんで由来とか
まとめて市に申請だした時に担当者の態度に何度やめようかと思ったと語ってた。
「指定してやる」といわんばかりの横柄な態度で、自分の金で補修もまかなえないなんて落ちぶれたもんですね
みたいな嫌味言われたとか。

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 16:56:50 ID:qeAjuZWX
京都?

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 11:06:34 ID:ZMULYHUG
>>168
それは地域によって違うのでは
うちらの方じゃむしろこうやったらもっと金が出るぞってイケイケだったぞ

朝倉景高の転落

2010年02月25日 00:02

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 03:15:09 ID:Sw78poVG
朝倉景高は、越前の戦国大名朝倉氏の一族で悪名高き朝倉景鏡の父親である。


朝倉家の慣習にしたがい、若い頃から惣領である兄孝景の代理として出陣、主に美濃方面を担当して戦功があった。
越前と美濃の国境である大野郡を支配する大野郡司にも就任し、越前国№2の地位(ライバルは宗滴爺)となり、
かなりの財産家であったらしい。また、公家の娘を妾にするなど、中央とのパイプもしっかりつないでいた。


やがて、兄孝景と不和になり、越前を出奔する。
兄弟間で父の遺領をめぐる争いがあったらしいが詳しくはわからない。


中央とのパイプがあった景高は、京都に潜み何やら不穏な動きをし始める。
はるか一乗谷から弟の様子を探っていた孝景であったが、やがて幕府要人と連絡をとって将軍の命令により、京から
景高を追放することに成功する(その後、皇室と幕府に対して多大なる御礼が朝倉家よりなされた)。


京にいられなくなった景高は、朝倉と対立する若狭武田家に身を寄せて、実家を倒すための謀略を練り始める。
武田家はもちろん、宿敵である尾張の斯波氏、加賀一向一揆といった各方面に使いを出して越前侵攻を画策する。
一向一揆の総元締めである本願寺証如に手紙を出してこんなことを申し出ている。


「我が子孫は末代まで本願寺の門徒になりまーす。

 越前のうち、三郡まで本願寺にあげちゃいまーす。

 以上、誓紙を提出してこれを守りまーす。

(取り次ぎの下間さんにも毎年三万疋あげますから!だから早く兄貴を討つ手伝いして下さいよ)。」


証如:「・・・こいつ、本気でこんなこと言ってるのか???」


あまり無謀な計画のため、本願寺も武田も相手にしなかった。
(斯波氏だけは「チャンス!」とはしゃいでいたようだが・・・('A`) )


結局、その後2年間ずるずると若狭に居続けた景高であったが、朝倉氏とこれ以上関係を悪化させたくない武田に
とって実に迷惑な存在となっていた。我慢の限界に達した武田家は、本願寺と謀って、景高を和泉堺湊から西国へ
追放、もとい、退出させることにした。本願寺の兵に囲まれながら、泣く泣く西へと旅立ちました(まさか西方浄土
へ旅立たせたの比喩じゃないよね??)

朝倉宗滴曰く
「米銭黄金などの財宝を蔵に積ませて満足していても、一度不慮の凶事が起こると、財宝はすべて失い、家もろ共に
滅亡してしまう。(中略)当国においては、右衛門大夫(景高)が最も近い例である(ざまあ見さらせ)」


何故か処罰されることなく越前№2の座についた景鏡君は、宗滴爺のお言葉をどのように聞いていたのでしょうか?




785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 12:30:58 ID:mtavsAi/
結局どこ行っちゃんたんだ…?
次男(三男?)は駿河まで行って徳川に仕えたんだな

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 23:07:21 ID:+JZcySXs
>>785
あれ本当に越前の朝倉なのかねえ?

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 08:05:19 ID:SoGrxyoW
>>785
西方過ぎて、豊前や筑前まで行っちゃったみたいよ。その人。

16歳の謀反

2010年02月25日 00:01

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 16:07:53 ID:drpOKt5v
16歳の謀反

会津蘆名家家臣、松本太郎行輔は天正12年(1584)、主君蘆名盛隆の留守中,若干16歳で謀反を企てた。
それにはこんな経緯があったと言う。

太郎11歳の時のことである。
太郎の父松本図書助氏輔は天正7年(1574)に討死した。ちなみに松本図書助と言えば、信長の野望、武将風雲録で
その能力値のあまりの低さにネタキャラとされた人である。

