福島正則、エレガントに

2010年04月30日 00:04

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 11:02:16 ID:IEzq2Hcm
>>557
遅レスだがそこは直接的に拒絶するんじゃなく、もう少しエレガント(?)に断りたいものだ


江戸城の天下普請の際、視察に訪れた寺沢広高は、相役の福島家中に機敏に働く若者の姿を目に止め、
同じく視察に来ていた福島正則に声をかけた。
「あの若侍、出来るな!どうだ、当家に譲っては下さらぬか?」
正則は、笑って答えた。
「おお、それしき易きことよ。ただ、あの者は当家で長らく使っている者の息子で、ゆくゆくは父親の跡目をも
取らせようと思っておったところだ。よって、あれの親の分限ほどは、知行を与えてやってほしい。」
「ほう?して、あの者の父親とは?」
「尾関石見にござるよ。」
「え・・・」

[ 福島正則家老、尾関石見守正勝=郎党分含めて二万一千石・手取りだけでも一万二千石 ]
[ 肥前唐津領主、寺沢志摩守広高=十二万石 ]

「こ、この話なかった事に・・・ナハハハ・・・」
「おや、そうか?それは残念!ガハハハ!」
「「 ハハハハハハハハハハ!! 」」


市松だって、たまには誰かをやりこめたい。
にしても寺沢さん、そんなに節操なくスカウトしなくちゃならんほど人材が不足してたんだろうか?
後の顛末を思うと(´・ω・`)




646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 11:04:24 ID:0m6Wm38f
これは珍しい市松


648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 12:04:23 ID:nVaFuUxl
酔ってない時は出来る子の市松

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 12:23:57 ID:qPeJ7mmA
でも、素面の時が凄く少ないんですよね・・・
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法華寺に参拝に行った豊臣秀長が

2010年04月30日 00:03

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 15:24:29 ID:b4R9vRSD
あるとき豊臣秀長は法華寺に参拝に行った
そこで出合ったのが興俊尼である
余程好みだったのか、その場で城にお持ち帰りしてしまい、興俊尼が寺に帰ってきたのは翌日の事だった
破戒僧となってしまった興俊尼は姉を頼って寺を出、菊田某の家に身を寄せた
一年後、そこには玉のような赤子の姿が! そう、一夜の過ちが実を結んだのだ
これを知った秀長は子供を養育することにした
その娘こそ後の毛利秀元正室、きくである

意外に手の早かった秀長さんの話




483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 16:03:47 ID:6evmsvw9
>>481
それは悪い話の部類かな?
秀長さんがもっと子供をつくっておけば、状況はまた変わっていたのかもしれない

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 16:35:20 ID:b4R9vRSD
まぁ、尼僧に戒律破らせた挙句子供の話聞くまでは放っておいた悪い話という事で

どうでもいいけど秀長の家族って資料が殆ど無いんだよな
秀保、(藤堂)高吉、智勝院(切らず粥http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-578.html
の3人は確実だけど、妻と実子については諸説入り混じっていてさっぱり解らない
特に女性関係は謎が多く、智雲院、興俊尼、多聞院日記の「濃州女中」、これら総て同一人物とする説、
総て別人とする説などもう何がなんやら
更に大徳寺の秀長墓塔の隣にある五輪塔には養春院なる女性の名が刻まれている。どうみても縁者です。本当にry

上の話ではきくと大善院(毛利秀元正室)は同一人物になってるけど、これも別人説があったりするしなぁ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 19:07:27 ID:I85FOrKb
>>483
どうだろ、殺生関白の例を考えるとその対象が広がっただけな気もする

週刊ブログ拍手ランキング 04/21~/28

2010年04月29日 00:06

04/21~/28のブログ拍手ランキングです!


真田信之「なあ、忠重。死出の山は」 265

前田利家・利長親子、細川忠興、蒲生氏郷らが連れ立って 120

山中城副将・間宮豊前守康俊 90
敵も認めた漢の褒美 63
塙団右衛門、攻撃?いいえ物見です 56

豊臣秀頼の子、国松の最後 52
伊達政宗、桑山元晴の病状を心配する 47
伊豆韮山城攻めと福島家中の四人 40

徳之島、琉球侵攻の際の話 35
我らの小田”フェニックス”氏治は意外と風雅人で 34
竹千代(徳川家康)、百舌を上手く据えられない鳥居鶴之助(元忠)に 32

僧、洗岸、勝頼からの賜刀を見て 30
八幡平の髑髏 29
信玄のかませ犬の息子 27

大久保忠世、士卒の躁乱を鎮むるのこと 26
日本のうた三代・島津貴久 26
武田晴信、加熱しすぎた掠奪に 25
日本のうた三代・島津義久 25
黒田長政が宴会ムードをぶち壊した直後のこと 24



今週の1位は圧倒的得票で真田信之「なあ、忠重。死出の山は」
短い逸話ですが、その中に込められた信之君臣の、波乱に満ちた人生を感じさせてくれます。
余韻と言うものを感じる、お話だと思います。

2位は、これも多くの票を集めました前田利家・利長親子、細川忠興、蒲生氏郷らが連れ立って
一転して、秀吉治世下での旧織田家諸侯の無頼なお話w
急ごしらえの豊臣政権と言うものの中で、威厳、権威と言ったものが確立してない感じが伝わってきます。
秀吉も相当苦労したのでしょうねー。

今回管理人が興味深かったのが八幡平の髑髏です。
150体の、下顎の骨が無い髑髏。怨念か望郷か、小説が1本書けそうなお話です。
こう言った謎を色々考えることも、歴史の楽しみですね。

今週も本当に沢山の拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます。
また気に入られた逸話を見つけられましたらどうぞ、そこの拍手ボタンを押してやって下さい。
( ´ω` )

原虎胤の帰還

2010年04月29日 00:06

原虎胤   
611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 02:01:50 ID:Q3kVXbvQ
1553年甲府において浄土宗と日蓮宗の間で宗論が行われた。
その際、武田晴信は日蓮宗徒の原美濃守虎胤を呼び
「日蓮宗では念仏を唱えると無限地獄におちるというが、今後は浄土宗を信仰し南無阿弥陀を
唱えろ」と改宗を迫った。

しかし虎胤は
「念仏を唱えれば地獄に落ちるなどということは信じていませんが、開祖の教えに背くことは
主命に背くことと同じなのです。ですから命を失っても念仏を唱えることは出来ません」
と断り退席した。

晴信はたいそう怒り改易としたので、虎胤はしかたなく甲斐を去りつてを頼って小田原へ向かった。
小田原の北条氏康は名将と名高い原美濃守が城下にいると聞くとすぐさま召し抱え厚遇した。


翌年、甲相駿三国同盟がなると晴信は氏康に対し
「今貴殿に仕えている原美濃守は父信虎の代より二代にわたり武田に仕えた忠臣です。
主命に背いたので懲らしめましたが、今では非常に残念な事と思っております。
同盟がなったあかつきに、是非ともお返ししていただくようお願いします」
と原の返還を願った。

氏康は承諾し原虎胤は武田家に再び仕える事になったという。


武田晴信の(調子の)いい話。




612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/28(水) 07:39:38 ID:Qn3R4d6U
氏康いいひとだー

まあ、本人が武田に帰りたいなら、返した方がよかったのかもしれないが。

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 07:48:15 ID:AFxO8mtZ
佐渡「主君と信仰なら普通信仰を選ぶよね」

右近「当然」

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 08:30:38 ID:clqeCX9g
三好某「部下と信仰なら普通信仰を選ぶよね」

大友某「当然」

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 08:41:08 ID:lSFRu++m
>>612
最悪のタイミングで寝返られるかもしれないし、素直に返した方がいいよな

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 08:56:52 ID:gxptF6Ur
無くなってみると惜しくなるものってあるよね、別れた元カノとか・・・

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 09:38:00 ID:saXm2ypu
某某某「元カレとか…」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 10:12:51 ID:0FNwBuG+
取られた槍じゃ!

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 10:35:23 ID:hJpbisfZ
宗教を上手く扱う事に定評のある信玄にしては珍しいミス
こういうことから学習していったのかな

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 10:50:02 ID:JSNxsQu8
甲斐は日蓮宗の総本山身延山久遠寺もあるし、初代鬼美濃以外にも信者は
いそうだが他は大丈夫だったのかな

戦国時代の宗教勢力というと本願寺が思い浮かぶが、教義の排他性とか考えると
危険度は日蓮宗の方がかなり高めだよね。

山科本願寺を焼き討ちして京都から本願寺勢力を駆逐したのも町衆の日蓮信者だし。

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 11:13:33 ID:NT6E9+f5
>>620
法華宗の危険性は信長も感じていて、安土宗論ではわざと浄土宗側を勝たせて二度と他の宗派に
いちゃもんつけないように起請文書かせてる。

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 15:26:16 ID:MzHpp9Ux
>>623
信長自身は法華宗徒だけど政治的な問題になれば別なんだろうね。

法華宗といえば三河一向一揆のときに家康についた大久保一族はガチガチの法華宗で
「妙法蓮華経」の旗を押し立てて戦ったとか。

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 17:52:26 ID:yMaGi2ZF
>>623
安土宗論が八百長だってのは、日蓮宗側の史料にしか証拠のこってないけどね。
信長公記の安土宗論に関する記録には、正々堂々と議論して、日蓮宗が敗れた顛末が書いてある。
負けた日蓮宗が腹いせに記録を捏造した可能性が高い。

忠興公には家臣にけっこうキリシタンが残っていたそうで

2010年04月29日 00:03

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 10:59:27 ID:tDbTNw2V
悪い話スレ常連の忠興公は、
家臣にけっこうキリシタンが残っていたそうで、
徳川の目が厳しくなるたびに、
「お前ら目立つんじゃないぞー。目立つんじゃないぞー」
とかやってたらしい。
お玉ちゃんの件とかで、「忠興の知らないうちに家臣にもお玉経由で広まり」とか、
(特に女性作家から)ぼんくらあつかいされることも多いが、
実際にはそれなりに寛容さを持っていたことと思われる。

というかお玉ちゃん関連でアレなのは認めるが、
女性作家陣の書く、ひきたて役のような忠興も、「ちょっとソレどうなのよ」という感じはする。
性格的にはキチガイでも、能力的にボンクラなヤツが、
織田→豊臣→徳川と生き残って、あそこまで高禄をはむわけもなかろうに。




622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 11:09:27 ID:pWZ4PIB1
>>621
人間間の交流や堀り下げや描写するときに
性格アレじゃ庇いようもないってことじゃ?
特に夫婦間や恋愛関係を描くときには

それこそお玉ちゃんを
「男は稼いでこそナンボ。
しっかり稼いできさえすれば猿でも構わない」ってタイプとして描くなら別だけど


624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 14:25:49 ID:Hy+Yaeaf
「忠興の知らないうちに家臣にもお玉経由で広まり」ってのは意外だわ
完全に監禁されてるようなイメージあるんだよねお玉は

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 14:46:48 ID:srBzfHkr
>>624
それだと興秋は産まれてこないよね?