寡婦となった母はしかし、その容貌美しいこと有名で、家中の平田氏が彼女を妻に請い、主君盛隆もそれを許可。
彼女は平田氏と再婚する運びとなった。
太郎はまだ幼少であったため、このような話の進んでいることは知らされず、彼は母の婚姻が決まってから、
初めてそのことを知った。

太郎は驚き怒った。
「私は、例へお屋形様の御意に背くことになろうとも、この事を畏まり候と言うことは出来ない!
私がいかに若年だと言っても、父の遺産を相続した身である。そうである以上、どうして母を他所に
嫁がせるようなことができようか!」

この怒りは家中に伝わったが
「なにぶん太郎はまだ子供である。上意であると強く言えば、すぐに心変わりするだろう。」
と、軽く考え、周りの大人達は彼を脅かすことにした

「これはお屋形様の御意も既に定まられたことである!なのにお前が今になってとやかく申すので
ご心象を甚だ悪くされ、切腹せよと検使をおつかいなされたぞ!」

そう言うと一人の侍を呼び入れた。ここまでされれば太郎も命押しさに震え上がり、前言を撤回すると
思ったのだ。が

「この様にお屋形様の意に背いたことを言っていた以上、基より覚悟の上でござる!」

と、いささかの怯えた様子も無く身を清め装束を整え、今まさに切腹をしようとした。

大人たち、「この子はどのように脅したところで心変わりするようなことはない」と恐れ、その後は
とにかく色々と騙しすかして、母を平田氏のもとに嫁がせた。


しかしその後も、太郎は継父との交流を拒絶し、盛隆の措置を恨んだ。
この恨みが後の謀反につながったのだと言う。

子供であれ、武家の当主には意地も誇りもあるのだ。そんな事を考えさせるお話である。




789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 18:05:41 ID:RuxDV+sY
>>787
その盛隆も同年十月には大庭に叛かれて死んでるし、美貌のわりには人望のない殿様だったんだなぁ


791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 20:27:54 ID:sQzKy9U9
蘆名氏にとって重臣の謀反は季節性インフルエンザみたいなものです

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 00:40:35 ID:Q9fNAjel
>>787
待ってました松本図書助

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 00:47:46 ID:SLv4aaG9
と、図書助だと・・・

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 01:16:03 ID:Q9fNAjel
あの本を殿に届けてくれよ! あれは、いいものだぁ!!
って言いながら死んだらしいな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 02:52:22 ID:1EbwdmTz
>>787
宿老の家でありながらも餓鬼ではしようがないってんで三の丸にあった屋敷も取り上げられたんだよね

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 13:52:55 ID:KeDSFW0l
播磨屋さんのサイトで会津松本氏の経歴見てきたんだけどさ。
行輔くん、母のこと以外も恨みに思わないはずが無い酷い仕打ちを盛隆から
受けているじゃないか。
粛清のためにわざと冷遇したのかもしれないけど、結果的に蘆名の柱を1本
折って滅亡への歩みを早めているよね。

大内義興のソテツ

2010年02月24日 00:08

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 22:21:30 ID:oPKCYjpK
大内義興が将軍から「義興」の名前を授与された時のこと、
足利義尚の側近の有力者である鹿苑院(金閣寺)主の亀泉集証が山口に赴いてきた。
彼は大内氏館の庭に見たことのない木を目にすると物欲しげになんども眺めていた。
あまりに気にしている様子なので「朝鮮から取り寄せたソテツというものです。上様が欲しいのなら献上しましょう」
と気を使うと、院主は「御所にもソテツくらいある、あまりに立派なので見入っていた」と意地になって固辞した。
しかしこの後、院主の残した蔭涼軒日録に何度もソテツのことが記されており
相当後々まで引きずっていたことがうかがえる。

実はソテツは宮崎や鹿児島にはいっぱい自生して珍しいものでもなく
朝鮮から取り寄せずとも硫黄取引のあった島津氏から容易に調達できる。
しかし、京都人には珍しいものであることを見越したうえで献上品として箔をつけるために
義興は朝鮮から取り寄せたという話をしたのだ。

ソテツといえば堺の妙国寺のソテツを織田信長が安土に移すと泣くので切りつけたら
血が吹き出たという逸話などが有名ですが、豊臣秀吉も徳川家康もソテツに興味を持ち
わざわざ遠方から取り寄せています。
なぜか権力者達が気に入って遠方に移されたソテツは現在国の天然記念物に指定されています。