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 15:26:16 ID:MzHpp9Ux

>>624
座敷牢にいれられているわけでもないから
侍女やら茶坊主やらを通じて広まるんじゃないかな。

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 17:39:41 ID:Hy+Yaeaf
庭師でさえ、お玉を見ただけでぶった切られるような家中で
奥方が信仰してるらしいぜ!俺も俺も!ってな感じで広まるのを
忠興的に許せるのかな?って思っただけなんだけどね。
まあ逸話に毒されすぎってのもあるけど。

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 18:12:27 ID:S+WRvLRT
お玉が信仰しているとなぜ知ったのだ、さてはお玉に会ったのだな?

Yes→「痴れ者め、食らえ!」Dead end
No→「主に嘘をつくか、この慮外者が!」Dead end

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 18:25:58 ID:SKJR5Tmv
奥方様も洗礼受けるほど、細川家内にキリシタンがいたという方が現実的に思える

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 18:51:40 ID:YDvT1Ix1
たまちゃんにキリスト教を教えたんだかは、忠興本人だっけ?

オヤジさんの事やらなんやらでふさぎ込んでるたまちゃんに、
少しでもの慰めになればと色々な話を仕入れては語ってたけど、いまいち反応がよくない。
しかしキリスト教の話には結構興味を示したので、黒田のオヤジさんやらに話を聞いてどんどん教えてたとか・・・
でも、屋敷を抜け出して洗礼さるとまでは思ってなかったらしいwww

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 18:53:30 ID:YDvT1Ix1
出典やら聞かれても覚えてないし、そもそも記憶もいい加減だから、与太話程度に流してね・・・

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 20:01:55 ID:IIg7l/a5
忠興がキリスト教話を仕入てた相手って官兵衛だったの?と聞いてみる

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 20:30:53 ID:Ma8DqRmI
ゲヒ経由で高山右近あたりは?

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 21:22:28 ID:lSFRu++m
切支丹の侍女が神父の代理として洗礼与えたんじゃなかったっけ

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 22:23:32 ID:RdlRXw4l
神父?
男だね?
男なんだね?

斬る!

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 22:58:09 ID:KwKVFK4V
>>621
>女性作家陣の書く、ひきたて役のような忠興
忠興関連のフィクション読んだことないけど、そんな扱いなのは意外だ。

いい悪い話スレの逸話読んだ程度だけど、そこから浮かび上がるのは、
「有能で血筋もいい・聡明でプライドも高い」っていう似たもの同士の人物像。
二人とも、一家一国を率いる者としての度量(寛容さも含む)に気構え、覚悟と誇りを同じように持っている。
多分、忠興が感受性の強い繊細な芸術家タイプじゃなければ、
あるいはガラシャがもうちょっとだけ母性が強いタイプの女だったら、
国を経営する上でも夫婦としてもお互いにとって最高のパートナーになれたと思う。

ただ、忠興にとってガラシャがいい女過ぎるため、ピーキーな側面が強く出て愛情が執着になり、
精神的にも物理的にもガラシャを束縛する傾向が。
一方ガラシャは、忠興が執着するほど気高いからこそ束縛を愛情だと喜べるはずもない。
また(愛情ゆえとはいえ)我儘で理不尽な独占欲を許し受け入れるほど母性が強い訳でもない。
ガラシャも忠興の事好きだったと思うんだよな。だからこそ忠興の理不尽を許す訳にはいかない。

ほんの少しのすれ違いからお互いがお互いを追い詰めていく、負のスパイラルにはまった悲劇の夫婦って気がする。

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 23:10:39 ID:4ebC+u2j
神父「善良ナルガラシャ様ハ日本デモ有数ノ暴君ノ妻デシタ…」
マリーアントワネット「まあ、なんとひどい夫もいたものでしょう!」

海を越えてもこうだからなあw

さくざがしかった

2010年04月29日 00:02

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 00:14:43 ID:kJFVnyHv
さくざがしかった

三河三奉行が制定されてしばらく後、本多作左衛門重次のもとに、農民たちから訴訟が持ち込まれた。
双方とも調停に応じなかったため、作左が審理し、判決に及んだ。

ところが、敗訴した側の農民が、この判決に納得せず、「作左め、依怙の沙汰をするわい。」と、
あちこちで言いふらしたり、作左を非難する落書を張り出したりした。
これを聞いた作左は再審を行い、以前と同様の判決を下すと、すぐさま敗訴した農民を手討ちにした。

「おい!誤審をごまかそうとして、始末したんじゃあるまいな?!」
さすがに仲間内の三河武士団からも、作左に対して批判の声が上がったが、
「上を軽んじ、理屈に合わぬことを言い立てた敗訴した農民が悪い」という家康や老臣たちの判断が下り、
かろうじて不問に付された。

しかし、庶民に芽生えた恐怖は根強く、相役の二人が
「仏の高力」、「どちへんなき(公平な)天野三郎兵衛」などと呼ばれるのに対し、作左は「鬼」と呼ばれ、
岡崎城下の女衆は、
「♪今に作左来る、早く煮よ♪と歌えば、煮豆なども恐ろしさで早く煮える。」とまで噂した。




445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 02:33:22 ID:6dT7iqH4
>>444
作左はマジ歪みねぇな

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 07:38:17 ID:KzOcc5JJ
人斬り嗜好の代表者がまた一人増えたな

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 08:15:51 ID:Kqf1BXoi
まもらねば、さくざがしかる
なっとくせねば、さくざがきる

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 09:52:46 ID:qcr4i0X4
まあ裁きってのは「判決がこちらに有利じゃなかったから従わない」では成立しないからなあ

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 11:45:08 ID:YDvT1Ix1
愛の人も3回目だかでは切っちまうくらいだからなぁ~

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 12:02:38 ID:KzOcc5JJ
仏の顔も三度まで、鬼の顔は一度だけ、か

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 12:57:00 ID:Uzbxs2B8
まてまて

1.調停に応じない
2.あちこちで言いふらす
3.落書を張りだし

作左の顔も三度目・・・

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 14:59:15 ID:TKTsC1t1
>>451
どっかの市長にそんなのいたな…

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 21:35:30 ID:HmYpmlg7
>>451
真の仏は高力じゃなくて作左だったってか。

織田信長、長篠出陣前の連歌会

2010年04月29日 00:02

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 15:54:08 ID:rxJwBFD6
天正3年(1575)織田信長が長篠に出陣する前、武井夕庵、里村紹巴らと、祝言の連歌会を開いた。
この時の歌

『松高く 竹たぐひ無き五月かな』 信長

『白うは見えぬ 卯の花がさね』  夕庵

『入る月も 山縣薄く消え果てて』 紹巴

『をだは盛と見ゆるあきかぜ』   信長


上より、「松高く」は松平、つまり徳川家康のこと。「竹たぐひ無き」は「たけた くひ無き」
すなわち「今回の戦いで長篠は松平(徳川)の元に回復され、武田軍は首を落とされる」
の、意味をこめている

2番目は「白う=四郎」すなわち武田四郎勝頼のこと。「卯の花がさね」とは、4,5月によく用いられた
重ね着の色の組み合わせのこと。「勝頼は(討死するので)もう二度と卯の花がさねを見ることは
ないだろう」と言う意味

3番目は見た通り「勇猛で鳴る山県昌景とその部隊も全滅して消え果てるだろう。」

そして最後はこれらの歌をすべて受ける形で
「(今回の合戦が終わって)秋風のふく頃には、織田家は最盛期を迎えているだろう」
と、言っているのだ。

雅な連歌の中に織り込まれた、信長の決意表明。
しかし信長やその家臣の夕庵はともかく、里村紹巴の空気を呼んだ追従っぷり、流石ですw




454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 16:23:32 ID:hJpbisfZ
接待連歌うぜーww

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 16:33:24 ID:pqI6ZYCB
ホントに必勝を期して準備万端で挑んだ戦だったんだな長篠は

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 16:58:45 ID:JhE1mHV1
結構良い話に思えるが

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 17:20:03 ID:NT6E9+f5
里村紹巴は本能寺の変を事前に知ってて光秀を諌めてたとか、支持してたこかいろんな説があるけど
真相は藪の中

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 17:26:10 ID:YDvT1Ix1
ってか、まぁ、幇間のようなもんだからなぁ~

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 18:24:31 ID:sV+BgJHf
幇間も何も、出陣祝いの席上に呼ばれてるんだから当たり前の対応だろw
「松平軍なんて案山子みたいなもんスよ^^
 織田なんて冬場の田圃みたいにみんな刈り取られちゃうんじゃないですか^^」とかありえんだろ
とか言ったらアカンがな

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 18:27:01 ID:sV+BgJHf
ラスト一行はスルーしてくらさい。

鮭様のバツの悪い話、連歌編

2010年04月29日 00:01

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 17:23:30 ID:MUc+0Jx2
連歌で繋がりで、鮭様のバツの悪い話


最上義光にそれはそれは可愛い女の子が生まれた。
嬉しくてしょうがない鮭様、娘に領内で最も高い山の名前を取って駒と名付けるが、
それだけでは物足りなかったのか、お祝いに連歌の会を催そうと思いついた。
「町人でもいいから、その者が連歌師(れんがし)なら尋ねてみて!
和歌の道に身分の上下はないって言うからね!」
義光の命を受けた町奉行の後藤掃部は、さっそく町々の庄屋達に訊いて回ったのだが…

(庄屋共、会議中)
「れんがし?れんがしって何?」
「れん、がし…れん の かし…連の樫?」
「ってことは、槍や長刀の柄とかに使うものじゃね?」

(結論)
「赤樫や白樫はたくさんあるが、連樫は一本もありません」

報告を聞いた鮭様は怒り心頭。
「米沢はトップの政宗が数奇者だから、上手下手は別として
歌を詠まない者は一人もいないっていうのに!(#`皿´)」
当然連歌会は中止になった。

これで発奮したのかどうか知らないが、後年義光は地元に桃山文化を花開かせるのだが、
それはまた別の話。




459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 17:25:53 ID:tDbTNw2V
駒姫の末路がまたなあ……

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 19:21:33 ID:KYECTO4o
>>458
>トップの政宗が数寄者だから
その理屈でいくと、この時点における鮭さまは数寄者ではないということになるが
別に普通程度の教養はあったよね?
それともここから発奮して源氏スキーにレベルアップしていくの?(´・ω・`)

しかし連歌会、(最低限のルールは教えて)いっそそのまま開催すればよかったのにw
連歌→樫で武具の材料?という発想は大事にしたいw

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 19:48:48 ID:n3jAgOVg
政宗の場合、数奇者に加えて傾者だからなあ
鮭様よりアクが強い分だけ、家中への伝染力も強かったのかも

あのまま開催していたらカオス連歌会として歴史に残ったと思うw

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 20:23:44 ID:hJpbisfZ
後の講談「荒連歌」の誕生である

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 21:30:33 ID:KYECTO4o
まじりっけ無し・地場産濃縮100%の連歌会って素敵だと思うの(*´∀`)
その発想はなかったわwのオンパレードになりそうで楽しそうだけどなぁ
信長ならすごい喜んでくれそうな気がする(自分が主催者になるのは全力で断るだろうがw)

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 21:35:30 ID:Extr3BMr
キモイテンション

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 22:22:49 ID:Ga/LbetH
歌人が東下りするルートって、関東から多賀城へっていう奥州ルートなんだよな
実際、その点では出羽に劣等感が芽生えたかもしれない

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 22:25:54 ID:n3jAgOVg
物質・情報の伝播は日本海側のほうが有利で
文化の伝播は逆に太平洋側が有利だったのかな

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 22:56:02 ID:+kjcFCBO
>>458
駒姫誕生時は政宗は家督ついでないと思う

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/28(水) 23:00:46 ID:4ebC+u2j
>>471
ソースが奥羽永慶軍記だからな。
[ 続きを読む ]

大道寺の旗指物

2010年04月28日 00:03

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 04:34:24 ID:wOoiajHM
大道寺の旗指物

関東管領上杉憲政の家臣に本間近江守という者がいた。彼は長野業政の命をうけ、
スパイとして北条家に仕えた。
数年後、首尾よく北条家の軍事、行政の内部情報を入手すると、無事帰還した。
そして主君上杉憲政に北条の内情を報告し、攻め込むよう再三献策するが、さすがは戦国を代表する暗君
だけあってか、かえって五月蝿く思われ遠ざけられる結果となる。

天文15年、上杉、北条の明暗を分ける河越の夜戦が勃発
北条の夜襲により、上杉方の将兵が大混乱に陥り、逃げ惑い、あるいは討ち取られたりする中
本間近江守はここを死に場所と思い一歩も引かず、奮戦。北条家に潜入した際に友人となった
大道寺駿河守直宗と槍を交えた。槍では勝負がつかず組み打ちとなるが、とうとう近江守は力尽き
首を取られそうになる。その間際
「友人であるおまえに討ちとられるのは何かの縁であろう、死んでも悔いはない。ただ我が家の旗指物は
先祖より伝わる大事なものなので、これからも伝えて欲しい」
と言い残し首を斬らせた。

これ以後、大道寺家では本間近江守の旗指物を使うようになったという。
有名な大道寺家「九つ提灯」の旗指物の由来である




589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 10:45:23 ID:uBL/fxAh
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1160.html
の別パターンか

死に場所を得て歴史に名を刻んだのは本間さんにとって幸せだったのか不幸だったのか…

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 15:05:19 ID:iTvve1Zt
>>588
柳生宗矩と坂崎直盛の逸話みたいなものか。
あっちは家紋を自主的に引き継いでたがいい話ではないな‥

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 17:52:59 ID:g6xtPGBm
>>588
でも大河ドラマの風林火山では北条の2重スパイとして河越城に矢文を送って外部と連絡させたりしたのに
夜襲のとき味方であるはずの清水吉政に普通に斬り殺される意味不明の人でしたw

どう勘違いすればあんな脚本を書けるんだろうか?www

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 23:55:00 ID:5DzPBNlb
>>595
ドラマだと本心では憲政より氏康がいいと寝返ってたけど、
二重スパイしてたのがばれたら生き延びても恥だから
北条に殺されることで討ち死にとして
家の名誉を守ろうとした
清水もその気持ちを汲んで斬り殺したって筋だったけど。

信玄のかませ犬の息子

2010年04月28日 00:01

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 11:52:52 ID:/gpPlFB7
信玄のかませ犬の息子

1537年武田信玄が初陣で平賀成頼(源心)を討ち取ったことは知られていますが、
その嫡子平賀清恒は家を再興することができず姉の嫁ぎ先の冷泉隆豊を頼り周防に落ち延び
大内氏に仕えたといわれます。
その後、大寧寺の変で主君が死ぬと長門の厚狭に落ち延び帰農しました。
3年もの熟考した末に鉱山にわらじを運び、鉱夫のわらじと交換することで
わらじから砂金を集め莫大な資金を手にしたとされます。
彼はこの資金を開拓に用いました。
厚狭川を堰き止め、千町ヶ原に水路をひき灌漑をおこなうことで貧しい一帯を美田へと変えました。
村人は彼を讃え祠を建てて寝太郎権現と呼んだと言われます。

あの有名な三年寝太郎のモデルです。
記録が残っておらず三年間寝て過ごしたり、当時発見されていない佐渡金山で稼いだなど
尾ヒレがついており信ぴょう性は薄いおとぎ話ですが、寝太郎堰は実在します。

その後は弟の白石国長とともに伊達氏に仕官したとも言われています。




591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 12:38:34 ID:JbOTn5M2
寝太郎にモデルがいたなんて厚狭在住のオレも知らなかったよ。
山梨あたりから落ち延びて来たなんて、相当な苦労があったんだろうなぁ。

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 12:50:28 ID:EEKCZLGB
逆に山本菅助は、元々大内被官で山口から甲斐に行ったと言う話がある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2527.html

山県昌景も安芸から親戚の飯富虎昌を頼って甲斐に行ったという話がある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2523.html

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 17:18:53 ID:f0iwQvBu
>>592
戦国時代ってローカルで固まってたイメージが強いけど
意外と東西交流は盛んだったのかな


596 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/27(火) 18:54:05 ID:SuQi77fi
>>594
まあ、武将と言っても浪人してたら往来は自由だったんじゃない?
立花宗茂なんて敗戦後に江戸に定住したくらいだし。

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 19:05:03 ID:aHO8ALPh
平賀玄信が滅亡後、一族は奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。明治維新後は、平賀家に復姓。

平賀玄信は架空説がでているけど
いちおう平賀一族は実在するようだな。

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 19:25:36 ID:rgZoDHcf
>>590
いいね、こういう話

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 20:56:06 ID:G2ARq0Kd
>>594
明智光秀が大友の城の縄張りしてたってのもあったよな

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 22:23:24 ID:MFF7Oht3
>>592
相木市兵衛が山中鹿之助の縁者ってのもあるしな

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 22:31:34 ID:EEKCZLGB
戦国期の大名の交流といえばこれすごいびっくりした

朝倉氏遺跡でガラス玉、工房出土 日本海交易に一石
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/index.php?page=article&storyid=21099&storytopic=1

>  同理事によると、当時北海道のアイヌ民族はガラス製品や刀装具を好み集めていたという。
> 北海道では室町時代の越前焼が見つかっており「越前焼などとともに『交易品』として送っていた
> 可能性がある。その代わりに毛皮や金、昆布などを得ていたのではないか」と話す。
>
>  一方で、川越主任調査員は「義景にごく近い上級武士が、ガラス玉を琉球との交易品に
> しようとしたことも考えられる」との見方を示す。
> 朝倉氏は琉球との交易を図ろうと、島津家に仲介を求める書状を送っていたことがあるためだ。