761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 22:23:42 ID:oPKCYjpK
ちなみに遠征中の加藤清正が秀吉の為に朝鮮からソテツを送っているので
朝鮮にもソテツはあります。

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 07:08:44 ID:b2QDX3Xy
>>760
ぐぐってみたらなにやら南国の匂いがする植物だった

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 11:41:41 ID:hxUa/PwS
日本庭園の石と松と苔の中にポツ~ンとソテツがあるところを
想像するとシュールだよな。

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 11:46:09 ID:SWtCtub7
でもソテツって大きなまつぼっくりみたいな形だしなあ
松との相性はいいかもしれん

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 12:57:38 ID:2MTwyopv
最近ではけっこうポピュラーな植物な気がする>ソテツ
庭というほどでもない一戸建てのちょっとしたスペースによく植えられている。

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 13:29:45 ID:8ubqZHpA
ミニ庭(せいぜい4畳半程度)とソテツの相性の良さはガチ

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 14:03:24 ID:vwCA8HK1
ソテツと聞くとソテツ地獄という言葉を思い出すな。
なんでも有毒なので食用にするには入念に毒抜きする必要があるそうなんだが、
飢饉が悪化してソテツを食べざるを得なかったりした時に毒抜きが十分じゃない
ソテツを食べて苦しむ人が沢山出たとか。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 18:35:03 ID:ynvPmYZx
>>769
彼岸花みたいなエピソードですね。
あれも根だかにでんぷんが含まれてて、食べれるんですが有毒なんで流水で長時間晒すなど
毒抜きをしないと大変な事になるとか。
これを食べた後は飢え死ぬか人肉しかない。
故にこの世とあの世の狭間を指す、「彼岸」花と言われるとかいう説はありますね。
775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 18:46:44 ID:lmiEYOG9
>>773
ヒガンバナ科の植物は根に毒性があるのが多いから注意が必要。
水仙も毒性が強くて、野蒜と間違えて食べて食中毒起こす事件がたまに起こる。

あと、その手の間違って食べて中毒起こす植物だと夾竹桃。
野外調理の際に、枝を削って箸にして食中毒。

本多正信、加藤嘉明の抗議を

2010年02月24日 00:06

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 17:57:49 ID:bGDZhHAX
関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康によって領国が再編されていた時のこと。

加藤嘉明は東軍の一員として武功を挙げ、50万石の知行が与えられると噂されていた。
嘉明自身も、それくらいの働きはしたという自負があった。
しかし、今か今かと沙汰を待つ嘉明のもとに、知らせが届く。
本多正信が50万石の件に反対し、半分以下に抑えてしまったというのだ。
沈勇の嘉明もこれには激怒し、殺る気満々で正信に会談を申し入れた。

正信はすんなりと応じた。
席上、嘉明はどういう意趣があるのかと激しく詰め寄った。
臆せず、正信はこう答えた。
「貴殿は武勇も智謀も類まれな人物でありますが、豊家の恩を深く受けています。
 人は、貴殿にある種の疑念を抱いておりましょう。
 功をなし身を退く、という故事もあることです。
 今、領国が少なくとも、気にせぬという態度を見せておけば、子々孫々まで重んじられるでしょう。
 もし大国を領されれば、貴殿は人の後ろにつく人物ではない、と世間は恐れます。
 さりとて、それでも貴殿が恨めしいと思うなら、致し方ないことです」

嘉明は己の立場に思い至り、返す言葉もなかったという。




771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 18:18:57 ID:+8seuHdF
要するに理屈で丸め込まれちゃったんだな(´・ω・`)

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 18:27:01 ID:93Qidq2j
加藤の名を惜しんだ家康さんが本多に言い含めておいたんだな
いい話じゃないか

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 18:39:23 ID:IleXZneW
>>770
後で加藤家が改易されてなかったらいい話なのにね。

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 00:34:25 ID:BQ0BXqFI
>770おpもいっきし他事だが

あの真面目カトーさんが倅の教育に失敗したワケが知りたいと思ってしまった
本多作左やあんど帯刀みたいな家臣、いなかったんだろうか...