北海道から沖縄まで見据えた交易戦略、朝倉すげえ。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 23:11:46 ID:rsAh2NS8
>>603
古代から朝鮮半島と交易してるような所だからそれほど驚く事じゃないと思うが
NHK教育の受け売りだけど

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 23:15:59 ID:Nh8clTiz
日本海交易なんてもう鎌倉時代ぐらいからそんぐらいの距離移動してんだろ

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 23:20:53 ID:W1WCKDIO
十勝とか神津島の黒曜石が日本各地から出土してるんだから縄文時代からそのくらい常識だろ

僧、洗岸、勝頼からの賜刀を見て

2010年04月28日 00:00

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 04:44:59 ID:EEKCZLGB
武田信玄が死去し、武田軍が甲斐に帰国した頃のことだそうだ。

甲州の侍に、塩崎千次郎と言う者があった。この塩崎は年来、洗岸という僧を尊敬し帰依していた。
この洗岸は元々山法師だったそうだが、数年前甲斐に来て草庵を結んでいた。
天台、真言の二教を学んだ、博識の沙門だったという。

さて、その洗岸がある時、塩崎の家に来て言った

「愚僧、諸縁がありまして、近々奥州に下ることになりました。
住所も定めの無いような拙僧のことです、奥州で朽ち果てると言うことも有るでしょう。
今生の別れになるかとも思い、こうして暇乞いに参りました。」

塩崎はそれを聞くと

「なんと、私は貴方に言い残していることが沢山あります。であれば今夜は我が家に
泊まっていき、語り明かしましょう。」

そうして終夜饗応し様々な物語をした。
この時塩崎、ふと

「私はこの武田家に仕えて数年になりますが、身命をとして戦忠をなしたおかげでしょう、
お屋形様である勝頼様にも覚えめでたく、昨日など、お小姓の跡部殿を通じて吉光の刀を
賜りました。誠に生前の面目、子孫までの名誉、何事がこれに勝りましょうか?」

そう言うと、その刀を取り出して洗岸に見せた。
洗岸、「それはそれは、あなたに取って実に素晴らしいことですな。」と、その刀を手にとり
鞘を外してじっと刀身を見た、そして

「…わたくしとあなたは、何事であっても隠さず言い合う仲です。であれば、今ここに気付いたことを
心中に隠すべきではないでしょう。どうか、疑わずに聞いて下さい。

惜しいかな、武田殿の御家、滅亡が近くにあります。
今の御屋形様、四郎勝頼殿のお命も、幾程も無いでしょう。

愚僧は若年の頃から、刀剣の相を見る修行をし、深くこれを修め、そこから色々なことを知ることが
出来るようになりました。

勘違いしてはいけません。勝頼殿の行いが無道だから武田家が滅びる、と言うことではないのです。
武田家が十九代を迎えて滅亡する、これは天道によって決められたことなのです。
神仏であってもこれを救うことはできません。
これは驚くようなことではなく、生あるものは滅し盛んなる者は衰える、満つるを欠くは天道の常なのです。」

そう言った洗岸は翌日、暇を乞い塩崎の家を出て行った。
かの剣は箱に入れていたのだが、それから30日ほどたった頃取り出してみると、不思議なことに
その中ほどから折れていた、とのことだ。

塩崎はこの事誰にも語らずにいたが、長篠で武田が大敗した後、真田昌幸に語ったのだと言う。
ある僧が剣を見て予言した武田家の滅亡、と言うお話。




430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 10:18:11 ID:QvO3nFu1
真田昌幸「兄貴たちが死んだ後でそんな事言われても……」

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 10:42:29 ID:alq0vi8b
その兄貴が勇猛に戦ったおかげで真田の家を継げたわけで

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 12:30:09 ID:A5ZC9yY6
塩崎「あと、あなたのご長男の縁談ついてついでに聞いたみたら刀が砕けました」

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 12:31:56 ID:Wb6hizZP
占うなら筮竹とかもっと安いもんでやってくれw

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 13:58:20 ID:nsC6gCO3
江戸時代くらいまで剣相占いって結構あったのよ

日本のうた三代・島津貴久

2010年04月27日 00:04

562 名前:日本のうた三代(一)[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:26:58 ID:k5rcCOPo
永禄11年(1568)12月、愚谷軒日新斎こと島津忠良没す。享年77。
島津宗家を巡る内紛を鎮め、「いろは歌」等による教育を推し進め、優秀な孫や家臣団を育て、
「島津家中興の祖」と言われる男の逝去。
ある者は哭涙し、またある者はその死を悼む歌を詠んだが、島津貴久の詠んだ歌は、少し違った。


つくづくと 思ふに少し 慰むは 乱れぬ人の をはりなりけり


皆が「偉大な日新公」の死を惜しむ中、実子の貴久だけは「人間・島津忠良」の、
畳の上での穏やかな死に安堵していたのだろうか。




565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:33:03 ID:jBu0Nxhl
薩摩のイメージとは裏腹に意外に文化人なんだよね

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 12:08:03 ID:c3DPkbUh
>>565
ぶっちゃけ義久はかなりの和歌を残してるから、百人一首ならぬ一人百首できちゃうよ!
千首はあるんじゃね?ってくらい多いんだよな

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:17:28 ID:snjsCdE3
鬼武蔵が一人百首というと別の意味になるな。

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:20:27 ID:TdvYlv5L
ほそ
なんでもない

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:40:32 ID:hC827Vq+
>>574
お主は37じゃ

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 14:19:21 ID:o68/EvpO
>>565
「鎌倉からの旧家」と考えればあまり意外でもない気が。

日新斎のそういった趣味に
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1459.htmlの
「眉剃り+眉書き+おはぐろ」というファッションも含めると九州の今川義元かな…と思えてくるw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 15:41:52 ID:Ookh1UvF
「最先端=将軍のいる京都文化」という括りならそうなる。

商業的には九州のほうが圧倒的に実入りがいいはずなのだが。


578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 16:13:16 ID:Cn+MyUs3
近衛信尹が薩摩に流されてきた時も義久から厚遇されて
歌やら書やらの教室作ってたとかいう話もあるよな

日本のうた三代・島津義久

2010年04月27日 00:03

563 名前:日本のうた三代(二)[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:28:01 ID:k5rcCOPo
天正15年(1582)、島津義久は豊臣秀吉に降伏し、人質として娘・亀寿を差し出した。
翌年、義久は上洛して秀吉に謁見し、薩摩に帰らんとする際、取次役の細川幽斎に手紙を託した。
「これを、娘に渡してくだされ・・・」手紙には、義久の詠んだ歌が書かれていた。


二た世とは 契らぬものを 親と子の 別れむ袖の あはれをも知れ


幽斎は、この歌を秀吉にも見せた。
子を想う親の歌は独裁者の心をも動かし、亀寿は解放されたという。




566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:37:36 ID:6SGBSgU4
>>563
後年、義久は幽斎から古今伝授受けているね。

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:44:39 ID:1Q0VTd6f
>>563
>天正15年(1582)

1587年ではないかと。

570 名前:558[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 00:08:15 ID:TxL+O1Qb

>>563
子を思う親の気持ちはいつでも一緒なんだな
義久って亀寿を結構可愛がっていたんだっけか

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 09:33:41 ID:hC827Vq+
それがあんな目に合わされたと思うとやるせないな・・・・・・・

日本のうた三代・島津忠恒

2010年04月27日 00:02

564 名前:日本のうた三代(三)[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:29:55 ID:k5rcCOPo
加治木黒川岬は古くから名勝として知られ、島津義弘に仕えた僧・鳳山明釣が、晩年この地に
「鳳山軒」という庵を結んだ。義弘の子・島津忠恒も、この名勝を愛して、鳳山軒をたびたび訪れた。

ある時、忠恒は黒川山に咲いた花々が、鏡のごとく輝く波間に映り込んだ絶景を、錦に例えて歌に詠んだ。


浪のおり かくる錦は 磯山の 梢にさらす 花の色かな


鹿児島湾の別称「錦江湾」の名は、この忠恒の歌より起こったと言われる。




伊達政宗、桑山元晴の病状を心配する

2010年04月27日 00:02

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 21:44:53 ID:FQL9z4z0
>>437で心配されてばっかなのも何なので逆に心配してる手紙を、
まとめ管理人氏もオススメの「伊達政宗の手紙」より


ご病気は、その後どうですか?心配してます。腫れ物が出来たとの事で、お気の毒に…
喜庵に言って作らせた薬を、同封しておきます。
あと、嬉しくもないだろうけど、君の事を狂歌に詠んでみました。あ、怒らないでねw
(原文:うれしくもおぼしめさず候や、一首まいらせ候。御はらだち候まじく候、々。)

そらはれて のどかにみゆる 世の中に そのみのかさは 何のようぞや
(天下は晴れ渡る空のように太平なのに何で君は、みのかさ(蓑笠・身の瘡)が要るんだい?)

我ながらヒデェ歌だけど、これもひとえにキミの事を心配しての事ですので…

長兵衛殿(桑山元晴)へ  政宗より


病床の友人に、せめて一笑を届けんとする政宗のいい話…なのだが、「喜庵」って
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-580.html
高屋喜庵さんだよね?実在の人物だったのかw




山田有栄、地元の郷士による歓迎の宴席にて

2010年04月27日 00:00

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 11:01:37 ID:FQL9z4z0
山田有栄は、島津忠恒の命により出水の地頭として赴任し、地元の郷士が歓迎の宴席を設けた。
喜んで宴に出席した有栄が膳に出された汁物のフタを取ると、じっくり煮込んだカエルが入っていた。

有栄が郷士たちを見わたすと、空々しく涼しい顔をして、膳に手をつけている。
(・・・こやつら・・・・・・)出水郷士たちの新任、しかもヨソ者の上司に対する、キツい「洗礼」である。
腹を決めた有栄は淡々とカエル汁を平らげ、そのあわてる姿を見たかった郷士たちは、目を丸くした。

数日後、有栄は郷士たちを集めて言った。
「先日は、なかなか他では食いがたきものを馳走になった。礼を言う。今度はわしが宴席を設け、
他では食いがたきものを食わせてやろう。ぜひ、ご来席あれ。」

恐る恐る郷士たちが宴席に顔を出すと、汁物が用意してある。フタを開けると、汁には縫い針が入っていた。
「うーむ・・・地頭どの、参り申した・・・・・・」
以後、出水の郷士たちは有栄の命に伏するようになったという。



「黄金の鞘」の山田さんでさえ、悪久の下じゃこんなにギスギスしてるんだから、名も無き薩摩隼人なんか
推して知るべきで、徳之島の人たちも、ことさら反抗せざるを得なかったんじゃ・・・




401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/26(月) 13:12:39 ID:lcMM84wq
カエルは鶏肉みたいで美味しいぞ

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:35:47 ID:nMJpYeMQ
実は常食とかご馳走だったりしたら返しが失礼極まりないな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:57:37 ID:tB+1B656
フランスじゃあるまいしw

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 14:05:18 ID:o68/EvpO
沖縄では食べていたそうだから薩摩でもひょっとしたら…>カエル
というか日本書紀に「吉野ではカエルを食べる」という記述があるそうな。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 14:37:06 ID:q00d3FbX
もしカエル汁が常食やご馳走だったら縫い針汁出された時に郷士が抗議するだろ
それをせずに詫びいれたと言うことはカエル汁は悪意があっての事

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 14:48:58 ID:nMJpYeMQ
ご馳走を悪意で返されてドン引きしたのかもよん

408 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/26(月) 15:41:23 ID:lcMM84wq
これが長野なら悪意なくイナゴやらザザムシやらを入れるんだろうな

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 15:52:38 ID:o68/EvpO
あれは佃煮にするものあって鍋にいれるものではない。>イナゴやら~

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 16:40:12 ID:DhNOlIIC
いっぽう、DQN眼竜はネズミをいれた。 
・・・そして食べた。

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 19:57:14 ID:SIA4pE9O
虫は東北でも広く食うんだぜ
イナゴは田んぼにわらわら出るから、田舎じゃ採るの簡単なんだ

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 20:00:45 ID:zVts7mWH
秋田の農家生まれだけど虫だけは食わなかったな
俺のジジババもどんだけひもじくても虫食い経験なし
その代わり大戦中には犬食わされたみたいだけど

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 20:04:47 ID:GpPbRiTK
犬や人間の肝を食べていた薩摩でも蛙はゲテモノ扱いなのか。

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 21:21:05 ID:onYpJeUb
食習慣の問題だからね、何でもゲテモノに成り得るんじゃない

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 21:22:03 ID:5vvMRc7u
15年位前お袋の料理事典見てたら蛙肉が載っててびっくりしたことがある。
写真も白っぽくて鶏肉みたいだった。
捕まえやすい蛋白質だし日本でも食べるとこはあったんじゃないかな。

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 21:58:37 ID:XstQNCi7
大正時代に日本にもウシガエルが食用として持ち込まれたから
今のジジババ世代からは結構メジャー食材でしょ
うちの親父なんかは良くウシガエルを見つけると
畑仕事放り出して捕まえてた

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 22:14:28 ID:C2pWZIlu
いなごを食べれば害虫駆除も出来て一石二鳥

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 22:23:50 ID:SROxl4NE
山ん中で生まれたから、蛋白質とるために虫でも蛙でも何でも食ったなぁはっはっはって
ラオスのおっちゃんが言ってたなぁ。
まぁその話してたテーブルの上にも雨蛙みたいな奴の煮物が出てたんですけどね。
小骨多くて食い難かった。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 23:23:05 ID:WCgI9t/d
マジレスするがアマガエルは有毒だ。
当時はもちろんウシガエルなんて日本にはいない。

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 23:43:03 ID:Ookh1UvF
そういえば今日買った戦国時代の小説で「オタマジャクシを食べた。水がないから味噌を絡めてそのまま」ってのがあったな。

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 23:48:49 ID:yYyyFram
古くから日本で食用にされてきたのはアカガエル
明治初期の『西洋料理指南』にもカレーに入れる具のひとつとして書かれている

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 23:49:27 ID:C2pWZIlu
トノサマガエルの方がおいしそうだ


442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 22:37:53 ID:EEKCZLGB
>>400の話、まとめの方のコメントじゃ

カエルの汁物→「帰る、帰れ、の意味」
縫い針の汁物→「ここを縫いつくように離れないぞ」

って解釈してたが、その通りだと思う。ゲテモノ云々とは別の話だな。

443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/27(火) 23:38:51 ID:gpjJvC+2
>>442
なるほど。
機転の利く人が解釈してくれると助かるな。
そうじゃないといつまでも
「これはご馳走だ」「いやゲテモノの嫌がらせだ」
論争から出られなかったかと。

竹千代(徳川家康)、百舌を上手く据えられない鳥居鶴之助(元忠)に

2010年04月26日 00:14

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 01:25:56 ID:rtJtjzQH
天文20年
鳥居忠吉は13歳になる息子鶴之助(鳥居元忠)を連れて駿府に赴き
息子を10歳の竹千代(徳川家康)に近侍させた。

そんなある日忠吉と元忠が共に家康の前にでた。
家康は百舌を鷹のように腕に据えて遊んでおり、元忠を見ると「その方もやってみよ。」と百舌の据え方を教えた。
が、慣れない元忠がなかなかうまく据えることができないでいた為
家康は「その据えようが悪い」と言って元忠を縁側から突き落とした。

それを見た近習たちが「そのような手荒なまねはなりませぬ」と諌めると、忠吉はこれを抑え
「それがし年頃竹千代君を養育したてまつり、朝夕、忠吉々々とお慕いいただいておりますが
 その忠吉の子を、世の常の人ならば少しは遠慮ということもあるべきところを
 思うがままにお叱りになるのは、これこそ天然自然に身に備わった大将のご器量というもの。
 将来は大功たてられる御身なれば、何事も気宇壮大にならせられるよう補佐し奉る事が肝要でござる。
 こんな小事をとやかくお諌め申し上げるには及び申さぬ。
 末頼もしき御生まれ立ちなれば、どなた様にも忠勤を励み、ご幼少なりとも仮初めにも卒爾な事があってはなりませぬ。」
と近習達を諌めたので、人々は皆これに感じ入った。

『寛政重修諸家譜』




534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 01:33:03 ID:yhY4dG6F
>>533
このへんの忠吉だけじゃなく、三河本国の松平家臣団も
「竹千代君が家臣を手荒に扱った」と言うのを聞いて、
「幼いのに何と猛々しい!将来立派な御大将になられるであろう!」って、
涙を流して喜んだらしいね。

三河者と言うのは、よく解らんw

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 05:15:13 ID:YiHNJAbk
骨の髄まで面倒臭えw

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 05:35:28 ID:Wng4dbMx
考えるな、感じろ

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 07:58:11 ID:hSAk1r/o
元々は悪い話だったのを、徳川の世になってから
無理やり捻じ曲げて美談に仕立て上げただけに見えるが。

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 08:53:02 ID:VH7wViYe
親父の広忠がヘタレだったからじゃないの。

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 09:10:09 ID:LNl6RJoI
信長が同じことしたら「あのうつけにはついて行けん。」ってなるな。

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 09:17:37 ID:mv2qqeYf
黒田長政がやったら父とは似ても似つかぬ不肖の(ry
北条家の誰かがやったら親父に折檻される
細川忠興だったらやっぱ基地外か…と皆溜息

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 09:50:38 ID:bG/NKNXu
「その据えようが悪い」と笑ったら必ず刃傷沙汰になり、
突き落としたらほめられる。

戦国時代人の思考パターンというのは、どうも現代人からは分かりづらい・・・

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 09:58:19 ID:h6cOHhNF
広忠の家っていうの?松平本家?
そこがあまり強く無くて一本化できなく、そこから没落してったからってのが前提としてあるんじゃないかな
家臣や一門衆なんかにもビシッ!と言えるってのが期待されていたとか


543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 10:33:03 ID:GvIxSKFl
>>533
これはわかるなー
貧乏時代の立花宗茂が干し飯に頓着しなかったのを家臣が喜んだように
竹千代が卑屈に育ってないのがうれしかったんだろ
小さい子でもこういう時、どんな反応するかって、その子の性格によってぱっきり分かれるから

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 10:42:14 ID:SWa8da0B
>>541
小田氏治がやれば「さすが菅えもん!ほんとなんでついていくんだろうwww」
真田家の誰かがやれば「またお兄ちゃんの寿命が…」
鬼武蔵がやれば「血が流れない…だと!??」と驚嘆

現代人からすればここのスレの住人の思考パターンも十分かわりづらいと思われる

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 12:10:24 ID:GQq7cyG7
>>533
これが、数十年後の大事の伏線になっていたのか…
あの伏見城の一件に比べたら、確かに小事中の小事だな

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 12:36:49 ID:Pn+Zz4+j
祖父も父も家臣に殺されてるのに岡崎留守番家老の息子に暴力を振るとか、
そりゃいい度胸してると褒められるわな。

塙団右衛門、攻撃?いいえ物見です

2010年04月26日 00:11

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 10:51:00 ID:jw1Ad2ju
攻撃?いいえ物見です