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 00:58:33 ID:Ht7w7fGz
>>781
倅の教育だったら、黒田の若殿も派手な方の加藤さんも失敗してるじゃん

そう言えば、嘉明のとーちゃんは元々三河譜代で一向一揆の件で放り出されたらしいけど、
そこらへんで本多正信とかなんかあったりしたのかもね

千宗旦、永井尚政に茶会に招かれて

2010年02月24日 00:05

千宗旦   
776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 19:57:22 ID:Kez4iEgy
千宗旦と言えば千利休の孫であり、祖父の侘び茶をさらに突き詰めた清貧な茶風で
「乞食宗旦」とまで呼ばれた人であった。

さてそんな宗旦を、幕府重臣、永井尚政が茶に招いたことがあった。
初入の後、懐石となる。

永井尚政と言えば当時淀城十万石を領する譜代の大大名であり、そのような大名の行う大名茶での
懐石といえば通常、豪華な膳が並べられるものなのだ。


出て来たのは一汁二菜の、いくら粗飯といってもほどがある、というほどの粗飯であった。
まさに侘び。大侘びである。尚政は乞食宗旦とまで呼ばれるその侘び茶に敬意を表し、
このような膳を出したのだ。これに宗旦…


激怒した


「私のような一回の侘び茶人が粗飯を出すならいざ知らず、十万石の大名が一汁二菜の懐石とは、
懐石の意味を取り違えているのではないか!?分に応ずることが茶にとって大切な事なのだ!」

高名な侘び茶人にあわせて気を使ったことが、かえって相手の心に「かないたがる」という、余計な
心の働きになってしまった、と言うわけなのである。

まあ単純に、豪華な懐石を期待してきたのに粗食を出されて頭に来ただけかも知れないがw
侘び茶も色々難しいのだ、と言うお話。




777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 20:04:30 ID:3daMQjnz
宗易が切腹になってから財産没収とかされたんかな
天下の茶頭だったし名うての商人だったし相当財産あった筈だよな

そんな奴が後者の理由で激怒するだろうか

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 20:19:11 ID:5oDsR1mX
形見分けしているから、財産没収は無かっただろう。
古田織部は族滅されたから、全て没収された。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 20:21:29 ID:evp9fJ0B
宗旦って松永久秀の孫って説もあるんだっけ?

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 20:28:30 ID:Kez4iEgy
>>777
宗旦は結果的に現在の茶道の主流である三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の祖となったが、
千家の中では傍流で士官もしていなかったため、流石に乞食と呼ばれるほどには
困窮していないにせよ、裕福だったと言うわけでもない。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 00:47:06 ID:h6Ys9ffF
>>778
織部から取り上げた利休の茶杓「泪」は、現在徳川美術館に・・・


>>779
千少庵が宮王三郎じゃなくて松永久秀の子供って説があるからね
しかし、松永さんはいろいろとやってて楽しい人生だなw

最上義守、危篤の床で

2010年02月24日 00:02

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 13:39:43 ID:/NgbsO+5

じゃあ最上義守の逸話で
指揮棒に書かれている通り義光の仏教信仰をちょっと関連して

 天正11年、最上義守が大病をわずらって危篤状態におちいった
そのとき彼は義光や義姫夫妻を枕元に呼び、大勢の重臣たちが居並ぶところで訓戒をあたえた
「今自分が亡くなったなら義光と輝宗が仲たがいして合戦をはじめるのではないか。
これだけが心にかかることだ。
最上と伊達がいくさをして、例え輝宗が勝ったとしても最上の主人になることはできまい。
逆に義光が戦いに勝ったところで奥州を手に入れることはできないだろう。
おまえたちのような小さな大名が、身内同士仲たがいをしたら、他の大名がとくするだけだ。
最上も伊達も関東の佐竹や越後の上杉に討たれてしまうだろう。
ただし、両家が仲良くしているならば、佐竹・上杉が一つになって攻めようとも没落することはないはずだ。
最上の氏家・志村よ、伊達の片倉・遠藤よ、おまえたちもこのことをしっかり胸におさめて、けっして背いてはならぬ」
ところが、あやうく見えた義守は、医薬のかいあってかほどなく快復する。

八日町浄光寺の伝えでは日蓮宗の旅の僧日満上人の祈祷が功を奏したとされ
これに感謝した義光が一万坪の寺地と伽藍を建立したのが同寺の始まりだとしている。




153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 17:58:42 ID:S/YQC9Km
>>147
ただ、義守の失敗はアレを呼ばなかった事だな。




                 って呼んでもいっしょか....。

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 19:34:26 ID:rkXe8dWj
>>153
義光伯父さんも最初は甥っ子の事を可愛がっていたみたいだし
そのまま最上領を譲れば良かったのにね




参考
鮭様のお父さん・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-938.html

古田織部の罠

2010年02月23日 00:14

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 05:05:31 ID:dWBE/XKT
古田織部の罠