ラスボスの朝鮮征伐の頃
ある日、藤堂高虎は夜陰に乗じて敵に近づき数隻の敵船を奪って帰ってきた。その翌日も同じ手口で敵船を奪ってきた。
秀吉の命もなく行なったこの行動は、軍令違反だった。しかし敵船を奪ってきたことから手柄とされた。
これに、高虎をライバル視する地味な方の加藤こと加藤嘉明が悔しがった。
(高虎を上回る功を挙げたい、しかし高虎のせいで締め付け厳しく抜け駆けは難しい・・・)
悩んだ嘉明だったが、何かを思いついたのか部下の塙団右衛門に物見の船を出させた。
普通、物見は戦闘は行なわない、ある程度の距離から敵を偵察するだけである。これなら軍令違反にはならない。
だが団右衛門はドンドン敵に近づいて行く。これに嘉明は慌てた。
「イカン!近づき過ぎだ!団右衛門、船を戻せ!」
しかし聞こえないのか団右衛門は船をなおも進めた。
ついに嘉明は「ちょ、待てよ!待てって軍令違反になるってば!」と言いつつ自分も船を進めはじめた。
嘉明の部下たちもすわ殿の一大事とばかりに一斉に船を進めた。

何の事はない。嘉明の軍は、「戻れ、戻れ」と言いながら敵に一斉に襲いかかったのである。
この不意打ちに敵は大混乱。団右衛門を先鋒とした嘉明軍は大活躍し、戦いらしい戦いもないまま敵船数十隻を奪い
意気揚々と帰還した。
抜け駆けした事にかわりなく軍令違反となるのだが、もし秀吉がそのことを質せば、嘉明はこう答える気であった。
「攻撃したわけではありません。物見に出した部下がドンドン敵に近づいてっちゃうもんでそれを止めようとしたら
敵船が目の前にあっただけっす」
「ええ。抜け駆けする気なんてこれっぽっちもありませんでしたよ(棒)」




550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 13:01:39 ID:MrUairx3
>>545
塙団右衛門にぴったりの役だな。w

我らの小田”フェニックス”氏治は意外と風雅人で

2010年04月26日 00:10

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:08:58 ID:t96VY1Ok
天庵主従のちょっといい話。

我らの小田”フェニックス”氏治は意外と風雅人で、
たとえばこんな歌を詠んでいる。

「うき事はよのならはしとつゝみても袖にもりくる我涙かな」
「身を捨てゝおのが心にかくれなん心の奥とてうきはいとはじ」


そんな彼に野長瀬入道鈍斎という家臣がいた。
あるとき鈍斎は主の甲冑を身につけて戦うことになった。
その際に氏治と交わした歌が残っている。

鈍斎「君がため今ぬきかへる衣手を後の世までのかたみとぞ見る」
氏治「わがために替る衣は薄くとも契りて朽ちし後の世までも」

やがて鈍斎は氏治の身代わりとなって土浦で討死した。




553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:21:52 ID:Zbsz1Epr
家康の身代わりで討たれる→名誉の戦死

氏治の身代わりで討たれる→完全に犬死・・・


554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:26:04 ID:t96VY1Ok
>>553
つか、最初から身代わりで死ぬつもりで
氏治の甲冑着たらしいです。
言葉足らずですまん。

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:32:01 ID:huEyn0UU
野長瀬鈍斎って源平合戦で源氏なのに平家につき、南北朝でひたすら南朝につくした
近露の野長瀬氏と関係あるんだろうか?

この報われなさは通じるものがあると思うんだ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:32:04 ID:2h+iFDNG
最初から負け戦前提なのかよwww

黒田長政が宴会ムードをぶち壊した直後のこと

2010年04月26日 00:09

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 15:26:16 ID:E4kAPkQi
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1270721428/386 の続き

大坂の陣打ち上げ会で黒田長政が宴会ムードをぶち壊した直後のこと、
寺沢広高が用を足しに行こうとして縁側の障子を開くと、1人の若侍が臨戦態勢で控えておりました。
広高は名を問うと、若侍は言いました。
「黒田筑前守が家臣、栗山大膳と申す者でござる」
広高は、なるほどこの若者があの栗山備後の跡継ぎかと感心し、席に戻ってから長政に言いました。
「さすが黒田殿は頼もしい家臣を抱えておりますな。もし、うちに譲ってくれるなら高待遇で迎えたいところです」
家臣が褒められたことに長政は顔を綻ばせながら、
「かの者は我が家の譜代の臣でこちらからクビにすることはまずないですが、
 もし、好条件で引き抜きの話があったとしても、黒田家を離れることなど絶対にないでしょう」
と言って断りました。

ここで終わるといい話のような気がしましたが、その後の顛末を考えると悪い話だったかも……




東金御成表道

2010年04月26日 00:07

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 12:27:16 ID:nCO0cpQx
新聞に挟まっていた地域誌に、家康が鷹狩りの際に利用していた御成街道の記事があった
こういうのって載せちゃっていいのかな
いいのなら要約して投稿してみようかと思うんだが…やっぱりマズいかな?

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:07:03 ID:SWa8da0B
>>548
いいんじゃね?
よくわからんけど教えて欲しいとは思う




558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 15:39:05 ID:ekl2stEj
>>551ありがとう、上手く要約出来てないが投稿してみる


東金御成表道


徳川家康が鷹狩りをするために築かせた東金御殿の庭池として整備された、千葉県東金市の八鶴湖。
その東金御殿があった場所は御殿山と呼ばれ、湖畔にある県立東金高校横に入口があり一般公開されている。

船橋から東金に至る「御成街道(約34km)」の終着点が東金御殿と言われているが、正確には国道409号線(東金道)までで、
当時の人々はそこから先、どの道を通って御殿まで辿り着いたのか定かではない。

東金市油井の旧蚕糸センター付近には道祖神があり、市教育委員会が作成した看板には、
「日吉台方面へ行く道と、大豆谷(まめざく)方面へ行く道との二手に分かれる地図」が描いてある。
道祖神には「是より下ハ東金道」と刻まれており、その方向の細い道を通って行く道が「表道」、
日吉台方面に向かう車道の方が「裏道」だったということが分かる。
この「御成表道」入口は「おあし坂」と呼ばれたそうで、坂道が急なために歩幅を大きくとって行き来した、
「大足(おおあし)坂」に由来するそうだ。
かつて東金から江戸や佐倉方面へ上る幹線道路として最も人の往来があった道だとされるが、
現在地図に載っていないだけでなく、十数年前の倒木により篠竹が生い茂って通行不可になっていた。

しかし昨年12月、東金商工会議所の建設業部会が会議所50周年事業として復元作業に取り組み、
かつて家康・秀忠・家光が通った「おあし坂」が復元された。

その後、建設業部会のメンバーを中心にNPOが設立、
「おあし坂」が将来寸断されてしまうことのないように維持・保全活動を続けていくことに。
また「おあし坂」だけでなく、八鶴湖・御殿山に至る東金御成表道を地域の文化遺産として広く周知して行こうという
呼びかけが広がり、家康鷹狩400周年を間近に控えたご当地のつながりを強めている。


あんま家康関係なかった、問題があればまとめには載せない方向で…




560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 21:45:36 ID:jBu0Nxhl
>>558
引用は認められているから情報元、この場合地域紙の名称と年月日を書いておけは問題にならないんじゃね?
まぁ多分大丈夫だけど
文化財の保護って大切だよな

570 名前:558[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 00:08:15 ID:TxL+O1Qb
>>560
引用元を記載するか迷って結局載せなかったんだけど、やっぱり必要だよねorz
引用元は街波通信(vol.61)です

豊臣秀頼の子、国松の最後

2010年04月26日 00:06

国松   
559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 21:27:06 ID:CG4LZjqw
いい話だ

国松は乳母の再嫁先である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となった。
これは秀頼の正室である千姫をはばかったものと見られている。

大坂冬の陣が起こると、秀頼の隠し子との詮議を受けぬよう、
常高院と共に大坂城に入城。
その後、和議が整ったのでそのまま滞在した。
翌年の大坂夏の陣のおり、国松は父の秀頼と5月8日に盃を交わし、
乳母某と田中六郎左衛門(京極家侍、傅役か)と共に城を落ちる。

しかし、徳川方の捜索により国松は京都所司代板倉勝重のもとに連行され、
5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で乳母某と田中六郎左衛門と供に斬首。享年8。
田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら志願して同時に処刑されたという。




561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 22:49:44 ID:iFtdcAv/
>>559
これも殉死だねえ
最後まで「私がお供してますから何も怖いことありませんよ!」って
力づけてたんだろうな・・・

徳之島、琉球侵攻の際の話

2010年04月26日 00:03

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 06:06:48 ID:lMkSWrwp
スーパーサイヤ人化した薩摩隼人ですら足元に及ばなかったという噂の徳之島の逸話ってありませんか?




383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 08:41:39 ID:Mu3Dz5ZV
琉球侵攻の際の話

1609年3月、島津勢は80隻3000人の軍勢で山川港を出発、奄美大島を征服し、喜界島から降伏の使者を
受け入れた後に徳之島を目指し、20日には東側の秋徳という港に上陸した。ここでは琉球王府の役人である
佐武良兼(さぶろうがね)と思呉良兼(うみじろうがね)の兄弟が兵を備えて待ち構えていた。
農民たちも、木の棒や包丁をくくりつけた竹で武装したいたという。
佐武良兼は、身の丈七尺二寸(220cm)の大男で三尋(約3m)の棒を持っていたという。
彼らは上陸してきた島津勢に襲いかかり、北郷久武の配下の6、7人、船頭6人を討ち取った。篠川勘津という
70歳の老人は、島津兵3人を討ち取って戦死という奮戦ぶり。苦戦する島津勢だったが、渋谷丹後守が鉄砲で
佐武良兼を討ち取ると形勢は逆転する。弟の思呉良兼も戦死し、戦に参加した農民も皆殺しにされた。
その数は数百人にのぼったとされる。
その後、徳之島は降伏し、沖永良部島も戦わずして降伏した。即座に降伏した沖永良部島の住民は樺山久高から
「馬鹿ども」と罵られたという。しかし、悪久さんから「降伏したり無抵抗な者を狼藉、殺害、人取りするな」と
命ぜられていたため、命だけは助かった。勇敢にも抵抗したために、かえって皆殺しにされた
徳之島のちょっと悪い話




384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 09:04:59 ID:uEDaUvXs
ちょっと・・・?

385 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/25(日) 09:07:13 ID:k8F2i2Pl
>>383
この島は何故こうも突出してんだろうな
[ 続きを読む ]

いつもの黒田長政、酒癖の悪い話

2010年04月26日 00:01

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 15:07:29 ID:E4kAPkQi
いつもの黒田長政、酒癖の悪い話

戦国最後の大戦ともいえる大坂の陣が終結した慶長20年のある日、
京都は東山にて、このたびの戦に一応は参戦した諸将が集まって宴会を開いていました。
大坂の陣打ち上げ会といったところでしょうか。
メンバーは以下の通り、
・黒田筑前守長政(47歳)-筑前福岡52万3千石
・藤堂和泉守高虎(59歳)-伊予今治20万石(今回の功績で32万石に加増)
・有馬玄番頭豊氏(46歳)-丹波福知山8万石(今回の功績で筑後久留米21万石)
・寺沢志摩守広高(52歳)-肥前唐津12万石
・加藤左馬助嘉明(52歳)-伊予松山20万石
・生駒讃岐守正俊(29歳)-讃岐高松18万石
・浅野紀伊守長晟(29歳)-紀伊和歌山37万6千石
下の二人以外はバリバリ戦国世代のいい年したオッサンどもです。

宴もたけなわ盛り上がってきたところで、藤堂高虎が言いました。
「今回の戦には、皆さんのような歴戦の勇が参加されましたが、大して手柄もなかったですね」
これをどう受け取ったのか、そのそばに寝ころんでいた黒田長政がむくりと置き上がって、
「コラ、テメェ藤堂! 聞き捨てならんな。
 ガキのころから今まで戦で後れを取ったことがないこの俺様が、
 今回の戦で活躍できんかったのは、上がおとなしくしとけ言うから控えとっただけや。
 そんな俺の前で軍功自慢とはいい度胸やないけ!」
と、高虎に突っかかりました。
長政がキレる理由がよくわかりませんが、同席した皆さんはさすが長政の扱いに慣れているのか、
「まーた始まったよ、筑前は……。酒の席で野暮なこと言うなよ。まあ、落ち着けって」
と言って、長政をなだめました。さすがに長政もそこは引いて、高虎も華麗にスルーしたので、
もとの他の宴会ムードに戻りましたとさ。




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 18:42:08 ID:GvIxSKFl
>>386
出たー
長政さんの頭の回転がよすぎて、どう考えても相手は言ってない悪口を聞きとってしまう能力
お疲れ飲みでも絶好調だー

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 19:00:56 ID:DrQFTrko
NGMSさんは内でガマンして外で自重しない変わった人だから困る

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 21:08:27 ID:tAijJfcX
>>386
大阪の陣で活躍(というか苦労というか)した藤堂がいうと微妙に嫌味だな

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 21:11:51 ID:J6hh1oiK
悪久さんみたいな苦労をしたならともかくねえ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 21:21:07 ID:E4kAPkQi
本当に苦労したのは浅野さん



続き
黒田長政が宴会ムードをぶち壊した直後のこと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4057.html

八幡平の髑髏

2010年04月26日 00:00

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 17:38:58 ID:XdPrgROk
永禄四年、信濃平定が一段落した武田信玄、いよいよ本腰を入れて上野攻略に取り
掛かろうとしていた。
まず碓氷峠を越え、八幡平と呼ばれる地に陣城を築き、松井田城と安中城の連絡を
分断する。

信玄の侵攻が始まった矢先に長野業正を病気で喪った西上野衆だが、それでも善戦
を続け、松井田、安中の両城が陥ちたのは永禄七年になってからだという。

時は流れて昭和六年。
八幡平の小学生が偶然、ある物を発見する。
それは大量のしゃれこうべ。

古代の古墳に穴を掘り、実に150人分もの頭蓋骨を埋めてあったのだ。
身体の骨は一つもなく、下顎の骨も発見されていない。槍傷のある骨も多く、身体
的特徴からも、中世日本人……戦国時代に戦で亡くなった人々の骨だと思われる。
発見された場所から見ても、信玄の上野侵攻により戦死した武田軍or上野軍、も
しくは双方の犠牲者の遺骨だろう。

だが、取った首級をまとめて埋めたというなら、何故下顎の骨がないのか。
明らかに骨になった後、頭蓋骨のみをまとめて埋めた痕跡である。
別の場所に埋葬された骨の内、頭蓋骨のみを掘り出して、ココに埋め直したのだろ
うか?
……何故? 謎だらけである。

一説には埋められた頭蓋骨はすべてが甲府の方を向いていたともいう。

しゃれこうべが甲府に向けていたのは信玄への恨みの眼差しなのか、望郷の念であ
ったのか……

現在、そこには首塚が建てられている。
写真を撮ると、高確率で「ナニか」が写ると言われている、近隣では有名な心霊ス
ポットであるという。




393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 21:28:41 ID:Um0KgaUn
>>387
150ものドクロが400年にわたって甲州をじっと見つめてたことを想像すると、
なんともぞくぞくするな

雑談・昔の人の子沢山、などについて

2010年04月25日 00:06

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:02:18 ID:d1Uqn8+Z
与一が十一男の名前ってのにビックリだよ
むかしの人子だくさんってレベルじゃねえぞ

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/24(土) 00:15:30 ID:Hju4IS86
>>336
一夫一婦じゃないんだろ。
それならいくらでも量産できる。
徳川将軍の誰かなんて、50人以上も子供こしらえて、
大名家に養子に押し込んだり嫁がせたりしていた。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:17:06 ID:mRneTfIk
>>336
うちの祖父は一夫一婦で十人こさえたからそんくらい余裕だ。

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:22:52 ID:jzcwsyin
>>336
利家・まつ「「何か問題でも?」」

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:26:06 ID:kLiWc66I
一夫一妻での最高出産数は南米の夫婦の50人程だと聞いたことある
つーかこの板に出入りしてる女性は夫が側室囲っても怒らなそうだな

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:33:47 ID:gKJJVmyg
このご時世、側室囲うくらいの甲斐性があれば万々歳

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:41:27 ID:Zy0X3+gt
つーか大名の正妻ってめちゃめちゃ忙しかったらしい。
「奥」ってのは大名家の家政を取り仕切る一種の役所で、正妻はそこの長官だから、
各種予算の管理や人事などの業務で毎日てんてこ舞いだったらしい。

戦国期(江戸期でも)、正妻の方から夫に妾を勧める例がかなりあるが、
これは仕事が忙しくて旦那の夜の相手までしていられるか、という理由も
あったそうな。

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:42:55 ID:ZrUganbx
農村の余裕のあるいわゆる「豪農」な方ならそれくらい軽く行く。
逆に嫁が3年経っても子が生まれないなら即離婚、とかも。

結局「産めよ増やせよ」ではないが、働き手がそのまま生産力に反映されるから
+子供が多ければ、その分結婚先も考える→その相手が良縁なら結果的に家の力の増強につながる。

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:46:20 ID:xC0x86ag
>>342
その上で戦国期の女性は1人で5人や6人産んで、しかも40近い高齢出産の例もあったりするし、
タフやなあと思ったりもする
そういう人ほどかなり長生きしてたりするし

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 01:02:20 ID:asefKMO5
一人の女性が何人も子を産んでるって事はそれだけ夫婦が仲良かったって事だろうし、いい事じゃないの。

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 01:43:21 ID:zdldi+CD
子供産まれず、姑舅にあれこれ言われる嫁ってのは現代でもあるけど
何人も娶っておいて子供なしって男にとっては不名誉だったりしたんだろうか?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 01:58:07 ID:ZFG7tOwp
不名誉どころか死活問題だろ

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 02:07:32 ID:ynl2TCKQ
>>346
つ ラスボス

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 02:10:50 ID:cY5bfa5U
>>346
宗茂のことか

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 04:14:32 ID:sYCecvJI
毛利三兄弟♪

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 11:30:01 ID:3e/p3cUe
>>350
でも宗茂ってある意味幸運だよな
親父も養父も他家から入ってきた人間だから
自分が家を養子に継がせてもあんま文句言われなさそうで

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 15:41:32 ID:ikWibnSf
>>340
姑息な隠し方されたら怒るかもしれませんけど、事前に相談ありなら
ちょっと考えますねw
正妻の座を降りろと言われたら最大限に苛烈な報復をさせて頂きますが

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 15:45:10 ID:PVHIj/HL
うわ鬼女きた

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 15:58:48 ID:IWOAUQxh
>>360
真田さん、乙

真田のおにいちゃんの嫁は>>361みたいな感じだったんだろうな。

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 16:00:54 ID:xC0x86ag
正室降りろとか言われちゃったのは、津軽さんとこの辰姫(三成娘)くらいじゃないの?
ふつうは離縁だよね