古田織部といえば利休死後、天下の茶の湯を風靡した茶人であるが、
その好みは一種異様で、茶器の歪みやひび割れなどに美を見出す、、ある種の異端的なものでもあった。
織部好みは世間に強烈なインパクトを与え、長く一般の人々の茶の湯のイメージを形成したが、
それが、ちょっとした騒動を起こした。

徳川家光の時代である。
ある時家光が、堀田正盛の屋敷に御成をした。茶室へと渡ると、そこに巌子陵の壺と言う素晴らしい茶壺が
飾られているではないか。
聞けば最近輸入されたものを購入したのだと言う。

千利休の頃より、茶壷といえば茶人第一の道具であった。そのため輸入された茶壷は、陸揚げされる長崎で
先ず吟味され、上等の品は将軍家が先買いし、あのと残りが大名や商人の手に渡るのである。
なのに、将軍家に納められた茶壷より遥かに見事なものが堀田家にある。これはどういうことか?
みるみる機嫌を悪くした家光に、側近たちはすぐさま長崎へと調べを出した。

調査の結果、原因は極めてバカバカしいものであった。
その頃の長崎奉行は、茶の湯のことなどまるで知らぬ武骨者であり、耳学問で、茶器の名品と言うものは
とにかく歪んだり曲がったりした異様なものだと思い込んでおり、素直な美しい茶器を選ばず、形のおかしな
物ばかりを将軍家に送っていた、というのである。
そう、この奉行の茶器の名品のイメージとは、世間に流布した織部好みのものであったのだ。
今で言えばピカソの絵を見て、芸術絵画とはヘンテコな絵のことだと理解してしまうようなものであろう。

側近たちはこれに、家光の機嫌をさらに悪くするのではと恐れたが、とにかくありのままに報告した。
するとあにはからんや、家光は大爆笑し

「まことに茶の湯を知らぬ者ならありそうなこと、よいではないか。」

と、誰の罪も問うことは無かったと言うことである。


古田織部といえば大坂の陣の時、豊臣方との内通を疑われ切腹した。
しかし彼の強烈な美的感覚がめぐりめぐって、その切腹を命じた将軍家に茶器の美品を収蔵させることを
妨げたと考えると、これは古田織部の残した罠であり、復讐ではないだろうか?
そんな事を空想してしまうお話である。




738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 07:19:06 ID:Boz1Q4mH
織部は幕府に消された
だが織部の生んだモードは消されなかったといういい話でないかい?

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 19:20:04 ID:t89uE0b4
>>737
ひび割れを金で補修してそれを愛でるなんて異様な感覚だよな・・

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 19:46:05 ID:vT9ECwqU
>>737
それがし同様阿呆よナヒヒヒヒッ(^益^)

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 23:29:10 ID:4G7/vQBK
>>737
静嘉堂で織部作の花入見てきた

茶杓でなく花入とて、良い物でござったよ、ゲヒヒヒヒ

福島正則「それは違う」

2010年02月23日 00:12

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 08:29:34 ID:dQSgsanV
関ヶ原の戦い後
捕えられた石田三成が大津に居た。
その前を通った福島正則は石田三成を身の程知らずとなじり、黒田長政は三成に羽織をかけた。
その場を下がったのち黒田長政は他の将たちに、
「石田三成は生き恥を晒してみっともない。大将なら潔く自害すべきだった」と話した。
それを聞いた福島正則は
「それは違う。三成は立派な大将である。おそらく俺もでそうしただろう。
大将なら最後の最後まで諦めず、生き続けて機会を狙うべきだ」
と諭した。




740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 08:41:44 ID:mZ6V+GXL
心底はどうあれ、石田の顔を見ると言わでもなことが口をついちゃうんだろうな。
さすが市松。

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 10:58:34 ID:S/YQC9Km
もろに叩き上げ初代と二代目の違いだな。

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 11:05:02 ID:5cnainMX
軽々しく語っちゃうから若殿は駄目なんだよ、福島殿に諭されるとかプゲラ

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 13:30:56 ID:pG3jOafQ
>>739
市松さん……ツンデレっ子なのね(´・ω・`)


747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 13:49:04 ID:vJcs9amF
>>741
叩き上げ→生きて再起
二代目→家名を傷つけるくらいなら切腹
なら、典型的な三代目ってどういう傾向何だろう

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 13:56:59 ID:JTX7YGrn
三代目「なぎ払えっ!」
細川頼之・松平信綱「ま゛っ」

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 14:37:04 ID:FimWnzEu
てゆか如水さん三代目じゃね?

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 14:58:25 ID:vJcs9amF
大名としては官兵衛さんからでしょ
長政は小寺の家老職は継いでないし

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 20:10:51 ID:SXypMjG4
>>739-741
まあ清正共々、小姓から槍働きの叩き上げで、
同じ時代に切磋琢磨してきた連中なんだから、
心中の思うところというのは、複雑なものなんだろうね。

牛裂の石

2010年02月23日 00:11

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 11:55:25 ID:/NgbsO+5
「牛裂の石」
上杉勢は石動山に一宿して、その夜未明頃からひた押しに一挙に七尾城を攻め入るような勢いであった

畠山勢は夢にもそのようには考えていなかった。
この時、石動山の幼児の中に梅丸というものがおった。
七尾塗師町神明屋の次男で当年12歳になっていた。

梅丸は上杉方の計略を聞いて何とかしてこれを味方に知らせようとして夜中を冒し多根の城山に急いで報告した。
しかし、明けがた山伝いに石動山へ帰る途中
運悪く上杉方に見つかり
梅丸は多根の城山と石動山の間の山中で
牛裂きの刑(二頭の牛に片足ずつ縄で結び、二頭とも反対方向に走らせ受刑者の体を裂くという残虐刑)
に処せられたと言う。

多根街道には「牛裂の石」と伝わる石があり今も梅丸の哀れを物語っている。
出展「石川縣鹿島郡誌」




744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 12:49:11 ID:CTm9JJ3l
謙信容赦ねえな。
『雪の峠』を思い出すわ。

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 15:33:48 ID:OgW2uUeG
奇襲前に山中で牛裂きってずいぶんと余裕があるなw

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 21:15:22 ID:/6qc9PaU
>>751
落城して逃げる途中なのに、城主夫妻が松を植えたとか、
地域に残る昔話って結構そんな感じだぞw

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 21:26:05 ID:TO267KqH
>>758
うん、まぁ一種の皮肉だから気にしないでw

槍の話その三

2010年02月23日 00:10

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 20:08:02 ID:+yrLwIIF
槍の話その三

あの人の槍の現在

一国長吉

みんな大好き、黒田長政。
長政愛用の槍で有名なのが一国長吉。穂先の長さは43センチ、最大幅2.2センチ、槍身の重さは416グラム。
この槍の「一国」は、一国に値する価値がある、ということではなく、この槍とともに戦功をたてて筑前
一国を手に入れた、という感慨を込めたものだと言われています。いい話ですね。
でも、家臣の槍が超有名すぎて影が薄いのは悲しいところです。
この槍も、日本号と同じく福岡市博物館に所蔵されています。
ttp://museum.city.fukuoka.jp/jg/html/52/52_03.htm

人間無骨

みんな大好き、森長可。
愛用の人間無骨は最終的に、赤穂藩森家に伝わったわけですが、スレでも既出の通り、レプリカの話が出てましたね。
この槍には正副の二つがあり、江戸時代も、国表と江戸とにわけておいてありました。
写真はありませんが、江戸時代に写した絵図面(写した絵と槍から直に拓本の2種)が残っています。
ttp://www.geocities.jp/ukikimaru/ran/rekishi/ningenmukotu2.jpg
ttp://www.geocities.jp/ukikimaru/ran/rekishi/ningenmukotu3.jpg
0222人間無骨01 0222人間無骨02
さて、現在は、赤穂の大石神社に一つ、戦後森家を離れたものがもう一つと言われていますが・・・・
皇室に献上されたなんて話もあるし、最近ある人が手に入れたって写真もあるし・・・さて?w

えーと、誤解を恐れず書きますが、甲冑刀剣業界は、だまされるやつが悪いという世界です。例に挙げればこの三者。
・騙すやつ
・騙されるやつ
・騙されたと気付いたけど、他人には本物だと吹聴するやつ
森家関連品の話には、出版物の写真で有名になったもの含めて、気をつけるようにしましょう。




756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 20:11:37 ID:OgW2uUeG
森家の偽モンといえば
蘭丸の甲冑だなw

762 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/22(月) 23:18:21 ID:MLgnVnGb
>>754
例の東京の個人の蔵にあるという、人間無骨の写真みたけど、
 『人間』とも『無骨』とも掘ってなくない?



槍の話その一
槍の話その二

槍の話その四