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 18:09:21 ID:a8x/Gvud
家康の養女で実の姪な満天姫が来ちゃったから正室にせざるを得ない
でも津軽家にとって三成は恩人だし、おねね様の養女でもある辰姫を離縁できなかったとか
大館で産んだ信義は信枚の要望で三代目藩主になったり愛してたと思うよ
まぁ信枚さんは家臣と小姓取り合って騒動起こしてるけどな…


366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 18:09:25 ID:LDnkAgEo
悪久「え?」

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 18:57:53 ID:gKJJVmyg
>>361
宮迫がもしも話しで嫁に言われたとかいう「残り人生、笑えんようにしてやるわ」
てーのを思い出した

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 19:04:40 ID:UIlSTHqY
まあ童貞の俺には関係無いな

ある日本多正信が大久保忠隣に話しかけた。

2010年04月25日 00:05

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 02:06:17 ID:NFIsZzQR
ある日本多正信が大久保忠隣に話しかけた。
「お主何か身に覚えはないか?」
忠隣がとくにないと答えると正信は「そうかならばよいのだ。」と言って行ってしまった。

またある日正信また同じ事を聞くので忠隣がなぜそのような事を聞くのかと尋ねると
「大御所様が貴殿のことを何かいっておったのでな。」
「どのような事を言っていたのですか?」
「いや何かいっていただけだ。」
「なればしばらく大御所様の御前を遠慮した方が良いでしょうか。
「そうだな。その方がよかろう。」

その後正信が家康の前に出たとき世間話のついでに
「相模(忠隣)はこのごろ、何となくご奉公に遠慮があるように見受けられますな。」と言った。
家康と忠隣の両方になんとなくわだかまりが生じた。

それからしばらくして今度は正信が将軍秀忠に謁したときのこと。
「近ごろ相模は御前に遠慮するような様子はございませんでしたか?」と秀忠に尋ねた。
秀忠が「とくにそんな様子はないがなぜそのような事を聞く」と言うと
正信は「人間というものはとかく奢りの心が出やすいもので、相模の様子を見ておりますと
 あたかも公方様同様の振る舞いが目に付き、大御所様の御前も昔のようではありません。」
と言ったので秀忠も忠隣を疑いの目で見るようになった。」」

『武功雑記』はこの話を「浸潤之誹」と呼び
正信はこのようにして家康父子と忠隣の間に水をさしていったとしている。
真偽はともかくとして正信の悪い話




351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 02:21:38 ID:T1S2DDNa
大久保家は小田原城の件でも秀吉から離間の計を受けてるよね

352 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/24(土) 02:47:37 ID:kLiWc66I
>>348
参考にするわ


354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 07:51:35 ID:Kk6rm0SD
親切な忠告と見せかけて、実はそれこそが罠だというんだから
ホント上手いわ正信

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 08:07:32 ID:L1vVkmjs
俺の想像しているとおりの陰険な正信で安心した

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 14:33:17 ID:IWOAUQxh
>>355
大久保さんは最後を大名で追われたけど、本多さんは旗本だからね。
まさに因果応報だよ

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 14:42:32 ID:7AIok60B
息子が言いつけ通りにしてれば問題なかった気もするのだが

処世の達人の子はなんか処世うまくないんだよなぁ

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 14:47:38 ID:xC0x86ag
>>358
細川さんとこはずっとうまくね?

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 15:20:11 ID:X8U7Gnpm
爺様「仇敵の武田に仕えて頭角を現しました」
親父「三つの大勢力に挟まれた状況で家を守りきりました」
本人「将軍に睨まれつつ家を存続させました」

前田利家・利長親子、細川忠興、蒲生氏郷らが連れ立って

2010年04月25日 00:04

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 20:22:17 ID:8E7sbBvv
前田利家・利長親子、細川忠興、蒲生氏郷らが連れ立って大坂城へ重陽の節句の挨拶に出向いた。
四人は多くの供を率い城の前まで来たところで、門番に止められた。

「あー、困りますねー?ただでさえ今日は混んでるってのに、こんなに大勢で来られちゃ迷惑なんですよねー
…ぶべらっ!!」
「……………」
利家が物も言わずに振るった鉄拳を喰らい、門番は吹っ飛んだ。

「な、なにをなさる?!この事は関白様に・・・」 ガシッ
(゚Д゚≡゚Д゚)エッナニナニ?

「……………」起き上がろうとする門番の右腕を、利長が無言でつかみ取り、
「……………」同じく氏郷が門番の左腕をひねり上げ、
「……………」忠興が門番の背後に回り、かの有名な愛刀を、抜いた。

「…え、えーと………な、なんか勘違いしてました!できるだけ早くお通り下さーい!!」


その夜、この面子の若い者三人だけで飲み会を開いたが、
氏郷「いやー、親友の前田殿にまであんな真似するんなら俺、サr …関白見限っちゃおっかなー?」
利長・忠興「だよねーwww」

などとダベっていたそうな。

どっかの鬼が死んでも、戦国の世の門番はスリル満点!さあ、キミもLet's トライ!!




370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 21:36:01 ID:7c9e4I9/
切り捨てられなかっただけ光栄に思わなきゃ

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 21:40:16 ID:hLpMYGka
オレこのスレ知ってから開通前の橋を通るたびに笑いが込み上げるようになったんだ

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 21:45:24 ID:jzcwsyin
>>369
つーか又左は息子の友達とツルんで何やってんだw

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 22:03:21 ID:KcWhU0qu
>>369
利家殴り飛ばし→利長・氏郷腕掴み→忠興が抜刀
全員前もって示し合わせてでもいたかのように
バッチリな役割分担で息ピッタリなところが何ともwww

しかし利家…年長者がなにやってんだw

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 22:57:23 ID:en0tKn6D
なんで誰も何も言ってないのにこんな連携とれるんだよw
絶対常習だろw

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 23:23:37 ID:d1Uqn8+Z
こういう打ち合わせなしの連係プレーって武士らしくて好きだな。
今昔物語の馬盗人の話とかさ

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 23:33:41 ID:rhUPUSD0
>>374
利家「戦国の世を生き抜いた男ならばアイコンタクト無しでの意思疎通など基本中の基本」

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 23:39:00 ID:7AIok60B
小田氏治「ワシ程の将ともなれば敵を見ただけで弱点が見える!軍師の助言はおろか斥侯の報告すら不要だ…」


378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 03:26:54 ID:fbjRYzsV
年長者利家が真っ先にキレちゃったもんだから、若者三人が慌ててフォローした…

いや、普通に四人でキレただけだな、うん

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 03:43:40 ID:yhY4dG6F
秀吉の時代の大阪城殿中の有様は、後世語り草になるほどひどかったらしいからね。
まあ戦塵を浴びてきた荒くれ者ばかりなんだから、当然だとは思うが。

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 03:50:18 ID:Wng4dbMx
後醍醐天皇時代の宮廷みたいなもんか

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 05:16:38 ID:ULxnvZdO
そらラスボスも文治派重用するわな

死期を悟った大久保忠世は

2010年04月25日 00:03

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:30:09 ID:NFIsZzQR
病が重くなり死期を悟った大久保忠世は
かつて一向一揆の際に徳川家康から賜った感状を取り出し
「これは後世に伝わるべきものにあらず。我これを持って黄泉への手形としよう。」といって
すべて破り裂き、家臣に命じて柩に入れさせた。

かつて一向一揆に参加し忠世の執り成しで復帰した者たちへの思いやりであった。




512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:39:54 ID:PF+Q56fy
三河一向一揆では一族あげて家康に味方、
本多正信や渡辺半蔵の帰参を助け、
三方原の敗戦時には犀ヶ崖の夜襲で武田軍を撃退し、
長篠では兄弟揃って信長に激賞され、
甲信平定では方面軍指令的な立場にあって、
関東移封後は最重要の関門小田原を任された彼が、
なぜ徳川四天王にも入らず平助がぼやく扱いになったのか?





それは三方原の時の焼き味噌発言が尾を引いてると思うんだよなあ…

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 01:05:27 ID:asefKMO5
>>512
大久保長安や忠隣の失脚のせいとか?

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 01:13:25 ID:Zg6SN95C
>>512
大久保一族は家康・正信の嫌いな日蓮宗信者だからね
本阿弥光悦らといっしょに排除されたのかも

その日蓮宗の忠世が、一向一揆では一向宗徒の帰参の手助けをしてる
これって結構すごいことだと思う

それにしても、正信も忠世に恩を受けているはずなのに、
息子に対して仇で返すなよなあ…

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 01:43:36 ID:ZFG7tOwp
忠世が徳川の世を見ず死んだのと、長安事件だろうな。

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 07:05:52 ID:MLw8Vm6y
忠輝かあ…

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 07:51:40 ID:OvRz8JGG
>>516

家康「本人と親の功は分けて見るのが徳川家クオリティーじゃ」

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 08:57:27 ID:f2WT7lnd
忠佐が死んだ時に、彦左衛門がその遺領を継ぐのを拒否したのもまずかったんじゃ?
それがなきゃ、箱根の峠の東西は大久保一族が押さえることになってたろうし

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 09:07:54 ID:vXXYACI0
>>519
夏目吉次「(((( ;゚Δ゚))))」

ある日大久保忠世の屋敷に

2010年04月25日 00:01

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 00:52:18 ID:NFIsZzQR
ある日大久保忠世の屋敷に徳川家康が馬で乗り付けた。
すると忠世の妻が馬前に湯漬けを捧げたので家康は喜んでこれを食べ
「うむ、焼き味噌の風味が利いていてとてもうまいぞ
 七郎右衛門の妻は所帯持ちがよさそうだの。」と大きく笑った。

『大久保家留書』



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 01:12:00 ID:R5zef0vk
スカトロの話はちょっと・・・